巻六十 列伝第三十 解系 孫旂 孟観 牽秀

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解系(附:解結・解育)・孫旂・孟観・牽秀繆播(附:繆胤)・皇甫重・張輔李含・張方閻鼎・索靖(附:索綝)・賈疋

解系(附:解結、解育)

 解系は字を少連といい、済南の著の人である。父の解脩は魏の琅邪太守、梁州刺史であり、治績は天下第一であった。武帝が受禅すると、梁鄒侯に封じられた。
 解系とその二人の弟である解結、解育はそろって清廉で、名声をおおいに博していた。当時、荀勖の一族が強勢で、朝廷も原野も彼らを畏怖していた。荀勖の息子たちは解系らに向かって、「私たちと卿(あなたがた)は友人関係にありますから、私たちの公(父上)に拝礼なさってくださいね」と言うと、荀勖も「私は尊先使君(お亡くなりになった君たちの父上)と懇意の仲だったのだぞ」と言った。解系、「父君からそのような遺教(遺した教え)を授かっていませんでした。公が父君と親しかったのでしたら、過日の喪中1原文「哀頓」。『漢語大詞典』には「猶困苦」と載っているが、南朝正史に二つ用例があり、いずれも喪中できわめて悲しんでいることの表現である。つまりは喪に服していることを「哀頓」と表現しているのだと考えられる。に書面でのお悔やみを頂戴していたはずです2原文「当垂書問」。本当にこういう意味でよいのか自信がない。〔が、ありませんでしたので親しい仲だと思いもしませんでした〕。〔公の家と〕懇意にするようにとの教えはうけたまわっていないのです」。荀勖親子はおおいに恥じ入り、世の人々は解系を物怖じせずに立派であると評した。のちに公府の掾に辟召され、中書侍郎、黄門侍郎中書黄門侍郎(2022/10/16:修正)、散騎常侍、豫州刺史を歴任し、尚書に移った。地方に出て雍州刺史、揚烈将軍、西戎校尉、仮節となった。
 ちょうど氐と羌がそむいたので、征西将軍の趙王倫とこれを討伐した。趙王は佞人(へつらう人)の孫秀を信任していたが、〔孫秀は〕解系と軍事の問題で言い争いになり、たがいに〔朝廷へ〕表や奏を奉じた。朝廷は、解系がいわゆる「正道を固守して屈しない」3原文「守正不撓」。出典であるかはわからないが、『漢書』楚元王伝附向伝に「君子独処守正、不橈衆枉」とあり、顔師古注に「橈、屈也、不為衆曲而自屈也」とある。という人となりであるのを理解していたので、趙王を〔中央に〕召し返した。解系は上表し、孫秀を殺して氐と羌に謝罪するよう求めたが、朝廷は聴き入れなかった。趙王と孫秀が解系のことを讒言したので、解系は罪に問われて官を免じられ、白衣4「白衣」とは「現任官のない、もしくは無官の官人の、官人としての身分を意味する言葉」(中村圭爾『六朝貴族制研究』風間書房、一九八七年、三〇七頁)。をもって私宅に帰り、門を閉ざして交際を絶った。張華と裴頠が誅殺されると、趙王と孫秀は往時の恨みを理由に解系兄弟を拘束した。梁王肜が解系らを擁護して救出しようとしたが、趙王は怒って、「私は川の中で蟹を見かけたときですら嫌な気分になるんだ5「蟹」の字に「解」字が含まれていることをもじった言い方。この読み方は過去にツイッターでspさんからご教示をいただきました。記して感謝申し上げます。。ましてこいつら兄弟は私を軽んじたのだぞ。これが許せるのならば、許せぬものなぞないわ」と言った。梁王はしきりに反対したがかなわず、とうとう〔趙王は〕解系らを殺し、その妻子らも殺してしまった。
 のち、斉王冏が起義したさい、裴氏と解氏を冤罪の筆頭に挙げた。趙王と孫秀が誅殺されると、斉王は上奏して言った6この上奏は張華伝にもみえ、文言もおおよそ同じ。、「臣が聞くところでは、衰えた家を再興させ、後継ぎが絶えた祭祀を存続させることは、聖人がなすところの偉大な政治であり、悪を毀損して善を顕彰することは、『春秋』がなすところのすぐれた言論です。このため、武王は〔殷の王族であった〕比干の墓を土盛りし、商容7賢人と称され、紂王に仕えたが、位を廃されたのだという。『史記』殷本紀に「商容賢者、百姓愛之、紂廃之」とある。の故郷の里門に〔商容のことを〕表彰しましたが8原文「表商容之閭」。『史記』留侯世家の「索隠」に引く崔浩注(『漢書』注?)に「表者、標榜其里門也」とあるのに従い、「表」を「門に額をかけるなどとして善人や有徳者を表彰する」と読んでみた。
 比干と商容の両者は殷の紂王によって退けられたが、周の武王の克殷後、名誉を回復された。この故事は(革命こそ成っていないものの)この当時の状況になぞらえられている。すなわち、前代の趙王倫時代に廃された善良の臣がいるから、この故事に倣って彼らの名誉を回復するべきだ、というわけである。
、じつに『死と生の理(ことわり)』9原文「幽明之故」。『易』繋辞上伝に「仰以観於天文、俯以察於地理、是故知幽明之故。原始反終、故知死生之説」とあり、韓康伯の注に「幽明者、有形无形之象、死生者、終始之数也」とあり、「正義」に「『是故知幽明之故』者、故謂事也」とある。これが出典のようにみえるが、本文は少なくとも韓康伯の注解のようには使っていない。直前に引用されている比干らや、後文で挙げられる張華らが「善行や節義をまっとうしたゆえに死んでしまった者」とみなされているらしいことからすると、ここの「幽明之故」は「死ぬことと生きることの道理・命運」くらいの意で、「死ぬべきではなかったのに死んでしまったことをよく理解していた」というぐあいに用いられているのではないかと思うが、あまり明瞭には理解が整理できておらず、自信はない。(2021/2/14:注修正)に通暁した手法です。孫秀が反逆をはたらき、佐命の封国を滅ぼし、剛直な臣下を誅殺し、そうして王室を衰弱させ、乱暴をほしいままにふるい、功臣の子孫は多く絶やされました。張華や裴頠のような者については、おのおの畏怖されていたがゆえに誅殺され、解系と解結はともに『羔羊』10『毛詩』召南の篇名。官にありながら正直節倹であることを称えた詩とされる。詩序に「鵲巣之功致也。召南之国化文王之政、在位皆節倹正直、徳如羔羊也」とある。のために殺され、欧陽建らは罪がないのに死にました。百姓は彼らを憐れんでいます。陛下は日月の輝きを一新し、維新の宣言を布告しましたが、彼らは恩恵をこうむっていません。むかし、欒氏や郤氏は没落して卑賤な官に落ちぶれましたが11原文「欒郤降在皁隸」。『左伝』昭公三年に「欒、郤、胥、原、狐、続、慶、伯、降在皁隸」とあり、杜預注に「八姓晋旧臣之族也。皁隷、賤官」とある。、『春秋』はその過ちを伝に記しています12原文「春秋伝其人」。張華伝は「人」を「違」に作る。どちらにしてもよくわからないのだが、後文とのつながりもふまえ、ここは張華伝の「違」が正しいとみなし、「春秋の伝(左伝)はそれを間違いだと言っている」という意味で読むことにした。。幽王は功臣の後裔を絶やし、賢者の子孫を見捨てましたが、詩人はこれを風刺して批判しています13おそらく『毛詩』小雅、裳裳者華のこと。詩序に「刺幽王也。古之仕者世禄、小人在位、則讒諂並進、棄賢者之類、絶功臣之世焉」とある。。臣はかたじけなくも右職14地位の高い重職の意。ここでは大司馬を指すと考えられる。に就けられ、手足となって輔佐に尽力しようと思い、ここに愚誠をささげるしだいです。もし陛下のご意向にかなうようでしたら、群官に通議(博議と同義?)を命じていただけると幸いです」。〔裁可され、百官に通議が命じられた。〕尚書八坐の議、「解系らは清廉公正かつ正直で、悪人から憎まれ、罪がないのに不正に殺されてしまった。冤罪をきせられた悲嘆はこのうえないであろう。大司馬が申すように、曲がっていることと真っすぐであることをはっきりさせ、誤っていることと正しいことを明らかにし、冤罪をこうむった魂から恥辱と恨みをそそげば、厚い恩恵となるであろう」。永寧二年、光禄大夫を追贈し、改葬し、弔祭を加えた。

〔解結〕

 解結は字を叔連といい、若いときから解系と名声を等しくしていた。公府の掾に辟召され、昇進を重ねて黄門侍郎に移り、散騎常侍、豫州刺史、魏郡太守、御史中丞を歴任した。
 当時、孫秀が関中を混乱させていたが、解結は都坐15「都座」とも。多くは尚書省にある会議室を指す。の会議で、孫秀の罪は誅殺に相当すると意見を述べた。孫秀はこのために〔解結に〕恨みをもつようになった。解系が殺されると、解結も殺された。解結の娘は裴氏に嫁ぐことになっていたが、嫁ぐ前日に災難(解結らの死)が起こってしまった。裴氏は、解結の娘については生き延びさせてもらえるようにはたらきかけようとしたが、娘は「家がこのようになったというのに、どうして長らえておけるでしょうか」と言い、連座して死んだ。朝廷はついに旧来の制度の改正を議論し、娘は連座しないことになったのだが、これは解結の娘がきっかけだったのである。のち、解結に光禄大夫を追贈し、改葬し、弔祭を加えた。

〔解育〕

 解結の弟の解育は、字を稚連といい、名声は二人の兄に匹敵した。公府の掾、太子洗馬、尚書郎、衛軍将軍長史、弘農太守を歴任し、二人の兄といっしょに殺され、妻子は辺境に流された。

孫旂

 孫旂は字を伯旗といい、楽安の人である。父の孫歴は、魏晋の交替時は幽州刺史、右将軍であった。孫旂は清廉で、若くしてみずから(独力で)徳行を修め、立身した。孝廉に挙げられ、昇進を重ねて黄門侍郎に移り、出て荊州刺史となった。名声と官位は二人の解氏(解系と解結)に匹敵した。永煕年間、中央に召されて太子詹事に任じられ、衛尉に移ったが、武庫の火災で罪に問われ、官を免ぜられた。一年あまりのち、地方に出て兗州刺史となり、平南将軍、仮節に移った16のち、襄陽太守に斬られているので、鎮襄陽に移ったのかもしれない。
 孫旂の子の孫弼、弟の子の孫髦、〔同じく〕孫輔、〔同じく〕孫琰の四人は、みな吏の才幹があり、当時に評価されていたが、とうとう孫秀と族を合流させた17以下の記述からしても、子の世代が孫秀と仲がよく、孫旂は少し距離を置いていたような雰囲気で記述されているが、后妃伝上・恵羊皇后伝に「賈后既廃、孫秀議立后。后外祖孫旂与秀合族、又諸子自結於秀、故以太安元年立為皇后」とあり、そもそも孫旂が孫秀と仲よしだったので子らも孫秀と親密だったようである。趙王倫伝でも、窮した孫秀らの一計として、趙王を連れて南の孫旂と孟観のもとへ逃げる案が提出されている。このことからしても、孫旂自身が孫秀らに近かったのだろう。。〔四人は〕趙王倫が事変(賈后らへのクーデター)を起こしたさい、夜に孫秀に付き従い、神武門のそばにある台観18物見台のこと。この当時はわからないが、いにしえは門の前に二つの観が立てられていたという。崔豹『古今注』都邑篇に「闕、観也。古毎門樹両観於其前、所以標表宮門也。其上可居、登之則可遠観、故謂之観。人臣将朝、至此則思其所闕、故謂之闕」とある。を開いて武器を点検した。兄弟は一か月のうちにあいついで公府の掾や尚書郎になった。孫弼はさらに中堅将軍、領尚書左丞となり、上将軍に移り、領射声校尉となった。孫髦は武衛将軍、領太子詹事となった。孫琰は武威将軍、領太子左率となった。みな開国郡侯の爵を下賜された。〔孫秀らは〕孫旂に尊重を加え、車騎将軍、開府(開府儀同三司?)とした。
 これ以前、孫旂は孫弼らが偽朝(趙王)からの任命を受けたことをもって、小子の孫回をつかわして孫弼らを譴責し、度が過ぎた事柄は家の禍に必ずなってしまうのだと責めた。孫弼らはとうとう従わ〔ずに趙王の任命を辞退し〕なかった。孫旂は言うことを聞かせようとしたがかなわず、泣き暮れるばかりであった。斉王冏が起義すると、四人の子はみな誅殺された。襄陽太守の宗岱は斉王の檄書を受け取ると、孫旂を斬り、夷三族とした。
 弟の孫尹は字を文旗といい、陳留太守、陽平太守を歴任したが、早世した。

孟観

 孟観は字を叔時といい、渤海の東光の人である。若くして読書を好み、天文に通じていた。恵帝が即位すると、じょじょに昇進して殿中中郎に移った19原文「稍遷殿中中郎」。「稍遷」は「累遷」と同様、中途に経た官を省略した書き方(だと思う)。。賈后は婦姑の礼20嫁は姑に仕えなければならないといったような類いであろう。楊駿伝に「賈后……不肯以婦道事皇太后」とある。にもとり、楊駿を誅殺して楊太后を廃そうとひそかにたくらみ、楊駿が専権しているのを理由に、しばしば恵帝に誅殺を進言していたが、また人を通じて孟観にもそれとなく伝えていた。ちょうど楚王瑋が楊駿を討とうとしたので、孟観は賈后の意向を受けて〔楊駿を廃する〕詔を宣読し、すこぶる楊駿の専権をそしった。楊駿が誅殺されると、孟観を黄門侍郎とし、特別に親信四十人を支給した21本伝には明記されていないが、孟観は汝南王亮と衛瓘の廃位にも関与していたようである。『文選』巻四九、干令升「晋紀総論」の李善注に引く「干宝晋紀」に「太子太傅孟観知中宮旨、因譖二公欲行廃立之事。楚王瑋殺太宰汝南王亮、太保衛瓘。張華以二公既亡、楚必専権、使董猛言於后、遣謁者李雲宣詔免瑋付廷尉。瑋以矯詔伏誅」とある。『晋書斠注』を参照。つまり孟観は賈后の手先であったのだろう。。積弩将軍に移り、上谷郡公に封じられた。
 氐の帥の斉万年が関中でそむき、その衆は数十万にもふくれ、諸将の敗北があいついだ。中書令の陳準と中書監の張華は次のように考えた。趙王と梁王は関中に滞在していたが、おだやかな貴戚(高貴な親族)であり〔、血気盛んな王ではなく〕、進んでも功を得ることに執着なく、退いても罪を恐れることなく、兵士は多いといっても、役に立っていない。周処が〔斉万年と戦って〕敗死したのは主としてこれらに原因があり、上下で人々の心が離れてしまっているのでは、敵に勝利するのは難しい。孟観は冷静かつ剛毅で、文武とも才幹がある、と。そこで二人は孟観に斉万年を討伐させるよう啓した。孟観が率いる宿衛兵(積弩将軍の営)はみな敏捷にして勇敢で、これと同時に〔孟観は〕関中の兵士を統率し、孟観みずから前線に立ち、おおいに戦うこと十数回、すべてこれに勝利し、斉万年を生け捕りにし、氐や羌を恐怖させて屈服した。東羌校尉に移り、中央に召されて右将軍に任じられた。
 趙王倫が帝位を奪うと、孟観があちこちで功績をあげていることを理由に、安南将軍、監沔北22原文は「河北」だが、後文とのかねあいをふまえると「沔北」がよいため、改めた。中華書局の校勘記を参照。諸軍事、仮節に任じ、宛に駐屯させた。孟観の子の孟平は淮南王允の前鋒将軍となり、〔趙王討伐のために挙兵した淮南王に従い、〕趙王を討ったが、戦死した。孫秀は、孟観が軍隊を監督して外にいることから、〔つぶさな事情は知らないだろうと思い、〕孟平は淮南王の兵士に殺されてしまったと嘘をつき、〔孟平に〕積弩将軍を追贈して孟観をてなずけた。〔斉王冏らの〕義軍が起こると、多くの人々が斉王に呼応するように孟観に勧めたが、孟観は、〔天の〕紫宮の帝の星にとくに異変がなく、これは趙王を暗示していると考えたため、とうとう人々の意見に従わず、趙王のために固守し〔て宛から動かなかっ〕た。恵帝が位に回復すると、永饒冶令の空桐機が孟観の首を斬り、洛陽へ送り、とうとう夷三族となった。

牽秀

 牽秀は字を成叔といい、武邑の観津の人である。祖父の牽招は魏の雁門太守であった。牽秀は見識が広く、文才があり、侠気のある気質で、弱冠にして名声をあげ、太保の衛瓘や尚書の崔洪の面識を得た。太康年間、官に登用されて新安令に任じられ、昇進を重ねて司空従事中郎に移った。〔牽秀は〕武帝の舅(母親の兄弟)である王愷とふだんからたがいに軽蔑しあっていた。王愷は司隷校尉の荀愷に〔牽秀の醜聞を伝えて〕遠回しに弾劾するよう求めると、荀愷は上奏し、牽秀が夜に道路上で、高平国の守士(守衛兵士?)である田興の妻を車に乗せたと報告した。牽秀は即座に上表して冤罪だと訴え、王愷の醜聞について論述した。文章の調子は激しく、外戚(王愷のこと)を批判してはばからなかったのである。当時の朝臣の多くは彼の主張を正しいと擁護したが、しかし牽秀の名声はこれをきっかけに落ちてしまい、しまいには罪に問われて官を免ぜられたのであった23以上の逸話は『三国志』牽招伝の裴松之注に引く「荀綽冀州記」にも見えている。。のちに司空の張華が長史とすることを〔朝廷に〕求め〔、裁可され〕た。
 牽秀は任侠の気質があり、将帥をつとめるのを好んでいた。張昌が乱を起こすと、長沙王乂は牽秀を派遣して張昌を討伐させた。牽秀は関所を出ると、そのまま成都王穎のもと(鄴)へ出奔してしまった。成都王が長沙王を討とうとしたさい、牽秀を冠軍将軍とし、陸機、王粋らとともに河橋の戦役を起こした。陸機が敗北すると、牽秀は告発して彼の罪を立証し24原文「秀証成其罪」。「証成」は『北史』の用例だと「でっちあげる」という含意もあり、本文についてもそういうニュアンスが含まれているかもしれない。、また黄門の孟玖にへつらって仕えたので、成都王から信頼されるようになった。恵帝が西の長安へ行幸すると、牽秀を尚書とした。牽秀は若いころ、京師に滞在していたのだが、〔当時の〕司隷校尉であった劉毅が弾劾をしては〔思うとおりにならずに〕悔やしがっていたのを目にしていた。そこで彼はみずからこう意気込んだのであった。すなわち、司直(監察官)の職に就けば、必ず汚濁を排斥して清流を抜擢してみせ、戦鼓のただなかに配されれば、必ず将帥としての勲功を挙げてみせる、と。常伯(侍中)や納言(尚書)の職務に就いてみると、悪を諫めて善を勧めたり、過ちを正したりといった〔これらの職が果たすべき〕役目において、〔牽秀が〕殊勝ぶりを発揮することはまったくなかった25原文「未曾有規献弼違之奇」。意訳した。「規献」は「尽規献替」「尽規献納」を略した表現のように思えるが、そこまで深く読まなくても問題ないかもしれない。
 河間王顒は牽秀をはなはだ信任していた。関東の諸軍(東海王越ら)が天子を奉迎しようとすると、河間王は牽秀を平北将軍とし、馮翊に駐屯させた。牽秀は河間王の将の馬瞻らと協力して河間王を支え、関中を守るつもりでいたのだが、河間王はひそかに使者を東海王越のもとへつかわし、〔自身の〕迎えを要望したので、東海王は将の麋晃らを派遣して河間王を迎えさせた。そのとき、牽秀は軍を擁して馮翊に駐留していたので、麋晃はあえて進もうとはしなかった。河間王の長史の楊騰は、以前に東海王の軍に応じなかったので26楊騰個人にかかることなのか河間王にかかることなのかよくわからないが、ともかく原文にはこう書いてある。、東海王が討ちに来るのを憂慮していた。そこで牽秀を討ち、それによってみずから忠誠を示そうと考え、馮翊の大姓である厳氏と協同し、河間王の命令と偽り、牽秀に出動中止を命じて帰還させたところ、牽秀はそれを信じた。楊騰はついに牽秀を万年で殺した。

解系(附:解結・解育)・孫旂・孟観・牽秀繆播(附:繆胤)・皇甫重・張輔李含・張方閻鼎・索靖(附:索綝)・賈疋

(2021/2/11:公開)

  • 1
    原文「哀頓」。『漢語大詞典』には「猶困苦」と載っているが、南朝正史に二つ用例があり、いずれも喪中できわめて悲しんでいることの表現である。つまりは喪に服していることを「哀頓」と表現しているのだと考えられる。
  • 2
    原文「当垂書問」。本当にこういう意味でよいのか自信がない。
  • 3
    原文「守正不撓」。出典であるかはわからないが、『漢書』楚元王伝附向伝に「君子独処守正、不橈衆枉」とあり、顔師古注に「橈、屈也、不為衆曲而自屈也」とある。
  • 4
    「白衣」とは「現任官のない、もしくは無官の官人の、官人としての身分を意味する言葉」(中村圭爾『六朝貴族制研究』風間書房、一九八七年、三〇七頁)。
  • 5
    「蟹」の字に「解」字が含まれていることをもじった言い方。この読み方は過去にツイッターでspさんからご教示をいただきました。記して感謝申し上げます。
  • 6
    この上奏は張華伝にもみえ、文言もおおよそ同じ。
  • 7
    賢人と称され、紂王に仕えたが、位を廃されたのだという。『史記』殷本紀に「商容賢者、百姓愛之、紂廃之」とある。
  • 8
    原文「表商容之閭」。『史記』留侯世家の「索隠」に引く崔浩注(『漢書』注?)に「表者、標榜其里門也」とあるのに従い、「表」を「門に額をかけるなどとして善人や有徳者を表彰する」と読んでみた。
     比干と商容の両者は殷の紂王によって退けられたが、周の武王の克殷後、名誉を回復された。この故事は(革命こそ成っていないものの)この当時の状況になぞらえられている。すなわち、前代の趙王倫時代に廃された善良の臣がいるから、この故事に倣って彼らの名誉を回復するべきだ、というわけである。
  • 9
    原文「幽明之故」。『易』繋辞上伝に「仰以観於天文、俯以察於地理、是故知幽明之故。原始反終、故知死生之説」とあり、韓康伯の注に「幽明者、有形无形之象、死生者、終始之数也」とあり、「正義」に「『是故知幽明之故』者、故謂事也」とある。これが出典のようにみえるが、本文は少なくとも韓康伯の注解のようには使っていない。直前に引用されている比干らや、後文で挙げられる張華らが「善行や節義をまっとうしたゆえに死んでしまった者」とみなされているらしいことからすると、ここの「幽明之故」は「死ぬことと生きることの道理・命運」くらいの意で、「死ぬべきではなかったのに死んでしまったことをよく理解していた」というぐあいに用いられているのではないかと思うが、あまり明瞭には理解が整理できておらず、自信はない。(2021/2/14:注修正)
  • 10
    『毛詩』召南の篇名。官にありながら正直節倹であることを称えた詩とされる。詩序に「鵲巣之功致也。召南之国化文王之政、在位皆節倹正直、徳如羔羊也」とある。
  • 11
    原文「欒郤降在皁隸」。『左伝』昭公三年に「欒、郤、胥、原、狐、続、慶、伯、降在皁隸」とあり、杜預注に「八姓晋旧臣之族也。皁隷、賤官」とある。
  • 12
    原文「春秋伝其人」。張華伝は「人」を「違」に作る。どちらにしてもよくわからないのだが、後文とのつながりもふまえ、ここは張華伝の「違」が正しいとみなし、「春秋の伝(左伝)はそれを間違いだと言っている」という意味で読むことにした。
  • 13
    おそらく『毛詩』小雅、裳裳者華のこと。詩序に「刺幽王也。古之仕者世禄、小人在位、則讒諂並進、棄賢者之類、絶功臣之世焉」とある。
  • 14
    地位の高い重職の意。ここでは大司馬を指すと考えられる。
  • 15
    「都座」とも。多くは尚書省にある会議室を指す。
  • 16
    のち、襄陽太守に斬られているので、鎮襄陽に移ったのかもしれない。
  • 17
    以下の記述からしても、子の世代が孫秀と仲がよく、孫旂は少し距離を置いていたような雰囲気で記述されているが、后妃伝上・恵羊皇后伝に「賈后既廃、孫秀議立后。后外祖孫旂与秀合族、又諸子自結於秀、故以太安元年立為皇后」とあり、そもそも孫旂が孫秀と仲よしだったので子らも孫秀と親密だったようである。趙王倫伝でも、窮した孫秀らの一計として、趙王を連れて南の孫旂と孟観のもとへ逃げる案が提出されている。このことからしても、孫旂自身が孫秀らに近かったのだろう。
  • 18
    物見台のこと。この当時はわからないが、いにしえは門の前に二つの観が立てられていたという。崔豹『古今注』都邑篇に「闕、観也。古毎門樹両観於其前、所以標表宮門也。其上可居、登之則可遠観、故謂之観。人臣将朝、至此則思其所闕、故謂之闕」とある。
  • 19
    原文「稍遷殿中中郎」。「稍遷」は「累遷」と同様、中途に経た官を省略した書き方(だと思う)。
  • 20
    嫁は姑に仕えなければならないといったような類いであろう。楊駿伝に「賈后……不肯以婦道事皇太后」とある。
  • 21
    本伝には明記されていないが、孟観は汝南王亮と衛瓘の廃位にも関与していたようである。『文選』巻四九、干令升「晋紀総論」の李善注に引く「干宝晋紀」に「太子太傅孟観知中宮旨、因譖二公欲行廃立之事。楚王瑋殺太宰汝南王亮、太保衛瓘。張華以二公既亡、楚必専権、使董猛言於后、遣謁者李雲宣詔免瑋付廷尉。瑋以矯詔伏誅」とある。『晋書斠注』を参照。つまり孟観は賈后の手先であったのだろう。
  • 22
    原文は「河北」だが、後文とのかねあいをふまえると「沔北」がよいため、改めた。中華書局の校勘記を参照。
  • 23
    以上の逸話は『三国志』牽招伝の裴松之注に引く「荀綽冀州記」にも見えている。
  • 24
    原文「秀証成其罪」。「証成」は『北史』の用例だと「でっちあげる」という含意もあり、本文についてもそういうニュアンスが含まれているかもしれない。
  • 25
    原文「未曾有規献弼違之奇」。意訳した。「規献」は「尽規献替」「尽規献納」を略した表現のように思えるが、そこまで深く読まなくても問題ないかもしれない。
  • 26
    楊騰個人にかかることなのか河間王にかかることなのかよくわからないが、ともかく原文にはこう書いてある。
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