巻九十 列伝第六十 良吏(3)曹攄 潘京 范晷 丁紹

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序/魯芝・胡威・杜軫・竇允・王宏/曹攄・潘京・范晷・丁紹/喬智明・鄧攸・呉隠之

曹攄

 曹攄は字を顔遠といい、譙国の譙県の人である。祖父の曹肇は魏の衛将軍であった。曹攄は若くして孝の行動があり、学問を好み、文章の制作を得意とした。太尉の王衍が曹攄に面会すると、曹攄のことを高く評価した。選抜されて臨淄令に任じられた。臨淄県にある寡婦がおり、姑をひじょうに勤勉に養っていた。姑は、寡婦が若いことから、言い聞かせて再婚させようとしたが、寡婦は節義を守って他所に嫁がなかった。姑は彼女を憐れに思い、何も告げずに自殺してしまった。親族は寡婦が姑を殺したと話したため、官が〔寡婦を〕尋問したところ、寡婦は苦痛に堪えられず、とうとうウソの自白をしてしまった。裁判の判決が下ろうというとき、ちょうど曹攄が赴任してきたのであった。曹攄は冤罪であることを見抜き、ふたたび取り調べを加えたところ、実情がつぶさに判明した。世の人々は曹攄の見識の明るさを称賛した。獄には死刑囚が収監されていたが、年末のある日、曹攄は獄を訪れ、死刑囚を憐れんで言った、「卿らは不幸にもこの非所(監獄のこと)に送られてしまったわけだが、何をしてやったらいいだろうか。新年は人情が大事にしている時節だから、ちょっとの間でも家族に会いたいと思わないかね」。囚人らはみな涙を流して泣き、「もし少しでも家に帰れましたら、死んでも悔いはありません」と言った。曹攄は獄をすべて開放して囚人を出してやり、期日を約束して帰宅させた。〔そのさい、〕掾吏は強く諫め、やってはいけないとみなが言ってきた。曹攄は言った、「彼らは小人だが、信義を守って私を裏切ったりはしないさ。諸君のために私が請け合おう」。約束の日になると、ぞくぞくと戻ってきて、違反した者は誰もいなかった。県じゅうが感服し、〔曹攄のことを〕「聖君」と呼んだ。〔中央に〕入って尚書郎になり、洛陽令に転じたが、慈愛があり、判断が公正だったので、百姓は曹攄を慕った。大雪が降ったあるときのこと、夜中に宮門から行馬(馬止めの柵)がなくなり、多くの官が捜索したが、行方はわからなかった。曹攄は門士(門の衛兵)を逮捕させたが、それはおかしいと百官みなが言ってきた。曹攄は言った、「宮中の禁足は厳格ですから、外部の人間が危険を冒してまで盗もうとするわけがありません。きっと、門士が寒さをしのごうと焚いてしまったのでしょう」。詰問したところ、はたして犯行を認めたのであった。病気を理由に官を辞した。ふたたび洛陽令になった。
 斉王冏が輔政すると、曹攄は左思とともに〔大司馬府の〕記室督となった。あるとき、斉王はくつろぎながら曹攄にたずねた、「天子(恵帝)が賊臣(趙王倫)に脅されていたとき、奮い立つことができた者はいなかった。私は〔かつては〕四海の義兵を率いて王室を回復し、現在は朝廷に入って補佐し、世の艱難を救っているが、封国へ帰るように私に勧める者もいる。卿はどう考えるかね」。曹攄は言った、「国賊を平定し、帝運を回復しましたことにつきましては、古今における人臣の功績のなかでも、大王ほどに高いものはかつてございませんでした。しかし、高く盛り上がったあとで低くならない道はなく、栄えたあとで衰えない人間はいません。それは人事のみに原因があるのではなく、そもそも天の道理でもございます。ご下問にお預かりいたしましたからには、あえて心を尽くさないわけには参りません。大王に願わくは、高位に身を置きつつ危険を考慮し、充足におりつつ空虚を思慮し、百官を選りすぐり、公共のことを考えて私欲をしりぞけ、賢人を推挙し、善人を推薦し、有能な人材を得ることに努め、そのあとで車に油をさし、馬にまぐさを与え、高らかに拱手して藩国へ帰れば、上下とも祝賀し、攄(わたくし)らも幸甚に存じます」。斉王は聴き入れなかった。まもなく中書侍郎に転じ、長沙王乂は驃騎将軍府の司馬とした。長沙王が敗亡すると、免官された。ちょうど母の喪に遭った。恵帝の末年、起家して襄城太守となった。このころ、襄城はたびたび賊による災難を経験していたが、曹攄は〔民衆を〕いたわり、〔政治を〕立て直したところ、旬月1たぶん「十日から一か月ぐらいのわずかな日数」(『漢辞海』)。ほどで回復した。
 永嘉二年、高密王簡が襄陽に出鎮すると、曹攄を征南将軍府の司馬とした。その年、流人の王逌らが群衆を集めて冠軍に駐留し、城邑(都市や郷村)を掠奪した。高密王は参軍の崔曠を派遣してこれを討伐させ、曹攄に崔曠を監督させた。崔曠は邪悪な人間で、曹攄を騙して前方で戦うよう説き、〔自分は〕後詰めになると約束したが、そのまま来ることはなかった。曹攄は単独で王逌と酈県で戦ったが、曹攄軍は敗北し、曹攄は戦死した。故吏や百姓が〔他郷から〕そろって葬儀に参集し、号泣しながら道路を進んでいったが、まるで父母の葬儀に参じるかのようであった。

潘京

 潘京は字を世長といい、武陵の漢寿の人である。弱冠のとき、郡が主簿に辟召したが、武陵太守の趙廞は潘京を高く評価した。あるとき、「貴郡(きみの郡)はどうして武陵と名づけられたのだろうか」と〔趙廞が〕質問したところ、潘京は言った、「鄙郡(それがしの郡)はもともと義陵という名前で、〔郡治は〕辰陽県の隣りにありましたが、〔その地は〕蛮夷と隣接していて、しばしば攻撃を受けていました。そこで光武帝のときに〔郡治を〕移して東(臨沅県)へ動かしたところ、ようやく安全を確保し、協議して名称を変更することになりました。伝に『戈(ほこ)を止めると書いて武の字になる』(『左伝』宣公十二年)とあり、『詩』に『高い平地を陵という』とあり2原文「詩称高平曰陵」。『毛詩』小雅、天保「如山如阜、如岡如陵」の毛伝に「言広厚也。高平曰陸、大陵曰阜、大阜曰陵」とあるのが出典か。、これらに拠って〔武陵と〕名づけられたのです」。州に辟召され、〔刺史に〕謁見したさいに問題を出された。〔潘京が回答を出す順番になると、刺史はその回答に〕「不孝」の文字列を見つけたので3原文「因謁見問策、探得不孝字」。訳文のように「問策」は筆記試験の類いの意で解したが、しっくりこない。『芸文類聚』巻五、社に引く「武陵先賢伝」に「潘京為州辟、進謁、値社会、因得見、次及、探得不孝。刺史問曰、『辟士為不孝耶』。京挙板答曰、『今為忠臣、不得復為孝子』。其機辯如此」とあり、社のお祭り(?)のさなかの謁見だったようなので、設問は設問でも、試験というほど真面目なものではなく、また列席者が各自が札を掲げて回答を提示するという感じだったのかもしれない。、刺史は潘京に冗談を飛ばし、「辟召した士人は不孝者だったのか」と言うと、潘京は札(ふだ)を掲げて「いまは忠臣ですので、もう孝行息子になることはないのです」と答えた4主君への忠義と父母への孝行はどちらが重要か、という論争を念頭においた言い回し。。潘京の機知に富んだ言葉はすべてこのようなものであった。のち、太廟が建立されたさい、州郡はみな使者を〔中央に〕派遣して祝賀したが、潘京は太守(武陵太守?)に言った、「そもそも、太廟が建立されたら、神主(位牌)を移し入れるものです。問訊(慰労のあいさつ)が適切であり、祝賀は適当ではありません」。そこでついに潘京に〔あいさつの〕文章を書かせて京師へ行かせ、これが恒久的な規範になった5原文「以為永式」。太廟はそれほど頻繁に建設されるものではないはずなので、何が「永式」になったのかよくわからないが、文脈からして、「太廟が建ったときに送る使者は問訊の使者であること」が「永式」になったのだと記しているのであろう。
 こうして潘京は〔州から〕秀才に挙げられ、洛陽に上京した。尚書令の楽広は潘京と出身の州が同じ(ともに荊州)だったので、連日にわたって言論を交わした。〔楽広は〕潘京の才能に深く感嘆し、潘京に言った、「君がもつ天賦の才能は常人の及ぶところではないが、学問を修めていないのが残念だ。もし修めれば、きっと一世一代の言論の達人になるだろう」。潘京はその言葉に心を動かされ、とうとう学問に励んで倦むことがなかった。当時、武陵太守の戴昌も言論が得意であった。潘京と議論を交わしたさい、潘京はわざと手加減して戴昌を厳しく問い詰めなかったのだが、戴昌は〔潘京が〕自分には勝てないのだと思い込み、得意になって〔議論を閉じ、〕潘京を帰宅させた。〔その後、〕子の戴若思に潘京を訪問させたところ、潘京はそこでようやく自身の言論を本気で振るった。戴昌は議論の様子をこっそりと聴いていたが、感服して言った、「才能を偽って隠すことはできないのだな」。とうとう父子ともども潘京に屈したのだった。巴丘、邵陵、泉陵の三県の令を歴任した。潘京は政治の方法に明るく、〔県を治めると〕道に落ちている物を拾う者はいなくなった。桂林太守に移ったが、就任せず、家に帰った。五十歳で卒した。

范晷

 范晷は字を彦長といい、南陽の順陽の人である。若いときに清河に遊学し、そのまま家を移して〔清河に〕寓居した。清河郡が五官掾に任命し、河内郡丞を歴任した。河内太守の裴楷は范晷のことをよく理解していたので、侍御史に推薦した。選抜されて上谷太守に任じられたが、喪に遭ったので就任しなかった。のち、司徒左長史になり、馮翊太守に転じ、政治におおいに有能で、よく〔民衆を〕いたわったので、百姓は范晷のことを慕った。〔中央に〕召されて少府に任じられ、〔地方に〕出て涼州刺史となり、雍州刺史に転じた。その当時、西方は荒廃し、氐や羌が土地を荒らしまわったので、農業は収穫を逃してしまい、百姓は困窮していた。范晷は教化に腐心し、農業を奨励したため、部下は范晷のことをとても頼りに思った。元康年間、左将軍を加えられた。在官中に卒した。范広と范稚の二人の子がいた。
 范広は字を仲将という。孝廉に挙げられ、霊寿令に任じられたが、赴任しなかった。姉は孫氏に嫁いだが、若くして亡くなっていた。〔その孫氏の〕孫に邁という名前の子供がいたが、〔西晋の末年に〕范広は〔その孫を〕背負って南へ逃げた。盗賊の乱暴が差し迫っていても、ついにその孫を見棄てることはなかった。元帝が承制すると、堂邑令とした。堂邑県の丞の劉栄は事件で罪に問われ、死罪に相当したが、郡が審理して判決を下すと、県に送付した。劉栄は堂邑県の出身で、家には老いた母親がおり、〔劉栄本人は〕とても節操のある人間だった。そこで范広は独断でしばらくのあいだ家に戻ることを許し、劉栄も約束どおりに戻ってきた。県の庁舎に野火が迫ったとき、劉栄はかせを外して消火にあたり、事態が落着すると、戻ってみずからかせをはめた。のち、大旱魃にみまわれたさい、米が高騰したため、范広は私財の穀物を配布して困窮している人々を救い、〔その量は〕数千斛にも及んだ。遠近の流人が范広のもとに身を寄せ、〔堂邑県の〕戸口は十倍になった。在官中に卒した。
 范稚は若くして名声をあげ、大将軍の掾に辟召されたが、早世した。子の范汪は別に列伝がある。

丁紹

 丁紹は字を叔倫といい、譙国の人である。若くしておおらかで、公正であり、若年にして清官を歴任した。広平太守になると、治政は公平で、裁判が公正に裁かれたため、教化がおおいに広まった。当時、河北は混乱し、被害をうけていない郷邑はなかったが、広平郡内は平穏であったため、〔郡の〕人々はみな丁紹の法に喜び、彼の命令に従った。〔成都王穎の残党である公師藩らによって〕臨漳が包囲を受け、南陽王模が苦境に陥ると、丁紹は郡兵を率いて駆けつけたので、南陽王はそのおかげで無事を得た。南陽王は丁紹の恩義に感動し、〔丁紹の〕生前に石碑を建立した。徐州刺史に移ると、〔広平郡の〕士庶は名残り惜しみ、車にすがりついて家に帰るかのようについていこうとした。就任する前に、さらに荊州刺史に転じた。従車は千乗あり、南に進んで黄河を渡り、許に着いた。このころ、南陽王は都督であったが6『資治通鑑』によると、南陽王は永興元年十二月に鄴へ出鎮し、光煕元年八月に移って許昌へ出鎮している。『資治通鑑』は丁紹に寧北将軍などが加えられたのを永嘉元年九月にかけているので、司馬光の整理に従えば本文のこのときの南陽王は許昌に出鎮していたことになろう。、丁紹を〔河北に〕留めたく思い、〔天子に〕啓して冀州刺史に転じさせるよう提案した。〔聴き入れられ、丁紹が冀州刺史の〕鎮(たぶん鄴)に到着すると、州兵を率いて汲桑を討伐し、功績をあげた。寧北将軍、仮節、監冀州諸軍事を加えられた。当時、冀州の境内では羯賊が混乱を起こしていたので、丁紹は羯を捕えて誅殺し、命令は厳粛であった。河北の人々は畏怖すると同時に丁紹を慕った。
 丁紹は、自身の才覚はひとかどの英傑にふさわしいと自認しており、官に就いて政治に臨めば、どんな事業でも成功を収めていたので、天下の事業であっても、物を手に運ぶかのようにたやすくできるはずだと思うようになり、とうとう意気を高め、四海を正そうとする志を抱くようになった。このころ、王浚が幽州で勢力を強め、苟晞が青州で威勢を高めていたが、丁紹は二人を軽視していた。永嘉三年、急病により卒した。臨終のさい、嘆いて言った、「これは天が冀州を滅ぼそうとしているのだ。わが天命であるものか7原文「此乃天亡冀州、豈吾命哉」。「吾命」は「寿命」といったほうがいいかもしれない。本来ならば自分はこのまま生きながらえて英雄になる命運だが、天は冀州を滅ぼすつもりであるため、ここで寿命を迎える定めではない自分に死を下しているのだ、という口惜しみを表現しているものと思われる。」。懐帝は策書を下し、車騎将軍を追贈した。

序/魯芝・胡威・杜軫・竇允・王宏/曹攄・潘京・范晷・丁紹/喬智明・鄧攸・呉隠之

(2021/4/15:公開)

  • 1
    たぶん「十日から一か月ぐらいのわずかな日数」(『漢辞海』)。
  • 2
    原文「詩称高平曰陵」。『毛詩』小雅、天保「如山如阜、如岡如陵」の毛伝に「言広厚也。高平曰陸、大陵曰阜、大阜曰陵」とあるのが出典か。
  • 3
    原文「因謁見問策、探得不孝字」。訳文のように「問策」は筆記試験の類いの意で解したが、しっくりこない。『芸文類聚』巻五、社に引く「武陵先賢伝」に「潘京為州辟、進謁、値社会、因得見、次及、探得不孝。刺史問曰、『辟士為不孝耶』。京挙板答曰、『今為忠臣、不得復為孝子』。其機辯如此」とあり、社のお祭り(?)のさなかの謁見だったようなので、設問は設問でも、試験というほど真面目なものではなく、また列席者が各自が札を掲げて回答を提示するという感じだったのかもしれない。
  • 4
    主君への忠義と父母への孝行はどちらが重要か、という論争を念頭においた言い回し。
  • 5
    原文「以為永式」。太廟はそれほど頻繁に建設されるものではないはずなので、何が「永式」になったのかよくわからないが、文脈からして、「太廟が建ったときに送る使者は問訊の使者であること」が「永式」になったのだと記しているのであろう。
  • 6
    『資治通鑑』によると、南陽王は永興元年十二月に鄴へ出鎮し、光煕元年八月に移って許昌へ出鎮している。『資治通鑑』は丁紹に寧北将軍などが加えられたのを永嘉元年九月にかけているので、司馬光の整理に従えば本文のこのときの南陽王は許昌に出鎮していたことになろう。
  • 7
    原文「此乃天亡冀州、豈吾命哉」。「吾命」は「寿命」といったほうがいいかもしれない。本来ならば自分はこのまま生きながらえて英雄になる命運だが、天は冀州を滅ぼすつもりであるため、ここで寿命を迎える定めではない自分に死を下しているのだ、という口惜しみを表現しているものと思われる。
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