巻三十六 列伝第六 衛瓘(1)

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衛瓘附:衛恒・衛璪・衛玠・衛展張華(1)張華(2)・附:張禕・張韙・劉卞

 衛瓘は字を伯玉といい、河東の安邑の人である。高祖父の衛暠は漢の明帝の時代に、儒学を修めていたために代郡から〔洛陽に〕召されたが1これに従えば、もともとの出身は代郡であったのだろう。、河東の安邑に着いたところで卒してしまった。そこで〔朝廷は〕衛暠が没した土地を下賜して埋葬させたので、子孫はとうとう〔安邑に〕居を構えたのである。父の衛顗は魏の列曹尚書であった2『三国志』魏書二一に列伝あり。。衛瓘は十歳のときに父を亡くしたが、ひじょうに孝行で、人並み以上であった。性格はまじめでおとなしく、名理3魏晋以降の清談で、事物の名称とその道理を分析する論理。(『漢辞海』)に長け、明るい見識と清らかな公正さによって称賛を得た。父の爵である閿郷侯を継いだ。弱冠の年齢で魏の尚書郎になった。当時、魏の法令は厳酷で、母の陳氏は衛瓘の身を心配したが、衛瓘はみずから〔昇進を〕願い出て中書通事郎に移ることがかない、〔ついで〕中書郎に転じた。そのころ、権臣が政治を牛耳っていたが、衛瓘はそうしたさなかを悠々と立ち回り、親しいひとも疎遠なひともいなかった。傅嘏からたいへん尊重を受け、衛瓘のことを甯武子と評していた4『論語』公冶長篇に「甯武子、邦有道則知、邦無道則愚、其知可及也、其愚不可及也」とあるのを言うか。。在位十年のあいだ、職務をよくこなしていることで評判をあげ、散騎常侍にまで昇進した。陳留王が即位すると、侍中に任じられ、節を手にして河北地方を慰問した。議を定めた功績(不詳)により、食邑を加増された。数年後、廷尉卿に転じた。衛瓘は法律に精通し、訴訟を裁くときにはいつでも、案件の大小に関係なくことごとく真実にもとづいて判決した5原文「小大以情」。「情」は実情、真実の意。『左伝』荘公十年に「小大之獄、雖不能察、必以情」とある。
 鄧艾と鍾会が蜀を征伐したとき、衛瓘は本官を帯びたまま持節となり、鄧艾と鍾会の軍事を監督し、行鎮西軍司6このときの鎮西将軍は鍾会。となり、兵千人を支給された。蜀が平定されると、鄧艾は独断で承制を称し、〔蜀の旧臣や自分の部下に〕封爵や官職を授けた7『三国志』魏書二八、鄧艾伝に詳しい記述がある。「輒依鄧禹故事、承制拝〔劉〕禅行驃騎将軍、太子奉車、諸王附馬都尉。蜀群司各随高下拝為王官、或領艾官属。以師纂領益州刺史、隴西太守牽弘等領蜀中諸郡」とある。。鍾会はひそかに異心を抱いていたので、鄧艾が独断している件につけこんで、秘密裏に衛瓘と連名で鄧艾の専横を奏上した。詔が下り、〔朝廷は〕檻車を送って鄧艾を〔洛陽へ〕召し出させたが、鍾会は衛瓘をつかわし、〔檻車よりも〕先に鄧艾を拘束させようとした8『三国志』魏書二八、鍾会伝だと、衛瓘の派遣は司馬昭の指示であったとされる。「会内有異志、因鄧艾承制専事、密白艾有反状、於是詔書檻車徴艾。司馬文王懼艾或不従命、勅会並進軍成都、監軍衛瓘在会前行、以文王手筆令宣喩艾軍、艾軍皆釈仗、遂収艾入檻車」とある。。鍾会は、衛瓘の兵が少ないのを利用し、鄧艾に衛瓘を殺させ、それによって鄧艾の罪を重くしようとたくらんだのである。衛瓘は〔鍾会が〕自分を危険に陥れようとしているのを察知したが、拒むことができず、そこで夜に成都に到着し、鄧艾が統率している諸将に檄書を送り、「詔によって鄧艾を拘束するが、そのほかの者はいっさい罪を問わない、もし官軍(衛瓘側)に参集すれば、封爵や褒賞は過日〔に鄧艾が授けたもの〕のとおりだが、あえて参集しなければ、誅殺は三族にまで及ぶだろう」と周知した。鶏鳴の時刻になると、全員が衛瓘のもとに参じ、鄧艾の本営だけが成都城内に残っていた9原文「唯艾帳内在焉」。よくわからない。ひとまず「帳」を後文に見える「本営」と同じ意味で解釈し、「鄧艾直属の本営以外はすべて衛瓘のもとに集った」という意味で訳出を試みた。。平旦の時刻になって門が開くと、衛瓘は使者の車に乗り、まっすぐ入城して進み、成都宮殿の前に到着した。鄧艾は寝ていてまだ起きておらず、父子ともども捕えられた。鄧艾の諸将は鄧艾を奪還しようと謀り10この諸将は衛瓘に呼応した鄧艾監督下の諸将ではなく、成都城内に残っていた鄧艾直属の本営の諸将であろう。、武装を整えて衛瓘の軍営へ向かった。衛瓘は軽装で彼らを出迎えると、上表文を作成しているように見せかけ、鄧艾の一件について弁護し、無罪を明らかにするつもりだと語ったので、諸将はこれを信じて計画を中止した。
 にわかに鍾会が到着すると、諸将の胡烈らを全員〔成都の宮殿に〕召集し、そのまま彼らを拘束し、益州(蜀漢?)益州刺史府の官庁に軟禁し(2022/10/6:修正)、ついに挙兵してそむいた。かくして〔事情を伝えられていない鍾会軍の〕兵士は帰郷を望み、内外が浮き足だち、人心は不安を抱いた。鍾会は衛瓘を〔胡烈らとはちがって拘束せず、成都の宮殿に〕留めて謀議すると、木板に「胡烈どもを葬りたい」と書き、手に持って衛瓘に見せた。衛瓘は承諾しなかったため、たがいに疑心を向けあうようになった11『三国志』鍾会伝だと、或るひとが「胡烈らを全員殺すべきだ」と言ったが、鍾会は迷って決断できなかったとある。。衛瓘が便所に中座したさい、胡烈の以前の給使(雑用人)を見かけたので、〔その者をつかわして、外にいる〕諸軍の将士へ言葉を伝えさせ、鍾会が反乱を起こしたと話させた。鍾会は衛瓘に腹をくくるよう迫り、徹夜で一睡もとらず、おのおの刀を膝の上に横たえていた。宮殿外では、諸軍がすでに潜伏し、鍾会を攻めようとしていたが、衛瓘がまだ出てこないため、先にしかけられずにいた。鍾会は衛瓘に〔外の〕諸軍を慰問させることにした12もちろん鍾会は諸軍に動きがあることを知らないので、ずっとほったらかしにしている諸軍の将士の様子をみてくるように言ったということだろう。。衛瓘は内心、立ち去りたいと思っていたが、鍾会の推測を固めさせようと思い13原文「堅其意」。『史記』巻一〇九、李将軍列伝に「〔李〕広曰、『彼虜以我為走、今皆解鞍以示不走、用堅其意』。於是胡騎遂不敢撃」と用例があり、おそらく〈相手の推測・疑念を確信へ固めるさせる〉という意味。鍾会が衛瓘の本心を探ってきたので、「ここから去るつもりはない」との態度を示し、鍾会に「そういう意向なのか」と確信を抱かせようとしたということだろう。、「あなたは三軍の主人、ご自身が行かれるべきかと」と言った。鍾会は「あなたは監察役、先にお行きください。私はあとから参ります」と言った。衛瓘はただちに宮殿から下りた。鍾会は衛瓘をつかわしたことを後悔し、ひとをやって衛瓘を呼び戻させた。衛瓘はめまいの発作が起きたと断り、わざと地面に倒れた。〔鍾会は焦れて使者を次々とつかわしたので、衛瓘が〕閤門(宮城の門)を出るころには、数十人の使者が衛瓘を追いかけるありさまであった。衛瓘が宮城外の官の建物に着くと、塩湯を服用し、おおいに嘔吐した。衛瓘はもともと虚弱だったので、本当に重態であるかのようだった。鍾会は信頼している者や医者をつかわし、衛瓘を見舞わせたが、みなが「衛瓘は起き上がれません」と報告したため、こうして鍾会には何も恐れるものがなくなった。日が沈み、成都城の門が閉じられると、衛瓘は檄書を作成して諸軍に〔鍾会討伐を〕布告した。諸軍はこぞって即座に義を唱え、日の出過ぎにいっせいに鍾会を攻めた。鍾会は左右を率いて防戦したが、諸将がこれを攻め破った。帳下の数百人のみが鍾会に従い、〔鍾会は〕宮殿を迂回して逃げようとしたが、〔衛瓘は〕これを皆殺しにした14以上の経緯にかんして、『三国志』鍾会伝だと衛瓘が暗躍したことはまったく記されていない。。衛瓘はかくして諸将を各所に配置し、人心は引き締まったのであった。
 鄧艾の本営の将士がふたたび檻車を追いかけ、檻車を壊して鄧艾を救出し、成都への帰路に就いた。衛瓘は、自分が鍾会と結託して鄧艾を罠にはめたことから、〔鄧艾が〕事件を起こすのではないかと恐れ、また鍾会誅殺の功績を独占したいとも思ったため、そこで護軍の田続を派遣した。〔田続が〕綿竹に着くと、鄧艾を三造亭で夜襲し、鄧艾と子の鄧忠を斬った。これ以前、鄧艾が江油に入ったとき、〔鄧艾の部下であった〕田続が進まなかったため。〔鄧艾は〕田続を斬ろうとしたが、ほどなく赦した。衛瓘が田続を派遣するとき、田続に「江油での屈辱に報復したらよかろう」と言葉をかけたのであった。
 事態が鎮静化されると、朝議で〔衛瓘の功績を評価して〕衛瓘を封建することが決まった。衛瓘は「蜀を平定した功績は諸軍帥の尽力ゆえであり、鄧艾と鍾会の二人が跋扈したものの、どちらも自滅したにすぎず、〔自分は〕智謀をめぐらしたとはいえ、敵軍の軍旗を抜き取るような功績はあげていない」と考え、固辞して受けなかった。使持節、都督関中諸軍事、鎮西将軍に任じられ、ほどなく都督徐州諸軍事、鎮東将軍に移り、封爵を菑陽侯15菑陽は地理志に記録がなく、詳細は不明だが、おそらく県だと思われる。に増された。〔子息に賜与された〕ほかの爵を〔弟に譲るよう願い出たのを〕もって、弟の衛実を開陽亭侯に封じた16原文「以余爵封弟実開陽亭侯」。後文にふたたび似た話が出てくるが、それも勘案すると、朝廷は衛瓘の功績を評価して子ひとりに亭侯の爵を賜わったが、衛瓘は子ではなく弟に賜与してほしいと願い出て、それが聴き入れられた、という話だと思われる。この解釈に沿って訳語を補った。
 泰始のはじめ、征東将軍に転じ、爵を菑陽公に進められ、都督青州諸軍事、青州刺史となり、〔ついで〕征東大将軍、青州牧を加えられた。赴任先ではどこでも成績をあげた。征北大将軍、都督幽州諸軍事、幽州刺史、護烏桓校尉に任じられた。鎮に到着すると、上表して平州の設置を求め、のちに平州の都督を兼任した。当時、幽州・并州の一帯には、東に務桓、西に力微がおり、どちらも辺境の騒動を起こしていた。衛瓘はこの二虜の離間をはかり、とうとう仲たがいを引き起こさせ、かくして務桓は降り、力微は憂憤した17力微は北魏の始祖神元帝である拓跋力微のこと。務桓は不明だが、『晋書斠注』の説によれば烏丸を指す。鉄弗氏の劉虎の子に同名の人物が存在するが、鉄弗氏は拓跋部よりも西方のオルドスに勢力圏が存在していたうえ、そもそもこの時代はまだ務桓が部族のリーダーにはなっていないため、劉務桓のことではない。衛瓘が北方諸族の離間をはかったことは『魏書』巻一、序紀にも記録されている。。朝廷はこの功績を嘉し、子ひとりに亭侯を賜わった。衛瓘は〔息子の代わりに〕弟を封じるように求め〔、朝廷はそれを聴き入れ〕たが、弟は封爵の詔命を授かる前に卒してしまったため、〔弟の〕子の衛密が封爵を授かり、亭侯となった。衛瓘の六人の息子には爵がなく、すべて二人の弟に譲ったので、遠近の誰もがこのことを称賛した。〔衛瓘は〕たびたび入朝したいと求め、〔許可が下りて〕まもなく〔朝廷に〕到着すると、武帝は衛瓘を手厚くもてなしたものの、〔衛瓘を〕すぐに鎮へ戻らせた。
 咸寧のはじめ、中央に召されて尚書令に任じられ、侍中を加えられた。厳格な気質で、法によって部下を統御し、列曹尚書を参佐(副官)、尚書郎を掾属(ヒラ)のように見なした。衛瓘は博学で、文芸に明るく、尚書郎であった敦煌の索靖とともに草書に巧みであったため、世の人々は「一台二妙(尚書台ひとつに達人ふたり)」と号した。後漢末の張芝(字は伯英)も草書に長けており、論者は「衛瓘は伯英の筋(文字の骨格?)をそなえ、索靖は伯英の肉(文字の肉づき?)をそなえている」と評した。
 太康のはじめ、司空に移り、侍中と尚書令はもとのとおりとされた。その為政は清静簡略で、おおいに朝野の評判を得た。武帝は勅を下し、衛瓘の第四子である衛宣に繁昌公主を降嫁した。衛瓘は「学士の子孫は18原文「諸生之胄」。「諸生」は学者の意。衛瓘の高祖父・衛暠が儒学者であったことに因んだ表現であろう。寒素な家柄のひとと配偶するのがふさわしい」と思い、上表して固辞したが、許されなかった。さらに領太子少傅となり、千兵百騎(千人の歩兵と百匹の騎馬)と鼓吹隊が備わった府を加えられた。日蝕があったため、衛瓘は太尉の汝南王亮、司徒の魏舒とともに三公を辞すことを願い出たが19漢代、三公は天地陰陽の気の調和をつかさどる官職とみなされ、天変の責任を負う存在であった。[下倉一九九七]を参照。本伝の事例は漢代的な伝統の名残であろう。、武帝は承諾しなかった。
 衛瓘は「魏は九品制を創立したが、これは暫定的な制度であって、普遍的な方法ではなく、いにしえの郷挙里選20越智重明氏[一九七〇]は周制(郷大夫による推挙)を指しているとする(二二頁)。その推測が正しいのかは判断できないが、少なくとも漢の選挙制のことを言っているわけではないと思われる。へ回帰するべきだ」と考えていた。そこで太尉の汝南王らと共同で上疏した、「むかし、聖王は賢人を尊び、善人を用いることで教化を広め、そうして朝廷を徳と謙遜で満たし、在野から悪行をなくしました。まことに考えますに、閭伍政策21原文「閭伍之政」。家を一定数でひと単位として編成し、相互に監視させる制度。『続漢書』百官志五に「里有里魁、民有什伍、善悪以告。本注曰、里魁掌一里百家。什主十家、伍主五家、以相検察。民有善事悪事、以告監官」とある。は〔人民同士が〕たがいに〔善行と悪行を〕チェックすることが可能となり、〔人材の〕言行を調べれば、必ず優れた人材を得られるようになります。人々は中身をそなえずして名声を獲得するのは不可能だと理解するため、己れの身を修養することへと立ち戻ります。こうして、賢者を尊べば風俗はますます厚くなり、悪人を退ければ品行はいよいよ篤くなるわけです。これこそ、郷挙里選が先王のうるわしい制度たるゆえんなのです。聖王以降、この制度はじょじょに廃れていきました。魏氏は〔漢朝〕顚覆の時勢を承け、戦乱のあとに創業しましたが、人士は流浪してしまっていたので、〔人材の善悪を〕調べようにも〔その者が所属している〕土地がなく、そこで九品の制度を定めたのですが、暫定的な選挙制の根幹をとりいそぎ設けたにすぎません。設立された当初では、郷邑における清議は〔人材の〕爵や官位に引きずられず、称賛や批判を加えることは勧善懲悪として十分に機能しており、まだ郷論の遺風がありました。中間(「少し前」または「途中」)からしばらく前からしだいに汚濁するようになり(2023/4/13:修正)、とうとう資(家柄)22「資」は原文まま。二通りの意味がある([宮崎一九九七]四二三頁)。ひとつは、官人の人事進退における「最大の基準」([中村圭爾二〇一五]一四三頁)を指し、官を経歴することで個人に蓄積するもので、上位の序列の官に就くための資格となる(同前、一四二―四七頁を参照)。もうひとつは「門資」「世資」などと呼ばれる類いで、蓄積された父祖代々の官歴・名声のこと、平たく言えば家柄を指す。本文は後者の意で、家柄の良さや父祖の官歴などを指しているものと思われる。を測定して品(郷品)を決定するにいたっています。天下の人民が〔人士を〕ながめるときに、官爵のある地位にいることだけを尊貴と思わせてしまい、人々は徳を捨て去って修養をないがしろにし、どうでもいい事柄で優劣を争うようになりました。〔九品制は〕風俗を毀損しており、その弊害はささいな程度には収まりません。いま、天下が統一され、おおいなる教化が緒に就きましたが、臣らが考えますに、末法(九品制)を撤廃し、すべて古制(郷挙里選)に準拠し、〔人士が所属する〕土地を定めるべきかと存じます。公卿以下全員、居住地を正規〔の所属地〕とすれば、懸隔地に客寓しながら現住地から遠く離れた土地(郷里)に所属する者は、二度といなくなるでしょう。このようにすれば、〔居住している〕郷が同じであったり、近隣に住んでいたりする人々はすべて邑里(ふるさと)のひとになりますし、郡県の長官はまさしく〔邑里の〕年長者の立場になります23原文「郡県之宰、即以居長」。よくわからない。。中正九品の制度(中正が九品を判定する制度)を完全に撤廃し、すぐれた人材を推挙させるにあたっては、めいめい郷論(郷里における評価)にもとづくようにさせるのです。そうすれば、下々の者は上の者を敬い、人民は教化に安堵し、風俗と政治はどちらも清らかになり、徳政と法治は双方ともうまくいくでしょう。人民は善悪(やっていいことと悪いこと)の教訓を理解し、人付き合いに傾注しなくなり、浮華の風潮はおのずと止み、おのおのが自己を反省するようになるでしょう。いま、九品を廃止したら、まさに古制(郷挙里選)に準拠するべきでしょう。朝臣たちにそろって〔知っている人材を〕推挙させれば、秀才を抜擢するルートが広がるだけでなく、賢者を推薦する奉公精神を奨励し、位にある者たちが聡明であるか暗愚であるかを調べることもできるでしょう。まことにうるわしい制度です」。武帝はこの意見を評価したが、けっきょく改正することはできなかった。
 恵帝が皇太子になると、朝臣らはみな「〔皇太子は〕単純で、政事を見ることはできないだろう」と思っていた。衛瓘は日ごろから太子の廃位を進言しようと思っていたが、まだ行動に移せずにいた。後日、陵雲台で宴会が開かれたとき、衛瓘は酔いにかこつけて、武帝が腰を下ろしている台の前でひざまずき、「臣(わたくし)、申しあげたいことがございます」と言った。武帝、「何かね」。衛瓘は言いかけてやめることを三度繰り返し、そして武帝の座っている台を手で撫でて、「この座台を大切にしてくだされ」と言った。武帝は〔衛瓘の意図に〕気づいたが、わざと察していないフリを装い、「公は本当にひどく酔っているな」と言った。こうして、衛瓘は二度と〔太子の廃位を〕進言しなくなった。賈后はこの一件により衛瓘を恨むようになった。
 衛宣は公主を降嫁されたが、しばしば酒や女性にまつわるトラブルを起こしていた。楊駿は平素から衛瓘と不仲で、また重い権力を独占しようとも望んでおり、衛宣が離婚すれば衛瓘はきっと辞職するだろうと考えたため、ついに黄門(宦官?)らといっしょに衛宣のことを批判し、衛宣から公主を取りあげるよう武帝に暗に薦めた。衛瓘は恥じ入って恐れ、老齢を理由に官を辞そうとした。〔武帝は〕そこで詔を下した、「司空の衛瓘はまだ引退する年齢ではないのに、何年にもわたって辞職を申し出て、精神に衰えがこないうちに本望をかなえようとしており、彼のこのうえなく純真な風流は、まことにわが心を感動させている。いま、衛瓘の願いを許してやり、位を太保に進め、公の位を保ったまま私宅に戻らせよ24閑職(太保)に進め、官位は保持させたまま実質引退扱いにしてやるということだろう。。親兵百人を支給し、〔府には〕長史、司馬、従事中郎、掾属を置くように。大車、官騎、麾蓋、鼓吹などの礼装はすべて旧来の典範のとおりとせよ。厨田十頃、園五十畝、銭百万、絹五百匹、寝台の帳寝台、帳(2022/11/3:修正)、すのこと敷物のセット竹製の敷物(2022/12/23:修正)を支給する。主者(担当の官)は〔礼遇を〕手厚く備えさせるように努め主者は〔賜与する金品を〕手厚くするように努め(2022/12/23:修正)、賢者を尊ぶわが意にかなうようにせよ」。また、有司は衛宣を逮捕し、廷尉に送り、衛瓘の位を免ずるようにも上奏したが、詔を下して却下した。武帝はのちに黄門の捏造であったことを知り、公主を元さやに収めさせようとしたが、〔果たさぬうちに〕衛宣は病死してしまった。
 恵帝が即位すると、衛瓘の千兵(千人の歩兵)の礼遇を回復した。楊駿が誅殺されると、衛瓘を録尚書事とし、緑綟綬を加え、〔殊礼を付与して〕剣を佩き、靴を履いたまま上殿すること、入朝しても小走りにならなくてもよいことを許し、騎司馬を支給し、汝南王と共同で輔政させた。汝南王が諸王を封国へ帰らせるよう上奏し、朝臣たちと朝廷で会議をおこなった。意見を言おうとする者はいなかったが、唯一衛瓘だけが汝南王の提案に賛同したので、楚王瑋はこれをきっかけに衛瓘を恨むようになった。賈后はもともと衛瓘を苦々しく思っており、いっぽうで彼の公直ぶりをはばかっていたため、羽を伸ばして淫乱を楽しむことができずにいた。そうしたところに衛瓘と楚王の間にすきま風が吹いていると知ったので、とうとう〔恵帝に告げ口して〕衛瓘と汝南王が伊尹と霍光の故事(廃位の故事)を実行しようとしていると中傷し、恵帝に進言して、衛瓘らの官を免じるよう楚王に命令する内容の手詔を作成させた。黄門がその手詔を持参して楚王に授けた。楚王は軽率で、心がねじまがった性格であり、私怨を晴らそう思ったので、夜中に清河王遐をやって衛瓘を逮捕させた25このとき、楚王は領北軍中候で、清河王はハッキリしないものの右軍将軍であった可能性が高い。北軍中候は内軍を統べるが、右軍はまさに内軍に所属する。ここで楚王が清河王をつかわしているのはこのような統属関係にもとづくのかもしれない。。衛瓘の左右の人々は、清河王が詔を詐称しているのではないかと疑ったため、「礼制においても法制においても礼制と法律のどちらの罰則においても、台輔(三公三司クラス)の大臣に対してこのたびのような処罰処置があったためしはありません(2023/3/5:修正)。ひとまず拒否していただけないでしょうか。みずから上表し、返答を得るのを待ってから死罪に就いても、遅くはありません」とみなが諫めたが、衛瓘は聴き入れなかった。〔衛瓘は〕とうとう子の衛恒、衛嶽、衛裔、および孫たち、合わせて九人といっしょに殺されてしまった26『太平御覧』巻五九六、弔文に引く「束晢弔衛巨山」に「元康元年、楚王瑋矯詔挙兵、害太保衛公及公四子三孫」とある。九人というのは女性を含めた被害者数であろうか。。享年七十二。衛恒には衛璪と衛玠の二人の子がいたが、ちょうど医者の家にいたため、難を逃れた。
 むかし、衛瓘が鄧艾を殺したと杜預が聞いたとき、人々にこう言った、「伯玉(衛瓘の字)は禍から逃れられないだろう。社会的身分は名士で、官位は総帥であるというのに、徳の評判がないどころか、下々を統御するのに正義にもとづいていない。これでは『小人であるにもかかわらず、分不相応にも君子が乗るべき車に乗っている』(『易』繋辞上伝)というもので、どうして職責を担えようか」。衛瓘はこれを耳にすると、馬車の準備を待ちきれずに慌てて謝罪に行った。最終的に杜預が言ったとおりになった。かつて、衛瓘の家人(家事をおこなう奴婢の類い)が炊飯していたとき、〔炊いた飯を〕地面に落としてしまったところ、すべて螺(カタツムリのような巻貝生物)に化けてしまったことがあった。一年あまりのち、禍が降りかかったのであった27螺の怪異は兵難を象徴するらしい。『宋書』巻三〇、五行志一に「晋恵帝永熙初、衛瓘家人炊飯、墮地、尽化為螺、出足起行。螺、亀類、近亀孽也。干宝曰、『螺被甲、兵象也。於周易為離、離為戈兵』。明年、瓘誅」とある。。太保主簿の劉繇らは危険を冒して衛瓘の遺骸を回収し、埋葬した。
 これ以前、衛瓘が司空であったときに、帳下督の栄晦が罪を犯したため、衛瓘は彼を〔罷免して〕追放した。禍が起こると、〔栄晦は〕兵を率いて衛瓘を討ちにいったので、子孫もみな禍に巻き込まれたのである。
 楚王が誅殺されると、衛瓘の娘は菑陽国の臣に書簡を送って言った、「先公(亡きちちぎみ)は諡号がまだ定められず28〈諡号が定められていない〉とは、生前の功績が顕彰されていないということを意味する。、凡人とちがいがない状態におかれていますのに、国じゅうが押し黙って何も言わないことをいつも不思議に思っています。『春秋』が批判するような過失が〔亡父の〕どこにあったのでしょうか。悲憤が込みあがって参りますので、こうして私の心をお伝えしました」。こうして、劉繇らは黄旙(黄色い旗)を持って登聞鼓を叩き、上言した、「過日、詔を詐称した使者が到着したとき、公(衛瓘)はその矯詔の免官命令に従い、即座に印綬を返還し、武装があったにもかかわらず、まったく抵抗しませんでした。〔官庁から私宅に帰らされ、ついでさらに〕私宅を出るようにと重ねて指示を受けても、車ひとつで命令に従いました29原文「重勅出第、単車従命」。衛瓘が矯詔の命令を聞いた場所は、そのときに太保府の左右の者たちがいたことなどから鑑みて、おそらく官庁・官舎だったのではないかと思われる。後文および巻五九、楚王瑋伝によれば、矯詔は免官と同時に私宅へ帰るように命令していたらしいので、その命令を受けて衛瓘が私宅へ帰り、それからさらに私宅を出るように(「出第」)との再命令(「重勅」)を受けたのではなかろうか。とりあえずそうした経緯と解釈して訳出した。。矯詔の文章のとおりならば、公の官を免じるのみでしたが、右軍将軍以下30後文にみえる栄晦の出勤先。は〔栄晦が捏造した?〕偽りの命令にすぐに従ってしまい、矯詔の本文にそむき、かってに宰相を殺し、まったく裁可をうかがおうとせず、道理にもとって公の子や孫を捕え、独断で全員に刑を執行しました。〔こうしてのべ〕大臣の父子九人を殺害したのです。伏して〔先日の〕詔書を拝見しますと、『楚王に騙された者は本心から謀略に賛同していた者ではないため、すべて赦して釈放する』とあります。詔書の主旨のとおりならば、脅迫されて白杖を持たされていた里舎人(里の宿泊所で働くひと)のことを言っているだけになります。律によれば、教唆を受けてひとを殺した場合は、死を免れることはできません。まして、功臣を手にかけ、忠良の臣を殺害したのならば、たとえ同謀者ではなかったとしても、道理として赦される人間ではありません。いま、悪の首謀者(楚王)は誅殺されたとはいえ、殺害の実行犯はまだ命を保っています。臣が懸念しておりますのは、有司が事実を究明しないか、遺漏を残したまま詳細まで突き詰めないかいずれかになってしまって、公父子の仇を永らえさせることになってしまい、冤罪の魂に永遠に恨みを抱かせて天に訴えさせ、ひどい目にあった臣を公明な御世において悲しませてしまうのではないか、ということです。臣らも負傷し31前後との接続がよくわからないが、〈負傷したけれども最近癒えてようやく落ち着いた〉ということか。、かりもがり(遺体を納棺し、棺のまま安置する)がようやく明けました。そこで謹んで列挙いたします。瓘が以前に司空であったとき、帳下給使(帳下督)の栄晦は不実ゆえに更迭されましたが、彼は瓘の家の人数、および子や孫の名と字を把握していました。栄晦はのちに転任し、右軍府32当時の右軍将軍は不明。巻六四、武十三王伝、清河王遐伝には「及楚王瑋之挙兵也、使遐収衛瓘、而衛瓘故吏栄晦遂尽殺瓘子孫、遐不能禁、為世所尤」とあり、栄晦の上司は清河王だったかのごとくなので、清河王が右軍将軍だったのかもしれない。に給仕しました。かの夜、栄晦は〔瓘の官舎の〕門外で大声をあげて〔瓘を〕呼び出し、『公を免官して私宅に帰らせる』という詔を読みあげました。門が開くと、栄晦は中門まで進み、ふたたび持って来た偽詔を読みあげ、公の印綬と貂蝉の冠を手ずから取りあげ、私宅に向かうよう公を催促しました。栄晦は宿泊先を巡回して瓘の家族、および子と孫を捕え33原文「晦按次録瓘家口及其子孫」。「按次録」はよくわからない。衛瓘とその子は別居していたのだろうか。、全員を武装兵で護送させ、東亭道の北に〔全員が〕到着すると、〔公らの〕周囲を囲んで逃げられないようにし、またたくまにみなを斬ってしまいました。公の子や孫を殺したのは、まことに栄晦のせいです。そしてひとを率いて太保府の倉庫を強奪したのも、すべて栄晦がやったことです。栄晦ひとりを捜査してみれば、数多くの悪事がことごとく〔栄晦から〕発せられていることでしょう。取り調べて真実と虚偽を究明し、族誅の罰を加えていただきますよう、お願い申し上げます」。詔が下り、聴き入れられた。
 朝廷は、衛瓘が一族こぞって冤罪の禍をこうむったことを理由に、衛瓘が蜀を征伐した勲功をさかのぼって顕彰し、蘭陵郡公に封じ、食邑を三千戸加増し、成の諡号をおくり、仮黄鉞を追贈した。

衛瓘附:衛恒・衛璪・衛玠・衛展張華(1)張華(2)・附:張禕・張韙・劉卞

(2022/10/3:公開)

  • 1
    これに従えば、もともとの出身は代郡であったのだろう。
  • 2
    『三国志』魏書二一に列伝あり。
  • 3
    魏晋以降の清談で、事物の名称とその道理を分析する論理。(『漢辞海』)
  • 4
    『論語』公冶長篇に「甯武子、邦有道則知、邦無道則愚、其知可及也、其愚不可及也」とあるのを言うか。
  • 5
    原文「小大以情」。「情」は実情、真実の意。『左伝』荘公十年に「小大之獄、雖不能察、必以情」とある。
  • 6
    このときの鎮西将軍は鍾会。
  • 7
    『三国志』魏書二八、鄧艾伝に詳しい記述がある。「輒依鄧禹故事、承制拝〔劉〕禅行驃騎将軍、太子奉車、諸王附馬都尉。蜀群司各随高下拝為王官、或領艾官属。以師纂領益州刺史、隴西太守牽弘等領蜀中諸郡」とある。
  • 8
    『三国志』魏書二八、鍾会伝だと、衛瓘の派遣は司馬昭の指示であったとされる。「会内有異志、因鄧艾承制専事、密白艾有反状、於是詔書檻車徴艾。司馬文王懼艾或不従命、勅会並進軍成都、監軍衛瓘在会前行、以文王手筆令宣喩艾軍、艾軍皆釈仗、遂収艾入檻車」とある。
  • 9
    原文「唯艾帳内在焉」。よくわからない。ひとまず「帳」を後文に見える「本営」と同じ意味で解釈し、「鄧艾直属の本営以外はすべて衛瓘のもとに集った」という意味で訳出を試みた。
  • 10
    この諸将は衛瓘に呼応した鄧艾監督下の諸将ではなく、成都城内に残っていた鄧艾直属の本営の諸将であろう。
  • 11
    『三国志』鍾会伝だと、或るひとが「胡烈らを全員殺すべきだ」と言ったが、鍾会は迷って決断できなかったとある。
  • 12
    もちろん鍾会は諸軍に動きがあることを知らないので、ずっとほったらかしにしている諸軍の将士の様子をみてくるように言ったということだろう。
  • 13
    原文「堅其意」。『史記』巻一〇九、李将軍列伝に「〔李〕広曰、『彼虜以我為走、今皆解鞍以示不走、用堅其意』。於是胡騎遂不敢撃」と用例があり、おそらく〈相手の推測・疑念を確信へ固めるさせる〉という意味。鍾会が衛瓘の本心を探ってきたので、「ここから去るつもりはない」との態度を示し、鍾会に「そういう意向なのか」と確信を抱かせようとしたということだろう。
  • 14
    以上の経緯にかんして、『三国志』鍾会伝だと衛瓘が暗躍したことはまったく記されていない。
  • 15
    菑陽は地理志に記録がなく、詳細は不明だが、おそらく県だと思われる。
  • 16
    原文「以余爵封弟実開陽亭侯」。後文にふたたび似た話が出てくるが、それも勘案すると、朝廷は衛瓘の功績を評価して子ひとりに亭侯の爵を賜わったが、衛瓘は子ではなく弟に賜与してほしいと願い出て、それが聴き入れられた、という話だと思われる。この解釈に沿って訳語を補った。
  • 17
    力微は北魏の始祖神元帝である拓跋力微のこと。務桓は不明だが、『晋書斠注』の説によれば烏丸を指す。鉄弗氏の劉虎の子に同名の人物が存在するが、鉄弗氏は拓跋部よりも西方のオルドスに勢力圏が存在していたうえ、そもそもこの時代はまだ務桓が部族のリーダーにはなっていないため、劉務桓のことではない。衛瓘が北方諸族の離間をはかったことは『魏書』巻一、序紀にも記録されている。
  • 18
    原文「諸生之胄」。「諸生」は学者の意。衛瓘の高祖父・衛暠が儒学者であったことに因んだ表現であろう。
  • 19
    漢代、三公は天地陰陽の気の調和をつかさどる官職とみなされ、天変の責任を負う存在であった。[下倉一九九七]を参照。本伝の事例は漢代的な伝統の名残であろう。
  • 20
    越智重明氏[一九七〇]は周制(郷大夫による推挙)を指しているとする(二二頁)。その推測が正しいのかは判断できないが、少なくとも漢の選挙制のことを言っているわけではないと思われる。
  • 21
    原文「閭伍之政」。家を一定数でひと単位として編成し、相互に監視させる制度。『続漢書』百官志五に「里有里魁、民有什伍、善悪以告。本注曰、里魁掌一里百家。什主十家、伍主五家、以相検察。民有善事悪事、以告監官」とある。
  • 22
    「資」は原文まま。二通りの意味がある([宮崎一九九七]四二三頁)。ひとつは、官人の人事進退における「最大の基準」([中村圭爾二〇一五]一四三頁)を指し、官を経歴することで個人に蓄積するもので、上位の序列の官に就くための資格となる(同前、一四二―四七頁を参照)。もうひとつは「門資」「世資」などと呼ばれる類いで、蓄積された父祖代々の官歴・名声のこと、平たく言えば家柄を指す。本文は後者の意で、家柄の良さや父祖の官歴などを指しているものと思われる。
  • 23
    原文「郡県之宰、即以居長」。よくわからない。
  • 24
    閑職(太保)に進め、官位は保持させたまま実質引退扱いにしてやるということだろう。
  • 25
    このとき、楚王は領北軍中候で、清河王はハッキリしないものの右軍将軍であった可能性が高い。北軍中候は内軍を統べるが、右軍はまさに内軍に所属する。ここで楚王が清河王をつかわしているのはこのような統属関係にもとづくのかもしれない。
  • 26
    『太平御覧』巻五九六、弔文に引く「束晢弔衛巨山」に「元康元年、楚王瑋矯詔挙兵、害太保衛公及公四子三孫」とある。九人というのは女性を含めた被害者数であろうか。
  • 27
    螺の怪異は兵難を象徴するらしい。『宋書』巻三〇、五行志一に「晋恵帝永熙初、衛瓘家人炊飯、墮地、尽化為螺、出足起行。螺、亀類、近亀孽也。干宝曰、『螺被甲、兵象也。於周易為離、離為戈兵』。明年、瓘誅」とある。
  • 28
    〈諡号が定められていない〉とは、生前の功績が顕彰されていないということを意味する。
  • 29
    原文「重勅出第、単車従命」。衛瓘が矯詔の命令を聞いた場所は、そのときに太保府の左右の者たちがいたことなどから鑑みて、おそらく官庁・官舎だったのではないかと思われる。後文および巻五九、楚王瑋伝によれば、矯詔は免官と同時に私宅へ帰るように命令していたらしいので、その命令を受けて衛瓘が私宅へ帰り、それからさらに私宅を出るように(「出第」)との再命令(「重勅」)を受けたのではなかろうか。とりあえずそうした経緯と解釈して訳出した。
  • 30
    後文にみえる栄晦の出勤先。
  • 31
    前後との接続がよくわからないが、〈負傷したけれども最近癒えてようやく落ち着いた〉ということか。
  • 32
    当時の右軍将軍は不明。巻六四、武十三王伝、清河王遐伝には「及楚王瑋之挙兵也、使遐収衛瓘、而衛瓘故吏栄晦遂尽殺瓘子孫、遐不能禁、為世所尤」とあり、栄晦の上司は清河王だったかのごとくなので、清河王が右軍将軍だったのかもしれない。
  • 33
    原文「晦按次録瓘家口及其子孫」。「按次録」はよくわからない。衛瓘とその子は別居していたのだろうか。
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