巻六十四 列伝第三十四 武十三王

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系図武十三王/元四王/簡文三子

 武帝には二十六人の男子がいた。楊元后は毗陵悼王の軌、恵帝、秦献王の柬を生み、審美人は城陽懐王の景、楚隠王の瑋、長沙厲王の乂を生み、徐才人は城陽殤王の憲を生み、匱才人は東海沖王の祗を生み、趙才人は始平哀王の裕を生み、趙美人は代哀王の演を生み、李夫人は淮南忠壮王の允、呉孝王の晏を生み、厳保林は新都懐王の該を生み、陳美人は清河康王の遐を生み、諸姫は汝陰哀王の謨を生み、程才人は成都王の穎を生み、王才人は孝懐帝を生み、楊悼后は渤海殤王の恢を生んだ。ほかの八人の男子は母の姓が不明で、みな夭折したうえ、封国も諡号もないため、ここではすべて省略する。瑋、乂、穎は別に列伝がある(巻五九、楚王瑋伝長沙王乂伝、成都王穎伝1上記に挙げられた男子から恵帝、懐帝、瑋、乂、穎および省略された八人を除くと確かに十三人になるが、以下の本伝で立伝されているのは合計十二人で、城陽殤王の憲が事実上、省かれてしまっている。

毗陵王軌

 毗陵の悼王の軌は字を正則という。最初は騎都尉に任じられたが、二歳で夭折した。太康十年、追って封爵と諡号を加え、楚王瑋の子の義を後継ぎとした。

秦王柬

 秦の献王の柬は字を弘度という。冷静明敏で、見識と度量があった。泰始六年、汝南王に封じられた。咸寧のはじめ、南陽王に改封され、左将軍、領右軍将軍、散騎常侍に任じられた。武帝が宣武場に行幸したとき、三十六軍の兵士の名簿を柬に点検させたところ、柬は一度閲覧しただけですぐに誤りを指摘したので、武帝は感心し、子供たちのなかでもとりわけ寵愛された。左将軍の位でありながら斉献王(武帝の弟の攸のこと)の故府に滞在し、はなはだ高貴で、天下じゅうから注目された。温厚で寡黙な性格だったので、弁舌が巧みとの評判は立たなかった。太康十年、秦に改封され、食邑八万戸とされた。当時、諸王で中原に封建された者はみな食邑五万戸であったが、柬は皇太子と同母兄弟であったため、特別に加増されたのである。鎮西将軍、西戎校尉、仮節に転じ、楚王や淮南王と同時に就国した。
 恵帝が即位すると、来朝し、驃騎将軍、開府儀同三司に任じられ、侍中を加えられ、録尚書事となり、〔ついで〕大将軍に進められた。ちょうど楊駿が誅殺されたが、柬は舅氏2「舅氏」は辞書的には「母の兄弟」(『漢辞海』)だが、ここは母の一族の意か。柬の生母である楊元后は楊駿の娘で、楊駿と同時に殺された楊珧らは楊駿の兄弟である。の滅亡を悲しみ、おおいに憂慮を抱くと、くりかえし武帝の言葉を口にして、封国に帰ることを要望したが、汝南王亮は柬を京師に留め、輔政させた。汝南王と楚王瑋が誅殺されると、世の人々は「柬には先見の明がある」と評した。
 元康元年に薨じた。享年三十。朝野がともにその死を悼んだ。葬礼は斉献王攸の故事に倣い、廟には軒懸の音楽を設けた。子はおらず、淮南王允の子の郁を後継ぎとしたが、允といっしょに殺された。永寧二年、〔郁に〕追って悼の諡号をおくった。また、呉王晏の子の鄴にあとを継がせた。懐帝が崩御すると、鄴は〔帝系に〕入って帝位を継いだため、国は断絶した。

城陽王景

 城陽の懐王の景は字を景度という。〔家を〕出て叔父の城陽哀王兆(文帝の子)のあとを継いだ。泰始五年に〔城陽に〕封じられ、六年に薨じた。

東海王祗

 東海の沖王の祗は字を敬度という。泰始九年五月に〔東海に〕封じられた。〔景の薨去後に城陽哀王兆を継いだ〕城陽の殤王の憲が薨じると3巻三、武帝紀によると、泰始七年五月に城陽王に封じられ、同年八月に薨じている。、さらに祗に城陽哀王兆のあとを継がせ〔、嗣立時に東海王に改封し〕たが、その年に薨じた4武帝紀によると、泰始九年三月に東海王に封じられ、同年六月に薨じている。兆のあとを継ぐと同時に封国を城陽から東海へ改められたのである。こののち、さらに遐(清河王)が兆のあとを継いだ。巻三八、文六王伝、城陽王兆伝も参照。。享年三歳。

始平王裕

 始平の哀王の裕は字を濬度という。咸寧三年に〔始平に〕封じられ、その年に薨じた。享年七歳。子はおらず、淮南王允の子の迪を後継ぎとした。太康十年、漢王に改封された。趙王倫に殺された5このあと、呉王晏の子の固が漢王を継いだと考えられる。呉王晏伝を参照。

淮南王允

 淮南の忠壮王の允は字を欽度という。咸寧三年、濮陽王に封じられ、越騎校尉に任じられた。太康十年、淮南に改封されると、就国し、都督揚・江二州諸軍事、鎮東大将軍、仮節となった。元康九年、入朝した。
 これ以前、愍懐太子が廃されると、議者は允を皇太弟に立てようとしていた。そのようなときに趙王倫が賈后を廃したため、詔が下り、とうとう〔皇太弟には立てずに〕允を驃騎将軍、開府儀同三司、侍中とし、都督はもとのとおりとし、領中護軍とした。允は冷静かつ剛毅な気質で、宿衛の将士はみな允に敬服した。
 趙王はすでに帝位簒奪の野心を抱いていたが、允はひそかにそのことを察知し、病気と称して朝廷に出仕せず、こっそり死士(命をかける兵士)をかかえこみ、秘密裏に趙王誅殺の謀略を練った。趙王は允をおおいに畏怖していたため、太尉に転任させ、外面上は優遇を示しつつ、実際には允から兵権を奪おうとした6『資治通鑑』巻八三、永康元年八月の胡三省注に「中護軍は軍隊を管轄しているので、太尉に転任させれば兵権が失われるのである(中護軍掌兵、転太尉則兵権去矣)」とある。中護軍は外軍を統領する軍職であるのに対し、太尉は武官公で、常設の府を置かれこそするが、特別に兵を加えられないかぎりは自前の軍隊を有さず、諸軍を動員する権限もなかった。そのため、太尉への転任は公への昇進であるいっぽうで、兵権の喪失を意味するのである。。允は病気と称して〔太尉の辞令を〕受けなかった。趙王は〔詔を持たせた〕御史をつかわし、允に〔拝命を〕厳しく促し、大逆の罪で告発された〔允の〕官属以下の身柄を確保させた7原文「収官属以下、劾以大逆」。『資治通鑑』巻八三、永康元年八月は「収其官属以下、劾以拒詔、大逆不敬」に作る。後文を勘案するとこの措置は詔の命令によるようである。本文をすなおに読むと、「允の官属以下を捕え、大逆の罪で告発した」となるが、しかし「劾」は有司などが官僚の罪・疑惑を告発するときに多く用いられる文字で、皇帝が官僚の罪を告発するという文脈で用いられることは通常ないように思われる(そもそもそのようなシチュエーションがあるのだろうか)。逮捕して、それから告発するという手順もいささか違和感がある。もろもろ考慮すると、原文の字の順番を無視することにはなってしまうが、「大逆の罪で有司から告発された允の官属を捕えるよう詔が命じた」と解釈するのがもっとも穏当であろう。とりあえずこの解釈で訳出することにした。。允は激しく怒り、〔御史が持参した、こうした一連の措置を命じた〕詔を見ると、孫秀の筆跡であった。おおいに憤り、すぐに御史を拘束し、斬ろうとしたが、御史は逃げて難を免れたので、令史二人を斬った。怒った表情で左右の者に言った、「趙王はわが家(允の一家)を滅ぼそうとしているぞ」。とうとう淮南国の軍と帷下の七百人8『資治通鑑』巻八三、永康元年八月の胡三省注は中護軍の兵士とする。を率いてただちに出動し、〔兵士らに?〕大声で呼びかけた、「趙王がそむいた。私はこれから攻めに行く。淮南王を助けようと思う者は味方せよ」。かくしてひじょうに多くの人々が允に帰順した。允が宮殿に向かおうとしたところ、尚書左丞の王輿が東掖門を閉じたので、允は入れず、そこで相国府を包囲した。允の率いる兵はみな淮南の剣の名人であった。〔趙王の軍と〕戦闘すると、何度もこれを破り、趙王軍の死者は千余人にのぼった。太子左衛率の陳徽が東宮の兵を統率し、相国府内部9『資治通鑑』巻八三、永康元年八月の胡三省注によると、趙王の相国府は東宮に置かれていたという。で太鼓を叩いて鬨の声をあげ、允に呼応したので、允は承華門の前で陣を構え、弓と弩を一斉に発射して趙王を射ち殺そうとし、雨のように矢を飛ばした。主書司馬の畦秘が身を挺して趙王をかばうと、矢が背中に当たって死んだ。趙王の官属はみな木に隠れて立ったが、どの木にも数百の矢が刺さるほどで、辰の時刻から未の時刻までつづいた。当時、陳徽の兄の陳淮(陳準)は中書令であったが、〔允に応じようと思い、〕騶虞幡〔を持たせた使者〕をつかわし、騶虞幡を振るわせて戦闘をやめさせようと〔恵帝に進言〕した10原文は「徽兄淮時為中書令、遣麾騶虞幡以解闘」だが、かなり言葉が足らず、文意が通じない。『資治通鑑』巻八三、永康元年八月だと「中書令陳淮、徽之兄也、欲応允、言於帝曰、『宜遣白虎幡以解闘』」とあるのを参考に、訳文を補った。。趙王の子の虔は侍中で、門下省にいたが、ひそかに壮士と誓約を交わし、〔趙王に味方する見返りに〕富貴を約束した。こうして〔虔と結託した〕司馬督護の伏胤は〔恵帝の命令を受けて騶虞幡を持参し、〕四百騎を率いて宮中から出撃すると、〔朝命にそむいて允の陣営へ向かい、〕何も書かれていない木板を掲げ〔ていかにも詔が記載されているかのように見せかけ〕、淮南王を助けよとの詔が下ったと偽って言った11以上、虔以降のくだりは『資治通鑑』巻八三、永康元年八月を参考に訳語を補った。。允は気づかず、陣を開いて受け入れ、車を下りて〔木版に記されていると信じ込んでしまった〕詔を受け取ろうとしたところで、伏胤に殺された。享年二十九。趙王の軍が敗れた当初、「もう趙王を捕まえたそうだ」と流言が広まり、百姓はおおいに喜んだ。ほどなく允の死亡を知ると、嘆息しない者はいなかった。允の三人の子12允の子は秦王の郁(秦王柬伝)、漢王の迪(始平王裕伝)が判明しているが、もう一人は不明。もみな殺され、允に連座して殺された者は数千人におよんだ。
 趙王が誅殺されると、斉王冏は上表し、允は冤罪だと弁護した、「故淮南王允の忠義と孝心は篤実で、国家を憂慮して身命を投げ出し、反逆者を討伐しようと奮起し、勝利が目前でした。ところが天の不幸に遭い、にわかに滅亡に陥ってしまいました。逆賊一派は悪事をたくらみ、同時に三人の子も殺してしまいました。冤罪の魂が訴える無念の怨みに、悲しみを覚えないひとはいません。〔臣が〕義兵を起こして以来、淮南国のひとは自発的に集ま〔って義軍に加わ〕り、その数は一万を超えました。人々は怒りを抱いており、淮南国の系統が断絶したのを憐れみ、思いを口にして涙を流していました。臣はそこで、独自の判断で子の超に允のあとを継がせ、生者と死者を慰安いたしました」。詔が下り、〔允を〕改葬させ、殊礼を下賜し、司徒を追贈した。斉王が敗亡すると、超は金墉城に幽閉された。後日、さらに呉王晏の子の祥を〔允の〕後継ぎとし13巻五九、斉王冏伝によると、超は冏の官爵が回復されたさいに冏のあとを継いでいる。超が冏の系統に戻ったのにあわせ、祥を淮南国の後継者に立てたのであろう。、散騎常侍に任じた。洛陽が転覆すると、劉聡に殺された。

代王演

 代の哀王の演は字を宏度という。太康十年に〔代に〕封じられた。若くして身体に障害があり、就国せず、演はつねに宮中で生活していた。薨じたが、子はおらず、成都王穎の子の廓を後継ぎとし、〔嗣立時に〕中都王に改封されたが、のちに穎といっしょに死んだ。

新都王該

 新都王14武十三伝冒頭によると、諡号は「懐」。の該は字を玄度という。咸寧三年に〔新都に〕封じられ、太康四年に薨じた。享年十二。子はおらず、国は廃された。

清河王遐(附:覃、籥、銓、端)

 清河の康王の遐は字を深度という。容姿端麗で、輝かしさがあり、武帝は遐をかわいがった。すでに封建されていたが、〔家から〕出て叔父の城陽哀王兆のあとを継いだ。太康十年、封国に渤海郡が加増され、右将軍、散騎常侍、前将軍を歴任した。元康のはじめ、撫軍将軍に進められ、侍中を加えられた。遐は成長しても惰弱で、物事の可否の判断をはっきり示さなかった。内向的な性格で、士大夫と交際できなかった。楚王瑋が挙兵〔して汝南王亮と衛瓘を誅殺しようと〕すると、遐に衛瓘を捕えさせようとしたが、衛瓘の故吏の栄晦が衛瓘の子や孫を皆殺しにしてしまった。遐はこれを制止できなかったので、世の人々から批判された。永康元年に薨じた。享年二十八。覃、籥、銓、端の四人の子がいた。覃があとを継いで立った。

〔清河王覃〕

 沖太孫15愍懐太子の子の尚のこと。愍懐太子の没後、恵帝の皇太弟に立てられていたが薨去し、沖太孫の諡号をおくられた。が薨じると、斉王冏が上表した、「東宮が空虚になってしまい、あとを継げる嫡男がいなくなってしまいました。天下経営という大業や、帝王の位という神器は、必ず後継者を立てて、事業の基礎を固めるものです。現在は後宮に妊娠したり養育したりしている者がおらず、将来に期待して世継ぎを空位にするわけにはまいりません。将来に望みをかけて東宮を不在のままにしておくことは祖先の遺志ではありませんし、社稷にとって長期的な計画でもありません。礼によれば、兄弟の子は子と同等にみなしてよく、それゆえ、漢の成帝は後継ぎがいなかったので、〔成帝の兄弟の子である〕定陶王にあとを継がせ、漢の和帝の系統が断絶してしまったので、〔和帝の兄弟の子である〕安帝が継承したのです。これは先王による優れた典範であり、むかしからの伝統的な規範なのです。清河王の覃は容姿が秀麗で、知恵が幼くしてそなわっています。康王(遐のこと)の正妃である周氏が生んだ子供であり、先帝(武帝)の孫たちのうち、現段階で嫡(正妻の子)の身分にあります。〔また〕むかし、漢の薄姫16漢の高祖の側室で文帝の母親。は賢明〔で、有徳な外戚〕だったために、文帝は〔擁立されて〕帝位を継承しましたが、覃の外祖父(周氏の父)である周恢は代々にわたって名声と徳を積み重ねています。宗廟祭祀という重役を奉じ、無窮の朝命を統べ治め、天下じゅうの待望を満足させるのは、覃が適任でしょう。〔覃が帝統に入ることになると、清河国の祭祀の主催者が不在になってしまうという問題が生じます。〕覃の兄弟はみな〔家を〕出て〔ほかの封国を〕継いでいますが、〔兄弟のなかから〕優秀な者を選び、〔家に〕帰して清河国の後継ぎとし、国の後継者を絶やさないようにすればよいでしょう。そこで、独自に大将軍の穎(成都王のこと)や公卿士たちに訊ねましたところ、みなわが念願に賛同してくれました。礼儀を整え、吉日を選んで〔覃を〕迎え、〔大任を〕授けますよう、要望いたします」。とうとう覃を皇太子に立てた。まもなく、河間王顒が恵帝をむりやり〔長安へ〕移動させると、上表して穎を皇太弟とし、覃を廃してふたたび清河王とした17原文「既而河間王顒脅遷大駕……」。恵帝紀によると、覃が皇太子を廃されたのは永興元年二月、穎が皇太弟に立てられたのも同年同月。恵帝が長安へ連行されたのは同年十一月のことなので、原文の「遷」は衍字か、時系列の誤認であろう。なおこの間、永興元年七月に恵帝が鄴の穎へ北伐に向かうと、覃がふたたび皇太子に立てられている。こののち、河間王軍の張方が洛陽を攻め落とすと、またも覃は皇太子から廃されてしまった。本伝はこのわずかな間の変転を脱落させてしまっている。巻四、恵帝紀、巻六一、周浚伝附周馥伝を参照。。覃が清河国世子になった当初、佩いていた金の鈴に突然、麻や粟のような突起ができた。祖母の陳太妃は不吉なものとみなし、壊して売ってしまった。占者によれば、金は晋の行徳で、おおいに栄える予兆であった。〔のちに〕覃は皇太子になったのだから、これは瑞祥だったのである。壊して売ってしまったのは、覃が廃されて天命をまっとうしない予兆をあらわしているのである。永嘉のはじめ、まえの北軍中候であった任城出身の呂雍や度支校尉の陳顔らが覃を太子に立てようと画策したが、発覚し、〔覃は〕金墉城に幽閉された18恵帝紀および巻三一、后妃伝上、恵羊皇后伝によれば、恵帝が崩御し、懐帝が即位する前に(すなわち永嘉改元以前に)羊后らは覃を後継ぎに立てようとしたが、失敗したという。それゆえ、原文の「永嘉初」はやや不正確な記載である。。まもなく殺された。享年十四。庶人の礼で埋葬された。

清河王籥

 籥は最初、新蔡王に封じられたが、覃が薨じると、戻されて清河王に封じられた。

豫章王銓

 銓は最初、上庸王に封じられたが、懐帝が即位すると、豫章王に改封された。永嘉二年、皇太子に立てられた19巻五、懐帝紀によると、皇太子に立てられたのは永嘉元年三月である。。洛陽が転覆すると、劉聡に没した。

豫章王端

 端は最初、広川王に封じられたが、銓が〔懐帝の〕皇太子になると、豫章王に改封され、礼秩は皇子と同等とされ、散騎常侍、平南将軍、都督江州諸軍事、仮節に任じられた。就国しようとしたところ、ちょうど洛陽が転覆したので、端は東に逃げ、蒙の苟稀のもとへ身を寄せた。苟稀は端を皇太子に立てたが、七十日後、石勒に没した。

汝陰王謨

 汝陰の哀王の謨は字を令度という。太康七年に薨じた。享年十一。後継ぎはなく、国は廃された。

呉王晏

 呉の敬王20武十三王伝冒頭だと諡号は「孝」になっている。の晏は字を平度という。太康十年に〔呉に〕封じられ、丹楊、呉興、呉の三郡を食邑とし、射声校尉、後軍将軍を歴任した。兄の淮南王允と協力して趙王倫を攻めたが、允が敗死すると、〔趙王は〕晏を逮捕して廷尉に引き渡し、晏を殺すつもりであった。傅祗が朝堂で顔つきを正して諫めると、かくして群官もそろって諫めたので、趙王は〔晏を〕降格して賓徒県王とした。のちに代王に改封された。趙王が誅殺されると、詔が下って晏を本来の封国(呉)に戻し、上軍大将軍に任じ、開府を授け、侍中を加えた。長沙王乂と成都王穎が戦争をはじめると、乂は晏を前鋒都督とし、何度か交戦した。永嘉年間、太尉、大将軍となった。
 晏は誠実で慎み深い人柄だったが、才覚は中人(平均的なひと)に及ばず、武帝の子供たちのなかでもっとも劣っていた。また、若いときに中風を患い、ものがきちんと見えず21原文「少有風疾、視瞻不端」。「不端」は正しくない、きちんとしていないの意。ここの「風疾」が中風の意で妥当ならば、「視瞻不端」は〈視力が悪い〉と言いたいわけではなく、中風の影響で視覚になんらかの障害(たとえば視野の欠損)が生じてしまっており、その意味で〈正常に見えていない〉と言っているのではなかろうか。視力の悪さを言うならば「不明」と表現するように思われるからである。さしあたりこの解釈を念頭に訳出した。、のちにますます症状がひどくなり、朝見することもできなくなった。洛陽が転覆すると、晏も殺された。享年三十一。愍帝が即位すると、太保を追贈された。五人の子がいたが、長子の名は不明で、晏といっしょに死んだ。ほかの四人の子は祥、鄴、固、衍という。祥は淮南王允のあとを継いだ。鄴は愍帝である。固は最初、漢王に封じられたが、〔のちに〕済南に改封された。衍は最初、新都王に封じられたが、〔のちに〕済陰に改封され、散騎常侍になった。二人とも賊に没した。

渤海王恢

 渤海の殤王の恢は字を思度という。太康五年に薨じた。享年二歳。追って封爵と諡号を加えた。

系図武十三王/元四王/簡文三子

(2022/11/5:公開)

  • 1
    上記に挙げられた男子から恵帝、懐帝、瑋、乂、穎および省略された八人を除くと確かに十三人になるが、以下の本伝で立伝されているのは合計十二人で、城陽殤王の憲が事実上、省かれてしまっている。
  • 2
    「舅氏」は辞書的には「母の兄弟」(『漢辞海』)だが、ここは母の一族の意か。柬の生母である楊元后は楊駿の娘で、楊駿と同時に殺された楊珧らは楊駿の兄弟である。
  • 3
    巻三、武帝紀によると、泰始七年五月に城陽王に封じられ、同年八月に薨じている。
  • 4
    武帝紀によると、泰始九年三月に東海王に封じられ、同年六月に薨じている。兆のあとを継ぐと同時に封国を城陽から東海へ改められたのである。こののち、さらに遐(清河王)が兆のあとを継いだ。巻三八、文六王伝、城陽王兆伝も参照。
  • 5
    このあと、呉王晏の子の固が漢王を継いだと考えられる。呉王晏伝を参照。
  • 6
    『資治通鑑』巻八三、永康元年八月の胡三省注に「中護軍は軍隊を管轄しているので、太尉に転任させれば兵権が失われるのである(中護軍掌兵、転太尉則兵権去矣)」とある。中護軍は外軍を統領する軍職であるのに対し、太尉は武官公で、常設の府を置かれこそするが、特別に兵を加えられないかぎりは自前の軍隊を有さず、諸軍を動員する権限もなかった。そのため、太尉への転任は公への昇進であるいっぽうで、兵権の喪失を意味するのである。
  • 7
    原文「収官属以下、劾以大逆」。『資治通鑑』巻八三、永康元年八月は「収其官属以下、劾以拒詔、大逆不敬」に作る。後文を勘案するとこの措置は詔の命令によるようである。本文をすなおに読むと、「允の官属以下を捕え、大逆の罪で告発した」となるが、しかし「劾」は有司などが官僚の罪・疑惑を告発するときに多く用いられる文字で、皇帝が官僚の罪を告発するという文脈で用いられることは通常ないように思われる(そもそもそのようなシチュエーションがあるのだろうか)。逮捕して、それから告発するという手順もいささか違和感がある。もろもろ考慮すると、原文の字の順番を無視することにはなってしまうが、「大逆の罪で有司から告発された允の官属を捕えるよう詔が命じた」と解釈するのがもっとも穏当であろう。とりあえずこの解釈で訳出することにした。
  • 8
    『資治通鑑』巻八三、永康元年八月の胡三省注は中護軍の兵士とする。
  • 9
    『資治通鑑』巻八三、永康元年八月の胡三省注によると、趙王の相国府は東宮に置かれていたという。
  • 10
    原文は「徽兄淮時為中書令、遣麾騶虞幡以解闘」だが、かなり言葉が足らず、文意が通じない。『資治通鑑』巻八三、永康元年八月だと「中書令陳淮、徽之兄也、欲応允、言於帝曰、『宜遣白虎幡以解闘』」とあるのを参考に、訳文を補った。
  • 11
    以上、虔以降のくだりは『資治通鑑』巻八三、永康元年八月を参考に訳語を補った。
  • 12
    允の子は秦王の郁(秦王柬伝)、漢王の迪(始平王裕伝)が判明しているが、もう一人は不明。
  • 13
    巻五九、斉王冏伝によると、超は冏の官爵が回復されたさいに冏のあとを継いでいる。超が冏の系統に戻ったのにあわせ、祥を淮南国の後継者に立てたのであろう。
  • 14
    武十三伝冒頭によると、諡号は「懐」。
  • 15
    愍懐太子の子の尚のこと。愍懐太子の没後、恵帝の皇太弟に立てられていたが薨去し、沖太孫の諡号をおくられた。
  • 16
    漢の高祖の側室で文帝の母親。
  • 17
    原文「既而河間王顒脅遷大駕……」。恵帝紀によると、覃が皇太子を廃されたのは永興元年二月、穎が皇太弟に立てられたのも同年同月。恵帝が長安へ連行されたのは同年十一月のことなので、原文の「遷」は衍字か、時系列の誤認であろう。なおこの間、永興元年七月に恵帝が鄴の穎へ北伐に向かうと、覃がふたたび皇太子に立てられている。こののち、河間王軍の張方が洛陽を攻め落とすと、またも覃は皇太子から廃されてしまった。本伝はこのわずかな間の変転を脱落させてしまっている。巻四、恵帝紀、巻六一、周浚伝附周馥伝を参照。
  • 18
    恵帝紀および巻三一、后妃伝上、恵羊皇后伝によれば、恵帝が崩御し、懐帝が即位する前に(すなわち永嘉改元以前に)羊后らは覃を後継ぎに立てようとしたが、失敗したという。それゆえ、原文の「永嘉初」はやや不正確な記載である。
  • 19
    巻五、懐帝紀によると、皇太子に立てられたのは永嘉元年三月である。
  • 20
    武十三王伝冒頭だと諡号は「孝」になっている。
  • 21
    原文「少有風疾、視瞻不端」。「不端」は正しくない、きちんとしていないの意。ここの「風疾」が中風の意で妥当ならば、「視瞻不端」は〈視力が悪い〉と言いたいわけではなく、中風の影響で視覚になんらかの障害(たとえば視野の欠損)が生じてしまっており、その意味で〈正常に見えていない〉と言っているのではなかろうか。視力の悪さを言うならば「不明」と表現するように思われるからである。さしあたりこの解釈を念頭に訳出した。
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