凡例
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系図/西晋/元帝(1)/元帝(2)/明帝/成帝・康帝/穆帝/哀帝/海西公/簡文帝/孝武帝/安帝/恭帝
明皇帝は諱を紹、字を道畿といい、元帝の長子である。幼少時から聡明で、元帝に目をかけられていた。数歳のとき、〔元帝の〕膝の上に座っていると、ちょうど長安から使者が来たことがあった。そこで〔元帝は〕明帝に訊いてみた、「お日様と長安、おまえはどっちが遠いと思うかな」。明帝は「長安のほうが近いよ。お日様のあたりから来た人なんて聞いたことないもん。そのくらいわかるよ」と答えたので、元帝は感心した。翌日、官僚たちとの宴会時に、〔息子自慢をしようと〕ふたたび同じ質問をした。すると明帝は「お日様のほうが近い」と答えた。元帝は慌てて「どうしてこのまえ言ったこととちがうんだい」とたずねると、明帝は「目を上にやると、お日様は見えるんだけど、長安は見えないからだよ」と答えた。このことで、元帝はますます感心した。
建興のはじめ、東中郎将に任じられ、広陵に出鎮した。元帝が晋王になると、晋王太子に立てられた。元帝が帝号につくと、皇太子に立てられた。至孝の性格で、文武の才能があり、賢人を尊び、賓客を敬い、日ごろから詩文を愛好していた。当代において名声を博していた臣や、王導、庾亮、温嶠、桓彝、阮放らをはじめとした者たちは、みな〔明帝から〕親しく遇された1原文「当時名臣、自王導・庾亮・温嶠・桓彝・阮放等、咸見親待」。「自」字がよくわからない。おかしいとは思うのだが、「当時名臣」でいったん区切った読み方を取ってみた。『建康実録』巻六、粛宗明皇帝には「当代名臣王導・庾亮・温嶠等、咸親待之」とある。。あるとき、〔明帝らは〕聖人の真実の考えと虚偽の考えについて論じたが2原文「嘗論聖人真仮之意」。よくわからない。、王導らは〔明帝を〕論破できなかった。また武芸に習熟し、よく将士をいたわった。当時、東宮には人士が多く集い3原文「於時東朝済済」。文脈としては、「東朝」は東宮の意であったほうがよい。晋南朝の正史で、「東朝」で東宮を指す用例がまったくないわけではないので、とりあえず東宮で訳出した。「済済」は「済済多士」のことであろう。『太平御覧』巻九八、明皇帝に引く「晋陽秋」に「于時東宮号為多士」とある。、遠近の人々が心を寄せた。
王敦が乱を起こし、六軍が敗北すると、明帝は将士を率いて決戦しようと思い、戦車に乗って出撃しようとしたが、太子中庶子の温嶠が強く諫めたので、剣を抜いて鞅4馬の首につけた革のひも。(『漢辞海』)を斬り、出撃を中止した。王敦は平素より、明帝は神妙明晰な武略をそなえ、朝野から尊敬と信望を得ていると〔うとましく〕思っていたので、誣告して、不孝を理由に廃位しようとした。〔そこで王敦は〕百官を集めると、温嶠にたずねた、「皇太子には称えられるような何らかの徳があるだろうか」。声も顔色も怒った様子で、絶対に〔批判の〕意見を言わせようとしたのである。温嶠は「〔太子は〕大道にこだわって遠大な目標を実現しようとされていますから5原文「鉤深致遠」。『論語』子張篇「子夏曰、雖小道、必有可観者焉。致遠恐泥、是以君子不為也」を意識した表現であろう。、おそらく〔臣のような〕浅薄な才能では推し量れないお方でしょう。礼の点から申しあげれば、孝であると評せましょう」と答えた。みながそのとおりだとしたので、王敦のたくらみはとうとう中止になった。
永昌元年閏月己丑、元帝が崩じた。庚寅、太子が皇帝の位についた。大赦し、生母の荀氏を尊んで建安郡君とした。
太寧元年春正月癸巳、黄霧が四方に充満し、京師で火事があった。李雄が将の李驤と任回に台登を侵略させ、将軍の司馬玖が戦死した。越雟太守の李釗、漢嘉太守の王載が郡をもってそむき、李驤に降った。
二月、元帝を建平陵に埋葬した。明帝は裸足で陵に向かった。特進の華恒を驃騎将軍、都督石頭水陸軍事とした。乙丑、黄霧が四方に充満した。丙寅、霜が下りた。壬申、またも霜が下り、穀物に損害を与えた。
三月戊寅朔、改元した。臨軒し、饗宴の礼を中止し、楽器を設けても演奏しなかった。丙戌、霜が下り、草に損害を与えた。饒安、東光、安陵の三県で火災があり、七千余家を焼き、一万五千人の死者を出した。石勒が下邳を攻め落とし、徐州刺史の卞敦は退却して盱眙を守った。王敦が一紐の皇帝信璽を献上した。王敦が帝位簒奪をたくらみ、自分を〔中央に〕召すよう朝廷へ遠回しに要求したので、明帝は手詔を下して王敦を召した6この手詔は『魏書』巻九六、僭晋司馬叡伝に引用されている。なお巻九八、王敦伝には「明帝乃手詔徴之、語在明帝紀」とある。。
夏四月、王敦は長江を下って于湖に駐屯した。〔王敦は〕司空の王導を司徒に移し、みずから領揚州牧となった。巴東監軍の柳純が王敦に殺された。列曹尚書の陳眕を都督幽・平二州諸軍事、幽州刺史とした。
五月、京師で洪水があった。李驤らが寧州を侵略したので、寧州刺史の王遜は将の姚岳を派遣し、堂狼で防戦させると、李驤をおおいに破った。梁碩が交州を攻め落とし、交州刺史の王諒が戦死した。
六月壬子、皇后に庾氏を立てた。平南将軍の陶侃が参軍の高宝を派遣し、梁碩を攻めさせ、これを斬り、首を京師に送った。陶侃の位を征南大将軍、開府儀同三司に進めた。
秋七月丙子朔、太極殿の柱に雷が落ちた。この月、劉曜が陳安を隴城で攻め、これを滅ぼした。
八月、安北将軍の郗鑑を尚書令とした。石勒の将の石季龍が青州を攻め落とし、青州刺史の曹嶷が殺された。
冬十一月、王敦が兄である征南大将軍の王含を征東大将軍、都督揚州・江西諸軍事とした。軍事と国事がともに食料不足のため、刺史以下から米を徴収し、おのおの格差があった。
太寧二年春正月丁丑、明帝は臨朝し、饗宴の礼を中止し、楽器を設けても演奏しなかった。庚辰、五歳刑以下の罪人を赦免した。方術士の李脱が妖書を制作して群衆をたぶらかしているので、建康の市で斬った。石勒の将の石季龍が兗州を侵略し、兗州刺史の劉遐は彭城から退却して泗口を守った。
三月、劉曜の将の康平が魏興を侵略し、南陽まで至った。
夏五月、王敦は矯詔を下し、子の王応を武衛将軍に任じ、兄の王含を驃騎大将軍に任じた。明帝が親任していた常従督の公乗雄と冉曾が王敦に殺された。
六月、王敦は挙兵して中央に向かおうとした。明帝はひそかにそのことを知ると、巴滇産の駿馬に乗って忍んで外出し、〔王敦が駐屯している〕于湖に着くと、こっそり王敦の軍営を視察して、〔営から〕出て行った。〔身分を明かさずに視察している〕明帝をただ者ではないといぶかしむ軍人もいた。また、王敦はちょうど昼寝をしていたのだが、太陽が〔王敦の〕城を囲む夢を見た。驚いて起きると、「黄鬚の鮮卑野郎が来るにちがいない」と話した。明帝の母の荀氏は燕代の地(北の辺境)の出身で、明帝の容姿は母方に似ており、鬚が黄色であった。そこで王敦は明帝をこのように呼んだのである。〔奇妙な人物が現れて去っていったとの報告を受けると、夢で知らされた明帝にちがいないと思ったので、〕こうして〔王敦は〕五騎をつかわして探索させ、明帝を追わせた。明帝も馬で逃げたが、馬が糞をするたびに水をかけた。宿屋で食べ物を売っている女人を見かけると、〔明帝が持っていた〕七宝鞭を渡し、「このあと、馬に乗った者たちが来たらこれを見せてくれ」と言った。まもなく追跡者が着くと、女人に質問した。女人は「もう遠くへ行ってしまいましたよ」と答え、七宝鞭を見せた。五騎は〔七宝鞭を〕伝送して鑑定してもらったため、その地に滞在したまま長期間が経ってしまった。また馬糞が冷めているのを見つけると、本当に遠くに行ったのだと思い、追跡を止めた。〔このようにして〕明帝はかろうじて逃れることができたのである。
丁卯、司徒の王導に大都督、仮節を加え、領揚州刺史とした。丹陽尹の温嶠を中塁将軍とし、右将軍の卞敦とともに石頭を守らせた。光禄勲の応詹を護軍将軍、仮節、督朱雀橋南諸軍事とし、尚書令の郗鑑を行衛将軍、都督従駕諸軍事とし、中書監の庾亮を領左衛将軍とし、尚書の卞壺を行中軍将軍とした。平北将軍、徐州刺史の王邃、平西将軍、豫州刺史の祖約、北中郎将、兗州刺史の劉遐、奮武将軍、臨淮太守の蘇峻、奮威将軍、広陵太守の陶瞻らを〔中央に〕召し、京師を守らせた。明帝は中堂に駐留した。
秋七月壬申朔、王敦は兄の王含、銭鳳、周撫、鄧岳ら水陸五万の軍を派遣し、〔秦淮水の〕南岸に到達した。温嶠は軍営を秦淮水の北に移し、朱雀桁を焼いて王敦軍の先鋒の鋭気をくじいた。明帝はみずから六軍を率い、出撃して南皇堂に駐屯した。癸酉の夜になって、勇士を募ると、将軍の段秀、中軍将軍司馬の曹渾、左衛将軍参軍の陳嵩、鍾寅ら甲冑兵千人をつかわし、秦淮水を渡らせ、王敦軍の先鋒の防備が完了していないところを不意打ちした。明け方、越城7『資治通鑑』巻九三、太寧二年七月の胡三省注によれば秦淮水の南にある城。で戦い、王敦軍をおおいに破り、先鋒の将の何康を斬った。王敦は憤激して死んでしまった。まえの宗正の虞潭が義軍を会稽で挙げた。〔王敦軍の〕沈充は一万余人を率いて王含らと合流し、庚辰、陵口に軍塁を築いた。丁亥、劉遐、蘇峻らが精鋭一万人を率いて〔建康に〕到着した。明帝は夜に会見してねぎらい、将士にはおのおの格差を設けて褒賞を下賜した。義興の周蹇は王敦が任命した義興太守の劉芳を殺し、平西将軍の祖約は王敦が任命した淮南太守の任台を寿春から追い出した。乙未、賊軍が秦淮水を渡ってきたので、護軍将軍の応詹が建威将軍の趙胤らを率いて防戦したが、勝利できなかった。賊軍が〔建康城の〕宣陽門にまで到達すると、北中郎将の劉遐、蘇峻らが南塘から側面を攻撃し、賊軍をおおいに破った。劉遐はさらに沈充を青渓で破った。丙申、賊軍は軍営を焼いて夜に遁走した。
丁酉、明帝は宮殿に戻った。大赦したが、王敦の一味だけは赦免しなかった。こうして、諸将を分けて派遣し、王敦の一味を追撃させ、ことごとくこれを平定した。司徒の王導を始興郡公に封じ、食邑は三〇〇〇戸とし、絹九千匹を下賜した。丹陽尹の温嶠を建寧県公に封じ、列曹尚書の卞壺を建興県公に封じ、中書監の庾亮を永昌県公に封じ、北中郎将の劉遐を泉陵県公に封じ、奮武将軍の蘇峻を邵陵県公に封じ、おのおの食邑は一八〇〇戸とし、それぞれに絹五四〇〇匹を下賜した。尚書令の郗鑑を高平県侯に封じ、護軍将軍の応詹を観陽県侯に封じ、おのおの食邑は一六〇〇戸とし、それぞれに絹四八〇〇匹を下賜した。建威将軍の趙胤を湘南県侯に封じ、右将軍の卞敦を益陽県侯に封じ、おのおの食邑は一六〇〇戸とし、それぞれに絹三二〇〇匹を下賜した。そのほか、封建や褒賞はおのおの格差があった。
冬十月、司徒の王導を太保、領司徒とし、太宰の西陽王羕を領太尉とし、応詹を平南将軍、都督江州諸軍事、江州刺史とし、劉遐を監淮北諸軍事、徐州刺史とし、庾亮を護軍将軍とした。詔を下し、王敦の群従8原文まま。「父方の従兄弟と甥を指す(指堂兄弟及諸子侄)」(『漢語大詞典』)。ようするに王導ら父方の親族全員を言うのであろう。はすべて不問とした。このころ、石勒の将の石生が洛陽に駐屯し、豫州刺史の祖約は退却して寿陽を守った。
十二月壬子、明帝は建平陵を参拝し、大祥の礼に則った。梁水太守の爨亮と益州太守の李逷が興古をもってそむき、李雄に降った。沈充の故将の顧颺が武康でそむき、城邑(都市や郷村)を攻めて火を放った。州県がこれを討伐し、斬った。
太寧三年春二月戊辰、三族刑を復活させたが、女性だけは対象外とした。
三月、幽州刺史の段末波が卒し、弟の段牙があとを継いだ。戊辰、皇子の衍を皇太子に立てた。大赦し、文武官の位を二等加増し、三日間の酒盛りを賜い、配偶者がいない高齢の男女、親がいない幼子、子がいない老人に帛を賜い、一人につき二匹を下賜した。癸巳、処士の臨淮の任旭、会稽の虞喜を召し、ともに博士とした。
夏四月、詔を下した、「大事がようやく定まり、天命を新たに授かった。そこで、太宰、司徒以下は都坐9「都座」とも。尚書省にある会議室を指す。に集まり、政道について議論せよ。もろもろの踏襲する部分と改革する部分にかんして、事柄の中正を得られるようにつとめよ10原文「諸所因革、務尽事中」。自信はない。」。さらに詔を下した、「直言を糧とし、公正をつかみ持ちたいという11原文「滄直言、引亮正」。直言の士を受け容れ、公正の士を招き寄せる、とも訳せるかもしれないが、「滄」が引っかかる。「滄」に忠実になろうとすると「引」がよくわからなくなってくるのだが、いろいろとごまかした訳文を作成した。『太平御覧』巻九八、明皇帝に引く「晋陽秋」には「吾飢於飡直言、渇於求亮正」とある。私のこの思いを、諸賢らが理解してくれることを願っている。『私が誤れば、なんじが正す』(『尚書』益稷篇)というのが、堯と舜の君臣関係であった。私は暗愚であるが、耳に逆らう言葉を拒まないようにしようと思う。稷や契の役割に君たちは就いているのだ。いっしょにこのことに努めてくれるよう、期待している」。己亥、ひょうが降った。石勒の将の石良が兗州を侵略し、兗州刺史の檀贇が力戦したが、戦死した。〔黄河南域に留まっていた〕将軍の李矩らはこぞって軍が潰走してしまい、〔南へ〕帰朝した。〔こうして〕石勒は司州、兗州、豫州の地をことごとく落とした。
五月、征南大将軍の陶侃を征西大将軍、都督荊・湘・雍・梁四州諸軍事、荊州刺史とし、王舒を安南将軍、都督広州諸軍事、広州刺史とした。
六月、石勒の将の石季龍が劉曜の将の劉岳を新安で攻め、これを落とした。広州刺史の王舒を都督湘州諸軍事、湘州刺史とし、湘州刺史の劉顗を平越中郎将、都督広州諸軍事、広州刺史とした。旱魃が甚大で、正月からこの月まで雨が降らなかった。
秋七月辛未、尚書令の郗鑑を車騎将軍、都督青・兗二州諸軍事、仮節とし、広陵に出鎮させ、領軍将軍の卞壺を尚書令とした。詔を下した、「三恪と二王〔の後裔を遇すること〕は、代々重視されている事柄である。断絶した家を興して存続させることは、政道が優先する案件である。また、宗室の賢王は大晋の受命時に勲功を挙げた面々であり、佐命の功臣や高徳の名賢は三祖12高祖宣帝、太祖文帝、世祖武帝を指すか。とともに事業を支えた人物たちで、みな封国を授けられ、山河の誓約と同様の誓いを結んだ13原文「誓同山河」。黄河が帯のように細くなり、泰山が砥石のようにすり減るまで諸侯国を存続させる(=永続させる)と誓約すること。『漢書』巻一六、高恵高后文功臣表に「封爵之誓曰、『使黄河如帯、泰山若厲、国以永存、爰及苗裔』」とあり、顔師古注に引く応劭注に「封爵之誓、国家欲使功臣伝祚無窮也。帯、衣帯也。厲、砥厲石也。河当何時如衣帯、山当何時如厲石、言如帯厲、国猶永存、以及後世之子孫也」とある。者たちであるが、〔宗室の王家も功臣の家も〕すべて国が絶えてしまい、祭祀が継承されずにおり、おおいに心を痛めている。主者(担当の官)は後継者を立てるべき家について詳議し、それを報告せよ」。さらに詔を下した、「天地を郊祀するのは帝王の重要な仕事である。〔ところが〕中興以来、南郊のみを執行し、まだ北郊を実施したことがない。四時五郊の礼もすべて復活していない。五嶽、四瀆、名山、大川で、祭祀の礼典に記録があり、望秩14山川をランク付けし、遠方から眺めやって祀り、等級に応じた礼物をささげること。ようするに祭祀すること。『尚書』舜典篇「柴望秩于山川」、孔伝に「東岳諸侯竟内名山大川、如其秩次、望祭之。謂五岳牲礼視三公、四瀆視諸侯、其余視伯子男」とある。『漢書』巻二五上、郊祀志上「望秩于山川」の顔師古注に「望、謂在遠者望而祭之。秩、次也」とある。すべきものであっても、すべてすたれてしまい、まだ挙行されていない。主者は前例に依拠して〔中断している祭祀の儀注を〕詳細に処置せよ」。
八月、詔を下した、「むかし、周の武王は殷に勝つと、比干の墓を土盛りさせた。漢の高祖は趙を通ると、楽毅の子孫を記録させた15『漢書』巻一八、外戚恩沢侯表に「高帝……過魏則寵無忌之墓、適趙則封楽毅之後」とある。高帝紀十年の条に記述あり。。過去の偉人をさかのぼって顕彰することで、未来の者たちを励ますのである。孫呉の時代の将軍、宰相、名賢の子孫で、家訓をよく受け継ぎ、かつ忠孝仁義に篤く、己れを静かにして心の本来のありかたを守りながらも16原文「静己守真」。隠棲しているさまを言うのであろう。「守真」は『荘子』漁父篇「客曰、『……謹修而身、慎守其真、還以物与人、則無所累矣。……』。孔子愀然曰、『請問何謂真』。客曰、『真者、精誠之至也。……礼者世俗之所為也。真者所以受於天也。自然不可易也』」にもとづくか。、世に知られていない者がいたら、州郡の中正はすみやかにその名を報告し、遺漏のないようにせよ」。
閏月、尚書左僕射の荀崧を光禄大夫、録尚書事とし、列曹尚書の鄧攸を尚書左僕射とした。壬午、明帝は健康を害し、太宰の西陽王羕、司徒の王導、尚書令の卞壺、車騎将軍の郗鑑、護軍将軍の庾亮、領軍将軍の陸曄、丹陽尹の温嶠らを召し、みなに遺詔を授け、太子を助けさせた。丁亥、詔を下した、「いにしえより、死は賢者にも聖人にもひとしく到来するのであり、長寿であろうと短命であろうと、困窮しようと栄達しようと、〔最後には死という〕同じところへ帰着するのである。〔そのような死を〕どうして特別に悲しむ必要があろうか。朕は病に伏せてすでに久しく、つねに不意の事態を覚悟していた。ふりかえって先祖以来の帝業を思いやると、〔先帝の事業を〕受け継いで発展させること17原文「堂構」。父が土台を築き、子がそれを継いで建物をたてることから、子が父の仕事を受け継ぐこと。(『漢辞海』)はかなわず、国辱はいまだに雪がれず、百姓は塗炭の苦しみのなかにある。〔死を前にして〕口惜しく思うのはそのためである。不幸の日には、時服で棺に納め、すべて前例を遵守し、〔葬儀は〕簡約につとめるように。多くの人間を動員し、豪勢を重んじるようなことはしないようにせよ。太子の衍は幼弱をもってにわかに重責に当たることになるから、忠良賢明の士に頼らなければならない。太子を教導し、成功に導くようにせよ。むかし、周公は成王を補佐し、霍氏は昭帝を保護したが、その義は前代の文献に保存され、その功績は二世にわたって筆頭であった。〔この故事が〕どうして宗臣18世の尊敬を集める臣のこと。『漢書』巻三九、蕭何曹参伝の賛「為一代之宗臣」、顔師古注に「言為後世之所尊仰、故曰宗臣也」とある。の道でないことがあろうか。およそ、これらの公卿(西陽王や王導など遺詔を授かった者たちのこと)は当世の名士である。つつしんで顧命に従い、委託の重任を担い、心を固く結束させ、王室について協議してほしい19原文「謀王室」。『左伝』にしばしば見えるフレーズで、王の崩御など王室に一大事があったさいにその問題について諸侯が協議する、という意味あいであるらしい。。方岳、征鎮20「方岳」は地方で大きな権限を授けられた重臣の雅称、「征鎮」は都督などを指す。、刺史、将守(郡太守)は、みな朕の扞城21領土を守る将軍。(『漢辞海』)で、外で車を推し進めて〔統治を助けて〕くれている。〔公卿と諸将とで〕職務に内外のちがいがあるとはいえ、〔めざすところは〕同じである。ゆえに、『出動する者がいなければ、誰が牛馬を守るのだろうか』(『左伝』僖公二十八年)と言われるのである。〔内と外とは〕唇と歯のようなもので、表と裏でたがいに助けあうものなのだ。力を合わせて心をひとつにし、割符が合うかのように息をそろえ、美しい〔いにしえの?〕美事を思い22原文「思美焉之美」。よくわからない。、政事を整えることを取り決めとするように。〔朕が昇天したのち、〕百官や卿士は、自分の職務をたばねまとめて宰相に従い23原文「百辟卿士、其総己以聴于冢宰」。『論語』憲問篇「子張曰、『書云、高宗諒陰三年不言。何謂也』。子曰、『何必高宗。古之人皆然。君薨、百官総己以聴於冢宰三年』」とあり、『論語集解』に「孔曰、冢宰、天官卿、佐王治者。三年喪畢、然後王自聴政」とある。、幼子を守り助け、艱難をひろく救済し、祖先の霊が永遠に九天の上で安らかにいられるようにせよ。さすれば、朕は地下に行っても、黄泉で未練を抱くことはないだろう」。
戊子、明帝は〔太極殿の〕東堂で崩じた。享年二十七。武平陵に埋葬され、廟号は粛祖とされた。明帝は聡明で、決断力があり、とりわけ物事の道理に通じていた。即位当時は戦争と不作により毎年飢饉で、疫病による死者は過半にものぼり、物資の欠乏と疲弊が甚大で、事態はきわめて困難な状況にあった。そこにちょうど、王敦が主君をも強迫するほどの威勢をふるって神器を奪おうとした。明帝は苦労を重ねつつ、時勢に従いながら力を蓄え、〔ついには〕弱兵をもって強軍を制圧した。ひそかに作戦を練り、自分の意志で決断を下し、巨大な妖気を払い清めたのである。荊州や湘州など四州の刺史を改任し、長江上流の形勢を分割させたことで、乱世を治めて太平をもたらし、根幹を太くして枝葉を細くした。在位の日数は短かったが、〔明帝が創出した〕国家計画は長大であった。
系図/西晋/元帝(1)/元帝(2)/明帝/成帝・康帝/穆帝/哀帝/海西公/簡文帝/孝武帝/安帝/恭帝
(2020/2/27:公開)
(2022/11/20:改訂)