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叡(元帝)/紹・衍・岳・聃・丕・奕・昱・昌明・徳宗・徳文
僭晋1「僭」とは「身分・立場の上で、下位にある者が上位者をまねてふるまう」(『漢辞海』)「本文を越え、上位者の職権や名義を騙ってふるまう(超越本文、冒用在上者的職権・名義行事)」(『漢語大詞典』)。本来は卑しい出自の人間が、身分を偽って司馬氏を装い、晋を名乗っている。「僭晋」の語の含意はこのようなものであろう。の司馬叡2名を「睿」に作る史書もある。現在確認できたところでは、「叡」は本伝、朱鳳『晋書』(『世説新語』言語篇、第二九章の劉孝標注引)、「睿」は唐修『晋書』、『建康実録』、『資治通鑑』、何法盛『晋中興書』(『芸文類聚』巻一三、晋元帝)。佚書の場合は引用時に書き換えられている可能性もある。実質的に同じ字という扱いで良いと思うが、本伝はどのような事情または理由で「叡」に作っているのか気になるところである。さしあたり、本訳は原文を尊重して「叡」と表記する。は字を景文といい、晋の将の牛金の子である。もともと、晋の宣帝は大将軍の琅邪武王伷を生み、伷は冗従僕射の琅邪恭王覲を生んだのであった3『晋書』巻三八、宣五王伝、琅邪王伷伝によると、二人とも極官、諡号いずれもこのとおりである。ただし、魏収がよく調べてあるというより、魏収が下敷きにした晋史・元帝紀の冒頭に父祖の簡略なプロフィールが掲載されていたはずだから、それを引き写しただけであろう。。覲の妃であった譙国の夏侯氏は字を銅環というが4『晋書』巻三一、后妃伝上、元夏侯太妃伝によれば銅環は「小字(幼少時の呼び名)」である。同伝には名(光姫)も伝えられているなか、なぜここでわざわざ字を記したのかは不詳(ちなみに『太平御覧』巻一五一、王妃に引く「又曰」(「晋中興書」)だと「字光姫、一字銅環」になっている)。ただ、この銅環という字にはいささか特別な意味があり、同伝に「初有讖云、『銅馬入海建鄴期』、太妃小字銅環、而元帝中興於江左焉」とあり、司馬叡が建業で即位する讖緯と関連づけられている。それゆえ、銅環という字は比較的よく知られていたのかもしれない。、牛金と姦通し、そのはてに叡を生んだ。そこで司馬氏になりすませ、覲の子としてしまったのである。かくして河内温県の出身だと自称しているわけである5この話は魏収の創作ではない。確認できるかぎり最も古いのは孫盛『晋陽秋』で、『太平御覧』巻九八、東晋元皇帝に引く佚文に「又初、玄石図有牛継馬後。故宣帝深忌牛氏遂為二榼、共一口、以貯酒、帝先飲佳者、以毒者酖其将牛金。而恭王妃夏氏、通小吏牛欽而生元帝。亦有符云」とある。『晋陽秋』はこの逸話を、司馬叡が即位して晋を復興する符合のひとつ(玄石図の「牛継馬後」)に挙げているわけである。また『宋書』巻二七、符瑞志上でも、司馬叡が即位する符合のひとつとしてこの逸話が列記されており、「先是、宣帝有寵将牛金、屡有功、宣帝作両口榼、一口盛毒酒、一口盛善酒、自飲善酒、毒酒与金、金飲之即斃。景帝曰、『金名将、可大用、云何害之』。宣帝曰、『汝忘石瑞、馬後有牛乎』。元帝母夏侯妃与琅邪国小史姓牛私通、而生元帝」とある。字句は『晋陽秋』と異なるところが目立つが、内容はほぼ変わらない。同志ではこの逸話を含め、司馬叡の即位を暗示するエピソード群を「干宝以為晋将滅於西而興於東之符也」と総括しており、もとは干宝(『晋紀』?)に由来する記述であった可能性がある。
しかし、以上に挙げた記述はいずれも「宣帝が将の牛金を殺して玄石図の予言を阻止しようとしたが、琅邪王妃は琅邪国小吏の牛氏と不倫して元帝を生んだ」という筋書きになっており、本伝とは相違しているように思われる。字句など、書き方についても全体的に異なっている。これにかんしては、魏収が参照・引用した史書では本伝のように記されていたという可能性もあるかもしれない。しかし晋史においては、司馬叡がじつは牛氏であるという話は玄石図の予言と関連づけられてはじめて意味をもつため、魏収が依拠した晋史に本伝のようなかたちでこの逸話が収録されていたとは考えにくい。いっぽう、魏収からしてみれば玄石図や宣帝のくだりはとくに必要のない要素で、〈司馬叡がじつは牛氏であった〉ということが提示できさえすればよい、というよりそのことだけを強調したいはずである。おそらく魏収は、晋史に由来するこの逸話を、元来の文脈を無視して〈司馬叡はじつは牛氏である〉という部分のみを切り取り、本伝のような記述にしあげたのだと思われる。。〔ゆえに司馬叡の一味は「僭晋」なのである。〕最初は琅邪王世子となり、〔その後、〕さらに爵(琅邪王)を継ぎ、散騎常侍に任じられ、射声校尉、越騎校尉、左軍将軍、右軍将軍と昇進を重ねた6『晋書』巻六、元帝紀だと「累遷左将軍」とあるのみで、これらの歴官は省略されてしまっている。。晋の恵帝の臨漳への行幸に随行した7臨漳は鄴のこと。恵帝が成都王穎を親征したときのことをいう。。司馬叡の叔父の〔東安王〕繇が成都王穎に殺されると、禍がふりかかるのを恐れ、そのまま逃亡して洛陽に至り、母を迎えていっしょに封国へ戻った8原文「帰陳国」。中華書局校勘記の指摘に従い、「陳」を衍字とみなした。。
東海王越が兵を下邳で徴集すると、司馬叡に輔国将軍を授けた。東海王が恵帝を長安から奉迎する計画を立てると、さらに司馬叡に平東将軍、監徐州諸軍事を授け、下邳に出鎮させた。まもなく安東将軍、都督揚州諸軍事、仮節を加えられた9『晋書』元帝紀には「仮節」がない。また『晋書』巻五、懐帝紀の永嘉元年七月条に「以平東将軍、琅邪王睿為安東将軍、都督揚州江南諸軍事、仮節、鎮建鄴」と、この人事に相当する記述があり、『建康実録』巻五、中宗元皇帝も永嘉元年七月に繋年している。つまり、本伝と『晋書』元帝紀は恵帝末年のこととし、『晋書』懐帝紀と『建康実録』は懐帝はじめのこととしているわけである。恵帝末年にこのような人事があったとしても、その人事はおそらく東海王越の承制であっただろうから、のちに懐帝が即位してからあらためて朝廷が追認してこの人事を下したとも考えられなくはない。
この件にかんして、銭大昕は『晋書』巻六五、王導伝に「会帝出鎮下邳、請導為安東司馬」とあるのを挙げ、司馬叡が建業に出鎮する以前にすでに安東将軍であったことの証左とする(『廿二史考異』巻一八、晋書一、懐帝紀)。これに対して司馬光『資治通鑑』は、恵帝末の永興二年に「司空越以琅邪王睿為平東将軍、監徐州諸軍事、留守下邳。睿請王導為司馬」、永嘉元年七月に「以琅邪王睿為安東将軍、都督揚州江南諸軍事、仮節、鎮建業」と、それぞれ記事を配しており、全体的に『晋書』懐帝紀に従って繋年している。『資治通鑑考異』によれば、まず永興二年の人事にかんしては銭氏の挙げた王導伝の記事を挙げるも、しかし司馬叡が安東将軍に移ったのは建業に移動してからだとして、王導伝の「安」は「平」の誤字か、「のちに安東司馬になった」という意味であろうと述べている(それゆえ、『資治通鑑』本文ではたんに「司馬」と記したのだという)。永嘉元年の人事については、都督揚州でありながら下邳に留まるのは不自然なこと、懐帝紀に人事の記事が明確に記されていることを根拠に、懐帝紀に従ったと言っている。ハッキリとした是非はつけがたいが、人事の日付まで記述してある懐帝紀の記事をないがしろにしがたいという点では銭氏の解釈には疑問もあり、いっぽうで王導伝の記事の解釈があまりに苦しいという点では司馬光にも全面的な賛同はしがたい。。寿陽に出鎮する予定であったが、当面のあいだは下邳に留まることになった10『晋書』元帝紀にはこの一文の趣旨に相当する記述がない。。東海王が西に進んで恵帝を迎えようとすると、司馬叡を後方に駐留させ、東府の仕事を執らせた11原文「留叡鎮後、平東府事」。「平東府事」はすなおに読めば「平東将軍府の仕事」だが、直前に平東将軍から安東将軍に移ったばかりなので不自然になる。中華書局校勘記は脱誤を疑うが、解釈の候補として「東中郎将府」を挙げている。または(そのような用例は確認できないが)「東中国方面の政務」という意味なのかもしれない。いずれにせよ納得のいく解釈はできないので、ここでは中華書局の標点に従いつつ、むりやりに訳出した。なお『晋書』元帝紀は「越西迎大駕、留帝居守」とするのみ。。鎮を江東に移そうとしたが、ちょうど陳敏が乱を起こしており、司馬叡は〔自分の〕兵が少なかったため、下邳に留まった。永嘉元年春、陳敏が死んだため、同年秋、司馬叡はようやく建業に到着した12建業へ移動するまでの経緯にかんして、『晋書』元帝紀は「永嘉初、用王導計、始鎮建鄴」と記すのみで、本伝とは趣を異にしている。『建康実録』中宗元皇帝は『晋書』に同じ。。同五年、鎮東将軍、開府儀同三司に進められ、さらに会稽の二万戸を封国に加増され、督揚・江・湘・交・広五州諸軍事を加えられた13『晋書』元帝紀は鎮東「大」将軍とし、封国に加増されたのは宣城郡二万戸とし、都督にいたっては何も記述がない。なお『晋書』懐帝紀によると、司馬叡は永嘉五年五月に安東大将軍に昇進している。たほう、『晋書』元帝紀は東海王越の生前、すなわち永嘉五年三月以前の時系列に配している。『資治通鑑』は懐帝紀に従っている。ハッキリとはさせがたいが、少なくとも永嘉五年中、かつ同年六月の洛陽陥落以前の人事であるのはまちがいなさそうである。
加増の食邑にかんして調べると、『晋書』巻六四、元四王伝、琅邪孝王裒伝に「裒初継叔父長楽亭侯渾、後徙封宣城郡公、……及帝為晋王、……更封裒琅邪、嗣恭王後、改食会稽・宣城邑五万二千戸」とあり、司馬叡が建武元年に晋王になる以前のどこかの段階で、司馬叡の子の裒が宣城に封じられている。そして司馬叡が晋王につくと、裒は琅邪王に改封され、そのさいに宣城と会稽が食邑とされたという。[三田二〇〇六]は琅邪王の食邑について、『晋書』元帝紀にもとづいて永嘉年間に宣城が追加されたとし、そののち、裒が琅邪王に封じられたときに会稽が追加されたと述べている(四六頁)。本伝(会稽)と『晋書』元帝紀(宣城)との是非の根拠は示されていないが、そのとおりの過程であるならば、永嘉五年に琅邪王(司馬叡)に宣城が追加され、その後、建興年間までに宣城が割かれて子の裒がその地に封じられ、建武元年、裒が琅邪王に改封されるに及んでふたたび宣城が食邑に加えられ、さらに会稽も追加された、ということになるだろうか(あるいは会稽は裒に宣城が割かれた前後に琅邪へ追加されたと想定することも可能だろう)。つまり『晋書』元帝紀のとおり、司馬叡に追加されたのは宣城だと仮定しても、いちおう矛盾なく成立すると思われる。ただし本伝に従っても成立する。すなわち永嘉五年に琅邪王に会稽が追加され、いっぽう建武元年までに裒が宣城に封建され、建武元年に裒が琅邪王に改封されると、会稽を含んだ旧来どおりの琅邪+裒が従来まで食んでいた宣城が琅邪国の新たな食邑とされた、と。むしろ本伝のほうが自然かもしれない。しかし『晋書』巻二五、地理志下、揚州には、会稽郡の戸数は三万戸、宣城郡は二万三五〇〇戸と記されており、追加戸数の二万に近いのは宣城である。前引の裒伝に「更封裒琅邪、嗣恭王後、改食会稽・宣城邑五万二千戸」とあり、会稽と宣城を合わせた食邑が地理志の両郡の戸数を合算した数に近いため、地理志の記録は西晋末東晋初でも想定しうる数字であろう。こう考えると、二万に近い宣城、つまり『晋書』元帝紀が妥当だという結論になろう。もっとも、本伝の「二万」は「三万」の誤字と主張できなくもないが。。〔同年〕六月、王弥と劉曜が洛陽を侵略し〔て落とし〕、懐帝が〔拉致されて〕平陽に行幸すると、晋の司空の荀藩と司隷校尉の荀組は司馬叡を盟主に推戴した。かくして、〔司馬叡は〕独断で郡県の官吏を改任し、かってに称号を授与したのである14原文「輒改易郡県、仮置名号」。司馬叡が承制したことを言っているのであろう。『晋書』巻六一、華軼伝に「尋洛都不守、司空荀藩移檄、而以帝為盟主。既而帝承制改易長吏、軼又不従命」とあり、洛陽陥落後、司馬叡が承制して地方官の改任を命じていたことが記されている。本伝の「輒」(独断で)や「仮」(デタラメに)という書き方は悪意に満ちているものの、完全にまちがいとも言いきれない。つまり魏収の捏造的記述とも言いがたい。。江州刺史の華軼と北中郎将の裴憲はどちらも司馬叡に従わなかった。裴憲は鎮東将軍、都督江北五郡軍事を自称し、華軼と連合した。司馬叡は左将軍の王敦、将軍の甘卓、周訪らを派遣して華軼を攻めさせ、これを斬った。裴憲は石勒のもとへ逃げた15華軼征伐のくだりは、派遣された将や裴憲への言及など、『晋書』元帝紀と異同がある。なお裴憲が華軼と連合していた件は『晋書』巻三五、裴秀伝附憲伝のほか、同、華軼伝、『三国志』魏書二三、裴潜伝の裴松之注に引く諸書にもみえず、おそらく本伝独自の情報である。
以上までの記述にかんして、やや細かめに『晋書』元帝紀との異同を注記してきた。本伝と元帝紀とは、全体的な主旨はおおまかに同じとみてよいが、細かなところでは異同がめだつ。本伝と『晋書』が同じ晋史を下敷きにしていたならば、おのおの異なる取捨判断で引用をしているということになるだろう。しかし、たとえば華軼のくだりのように、両書の異同が引用基準のちがいから生じたものだとは考えにくい部分もある。訳者は、本伝と元帝紀とはそれぞれ異なる晋史を資料源にしているゆえにこのような異同が生じている、と推測している。。同六年、司馬叡は四方に檄文を発し、穆帝(拓跋猗盧)と協力して劉淵を討伐することになり、平陽で合流することになったと称した16永嘉六年の元帝の檄は『晋書』懐帝紀、永嘉六年二月に「鎮東大将軍、琅邪王睿上尚書、檄四方以討石勒」とあり、『建康実録』中宗元皇帝、永嘉六年二月に「琅琊王馳檄四方、徴兵以討石勒、師次寿陽、勒退河北」とある。これらでは討伐対象が石勒になってはいるものの、本伝のここの記述と同一だと思われる。『魏書』序紀には記載なし。。
建興元年、晋の愍帝は司馬叡を侍中、左丞相、大都督陝東諸軍事、持節とし、王(琅邪王の爵)はもとのとおりとした。司馬叡は建業を建康に改称した。〔建興三年?〕七月、司馬叡は晋室が滅亡寸前であることから、ひそかに異心を抱くようになり、そこでみずから大赦を発し、大都督、都督中外諸軍事となり、さらに丞相になった17『晋書』巻五、愍帝紀によると、建興元年五月に司馬叡を左丞相とし、同年八月に建業を建康に改称し、建興三年二月に司馬叡を大都督としている(三年の人事に愍帝紀は丞相を記していないが、『資治通鑑』は丞相も付け加えている)。また『晋書』元帝紀には「愍帝即位、加左丞相。歳余、進位丞相、大都督中外諸軍事」とあり、左丞相に任命されてから一年余りして丞相に進んだという。本伝の文脈的には、本文の「七月」は建興元年のことになってしまうが、『晋書』の記録と照合すると建興元年ではおかしい。しかも七月の人事記録はみえないので、本伝の「七月」が何年のときのことなのかはよくわからない。かりに「建興三年」としておいた。魏収が晋史を誤読したか、うっかり年の記載を落としてしまったのだろう。なお本文は「乃自大赦、為大都督、都督中外諸軍事」とあり、大都督などには「自為(みずから就いた)」かのように記述されているが、そのように言える根拠はわからない。
また本文で言われている「大赦」だが、『晋書』元帝紀に丞相・大都督就任後、かつ長安陥落以前のこととして、「遣諸将分定江東、斬叛者孫弼于宣城、平杜弢于湘州、承制赦荊揚」とあり、杜弢平定時、司馬叡は承制を称して荊州と揚州に赦免を布告している。杜弢の平定は『晋書』愍帝紀によると建興三年八月で、『資治通鑑』も司馬叡の承制赦免を同年同月に記している。本文のいう「大赦」はこのことを指しているのだろう。司馬叡のこのふるまいをもって「以晋室将滅、潜有他志(晋室が滅亡寸前であることから、ひそかに異心を抱くようになった)」と、本伝はくさしているのではないかと思われる。。司馬叡の政令はゆきわたらず、法制や刑罰は濫用され、暴虐であった。督運令史の淳于伯を殺したときは、刑を執行した者が刀についた血を柱にこすりつけたところ、その血は柱を二丈三尺(約五メートル五〇センチメートル)も逆上がり、柱の頂点を経ると下方に四尺五寸(約一メートル)流れた。それは弦のようにまっすぐであった。世の人々は、淳于伯は冤罪であったのにと、強く不満を抱いた18この淳于伯の怪異については『宋書』巻三二、五行志三、『晋書』巻二八、五行志中、同、巻六九、劉隗伝にもみえている。両書の五行志には垂れ下がった長さの情報が欠けているが、劉隗伝所載の劉隗の奏にはどちらの長さも記されており、かつ本伝と同じ数字である。世が彼の死を冤罪だとみなしたことも各書に記述されていることだが、さらに言えば、彼の死後から三年間、旱魃が頻発したといい、干宝はこの冤罪事件が原因であったと言っているらしい。魏収が天変の記述まで付加しなかったのはやや解せない。。
平文帝(拓跋鬱律)の治世のはじめ、司馬叡は晋王を自称し、建武と改元し、宗廟と社稷を立て、百官を置き、子の司馬紹を太子に立てた。司馬叡は晋王の身分であるにもかかわらず、南郊の祭祀を実施した19元帝が南郊を実施した年について、『宋書』巻一六、礼志三は太興元年、『晋書』巻一九、礼志上、『建康実録』中宗元皇帝、『資治通鑑』巻九一は太興二年とする。本伝後文によれば、同年に司馬叡は即位したというので、本伝の記述を尊重すれば『宋書』が正しいことになる。しかし多くの書が二年とし、[金子二〇〇六]も二年を是としている(二二九―二三二頁)。
関連するほかの情報を整理してみると、まず祭祀を実施した月日であるが、『宋書』『晋書』ともに三月辛卯としているものの、中華書局の両校勘記が指摘しているように、太興元年であろうと二年であろうと三月に辛卯の日は存在しない。そこで『晋書』の校勘記は、『太平御覧』巻五二七、郊丘に引く「又曰」(「晋起居注」)所載の安帝期の議に「案武皇帝禅、用二月郊、元年(「帝」の誤り――引用者注)中興、亦以二月」とあるのを挙げ、三月ではなく二月が正しいする。元年二月の辛卯は十四日、二年二月の辛卯は二十日に当たり、ともに存在する。司馬叡の即位は太興元年三月丙辰(十日)で、二月ならば帝位につく以前に相当する。また司馬叡は南郊実施の直前、実施の可否をめぐって議を命じており、『晋書』礼志と『宋書』礼志にその議のいきさつが簡潔に記載されている。刁協と杜夷は洛陽に戻ってから南郊をおこなうべしと主張し、荀組は後漢献帝が許に立郊した故事を根拠に建康での実施を述べ、王導、荀崧、華恒、庾亮は荀組に賛同したという。そうして最終的に南郊が実施されるに及んだのだと。議の参加者にかんして確認してみると、刁協は肩書が尚書令、荀崧は尚書僕射となっているが、『晋書』元帝紀によると彼らがそれらの職に就いたのは太興元年六月である。荀組は『晋書』巻三九の本伝によると、彼は「太興初」になって開封・許昌のあたりから建康に渡っているが、北に留まったまま議に参加したとは考えづらく、かといって太興元年二月時点で建康に到着していたかというとそれも微妙なところであろう。ほかの人々は元年でも二年でも大きな問題はなさそうに思われる。
以上をようするに、『宋書』が言うとおり実施の年は太興元年で、かつ三月は二月の誤りだとするならば、司馬叡は帝位につくまえに南郊祭祀を実施していることになってしまい、本伝の記述と符合してしまう。しかし立郊の議の参加者を考慮に入れれば、やはり二年とするのが妥当である。そもそも太興元年二月の段階では愍帝の訃報が届いていない。当時の常識的感覚としても、皇帝にならずに南郊を実施するとは考えにくいし、議でも洛陽に戻ってから実施するのがよいとする慎重意見が出されていた情勢下で、そうした異例なふるまいが臣僚らから承認されるとは思えない。だからこそ魏収も本伝に特記しているわけだが、いったい彼は何にもとづいてかかる記述をおこなったのだろうか。依拠した晋史にこう書いてあったのか、魏収が誤読したのか、あるいは捏造したのか。魏収の傾向からして捏造は想定しにくいように思われる。。その年、司馬叡は大位につき、大興元年と改めた。朝廷での礼儀や都城の制度はすべて王者のものになぞらえ、中国のものを模倣したのである。そのまま丹陽に都を置き、孫権の旧都を引き継いだが、その地は『禹貢』のいう揚州の地に相当し、洛陽から二七〇〇里も離れている。〔以下、司馬叡が都を置いた江南がどれだけ野卑なところであるかを説明しておこう。『禹貢』によると、揚州は〕山岳や河川の多い地勢で、冬にはガンのような渡り鳥が飛来する場所であり、土壌は湿気を含んだ泥状で、田地は下の下。いわゆる「島夷は草からつくった服を着ている」20原文「島夷卉服」。『尚書』禹貢篇にみえる語だが、『漢書』巻二八上、地理志上に引く「禹貢」は「鳥夷卉服」と作ってあり、顔師古注にも「鳥夷、東南之夷善捕鳥者也」とあるから、『漢書』は師古が注を記したときからすでに「鳥夷」に作ってあったらしい。というところである21「山岳や河川の……」からここまで、「禹貢」からの抜粋である。おもに『尚書』禹貢篇の孔安国伝を参考に訳出した。。『周礼』によると、職方氏は天下の土地を管轄し、邦国、都鄙22原文「邦国都鄙」。『周礼』天官、大宰に「大宰之職、掌建邦之六典、以佐王治邦国。……。以八則治都鄙。……。」とあり、鄭玄注に「大曰邦、小曰国、邦之所居亦曰国」とあり、また「都之所居曰鄙。……都鄙、公卿大夫之采邑、王子弟所食邑」とある。、〔東の〕四国の夷、〔南の〕八国の蛮、〔南の〕七国の閩、〔北の〕九国の貉、〔西の〕五国の戎、〔北の〕六国の狄における人民、およびその財産、穀物、家畜の統計を担当し、各地の有用な物資や邪悪な神々をくまなく把握するが、〔天下を九州に分けたうち、〕東南を揚州といい、その山鎮(名山の意)を会稽といい、藪沢(湿地の意)を具区といい、河川には三江(北江、中江、南江)があり、湖沼には五湖があり、有用な物資には金、錫、竹箭(矢柄に用いる竹)があり、人民の割合は男二人につき女五人で、蓄獣は鳥獣の飼育に適し23『周礼』鄭玄注に「『鳥獣』とは、クジャク、鸞(オオトリ?)、アカガシラサギ、サイ、ゾウの類いのこと(鳥獣、孔雀、鸞、鵁鶄、犀、象之属)」とある。、穀物は稲の栽培に適している、とある24以上の『周礼』の引用文は鄭玄注に従って訳出した。。春秋時代は呉や越の地であった。呉や越は僭越して王を称していたが、遠方の片田舎におったので、中華のことは耳にしていなかったのである。楚の申公巫臣が未亡人(夏姫)を盗んで〔晋へ〕出奔し、〔使者として呉に赴いて〕戦陣を教えたので、〔呉は〕ようやく戦争のやりかたを知った。これにより、〔呉は〕遅れて中国の諸国と通交するようになったのである(『左伝』成公七年、『史記』巻三一、呉太伯世家)。気風はせっかちで、礼教を理解できず、子女を華美に飾り立てて遊客を招いてもてなすが25『漢書』巻二八下、地理志下に呉の地の風俗として「初淮南王異国中民家有女者、以待游士而妻之、故至今多女而少男」とあるのをふまえたものか?、これがこの土地の風習である。戦国時代は楚に併合された。元来より、遠方に位置し、険阻な地勢を恃みとしていたので、世が混乱すればまっさきにそむき、平和になれば最後に服従していた。秦末、項羽が江南で決起したので、衡山王の呉芮は百越の兵を従え〔て諸侯を助け〕26『史記』巻七、項羽本紀に「鄱君呉芮率百越佐諸侯、又従入関、故立芮為衡山王、都邾」とある。、越王の無諸はみずから閩中の衆を率いて〔呉芮に〕服し、秦を滅ぼした27『史記』巻一一四、東越列伝に「閩越王無諸及越東海王搖者、其先皆越王句践之後也、姓騶氏。秦已并天下、皆廃為君長、以其地為閩中郡。及諸侯畔秦、無諸・搖率越帰鄱陽令呉芮、所謂鄱君者也、従諸侯滅秦」とある。。漢のはじめ、〔高祖は〕呉芮を長沙王に封じ、無諸を閩越王に封じ、さらに呉王濞を朱方に封じた。〔呉越地方の封国は、漢への〕反乱があいついだので、何度も滅ぼされた。後漢末の大乱のとき、孫権はしまいに、劉備と呉と蜀に分かれて割拠した。孫権が長江を恃みに守りを固め、干渉を防いだのは、天地自然が内外を分け隔てている理由というものであろう〔、つまり長江以南の連中には中国の徳政が及ばないので長江によって中国と区切られているのである〕28原文「殆天地所以限内外也」。『漢書』に三つの類例があり、呉越地方(巻六四上、厳助伝「天地所以隔外内也」)、匈奴(巻九四、匈奴伝下「天地所以絶外内也」)、西域(巻九六、西域伝下「天地所以界別区域、絶外内也」)に対して用いられている。いずれも、それらの領域は中国とは文化が異なり、徳教によっても武力によっても服従させがたく、険阻な地勢環境によって区切られている、という文脈のなかで用いられている。それゆえこの表現は「〔中国の外の異民族は服従させがたいということが、〕天地の自然環境が内外を隔絶させている理由なのである」という意味だと考えられる。すなわち、長江によって区切られている南の地域は中国に服従しない地域であるとし、その点で夷狄と変わらない連中だと言いたいのであろう。。司馬叡は争乱に乗じてこの地を領有したわけである。中原の冠帯の士は江東の人のことを「貉子」と呼ぶが、これは「狐や貉(ムジナ)の類い」という意味である。巴、蜀、蛮、獠、渓、俚、楚、越の者どもは鳥類のような発声をしていて、言語は通じず、沐猴(サル)、蛇、魚類のような連中で29原文「猴蛇魚鼈」。「猴」は沐猴のことで、「人言楚人沐猴而冠耳、果然」(『史記』項羽本紀)のように、野蛮人の喩えであろう。「蛇」は、『左伝』定公四年に「申包胥如秦乞師曰、『呉為封豕長蛇、以荐食上国』」とあり、杜預注に「荐、数也。言呉貪害如蛇豕」とあり、貪欲の比喩で、『左伝』ではちょうど呉が喩えられている。鼈はスッポンの意で、「魚鼈」で「魚類一般」を意味する。夷狄と魚鼈とを同一視する見方は、たとえば『後漢書』列伝三八、楊終伝「故孝元弃珠崖之郡、光武絶西域之国、不以介鱗易我衣裳」の李賢注に「介鱗喩遠夷、言其人与魚鼈無異也」とある。、嗜好はすべて〔中国とは〕異なっている。領域は数千里にわたる広さであったが、司馬叡は羈縻するにすぎず、いまだその地の人民に支配を及ぼすことはできなかった。〔呉越の地域は〕水田はあるが、陸田は少なく、漁をなりわいとしている。ずる賢くて利益に目がなく、恩義の感情は稀薄である。家には貯蓄財産がなく、いつも飢えや寒さにさらされている。風土は気温が高く、湿気があり、できものの病気や下痢にかかる者が多く、障気、毒霧、射工、沙蝨、蛇虺の害30以上のうち、射工と沙蝨は『抱朴子』内篇、登渉篇に江南特有の害毒として挙げられている。射工は人を死にいたらしめる「伝説的毒虫名」(『漢語大詞典』)で、沙蝨は「微少だがきわめて毒性の高いシラミの一種(一種細小而極毒的虱子)」(『漢語大詞典』)という。蛇虺はヘビとマムシのこと。障気毒霧はよくわからないが、『漢辞海』によれば「障気」は「障毒」ともいい、「中国南部の湖沼地帯の山川に生じる、一種の風土病。また、それをひき起こすと考えられた毒気」という。『後漢書』列伝七六、南蛮伝に「南州水土温暑、加有瘴気、致死亡者十必四五」ともある。があらゆるところに存在する。司馬叡は揚・荊・梁の三州の地に割拠したが、その三州の旧来の領域を引き継ぎつつ、分割して十数の州と諸郡県を設置したため、郡県の戸口が百に満たないところも存在するありさまであった31おそらく州郡県の僑置を言っているのだと思うが、現在調査中。(2022/4/10:追記)。
〔司馬叡は〕使者の韓暢をつかわし、海を渡って〔わが国(拓跋氏)に〕来訪し、通好を求めた。平文帝は、司馬叡が僭越して江南に自立しているのを理由に、拒絶して受けつけなかった32『魏書』巻一、序紀、平文帝五年に「僭晋司馬叡、遣使韓暢加崇爵服、帝絶之」とある。。
このころ、司馬叡の大将軍である王敦の宗族が権勢を独占し、〔王敦の〕権力は司馬叡よりも重く、上下関係を入れ替え、とうとう君臣の分をないがしろにするようになった。司馬叡の侍中の劉隗は司馬叡に言った、「王氏は強大ですから、段階的に権勢を削いでゆくのが適切かと存じます」。王敦は〔このことを〕知ると、劉隗を憎むようになった33王敦が元帝に厚遇されている劉隗に嫉妬し、憎悪を増長させていったことは『晋書』王敦伝にも記されており、周知の事柄ではあるが、このような具体的なエピソードは他の史書に伝えられていない。関連する逸話としては、『晋書』劉隗伝に元帝即位以前の丞相司直在任時代、劉隗が王敦の兄・王含を弾劾したことが記されており、その一件はそのまま黙殺されて王含はお咎めなしとなったものの、「王氏深忌疾之」という。また『晋書』劉隗伝、同、巻三七、宗室伝、譙剛王遜伝附承伝に、王敦の威権が強盛であることを劉隗が警戒して、元帝の腹心を地方に出すよう提言し、そうして譙王承、劉隗、戴淵が地方に出ることになったが、王敦はこの人事を不快に思った、という話もある。しかしいずれも、本伝のエピソードとはけっきょく異なるものである。。恵帝(拓跋賀傉)の時代、司馬叡は年号を永昌に改めた。王敦はまず武昌に駐屯し、それから司馬叡に上表して言った34原文「王敦先鎮武昌、乃表於叡曰」。王敦は挙兵直前に武昌に来たのではなく、従前より武昌に駐留していた。それゆえ、ここの「先」は「これより以前」の意味で取るべきかもしれないが、そうなると今度は「乃」が解しがたくなる。この字の並びからすると、「まず……し、それから……」と読むほかないように感じてしまう。歴史的経緯とは異なるゆえに違和感は否めないが、本伝は「まず武昌に駐屯し、それから上表した」と記述していると解釈することにした。、「劉隗は以前、門下に在任していましたため35侍中に就任していたことを指す。、とうとう権力と厚遇を得るにいたりました。いま、すみやかに軍を進め36原文「今趣進軍」。中華書局校勘記の指摘に従い、「趣」を「輒」に改めて読む。、悪人の討伐に向かう所存でありますが、どうかただちに劉隗の首を斬り、遠近に謝罪していただけませんか。朝に劉隗の首をさらせば、諸軍は夕にも退却します。むかし、太甲は湯王の典制を尊重することができず、だいなしにしてしまいましたが、幸いにも伊尹の訓戒を聴き入れましたため、殷の道はふたたび栄えたのでした。じつに、賢者や智者というものは、はじめに失敗しても、そのあとで成功するのです」37以上の上表は、一部の文言(「以謝遠近」と「賢智故有先失後得者矣」)以外は『晋書』巻九八、王敦伝所掲の上疏にも見える文言である(もちろん細かな字の異同や表現のちがいはあるが)。。さらに王敦は州郡にも布告し、〔呉興で挙兵して王敦に呼応した〕沈充を大都督、護東呉諸軍とした38『建康実録』中宗元皇帝、永昌元年正月の条に「遣龍驤将軍沈充都督呉興等諸軍事」とあり、おおむね同内容とみてもよさそうだが、書き方にはかなり異同がある。『晋書』には関連する記述を見いだせない。。そこで司馬叡は書を下して言った、「王敦は寵遇を恃みに、あえて狂逆を起こし、朕を太甲になぞらえ、桐宮に幽閉しようとしている39太甲は即位して三年のあいだ、暴虐不徳だったため、伊尹は彼を桐宮へ追放した。太甲は桐宮で三年間過ごし、おおいに反省して改善したため、伊尹は太甲を迎え、政治を返還したという。『史記』巻三、殷本紀などを参照。。これが見過ごせるものならば、見過ごせないことなどあろうか。いま、朕みずから六軍を率い、大逆人を誅罰しよう」40同趣旨の詔が『晋書』王敦伝、『建康実録』中宗元皇帝に掲載されている(これもまた、たとえば両書では本伝のように「桐宮」は書かず、たんに「見幽囚」とするなどの異同がある)。本伝がこの詔を「書」と称しているのは、もちろん司馬叡のことを帝王として認めないからである。。司馬叡の光禄勲で〔、王敦の兄で〕ある王含は子の王瑜を従え、軽舟(軽快な小舟)に乗って司馬叡を見捨て、武昌(王敦)に帰順した41『晋書』王敦伝に「敦兄含時為光禄勲、叛奔於敦」とあり、『世説新語』言語篇、第三七章に「王敦兄含、為光禄勲。敦既逆謀、屯拠南州、含委職奔姑孰」とあり、同、劉孝標注に引く「鄧粲晋紀」に「敦以劉隗為間己、挙兵討之、故含南奔武昌、朝廷始警備也」とあるが、子の王瑜や軽舟についてはどれにも言及がない。。司馬叡は司空の王導を前鋒大都督とし、尚書の陸曄を軍司とした42王導を都督としたことは『晋書』元帝紀、『建康実録』中宗元皇帝にも記されているが、陸曄の件については『晋書』巻七七、陸曄伝にも記載がない。。広州刺史の陶侃を江州刺史とし、梁州刺史の甘卓を荊州刺史とし、〔陶侃と甘卓に〕軍を統率させ、王敦の後方を追わせた。太子右率の周莚に中軍(内軍)三千人を統率させ43『晋書』元帝紀は「統兵三千人」、同、巻五八、周処伝附莚伝は「率水軍三千人」、『建康実録』中宗元皇帝は「統兵三千」とそれぞれあり、「中軍」の記載は確認できない。、〔呉興の〕沈充を討たせた。王敦は洌州に到着すると、尚書令の刁協は〔劉隗の〕徒党であるから、誅殺に加えるべきだと上表した44『晋書』王敦伝、『建康実録』中宗元皇帝では、王敦が刁協誅殺を追加で上表したのは蕪湖に到着したときだと記されている。『資治通鑑』巻一〇一、興寧三年二月条「洌洲」の胡三省注に「今姑孰江中有洌山、即其地」とあるから、洌州とは姑孰を指すとみてよいだろう。姑孰は于湖県内の地名というので(『資治通鑑』巻九二、太寧元年四月条の胡注)、洌州(姑孰=于湖)は蕪湖とは別の場所ということになる。。司馬叡は右将軍の周札を派遣し、石頭に駐屯させたが、周札は秘密裏に王敦に書簡を送り、王敦軍が到着したら内応することを約束した45周札が王敦に呼応して石頭を開門したことは各書にも明記されているが、書簡を送って事前に示し合わせていたとの旨は『晋書』巻五八、周処伝附札伝、同、王敦伝、『建康実録』中宗元皇帝に記されていない。。王敦は〔石頭に到着すると、周札が呼応して石頭を開門したので、〕司馬の楊朗らを石頭に入れさせた46楊朗なる人物は『晋書』『建康実録』『資治通鑑』に見えないが、『世説新語』には三度登場している(識鑑篇、第一三章、賞誉篇、第五八章、同、第六三章)。各章の劉孝標注に引かれている「晋百官名」「世語」「八王故事」の情報を総合すると、字は世彦といい、弘農華陰の出身で、父を楊淮(楊準)という。王敦の属僚で、このときの挙兵を諫めたが聴き入れられなかったので、けっきょく王敦のために尽力したという。王敦の死後、捕えられたが死を免れ、のちに三公にまで出世した。石頭での活躍にかんしては本伝以外に記録が残されていない。。周札は……王敦に面会した47原文「札□見敦」で、欠字あり。。楊朗らが石頭を占領すると、司馬叡の征西将軍である戴淵と鎮北将軍の劉隗が軍を率いてこれを攻め、戴淵はみずから兵士を指揮し、太鼓を打って兵士を励まし、城壁をよじのぼらせようとした。〔しかし〕にわかに太鼓が鳴りやみ、攻撃が停止すると、楊朗らはこの隙に乗じ〔て反撃したため〕、司馬叡軍は敗北した48「戴淵はみずから兵士を指揮し」からここまでの原文はやや文意がつかみにくいが、他の史書に関連する記述が残っていないため、これ以上に解釈を深められない。石頭城での攻防の経緯は他の史書に残されていないので、貴重な情報である。。劉隗と刁協が〔宮中に〕入って司馬叡に謁見したところ、司馬叡は二人が禍から逃れられるように送り出そうとしたので、二人は泣いて退出した。劉隗は〔もとの駐屯地であった〕淮陰に戻り、のちに石勒のもとへ出奔した。刁協は江乗へ逃走したが、王敦の追手に殺された49この劉隗と刁協の辞去エピソードは『晋書』劉隗伝、同、巻六九、刁協伝にも記述がある。本伝はかなり簡略化された記述になっている。。司馬叡軍は敗れた50繰り返しこれを書いた理由は不明。。
王敦はみずから丞相、武昌郡公となり、食邑は一万戸とし、朝廷の案件は大小すべて諮問させた51原文「朝事大小皆関諮之」。事実であるとは思われるが、『晋書』元帝紀や同、王敦伝にはこのような旨の記載はない。。王敦は戴淵と、司馬叡の尚書左僕射である周顗とを捕え、ならびに石頭で斬った。二人とも司馬叡の朝廷における名士であった。かくして百官および各地の州鎮を改任し、このほかに左遷されたり罷免されたりした者は百数人を超えた。朝に任命して夕に改任することもあれば、〔任期が〕百日や半年の長期間にわたることもあった。王敦は、お気に入りであった沈充や銭鳳らが推薦する人物は必ず登用し、そしる人物は必ず殺した52「かくして百官および……」からここまでの文に相当する記述は他の史書に見えない。『晋書』巻四九、謝鯤伝の「敦既誅害忠賢、而称疾不朝、将還武昌」とあるのがやや関連のある記述か。また時系列は本伝と異なることになるが、王敦が武昌へ帰還して以後のこととして、『晋書』王敦伝に「多害忠良、寵樹親戚」とあり、『建康実録』中宗元皇帝にも「多収時望殺之」とある。とはいえ、いずれも本伝の記述とはおおいに異なっている。。王敦が武昌へ戻ろうとすると、王敦の長史の謝鯤が言った、「〔帰還にあたって、〕公が〔主上に〕朝見しなければ、天下に私議53公的ではない議論、つまり密会のことで、王敦を排斥するための秘密の計画ということ。が起こってしまうのではないかと懸念します」。王敦、「君は〔入朝すれば〕事変が起きないことを保証できるというのか」。答えて言う、「鯤(わたし)は最近、入朝して〔主上に〕謁見いたしましたが、主上はかしこまりながら公をお待ちになっておられ、面会を希望しておられました。宮中は落ち着いた様子でしたし、きっと不慮の禍は起こらないでしょう。公が入朝なさるのでしたら、侍従いたしたく存じます」。王敦、「〔事変が起こったら〕もう一度君らを数百人殺せばいいだけだ。朝廷にへりくだる必要などあろうか」。けっきょく朝見せずに建康を離れた54『世説新語』規箴篇、第一二章に内容としてはやや似ている話が採録されているが、謝鯤の発言内容はまったくちがっており、本伝と史料的つながりはないと考えたほうがよい。『晋書』謝鯤伝にもこの話は掲載されており、しかも王敦の「保証できるのか」発言以下は字句もおおむね一致している。しかしそれ以前の二人のやり取り(私議のくだり)は本伝とはまったくちがっている。ここで興味深いのは上に挙げた『世説新語』の劉孝標注に引く「晋陽秋」で、一部字句が異なっている以外、ほぼすべて本伝と一致している。つまり、ここのエピソードにかんしては『晋陽秋』を資料源に記述した可能性が高いと思われ、逆に唐修『晋書』は『晋陽秋』とは別の晋史に依拠していると考えられる。。王敦は安南将軍の甘卓を召集し、〔湘州刺史の〕譙王承55譙王承の名をこれとは別の文字で伝えている史書もある。『世説新語』仇隙篇、第四章は「丞」に作ってあり、同篇、第三章の劉孝標注に引く「晋陽秋」「無忌別伝」「司馬氏譜」も「丞」となっている。『世説新語』注に引く佚書は引用時に意図的に「丞」で統一したのかもしれない。『資治通鑑』はまれに「承」に作ってあるが(建武元年三月、太寧三年二月)、基本的には「氶」としている。これについて司馬光はコメントをしていないし、胡三省も「『資治通鑑』は「氶」に作る方針なのだろう」程度のことしか注記しておらず(太興三年冬の注)、胡三省自身がどう考えているかまでは明確にしていない。何法盛『晋中興書』の佚文は「承」に作るもの(『北堂書鈔』巻六一、五校尉「士恭躬処倹約」、同、巻七二、刺史「湘州阻固以叔父居之」、『太平御覧』巻一六一、別駕、同、巻四一七、忠勇)と「丞」に作るもの(『太平御覧』巻一五一、諸王下)がある。唐修『晋書』は(確認したかぎり)「承」で統一されており、沈約『宋書』(巻二四、天文志二)、『群書治要』(巻二九、虞悝伝)、『建康実録』(永昌元年四月に挿入されている劉隗の伝)も「承」としている。
『晋書』元帝紀の中華書局校勘記は宗室司馬氏に南宮王(武邑王)の承がおり、名が同じになってしまうのは適当ではないから、「氶」が正しいのではないかと推測している。しかしこの論拠は薄弱で、あまり妥当な推論とは思えない。ではどう判断すればよいのかというと、けっきょく決め手はないように思われる。とりあえず本伝は原文に従う。
なお譙王承は名のほかにも字や諡号も史書によってバラツキがあり(詳細は『晋書斠注』を参照)、記録に謎の多い人物である。を〔自分の府の〕軍司に転任させようとしたが、二人とも従わなかった56王敦が甘卓を召集したのも譙王を軍司にしようとしたのも、どちらも王敦挙兵前後のことであり、よってこの文の冒頭に「〔これより以前〕」と補うのが適切ではある。ただ本伝がどういう時系列認識で編集されているのかわかりにくいこともあり(すなわち魏収が資料源の晋史を誤読しているのではないかということ)、あえてこのまま補わないでおく。なお甘卓にかんしては、王敦は挙兵直前に彼に協力を呼びかけたのであり、甘卓はいちおう承諾の返事をしたものの、実際には軍を発動せず、王敦には合流しなかった。そして司馬叡側の諸将(譙王や戴淵)とも連絡を取ったため、前文に見えるごとく建康朝廷は甘卓を領荊州刺史とし、王敦の背後をつくよう命じたわけである(しかし彼は逡巡してそれも実行しなかった)。こういうわけなので、本伝の「従わなかった」はまちがいではないものの、そこまで強く反抗に出たわけではない。。王敦は従母弟で南蛮校尉の魏乂57王敦の従母弟という情報はおそらく『晋書』には見えていないが、『世説新語』仇隙篇、第三章の劉孝標注に引く「晋陽秋」には「敦遣従母弟魏乂攻丞」とあり、『晋陽秋』だと本伝と同様に続柄が記載されていたようである。をつかわし、江夏太守の李恒を統率させ、臨湘で譙王を攻めさせた。旬日(約十日)で城は陥落し、〔魏乂は〕譙王を捕えて武昌へ送った。王敦の従弟の王廙は盗賊に譙王を襲撃させ、車中で殺させた58以上の譙王承のくだりは『晋書』宗室伝、譙剛王遜伝附承伝とは異同が激しい。(1)承伝には「敦遣南蛮校尉魏乂、将軍李恒、田嵩等甲卒二万以攻承」とあり、魏乂と李恒の上下関係は明示されていない。他の列伝や史書も同様。(2)承伝には「相持百余日、城遂陥」とあり、譙王と魏乂軍との戦闘は百余日に及んだとされ、「旬日」ではない。『晋書』元帝紀によると、湘州の陥落は永昌元年四月のことで、おそらく王敦が建康から武昌へ戻ってから(あるいは帰路の途中)のできごとにあたる。王敦の挙兵が同年正月であるから、つまり『資治通鑑』の繋年のごとく、王敦は挙兵からまもなくのころに譙王へ魏乂らを派遣し、王敦が建康へ向かっている間も攻城戦がつづき、百余日後の四月になってようやく湘州が落ちたという時系列だと考えられる。(3)譙王の最期にかんして、承伝には「乂檻送承、荊州刺史王廙承敦旨於道中害之」とあり、暗殺手段は明記されていない。これに対し、『世説新語』仇隙篇、第二章の劉孝標注に引く「晋陽秋」は「王廙使賊迎之、薨於車」とあり、本伝とほぼ合一の記述内容となっている。。これより以前、王敦の表や疏は言葉が不遜であったので、司馬叡は譙王に〔それらを〕見せて言った、「王敦の言葉はこんなありさまだ。おとなしくさせることはできるだろうか」。譙王の返答、「早急に彼を斬らねば、難事が起こりましょう」。王敦はこの一件を憎んでいたのである59この司馬叡と譙王との話は『晋書』宗室伝、譙剛王遜伝附承伝にも見えているが、司馬叡の発言内容は本伝だとやや簡略化されている。。襄陽太守の周慮が甘卓を襲撃し、殺した60『晋書』巻七〇、甘卓伝によれば、甘卓は王敦の招集にも応じず、譙王の応援にもおもむかず、終始風見鶏でいたところ、王敦の意向をひそかに受けた周慮によって暗殺されてしまった。『晋書』元帝紀によれば永昌元年五月のことである。。
司馬叡は王敦に力づくで脅され、つねに憂鬱をかかえるようになり、発病して死んでしまった。
叡(元帝)/紹・衍・岳・聃・丕・奕・昱・昌明・徳宗・徳文
(2022/4/3:公開)