巻四十三 列伝第十三 山濤(1)

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山濤(1)山濤(2)附:山簡・山遐王戎(1)王戎(2)附:王衍附:王澄・郭舒楽広

 山濤は字を巨源といい、河内の懐の人である。父の山曜は宛句令であった。山濤は幼年時に父を亡くし、貧乏な生活を送った。若くして度量があり、超然としていてひとと群れなかった。老荘を好む趣向で、いつも身をひそめて目立たないようにしていた。嵆康や呂安とは気が合い、のちに阮籍と知り合うと、竹林の交友を結び、忘言の誓いを立てた1原文「著忘言之契」。「忘言」は『荘子』雑篇、外物篇にある有名な話にもとづく語。漁や猟で使う罠は獲物を捕えるためのもの。漁師や猟師は獲物を捕まえたら罠のことは忘れてしまう。これと同じように、言葉は意味をとらえるためのもの。意味を得たら言葉は忘れてしまってかまわない。私も言葉にとらわれずに忘れてしまえるひと、つまり真理を理解したら言葉を棄ててしまえるひとと語り合いたい。――という話。本文の「忘言之契」というのは、山濤らのあいだで共有した交際ポリシーのことで、それが荘子のいう「忘言之人」志向であったということであろう。。嵆康はのちに事件で罪を得たが、処刑の執行直前、子の嵆紹に言った、「巨源がいる。おまえは父なし子ではないからな」。
 山濤は四十歳にしてはじめて河内郡の主簿となり、功曹、上計掾と歴任した。孝廉に挙げられ、司州が河南郡の部従事2『宋書』巻四〇、百官志下、州刺史に刺史の属官として「部従事史、毎郡各一人、主察非法」とあり、州下の郡ごとに一人配置され、監察を担ったという。に辟召した。石鑑といっしょに泊まったとき、山濤は夜に起き上がって石鑑を蹴り、「どういう情勢下で眠りこけているのだ。太傅(司馬懿)が病気で臥せっているのはどういう意図なのかわかっているのか」と言うと、石鑑は言う、「宰相(司馬懿)は三日にわたって朝見されなかったので3原文「宰相三不朝」。『世説新語』政治篇、第五章の劉孝標注に引く「虞預晋書」が「宰相三日不朝」と記すのに従って訳出した。、〔朝廷は〕詔を授けて私宅に帰らせたのだろう。君は何を心配しているのだ」。山濤は「ケッ! 石生(石のおぼっちゃま)は兵乱のさなかにあっても無事なんだろうな」と言うと、伝を放り棄てて4原文は「投伝」。「伝」は関津の通過に必要な身分証明書のこと。[大庭一九八二]第五篇第一章を参照。「投」は投げ棄てるの意。「投伝」で官職を棄てることの喩え(『漢語大詞典』)。立ち去った5山濤は司馬懿がクーデターを起こすつもりだと予見していたので、危険な夜中に呑気に寝ている石鑑を叱り飛ばし、いっしょに避難しようと誘ったのだが、石鑑はまったく状況を理解していなかったので呆れて独りで逃げたということであろう。。二年経たずにはたして曹爽誅殺の政変が起こり、けっきょくそのまま隠退し、政治とは関わりを絶った6宣帝紀によれば、司馬懿が病気と称して政治から離れたのは正始八年五月、曹爽誅殺は二年後の嘉平元年正月である。
 宣穆皇后(司馬懿の妻の張春華)と中表(異姓のいとこ)の親類関係にあったため、景帝に面会した。景帝は「呂望(太公望)は主君を探していたのではなかったかね」と言い、司隷校尉に命じて秀才に挙げさせ、郎中に任じた。驃騎将軍の王昶の従事中郎に転じた。しばらくすると趙国の相に任じられ、尚書吏部郎に移った。文帝は山濤に書簡を送って言った、「足下は職務において公正で、高雅な節義は世の人々をはるかに超絶している。欠乏している物が多いというのが気にかかるので、銭二十万、穀物二百斛を贈ろう」。あるとき、魏の皇帝が景帝に春服を下賜したが、景帝はそれを山濤に下賜してしまった。また、〔山濤の〕母が高齢のため、アカザの茎で作った杖もひとつ下賜した。
 歳を取ってから列曹尚書の和逌と交友し、また鍾会や裴秀とも親交を結んだ。〔鍾会と裴秀の〕二人は要職に就いて権力争いをしていたので、山濤は公平な心で中立を保った。そのため、二人はそれぞれの居場所を得て7原文「各得其所」。権力争いに決着がつき、片方が増長して片方が失脚したり左遷されたりする(居場所を失う)という事態にはならず、どちらも政界でしかるべき居場所を保った、という意味で解釈した。、しかも二人とも〔山濤のことを〕恨まなかった。大将軍(文帝)の従事中郎に移った。鍾会が蜀で反乱を起こすと、文帝は西方へ征伐に赴こうとした。その当時、魏氏(曹氏)の諸王公はみな鄴にいたので、文帝は山濤に言った、「西側は私がかたづける。後方は卿に託す」。〔文帝は山濤に〕本官をもって軍司馬を兼任させ、親兵五百人を支給し、鄴に駐屯させた。
 咸煕のはじめ、新沓子に封じられた。相国(文帝)の左長史に転じ、〔相国府の〕別営(別働部隊)を統括した。当時、文帝は、山濤が郷里(河内郡)における旧来からの名士であることから、太子(武帝)に山濤へ拝礼するよう命じていた。文帝は斉王攸に景帝のあとを継がせ、また日ごろから斉王をかわいがっていた。あるとき、裴秀に訊ねて言った、「大将軍(景帝)の創業は未完に終わってしまった。私は残りの仕事を受け継いだにすぎない。そこで攸を後継者に立てて、功業を兄上に返還しようと考えているのだが、どう思うかね」。裴秀は反対したため、さらに山濤に訊ねた。山濤は返答して言った、「長子を廃して年少の子を立てるのは、礼にそむいていて不吉です。国家が安全になるか危険になるかは、いつも必ずこの問題に原因があります」。こうして、太子の位はようやく定まったのである。太子(武帝)は山濤に直接拝礼して感謝を述べた。武帝が受禅すると、山濤を守大鴻臚とし、〔山濤に〕陳留王(曹魏の元帝)を護送させて鄴へ届けさせた。泰始のはじめ、奉車都尉を加えられ、爵を新沓伯に昇格された。
 羊祜が朝政を握ると、当時の朝臣らは裴秀を失脚させようとした。山濤は顔色を正して裴秀を擁護したが、これが原因で権臣の支持を失い、地方に出されて冀州刺史とされ、寧遠将軍を加えられた。冀州の風俗は軽薄で、〔その地の人々は〕人材を推薦しあうことがなかった。山濤は隠者や下位でくすぶっている者を抜擢し8原文「甄抜隠屈」。「隠屈」はあまり見ない表現。『北堂書鈔』巻七二、刺史「甄抜隠士」に引く「王晋書」は「隠士」に作っている。本文は「隠居」の訛誤である可能性もあるが、原文のままに訳出しておく。、賢才を探し出し、大夫を招く旗を用いて三十余人を招聘し、任命したが、みな名声を当時に揚げた。民衆は尊敬の念を抱き、風俗はすこぶる改まった。北中郎将、督鄴城守事に転じた。中央に入って侍中となり、列曹尚書に移った。母の高齢を理由に辞職を願い出ると、詔が下って言った、「君は親の顔色をうかがって孝養を尽くすことに心が向いているようだが、官職には軽重の別があるし9原文「職有上下」。官職によって重要度にちがいがある=君の官職は重要で欠くべきではないから辞めないでほしいということであろう。、〔現状でも親の〕朝夕の服薬がままならないわけでもない。しばらくのあいだは私情を断ち切り、公務に努める精神を尊ぶように」。山濤は心から辞職を求め、上表や上疏が数十回にものぼり、しばらく経ってからようやく承認された。〔しかし完全に朝廷から退くことは許されず?、閑職の〕議郎に任じられた。武帝は、山濤は清貧なので母親に食事を出せないだろうと思い、特別に毎日の食事引換券を発給し10原文「特給日契」。「日契」は『漢語大詞典』の「毎日食事を支給することを証明する引換券を言う(指毎天供給膳食的憑証契券)」とあるのに従った。、そのうえ寝台、帳、敷物を下賜した。礼秩11原文まま。俸禄を指して使われることもある語だが、ここではたんに礼遇の意か。は〔このようなまでに〕高く、当時において匹敵する者はいなかった。
 のちに太常卿に任じられたが、病気を理由に就任しなかった。このころ、母の喪があったので、郷里に帰った。山濤は耳順(六十歳)を過ぎていたが、服喪の礼は過度で、土を背負って墳墓をつくり、松とコノテガシワを墓の周りにみずから植えた12松とコノテガシワは「常緑樹で葉の色が変わらないことから、人の節操・長寿・繁栄のたとえ」(『漢辞海』)。長く茂って枯れないという特性から、墓の目印としても植えられた。。詔が下った、「私と心を合わせて教化を成功に導く者は、人材を官に選抜する職務に就いている者である。現今は風俗が退廃しつつあり、人心は顕示欲が強く、浮動しているゆえ、善悪(やっていいことと悪いこと)の区別を尊重して明示し、身を退いて謙遜する精神によって鎮静させねばならない13原文「方今風俗陵遅、人心進動、宜崇明好悪、鎮以退譲」。『北堂書鈔』巻六〇、吏部尚書「用人密啓後奏」に引く「王隠晋書」に「今風俗凌遅、豈宜鎮以退譲」とあり、中華書局はこのとおりに「鎮」の上に「豈宜」があったほうが文意が通じるとして、王隠『晋書』を正しいとしている。しかし私にはとてもそうは思えない。人心が「進動」している風俗を「退譲」によって落ち着かせたいという意味になっており、まったく不自然さはないように思われる。。山太常はいまなお服喪中で、職務に呼び戻すのがはばかられる悲しみのなかにあるが14原文「情在難奪」。「奪情」(「父母の喪中に召されて職務を遂行する」、『漢辞海』)にもとづいた表現。、現在は政務が膨大に存在しているというのに、どうして服喪を完遂する意志をまっとうできようか。そこで、山濤を吏部尚書とする」。山濤は喪と病気を理由に辞退し、その上奏文はひじょうに誠実であった。ちょうど元皇后15武帝皇后の楊氏のこと。二人いる楊后のうち、一人目のほう。が崩じたので、とうとう介助を受けながら洛陽へ戻った。詔に迫られたので、介助を受けずに職務に就いた。選挙を始めてしばらくの間に、内外の人材をくまなく挙げ、そのうえすべて適材であった。
 咸寧のはじめ、太子少傅に転じ、散騎常侍を加えられた。〔ついで〕尚書僕射に任じられ、侍中を加えられ、領吏部とされた。高齢と病気を理由に固辞し、上表して心のうちを述べた。上奏文の上呈が数十にのぼり、長いあいだ職務を執らなかったため、尚書左丞の白褒から批判の上奏を受けた。武帝、「山濤は病気を理由とした辞職をみずから奏聞している。たんにそれを〔朕が〕承認していないだけだ。山濤に坐臥させたまま選考をおこなわせればよいのであって、どうして〔山濤を〕異動させる必要があるだろうか16原文「使濤坐執銓衡則可、何必上下邪」。「坐」は病気を療養している状態をおそらく指す。下の句の「上下」は「昇降」の意味で取った。「療養させながら職務を執らせればよいのだから、吏部尚書の職から免ずる必要はない」ということであろう。。〔山濤を〕批判することは許されない」。山濤は不安を覚えたので、上表して謝罪した、「いにしえの王道は正直(公正無私であること)だけでした。陛下はひとりの老臣に不公平な私情を加えるべきではありませんし、臣も何度も時間をかけてしまうことは望んでいません17原文「臣亦何心屡陳日月」。「臣亦何心、……」は「……をする心であるものでしょうか」という意。百衲本、和刻本は「陳」を「塵」に作るが、「塵」には「久しい」の意味があり、「陳」字に通じるという(『漢辞海』)。中華書局はこの箇所に校勘記を付していないので、やはり「陳」と「塵」を同義で読んでいるのだろう。そこで「陳」を「久しい」の意で読んだ。直前の「正直」と係っているのだとすれば、自分が辞意を繰り返し表明しているのは、わざとらしい謙遜を見せようとしているのではなく、実直に願っているのだ、ということになろうか。。〔白褒が〕上表したとおりにしていただき、典刑18原文まま。普遍的な法のこと。常刑、常法ともいう。を明らかになさいますよう」。武帝はふたたび手詔を下して言った、「白褒の君への批判はひどくでたらめだが、即座に〔白褒の罪を〕問いたださないのは、〔白褒に罰を下すことで人心が〕おびえてどよめいてしまうのを〔私が〕好ましく思っていないからにすぎない19原文「直不喜凶赫耳」。「凶赫」に類した熟語に「兇赫」(おびえて騒がしいさま)と「訩嚇」(言い争いで騒々しいさま)がある。自信はもてないが、ここでは「兇赫」と同じ意味で解釈し、白褒に刑罰を下すことで人心がおののいてザワつく様子を言っているものと解した。なお『北堂書鈔』巻四五、杖刑「白褒表山濤詔杖五十」に引く「王隠書山濤伝」に「武帝以山濤為司徒、頻譲不許、濤出遂帰家、左丞白褒奏濤違詔。詔杖褒五十」とあり(『北堂書鈔』巻六〇、諸尚書左右丞「白褒奏山濤」に引く「王隠晋書」、略同)、この王隠『晋書』では山濤が司徒に任命されたときのことだとされてはいるものの(『晋書斠注』は王隠の誤りとみている)、山濤を批判した白褒に対し、けっきょくは刑罰が下されていたらしい。。寛大な君ならば意に介するまでもなかろう。すぐに職務を執るように」。〔武帝が山濤からの〕上奏文を遮断するように命じると20原文「令断章表也」。中華書局はこの句も詔の文言に含めるが、前の句(「便当摂職」)とはつながりがよくないように思われ、またこの句が「也」(なり)で締められることにも違和感がある。完全に違和感が解消されるのではないのだが、さしあたり詔の文言ではなく地の文として解し、「也」を「や」で読んで下の句につなげる読み方を取ることにした。
 後文にも「勅断章表」とここと同様の表現が見え、また晋南北朝の史書には辞職を願い出た上表に対し「断表」で応えている例がいくつか見られる。『南史』巻八、梁本紀下、元帝紀、大宝二年十一月に「僧辯又奉表勧進、又不従。時巨寇尚存、帝未欲即位、而四方表勧、前後相属、乃下令断表」とあり、梁・元帝があいつぐ勧進表に令を下して「断表」させたとあるが、『梁書』巻五、元帝紀にはこのときの令が掲載されており、末尾に「自今表奏、所由並断、若有啓疏、可写此令施行」とある。「今後、上呈文書は届けられるルート(「所由」)をすべて遮断し(「並断」)、もし文書で裁可を仰ぐ必要がある場合は、その文書にこの令を付記してそのまま施行することを許す」という内容であろう。つまり文書の上呈を遮断して受理を拒否しているわけで、これが『南史』で「断表」と表現された処置だと思われる。また後世の記述になるが、『資治通鑑』巻一九五、貞観十三年正月の胡三省注に「今之譲官者、奉表三譲、不許、勅断来章、則閤門不復受其表、即唐制之断表也」とあり、「断表」を上呈文書の受付拒否と説明している。梁・元帝は上呈文書全般を拒絶しているが、これは勧進表が四方から届くために、特別に拒絶範囲を広げたのではないかと思われる。官僚個人の辞意が問題になるケースは、おそらくその特定個人の上奏文のみが拒絶されたはずであろう。
、山濤はどうしても引退したいと望んでいたので、そこで従弟の妻の喪を公表し、かってに官舎外の私宅へ帰ってしまった。詔が下った、「山僕射には近ごろ、しばしの外出があったが、そのままささいな病苦を理由にまだ戻っていない。〔このまま自発的に戻るまで待つのは〕賢人を求めて丁重に迎えようとするわが意にかなっているだろうか。そこで、丞掾21原文まま。尚書省に掾はいないはずなので、「丞掾」とは下級の官の汎称であろう。をつかわし、〔山濤に〕詔を授けて説諭することにする。もしも体力がまだ健康でなかったならば、車に乗せて官舎へ戻らせよ」。山濤は辞退したものの、承認を得られなかったため、出勤して職務を執った。

山濤(1)山濤(2)附:山簡・山遐王戎(1)王戎(2)附:王衍附:王澄・郭舒楽広

(2022/8/12:公開)

  • 1
    原文「著忘言之契」。「忘言」は『荘子』雑篇、外物篇にある有名な話にもとづく語。漁や猟で使う罠は獲物を捕えるためのもの。漁師や猟師は獲物を捕まえたら罠のことは忘れてしまう。これと同じように、言葉は意味をとらえるためのもの。意味を得たら言葉は忘れてしまってかまわない。私も言葉にとらわれずに忘れてしまえるひと、つまり真理を理解したら言葉を棄ててしまえるひとと語り合いたい。――という話。本文の「忘言之契」というのは、山濤らのあいだで共有した交際ポリシーのことで、それが荘子のいう「忘言之人」志向であったということであろう。
  • 2
    『宋書』巻四〇、百官志下、州刺史に刺史の属官として「部従事史、毎郡各一人、主察非法」とあり、州下の郡ごとに一人配置され、監察を担ったという。
  • 3
    原文「宰相三不朝」。『世説新語』政治篇、第五章の劉孝標注に引く「虞預晋書」が「宰相三日不朝」と記すのに従って訳出した。
  • 4
    原文は「投伝」。「伝」は関津の通過に必要な身分証明書のこと。[大庭一九八二]第五篇第一章を参照。「投」は投げ棄てるの意。「投伝」で官職を棄てることの喩え(『漢語大詞典』)。
  • 5
    山濤は司馬懿がクーデターを起こすつもりだと予見していたので、危険な夜中に呑気に寝ている石鑑を叱り飛ばし、いっしょに避難しようと誘ったのだが、石鑑はまったく状況を理解していなかったので呆れて独りで逃げたということであろう。
  • 6
    宣帝紀によれば、司馬懿が病気と称して政治から離れたのは正始八年五月、曹爽誅殺は二年後の嘉平元年正月である。
  • 7
    原文「各得其所」。権力争いに決着がつき、片方が増長して片方が失脚したり左遷されたりする(居場所を失う)という事態にはならず、どちらも政界でしかるべき居場所を保った、という意味で解釈した。
  • 8
    原文「甄抜隠屈」。「隠屈」はあまり見ない表現。『北堂書鈔』巻七二、刺史「甄抜隠士」に引く「王晋書」は「隠士」に作っている。本文は「隠居」の訛誤である可能性もあるが、原文のままに訳出しておく。
  • 9
    原文「職有上下」。官職によって重要度にちがいがある=君の官職は重要で欠くべきではないから辞めないでほしいということであろう。
  • 10
    原文「特給日契」。「日契」は『漢語大詞典』の「毎日食事を支給することを証明する引換券を言う(指毎天供給膳食的憑証契券)」とあるのに従った。
  • 11
    原文まま。俸禄を指して使われることもある語だが、ここではたんに礼遇の意か。
  • 12
    松とコノテガシワは「常緑樹で葉の色が変わらないことから、人の節操・長寿・繁栄のたとえ」(『漢辞海』)。長く茂って枯れないという特性から、墓の目印としても植えられた。
  • 13
    原文「方今風俗陵遅、人心進動、宜崇明好悪、鎮以退譲」。『北堂書鈔』巻六〇、吏部尚書「用人密啓後奏」に引く「王隠晋書」に「今風俗凌遅、豈宜鎮以退譲」とあり、中華書局はこのとおりに「鎮」の上に「豈宜」があったほうが文意が通じるとして、王隠『晋書』を正しいとしている。しかし私にはとてもそうは思えない。人心が「進動」している風俗を「退譲」によって落ち着かせたいという意味になっており、まったく不自然さはないように思われる。
  • 14
    原文「情在難奪」。「奪情」(「父母の喪中に召されて職務を遂行する」、『漢辞海』)にもとづいた表現。
  • 15
    武帝皇后の楊氏のこと。二人いる楊后のうち、一人目のほう。
  • 16
    原文「使濤坐執銓衡則可、何必上下邪」。「坐」は病気を療養している状態をおそらく指す。下の句の「上下」は「昇降」の意味で取った。「療養させながら職務を執らせればよいのだから、吏部尚書の職から免ずる必要はない」ということであろう。
  • 17
    原文「臣亦何心屡陳日月」。「臣亦何心、……」は「……をする心であるものでしょうか」という意。百衲本、和刻本は「陳」を「塵」に作るが、「塵」には「久しい」の意味があり、「陳」字に通じるという(『漢辞海』)。中華書局はこの箇所に校勘記を付していないので、やはり「陳」と「塵」を同義で読んでいるのだろう。そこで「陳」を「久しい」の意で読んだ。直前の「正直」と係っているのだとすれば、自分が辞意を繰り返し表明しているのは、わざとらしい謙遜を見せようとしているのではなく、実直に願っているのだ、ということになろうか。
  • 18
    原文まま。普遍的な法のこと。常刑、常法ともいう。
  • 19
    原文「直不喜凶赫耳」。「凶赫」に類した熟語に「兇赫」(おびえて騒がしいさま)と「訩嚇」(言い争いで騒々しいさま)がある。自信はもてないが、ここでは「兇赫」と同じ意味で解釈し、白褒に刑罰を下すことで人心がおののいてザワつく様子を言っているものと解した。なお『北堂書鈔』巻四五、杖刑「白褒表山濤詔杖五十」に引く「王隠書山濤伝」に「武帝以山濤為司徒、頻譲不許、濤出遂帰家、左丞白褒奏濤違詔。詔杖褒五十」とあり(『北堂書鈔』巻六〇、諸尚書左右丞「白褒奏山濤」に引く「王隠晋書」、略同)、この王隠『晋書』では山濤が司徒に任命されたときのことだとされてはいるものの(『晋書斠注』は王隠の誤りとみている)、山濤を批判した白褒に対し、けっきょくは刑罰が下されていたらしい。
  • 20
    原文「令断章表也」。中華書局はこの句も詔の文言に含めるが、前の句(「便当摂職」)とはつながりがよくないように思われ、またこの句が「也」(なり)で締められることにも違和感がある。完全に違和感が解消されるのではないのだが、さしあたり詔の文言ではなく地の文として解し、「也」を「や」で読んで下の句につなげる読み方を取ることにした。
     後文にも「勅断章表」とここと同様の表現が見え、また晋南北朝の史書には辞職を願い出た上表に対し「断表」で応えている例がいくつか見られる。『南史』巻八、梁本紀下、元帝紀、大宝二年十一月に「僧辯又奉表勧進、又不従。時巨寇尚存、帝未欲即位、而四方表勧、前後相属、乃下令断表」とあり、梁・元帝があいつぐ勧進表に令を下して「断表」させたとあるが、『梁書』巻五、元帝紀にはこのときの令が掲載されており、末尾に「自今表奏、所由並断、若有啓疏、可写此令施行」とある。「今後、上呈文書は届けられるルート(「所由」)をすべて遮断し(「並断」)、もし文書で裁可を仰ぐ必要がある場合は、その文書にこの令を付記してそのまま施行することを許す」という内容であろう。つまり文書の上呈を遮断して受理を拒否しているわけで、これが『南史』で「断表」と表現された処置だと思われる。また後世の記述になるが、『資治通鑑』巻一九五、貞観十三年正月の胡三省注に「今之譲官者、奉表三譲、不許、勅断来章、則閤門不復受其表、即唐制之断表也」とあり、「断表」を上呈文書の受付拒否と説明している。梁・元帝は上呈文書全般を拒絶しているが、これは勧進表が四方から届くために、特別に拒絶範囲を広げたのではないかと思われる。官僚個人の辞意が問題になるケースは、おそらくその特定個人の上奏文のみが拒絶されたはずであろう。
  • 21
    原文まま。尚書省に掾はいないはずなので、「丞掾」とは下級の官の汎称であろう。
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