巻四十四 列伝第十四 盧欽

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鄭袤(附:鄭黙・鄭球)・李胤/盧欽(附:盧浮・盧珽・盧志・盧諶)華表(附:華廙・華恒・華嶠)石鑑・温羨

盧欽

 盧欽は字を子若といい、范陽の涿の人である。祖父は盧植といい、漢の侍中であった。父は盧毓といい、魏の司空であった。盧氏は代々、儒学をもって世に知られていた。盧欽は清廉素朴で、遠謀深慮があり、経書と史書に精力的にうちこんだ。孝廉に挙げられたが応じなかった。魏の大将軍の曹爽が掾に辟召した。あるとき、曹爽の弟がコネを使って違法な便宜を依頼してきたことがあったが(2022/7/4:修正)、盧欽は「ご子弟が法度を犯すのはまずいことです」と曹爽に仔細を話すと、曹爽はその諫言をしっかり受け入れ、その弟を処罰した。尚書郎に任じられた。曹爽が誅殺されると、免官された。のちに侍御史となり、父の爵の大利亭侯を継承し1原文「襲父爵大利亭侯」。『三国志』巻二二、盧毓伝によると、盧毓の最終的な爵は容城侯であり、孫の盧藩がその爵を継いでいる。かつ、大利亭侯なる爵を授かった経歴もない。つまり、本伝のこの記述は『三国志』盧毓伝と多く違背しているようにみえるのである。
 本伝によれば、盧欽はこの爵を継いだのちに司馬懿の府に辟召されているが、この時系列が正しいのならば、盧毓はこの時点で存命であったことになる(盧毓の没年は高貴郷公の甘露二年)。そうなると、盧欽は盧毓とは別に封建されたと考えたほうがよさそうに思える。あるいは、『三国志』盧毓伝に「高貴郷公即位、進封大梁郷侯、封一子亭侯」とあるが、ここの「封一子亭侯」こそ盧欽の大利亭侯を指しているとみる説もある(『晋書斠注』に引く銭大昭『三国志辨疑』)。本伝の時系列とは合わないものの、有力な説である。そして本伝の時系列が誤りでこの説が妥当なのだとすれば、盧欽はやはり盧毓が存命中に別に封建を授かったということになろう。このように盧欽が盧毓存命中に別に封じられたと考えれば、『三国志』が盧毓の後継者を盧欽ではなく孫の盧藩だと記していることとも合うはずである。残る問題は、銭氏の説でも解決しないところの、本伝の「襲父爵」という文言である。
 これについて、訳者は次のとおりに解釈してみたい。まず盧毓の爵を順に確認すると、高楽亭侯(曹爽誅殺後・高貴郷公即位前)→大梁郷侯(高貴郷公即位)→容城侯(高貴郷公年間)となる。「一子」が亭侯に封じられたのは盧毓が大梁郷侯に「進封」されたときである。つまり盧毓は高楽亭侯から別の封国へ移されたわけである。そのタイミングで子が亭侯に封じられたというのは、旧爵である高楽亭侯を子に継がせた、という意味なのではないだろうか。これこそ本伝がいう、盧欽に「父爵」を継がせた、という記述の意味するところではないか。実際のところ、越智重明氏によれば、晋代はこのような旧爵の温存措置――爵が進められたときに以前の爵を嫡子とは別の子に継がせる――がよく取られ、しかも旧爵をやや変化させて継がせることが多いのだという([越智一九六三]二六〇―二六四頁)。とすれば、旧爵継承時に高楽亭侯が大利亭侯に変えられて継がされた可能性が考えられよう(ただし越智氏によると、継承時に爵は降格されるのが通常である)。ちなみに盧欽はのちに大梁侯へと爵を進められているが、これもまた盧毓が高貴郷公即位時に授けられた爵である。盧毓が容城侯へ進められたさい、盧欽はまたしても盧毓の旧爵を継がされたのではないだろうか。
 訳者のこの解釈にも問題はある。越智氏によれば、かかる旧爵温存は晋代になってからみられるもので、曹魏においてはみられないそうである。とはいえ、盧毓父子の例は魏末のことである。また、盧毓父子の例が旧爵温存を示すものだとすれば、『三国志』の記述の仕方はあまりに微妙で、旧爵温存の措置がうかがいにくくなってしまっているとも指摘できる。『三国志』をあらためて検証しなおす必要もあるかもしれず、曹魏ではまだみられない措置だとは言いにくいかもしれない。
 これまで述べた訳者の解釈が妥当であるとするならば、本伝と『三国志』盧毓伝の記述とは多く整合的に解釈できるようになるはずである。唯一、本伝が爵の継承を高貴郷公即位前に配列している点だけは解決できない。やや強引な解釈になってしまいそうだが、本伝の「父爵」を継いだという記述を重んじるのならば、本伝の時系列配置が誤っている可能性が高いと結論せざるをえないだろう。
、昇進をかさねて琅邪太守に移った。宣帝が太傅になると、〔太傅府の〕従事中郎に辟召され、地方に出て陽平太守となり、淮北都督、伏波将軍に移り、おおいに成績をあげた。中央に召されて散騎常侍、大司農に任じられ、吏部尚書に移り、封爵を大梁侯に進められた。
 武帝が受禅すると、都督沔北諸軍事、平南将軍、仮節とし、追鋒軺臥車各一乗、第二駙馬二乗、騎具刀器(騎乗道具と武器?)、御府人馬鎧(皇帝用の兵馬の鎧?)など、および銭三十万を支給した。盧欽は鎮において、寛容と厳格が適度であり、辺境に事件は起きなかった2この当時はまだ孫呉が存続していた。。中央に入って尚書僕射となり、侍中、奉車都尉を加えられ、吏部尚書を領した。清貧であることから、特別に絹百匹を下賜された。盧欽が〔領吏部として〕人材を推挙するときは、必ず才能を基準としたため、公正であると称賛された。
 咸寧四年に卒した。詔が下った、「盧欽は道を踏み行ない、清廉公正で、徳を固持し、貞節であった。文武にわたる名声は中華に明らかである。朝廷に入って枢機に登り、政務を適切にこなした。内外で勤労し、匪躬3『易』蹇、六二の爻辞に「王臣蹇蹇、匪躬之故」とあるのが出典。「自分のためではなく、国家のために尽くす」という意味あい。の節義をそなえていた。不幸にも薨去してしまい、朕は彼をはなはだ悼む。衛将軍、開府儀同三司を追贈し、〔東園の〕秘器、朝服一具、衣一襲、布五十匹、銭三十万を下賜する」。元の諡号をおくった。また、盧欽は忠実高潔で、財産を築かず、没後、家はボロボロであったため、特別に銭五十万を下賜し、盧氏のために邸宅を建てた。ふたたび詔を下した、「故司空の王基、衛将軍の盧欽、領典軍将軍の楊囂はひとしく質素清廉で、没後は自宅に資産がなかった。ちかごろの飢饉で、彼らの家はおおいに困窮していると聞く。そこで、各自の家に穀物三百斛を下賜する」。盧欽は州郡の長官を歴任したが、功績や名声をあげることを第一に考えず、公正に統治することを心がけた。俸禄は親族や旧友に分け与え、財産を築かなかった。挙動は礼典を遵守し、妻が亡くなったさいは、廬(服喪を過ごす小屋)と杖をつくり、喪を終えるまで外寝で起居した4原文「制廬杖、終喪居外」。「外」というのは『儀礼』喪服篇「既練、舍外寝、始食菜果、飯素食、哭無時」にみえる「外寝」を指すと解釈した。一周忌で廬から出て、外寝という部屋で過ごす、ということであるらしい。劉寔伝に「喪妻為廬杖之制、終喪不御内」とあるのも本文と同例。。著述した詩賦や論難が数十篇あり、〔それらをひとつにまとめて〕『小道』と名づけた。子の盧浮があとを継いだ。

〔盧浮、盧珽:盧欽の子〕

 盧浮は字を子雲という。起家して太子舎人になった。腫れ物ができて腕を切断したため、とうとう官を廃された。しかし朝廷は盧浮の才能を高く評価していたので、国子博士、国子祭酒、秘書監にしようとしたが、いずれも就任しなかった5『三国志』巻二二、盧毓伝の裴松之注に引く「晋諸公賛」では、いずれも就任したかのように書かれている。「張華博識多聞、無物不知。浮高朗経博、有美於華、起家太子舎人、病疽、截手、遂廃。朝廷器重之、就家以為国子博士、遷祭酒。永平中為秘書監」とある。

 盧欽の弟の盧珽は字を子笏といい、衛尉卿であった。盧珽の子は盧志という。

〔盧志:盧珽の子〕

 盧志は字を子道という。最初は公府の掾に辟召され、〔ついで〕尚書郎となり、地方に出て鄴令となった。成都王穎が鄴に出鎮すると、盧志の才能を気に入り、重要な事柄を委任するようになり、とうとう成都王の謀主となった。斉王冏が起義すると、使者をつかわして成都王に知らせた。成都王は盧志を召して計画を相談したところ、盧志は言った、「趙王は無道で、ほしいままに簒奪をなしました。四海の人神(人々と神々)はことごとく憤っています。いま、殿下が三軍を率い、機会に応じて電撃のごとくすばやく進発なされば、招集をかけるまでもなく、人々は親を慕う子のように自然と集まってまいりましょう。悪人を一掃するには、必ず『征伐はあるが戦争はない』という軍でなければなりません6原文「必有征無戦」。『漢書』厳助伝「臣聞天子之兵有征而無戦、言莫敢校也」とあるのが出典。顔師古注に「校、計也。不敢与計彊弱曲直」とあり、強弱を比べるための戦争はしない、という意味あいの文句であるらしい。小竹武夫氏は「支配者の罪を正す征があって、罪のない民を犯す戦がない」と訳注を付している(『漢書5』筑摩書房、一九九八年、六〇三頁)。『荀子』議兵篇には「王者有誅而無戦」ともある。厳密に理解するとこうなるのかもしれないが、『三国志』などの用例をみてみると、「戦わずして勝つ」というていどの使われ方もしているので、そこまで深く考えなくともよいのかもしれない。。しかし、戦争はこのうえなく重大な事業であり、聖人すら慎重におこなった事柄です。賢者を抜擢し、才人を任用し、そうして世の支持を得るのがよいと思います」。成都王は深く納得し、上佐(上級の属僚)を新たに選抜し、掾属を盛大に辟召し、盧志を諮議参軍とし、ついで左長史とし、文書の仕事を盧志ひとりに専任させた。成都王の前鋒都督の趙驤が趙王に敗れると、兵士は震撼し、議者の多くは引き返して朝歌を守ることを要望した。盧志は言った、「いま、わが軍は敗北を喫し、敵軍は新たに勝利を得ましたから、〔敵軍には〕必ず〔わがほうを〕軽視して侮る心が芽生えているはずです。もし〔わが軍が〕兵を留めて進むことをしなければ、三軍は委縮してしまい、おそらく使いものにならなくなってしまうでしょう。それに、戦争に勝ち負けはつきものなのです。精鋭を選びなおし、昼夜兼行で進ませ、賊の不意を突くのがよいでしょう。これぞ用兵の妙というものです」。成都王はこれに従った。趙王が敗亡すると、盧志は成都王に勧めて言った、「斉王の軍は百万を号していますが、〔趙王軍の〕張泓と対峙して勝利を決することができませんでした。〔対して〕大王はすみやかに黄河を渡ることができました。大王の高大な勲功に比肩するものはありません。ところが、斉王は現在、大王と共同で朝政を輔政されるおつもりのようです。志(わたし)が聞くところでは、両雄は並び立たず、〔両雄の〕功名は等しくあがりません7原文「功名不並立」。二人の輔政による功名が等しく並んであがるわけがない(必ず優劣が出てしまう)、ということであろう。。いま、太妃がやや病気ぎみであるのを理由にして、〔鄴に〕帰って朝晩に孝養を尽くしたいとお求めになり、斉王を〔輔政に〕推薦し、じっくりと四海の人心を得るようになさるのがよいでしょう。この計が上策です」。成都王はこれを採用し、ついに母(太妃)の病気を理由に藩鎮(鄴)へ帰り、重任を斉王に委ねた。このため、成都王は四海の名声を獲得し、天下の人々が心服したのであった。朝廷は盧志を武強侯に封じ、散騎常侍を加えた。
 河間王顒が李含の進言を採用し、中央で二王(斉王と長沙王)を排除し、成都王を皇統の後継ぎに立てようとすると、使者をつかわして成都王に連絡した。成都王がこれに応じようとしたので、盧志は公正な意見を述べて諫めたが、成都王は聴き入れなかった。斉王が敗亡し、成都王が遠方(鄴)から朝政の権力を握るようになると、〔盧志は?〕とうとう不満をもつようになった。〔成都王は、〕長沙王乂が中央におり、自身の思うとおりにできないことから、長沙王を排除しようとひそかに思うようになった。このころ、荊州には張昌の反乱があったため、成都王は上表して親征を要望し、朝廷はそれを承認した。ちょうど張昌らが平定されたため、兵を転進させて長沙王を討とうとした。盧志は諫めて言った、「公はかつて皇運を復活させた大勲をお立てになりましたが、事が定まるや、功績を斉王に帰し、九錫の褒賞を辞退し、朝政を握る権力に就かず、陽翟の飢えた民を救済し、黄橋に遺棄された戦死者を埋葬しました8陽翟と黄橋の件は成都王穎伝に詳細が記されている。どちらも盧志の献策であった。。すべて厚き徳のなせるわざであり、四海の人々は誰もが〔公を〕頼もしく思ったのでした。逆賊が暴れまわり、荊楚(荊州)を騒がせましたが、いま、公は多くの難事を平定し、南方は安寧を得、軍列を整えて帰還の途に就いています。〔洛陽に向かわれるのでしたら、〕軍を関所の外に駐屯させ、文服を着用して入朝なさってください。これが覇王の事業なのです」。成都王は採用しなかった。
 長沙王が死ぬと、成都王は盧志を中書監とするよう上表し〔聴き入れられ〕たが、〔盧志は〕鄴に留まり、相国府の仕事に参与し、代行して処理した。恵帝が蕩陰で敗れると、成都王は盧志をつかわし、兵を統率させて恵帝を迎えさせた。王浚が鄴を攻めに来ると、盧志は天子を奉じて洛陽へ帰還するように成都王に勧めた。このとき、兵士はなおも一万五千人おり、盧志は夜に部隊に分けておき、夜明けになったら兵士はみな整列して〔準備を整えて〕いた。しかし程太妃は鄴を名残惜しんで離れたがらなかったので、成都王は決断がまだできなかった。すると、突如として兵士が潰走してしまい、盧志、子の盧謐、兄の子の盧綝、殿中武賁(虎賁)千人が残るのみとなってしまった。盧志は再度、早急に出発するよう成都王に勧めた。当時、道士で黄某という者がおり、聖人を称していたが、程太妃はかの者を信仰していた。〔成都王が〕彼を呼び寄せて入室させると、道士は二杯の酒を要求した。飲み干すと、杯を放り棄てて退室していった9太妃が「この方ならどうにかしてくださる」と嘆願するので仕方なしに呼んでみた、というところではないだろうか。。こうして、盧志の計画がようやく採決されたのである。しかし兵士はまたも逃げ散ってしまっていた。盧志は軍営のなかを探し回り、数乗の鹿車(小型の車)を得た。司馬督の韓玄は黄門(侍従の官吏)を集め、百余人を得た。盧志が〔恵帝の部屋に〕入ると、恵帝は盧志に「どうしてこんなに逃げ散っているのか」とたずねた。盧志、「賊(王浚軍)は鄴からなお八十里の地点にいるのですが、〔襲来を伝え聞いた〕兵士がにわかに驚いて逃げてしまったようです。太弟(成都王)は陛下を奉じて洛陽へご帰還なさるおつもりでございます」。恵帝、「それはとてもよいことだ」。こうして牛車に御乗させ、すぐに出発した。屯騎校尉の郝昌はこれ以前に兵八千を率いて洛陽を守備していたが、恵帝は郝昌を呼び寄せておいたところ、恵帝らが汲郡に到着したところで郝昌が合流し、護衛の陣容はおおいに盛大となった。盧志はふたたび勢いを取り戻したことに喜び、天子に啓し、赦書を下し、百姓とこの幸福を分かち合うのがよいでしょうと進言した。洛陽に到着すると、盧志は満奮を司隷校尉とするように啓した。逃げ散っていた者が多く〔洛陽に〕戻って来て、百官があらかた整ったため、恵帝は喜び、盧志に絹二百匹、綿百斤、衣一襲、鶴綾袍を賜った。
 これ以前、河間王は王浚が挙兵し〔て鄴を攻め〕たと聞くと、右将軍の張方を派遣し、鄴を救援させた。張方は成都王軍が敗北したのを知ると、兵を洛陽に留めてあえて〔鄴へ〕進まず、兵をはなって自由に人を拉致させたり、物を掠奪させたりした。〔恵帝が洛陽に到着したのち、〕長安への遷都をひそかにたくらみ、宗廟や宮殿を焼いて〔洛陽への〕人心を絶とうとした。盧志は張方に説いて言った、「むかし、董卓は無道にも洛陽を焼き払いましたが、怨嗟の声は百年経ってもなお残っています。なぜそのような暴挙を踏襲なさるのでしょうか」。そこで中止になった。張方はとうとう天子を脅して自身の軍塁へ行幸させた。恵帝は涙を流しながら車に乗ったが、盧志だけが側に侍り、言った、「陛下、こんにちの事態はすべて右将軍(張方)にお従いなされ。臣は臆病でして、お助けできることがございません。せいぜい、わずかな誠意を尽くし、お側から離れないことだけです」。張方の軍塁に三日停留してから西方へ進んだが、盧志も随行して長安に着いた。成都王が罷免されると、盧志も免官された。
 東海王越が天子を奉迎しようとすると、河間王は恵帝に啓し、成都王〔の官位〕を回復して鄴へ帰らせ、盧志を魏郡太守とし、左将軍を加え、成都王に随行させて北方へ出鎮させるよう要望した。〔盧志らが〕進んで洛陽に到着すると、平昌公模が前鋒督護の馮嵩を派遣し、成都王を拒ませた。成都王は長安へ戻ることにしたが、長安に着く前に、河間王が張方を斬り、東海王に和睦を求めたことを知った。成都王は〔進むのをやめて〕華陰に留まり、盧志が長安へ進み、闕門(宮城)を訪れて〔これまでの罪を〕陳謝した。すぐに引き返し、成都王に従って武関に至った。〔そのまま武関を通って〕南陽へ逃げたが、さらに劉陶に追い出されたため、転じて河北へ向かった。成都王が薨じると、官属は逃げて散り散りになってしまい、盧志だけがみずから葬送した。世の人々はこれを嘉した。東海王は盧志を軍諮祭酒に命じ、〔ついで〕衛尉に移った。永嘉の末年、列曹尚書に移った。洛陽が陥落すると、盧志は妻子を連れて北へ行き、并州刺史の劉琨のもとに身を寄せることにした。陽邑に着いたが、劉粲に捕えられてしまい、次子の盧謐、盧詵らといっしょに平陽で殺された。長子は盧諶という。

〔盧諶:盧志の子〕

 盧諶は字を子諒という。明敏で、理性的であり、老荘を好み、文章の制作を得意とした。選抜されて武帝の娘の滎陽公主を降嫁され、駙馬都尉に任じられたが、婚礼が終わる前に公主が卒してしまった。のちに州が秀才に挙げ、太尉掾に辟召された。洛陽が陥落すると、盧志に従って北の劉琨のもとへ身を寄せたが、盧志といっしょに劉粲に捕えられてしまった。劉粲は晋陽を占拠すると、盧諶を〔自分の手元に〕留めて参軍とした。劉琨は敗残兵を集め、猗盧の騎兵を引き連れて〔晋陽に〕戻って来ると、劉粲を攻めた。劉粲は敗走し、盧諶は劉琨に合流することができた。これ以前に父母や兄弟は〔連行されて〕平陽にいたのだが、ことごとく劉聡に殺されてしまった。劉琨が司空となると、盧諶を主簿とし、従事中郎に移った。劉琨の妻は盧諶の従母(母の姉妹)であったため、〔劉琨は盧諶に〕親愛を加えたが、それだけでなく彼の才能を重んじもしたのであった。
 建興の末年、劉琨に従って段匹磾のもとに身を寄せた。段匹磾がみずから幽州刺史を領すと、盧諶を別駕従事に召した。段匹磾は劉琨を殺したが、まもなく自身も〔石勒軍によって〕敗死した。当時、南方(建康)への道路は遮断しており、〔たほうで〕段末波が遼西にいたため、盧諶は段末波のもとへ行って身を寄せた。元帝の治世のはじめ、段末波が使者を江左(東晋)へつかわしたが、盧諶はその使者の機会を利用して上表し、劉琨を弁護した。その文意ははなはだ切実であった。こうして、ただちに〔劉琨に〕弔祭を加えたのであった。何度も盧諶を〔東晋朝廷に〕召し、散騎中書侍郎にしようとしたが、段末波に拘留されたため、けっきょく南へ渡ることはかなわなかった。段末波が死ぬと、弟の段遼が代わって立ったが、〔そのころになると〕盧諶は動乱によって流浪の目に遭ってから、二十年になりつつあった。石季龍が遼西を落とすと、今度は石季龍に捕えられ、中書侍郎、国子祭酒、侍中、中書監を歴任した。折りに冉閔が石氏を誅殺したが、盧諶は冉閔軍に従軍し〔て襄国の石祗を攻め〕たものの、〔冉閔軍は大敗してしまい、そのさいに〕襄国で殺されてしまった。享年六十七。永和六年のことである。
 盧諶は名家の子で、若くして名声をあげ、才能は高く、品行は高潔で、当世の人々から尊敬されていた。ちょうど中原で喪乱が起こり、清河の崔悦、潁川の荀綽、河東の裴憲、北地の傅暢とともに、そろって非所10原文まま。『漢語大詞典』は「正常な生活を送れない場所のこと。監獄や辺境など」と語釈している。ただし『晋書』では胡族によって陥落した地域のことを「非所」と呼ぶ例がしばしばあり、「誤った場所」「不適当な場所」というニュアンスのほうが強いように思われる。本伝のこの箇所についても、後趙石氏を指して「非所」と言っていると考えられる。に陥没してしまった。みな石氏のもとで高官に就いたものの、いつも恥辱に思っていた。盧諶はふだんから子どもたちに言っていた、「私が死んだあとは、『晋の司空従事中郎』とだけ呼称するように」。『祭法』を編纂し、『荘子』に注釈をつけ、文集があったが、どれも世に流通した。
 崔悦は字を道儒といい、魏の司空であった崔林の曾孫で、劉琨の妻の姪(兄弟姉妹の子)であった。盧諶とともに劉琨の司空従事中郎となり、のちに段末波の佐史となった。石氏に没したが、ここでも高官に就いた。荀綽、裴憲、傅暢は別に列伝がある。

鄭袤(附:鄭黙・鄭球)・李胤/盧欽(附:盧浮・盧珽・盧志・盧諶)華表(附:華廙・華恒・華嶠)石鑑・温羨

(2021/2/11:公開)

  • 1
    原文「襲父爵大利亭侯」。『三国志』巻二二、盧毓伝によると、盧毓の最終的な爵は容城侯であり、孫の盧藩がその爵を継いでいる。かつ、大利亭侯なる爵を授かった経歴もない。つまり、本伝のこの記述は『三国志』盧毓伝と多く違背しているようにみえるのである。
     本伝によれば、盧欽はこの爵を継いだのちに司馬懿の府に辟召されているが、この時系列が正しいのならば、盧毓はこの時点で存命であったことになる(盧毓の没年は高貴郷公の甘露二年)。そうなると、盧欽は盧毓とは別に封建されたと考えたほうがよさそうに思える。あるいは、『三国志』盧毓伝に「高貴郷公即位、進封大梁郷侯、封一子亭侯」とあるが、ここの「封一子亭侯」こそ盧欽の大利亭侯を指しているとみる説もある(『晋書斠注』に引く銭大昭『三国志辨疑』)。本伝の時系列とは合わないものの、有力な説である。そして本伝の時系列が誤りでこの説が妥当なのだとすれば、盧欽はやはり盧毓が存命中に別に封建を授かったということになろう。このように盧欽が盧毓存命中に別に封じられたと考えれば、『三国志』が盧毓の後継者を盧欽ではなく孫の盧藩だと記していることとも合うはずである。残る問題は、銭氏の説でも解決しないところの、本伝の「襲父爵」という文言である。
     これについて、訳者は次のとおりに解釈してみたい。まず盧毓の爵を順に確認すると、高楽亭侯(曹爽誅殺後・高貴郷公即位前)→大梁郷侯(高貴郷公即位)→容城侯(高貴郷公年間)となる。「一子」が亭侯に封じられたのは盧毓が大梁郷侯に「進封」されたときである。つまり盧毓は高楽亭侯から別の封国へ移されたわけである。そのタイミングで子が亭侯に封じられたというのは、旧爵である高楽亭侯を子に継がせた、という意味なのではないだろうか。これこそ本伝がいう、盧欽に「父爵」を継がせた、という記述の意味するところではないか。実際のところ、越智重明氏によれば、晋代はこのような旧爵の温存措置――爵が進められたときに以前の爵を嫡子とは別の子に継がせる――がよく取られ、しかも旧爵をやや変化させて継がせることが多いのだという([越智一九六三]二六〇―二六四頁)。とすれば、旧爵継承時に高楽亭侯が大利亭侯に変えられて継がされた可能性が考えられよう(ただし越智氏によると、継承時に爵は降格されるのが通常である)。ちなみに盧欽はのちに大梁侯へと爵を進められているが、これもまた盧毓が高貴郷公即位時に授けられた爵である。盧毓が容城侯へ進められたさい、盧欽はまたしても盧毓の旧爵を継がされたのではないだろうか。
     訳者のこの解釈にも問題はある。越智氏によれば、かかる旧爵温存は晋代になってからみられるもので、曹魏においてはみられないそうである。とはいえ、盧毓父子の例は魏末のことである。また、盧毓父子の例が旧爵温存を示すものだとすれば、『三国志』の記述の仕方はあまりに微妙で、旧爵温存の措置がうかがいにくくなってしまっているとも指摘できる。『三国志』をあらためて検証しなおす必要もあるかもしれず、曹魏ではまだみられない措置だとは言いにくいかもしれない。
     これまで述べた訳者の解釈が妥当であるとするならば、本伝と『三国志』盧毓伝の記述とは多く整合的に解釈できるようになるはずである。唯一、本伝が爵の継承を高貴郷公即位前に配列している点だけは解決できない。やや強引な解釈になってしまいそうだが、本伝の「父爵」を継いだという記述を重んじるのならば、本伝の時系列配置が誤っている可能性が高いと結論せざるをえないだろう。
  • 2
    この当時はまだ孫呉が存続していた。
  • 3
    『易』蹇、六二の爻辞に「王臣蹇蹇、匪躬之故」とあるのが出典。「自分のためではなく、国家のために尽くす」という意味あい。
  • 4
    原文「制廬杖、終喪居外」。「外」というのは『儀礼』喪服篇「既練、舍外寝、始食菜果、飯素食、哭無時」にみえる「外寝」を指すと解釈した。一周忌で廬から出て、外寝という部屋で過ごす、ということであるらしい。劉寔伝に「喪妻為廬杖之制、終喪不御内」とあるのも本文と同例。
  • 5
    『三国志』巻二二、盧毓伝の裴松之注に引く「晋諸公賛」では、いずれも就任したかのように書かれている。「張華博識多聞、無物不知。浮高朗経博、有美於華、起家太子舎人、病疽、截手、遂廃。朝廷器重之、就家以為国子博士、遷祭酒。永平中為秘書監」とある。
  • 6
    原文「必有征無戦」。『漢書』厳助伝「臣聞天子之兵有征而無戦、言莫敢校也」とあるのが出典。顔師古注に「校、計也。不敢与計彊弱曲直」とあり、強弱を比べるための戦争はしない、という意味あいの文句であるらしい。小竹武夫氏は「支配者の罪を正す征があって、罪のない民を犯す戦がない」と訳注を付している(『漢書5』筑摩書房、一九九八年、六〇三頁)。『荀子』議兵篇には「王者有誅而無戦」ともある。厳密に理解するとこうなるのかもしれないが、『三国志』などの用例をみてみると、「戦わずして勝つ」というていどの使われ方もしているので、そこまで深く考えなくともよいのかもしれない。
  • 7
    原文「功名不並立」。二人の輔政による功名が等しく並んであがるわけがない(必ず優劣が出てしまう)、ということであろう。
  • 8
    陽翟と黄橋の件は成都王穎伝に詳細が記されている。どちらも盧志の献策であった。
  • 9
    太妃が「この方ならどうにかしてくださる」と嘆願するので仕方なしに呼んでみた、というところではないだろうか。
  • 10
    原文まま。『漢語大詞典』は「正常な生活を送れない場所のこと。監獄や辺境など」と語釈している。ただし『晋書』では胡族によって陥落した地域のことを「非所」と呼ぶ例がしばしばあり、「誤った場所」「不適当な場所」というニュアンスのほうが強いように思われる。本伝のこの箇所についても、後趙石氏を指して「非所」と言っていると考えられる。
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