巻四十三 列伝第十三 王戎(1)

凡例
  • 文中の〔 〕は訳者による補語、( )は訳者の注釈、12……は注を示す。番号を選択すれば注が開く。
  • 文中の[ ]は文献の引用を示す。書誌情報は引用文献一覧のページを参照のこと。
  • 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。

山濤(1)山濤(2)附:山簡・山遐王戎(1)王戎(2)附:王衍附:王澄・郭舒楽広

 王戎は字を濬沖といい、琅邪の臨沂の人である。祖父の王雄は幽州刺史であった。父の王渾は涼州刺史、貞陵亭侯であった。王戎は幼少時から聡明で、風采がひときわ秀麗であった。太陽を見ても目がくらまなかった。裴楷は王戎に会うと、「王戎のまなこには光が輝いていて、まるで真っ暗なほら穴に雷が光っているかのようだ」と評した。六、七歳のとき、宣武場で〔大勢の人たちと〕興行を見物した1『水経注』巻一六、穀水注の引く「竹林七賢論」に「王戎幼而清秀、魏明帝于宣武場上為欄、苞虎牙、使力士袒裼、迭与之搏、縦百姓観之」とあり、囲いの中で力士対虎の見世物試合を開催したという。いっぽう、『世説新語』雅量篇、第五章には「魏明帝於宣武場上断虎爪牙、縦百姓観之」とあり、たんに虎の見物会としている。。猛虎が囲いの中から吠え、地面を振るわせたところ、人々はこぞって逃げたが、王戎だけは立ったまま微動だにせず、顔色はいつものとおりであった。魏の明帝は台閣の上からこの様子を目にし、特異だと評価した。また、友達と道ばたで遊んでいたとき、スモモの木に果実が多く実っているのを見かけると、友達は競って取りに行ったが、王戎だけは行かなかった。或るひとが理由を訊くと、「木は道ばたにあるのに実が多いんだもん。絶対にまずいスモモだよ」と言った。果実を取ってみたところ、そのとおりであった。
 阮籍と王渾は友人であった。王戎が十五歳のとき、王渾に随伴して尚書郎の官舎で過ごした。王戎は阮籍より二十歳も年少であったが、阮籍は王戎と友情を結んだ。〔同僚であった〕阮籍は王渾のところへ訪問するたびに2『世説新語』簡傲篇、第二章の劉孝標注に引く「竹林七賢論」に「初、籍与戎父渾俱為尚書郎、毎造渾……」とあり、このとき阮籍と王渾はともに尚書郎であったという。これに従って訳語を補った。、いつも短時間で席を起ってしまい、王戎の部屋へ行き、しばらく経ってから退出していた。〔阮籍は〕王渾に「濬沖はほれぼれするほどスッキリしている。君とは格がちがうね。君と話をするよりも、阿戎(戎くん)とお話しているほうがマシだよ」と言った。王渾が涼州で〔刺史在任中に〕卒すると、故吏が数百万の金銭を葬儀費用に贈ったが、王戎は断って受け取らず、このことによって名を揚げた。身体は小さく、身なりや所作は自然体で、礼儀にかなった威厳を整えず、議論のきっかけを切り出すのが得意で、討論の核心部分を見抜くのに長けていた3原文「賞其要会」。袁宏「三国名臣序賛」(『文選』巻四七)の荀彧の賛に「応変知微、探賾賞要」とあり、ここの「賞要」は「要点を見抜く」という意味だと思われる。つまり「賞」は「価値あるものを見抜く」という意味で使われることもあったのだろう。これにもとづいて訳出した。。朝廷の賢臣たちが上巳の日(旧暦三月三日)に洛水で身を清め、酒宴を開いたことがあったが、〔その明くる日に〕或るひとが王済に訊ねた、「昨日の集まりでは何を議論したんだい」。王済、「張華は『史記』と『漢書』についてりっぱな議論をしていたよ。裴頠は過去の賢人たちの言行について論じ、まったく途切れることなく話が進んでいき、一聴にあたいするね。王戎は張良と季札の差異について論じ、超越的で深遠な言論だったな4原文「王戎談子房・季札之間、超然玄著」。『世説新語』言語篇、第二三章では「我(王衍)与王安豊(王戎)説延陵・子房、亦超超玄著」とあり、季札と張良について論じたというので、「間」は「差異」と訳出してみた。」。人物批評者による称賛はこのような類いであった。
 王戎が阮籍と酒を飲んでいたあるとき、兗州刺史の劉昶、字は公栄が同席していたが、阮籍は酒の量が少ないことを理由に、劉昶には酒を注がなかった。ところが、劉昶は不満げな顔色を見せなかった。王戎はこれをすばらしいと思い、他日、阮籍に「彼はどういう人物なんですか」と訊ねた。阮籍の返答、「公栄より優れた人物とはいっしょに飲まないわけにはいかない。公栄より劣る人物とはいっしょに飲まずにはいられない。公栄とはいっしょに飲まなくても平気」5原文は「勝公栄、不可不与飲。若減公栄、則不敢不共飲。公栄可不与飲」。『世説新語』簡傲篇、第二章にほぼ同じ話が収録されている。なお『世説新語』任誕篇、第四章に、劉公栄は身分の低いひととも酒を飲むので、或るひとがそれを咎めたところ、劉公栄は「私より優れた人物とはいっしょに飲まないわけにはいかない。私より劣る人物ともいっしょに飲まないわけにはいかない。私と同等の人物ともいっしょに飲まないわけにはいかない(勝公栄者不可不与飲、不如公栄者亦不可不与飲、是公栄輩者又不可不与飲)」と言い返した、という話が載っている。阮籍の発言はこの劉公栄の言葉をもじったものだろうと指摘されている([井波二〇一四C]三一九頁など)。。王戎は頻繁に阮籍と竹林で遊んでいたが、あるとき、王戎は〔集まりに〕遅れて到着した。阮籍が「俗物も来やがったのか。ひとの機嫌に水を差しよって」と言うと、王戎は笑って「あなたがたのご機嫌だって、簡単に水を差されてしまう程度なんですね」と言った6『世説新語』排調篇、第四章は「嵆、阮、山、劉在竹林酣飲、王戎後往、歩兵曰、『俗物已復来敗人意』。王笑曰、『卿輩意亦復可敗邪』」とあり、阮籍と王戎の発言は本伝とほぼ同じだが、場面は竹林での酒宴に王戎が遅れて来たときだとされている。これを参考に本伝を訳出した。同章の劉孝標注に引く「魏氏春秋」に「時謂王戎未能超俗也」とあり、俗気がまだ抜け切れていない王戎、つまり「俗物」が自分たちの会合に来ると興が削がれるんだワ、という冗談なのであろう。
 鍾会が蜀を征伐するとき、王戎を訪問して別れの挨拶をし、いったいどのように計略を立てたらよいだろうかと訊ねた。王戎、「道家にこんな言葉があります。『為して恃まず(結果を出してもそれを誇らず、見返りを求めない)』と7原文「為而不恃」。『老子』第二章などに見える語。。功を成就するのが難しいのではなく、この教えを守るのが難しいのです」。鍾会が〔蜀で反乱を起こして〕敗亡すると、議者は〔王戎のこの言葉を〕道理にかなったものだったと評した8どうすれば成功できるかを質問した鍾会に対し、王戎は「成功しても驕ってはいけない」と返したので、噛み合っていない返答のようであった。しかし、鍾会は蜀の平定後、「自謂功名蓋世、不可復為下」(『三国志』魏書二八、鍾会伝)とあるように、自身の功名に得意になり、とうとう反逆を起こして敗死した。ここに及んで、王戎の発言は的外れだと最初は思われたが、じつは言ったとおりだった。ということだろう。
 父の爵を継ぎ、相国掾に辟召され、吏部郎、黄門郎、散騎常侍、河東太守、荊州刺史を歴任した。属吏をつかわして〔自分の〕田園住宅を整備させたことで罪に問われ、免官に相当したが、詔が下り、贖(金銭で罪をあがなう)によって裁かれた。豫州刺史に移り、建威将軍を加えられ、詔を授かって呉を征伐した。王戎は参軍の羅尚、劉喬を派遣して先鋒を統率させた。〔王戎軍が〕進軍して武昌を攻めると、呉の将の楊雍、孫述、江夏太守の劉朗がおのおの軍を率いて王戎のもとへ至り、降った。王戎が大軍を統率して長江に臨んだところ、呉の牙門将の孟泰が蘄春と邾の二県をもって降った。呉が平定されると、安豊県侯に昇格され、食邑を六千戸に加増され、絹六千匹を下賜された。
 王戎は長江を渡り、新たに帰順した民衆を慰撫し、威厳と恩恵を伝え広めた。呉の光禄勲の石偉はまっすぐな性格で、孫晧の朝廷では受け容れられず、病気と称して〔官を辞し、〕家に帰っていた。王戎は彼の清廉な節義を嘉し、上表して推薦した。詔が下り、石偉を議郎に任じ、二千石の俸禄を生涯にわたって支給した。荊州の人々は喜んで帰服した。〔王戎は〕中央に召されて侍中となった。南郡太守の劉肇が王戎に上質な筒中布9筒状にして用いる平織りの綿布。(『漢辞海』)五十端を賄賂として贈った。〔王戎はこの件で〕司隷校尉に弾劾されたが、〔王戎は法に抵触する贈品だと〕気づいてまだ受け取っていなかったことが理由で、罪に問われずに済んだ10「気づいてまだ受け取っていなかった」の原文は「知而未納」。「知」を訳文で補ったように「法に抵触する贈品だと知っていたこと」と解したが、「未納」はどういう行為を指すのかよくわからない。後文の武帝の擁護発言から察するに、王戎は受け取ったと疑われかねないことをしていたようで、おそらくすぐに返送したりしたわけではなく、そのまま手元に置いていたのではないかと思われる。つまり王戎は〈受け取ってはいない、手元に保管しておいただけ〉と主張し、その供述が「未納」と表記されたのではないだろうか。
 ところで『世説新語』雅量篇、第六章には「王戎為侍中、南郡太守劉肇遺筒中箋布五端、戎雖不受、厚報其書」とあり、劉孝標注に引く「晋陽秋」には「司隷校尉劉毅奏、南郡太守劉肇以布五十疋、雑物遺前豫州刺史王戎、請檻車徴付廷尉治罪、除名終身。戎以書未達、不坐」とある。これら『世説新語』と『晋陽秋』の記述を合わせると、〈王戎は劉肇からの品物を受け取らなかったが、同送の劉肇の書簡には丁重な返事を書いた。その返事が劉肇のもとに届く前だったため、王戎は罪に問われなかった〉とある。「返書が届く前だった(書未達)」というのは、まだ配送に出す前で、王戎の手元に書状が残っていた状態を言うのだろうか。いずれにせよ、本伝とは罪状に認定されなかった理由が少し異なっているように思われる。西晋時代において、贈収賄の罪がいかなる条件のもとで成立したのかが不明なので、こうした記述の相違についてはよくわからない。なお高敏氏[二〇〇〇]は本例を送故の一例に数えているが(二〇頁)、送故であれば慣習として認められているはずであり、贈収賄に問われるとは考えにくいので、氏の解釈には賛同できない。
。しかし議者は王戎を問題視した11『世説新語』雅量篇、第六章の劉孝標注に引く「竹林七賢論」には「戎報肇書、議者僉以為譏」とあり、王戎が返書を出したことが問題視されたとある。どうして返書を出したことが問題だったのかはよくわからない。礼状に相当する返書だったのだろうか。。武帝は朝臣たちに言った、「王戎がこのような行動を取ったのは、私欲にくらんで物品を不正取得しようとしたからだろうか。〔劉肇に〕苦情を言いたくなかっただけだ12原文「正当不欲為異耳」。山濤伝にも、賄賂を贈られた山濤が「不欲異於時(世の人々とはちがうことをしたくなかった)」ために受け取りはした、という類似した記述がある。そこで本伝の「不欲為異」も同様に「周囲が受領しているなか、自分だけちがうことをしたくなかった」というふうに解釈できる。しかし本伝などの関連する記述を参照するかぎり、劉肇はあくまで王戎にだけ賄賂を贈っているように思われる。ならば、「異」であるのは劉肇に対してではなかろうか。例えば巻五六、孫楚伝附孫綽伝に「時大司馬桓温欲経緯中国、以河南粗平、将移都洛陽。朝廷畏温、不敢為異」とあり、〈桓温は洛陽遷都を提議したが、朝廷は桓温を畏怖していたので、あえて「為異」する者はいなかった〉という内容だから、ここの「為異」とは「桓温とはちがうことを言う」(つまり「反対する」)という意味であろう。本文もこの例を参考に、「為異」を「劉肇に同意しない」と解釈して訳出した。『世説新語』では、王戎の「受け取らなかったとはいえ、書簡には丁重に返事を出した(雖不受、厚報其書)」というふるまいが「雅量」篇――「『雅量』とは、教養をもち、心にゆとりのあることをいう」[川勝ほか一九六四]一一一頁――に収められていることに注意してもよい。強く苦言を呈して拒否するのではなく、いわば気持ちには礼を言ってやんわり断るするようなありかたが「雅量」と見なされたのだと思われる。本伝もこのことを念頭において解釈できよう。」。武帝はこの言葉をもって王戎を赦したが、〔王戎は〕清廉慎重を心がける者たちからは軽蔑されるようになり、この事件によって〔王戎は〕名声を落としてしまった。
 王戎は官職に就いていて、ひときわ優れた才能はなかったが、多くの政績をそつなく収めた。のちに光禄勲、吏部尚書に移ったが、母の喪を理由に辞職した。至孝の性格であったが、礼制には拘束されず、酒を飲み、肉を食い、囲碁を観戦することさえあった。しかし顔はやつれ、杖をついて起ちあがるほどであった。裴頠は弔問に訪れたが、他のひとに向かって「たった一度の慟哭がそのひとの命を傷つけることができるのならば、濬沖は〔このまま悲しみの傷を負っていってやがて死んでしまうであろうから、過度な孝行によって〕命を落としたという批判を免れないだろう13原文「不免滅性之譏也」。『孝経』喪親章に「孝子之喪親也、……三日而食、教民無以死傷生、毀不滅性、此聖人之政也」とあるように、悲しむにしても生命を消耗して死に至らないようにするのが適切な孝行である。」と言った。そのころ、和嶠も父の喪に服していたが、礼法を守り、米の分量を量って食事を取り、悲しみによるやつれ具合は王戎以上ではなかった。武帝は劉毅に言った、「和嶠のやつれ具合は礼を過ぎている。ひとをやって心配だと伝えてくれないか」。劉毅、「和嶠はむしろで寝て、粥を食事としているとはいえ、しょせんは『生孝』、命を損なわない孝行にすぎません。王戎にいたっては、いわば『死孝』、命を落とすほどの孝行ですから、陛下はまず王戎のほうを心配なさるべきです」14ちなみに劉毅はさきの賄賂事件を告発した司隷校尉である(『世説新語』雅量篇、第六章の劉孝標注に引く「晋陽秋」)。。王戎は従前から嘔吐してしまう病気を抱えていたが、喪に服してから病状が悪化していた。武帝は医者をつかわして王戎を治療させ、あわせて薬物を賜い、さらに賓客との面会を禁止させた。
 楊駿が政権を握ると、太子太傅に任じられた。楊駿誅殺後、東安公繇が刑罰と褒賞を独断で定め、内外の人々を畏怖させた。王戎は東安公を戒めて言った、「大きな事件があったあとは、権勢から遠ざかっておいたほうがよいですよ」。東安公は聴き入れなかったが、はたして罪を得て〔失脚して〕しまった15巻三八、宣五王伝、琅邪王伷伝附繇伝によれば、東安公が賞罰を専断したさいに讒言を受け、失脚したという。「誅楊駿之際、繇屯雲龍門、兼統諸軍、以功拝右衛将軍、……遷尚書右僕射、加散騎常侍。是日誅賞三百人、皆自繇出。……繇兄澹屡構繇於汝南王亮、亮不納。至是以繇専行誅賞、澹因隙譖之、亮惑其説、遂免繇官、以公就第、坐有悖言、廃徙帯方」とある。。中書令に転じ、光禄大夫を加えられ、恩信五十人を支給された。尚書左僕射に移り、領吏部とされた。

山濤(1)山濤(2)附:山簡・山遐王戎(1)王戎(2)附:王衍附:王澄・郭舒楽広

(2022/8/12:公開)

  • 1
    『水経注』巻一六、穀水注の引く「竹林七賢論」に「王戎幼而清秀、魏明帝于宣武場上為欄、苞虎牙、使力士袒裼、迭与之搏、縦百姓観之」とあり、囲いの中で力士対虎の見世物試合を開催したという。いっぽう、『世説新語』雅量篇、第五章には「魏明帝於宣武場上断虎爪牙、縦百姓観之」とあり、たんに虎の見物会としている。
  • 2
    『世説新語』簡傲篇、第二章の劉孝標注に引く「竹林七賢論」に「初、籍与戎父渾俱為尚書郎、毎造渾……」とあり、このとき阮籍と王渾はともに尚書郎であったという。これに従って訳語を補った。
  • 3
    原文「賞其要会」。袁宏「三国名臣序賛」(『文選』巻四七)の荀彧の賛に「応変知微、探賾賞要」とあり、ここの「賞要」は「要点を見抜く」という意味だと思われる。つまり「賞」は「価値あるものを見抜く」という意味で使われることもあったのだろう。これにもとづいて訳出した。
  • 4
    原文「王戎談子房・季札之間、超然玄著」。『世説新語』言語篇、第二三章では「我(王衍)与王安豊(王戎)説延陵・子房、亦超超玄著」とあり、季札と張良について論じたというので、「間」は「差異」と訳出してみた。
  • 5
    原文は「勝公栄、不可不与飲。若減公栄、則不敢不共飲。公栄可不与飲」。『世説新語』簡傲篇、第二章にほぼ同じ話が収録されている。なお『世説新語』任誕篇、第四章に、劉公栄は身分の低いひととも酒を飲むので、或るひとがそれを咎めたところ、劉公栄は「私より優れた人物とはいっしょに飲まないわけにはいかない。私より劣る人物ともいっしょに飲まないわけにはいかない。私と同等の人物ともいっしょに飲まないわけにはいかない(勝公栄者不可不与飲、不如公栄者亦不可不与飲、是公栄輩者又不可不与飲)」と言い返した、という話が載っている。阮籍の発言はこの劉公栄の言葉をもじったものだろうと指摘されている([井波二〇一四C]三一九頁など)。
  • 6
    『世説新語』排調篇、第四章は「嵆、阮、山、劉在竹林酣飲、王戎後往、歩兵曰、『俗物已復来敗人意』。王笑曰、『卿輩意亦復可敗邪』」とあり、阮籍と王戎の発言は本伝とほぼ同じだが、場面は竹林での酒宴に王戎が遅れて来たときだとされている。これを参考に本伝を訳出した。同章の劉孝標注に引く「魏氏春秋」に「時謂王戎未能超俗也」とあり、俗気がまだ抜け切れていない王戎、つまり「俗物」が自分たちの会合に来ると興が削がれるんだワ、という冗談なのであろう。
  • 7
    原文「為而不恃」。『老子』第二章などに見える語。
  • 8
    どうすれば成功できるかを質問した鍾会に対し、王戎は「成功しても驕ってはいけない」と返したので、噛み合っていない返答のようであった。しかし、鍾会は蜀の平定後、「自謂功名蓋世、不可復為下」(『三国志』魏書二八、鍾会伝)とあるように、自身の功名に得意になり、とうとう反逆を起こして敗死した。ここに及んで、王戎の発言は的外れだと最初は思われたが、じつは言ったとおりだった。ということだろう。
  • 9
    筒状にして用いる平織りの綿布。(『漢辞海』)
  • 10
    「気づいてまだ受け取っていなかった」の原文は「知而未納」。「知」を訳文で補ったように「法に抵触する贈品だと知っていたこと」と解したが、「未納」はどういう行為を指すのかよくわからない。後文の武帝の擁護発言から察するに、王戎は受け取ったと疑われかねないことをしていたようで、おそらくすぐに返送したりしたわけではなく、そのまま手元に置いていたのではないかと思われる。つまり王戎は〈受け取ってはいない、手元に保管しておいただけ〉と主張し、その供述が「未納」と表記されたのではないだろうか。
     ところで『世説新語』雅量篇、第六章には「王戎為侍中、南郡太守劉肇遺筒中箋布五端、戎雖不受、厚報其書」とあり、劉孝標注に引く「晋陽秋」には「司隷校尉劉毅奏、南郡太守劉肇以布五十疋、雑物遺前豫州刺史王戎、請檻車徴付廷尉治罪、除名終身。戎以書未達、不坐」とある。これら『世説新語』と『晋陽秋』の記述を合わせると、〈王戎は劉肇からの品物を受け取らなかったが、同送の劉肇の書簡には丁重な返事を書いた。その返事が劉肇のもとに届く前だったため、王戎は罪に問われなかった〉とある。「返書が届く前だった(書未達)」というのは、まだ配送に出す前で、王戎の手元に書状が残っていた状態を言うのだろうか。いずれにせよ、本伝とは罪状に認定されなかった理由が少し異なっているように思われる。西晋時代において、贈収賄の罪がいかなる条件のもとで成立したのかが不明なので、こうした記述の相違についてはよくわからない。なお高敏氏[二〇〇〇]は本例を送故の一例に数えているが(二〇頁)、送故であれば慣習として認められているはずであり、贈収賄に問われるとは考えにくいので、氏の解釈には賛同できない。
  • 11
    『世説新語』雅量篇、第六章の劉孝標注に引く「竹林七賢論」には「戎報肇書、議者僉以為譏」とあり、王戎が返書を出したことが問題視されたとある。どうして返書を出したことが問題だったのかはよくわからない。礼状に相当する返書だったのだろうか。
  • 12
    原文「正当不欲為異耳」。山濤伝にも、賄賂を贈られた山濤が「不欲異於時(世の人々とはちがうことをしたくなかった)」ために受け取りはした、という類似した記述がある。そこで本伝の「不欲為異」も同様に「周囲が受領しているなか、自分だけちがうことをしたくなかった」というふうに解釈できる。しかし本伝などの関連する記述を参照するかぎり、劉肇はあくまで王戎にだけ賄賂を贈っているように思われる。ならば、「異」であるのは劉肇に対してではなかろうか。例えば巻五六、孫楚伝附孫綽伝に「時大司馬桓温欲経緯中国、以河南粗平、将移都洛陽。朝廷畏温、不敢為異」とあり、〈桓温は洛陽遷都を提議したが、朝廷は桓温を畏怖していたので、あえて「為異」する者はいなかった〉という内容だから、ここの「為異」とは「桓温とはちがうことを言う」(つまり「反対する」)という意味であろう。本文もこの例を参考に、「為異」を「劉肇に同意しない」と解釈して訳出した。『世説新語』では、王戎の「受け取らなかったとはいえ、書簡には丁重に返事を出した(雖不受、厚報其書)」というふるまいが「雅量」篇――「『雅量』とは、教養をもち、心にゆとりのあることをいう」[川勝ほか一九六四]一一一頁――に収められていることに注意してもよい。強く苦言を呈して拒否するのではなく、いわば気持ちには礼を言ってやんわり断るするようなありかたが「雅量」と見なされたのだと思われる。本伝もこのことを念頭において解釈できよう。
  • 13
    原文「不免滅性之譏也」。『孝経』喪親章に「孝子之喪親也、……三日而食、教民無以死傷生、毀不滅性、此聖人之政也」とあるように、悲しむにしても生命を消耗して死に至らないようにするのが適切な孝行である。
  • 14
    ちなみに劉毅はさきの賄賂事件を告発した司隷校尉である(『世説新語』雅量篇、第六章の劉孝標注に引く「晋陽秋」)。
  • 15
    巻三八、宣五王伝、琅邪王伷伝附繇伝によれば、東安公が賞罰を専断したさいに讒言を受け、失脚したという。「誅楊駿之際、繇屯雲龍門、兼統諸軍、以功拝右衛将軍、……遷尚書右僕射、加散騎常侍。是日誅賞三百人、皆自繇出。……繇兄澹屡構繇於汝南王亮、亮不納。至是以繇専行誅賞、澹因隙譖之、亮惑其説、遂免繇官、以公就第、坐有悖言、廃徙帯方」とある。
タイトルとURLをコピーしました