巻四十 列伝第十 楊駿

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賈充/附:賈謐・賈混・賈模・郭彰楊駿(附:楊珧・楊済)

楊駿

 楊駿は字を文長といい、弘農の華陰の人である。若くして王官1詳しくはわからないが、おそらく官僚予備軍のような地位。漢代の郎官みたいなものだと思うが、まだはっきりと結論は出せていない。いずれ考察をまとめようと思う。から高陸令となり、〔ついで〕驍騎将軍府と鎮軍将軍府の司馬となった。のち、楊后の父であるために高位に特別昇級し、鎮軍将軍から車騎将軍に移り、臨晋侯に封じられた。〔朝廷の〕有識者がこの措置について議した、「そもそも、諸侯の封建とは王室の藩屏を樹立するためのものです。后妃とは粢盛(祭祀のために器に盛った穀物)を供え、内教(婦女の教化)を広めるための存在です。皇后の父がはじめて封建されるや、臨晋の地をもって侯に立てられるのは、混乱の端緒になります」。尚書の褚䂮と郭奕も上表し、楊駿はたいした才能をそなえていないので、社稷の重職を委ねるべきではありませんと諫めた。武帝は聴き入れなかった2落合悠紀氏[二〇一二]九三―九四頁を参照すると、封建すること自体が問題視されたというより、「臨晋」という地名が不吉であるとして反対されたらしい。それでも武帝が臨晋侯で押し通したのは、臨晋侯は弘農楊氏が後漢時代に最初に授けられた爵で、楊家を象徴する爵位であったことと関連があり、楊駿の系統を弘農楊氏の本流と承認する意図があったからだろうと指摘している。。武帝は太康年間以降、天下が平穏であったために万機に意を注がなくなり、酒と女に溺れてばかりで、〔このときになって〕ようやく皇后の党派を寵愛するようになり、請謁(縁故による便宜供与)が公然と横行するようになった。楊駿、楊珧、楊済の権勢は天下を傾けるほどであったため、当時の人々は「三楊」と呼んでいた。
 武帝が重篤になったとき、まだ顧命は授けられておらず、佐命の功臣はみなすでに死没してしまっていたため、朝臣たちは不安で狼狽し、どうしてよいかわからなかった。しかし、楊駿は諸公をことごとく退任させ、みずから〔武帝の〕左右に侍り、そしてかってに公卿を改任し、腹心の者たちを〔公卿に〕立てた。ちょうど武帝が小康状態に回復し〔て意識を取り戻し〕、〔楊駿の〕登用した者たちが適任ではないことを知ると、顔色を正して楊駿に言った、「こんな連中が何の役に立つんだ」。そこで中書省に詔を下し、汝南王亮と楊駿に王室の補佐を命じた。楊駿は権力と寵愛が失われてしまうのを恐れ、中書省からその詔を閲覧のために借りると、そのまま秘匿することができた。中書監の華廙は憂慮し、みずから〔楊駿のもとに〕出向いて詔を要求したが、〔楊駿は〕けっきょく渡そうとしなかった。〔そうこうしているうちに〕二、三日経つと、武帝の容態がとうとう危篤におちいったので、楊后は武帝に上奏し、楊駿を輔政とするよう求めたところ、武帝はそれを了承した。〔楊后は〕ただちに中書監の華廙と中書令の何劭を呼び出し、口頭で武帝の意向を伝え、遺詔を作成させた。その遺詔はこのようであった、「むかし、伊尹と太公望は補佐になり、その勲功は不朽に伝えられている。周公と霍光は〔輔政の〕命を授かり、その名声は史上随一である。侍中、車騎将軍、行太子太保、領前将軍の楊駿は徳を保持して明智をそなえ、見識は遠大で、二宮(皇帝と皇太子)を輔翼し、忠誠と敬粛は明確に示されているゆえ、位を上台(三公)に改め、事跡を阿衡になぞらえるのが適当であろう。そこで、楊駿を太尉、太子太傅、仮節、都督中外諸軍事とし、侍中、録尚書、領前将軍はもとのとおりとする。〔太尉府には〕参軍六人、歩兵三千人、騎兵千人を置き、〔府は〕まえの衛将軍であった楊珧の故府(まえの衛将軍府)に移す。もし〔楊駿が〕殿中に宿泊するさいは護衛をつけるようにし、〔その衛兵は〕左衛府と右衛府の三部司馬から各二十人、殿中都尉の司馬から十人を派遣して楊駿に給仕させ、〔楊駿には〕武器を携帯して〔殿中を〕出入することを許可する」。詔が書きあがると、楊后は華廙と何劭に応対し〔てその詔を受け取り〕、武帝に提出した。武帝はみずから眺めたが、何も言わなかった。二日後、武帝は崩じた。楊駿はついに委託の重任に当たることとなり、太極殿に居留した。〔武帝の〕棺が埋葬されようというとき、六宮(後宮)の人々は出てきて見送ったが、楊駿は太極殿から降りず、武賁百人に自分を警護させていた。不遜の行動はこれ以後、はじまったのである。
 恵帝が即位すると、楊駿を太傅、大都督、仮黄鉞とし、朝政を総覧させ、百官は自分の職務をたばねまとめ〔て楊駿に従っ〕た3原文「百官総己」。天子が喪に服しているときは宰相が百官を仕切って政事を代行するという故事。『論語』憲問篇に「子張曰、『書云、高宗諒陰、三年不言、何謂也』。子曰、『何必高宗、古之人皆然。君薨、百官総己、以聴於冢宰三年』」とあるのにもとづく表現。。〔恵帝の〕侍従が自分にそむくのを心配したため、楊駿の甥であった段広と張劭を侍従の官とした。詔命(王言)を下すときはいつも、恵帝が〔その王言を〕見終わると、入室して楊太后に提出し〔て了承してもらい〕、それからようやく発布された。楊駿は賈后が言いなりになるような性格ではないことを知ると、彼女をはなはだ畏怖するようになった。また〔楊駿は〕親族を多く登用し、全員に禁兵を統率させた。こうして、公室(帝室?)は不満を抱くようになり、天下じゅうの人々が憤りを覚えるようになった。楊駿の弟の楊珧と楊済はどちらも秀才で、しばしば〔楊駿を〕諫めたが、楊駿は聴き入れることができず、〔楊珧らは〕これによって免官されて家に戻された。楊駿は古義に暗く、いつも旧制にもとっていた。武帝が崩じてから歳が改まっていないのに改元してしまい、議者はみな、歳が改まってから即位を記している『春秋』の義にそむいている、と意見した。朝廷はさきのこの過失を悔やみ、史官にこの過失を消去させた。したがって、翌年の正月になってふたたび改元したのである4この一件は恵帝紀の冒頭に掲載されている詔でやんわりと述べられている。
 楊駿は〔自分に〕もとから名望がないことを自覚していたため、遠近の人々をまとめられないことを心配し、そこで曹魏の明帝が即位したときの故事に倣い、ついに封国の褒賞をおおいに授け、そうして人心を満足させようとした。政治は〔法に〕厳刻で、こまごましていて煩瑣であり、諫言に耳をかさず、自分の思うとおりに事を進めたので、人心に乖離していた。馮翊太守の孫楚は平素から楊駿と親しく付き合っていたので、楊駿に説いて言った、「公は外戚の立場をもって伊尹や霍光のような重任に身を置き、大きな権力を握り、幼弱の主君を助けておられます。まさに古人がなしたところの至公、至誠、謙遜の道を仰ぎ倣わねばなりません。周では周公と召公が宰相になり、漢では朱虚侯と東牟侯が〔王室の助けに〕おりましたが、これまでのところ、庶姓で朝政を独占しておきながら、その繁栄をまっとうできた者はございません。いま、宗室は〔主上と〕等親が近く、藩王はまさしく壮健でありますのに、公は〔宗室と〕協力して万機に参与せず〔に宗室を排して万機を独占し〕、内には猜疑心をもち、外には私的に親しい者を登用しています。災禍が降るのはそう遠い先のことではないでしょう」。楊駿は聴き入れることができなかった。弘訓宮の少府5弘訓宮は景帝羊后の居所。羊后は武帝の咸寧四年にすでに崩じているうえ、弘訓宮の官職は泰始九年に廃されている。ここの弘訓少府は過去の官職を言うか。あるいはこの逸話自体が泰始九年以前の話なのかもしれない。この件は魏晋南北ブログ「楊駿と蒯欽」でも指摘されている。である蒯欽は楊駿の姑(父親の姉妹)の子で、若いときから仲が良かったが、〔蒯欽は〕率直で折れることがなく、しばしば正直な言葉で楊駿の意向に逆らったので、楊珧と楊済はこれのために心を寒くしていた。蒯欽が言うに、「楊文長(文長は楊駿の字)は暗愚だが、それでも無罪の人間をむやみに殺せないことくらいはわかっているさ。〔だから腹が立ったら殺すことはせず、〕私を遠ざけるようにするはずだね。疎遠の関係になることができれば、いっしょに死ななくてもよくなる。そうできなければ、宗族を滅ぼしてしまうだろう。長くもつものだろうか」。
 殿中中郎の孟観と李肇はふだんから楊駿より礼遇を受けておらず、楊駿が社稷を滅ぼそうとたくらんでいると、ひそかにでっちあげていた。賈后は朝政への干渉を望んでいたが、楊駿をはばかっていまだにその希望をかなえられずにいた。また、婦道(妻の道)をもって皇太后(楊太后)に仕えるのを肯んじなかった。黄門の董猛は、恵帝が皇太子になった当初に寺人監になり、東宮で賈后に給仕していた。賈后は董猛にひそかに連絡を取り、皇太后の廃位を謀った。そこで董猛は李肇、孟観とともにこっそりと結託した。賈后はさらに李肇に命令し、大司馬の汝南王亮に連絡させ、〔汝南王に〕兵を集めさせて楊駿を討伐させようとした。汝南王は言った、「楊駿の凶暴ぶりからして、滅亡するのはまもなくのことだ。憂慮するまでもなかろう」6汝南王亮伝によると、当時京師に滞在していた汝南王は周囲の人々から楊駿討伐を勧められたが、そうした意見に従わず、出鎮先の許昌へ脱出したという。。そこで李肇は楚王瑋に連絡したところ、楚王はこれを了承し、こうして〔楚王は楊駿の誅殺を謀って〕入朝を要求したのであった。楊駿は日ごろから楚王に畏怖を抱いており、先んじて〔楚王を中央に〕召し入れて〔荊州の軍事権を取りあげ、楚王が〕変事を起こすのを防ごうと思っていたので、とうとう楚王の入朝を許可した7楚王瑋伝によれば、当時の楚王は就国しており、鎮南将軍、都督荊州諸軍事であった。ここで本文が言っているのは、楚王が荊州で騒動を起こしたら困るので、召して中央の官に異動させ、荊州の軍事権を奪ってしまいたいと考えていたところ、ちょうど楚王が入朝を希望してきたからそれを承認し、そのついでに人事をしてしまおうとした、ということであろう。(2021/9/15:訳文微修正&注追記)
 楚王が到着すると、孟観と李肇は恵帝に啓し、〔恵帝は〕夜に詔を作成した。〔洛陽の〕中外を戒厳させ、〔楊駿への〕使者をつかわし、楊駿を廃位し、侯の爵位をもって邸宅へ帰らせるという詔を〔使者に〕持たせた。東安公繇は殿中の四百人を率いて使者のうしろにつづき、楊駿を討った。段広はひざまずいて恵帝に具申した、「楊駿は恩恵を先帝よりこうむり、心を尽くして輔政いたしました。そのうえ、〔楊駿は〕妻を亡くし、息子もいません。どうして道理にそむくようなことをしましょうか。陛下に願わくは、よくご検討なされますよう」。恵帝は返答しなかった。
 このとき、楊駿は曹爽の故府8おそらく太傅の府がここに置かれていたのであろう。に滞在していたが、そこは武庫の南に位置していた。宮中で変事が起こったと知ると、群官を招集して議論した。太傅主簿の朱振は楊駿に説いて言った、「いま、宮中に変事が発生しましたが、その意図は察しがつきます。きっと、宦官が賈后のために謀略を立てたものでしょうから、公にとって不利益な事件でしょう。雲龍門に火を放って武威を明示し、造反の首謀者を〔差し出すように〕要求し、万春門を開いて東宮の兵と外営の兵を引き入れ、公みずからが皇太子を推戴し、宮殿に入って悪人を捕えるのがよろしいかと思います。〔そうすれば〕殿中の人々は震撼し、必ずや首謀者を斬って首を送ってくるでしょう。こうして災難を免れることができます」。楊駿はもともと臆病な性格だったので、決心がつかず、「魏の明帝がこの大仕事(洛陽宮城建造のこと)を成し遂げたのだ。どうして火を放てようか」と言った。侍中の傅祗は夜になって楊駿に具申し、武茂といっしょに雲龍門に入り、様子を観察しにいきたいと要望した。〔それが許可されると〕傅祗は〔楊駿の府に留まっていた〕官僚らに向かって言った、「宮中を空っぽにしておくわけには参りませんよ」。すると〔官僚らは〕たちまち起立して拱手の礼をとってゆき、かくして全員が〔楊駿の府から〕逃げていった。
 まもなく殿中の兵が出撃し、楊駿の府に火をつけた。さらに弩の兵士を台閣の上に登らせ、上から楊駿の府に矢を浴びさせたため、楊駿の兵は誰も出ていくことができなかった。楊駿は厩舎に逃げたが、〔殿中の兵は〕戟で楊駿を殺した。孟観らは賈后の秘密の意向を授かっていたので、楊駿の親族を誅殺し、みな夷三族とし、死者は数千人にのぼった。また、〔賈后は〕李肇に楊駿の家の私書(個人的に所蔵していた書類)を焼かせた。賈后は、武帝が顧命を授けた手詔を四海に広めたくなかったからである。楊駿が誅殺されると、〔その遺体を〕回収しようとする者はいなかったが、太傅舎人であった巴西の閻纂だけが遺体を納棺して埋葬した。
 むかし、楊駿が高士の孫登を召したとき、布被9質素な布の寝具。(『漢辞海』)を贈った。孫登は門でその寝具を切ってしまい、大声で言った、「ザクッザクッ、ドスッドスッ、てな」10原文は「斫斫刺刺」。和刻本が「キレキレ、サセサセ」と訓じていたので、これに従うことにし、擬音ふうに訳出してみた。ただ、「刺刺」は「おしゃべりであるさま」を意味する場合があり、「おしゃべりなやつ(=楊駿)を斬っちまえ」という意であるかもしれないし、あるいはこの時期の謡言の類いが多くそうであるように、ダブルミーニングなのかもしれない。。その旬日(十日)後、病気だったと称して偽って死んだことにした。このとき(楊駿が死んだとき)になって、はたして孫登が予言したとおりであった11前の注で解釈したとおりで妥当ならば、刃物で殺害されたということだろう。。永煕年間、温県の狂った感じの人が怪文書をつくって言った、「ひかり輝く文長(楊駿の字)は、大きな戟で障壁をつくる。たとえ毒薬を飲んだとしても、戟が戻ってみずからを傷つけるだろう」12戟が障壁となる=護衛となる、という意味であろう。後半で言っていることは、毒薬を飲んで死んでも、けっきょくは戟で遺体を刺されてしまう、ということであろう。史実がこの予言のとおりであるならば、楊駿は刺殺される前に毒で自殺していたということになる。。楊駿が内府(宮中?)におるようになると、戟〔を持った兵士〕を護衛としたのであった。
 永寧のはじめ、詔が下った、「舅氏(母の兄弟)は道を失い、その宗族(楊氏のこと)は壊滅したため、『渭陽』13『毛詩』秦風の篇名。亡き母を悼んだ詩という。秦に保護されていた晋の文公が晋へ帰るとき、当時は太子であった秦の康公がそれを見送ったが、そのさいに文公=「舅氏」を見ると、母親が生きているかのよう感じ、後年になってその思いを詩にしたのだという。秦の康公の母親(秦の穆公の夫人)は晋の文公ときょうだいの関係にあり、それゆえ康公にとって文公は「舅氏」すなわち母親のきょうだいであった。本文に載せる恵帝の詔では、楊駿らを「舅氏」と呼んでいるが、楊駿は楊太后の父親であるので「舅氏」ではないはずである(なお恵帝の母の楊后は楊文宗の娘のほうで、楊駿の娘のほうの楊后ではない)。にもかかわらず、楊駿を「舅氏」と呼称しているのは、この『毛詩』の詩の故事に合わせた表現を採るためであったのだろうか。詩序に「康公念母也。康公之母、晋献公之女。文公遭麗姬之難未反、而秦姬卒、穆公納文公、康公時為大子、贈送文公于渭之陽、念母之不見也。我見舅氏、如母存焉。及其即位、思而作是詩也」とある。でうたわれた思いにはなはだ悲しみを感じるものである。そこで、蓩亭侯の楊超14蓩亭侯も臨晋侯同様に弘農楊氏にゆかりのある爵位。後漢の献帝が東遷したさい、尽力した楊衆に授けられたという。[落合二〇一二]九二頁、魏晋南北ブログ「楊震と楊炳と楊駿」同2を参照。楊駿の兄の楊文宗がこの爵位を継いでいるので、楊超は楊文宗の嫡子だった可能性がある。いっぽう、落合悠紀氏[二〇一二]も同様の可能性を指摘しつつ、北魏以降の弘農楊氏の墓誌が楊珧を祖先に挙げていることも指摘し(注三四)、氏が作成した系図では「?」と留保を付けながらも楊超を楊珧の子としている(八二頁)。を奉朝請、騎都尉とし、そうして『蓼莪』のような悲嘆を慰めたい15「蓼莪」は『毛詩』小雅の篇名。詩序に「刺幽王也。民人労苦、孝子不得終養爾」とあり、父母に孝養を尽くせないことを嘆いた詩とされる。楊超を楊家の後継ぎに立て、楊氏の祭祀が存続できるように取り計らうという意味か。」。

〔楊珧〕

 楊珧は字を文琚という。尚書令、衛将軍を歴任した。もともと名声があり、武帝のお気に召され、世の名望は楊駿の上にあった。兄(楊駿)が高貴で、大きな権勢を握っていたことから、権勢ある立場に身を置くべきではないと察知し、官を退くことをみずから求め、〔そのときの言葉は〕前後で真心が込められていたが、けっきょく聴き入れられなかった。以前、楊后がめとられたさい、楊珧は上表して言った、「古今を眺めますに、一つの族から二人の皇后を輩出しながら〔終わりを〕まっとうできたところはひとつもなく、かえって宗族壊滅の禍をこうむっています。ご要望いたしますに、この表文で述べました事柄を〔記録して〕宗廟に保管していただけますよう。〔このようにしていただければ、〕もし臣の申しあげたとおりになりましたら、〔わが族は〕禍を逃れることができましょう」。これを聴き入れた。右軍営の督であった趙休は上書して諫めた、「王莽〔の王氏〕は五人の公16王氏でよく知られているのは「五侯」(五人の列侯)で、本文の「五公」とは少しニュアンスが違うようにも感じるが、このことを言っているのであろう。『漢書』巻九八、元后伝に「河平二年、上悉封舅譚為平阿侯、商成都侯、立紅陽侯、根曲陽侯、逢時高平侯。五人同日封、故世謂之『五侯』」とある。を輩出し、兄弟で代わる代わる位を継いでいました。いま、楊氏は三人の公を輩出し、ひとしく高位についています。そのうえ、天の異変がしばしば現れています。臣はひそかに陛下のためにこのことを心配しています」。これを機に楊珧はますます恐れるようになり、辞職を固く要望した。これを聴き入れ、銭百万、絹五千匹を下賜した。
 楊珧は、当初は謙譲をもって称賛を受けたが、のちのちになると朋党を集めるようになり、陰謀をしくんで斉王攸を〔中央から封国へ〕出してしまった17職官志によると、武帝の咸寧三年、楊珧と荀勖は斉王が後継に立てられてしまうことを恐れ、武帝に諸王就国を建議したという。しかし、このときは結局、斉王は就国しなかったらしい。こうした経緯もふまえ、司馬光は斉王を就国させるために楊珧らが建議したという職官志の記述は事実ではないと否定し、『資治通鑑』ではたんに諸王就国の建議として記述している(巻八〇、咸寧三年の条)。司馬光の見解に従えば、本伝の記述も誇張ということになるだろう。訳者は考えを整理できていないので、司馬光の解釈が適当であるかは判断できない。。中護軍の羊琇は北軍中候の成粲と謀略を立て、楊珧に面会する機会をとらえてみずから彼を殺そうと謀った。楊珧はそれに気づくと、病気を理由に〔面会を〕辞退し、外出しなかった。そして有司(たぶん尚書)に対し、羊琇〔の人事〕について奏上するよう遠回しに言って求め、〔羊琇を〕太僕に転任させた18外戚伝・羊琇伝では、羊琇は斉王出鎮を厳しく諫めたために太僕へ左遷されたと記されている。。これ以後、朝廷の人々は誰も〔楊珧に〕逆らおうとしなくなったが、素論19ここでは「与論」の意味。も失われたのであった。楊珧は刑に臨んださい、冤罪を言い立てて、「〔このような事態になったら命は救っていただきたいと〕申しあげたことは石函のなかに保管されている。張華に聞いてみてくれ」と言った。当時の人々はみな、楊珧のために無罪を明らかにし、鍾毓の事例20鍾会が反逆を起こして誅殺されたとき、兄の鍾毓はすでに死没していたが、鍾毓の子など生き残っている鍾氏が連座させられることになった。司馬昭は鍾繇や鍾毓の功績を述べ、鍾氏を根絶やしにしてはならないと陳情し、かくして一部の鍾氏は恩赦されたという。『三国志』魏書二八、鍾会伝を参照。に従うのがよいと思った。しかし賈氏の一族は楊氏を仇敵のようにみなしていたので、刑の執行者を催促してとうとう楊珧を斬ってしまった。世の人々は誰もが嘆いたのであった。

〔楊済〕

 楊済は字を文通という。鎮南将軍、征北将軍を歴任し、太子太傅に移った。楊済には武芸があった。あるとき、武帝に随行して北芒山のふもとで校猟をしたことがあったが、そのさい、侍中の王済とそろって布製の袴褶(乗馬用のズボン)をはき、馬に乗り、角弓(動物の角製の弓)を手にし、武帝の車の前方を進んだ。猛獣がいきなり飛び出してきたので、武帝は王済に射るよう命じたところ、弦の音とともに猛獣は倒れた。しばらくすると、さらにもう一匹出てきたので、〔今度は〕楊済が詔(武帝の命令)を受け、これまた射殺した。六軍は大声で喝采をあげた。武帝は兵官を尊重しており、貴戚や清望の士に多く〔兵官を〕授けていたが、楊済は〔実際に〕武芸をそなえていたため、兵官の職に適任であるとの評判が立った21原文「帝重兵官、多授貴戚清望、済以武芸号為称職」。読み過ぎになるかもしれないが、武帝は兵官を大切な官職だとみなしていて、それゆえ武芸の有無にかかわりなく高貴な子弟をその職に任命していたが、楊済にかぎっては実際に武芸を備えていたので、兵官の職に本当に適任だという評判があがった、という意味で解釈した。。兄の楊珧とともに〔権勢が〕充満していることを深く憂慮したため、甥の李斌らといっしょに〔楊駿を〕強く諫めた。楊駿が王佑を河東太守に左遷したり、皇太子(恵帝のこと)を立てたりしたのは、どちらも楊済の策略である。
 当初、楊駿は大司馬の汝南王亮を忌み嫌っており、催促して就国させようとしていた22汝南王亮伝によると、汝南王はグズグズしてすぐに封国(許昌)へ向かわず、楊駿が殺される直前に許昌へ脱出したという。。楊済は李斌とともにしばしば諫めてそれを中止させようとしたため、楊駿はとうとう楊済を疎んずるようになった。楊済は傅咸に話した、「もし、家兄(楊駿のこと)が大司馬(汝南王のこと)を中央に召し入れ、〔みずからは〕身を退いて権力を遠ざければ、一族は禍から逃れることができるはずです。そうしなければ、そう遠くないうちに一族を滅ぼしてしまうでしょう」。傅咸、「〔大司馬を〕中央に召し返し、共同で至公の道を重んじ〔て政治を主宰すれば〕、太平を樹立し、〔権力を〕避ける必要もなくなるでしょう。そもそも、人臣が朝政を専断することなどあってはならないのであり、外戚だけがいけないというのではありません。いま、宗室が疎遠になれば、〔宗室は〕近親の外戚に頼って安寧を得て、外戚が衰えれば、〔外戚は〕勢いのある宗室に頼って助けとするようにし、〔外戚と宗室とを〕いわゆる唇と歯のように、たがいに助け合う関係のようになさるのがよいでしょう。これがよい計画です」。楊済はますます恐懼して石崇に質問してみた、「人々は〔私たちのことを〕どう言っているのでしょうか」。石崇、「賢明なる兄君(楊駿)は朝政を握り、宗室を遠ざけていますが、〔政治は〕四海の人々と協力して運営するべきものでしょう」。楊済、「兄にお会いしましたらそのことに言及してください」。石崇が楊駿に面会したさい、このことを話題に出したが、楊駿は聴き入れなかった。
 のち、〔楊済は〕兄たちといっしょに殺された。変事が起こった日(殺された日)の暮れ、東宮が楊済を召した。楊済は裴楷に向かって言った、「私はこれからどこに行くことになるんでしょうね」。裴楷、「あなたは保傅(もり役)なのですから、東宮に決まっているでしょう」。楊済は他人に施しをするのを好んでおり、〔また〕長いあいだ軍隊を統率していた。侍従する四百人の兵士は全員が秦地方の壮士で、射れば〔必ず〕命中する腕前であったが、みなが楊済を救出しようと希求していた。〔しかし〕楊済はすでに東宮に入ってしまったので、誰もが悲嘆して悔やんだ。

  史臣曰く、(以下略)

賈充/附:賈謐・賈混・賈模・郭彰楊駿(附:楊珧・楊済)

(2021/9/12:公開)

  • 1
    詳しくはわからないが、おそらく官僚予備軍のような地位。漢代の郎官みたいなものだと思うが、まだはっきりと結論は出せていない。いずれ考察をまとめようと思う。
  • 2
    落合悠紀氏[二〇一二]九三―九四頁を参照すると、封建すること自体が問題視されたというより、「臨晋」という地名が不吉であるとして反対されたらしい。それでも武帝が臨晋侯で押し通したのは、臨晋侯は弘農楊氏が後漢時代に最初に授けられた爵で、楊家を象徴する爵位であったことと関連があり、楊駿の系統を弘農楊氏の本流と承認する意図があったからだろうと指摘している。
  • 3
    原文「百官総己」。天子が喪に服しているときは宰相が百官を仕切って政事を代行するという故事。『論語』憲問篇に「子張曰、『書云、高宗諒陰、三年不言、何謂也』。子曰、『何必高宗、古之人皆然。君薨、百官総己、以聴於冢宰三年』」とあるのにもとづく表現。
  • 4
    この一件は恵帝紀の冒頭に掲載されている詔でやんわりと述べられている。
  • 5
    弘訓宮は景帝羊后の居所。羊后は武帝の咸寧四年にすでに崩じているうえ、弘訓宮の官職は泰始九年に廃されている。ここの弘訓少府は過去の官職を言うか。あるいはこの逸話自体が泰始九年以前の話なのかもしれない。この件は魏晋南北ブログ「楊駿と蒯欽」でも指摘されている。
  • 6
    汝南王亮伝によると、当時京師に滞在していた汝南王は周囲の人々から楊駿討伐を勧められたが、そうした意見に従わず、出鎮先の許昌へ脱出したという。
  • 7
    楚王瑋伝によれば、当時の楚王は就国しており、鎮南将軍、都督荊州諸軍事であった。ここで本文が言っているのは、楚王が荊州で騒動を起こしたら困るので、召して中央の官に異動させ、荊州の軍事権を奪ってしまいたいと考えていたところ、ちょうど楚王が入朝を希望してきたからそれを承認し、そのついでに人事をしてしまおうとした、ということであろう。(2021/9/15:訳文微修正&注追記)
  • 8
    おそらく太傅の府がここに置かれていたのであろう。
  • 9
    質素な布の寝具。(『漢辞海』)
  • 10
    原文は「斫斫刺刺」。和刻本が「キレキレ、サセサセ」と訓じていたので、これに従うことにし、擬音ふうに訳出してみた。ただ、「刺刺」は「おしゃべりであるさま」を意味する場合があり、「おしゃべりなやつ(=楊駿)を斬っちまえ」という意であるかもしれないし、あるいはこの時期の謡言の類いが多くそうであるように、ダブルミーニングなのかもしれない。
  • 11
    前の注で解釈したとおりで妥当ならば、刃物で殺害されたということだろう。
  • 12
    戟が障壁となる=護衛となる、という意味であろう。後半で言っていることは、毒薬を飲んで死んでも、けっきょくは戟で遺体を刺されてしまう、ということであろう。史実がこの予言のとおりであるならば、楊駿は刺殺される前に毒で自殺していたということになる。
  • 13
    『毛詩』秦風の篇名。亡き母を悼んだ詩という。秦に保護されていた晋の文公が晋へ帰るとき、当時は太子であった秦の康公がそれを見送ったが、そのさいに文公=「舅氏」を見ると、母親が生きているかのよう感じ、後年になってその思いを詩にしたのだという。秦の康公の母親(秦の穆公の夫人)は晋の文公ときょうだいの関係にあり、それゆえ康公にとって文公は「舅氏」すなわち母親のきょうだいであった。本文に載せる恵帝の詔では、楊駿らを「舅氏」と呼んでいるが、楊駿は楊太后の父親であるので「舅氏」ではないはずである(なお恵帝の母の楊后は楊文宗の娘のほうで、楊駿の娘のほうの楊后ではない)。にもかかわらず、楊駿を「舅氏」と呼称しているのは、この『毛詩』の詩の故事に合わせた表現を採るためであったのだろうか。詩序に「康公念母也。康公之母、晋献公之女。文公遭麗姬之難未反、而秦姬卒、穆公納文公、康公時為大子、贈送文公于渭之陽、念母之不見也。我見舅氏、如母存焉。及其即位、思而作是詩也」とある。
  • 14
    蓩亭侯も臨晋侯同様に弘農楊氏にゆかりのある爵位。後漢の献帝が東遷したさい、尽力した楊衆に授けられたという。[落合二〇一二]九二頁、魏晋南北ブログ「楊震と楊炳と楊駿」同2を参照。楊駿の兄の楊文宗がこの爵位を継いでいるので、楊超は楊文宗の嫡子だった可能性がある。いっぽう、落合悠紀氏[二〇一二]も同様の可能性を指摘しつつ、北魏以降の弘農楊氏の墓誌が楊珧を祖先に挙げていることも指摘し(注三四)、氏が作成した系図では「?」と留保を付けながらも楊超を楊珧の子としている(八二頁)。
  • 15
    「蓼莪」は『毛詩』小雅の篇名。詩序に「刺幽王也。民人労苦、孝子不得終養爾」とあり、父母に孝養を尽くせないことを嘆いた詩とされる。楊超を楊家の後継ぎに立て、楊氏の祭祀が存続できるように取り計らうという意味か。
  • 16
    王氏でよく知られているのは「五侯」(五人の列侯)で、本文の「五公」とは少しニュアンスが違うようにも感じるが、このことを言っているのであろう。『漢書』巻九八、元后伝に「河平二年、上悉封舅譚為平阿侯、商成都侯、立紅陽侯、根曲陽侯、逢時高平侯。五人同日封、故世謂之『五侯』」とある。
  • 17
    職官志によると、武帝の咸寧三年、楊珧と荀勖は斉王が後継に立てられてしまうことを恐れ、武帝に諸王就国を建議したという。しかし、このときは結局、斉王は就国しなかったらしい。こうした経緯もふまえ、司馬光は斉王を就国させるために楊珧らが建議したという職官志の記述は事実ではないと否定し、『資治通鑑』ではたんに諸王就国の建議として記述している(巻八〇、咸寧三年の条)。司馬光の見解に従えば、本伝の記述も誇張ということになるだろう。訳者は考えを整理できていないので、司馬光の解釈が適当であるかは判断できない。
  • 18
    外戚伝・羊琇伝では、羊琇は斉王出鎮を厳しく諫めたために太僕へ左遷されたと記されている。
  • 19
    ここでは「与論」の意味。
  • 20
    鍾会が反逆を起こして誅殺されたとき、兄の鍾毓はすでに死没していたが、鍾毓の子など生き残っている鍾氏が連座させられることになった。司馬昭は鍾繇や鍾毓の功績を述べ、鍾氏を根絶やしにしてはならないと陳情し、かくして一部の鍾氏は恩赦されたという。『三国志』魏書二八、鍾会伝を参照。
  • 21
    原文「帝重兵官、多授貴戚清望、済以武芸号為称職」。読み過ぎになるかもしれないが、武帝は兵官を大切な官職だとみなしていて、それゆえ武芸の有無にかかわりなく高貴な子弟をその職に任命していたが、楊済にかぎっては実際に武芸を備えていたので、兵官の職に本当に適任だという評判があがった、という意味で解釈した。
  • 22
    汝南王亮伝によると、汝南王はグズグズしてすぐに封国(許昌)へ向かわず、楊駿が殺される直前に許昌へ脱出したという。
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