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序・宣穆張皇后・景懐夏侯皇后・景献羊皇后・文明王皇后/武元楊皇后・武悼楊皇后(附:左貴嬪・胡貴嬪・諸葛夫人)/恵賈皇后・恵羊皇后(附:謝夫人)・懐王皇太后・元夏侯太妃
武元楊皇后
武元楊皇后は諱を艶、字を瓊芝といい、弘農の華陰の人である。父の楊文宗は外戚伝を参照のこと。母の天水の趙氏は若くして卒した。楊后は舅(母の兄弟)の家に身を寄せたが、舅の妻は慈愛深く、みずから楊后に乳をやり、自分の子には他人の乳を飲ませた。成長すると、今度は継母の段氏に付いてゆき、段氏の家に身を寄せた。
楊后は若くして聡明であり、書に長け、容姿端麗で、女工1女の手仕事。織物や裁縫など。女功。(『漢辞海』)に習熟していた。或るとき、人相占いを得意とする者が楊后を占ったところ、富貴を極めるにちがいない、と言う。文帝はそれを耳にして、世子(のちの武帝)のために娶ったのである。〔武帝から〕ひじょうに寵愛され、毗陵悼王の軌、恵帝、秦献王の柬、平陽公主、新豊公主、陽平公主を生んだ。武帝が即位すると、皇后に立てられた。有司が奏上し、漢の故事に依拠して、皇后と太子にそれぞれ湯沐邑として四十県を食ませるよう要請したが、武帝は〔そのような待遇は〕古典に適っていないとし、承諾しなかった。楊后は舅氏の恩を偲び、趙俊を高官に就かせ、趙俊の兄・趙虞の娘の趙粲を後宮に入れて夫人2夫人は后妃の位のひとつ。『宋書』巻四一、后妃伝によれば、晋武帝時代の制度では夫人は九嬪のひとつで、位は九卿に比せられた。とした。
武帝は、皇太子(のちの恵帝)が帝統に堪えられないのではないかと思い、ひそかに楊后に相談した。楊后は言った、「嫡子は長子を立てるのであって、賢明な子を立てるのではありません。どうして動かすことができるでしょうか」。これ以前、賈充の妻の郭氏が使者をやって楊后に賄賂を贈り、娘を太子妃とするよう要望していた。〔その後、〕太子の婚姻について議論が起こると、武帝は衛瓘の娘を娶ろうとした。しかし楊后は、〔郭氏の娘である〕賈后は淑徳3上品でりっぱな人徳。多くは婦人をほめることば。(『漢辞海』)をそなえていると盛んにほめそやし、またひそかに太子太傅の荀顗にも〔賈后を娶るよう〕進言させたので、武帝は賈后との婚姻を承認したのであった。泰始年間、武帝は良家〔の娘〕を広く選抜して後宮を満たそうとし、〔そこで〕先に天下に書を下して嫁娶(嫁入りと嫁取り)を禁じ、宦官を使車(使者用の車)に乗らせ、〔その宦官に〕騶騎4詳細不明。近衛の騎兵か。を給付し、州郡へ早急に通知させ5原文は「馳伝州郡」。「馳伝」は「駅伝を走らせる」こと。ここでは「急いで知らせる」という意味か。、選抜を通過した者を〔洛陽に〕召喚し、楊后に精選させた。楊后は嫉妬深かったので、色白で、長身で、ぽっちゃりしている者だけを選び6原文は「惟取潔白長大」。『初学記』巻一〇、妃嬪「取長白 合法相」に引く「臧栄緒晋書」には「唯取長白肥大貌」とある。これをふまえて訳出した。ここに挙げられている白、長、大は美人の外見的条件であったのだろう。恵賈皇后伝にも美醜の条件として白/黒、長/短が挙げられている。、容姿が美麗な者はひとしく留め置かれなかった。そのとき、卞藩の娘が美しかったので、武帝は扇で〔自分たちの姿を?〕覆い隠しながら楊后に言った7原文「帝掩扇謂后曰」。后妃伝上の序文に「始親選良家、既而帝掩紈扇」とあり、『太平御覧』巻一三八、武元楊皇后に引く「晋書」に「帝採諸葛沖等〔女〕五十人入殿、呈露面常衣、令后選取。后不取端正、唯取長白。時卞藩女有美色、帝挙扇障面、……」とあるが、ここの「扇障(障扇)」は「日光をさえぎるのに用いる、柄の長いうちわ」(『漢辞海』)を指す。たぶんだが、この扇で口元を隠して内緒話をしたという意味ではないだろうか。、「卞氏の娘、いいねえ」。楊后、「卞藩は三世の外戚です8卞藩の正体は不明だが、曹魏武帝の卞皇后の一族か。『三国志』魏書五、后妃伝、武宣卞皇后伝によれば、卞氏は武帝、高貴郷公、元帝の皇后を輩出している。。その娘をいたずらに低い位に就けることなどあってはなりません」。そこで武帝は中止にした。司徒の李胤、鎮軍大将軍の胡奮、廷尉の諸葛沖、太僕の臧権、侍中の馮蓀、秘書郎の左思、そのほかの名族の子女は、すべて三夫人や九嬪の序列9『宋書』后妃伝によれば、三夫人は貴嬪・夫人・貴人で、位は三公に比せられる。九嬪は淑妃・淑媛・淑儀・修華・修容・修儀・婕妤・容華・充華で、位は九卿に比せられる。に充当された。司州、冀州、兗州、豫州の二千石や将吏の家〔の子女〕は、良人以下〔の序列〕に叙せられた。名家や豪族の子女の多くは、衣服をぼろぼろにし、顔をやつれさせることによって、選抜を逃れた。
楊后は病気になると、武帝がふだんから胡夫人10武悼楊皇后伝に列伝が附されている胡貴嬪のこと。を寵愛しているのを見て、自身の死後に胡夫人を〔皇后に〕立てるのではないかと心配になり、太子が不安定な立場に置かれるかもしれないと憂慮した。臨終のさい、武帝の膝を枕としながらこう言った、「叔父の駿(楊駿)の娘・男胤(のちの武悼皇后)には、徳と美色がそなわってございます。陛下に願わくは、六宮にお入れなさいますよう」。そして悲しんで泣いたところ、武帝は涙を流して承諾した。泰始十年、明光殿で崩じた。武帝の膝で息を引き取り、享年は三十七であった。詔を下して言った、「皇后(楊后のこと)は、先后(文明王皇后)に仕えることになると(=皇后に立つと)、生涯にわたって永く宗廟を奉ることができるよう、つねに希求していたものだが、にわかにみまかってしまい、〔朕は〕悼み悲しんでいる。早くに父母を亡くしたため、家族への情愛を格別に篤くしようと、いつもみずから心がけていたものであった。また、父祖を改葬したいと心中では望んでいたのに、ちかごろ〔の社会〕は倹約を重んじる風潮であるから、当初はそのことを口にしなかったのだが、先日、危篤になりかかると、〔ようやく〕この希望を話したのであった。情として、やはりこの願いに憐れみを感じるものである。そこで、領前軍将軍の駿(楊駿)らに、改葬に最適な日をみずから決めさせよ。改葬日になったら、主者は葬儀〔のための金品など〕を供給せよ。〔皇后の〕母の趙氏に県君、継母の段氏に郷君の諡号を賜う。伝(経典のこと)にこうあるではないか、『葬儀で哀悼を尽くし、祭祀で敬意を尽くせば、民はその徳に教化され、重厚なありかたに回帰する』と(『論語』学而篇)。もし死者にも知性があるならば、遺言を守ったことを〔生前同様に〕なお喜ぶであろう」。
かくして有司に吉日を占わせ、〔楊后の〕埋葬の期日を定めると、史臣に命じて哀策文を作成させ、胸中を叙述させた。その詞に言う。
(哀策文は省略します。)
そして峻陽陵に埋葬した。
武悼楊皇后
武悼楊皇后は諱を芷、字を季蘭、小字を男胤といい、楊元后の従妹である。父の楊駿は別に列伝がある。咸寧二年、皇后に立てられた。おしとやかで婦徳11女性として端正で従順な立ち居振る舞いかた。婦人の四徳の一つ。(『漢辞海』)があり、椒房(皇后の殿)に輝きをもたらし、たいへん寵愛があった。渤海殤王を生んだが、若くして薨去し、とうとう男子に恵まれなかった。太康九年、楊后は内外の夫人を率い、婦女に命じて西郊で桑の葉をみずから摘ませ、〔その働きに応じて〕帛の下賜には格差があった。
太子妃の賈氏は嫉妬深く、武帝は廃位を考えていた。楊后は武帝に言った、「賈公閭(賈充)は社稷に功績があり、数世代のあいだは寛容に見るべきです。賈妃の〔賈充との〕続柄は娘ですし、妬み深いのは一時のこと。わずかな過失で賈公閭の大徳を覆い隠すには及びません」。また楊后は、何度も賈妃に苦言を呈して活を入れたが、賈妃は楊后が自分を助けてくれているとは知らなかったため、恨みを募らせるに至り、皇后は自分と武帝を離間させようとしているのだと思い込んで、怨恨はますます深まっていった。武帝が崩じると、尊ばれて皇太后となった。賈后は凶悪な性分であったので、楊太后の父の楊駿が執権しているのを苦々しく思い、ついには、楊駿は反乱を起こそうとしていると誣告し、楚王瑋と東安王繇に詔と称させて楊駿を誅殺させようとした。〔宮城の〕内外が隔絶してしまったので、楊太后は帛に記述をしたためて文書とし、これを城外に射らせた。「太傅(楊駿)を救う者には褒賞あり」と。賈后はそこで、太后も共謀して反逆したと宣布した。
楊駿が死ぬと、詔を下し、後車将軍の荀悝に命じて楊太后を永寧宮へ護送させた。楊太后の母・高都君の龐氏の生命を特別に赦し、楊太后に付き添って生活することを許可した。賈后は諸公や有司に遠回しに要求して次のように奏上させた、「皇太后はひそかに悪謀を起案し、社稷を危険に陥れようと図ると、矢に文書をくくりつけて飛ばし、将士を募集しました。悪人同士で助け合い、みずから上天と断絶したのです。魯侯は文姜と絶縁しましたが、『春秋』がこれを容認しているのは、〔君主は?〕祖先を奉じ、天下に至公の責任を担っているからでありましょう。陛下は〔、楊太后に厳罰を下さないのは〕やむをえないことだとの御心をおもちとはいえ、臣下は〔そうしたご意向の〕詔を奉じようとは思えません。朝堂で会議するよう、王公に命じるべきかと存じます」。詔に言う、「これは重大な案件である。より詳細に議論せよ」。有司がさらに上奏した、「楊駿は外戚としての資を拠りどころとし、宰相の任に身を置いていました。陛下が諒闇12「天子が父母の喪に服する部屋」、転じて「天子が喪に服する」こと(ともに『漢辞海』)。武帝の崩御を受けて恵帝が一時的に政治活動を控えたことを言う。に入ると、〔楊駿に〕重い権力を委ねましたが、〔楊駿は〕とうとうひそかに悪逆をくわだて、私党を広げるにまで至りました。皇太后は内部で〔楊駿の〕唇歯(協力しあう関係)となり、逆謀に協力しました。禍乱が露見すると、〔皇太后らは〕詔命に背き、兵士を恃みとして、宮中を戦場としました。そのうえ文書を宣布して兵士を募集し、そうして凶悪な徒党を助けようとしました。上は祖先の霊に背き、下は百姓の希望を断ち切ったのです。むかし、文姜が危害に関与すると13文姜は魯の桓公の妻にして斉の襄公の妹。襄公と姦通し、そのことが桓公にばれて叱責を受けると、文姜は襄公に告げ口した。襄公は一計を案じて桓公を殺害した。『左伝』桓公十八年、『史記』巻三二、斉太公世家を参照。、『春秋』はこれを非難し14『左伝』荘公元年三月に「夫人孫于斉、不称姜氏、絶不為親、礼也」とある。、呂氏が反逆すると、高后は〔高祖廟への〕配食から退降されました15高祖廟に配されて祀られていた呂后が廟から退けられたのは、光武帝の中元元年十月のこと。『後漢書』帝紀一下、光武帝紀下を参照。。〔これらの先例に倣って〕皇太后を廃し、峻陽の庶人とするべきでしょう」。中書監の張華らの考えでは、「太后は先帝に罪を得たわけではありません。このたびは、〔皇太后は〕親族をひいきし、当世に母としての模範を示しませんでした。〔漢の〕孝成趙皇后の故事に依拠し、『武帝皇后』と呼び、離宮に住まわせ、そうして貴終の恩をまっとうする16原文「以全貴終之恩」。『儀礼』喪服篇に「父卒、継母嫁、従為之服報。伝曰、『何以期也。貴終也』」とあり、鄭玄注に「嘗為母子、貴終其恩」とあるのが出典と思われるが、意味はよくわからない。おそらく〈継母への報恩を果たす〉といったところであろうか。のが適切です」17この張華の議は巻三六、張華伝にも掲載されている。。尚書令の下邳王晃らの議、「皇太后は楊駿と密謀し、社稷を危険に陥れようとしたのですから、宗廟に祀り、先帝に配するべきではありません。尊号を貶降し、廃して金墉城に行かせるべきです」。かくして有司が奏上した、「晃らの議に従い、太后を廃して庶人となさいますよう、お願い申しあげます。使者をつかわし、太牢をもって郊廟(南北郊と宗廟)に報告することで、祖先の命(めい)18原文「祖宗之命」。「祖先代々継承されている天命」を指すか?を継承し、万国の希望にかないますように。〔皇太后に〕供出する物品につきましては、陛下のご聖恩に従い、努めて手厚くなさるべきでしょう」。詔を下し、認可しなかった。有司がふたたび強く要請したので、ようやくこれを認可した。〔有司は〕さらに奏上した、「楊駿は反乱をたくらみましたから、家族は誅殺されるべきですが、〔特別に〕詔をお下しになって、楊駿の妻・龐氏の命をお赦しになり、そうして太后の心を安堵なさいました。いま、太后は庶人に廃されるのですから、龐氏を廷尉に送り、刑を執行なさいますように」。詔を下し、「龐氏と庶人が連れ添うことを許す」と答えたが、有司は賈后の意向に沿おうとし、強く要請したので、〔恵帝は〕ようやくこれを承諾した。龐氏が刑の執行に臨むと、楊太后は抱きついで泣き叫び、断髪して19原文は「截髪」。反省を示すための行動なのであろう。剃髪とまではいかないのかもしれないので、「髪を剃る」とは訳さなかった。額づき、上表して賈后のもとを訪れ、「妾」と自称して母の助命を嘆願したが、かえりみられなかった。当初、楊太后には侍御がなお十余人いたが、賈后はこれを奪い、食事を絶たせて崩じさせた。享年三十四、在位十五年であった。また賈后は妖巫〔の言葉〕を信じ、楊太后は必ず先帝に冤罪を訴えるだろうと思ったので、そこで〔遺体の顔を?〕覆い隠してかりもがりし20原文「覆而殯之」。不詳。[赤羽ほか二〇一八]は「うつぶせにして殯し」と訳している。、厭劾21迷信的な方法によって災厄を払うことを言う。(謂用迷信的方法消災除邪。)(『漢語大詞典』)の符書(おふだ)や薬物を施した。
永嘉元年、さかのぼって尊号を回復されたが22庶人に廃されていたのを皇后位に回復したということ。、別に廟を立てられ、神主は武帝に配されなかった。成帝の咸康七年になって、〔成帝は〕詔を下し、内外に詳議させた。衛将軍の虞潭の議、「世祖武皇帝はおおいに四海を領有し、元皇后は天〔の命〕に応じて〔武帝と〕配偶になりました。元后がまもなく崩じると、悼后が継いで〔配偶に〕なりましたが、楊駿が私欲をたくましくして反逆を起こし、その災禍は天母(悼后)に及ぶにまで至りました。孝懐皇帝はさかのぼって〔尊号を〕回復し、諡号をおくりましたが23巻一九、礼志上によれば、懐帝は武悼皇后の諡号をおくったのだという。、〔このような救済措置は、〕鯀が殺されても〔その子の〕禹が抜擢されたのは24原文「鯀殛禹興」。『左伝』襄公二十一年に「鯀殛而禹興」とあり、杜預注に「言不以父罪廃其子」とある。義が〔家を〕絶やさないことに置かれていたからだ、ということを根拠にしていたのではないでしょうか。また〔明帝の〕太寧二年に、臣はかたじけなくも宗正の任に就きましたが、帝室の系譜は失われており、依拠する資料がありませんでした。そのときは、年配の方々に広くお尋ねし、そうして昭穆(世代の順番)を定め、故驃騎将軍の華恒、列曹尚書の荀崧、侍中の荀邃と古い系譜をふまえて協議し、〔新たな系譜を〕編集しましたが、重大な尊号(皇帝即位者)につきましては、ひとつとして変更はありませんでした。いま、聖上は孝のお気持ちを強くし、つつしんで禋祀25原文まま。狭義には祭天儀礼を指すが、ここでは祭祀一般を広く指す。をうやまい、百官に諮問し、大礼を回復しようとしておられます。臣がただちに考察して詳細を確認しましたところ26原文「臣輒思詳」。ここの「輒」はどういうニュアンスなのかよくわからない。「思詳」は『晋書』にいくつか用例が見える語で、「考察して詳細を明らかにする」という意味だと考えられる。、伏して恵皇帝の起居注や〔その時代の〕群臣の奏議を参照しますと、〔悼后の責任をめぐる議論では〕楊駿が反逆を起こし、社稷を危険に陥れたことが列挙され、魯の文姜や漢の呂后が引き合いに出されていました。臣の愚見では、文姜は魯の荘公の母とはいえ、実際は父(魯の桓公)の仇であり、呂后は親族をひいきして増長させ、劉氏を存亡の危機に立たせました。思うに、この二つの事件はこんにちの事件(悼后の件)とは異質です。むかし、漢の章帝の竇皇后は和帝の母を殺しました。〔その後、〕和帝が即位すると、〔外戚であった〕竇氏をすべて誅殺しました27永元四年、竇憲らの不軌の策謀が発覚し、竇氏は誅殺された。。その当時、議者は竇太后の貶降(尊号を剥奪すること)を求め、竇太后が亡くなると、礼をもって葬らないことを要望しました。和帝は、〔竇太后に〕奉仕すること十年で、義として臣子の道に違(たが)うことはできないと考え、努めて手厚く遇しましたが28『後漢書』帝紀十上、皇后紀上、章徳竇皇后紀を参照。本伝のこの書きぶりだと、竇太后の生前に尊号剥奪の議論が起き、亡くなると埋葬の議論が起きたかのごとくだが、『後漢書』の本伝によれば、どちらの議論も竇太后が亡くなってから起こったもののようである。、その仁愛賢明の名声は過去においても明らかでした。また、故尚書僕射の裴頠による悼后の故事についての議を参照しますと、継母の場合、家から出たとしても、追服29服喪期間が終わったあとで、不足を補充するために服喪を実行すること。(喪期過後補行服喪。)(『漢語大詞典』)に変更はないと言っています。これを根拠に、孝懐皇帝は尊崇して〔尊号を回復し、〕諡号をおくり、〔本来埋葬されるべきであった〕峻陵(峻陽陵?)へ遺体を帰し、埋葬しました。これは、母子の道がまっとうされ、久しく懸案だった事項がすっかり解消された、というものです。〔ただし〕そのときは、〔悼后を〕弘訓宮で祀り、〔神主を〕太廟には入れませんでした。思うに、この事項がいまだに不完全なままであるのは、儀礼の典籍に適っていません。もし悼后の復位を適切だと判断するのであれば、世祖に配食するべきですし、復位を誤りだと判断するのであれば、系譜も諡号も除外するべきです。位も諡号も正式であるのに、不平等に別室で祀られているなどというのは、いまだ存在したためしがありません。もし孝懐皇帝が私的に母子の道を興し、特別に〔悼后のための〕廟を立てたというならば、この処置はかりそめにも私情を重んじ、国制を損なっているということになるのですから、国譜や帝諱〔の一覧集〕から30原文「国譜帝諱」。議論の流れから言えば、「諱」ではなく「諡」が正しいように思われるが、これまでとくにそうした指摘はないようなので、原文のまま訳出した。文脈上で解釈すれば、これらはロイヤルファミリーの資料集を指すように思われる。当てずっぽうな推測にすぎないが、この意味で訳文を作成してみた。すべて〔悼后を〕除外すべきだということになり、たんに世祖の廟に同祀できないというわけではなくなるのです」。会稽王昱、中書監の庾氷、中書令の何充、尚書令の諸葛恢、列曹尚書の謝広、光録勲の留擢、丹楊尹の殷融、護軍将軍の馮懐、散騎常侍の鄧逸らがみな虞潭の議に賛同したため、悼太后は武帝に配食されたのであった。
〔左貴嬪〕
左貴嬪31貴嬪は后妃の位で、三夫人のひとつ。は名を芬という。兄の左思は別に列伝がある。
左芬は若くして学問を好み、文章に巧みで、名声は左思に次いだ。武帝はそれを耳にして後宮に納めた。泰始八年、修儀32修儀は后妃の位で、九嬪のひとつ。に任じられた。詔を授かり、愁思(ものわびしい思い)の文章の作成を命じられ、そこで「離思賦」をつづった。
(「離思賦」は省略します。)
のちに貴嬪となった。容姿が醜く、〔性的に〕寵愛はなかったが、才徳をもって礼遇された。身体は虚弱で、病気がちであり、いつも薄室33暴室のこと。宮中の官署で、織物や染色をつかさどった。病気になったり、罪を得たりした宮中の婦人を収容する部屋としても使用された。で生活していた。武帝は華林園へ遊びに行くたびに、車を寄らせて見舞いに訪れていた。話題が文章のことに及ぶと、応対の言葉は清華(上品で美しい)で、左右の者たちは侍りながら聴きほれ、称賛しない者はいなかった。
元楊皇后が崩じると、左芬は誄を献呈した。
(誄は省略します。)
咸寧二年、〔武帝が〕悼后を娶ると、左芬は座中で詔を授かり、頌の作成を命じられた。その辞に言う。
(頌は省略します。)
武帝の娘の万年公主が薨じると、武帝は悲痛を抑えられず、左芬に詔を下し、誄の作成を命じたが、その文章はひじょうに美麗であった。武帝は左芬の文才を高く評価しており、地方の産物や珍しい宝物〔の貢献〕があるたびに、必ず詔を下して賦や頌を作らせていた。このため、〔左芬は〕何度も恩賜を得ていたのであった。兄の左思に答える詩、書、雑賦・雑頌数十篇はみな世に流通した。
〔胡貴嬪〕
胡貴嬪は名を芳という。父の胡奮は別に列伝がある。
泰始九年、武帝は良家の子女を多く選抜して内職(後宮の后妃の職位)を充足しようとし、良家の子女たちのなかで美しい者をみずから選んで、絳紗(赤い薄絹の織物)を腕に結んだ。胡芳はそれに選ばれると、殿を下りるや声を上げて泣いた。お付きの者は胡芳を泣き止ませようとして、「陛下に泣き声を聞かれてしまいますよ」と言うと、胡芳は「死ぬことさえ怖くないもの。どうして陛下を恐れるでしょうか」と言った。武帝は洛陽令の司馬肇をつかわし、策書を授けて胡芳を貴嬪に任じた34のちに夫人の位を授けられたか。武元楊皇后伝にも「胡夫人」として言及されている。『太平御覧』巻一四四、夫人に引く「王隠晋書」を参照。。武帝が質問すると、いつも言葉を飾らず、率直に回答し、進退所作は方正優雅であった。そのころ、武帝は寵愛している婦人が多く、呉を平定したあとは孫晧の宮人数千人をさらに納めたため、これ以降、後宮は一万人にのぼろうとしていた。しかも同等に寵愛している婦人がひじょうに多かったため、武帝は誰のところへ行けばよいかわからず、そこでいつも羊車35「羊」字はヒツジとヤギの両方を含んで指し、区別されない(現代中国語でも同様である)。[王明珂二〇一八]一五七頁を参照。ここでの「羊」はどちらの可能性が高いのか、訳者は知識不足で推測しがたい。に乗り、羊の進むがままに任せ、〔羊が止まって〕たどりついた部屋で休息した。宮人はそこで竹の葉を扉に挿し、塩水を〔扉のそばの〕地面にまき、武帝の車〔を牽く羊〕を引き寄せようとした36竹の葉はもちろんヒツジやヤギの食べ物。ヒツジやヤギなどの草食動物は、主食の植物では塩分を摂取できないため、塩の欲求が強い。この習性は、遊牧で家畜をコントロールするときにも利用されている。高梨浩樹「西アジア遊牧民の塩袋」(たばこと塩の博物館https://www.tabashio.jp/exhibition/web_exhibition/05/index.html、最終閲覧二〇二五年三月二日)を参照。。しかし胡芳はもっとも寵愛を受けていたので、〔宮人たちのこうした努力にも関わらず、〕ほとんど愛を独占し、侍御(側仕えの女人)や服飾〔の豪勢さ〕は皇后に次いだ。或るとき、武帝は胡芳と摴蒱(ちょぼ)で遊び、矢(点数棒)の取り合いをしていたが、〔胡芳は〕しまいには武帝の指を負傷させてしまった。武帝は怒り、「こいつはもともと武将の血筋だしな」と言うと、胡芳は言い返して、「北は公孫氏を討ち、西は諸葛氏を防いだというのに、武将の血筋でなければ何なのでしょうか?」武帝はたいへんきまりわるい表情になった37野暮な解説だとは思うが、胡氏は代々武将の家柄(原文は「将種」)だったので、乱暴をしでかした胡芳に「これだから粗野なヤツは」と武帝はなじったわけだが、そうすると胡芳は「ひとを野蛮呼ばわりしているけど、司馬氏だって武将の家柄じゃん」と言い返したって話。。胡芳は武安公主を生んだ。
〔諸葛夫人〕
諸葛夫人は名を婉といい、琅邪の陽都の人である。父の諸葛沖は字を茂長といい、廷尉卿となった。諸葛婉は泰始九年の春に後宮に入り、武帝が臨軒し、使持節、洛陽令の司馬肇をつかわして夫人に任じた。
兄の諸葛銓は字を徳林といい、散騎常侍となった。諸葛銓の弟の諸葛玖は字を仁林といい、侍中、御史中丞となった。諸葛玖の妻の弟である周穆は、清河王覃の舅(母の兄弟)であった。永嘉のはじめ、周穆は諸葛玖といっしょに、懐帝を廃して清河王を立てるよう東海王越に勧めたが、東海王は認諾しなかった。繰り返しこの件を言うと、東海王は怒り、とうとう諸葛玖と周穆を斬ってしまった。刑の執行に臨んで、諸葛玖は周穆に言った、「卿(きみ)に何を言ったらいいものやら」。周穆、「いまさら何を言っても遅いですよ」38原文「玖謂穆曰、『我語卿何道』。穆曰、『今日復何所説』」。諸葛玖の発言はよく読めないが、和刻本の訓点に従い、「我、卿ニ語ルニ何ヲカ道(い)ワンヤ」と読んだ。両者の発言とも意訳したが、直訳すれば諸葛玖「卿に何を言おうか」、周穆「いまさら何か言うことがありますか」。。世の人々は、〔清河王を擁立しようとする〕策謀は周穆の発案で、諸葛玖の意向ではなかったことを、ようやく知ったのであった。
序・宣穆張皇后・景懐夏侯皇后・景献羊皇后・文明王皇后/武元楊皇后・武悼楊皇后(附:左貴嬪・胡貴嬪・諸葛夫人)/恵賈皇后・恵羊皇后(附:謝夫人)・懐王皇太后・元夏侯太妃
(2025/3/2:公開)