巻一百四 載記第四 石勒上(1)

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石勒(1)石勒(2)石勒(3)石勒(4)石勒(5)附:石弘・張賓

 石勒は字を世龍といい、初名(もともとの名前)は㔨といい、上党の武郷の羯1『魏書』羯胡石勒伝に「其先匈奴別部、分散居於上党武郷羯室、因号羯胡」とあり、これによれば、羯室という場所で生活していた匈奴系統の胡人のことを羯と通称するようになったそうである。である。先祖は匈奴の別部の羌渠2後漢末の南匈奴の単于の名でもあるが、それを指すのかは不明。ちなみに南単于としての羌渠は於夫羅の父である。の子孫である。祖父は耶奕于、父は周曷朱で、別名を乞翼加といい、どちらも部落の小率であった。石勒が生まれたとき、赤い光が室内に満ち、白い気が天から中庭に集まって注がれたため、目撃した者はみなこれを異様なこととした。十四歳のとき、邑人に随行して洛陽へ商売に出かけ、上東門によりかかってうそぶいていたところ、王衍が見かけて異才と思い、振り返って左右の者に言った、「さっきの胡の子どもだが、声と眼光を観察するに、異志を抱いている。おそらく天下の憂患になるであろう」。人を馬に乗らせてつかわし、捕まえさせようとしたが、ちょうど石勒はすでに立ち去っていた。成長すると、壮健で度胸があり、武勇に優れ、騎射を得意としたを好んだ(2022/4/23:修正)。周曷朱は凶暴な性格であったため、群胡から慕われていなかった。〔周曷朱は〕いつも自分の代わりに石勒に〔部人を〕監督させていたが、すると部落の胡は石勒を慕い、信頼した。石勒が住んでいた武郷の北の原野にある山は、ふもとの草木がことごとく鉄騎の形をしていた3原文「所居武郷北原山下草木皆有鉄騎之象」。自信はないが、石勒は山に住んでいたというふうに読んだ。また「山下」は「山上」の誤りの可能性があるらしい。中華書局の校勘記を参照。なお『太平御覧』巻五一、石上に引く「又〔王隠晋書〕石勒伝」には「初、勒郷里所居原上、地中石生、日長、類鉄之象」と、少し似た逸話が残されている。。〔また〕家の菜園から人参が生えると、花と葉がおおいに茂り、すべて人の形になった。父老と相者はそろって言った、「この胡の容貌は特異で、精神と度量も非常だ。終生、推し測ることはできまい」。〔そして〕邑人に石勒を厚遇することを勧めた。そのとき、多くの人はあざ笑ったが、鄔の郭敬と陽曲の甯駆だけはそのとおりだと思い、二人とも石勒を経済的に援助した。石勒もその恩に感動し、彼らの土地を耕作した4『太平御覧』巻五〇〇、奴婢に引く「石虎鄴中記」に「石勒字世龍、上党郭季子奴也」とあり、ずっと後の本文で判明するが、郭季子とは郭敬のことである。『北堂書鈔』巻九六、讖「勒都襄国」に引く「異苑」には「石勒為郭敬客時……」とある。このあとの師懽の話でも、おそらく実際は気味悪がられて師懽のもとを追放されているのだが、そのことはマイルドな表現に置き換えられている(もちろん、「マイルド」と言うのは、実際はもっと冷たく扱われたであろうということである)。「鄴中記」の記述が妥当であるかはわからないにせよ、石勒の前半生はいろいろと婉曲な表現で置換されている気配があり、あまり穿ちすぎてもよくないが、素直に受け取るのも控えたほうがよさそうである。。〔耕作中、〕いつも太鼓と鐸の音が聞こえるので、帰宅してから母に話してみると、母は「労働していて耳鳴りがあるのは、凶兆ではないね」と言った。
 太安年間、并州は飢饉であり、かつ混乱していて、石勒は小胡ら(胡の子ども?)とともに〔雁門へ〕逃げ、ついで雁門から〔南へ〕戻って、〔太原の〕甯駆に頼った。北沢都尉の劉監は石勒を捕縛して売ろうと思ったが、甯駆が石勒を隠し、逃れることができた。石勒はこうして、納降都尉の李川のもとへひそかに参ろうとした(出頭しようとした)が、道中で郭敬に遭遇し、泣いて拝礼し、飢えと寒さを訴えた。郭敬は石勒を面前にして涙を流し、所持金で食べ物を買って食べさせてやり、あわせて衣服をあげた。石勒は郭敬に言った、「いま、〔并州は〕大飢饉で、質素な生活を維持することは不可能です5原文「不可守窮」。やや自信はないが、「守窮」はおそらく「貧乏な生活に甘んじること」だと思われる。それを「不可」というのは、「金儲けしましょう」ということであろう。。諸胡の飢えはとりわけひどいので、冀州に行って食物にありつこうと〔胡を〕誘い、そうして〔集まった〕彼らを捕縛し、売るのがよいと考えています。そうすれば、両方(諸胡と石勒&郭敬?)とも救えますから」。郭敬はまことにもっともだと賛同した。ちょうどそのころ、建威将軍の閻粹は并州刺史の東嬴公騰に、諸胡を捕え、山東で売り、軍の物資を満たすように説得したので、東嬴公は将軍の郭陽と張隆に諸胡を捕えさせると、冀州〔刺史?〕へ行かせた。二人の胡で一つの首かせであった。当時、石勒は二十余歳であったが、その中におり、しばしば張隆に殴られたり、辱められたりした。郭敬はこれより以前に、石勒のことを郭陽と兄の子の郭時にたくしていた。郭陽は郭敬の族兄だったのである。このため、郭陽と郭時はつねに石勒のために解放を求めた〔が、かなわなかった?〕6原文「為解請」。「解放を請う」と読むのは抵抗があるが、それ以外に案もない。。〔石勒が〕道中で飢えたり病気になったりすると、郭陽と郭時に頼ることで救われた。まもなく、〔冀州平原の〕茌平の師懽に売られ、奴となった。〔あるとき、〕一人の老父がおり、石勒にこう言った、「君の魚龍(=鱗?)のような髪だが7よくわからないが、ともかく髷を結えるような長髪でもなく、辮髪でもないのであろう。パンチパーマみたいなやつじゃね?、その生え際の上に四つの道ができかけている8髪の分け目が四か所ある、ということだろう。うるさくてごめんなさい。。高貴になって人主となるにちがいない。甲戌の歳(愍帝の建興二年に相当)に、王彭祖(王浚)を滅ぼすことができよう」。石勒、「もし公の言葉どおりであれば、決して公の徳を忘れません」。〔そう言うと老父は〕忽然と姿を消した。毎日原野で耕作していたが、いつも太鼓とつのぶえの音が聞こえていた。石勒はそのことをほかの奴たちに話すと、彼らもこの音を聞くようになった。そこで石勒は言った、「私は幼少以来、〔郷里の〕家にいたときから、いつもこのような音を聞いていたのだ」。奴たちが帰って、このことを師懽に話すと、師懽も石勒の容貌を奇異に思ったので、石勒を解放した。
 師懽の家は馬牧9中華書局は固有名詞と指示するが、王朝管理下の馬牧場の意では?の隣りで、牧率である魏郡の汲桑とは往来があった。石勒は馬の鑑定ができることをもって、みずから汲桑のもとへ身を寄せた。あるとき、武安の臨水で雇われて働いていたところ、遊軍に捕まってしまった。すると、ちょうど鹿の群れがそのそばを通り過ぎていったので、軍人らは競って鹿を追いかけ、そうして石勒は逃げることができた。にわかにあのときの老父がふたたび現れ、石勒に言った、「さっきの鹿の群れは私だ。君は中州(中原)の主君となるべき者だから、助けたまでだ」。石勒は拝してその命を受け入れた。そうしてついに、王陽、夔安、支雄、冀保、呉豫、劉膺、桃豹、逯明ら八騎を呼び集め、群盗となった。のち、郭敖、劉徴、劉宝、張曀僕、呼延莫、郭黒略、張越、孔豚、趙鹿、支屈六らもくわわり、十八騎と号した。また東の赤龍や騄驥(牧苑の名前)などの諸苑へ行き、〔盗んで〕苑馬に乗り、遠方まで出向いて絹織物や財宝を強奪し、それらを汲桑に差し出した。
 成都王穎が天子(恵帝)を蕩陰で破ると、恵帝を鄴へ連行した。王浚は成都王が天子を陵辱したとして、鮮卑に成都王を攻撃させた。成都王は恐れて、恵帝を連れて南へ逃げ、洛陽へ向かった。恵帝は〔洛陽に到着後、〕今度は張方に脅され、長安へ移動した。関東のあちこちで挙兵があり、みな成都王誅殺を名分に掲げていた。河間王顒は関東の軍が盛大であるのを恐れ、東夏(東中国)を落ち着かせようと思って、成都王を〔太弟から〕廃する議を奏した。この年、劉元海は漢王を黎亭で称した。成都王の故将である陽平の公師藩らは将軍を自称し、趙魏の地で挙兵し、その衆は数万にのぼった。石勒は汲桑とともに、苑馬に乗った牧人数百騎を率いて公師藩にくわわった。汲桑はここではじめて石勒に命じ、石を姓とし、勒を名とさせた。公師藩は石勒を前隊督に任じ、〔石勒は〕従軍して平昌公模を鄴で攻めた。平昌公は将軍の馮嵩に迎撃させると、これ(公師藩)を破った。公師藩は白馬から南に渡河したが、濮陽太守の苟晞が公師藩を討伐し、これを斬った。石勒は汲桑と苑中に逃げ隠れた。汲桑は石勒を伏夜牙門とし、〔石勒に〕牧人を率いて郡県の囚人を拉致させ、また山沢に亡命した者を集めさせると、多くの者が石勒に帰心した。石勒は彼らを率いてこれ(成都王を河北に迎える動き)に呼応した。汲桑はそこで大将軍を自称し、成都王のために東海王越と東嬴公騰を誅殺することを名分に掲げた。汲桑は石勒を前駆とすると、しばしば戦功を挙げたので、掃虜将軍、忠明亭侯に任命した。汲桑は進軍して鄴を攻め、石勒を前鋒都督とすると、東嬴公の将の馮嵩をおおいに破り、そのまま長駆して鄴に入り、とうとう東嬴公を殺し、一万余人を殺し、婦女や珍宝を掠奪して去った。延津から渡河し、南に進んで兗州を攻めたので、東海王はおおいに恐れ、苟晞、王讃らにこれを討伐させた。
 汲桑と石勒は幽州刺史の石尟を楽陵で攻めると、石尟は戦死した。乞活の田禋は衆五万を率いて石尟を救援しようとしたが、石勒が迎撃し、田禋を破った。〔石勒は〕平原と陽平のあいだで苟晞らと数か月対峙し、大小あわせて三十余たび戦ったが、勝敗は五分であった。東海王越は恐れて、官渡に駐屯し、苟晞の声援(遠方支援)をなした。汲桑と石勒は苟晞に敗れ、死者は一万余人であった。そこで生き残った兵を集めると、劉元海のもとへ敗走しようとしたが、冀州刺史の丁紹が赤橋でこれを迎え撃ち、ふたたびこれ(汲桑と石勒)をおおいに破った。汲桑は馬牧へ敗走し、石勒は楽平へ敗走した。王師(晋軍)は汲桑を平原で斬った。
 このころ、胡部大の張㔨督、馮莫突らは衆数千を擁し、上党に塢壁を築いていたが、石勒はここを訪れて彼らに従い、おおいに親しまれた。そこで張㔨督に説いて言った、「劉単于(劉淵)は挙兵して晋を討伐しようとしていますが、部大は〔単于を〕拒んで従っていません。独立を保てるとお思いですか」。張㔨督、「できないな」。石勒、「もしできないのであれば、軍隊は〔ほかに〕帰属先がなければなりません10原文「如其不能者、兵馬当有所属」。後文の「兵馬」以降がよくわからない。「滅ぼされる運命にあるならば、配下の衆は別の帰属先を探しているにちがいない」ということだろうか。。いま、部落の者たちはみな、すでに単于の賞募(懸賞つきの募集)を受けており、しょっちゅう集合し、部大にそむいて単于に帰順しようと議論しています。早急に対策を立てるべきです」。張㔨督らはもともと智略がなく、部衆が裏切るのを憂慮したので、そこでひそかに石勒に随行し、〔部衆を伴わずに〕単騎で劉元海に帰順した。劉元海は張㔨督を親漢王に任命し、馮莫突を都督部大に任命し、石勒を輔漢将軍、平晋王とし、張㔨督らを統率させた。石勒はこうして、張㔨督に命じて〔石勒の〕兄とし、石氏の姓を賜い、会という名を与えた。〔会とは〕自分(石勒)に遇ったという意味である。
 烏丸の張伏利度も衆二千を擁し、楽平に塢壁を築いていたが、劉元海がしばしば招致したものの、来させることはできなかった。石勒は偽って劉元海に対して罪を得ると、張伏利度のもとへ逃げた。張伏利度はおおいに喜び、兄弟の関係を結び、石勒に諸胡を統率させると、寇掠(侵略と掠奪)させた。向かうところ、前にふさがる者はなかったので、諸胡は畏服した。石勒は部衆が自分に心服しているのを悟るや、会合の機会を利用して張伏利度を捕え、諸胡に告げた、「いま、大事を起こすとして、私と張伏利度ではどちらが主人にふさわしいと思うか」。諸胡はみな石勒を推した。石勒はそこで張伏利度を解放し、その部衆を率いて劉元海に帰した。劉元海は石勒に督山東征討諸軍事をくわえ、張伏利度の部衆を石勒に配した。
 劉元海が劉聡に壺関を攻めさせると、石勒に命じ、指揮下の七千を統率させ、前鋒都督とした。劉琨は護軍の黄秀らを派遣して壺関を救援させたが、石勒は黄秀を白田で破り、黄秀は戦死し、石勒はとうとう壺関を落とした。劉元海は石勒に命じ、劉零、閻羆ら七将とともに兵三万を統率させ、魏郡と頓丘の塁壁を侵略させ、多くこれを落とした。〔石勒は〕塁主将軍、都尉を授けられ、〔落とした塁壁のなかから〕強壮の者を五万人選抜して軍士とした。〔塁壁の〕老弱の者は以前のとおりに安堵して暮らし、兵士にかってな掠奪がなかったので、百姓は石勒に帰心した。
 劉元海が僭越して帝号を称すると、使者をつかわし、石勒に持節、平東大将軍を授け、校尉(都尉?)、都督(督山東征討諸軍事)、王(平晋王)はもとのとおりとした。石勒は軍をひとつにまとめて鄴に侵略したが、鄴の軍は潰走し、和郁は衛国へ逃げた。魏郡太守の王粹を〔鄴の〕三台11鄴の西北にあった三つの台のこと。銅雀台、金虎台、氷井台。『初学記』巻八、河北道、事対の「三台 九殿」に引く「陸翽鄴中記」に「魏武於鄴城西北立三台。中台名銅雀台、南名金獣台、北名水井台」とある。(2020/8/14:注追加)で捕えた。進軍して趙郡を攻め、冀州西部都尉の馮沖を殺した。乞活の赦亭と田禋を中丘で攻め、ともに殺した。劉元海は石勒に安東大将軍、開府を授け、左右長史、司馬、従事中郎を置いた。進軍して鉅鹿と常山を攻め、二郡の守将を殺した。冀州の郡県の塢壁百余を落とし、〔降った〕衆は十余万にのぼり、そのなかから衣冠の人物(中国の士人)を集めて君子営をつくった。そして張賓を抜擢して謀主とし、はじめて軍功曹に任命した。刁膺と張敬を股肱とし、夔安と孔萇を爪牙とし、支雄、呼延莫、王陽、桃豹、逯明、呉豫らを将率とした。将の張斯に騎兵を統率させ、并州の〔太行?〕山北の諸郡県に行かせ、胡や羯に説かせて、安危のゆえんを諭させた。諸胡は石勒の威名を恐れたので、服従する者が多かった。軍を常山に進め、諸将を分けて派遣し、中山、博陵、高陽の諸県を攻めさせ、降服した者は数万人であった。
 王浚は将の祁弘に鮮卑の段務塵ら十余万騎を統率させて石勒を討伐させ、石勒を飛龍山でおおいに破り、死者は一万余人であった。石勒は退却して黎陽に駐屯し、諸将を分けて命令を与え、まだ降服していない者とそむいている者を攻めさせ、三十余の塢壁を降し、守宰(郡県の長官)を置いて慰撫させた。進軍して信都を侵略し、冀州刺史の王斌を殺した。ここにおいて、車騎将軍の王堪と北中郎将の裴憲が洛陽から軍を率いて石勒を討伐した。石勒は軍営と食糧を焼き、軍の向きを変えてこれを防ごうとし、黄牛塁に駐屯した。魏郡太守の劉矩は郡をもって石勒に帰順したので、石勒は劉矩に彼の軍塁の衆を統率させ、中軍の左翼とした。石勒が黎陽に到着すると、裴憲は軍を棄てて淮南へ逃げ、王堪は退却して倉垣を守った。劉元海は石勒に鎮東大将軍を授け、汲郡公に封じ、持節、都督、王はもとのとおりとした12王と公の二つの位を有していることになる。汲郡公は封建の位であるが、平晋王はたんなる称号的なもので封建ではなさそうなので両立するのであろうか。。石勒は公を固く辞退して受けなかった。〔石勒は〕閻羆と䐗圏、苑市の二塁を攻め、これを落としたが、閻羆は流矢に当たって死んだので、石勒はその兵を併合して統率した。〔石勒は〕ひそかに石橋から黄河を渡り、白馬を攻め落とし、男女三千余口を穴埋めにした。東に進んで鄄城を襲撃し、兗州刺史の袁孚を殺した。そして倉垣を攻め、これを落とし、とうとう王堪を殺した。黄河を〔北に〕渡って、広宗、清河、平原、陽平の諸県を攻めると、石勒に降る者は九万余口であった。ふたたび黄河を南に渡ると、滎陽太守の裴純は建業(司馬睿)へ逃げた。
 このころ、劉聡が河内を攻めたので、石勒は騎兵を率いてこれに合流し、冠軍将軍の梁巨を武徳で攻めると、懐帝は兵を派遣して梁巨を救おうとした。石勒は諸将を留めて武徳を守らせ、〔みずからは〕王桑とともに梁巨を長陵で迎撃した。梁巨は降服を願い出たが、石勒は許さなかったため、梁巨は城壁を乗り越えて遁走したものの、軍人がこれを捕えた。石勒は馬を走らせて武徳へ行き、降服した兵一万余人を穴埋めにし、梁巨の罪状を数え上げて責め、これを殺した13この一連の戦闘経過には違和感が残る。梁巨は武徳にこもっていたはずで、石勒は梁巨の応援軍の迎撃に当たったはずである。『太平御覧』巻三八六、健に引く「又〔崔鴻十六国春秋〕後趙録」に「張珎字巨秦、汲郡人。晋永嘉中、与梁臣戍武徳城、石勒攻之、城潰。弥随例当坑、大呼曰、『官当活健児、何以殺也』。曰、『有何捷事而求活也』。弥曰、『武徳西城上、大声督、時警備厳設、使賊不入、正是張弥』。勒笑曰、『降児能爾、正自奇健』。乃赦之」とあり、やはり梁巨は武徳に留まったままであるように思われる。懐帝紀、永嘉四年に「秋七月、劉聡、従弟曜及其将石勒囲懐、詔征虜将軍宋抽救之、為曜所敗、抽死之」とあり、『資治通鑑』は「漢楚王聡、始安王曜、石勒及安北大将軍趙国囲河内太守裴整于懐、詔征虜将軍宋抽救懐。勒与平北大将軍王桑逆撃抽、殺之。河内人執整以降」とある。おそらく長陵で宋抽を迎撃し、宋抽の降服は許さずに殺し、その後に武徳へ戻った、という経過ではないか。。王師(晋軍)は退却して帰還したので、河北の塢壁はおおいに震撼し、みな降服を願い出て質任を石勒に送った。
 劉元海が死ぬと、劉聡は石勒に征東大将軍、并州刺史を授け、汲郡公、持節、開府、都督、校尉、王はもとのとおりとした。石勒は将軍を固く辞退したので、沙汰止みになった。
 劉粲が軍四万を率いて洛陽を侵略すると、石勒は輜重を重門(河内郡の地名)に留め、騎兵二万を率いて劉粲と大陽で合流し、王師を澠池でおおいに破り、そのまま洛川にいたった。劉粲は轘轅へ出撃し、石勒は成皋関へ出撃し、〔石勒は〕陳留太守の王讚を倉垣で包囲したが、王讚に敗れ、退却して文石津に駐屯した。北に進んで王浚を攻めようとしたが、ちょうど王浚の将の王甲始が遼西の鮮卑一万余騎を率いて趙固を文石津の北で破ったため、石勒は船を焼いて軍営を放棄し、軍を引き上げて柏門へ向かい、〔ついで黄河を北に渡って?〕重門の輜重を迎え、〔進んで〕石門(たぶん黄河と汴渠の合流地点)に到達し、〔そこから〕黄河を〔南に〕渡り、襄城太守の崔曠を繁昌で攻め、これを殺した。
 これより以前、雍州の流人の王如、侯脱、厳嶷らが長江と淮水のあいだの地で挙兵していた14王如伝によると彼らは宛の周辺で暴れているので、「江淮間」と記されるのはやや違和感。なお『魏書』羯胡石勒伝に「先是、雍州流人王如、侯脱、厳嶷等、起兵江淮間、受劉淵官位」とあり、劉淵に称藩していたらしい。。石勒が〔近辺に〕来たことを聞くと、恐れて、軍一万を派遣して襄城に駐屯させ、防がせたが、石勒は攻めてこれを破り、その兵をことごとく捕虜にした。石勒は南陽にいたると、宛の北の山に駐屯した。王如は石勒が襄(意味不明。王如伝は「己」に作る)を攻めるのを恐れ、使者をつかわして珍宝と車馬を送り、石勒軍を酒食で慰労し、兄弟の関係を結ぶことを願うと、石勒はこれを受け入れた。王如と侯脱は不仲であったので、〔王如は〕石勒に、侯脱を攻めるよう説得した。石勒は夜、夜明け前に三軍に乗馬させ、早朝に宛の城門に迫って宛を攻め、旬日と二日で落とした。厳嶷は軍を率いて侯脱を救おうとしたが、到着したときには手遅れであったため、そのまま石勒に降った。石勒は侯脱を斬り、厳嶷を捕縛して平陽に送り、その兵をことごとく併合したので、軍の勢力はますます盛んになった。
 石勒は南進して襄陽を侵略し、江西の塢壁三十余所を攻め落とし、刁膺を襄陽に留めて守らせ、みずからは精鋭騎兵三万を率い、戻って王如を攻めた。〔しかし〕王如軍の士気が高いことを嫌ったので、とうとう襄城へ進んだ。王如はこのこと(石勒が避けて襄城に行ったこと)を知ると、弟の王璃を派遣し、騎兵二万五千を統率させ、石勒の軍を慰労すると偽って話させたものの、実際は石勒を襲撃させるつもりであった。石勒は〔それを察知し〕迎撃してこれを滅ぼし、ふたたび江西に駐屯した。長江と漢水の地(荊州北部)に割拠する志をもとうとしたからである。張賓はそれを不可とし、石勒に北に戻るよう勧めたが、聴き入れなかった。張賓を参軍都尉、領記室とし、位は司馬の次とし、もっぱら幕中におらせ、事務を総括させた。
 元帝は、石勒が南進して侵略してくるのを不安に思い、王導に軍を統率させて石勒を討伐させた。石勒は、食糧輸送がつづかず、死者と病人が多数出たため、張賓の策を採用し、輜重を焼き、食糧を袋に包み、軽装で行軍し、沔水を渡って江夏を侵略すると、江夏太守の楊岠は郡を棄てて逃げた。北に進んで新蔡を侵略し、新蔡王確を南頓で殺し、朗陵公の何襲、広陵公の陳眕、上党太守の羊綜、広平太守の邵肇らは軍を率いて石勒に降った。石勒は進軍して許昌を落とし、平東将軍の王康を殺した。
 これより以前、東海王越は洛陽の軍二十余万を統率して石勒を討伐したが、東海王は軍中で薨じてしまったため、人々は太尉の王衍を首領に推戴した。〔王衍は〕軍を率いて東に下ったが、石勒は軽騎兵で追撃し、これに追いついた。王衍は将軍の銭端を派遣して石勒と戦わせたが、石勒に敗れ、銭端は戦死し、王衍の軍はおおいに潰走した。石勒は騎兵を分けて王衍軍を包囲させ、これを射撃させると、死者が山のように重なり、一人として生き延びた者はいなかった。こうして、王衍、襄陽王範、任城王済、西河王喜、梁王禧、斉王超、吏部尚書の劉望、豫州刺史の劉喬、太傅長史の庾敱らを捕え、幕下に座らせ、晋の罪を問うた。王衍や任城王らは死ぬのを恐れたので、多くの者はみずから陳述して説明したが、襄陽王だけは顔つきが整然とし、心はふだんと変わらない様子であり、王衍らに目を向けると叱り飛ばし、「今日のことに、なぜやかましく騒いでいるのだ」と言った。石勒は襄陽王を奇異とした。石勒はこうして、王公卿士らを外に引き出して殺し、死者はひじょうに多かった。石勒は王衍の清談を重んじ、襄陽王の精神を奇異としていたので、二人に兵刃をくわえられなかった。〔そこで〕夜、人に牆を押し倒させ、圧殺させた。左衛将軍の何倫と右衛将軍の李惲は東海王が薨じたことを知ると、東海王妃の裴氏と世子の毗を奉じて洛陽から脱出した。石勒は毗を淯倉で迎え撃つと、晋の軍はまたも潰走し、毗と王公卿士らを捕え、すべて殺し、死者はひじょうに多かった。そして精鋭騎兵三万を率い、成皋関から〔河南に〕入った。劉曜と王弥に合流し、洛陽を侵略しようとしたが、〔石勒が着いたときには〕洛陽はすでに陥落していたため、石勒は功績を王弥と劉曜に帰し、そのまま轘轅へ向かい、許昌に駐屯した。劉聡は石勒を征東大将軍に任命したが、石勒は固辞して受けなかった。
 これより以前、平陽の李洪は衆数千を擁し、舞陽に塢壁を築いていたが、苟晞は李洪に雍州刺史を授けた。石勒は進軍して穀陽を侵略すると、冠軍将軍の王茲を殺した。王讃を陽夏で破り、王讃を捕え、従事中郎とした。大将軍の苟晞を蒙城で襲撃し、苟晞を捕え、左司馬に任命した。劉聡は石勒に征東大将軍、幽州牧を授けたが、将軍を固辞して受けなかった。
 これより以前、王弥は劉暾の進言を採用して、まず石勒を誅殺し、それから東に向かい、青州で王者として君臨しようとしたので、劉暾をつかわして王弥の将の曹嶷を斉から徴集した。石勒の遊騎が劉暾を捕え、王弥が曹嶷に送った書簡を得ると、石勒は劉暾を殺し、ひそかに王弥を攻略する計画を立てた。ちょうど王弥の将の徐邈がかってに部衆を率いて王弥のもとを去ったところで、王弥〔の勢力〕はじょじょに衰退していた。石勒が苟晞を捕らえたとき、王弥はこのことを憎く思ったが、偽って言葉を卑屈にし、使者をつかわして石勒に言わせた、「公は苟晞を捕えてこれをお赦しになったとか。なんと神明なことでしょう。苟晞を公の左とし、弥を公の右とすれば、天下は定めるまでもありません」。石勒は張賓に言った、「王弥は位が高いのに言葉は卑屈だ。おそらく、結局は前駆の狗になるつもりなのだろう」。張賓、「王公が青州を保有しようとする心を推察してみますと、〔そもそも〕故郷の地というのは、もともと人の心が喜ぶ土地です。明公(石勒)には并州への郷愁がおありでないのでしょうか。〔それなのに〕王公がぐずぐずしてまだ進発しないのは、明公が背後を追ってくるのを心配しているからであり、すでに明公を攻略する志を抱いていますが、まだ〔実行の〕機会を得ていないにすぎません。いま、王公を攻略しなければ、おそらく曹嶷が戻って来て、共同して〔王公の〕羽翼になるでしょう。あとから悔やんでも遅いのです。徐邈はすでに〔王公のもとを〕去り、〔王公の〕軍勢はじょじょに弱まっていますが、統御下の人心を観察すると、なお旺盛です。王公を誘い出して滅ぼすのがよいでしょう」。石勒はもっともとだと賛同した。石勒はこのとき、陳午と蓬関で交戦しており、王弥も劉瑞と対峙してひじょうに逼迫していた。王弥は救援を石勒に要請したが、石勒はいまだ応じようとしなかった。張賓は進み出て言った、「明公は、王公を滅ぼす機会を得られないのではないかといつも心配されていますが、いま、天がその機会をわれわれに授けているのです。陳午のような豎子が、憂患になるとでもお思いですか。〔それに対して〕王弥は傑物であり、われわれの害になることでしょう」。そこで石勒は軍を転進させて劉瑞を攻め、これを斬った。王弥はおおいに喜び、石勒は心の底から〔自分を〕尊重してあがめているものと思い、まったく疑心をもたなかった。石勒は軍を引き上げて陳午を肥沢で攻めると、陳午の司馬である上党の李頭は石勒を説得して言った、「公は天賦の神武をそなえられ、必ずや四海を平定するでしょう。四海の士庶はみな仰ぎ見て明公に心を寄せ、塗炭の苦しみから救われることを望んでいます。公と天下を争う者がいますのに、公は先にその者を攻略せず、こちらに戻って来てわが同胞の流人を攻めています。わが同胞は〔公と〕同郷ですから、最終的には〔公を〕いただくつもりでいますのに、どうしてにわかに圧迫を受けなければならないのでしょうか」。石勒は心からそのとおりだと思い、早朝に退却した。〔石勒は〕欺いて、王弥に已吾で酒宴を開きたいと要望した。王弥の長史の張嵩は、行ってはならないと王弥を諫め、おそらく専諸や孫峻のような禍が起こるだろうと説いたが、王弥は聴き入れなかった。場に入り、酒もたけなわのころ、石勒はみずから王弥を斬り、その軍を併合し、劉聡に啓して、王弥の叛逆の様子を述べた。劉聡は石勒を鎮東大将軍、督并・幽二州諸軍事、領并州刺史に任命し、持節、征討都督、校尉、開府、幽州牧、公はもとのとおりとした。
 苟晞と王讃が石勒にそむこうと謀ったので、石勒は二人を殺した。将軍の左伏粛を前鋒都尉とした。豫州の諸郡を攻めて掠奪し、長江に達したところで引き返し、葛陂に駐屯し、夷楚15おそらく江北ないし江淮間の非漢族への呼称だと思う。を降した。将軍を二千石以下に任命し、義穀を徴収させて、兵士に供給した。
 そのむかし、石勒が平原で売られたとき、母の王氏とはぐれてしまった。このときになって、劉琨が張儒をつかわし、王氏を石勒に送り届け、石勒に書簡を送った、「将軍は河朔で身を起こし、兗豫を席巻し、江淮で馬に水を飲ませ、漢沔で戦勝をあげました。いにしえ以来の名将といえども、例えに挙げられる者(比肩する者)はいません。〔しかし〕城を攻めても民衆を支配せず、土地を攻略しても土地を領有せず、にわかに雲のごとく集合し、忽然と今度は星のごとく散開するゆえんを、将軍はおわかりでしょうか。存亡はしかるべき主君を得られるかに必ずかかっており、勝敗は従っている人物に必ずかかっているのです。しかるべき主君を得られれば義兵となるし、反逆者に従えば賊衆となります。義兵は敗北したとしても、功業は必ず成功しますが、賊衆は勝利したとしても、最終的には滅亡に帰します。むかし、赤眉や黄巾は宇宙で暴れまわりましたが、またたく間に滅亡した理由は、兵が出動する名分がなく、集合して騒乱を起こした〔にすぎなかった〕からです。将軍が天賦の資質をもって、威勢は宇内を振るわせ、有徳者を抜擢して尊重し、世論に従えば、勲功と道義は雄大なものとなり、とこしえの富貴をいつまでも享受することでしょう16原文「長享遐貴」。正史の用例からみて、「長享」は「長く享受する」と読むのがよさそうである。「遐貴」は他書に用例がないが、「永遠の富貴」くらいで読んでおいた。そうすると「長」と「遐」で意味が重複してしまうようだが、『魏書』に「長享万年」という例もあり、「長」はそこまで生真面目に捉える必要にない字句にも思えるので、あまり気にせず訳出した。。劉聡にそむけば禍はなくなり、しかるべき主君に向かえば幸福がやってくるでしょう。往古の教訓を採用し、心を改めれば、天下は平定するまでもなく、むらがる賊は掃討するまでもありません。いま、将軍に侍中、持節、車騎大将軍、領護匈奴中郎将、襄城郡公を授け、内外の任を統括させ、中華と戎狄の称号を兼任させ、顕彰して大郡に封建し、そうして将軍の格別な才能を表彰します。将軍よ、これらを受け取り、遠近の希望にかなうようになさってください。いにしえ以来、戎人でありながら帝王になったものはまことにおりませんが、名臣として功業を打ち立てた者ならば存在します。〔私の〕この愚昧な考えは、天下がおおいに混乱しているために、武略の才能を必要としているからです。遠方からおうかがいすることには、将軍は攻城でも野戦でも、神に等しい臨機応変ぶりで、兵書を読んでいないのに、はからずも孫子や呉子と一致しているとか。いわゆる『生まれながらにしてこれを知る者は上で、学んでこれを知る者はその次』(『論語』季氏篇)というものでしょう。精鋭騎兵五千さえ得られれば、将軍の才覚であれば、向かうところ破れないものはいないでしょう。〔私の言葉が〕誠意を尽くしたものであり、かつ本当のことでありますのは、すべて張儒が具申するとおりです」。石勒は劉琨に返答した、「功績は、打ち立てる方法が〔おのおので〕異なっているものなのですが、腐儒(無能の学者)にはわからないことでしょう。君は節義を本朝(晋朝)で発揮なさってください。私は夷狄なので、〔晋朝に〕尽力するのはむずかしい」。劉琨に名馬や珍宝を送り、使者を厚くもてなし、辞退して帰らせ、絶交した。

>>つづく

  • 1
    『魏書』羯胡石勒伝に「其先匈奴別部、分散居於上党武郷羯室、因号羯胡」とあり、これによれば、羯室という場所で生活していた匈奴系統の胡人のことを羯と通称するようになったそうである。
  • 2
    後漢末の南匈奴の単于の名でもあるが、それを指すのかは不明。ちなみに南単于としての羌渠は於夫羅の父である。
  • 3
    原文「所居武郷北原山下草木皆有鉄騎之象」。自信はないが、石勒は山に住んでいたというふうに読んだ。また「山下」は「山上」の誤りの可能性があるらしい。中華書局の校勘記を参照。なお『太平御覧』巻五一、石上に引く「又〔王隠晋書〕石勒伝」には「初、勒郷里所居原上、地中石生、日長、類鉄之象」と、少し似た逸話が残されている。
  • 4
    『太平御覧』巻五〇〇、奴婢に引く「石虎鄴中記」に「石勒字世龍、上党郭季子奴也」とあり、ずっと後の本文で判明するが、郭季子とは郭敬のことである。『北堂書鈔』巻九六、讖「勒都襄国」に引く「異苑」には「石勒為郭敬客時……」とある。このあとの師懽の話でも、おそらく実際は気味悪がられて師懽のもとを追放されているのだが、そのことはマイルドな表現に置き換えられている(もちろん、「マイルド」と言うのは、実際はもっと冷たく扱われたであろうということである)。「鄴中記」の記述が妥当であるかはわからないにせよ、石勒の前半生はいろいろと婉曲な表現で置換されている気配があり、あまり穿ちすぎてもよくないが、素直に受け取るのも控えたほうがよさそうである。
  • 5
    原文「不可守窮」。やや自信はないが、「守窮」はおそらく「貧乏な生活に甘んじること」だと思われる。それを「不可」というのは、「金儲けしましょう」ということであろう。
  • 6
    原文「為解請」。「解放を請う」と読むのは抵抗があるが、それ以外に案もない。
  • 7
    よくわからないが、ともかく髷を結えるような長髪でもなく、辮髪でもないのであろう。パンチパーマみたいなやつじゃね?
  • 8
    髪の分け目が四か所ある、ということだろう。うるさくてごめんなさい。
  • 9
    中華書局は固有名詞と指示するが、王朝管理下の馬牧場の意では?
  • 10
    原文「如其不能者、兵馬当有所属」。後文の「兵馬」以降がよくわからない。「滅ぼされる運命にあるならば、配下の衆は別の帰属先を探しているにちがいない」ということだろうか。
  • 11
    鄴の西北にあった三つの台のこと。銅雀台、金虎台、氷井台。『初学記』巻八、河北道、事対の「三台 九殿」に引く「陸翽鄴中記」に「魏武於鄴城西北立三台。中台名銅雀台、南名金獣台、北名水井台」とある。(2020/8/14:注追加)
  • 12
    王と公の二つの位を有していることになる。汲郡公は封建の位であるが、平晋王はたんなる称号的なもので封建ではなさそうなので両立するのであろうか。
  • 13
    この一連の戦闘経過には違和感が残る。梁巨は武徳にこもっていたはずで、石勒は梁巨の応援軍の迎撃に当たったはずである。『太平御覧』巻三八六、健に引く「又〔崔鴻十六国春秋〕後趙録」に「張珎字巨秦、汲郡人。晋永嘉中、与梁臣戍武徳城、石勒攻之、城潰。弥随例当坑、大呼曰、『官当活健児、何以殺也』。曰、『有何捷事而求活也』。弥曰、『武徳西城上、大声督、時警備厳設、使賊不入、正是張弥』。勒笑曰、『降児能爾、正自奇健』。乃赦之」とあり、やはり梁巨は武徳に留まったままであるように思われる。懐帝紀、永嘉四年に「秋七月、劉聡、従弟曜及其将石勒囲懐、詔征虜将軍宋抽救之、為曜所敗、抽死之」とあり、『資治通鑑』は「漢楚王聡、始安王曜、石勒及安北大将軍趙国囲河内太守裴整于懐、詔征虜将軍宋抽救懐。勒与平北大将軍王桑逆撃抽、殺之。河内人執整以降」とある。おそらく長陵で宋抽を迎撃し、宋抽の降服は許さずに殺し、その後に武徳へ戻った、という経過ではないか。
  • 14
    王如伝によると彼らは宛の周辺で暴れているので、「江淮間」と記されるのはやや違和感。なお『魏書』羯胡石勒伝に「先是、雍州流人王如、侯脱、厳嶷等、起兵江淮間、受劉淵官位」とあり、劉淵に称藩していたらしい。
  • 15
    おそらく江北ないし江淮間の非漢族への呼称だと思う。
  • 16
    原文「長享遐貴」。正史の用例からみて、「長享」は「長く享受する」と読むのがよさそうである。「遐貴」は他書に用例がないが、「永遠の富貴」くらいで読んでおいた。そうすると「長」と「遐」で意味が重複してしまうようだが、『魏書』に「長享万年」という例もあり、「長」はそこまで生真面目に捉える必要にない字句にも思えるので、あまり気にせず訳出した。
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