巻四十 列伝第十 賈充(2)

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賈充/附:賈謐・賈混・賈模・郭彰楊駿(附:楊珧・楊済)

〔賈謐〕

 賈謐は字を長深という1本来の字は長淵だが、唐の高祖(李淵)の諱を避けてこう表記されている。中華書局の校勘記を参照。なお、以下の賈氏の列伝を訳出するにあたっては、小雪氏「『晋書』賈充伝 訳注(参)」、同「訳注(四)」を参照した。。母の賈午は賈充の末の娘である。父は韓寿といい、字は徳真で、南陽の堵陽の出身であり、魏の司徒であった韓曁の曾孫である。容姿がすぐれ、所作に品行があった。賈充は司空掾に辟召した。賈充はいつも属僚と宴会をしていたが、賈午はそのたびに青色の窓格子からその様子をのぞき見ていた。〔そんなある日、いつものようにのぞいたが、〕韓寿を見た瞬間、心が高なり、ぬくもりがこみあがってくるのを感じた。「あのお方はどなた?」と周囲にたずねてみると、ある婢が韓寿の姓と字(呼び名)を答え、「前の主人でございます」と話した。賈午は韓寿のことばかり考えてしまい、夢に出てくるほどに思いは募っていった。後日、その婢が韓寿の家に出かけたときに、〔韓寿に〕賈午の思いをつぶさに説明し、あわせて「とてもお綺麗で、あれほどに美しいお方は見たことがございません」と言った。韓寿は婢の話を聞くとその気になり、婢に取り次がせて、よろしくと賈午に伝えさせた。婢が韓寿の伝言を賈午に話したところ、そこで賈午はこっそりと手紙をしたため、こちらこそと返事をした。心をこめた手紙を送りあって距離を縮めてゆき、〔あるとき、賈午は思い切って〕「夜に家(うち)でお話ししたいな」と韓寿を誘った。韓寿は常人をしのぐ身体能力の持ち主で、〔賈充の家の〕垣を飛び越えて〔賈午の待つ部屋へ〕やって来たのであったが、家の人々は誰も気づかなかった。ただ賈充だけが、〔明くる日の〕賈午の機嫌がふだんよりもいいことに感づいていた。当時、西域が珍奇な香木を貢献してきて、ひとたび香りをつけると、ひと月経っても消えない代物であったが、武帝はこれをひじょうに珍しがり、賈充と大司馬の陳騫にしか下賜していなかった。賈午はひそかにそれを盗んで韓寿に贈ってしまった。賈充の属僚が韓寿と宴会で同席したとき、彼からいい香りがするのを鼻にしたが、そのことを褒めながら賈充に話した。これをきっかけに賈充は賈午と韓寿が付き合っているのを察知したが、賈充の家の門は厳重で、どこから侵入できたのかがわからなかった。そこで真夜中、〔賈充は〕わざと叫び声をあげて強盗が出たとウソをつき、〔左右の者たちに〕垣を巡回させて異変がないか調べさせた。左右の者たちは、「とくに異変はありませんが、東北の隅にキツネやタヌキの通り道のような場所があります」と報告した。そこで賈充は賈午の側仕えの者たちを問いただしたところ、状況をつぶさに答えた。賈充はこのことを胸にしまっておきつつも、ついには賈午を韓寿のもとへ嫁がせた2以上の逸話は『世説新語』惑溺篇、第五章にもおおむね同じあらすじで収録されている。訳出に当たってはかなり意訳を施したが、原文の文字はなるべく尊重したつもりである。なお、『世説新語』同章の劉孝標注は、「韓寿は家風を重んじ、忠義に厚い性格であったというのに、どうしてこんなことをするだろうか。ほかの書物にはこの話は伝えられておらず、『世説』にだけ記されているから、事実であるとは信用できない(寿敦家風、性忠厚、豈有若斯之事。諸書無聞、唯見世説、自未可信)」と述べ、さらに「郭子」を参照し、そこでは韓寿がひそかに交際していたのは陳騫の娘だと記されていて、その娘と婚姻が成る前に娘が死去してしまい、そのあとで賈充の娘を娶ったと書いてあるのだという。かくして劉孝標は「ゆえに、世間では〔韓寿が交際していたのは〕賈充の娘であると広まったのであろう(故世因伝是充女)」と結論している。。韓寿は散騎常侍、河南尹にまで昇った。元康のはじめに卒し、驃騎将軍を追贈された。
 賈謐は学問を好み、才知があった。賈充の後継ぎになり、佐命の臣の後継者になったばかりか、賈后が思うがままに権力をふるってもいたので、賈謐の権勢は君主をしのぎ、黄門侍郎を拘禁することさえあった。賈謐はかかるほどに刑罰や恩賞を掌握していたのである。驕慢を咎められないのを鼻にかけ、奢侈は度を過ぎ、家屋は身分に不相応で、器物や衣服は貴重な物ばかりで、歌僮(少年の歌手)や舞女は当世随一の者たちを選りすぐっていた。門を開いて賓客を招待すると、海内の士人が集合し、貴游や豪戚、および浮競の連中3原文「貴游豪戚及浮競之徒」。「浮競」は「軽薄で出世競争にいそしむ人々」であろう。「貴游」は「高貴な身分で仕事をせずに過ごしている人々」か。「豪戚」は「家に力がある姻族」で、いわゆる外戚をいうか。はことごとく礼を尽くして賈謐に仕えた。文章を書いて賈謐を賛美し、〔賈謐を〕賈誼になぞらえる者もいた。渤海の石崇と欧陽建、滎陽の潘岳、呉国の陸機と陸雲、蘭陵の繆徴、京兆の杜斌と摯虞、琅邪の諸葛詮、弘農の王粋、襄城の杜育、南陽の鄒捷、斉国の左思、清河の崔基、沛国の劉瓌、汝南の和郁と周恢、安平の牽秀、潁川の陳眕、太原の郭彰、高陽の許猛、彭城の劉訥、中山の劉輿と劉琨はみな賈謐の取り巻きになり、「二十四友」と号し、そのほかの人たちは〔このグループに〕関係できなかった。
 散騎常侍、後軍将軍を歴任した。広城君4賈充の妻の郭槐のこと。が薨じると、職を辞した。喪が終わる前に起家して秘書監となり、国史を管轄した。これより以前、朝廷では晋朝の史書の限断(区切り)をどこに設けるかで議論がおこなわれ、中書監の荀勖は魏の正始をもって〔晋朝の〕歴史をはじめるのがよいと主張し、著作郎の王瓚は〔魏の〕嘉平年間以降の朝臣をすべて晋朝の史書に編入したいと希望したが、そのときは意見がまとまらず、結論が出ていなかった。恵帝が即位すると、ふたたびこの件について議論させた。賈謐は議を提出し、泰始を限断とするように要望した。こうして議案が三府(中央の官府全体?)に下されると、司徒の王戎、司空の張華、領軍将軍の王衍、侍中の楽広、黄門侍郎の嵆紹、国子博士の謝衡はみな賈謐の議に賛同した。騎都尉、済北侯の荀畯、侍中の荀藩、黄門侍郎の華混は正始をもってはじめるのがよいと意見し、博士の荀煕と刁協は嘉平から書き起こすのがよいと主張した。賈謐はかさねて王戎と張華の議を上奏した。こうしてとうとう、賈謐の議が〔裁可されて〕施行されたのである5以上の国史の限断については訳者のブログ記事「沈約『宋書』の系譜とその周辺」を参照。まず秘書省内で意見集約・統一がはかられ、秘書の意見が議として提出される。そのあとで、「三府」に命じて秘書の議を審理させる。この全体の過程こそ、恵帝が命じた「議」であると考えられる。
 まもなく、侍中に転じ、秘書監を領してもとのとおり〔秘書省の職務の担当〕とされた。ときに、賈謐は恵帝が宣武観に行幸して校猟6動物を柵で囲って狩猟すること。を見物するのに随行したが、その会の最中、尚書に対し、自分を召して拝命(官職の任命)を授けるよう遠回しに要求し7吏部に自分の要求する官職を授けるよう冗談のつもりで言ったのだろう。、周囲の人々に他人に教えてはならないと警告した。このとき、多くの人々は、賈謐は異心を抱いているのではないかと疑念をもった。賈謐は親貴(外戚で高貴な身分)であったので、しばしば二宮8ひとつは皇太子の宮だが、もうひとつは皇帝の宮か。に入り、愍懐太子といっしょに遊んだりくつろいだりしていたが、己れを抑えて太子を立てる心がなかった。しょっちゅう太子と奕棊の手をめぐって言い争いをしていたが、成都王穎が同席していたさい、〔成都王は〕顔色を正して「皇太子は国家の後継ぎですぞ。賈謐ごときが無礼をなすとは何事か」と言った。賈謐は恐怖し、この件を賈后に報告したところ、〔賈后は〕とうとう成都王を地方に出して平北将軍とし、鄴に出鎮させた。
 散騎常侍になると、東宮に侍講(侍って学問を講義する)することになったが、愍懐太子は心中で不快に思っているようだったため、賈謐はこのことを不安に感じた。しかも、賈謐の家にはしばしば不思議な現象が起こっていた。〔列挙すると、〕つむじ風が朝服を上空数百丈にまで吹き上げると、〔朝服は〕御史台に落ちた。蛇がふとんの中から出てきた。夜、家に突然雷が落ちたら、柱が地面に陥没し、寝台と帳が潰れていた。賈謐はますます恐怖を感じるようになった。侍中に移ると、禁中の事柄を独占的に管轄し、ついに賈后と共謀して策略を立て、愍懐太子を誣告した。趙王倫が賈后を廃すと、詔によって賈謐を太極殿前に呼び寄せ、これを誅戮しようとした。〔賈謐は〕逃げて西の鐘の下に入ると9宮殿内の設備に詳しくないので憶測になるが、鐘は吊り下げられて地面から少し浮いた位置にあり、賈謐はくぐってその鐘の中に入り、身を護ろうとしたということではなかろうか。、「阿后おぉ10「阿后」は賈后の愛称であろう。「伯母さん」のようなニュアンスではないだろうか。、助けてくださあぁい」と叫んだ。〔趙王は〕ただちに賈謐を斬った。韓寿の末の弟である韓蔚は才幹があった。また韓寿の兄であった鞏令の韓保、弟である散騎侍郎の韓預、〔同じく弟である〕呉王友の韓鑑、賈謐の母の賈午、全員が誅殺された。
 むかし、賈充が呉の征伐に臨んだときのこと。〔賈充軍が〕項城に駐屯していたさい、賈充が軍のどこにいるのか、いきなりわからなくなったことがあった。賈充の帳下都督であった周勤はちょうど昼寝をしていたところであったが、百余人が賈充を捕まえ、ある道へ連行していく夢をみた。周勤はビックリして目が覚めると、賈充の行方がわからなくなったと聞いたので、捜索に出かけた。すると、夢でみた道をにわかに発見し、そのまま進んで探しにいった。思ったとおり、賈充を見つけたが、賈充は進んで行ってある府舎に着いたところであった。〔その府舎の〕侍従の警衛はひじょうに盛大だった。府の公(主人)は南面して座り、声と顔色はとても威圧的で、賈充に向かって言った、「わが家の事業を乱すのは、必ずおまえと荀勖だ。わが子を惑わすばかりか、わが孫まで混乱させるだろう。最近、任愷におまえを排斥させたが、〔それでもおまえは政界から〕いなくならないし、さらに庾純にもおまえを罵詈させたが、〔それでもおまえは〕改善しなかった。いま、呉の賊を平定せねばならないときなのに、おまえは上表して張華を斬ろうとしている11張華伝に「及将大挙、以華為度支尚書、乃量計運漕、決定廟算。衆軍既進、而未有克獲、賈充等奏誅華以謝天下」とある。。おまえの愚昧ぶりはぜんぶこういう調子だ。もし反省しないのならば、すぐにでも罰を下すぞ」12途中の言葉から察するに、この府公はおそらく司馬懿であろう。。そこで賈充は叩頭して額から血を流した。公、「おまえが命を長らえ、現在のような〔高い〕位に就いているのは、衛府13具体的な意味はわからないが、文脈から判断して賈充の父である賈逵を指しているものと思われる。ちなみにこのとき賈充が駐屯した項県は、賈逵が豫州刺史就任時に駐留した地であり、賈逵の死後、祠が立てられ、石碑と像があったという。『三国志』魏書一五、賈逵伝を参照。が立てた功績のゆえであるぞ。最終的には、〔おまえの〕後継ぎを鐘の隙間で死なせ、大子(年長の子供)を金酒のなかで亡くならせ、小子(年少の子供)を枯れ木の下で困らせてやろう。荀勖も同じようにするつもりだが、やつの先祖の徳は〔おまえよりも〕いささか厚いから、おまえのあとだ。荀氏も数世代後には後継ぎが絶えるだろう」。言い終わると〔賈充に〕去るように命じた。賈充は忽然として軍営に戻ることができたが、顔色は憔悴しきっていて、精神は消耗しており、一日経ってからようやく回復した。このときになって、賈謐は鐘の下で死に、賈后は金酒を飲んで死に、賈午は取り調べのさいに大きな杖で脅された。最終的にはすべて〔公の〕言葉どおりだったのである14『捜神記』二十巻本に収録されている話だが、[李二〇〇七]は「偽目疑目」に分類して『捜神記』元来の文章とはみなさず、二十巻本は本伝の記述を転載したのであろうと推測している(六五六―五七頁)。
 趙王倫が敗亡すると、朝廷は賈充の功績をさかのぼって言述し、後継者を立てることを議した。賈充の従孫であった散騎侍郎の賈衆を後継ぎに立てようよしたが、賈衆は狂ったふりをして回避した。〔賈衆の〕子の賈禿を賈充の後継ぎとし、魯公に封じたが、これまた病死してしまった。永興年間、賈充の従曾孫であった賈湛を魯公に立て、賈充のあとを奉じさせたが、戦乱に遭遇して死に、国は廃された。泰始年間、人々は賈充らのために謡言をつくってうたった、「賈、裴、王が秩序を乱す。王、裴、賈が天下を救う」。〔賈氏、裴氏、王氏が〕魏を滅ぼし、晋を創建することを言ったのである。

〔賈混、賈模、郭彰〕

 賈充の弟の賈混は字を宮寄という。篤実で、節操を固持していたが、特別な才能はなかった。太康年間、宗正卿となった。鎮軍将軍、領城門校尉を歴任し、侍中を加えられ、永平侯に封じられた。卒し、中軍大将軍、儀同三司を追贈された。
 賈充の従孫である賈彝と賈遵はどちらも判別力があり、ともに黄門郎となった。賈遵の弟の賈模がもっとも有名であった。

 賈模は字を思範という。若くして大志をもっていた。書籍をたくさん読み、そのうえ思慮深くて智略があり、意志が固く、〔出仕を拒んで処士としてまっとうしようとする志を〕奪い難かった。賈充からとても気に入られ、ことあるごとに賈模に相談していた。賈充は高齢になり、病気が重くなってくると、いつも自分の諡伝(諡号と列伝?)を心配していた。賈模は言った、「ことの是非は長い時間が経てばおのずと明らかになるもので、隠しきれるものではありません」。
 起家して邵陵令となり、ついには二宮に仕える官15おそらく皇帝の侍官と東宮の官のこと。を経て尚書吏部郎となったが、公事を理由に免官された。〔のち、〕起家して車騎将軍16おそらく楊駿だと思われる。府の司馬となった。楊駿の誅殺に協力したため、平陽郷侯に封じられ、食邑は千戸とされた。楚王瑋が詔を詐称して汝南王亮と太保の衛瓘を殺そうとすると、〔朝廷は〕詔を下し、賈模に中騶二百人17中騶は不詳。を統率させ、汝南王らを救出させようとした〔が、汝南王らはけっきょく殺されてしまった〕。
 当時、賈后は朝政に関与していたので、親族や徒党に〔朝政を〕委任しようと思い、賈模を散騎常侍に任命し、二日後には侍中に抜擢した。賈模は心を尽くして輔弼し、張華と裴頠を推薦し、〔彼らと〕心をひとつにして政治を助けた。数年のあいだに朝野が平和になったのは、賈模の働きである。すると光禄大夫を加えられた。しかし、賈模は〔侍官という実務のない官に就いていたが〕ひそかに権勢を保持しており、外面上では権力を遠ざけたがっているように振る舞っていたのである。賈后に意見を具申することがあるときは、入室するといつも私用があるとか、病気だとか言って〔要件が済むとさっさと退室し、〕賈后を避けていた18裴頠伝には「頠深慮賈后乱政、与司空張華、侍中賈模議廃之而立謝淑妃」とあり、裴頠が張華や賈模と賈后廃立を協議していたという。この記述を参照すると、本伝に記される賈模の行動は賈后を嫌っていたから避けていたというふうに読める。ただ、本伝の前文の記述を重んじると、賈模は外面上では権力とベッタリではないふうをよそおっていたために、賈后と親密であると疑われないようにこのような行動を取っていたとも読める。ここでは本伝の文脈を重んじて、賈后と親密だと疑われないように振る舞っていたと読んでおくのがよさそうに思う。。いっぽう、〔賈模が〕ふだんから嫌っていた者は、多くが中傷を受けて罪を着せられていたので、朝廷の人々は賈模をはばかり避けていた。これにくわえて、金品をむさぼり集め、財産は王公のようであった。しかし19原文は「但」。前文とどう接続するのかわからない。賈后はひじょうに強暴な性格であったため、賈模はいつも言葉を尽くして禍福を説明したが、賈后は聴き入れず、かえって賈模は自分を批判しているのだとみなしていた。こうして、〔賈后が賈模に朝政を〕委任する気持ちは日を追うごとに薄れてゆき、かえって讒言〔によって栄達しようと〕する連中がとうとう進み出るようになった。賈模は志を得られず、憂憤して病気になった。卒し、車騎将軍、開府儀同三司を追贈され、成の諡号をおくられた。子の賈遊、字は彦将があとを継ぎ、太子侍講、員外散騎侍郎を歴任した。

 郭彰は字を叔武といい、太原の人で、賈后の従甥である。賈充と日ごろから親しく付き合い、賈充の妻(郭槐)は郭彰を兄弟のように待遇した。散騎常侍、列曹尚書、衛将軍を歴任し、冠軍県侯に封じられた。賈后が朝政を専断すると、郭彰はその権勢に預かったので、人心が集まり、賓客が家に満ちた。世の人々は「賈郭」と呼んだが、これは賈謐と郭彰のことである。卒し、烈の諡号をおくられた。

賈充/附:賈謐・賈混・賈模・郭彰楊駿(附:楊珧・楊済)

(2021/9/12:公開)

  • 1
    本来の字は長淵だが、唐の高祖(李淵)の諱を避けてこう表記されている。中華書局の校勘記を参照。なお、以下の賈氏の列伝を訳出するにあたっては、小雪氏「『晋書』賈充伝 訳注(参)」、同「訳注(四)」を参照した。
  • 2
    以上の逸話は『世説新語』惑溺篇、第五章にもおおむね同じあらすじで収録されている。訳出に当たってはかなり意訳を施したが、原文の文字はなるべく尊重したつもりである。なお、『世説新語』同章の劉孝標注は、「韓寿は家風を重んじ、忠義に厚い性格であったというのに、どうしてこんなことをするだろうか。ほかの書物にはこの話は伝えられておらず、『世説』にだけ記されているから、事実であるとは信用できない(寿敦家風、性忠厚、豈有若斯之事。諸書無聞、唯見世説、自未可信)」と述べ、さらに「郭子」を参照し、そこでは韓寿がひそかに交際していたのは陳騫の娘だと記されていて、その娘と婚姻が成る前に娘が死去してしまい、そのあとで賈充の娘を娶ったと書いてあるのだという。かくして劉孝標は「ゆえに、世間では〔韓寿が交際していたのは〕賈充の娘であると広まったのであろう(故世因伝是充女)」と結論している。
  • 3
    原文「貴游豪戚及浮競之徒」。「浮競」は「軽薄で出世競争にいそしむ人々」であろう。「貴游」は「高貴な身分で仕事をせずに過ごしている人々」か。「豪戚」は「家に力がある姻族」で、いわゆる外戚をいうか。
  • 4
    賈充の妻の郭槐のこと。
  • 5
    以上の国史の限断については訳者のブログ記事「沈約『宋書』の系譜とその周辺」を参照。まず秘書省内で意見集約・統一がはかられ、秘書の意見が議として提出される。そのあとで、「三府」に命じて秘書の議を審理させる。この全体の過程こそ、恵帝が命じた「議」であると考えられる。
  • 6
    動物を柵で囲って狩猟すること。
  • 7
    吏部に自分の要求する官職を授けるよう冗談のつもりで言ったのだろう。
  • 8
    ひとつは皇太子の宮だが、もうひとつは皇帝の宮か。
  • 9
    宮殿内の設備に詳しくないので憶測になるが、鐘は吊り下げられて地面から少し浮いた位置にあり、賈謐はくぐってその鐘の中に入り、身を護ろうとしたということではなかろうか。
  • 10
    「阿后」は賈后の愛称であろう。「伯母さん」のようなニュアンスではないだろうか。
  • 11
    張華伝に「及将大挙、以華為度支尚書、乃量計運漕、決定廟算。衆軍既進、而未有克獲、賈充等奏誅華以謝天下」とある。
  • 12
    途中の言葉から察するに、この府公はおそらく司馬懿であろう。
  • 13
    具体的な意味はわからないが、文脈から判断して賈充の父である賈逵を指しているものと思われる。ちなみにこのとき賈充が駐屯した項県は、賈逵が豫州刺史就任時に駐留した地であり、賈逵の死後、祠が立てられ、石碑と像があったという。『三国志』魏書一五、賈逵伝を参照。
  • 14
    『捜神記』二十巻本に収録されている話だが、[李二〇〇七]は「偽目疑目」に分類して『捜神記』元来の文章とはみなさず、二十巻本は本伝の記述を転載したのであろうと推測している(六五六―五七頁)。
  • 15
    おそらく皇帝の侍官と東宮の官のこと。
  • 16
    おそらく楊駿だと思われる。
  • 17
    中騶は不詳。
  • 18
    裴頠伝には「頠深慮賈后乱政、与司空張華、侍中賈模議廃之而立謝淑妃」とあり、裴頠が張華や賈模と賈后廃立を協議していたという。この記述を参照すると、本伝に記される賈模の行動は賈后を嫌っていたから避けていたというふうに読める。ただ、本伝の前文の記述を重んじると、賈模は外面上では権力とベッタリではないふうをよそおっていたために、賈后と親密であると疑われないようにこのような行動を取っていたとも読める。ここでは本伝の文脈を重んじて、賈后と親密だと疑われないように振る舞っていたと読んでおくのがよさそうに思う。
  • 19
    原文は「但」。前文とどう接続するのかわからない。
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