巻四十三 列伝第十三 楽広

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山濤(1)山濤(2)附:山簡・山遐王戎(1)王戎(2)附:王衍附:王澄・郭舒楽広

 楽広は字を彦輔といい、南陽の淯陽の人である。父の楽方は魏の征西将軍であった夏侯玄の参軍事を務めた。楽広が八歳であったとき、夏侯玄が道路で楽広を見かけたので、呼んで話をした。〔府に?〕戻ると、楽方に言った、「さきほど広を見かけたが、風貌が爽やかで、きっと名士になるだろうな。君の家は貧しいとはいえ、〔広を〕学問に専念させれば、必ず君の家を繁栄させるだろう」。楽方は若死にしてしまった。楽広は父を亡くして貧困し、山陽に僑居し、つましい生活を送り、付き合いのあるひとはいなかった。淡白な性格で、先見の明があり、欲が薄く、他人と競争しなかった。言論がとりわけ得意で、いつも短い言葉で道理をわかりやすく表現し、そうして人々の心を満足させ、知らない事柄にかんしては沈黙していた。
 あるとき、裴楷は楽広を召してともに語らい、日暮れから夜明けになるまでつづいたが、〔楽広はくだけた態度をとることなく〕つねに丁重な態度であったので、〔裴楷は〕感嘆し、「私が敵う人物ではない」と言った。王戎が荊州刺史になると、楽広が夏侯玄に評価された話を耳にし、そこで秀才に推挙した。裴楷も楽広を〔太尉の〕賈充に推薦したので、とうとう太尉掾に辟召され、太子舎人に転じた。尚書令の衛瓘は朝廷の長老で、かつて魏の正始年間に名士たち(何晏らを指す)と談論した経験があったが、楽広に会うと彼を高く評価し、「かつての賢人たちがもうあの世に逝ってしまってからというもの、微言(奥深い言葉)が途絶えてしまわないかといつも不安だったが、こんにち、君からその微言をふたたび聞くことになろうとはな」と言った。息子たちに楽広を訪ねるよう命じて言った、「このひとは人間の水鏡だ。〔彼の透き通った洞察力は〕まるで雲霧をかき分けて青天を見るかのようだぞ」。王衍はみずからこう言った、「ひとと議論するとき、簡略かつ周到な言葉を徹底していたが、楽広を知ると、すぐに己れの言葉の冗長さを悟ったよ」。有識者からこのように称賛されていた。
 地方に出て元城令に任じられ、中書侍郎に移り、太子中庶子に転じ、侍中、河南尹と昇進を重ねていった。楽広は清談(口頭での議論)は得意であったが、文章を書くのは苦手で、河南尹を辞退しようとするにあたり、〔文章が得意であった〕潘岳に上表文の作成を依頼した。潘岳が「君が考えていることを聞く必要がある」と言うと、楽広は二百句の言葉1『世説新語』文学篇、第七〇章は「二百語程度(二百許語)」とする。をつむぎ、自分の意向を述べた。潘岳はその言葉をそのまま用いて配列してゆくと、たちまちに名文を完成させてしまった。世の人々はおしなべてこう言った、「もし楽広が潘岳の筆を借りず、潘岳が楽広の意向を用いなかったら、この美文が完成することはなかっただろう」。
 以前、仲の良かった客がいたが、長いあいだ疎遠で、たえて来訪がなかった。楽広がその理由をたずねると、答えて言った、「前回の席で酒をいただきましたが、飲もうとしたところ、杯の中に蛇がいるのを見てしまいました。とても気味が悪く、飲んだら病気になってしまったのです」。当時、河南の庁舎の壁面上部に突起があり、漆を塗って蛇に造形してあったため、楽広は杯の中の蛇はこの突起の影であろうと考えた。前回の場所にもう一度酒〔の入った杯〕を置いてみて、客に言った、「今回も酒の中に見えるものがあるだろうか」。答えて、「最初に見たようなものが見えます」。楽広はそこで原因を説明すると、客は疑いが晴れて心がスッキリし、〔酒を飲んで以来かかっていた〕長わずらいが途端に治った。
 衛玠(衛瓘の孫)が児童だったころ、楽広に夢について質問したことがあった。楽広は「それは『想』、すなわち想像だね」と言った。衛玠は「心で感じたこともなければ、耳目に接したこともないようなモノやコトでも夢に出るんですよ2原文「神形所不接而夢」。『世説新語』文学篇、第一四章もほぼ同文。[川勝ほか一九六四]は『列子』周穆王篇を参照して「肉体と精神が交渉をもたないときに夢が成立する」と訳出し、[井波二〇一四A]もやはり『列子』の同篇を引いたうえで「形(肉体)と神(精神)が外物に接触しないときに、夢を見る」と訳している。しかしこの解釈だと、衛玠は夢が何であるのかはじめから知っているのにあえて質問していることになってしまい、おかしな話になってしまわないだろうか。それに「所不接」というのは「接触していない」ではなく、「接触していないコトやモノ」を言うはずである。精神的に感じたこともなければ、身体的に経験したこともないようなモノや現象でも夢に出てくるのに、どうしてそれが想像・空想の類いなのか、ひょっとしてリアルなことなんじゃないのか――衛玠の疑問とはそのような趣旨であるように思われる。。どうして想像なんですか」と言う。楽広は「〔想像が〕『因』、つまり原因だからだよ3『世説新語』文学篇、第一四章だとこの言葉につづけて「車に乗ってネズミの巣穴に入ったり、鉄の杵で食材をすりつぶして薬味をつくり、杵にあえて食べたりするような夢は見たことがないだろう。どちらも想像したことがないと、夢に出てくる原因(きっかけ)がないからなんだよ(未嘗乗車入鼠穴、擣齏噉鉄杵、皆無想無因故也)」とある。」と言った。衛玠は「因」について考えたものの、ひと月経ってもわからず4原文「玠思之経月不得」。『世説新語』文学篇、第一四章は「之」を「因」に作っている。これに従って訳出した。衛玠が何を得られなかったのかはよくわからない。ひとつに、楽広の論理に納得できなかったというふうに取れる(〈不条理な夢は想像したことがなければ見ることはない〉というのはたしかにそのとおりに思われるが、しかし衛玠が問うているのは〈想像すらしたことがない夢をなぜ見るのか〉ではないだろうか)。たほうで、文脈的に判断すると、衛玠は自分の夢経験を念頭に楽広と問答しているように思われる。よって、衛玠は自分が見た荒唐無稽な夢の「因」が何であったのかを考えてみたが、ひと月経っても突き止められなかった、という意味にも読める。どうにも判断がつかないので、ここではどちらとも取れる訳文にした。、しまいに病気になってしまった。楽広は事情を知ると、車の準備を命じ、衛玠のためにかみくだいて説明した。衛玠の病気はたちまち治ってしまった。楽広は嘆息して言った、「この賢い子の胸中には、きっと手の施しようがない病気なんてないのだろうな」。
 楽広は〔地方官として〕各地で政治を布き、在任中は功名があがらなかったものの、離職するたびにいつもその遺恩が民に偲ばれていた。ひとを論評するときはすべての場合において、必ず先にそのひとの長所を褒めたので、短所は言葉にせずともおのずと示された。ひとに過失があった場合、まずは〔見境なく〕どんなことでも赦したが、そのあとには善悪の区別が自然と明らかになっていた5原文「先尽弘恕、然後善悪自彰矣」。よく読めないし、どういうことなのかよくわからない。なんでも赦しているように見えて、「それは悪いことなんだぞ」という戒めが暗に示されていた、という感じなのだろうか。。楽広と王衍はどちらも心を世俗の外に置いており、当世での名声が高かった。ゆえに、非凡な人士について議論する世間の論者は、王衍と楽広を評し、筆頭に挙げるべき人材と位置づけたのであった。
 若いときから弘農の楊準と仲が良かった。楊準には楊喬と楊髦という二人の息子がおり、そろって世に名を知られていた。楊準は〔二人の息子に〕まず裴頠を訪問させた。裴頠は寛容実直な性格で、楊喬が上品な風格をそなえているのを気に入った。楊準に「楊喬は卿に肩を並べるでしょうが、楊髦はやや劣りますな」と言った。〔楊準は〕さらに楽広を訪問させた。楽広は清廉純朴な性格で、楊髦が堅固な節操6原文は「神検」。『世説新語』品藻篇、第七章も同じ。『漢語大詞典』(とそれにもとづく『漢辞海』)は「すぐれた容貌」、[川勝ほか一九六四]は「すぐれた操行」、[井波二〇一四B]は「秀逸で折り目正しい」、『世説新語詞典(修訂本)』は「精神操守」とそれぞれ取っている。ここは『世説新語詞典(修訂本)』に従い、堅い節操の意で訳出した。をそなえているのを気に入った。楊準に「楊喬はもちろん卿に肩を並べるでしょうが、楊髦も清潔で傑出しています」と言った。楊準は笑って言った、「わが二子の優劣は、つまり裴と楽の優劣だな」。論者はこう評した。楊喬は上品な風格をそなえているものの、堅固な節操は不十分なので、楽広〔の批評〕がこれに的中していると言える、と。
 当時、王澄や胡毋輔之らはみな、任放(自由気ままであること)であることを達(物事にとらわれないこと)とみなし、裸になる者までいた。楽広はこれを聞くと、笑って言った、「名教(儒教の規範)の内側にも、もともと楽しめる境地がある。そんなことをする必要があるだろうか」。楽広が才能に安息してひとを愛し、いつも道理の中核を保つのは、すべてこのような類いであった。このころ、社会は災難(政変を指すか)が多発し、朝廷の秩序は乱れていたが、〔楽広は〕みずからの身を清潔にし、中立を維持し、〔ごまかしを含まない〕誠心誠意を保つばかりであった。世の人々で、楽広のそうしたふるまいが果てるところを目撃した者は誰もいなかった7銭大昕『廿二史考異』でも指摘されていることだが、これより後日、巻五九、趙王倫伝に「満奮、崔随、楽広進璽綬於倫」とあり、楽広は趙王が帝位につくさいに璽綬を授ける役目を担っている。この点は後世の士人からも問題視されていたようである(『世説新語』品藻篇、第四六章)。変転の激しい情勢だったのであまり過度に咎めるのも酷に思うが、結果的には潔癖な処世ではなかったのも確かで、本伝がここまで楽広を称えるのもやり過ぎである。
 これより以前、河南の官舎には怪奇現象が多く、前任の河南尹はあえて正式の寝室では過ごさなかったが、楽広は悩むことなくその部屋で過ごした。あるとき、〔部屋の?〕外の扉がかってに閉まったので、左右にいた人々はみなビックリしたが、楽広だけはいつもどおりであった。そちらの方に目を向けると、塀に穴があるのを見つけたので、ひとに命じてその塀を掘り崩させた。すると狸が見つかり、これを殺したところ、怪奇現象もなくなったのであった。
 愍懐太子が廃位されると、故臣(東宮に仕えていたことがある官人)に詔を下し、〔洛陽から許昌へ出てゆく太子の〕見送りを禁じた。多くの官人は憤慨を抑えきれず、みな禁令を破って拝礼し、見送った。司隷校尉の満奮は河南中部掾8漢制ではあるが、『資治通鑑』巻五九、中平六年八月の胡三省注に引く「漢官儀」に「諸郡置五部督郵以監属県、河南尹置四部督郵、中部為掾」とある。に命令を下し、拝礼して見送った者を逮捕させ、牢獄に送らせたが、楽広は〔その者たちを〕即座に釈放してしまった。群衆は楽広に代わって〔楽広の身を〕危惧した。孫琰は賈謐を説得して言った、「過日、太子に罪があったことを理由に、このたびの廃位となったわけですが、太子の故臣は厳格な詔を恐れず、罪を犯してまで見送りました。いま、もし見送りを敢行した故臣を収監してしまえば、太子の人徳を際立たせてしまうことになるでしょうから、釈放するほかありません」9この一連のエピソードは巻五六、江統伝にも記述があるが、孫琰の発言内容は微妙にちがっている。。賈謐はその進言に納得したため、楽広は罪に問われずに済んだ。
 吏部尚書、〔ついで?〕尚書左僕射に移った。のちに東安王繇が尚書僕射になる直前、〔朝廷は〕楽広を右僕射、領吏部に転任させ、〔ついで〕王戎に代えて尚書令とした。〔楽広のキャリアの〕最初は王戎が楽広を〔秀才に〕推薦し、そしてついには王戎の位の後任になったので、世の人々はこれを美事とした。
 成都王穎は楽広の婿であった。〔成都王が〕長沙王乂と仲たがいを起こしたため、楽広は朝廷の名士の地位にあったものの、小人たちが楽広のことを〔長沙王に〕讒言した。長沙王が楽広に事情を質問したところ、楽広は顔色を変えず、落ち着いた様子で答えて言った、「広(わたくし)、五人の息子を一人の娘と引き換えにしたりはいたしません」。長沙王はなおも疑念を抱いていたため、楽広はとうとう不安のあまりに卒してしまった10『世説新語』言語篇、第二五章は「これによって疑いが晴れ、二度と疑惑を向けられることはなかった(由是釈然、無復疑慮)」とあり、本伝と反対になっている。同章の劉孝標注に引く「晋陽秋」は本伝と同じく「憂憤した」とし、『資治通鑑考異』に引く「晋春秋」には「太安二年八月、楽広自裁」とあり、自殺と記す史書もあったようである。。荀藩は楽広が禍から逃れられなかったのを聞くと、彼のために涙を流した。楽凱、楽肇、楽謨の三人の子がいた。
 楽凱は字を弘緒といい、斉王冏の大司馬掾となり、〔ついで〕参驃騎軍事となった11この驃騎将軍は范陽王虓を指すか。。楽肇は字を弘茂といい、東海王越の太傅掾となった。洛陽が陥落すると、兄弟で連れ立ち、南へ向かって長江を渡った。楽謨は字を弘範といい、征虜将軍、呉郡内史になった。

 史臣曰く、(以下略)

山濤(1)山濤(2)附:山簡・山遐王戎(1)王戎(2)附:王衍附:王澄・郭舒楽広

(2022/8/12:公開)

  • 1
    『世説新語』文学篇、第七〇章は「二百語程度(二百許語)」とする。
  • 2
    原文「神形所不接而夢」。『世説新語』文学篇、第一四章もほぼ同文。[川勝ほか一九六四]は『列子』周穆王篇を参照して「肉体と精神が交渉をもたないときに夢が成立する」と訳出し、[井波二〇一四A]もやはり『列子』の同篇を引いたうえで「形(肉体)と神(精神)が外物に接触しないときに、夢を見る」と訳している。しかしこの解釈だと、衛玠は夢が何であるのかはじめから知っているのにあえて質問していることになってしまい、おかしな話になってしまわないだろうか。それに「所不接」というのは「接触していない」ではなく、「接触していないコトやモノ」を言うはずである。精神的に感じたこともなければ、身体的に経験したこともないようなモノや現象でも夢に出てくるのに、どうしてそれが想像・空想の類いなのか、ひょっとしてリアルなことなんじゃないのか――衛玠の疑問とはそのような趣旨であるように思われる。
  • 3
    『世説新語』文学篇、第一四章だとこの言葉につづけて「車に乗ってネズミの巣穴に入ったり、鉄の杵で食材をすりつぶして薬味をつくり、杵にあえて食べたりするような夢は見たことがないだろう。どちらも想像したことがないと、夢に出てくる原因(きっかけ)がないからなんだよ(未嘗乗車入鼠穴、擣齏噉鉄杵、皆無想無因故也)」とある。
  • 4
    原文「玠思之経月不得」。『世説新語』文学篇、第一四章は「之」を「因」に作っている。これに従って訳出した。衛玠が何を得られなかったのかはよくわからない。ひとつに、楽広の論理に納得できなかったというふうに取れる(〈不条理な夢は想像したことがなければ見ることはない〉というのはたしかにそのとおりに思われるが、しかし衛玠が問うているのは〈想像すらしたことがない夢をなぜ見るのか〉ではないだろうか)。たほうで、文脈的に判断すると、衛玠は自分の夢経験を念頭に楽広と問答しているように思われる。よって、衛玠は自分が見た荒唐無稽な夢の「因」が何であったのかを考えてみたが、ひと月経っても突き止められなかった、という意味にも読める。どうにも判断がつかないので、ここではどちらとも取れる訳文にした。
  • 5
    原文「先尽弘恕、然後善悪自彰矣」。よく読めないし、どういうことなのかよくわからない。なんでも赦しているように見えて、「それは悪いことなんだぞ」という戒めが暗に示されていた、という感じなのだろうか。
  • 6
    原文は「神検」。『世説新語』品藻篇、第七章も同じ。『漢語大詞典』(とそれにもとづく『漢辞海』)は「すぐれた容貌」、[川勝ほか一九六四]は「すぐれた操行」、[井波二〇一四B]は「秀逸で折り目正しい」、『世説新語詞典(修訂本)』は「精神操守」とそれぞれ取っている。ここは『世説新語詞典(修訂本)』に従い、堅い節操の意で訳出した。
  • 7
    銭大昕『廿二史考異』でも指摘されていることだが、これより後日、巻五九、趙王倫伝に「満奮、崔随、楽広進璽綬於倫」とあり、楽広は趙王が帝位につくさいに璽綬を授ける役目を担っている。この点は後世の士人からも問題視されていたようである(『世説新語』品藻篇、第四六章)。変転の激しい情勢だったのであまり過度に咎めるのも酷に思うが、結果的には潔癖な処世ではなかったのも確かで、本伝がここまで楽広を称えるのもやり過ぎである。
  • 8
    漢制ではあるが、『資治通鑑』巻五九、中平六年八月の胡三省注に引く「漢官儀」に「諸郡置五部督郵以監属県、河南尹置四部督郵、中部為掾」とある。
  • 9
    この一連のエピソードは巻五六、江統伝にも記述があるが、孫琰の発言内容は微妙にちがっている。
  • 10
    『世説新語』言語篇、第二五章は「これによって疑いが晴れ、二度と疑惑を向けられることはなかった(由是釈然、無復疑慮)」とあり、本伝と反対になっている。同章の劉孝標注に引く「晋陽秋」は本伝と同じく「憂憤した」とし、『資治通鑑考異』に引く「晋春秋」には「太安二年八月、楽広自裁」とあり、自殺と記す史書もあったようである。
  • 11
    この驃騎将軍は范陽王虓を指すか。
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