巻三十九 列伝第九 王沈(2)

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王沈/附:王浚/荀顗・荀勖/附:荀藩・荀邃・荀闓・荀組・荀奕/馮紞

〔王浚〕

 王浚は字を彭祖という。母は趙氏の婦女で、良家1どういう家を指した語であるのか解釈が分かれている。片倉穣氏は、従来の解釈のひとつに「富裕者」の意があることを紹介しながらも、本伝の例(良家なのに貧賤)を挙げて「財の蓄積の有無でもって良家を規定することは無理な解釈」と言い、諸史料の例を検討して「三世代にわたって換言すれば大功親以上の範囲から、巫、医もしくは七科の譴を一人も出さなかった完全無欠の家をさす言葉」と結論している。片倉「漢唐間における良家の一解釈」(『史林』四八―六、一九六五年)四二、四八頁。ほか、尾形勇氏と堀敏一氏にも専論があるらしいが、未見。とりあえずここでは、片倉氏が本伝の例にも配慮したうえで解釈を下されているので、氏の結論に従って読んでみる。の娘であったが、貧乏かつ卑賤であった。王沈の家に出入りし、はてに王浚を生んだものの、王沈は王浚のことを当初から気にもとめなかった。十五歳のとき、王沈が薨じたが、息子がいなかったので、親族は共同で王浚を後継ぎに立て、駙馬都尉に任じられた。太康のはじめ、諸王侯と同様に封国(博陵国)に就いた。太康三年に来朝し、員外散騎侍郎に任じられた。元康のはじめ、員外散騎常侍に転じ、〔ついで〕越騎校尉、右軍将軍へと移っていった。出て河内太守に任じられたが、〔爵が〕郡公であったために二千石になることができず2令の規定だとは思うが、よくわからない。そういう規定があったのならば、そもそもこういう人事をしないはずでは……?とか思うが。ちなみに王戎が制定した人事ルールに「甲午制」というのがあり、「凡選挙皆先治百姓、然後授用」(王戎伝)と、地方行政官を経てから中央に戻るという昇進ルートを整備したようである。中村圭爾氏はこの制の成立を太康一〇年と推測しており(中村『六朝政治社会史研究』汲古書院、二〇一三年、一二八―二九頁)、本伝のこのころには施行されていたとみられるから、王浚がここでなんとしても地方に出されているのもこの定めに則ってのことなのかもしれない。、東中郎将に転じ、許昌に出鎮した。
 愍懐太子が許昌で幽閉されると、王浚は賈后の意向を受け、黄門侍郎の孫慮と協力して愍懐太子を殺した。寧北将軍、青州刺史に移った。ほどなく、寧朔将軍、持節、都督幽州諸軍事に移った。このころ、朝廷は混乱し、盗賊がいっせいに現れたので、王浚はみずからを安寧にする計画を立て、夷狄とよしみを結び、娘を鮮卑の段務勿塵に嫁がせ、さらにもう一人の娘を蘇恕延3『資治通鑑』は「素怒延」に作り、胡三省は宇文氏と注している。に嫁がせた。
 趙王倫が帝位を奪い、三王(斉王ら)が義兵を挙げると、王浚は軍を擁して双方と通じつつも、〔斉王らの〕檄書を拒絶し、境内(幽州)の士庶が義(斉王ら)に駆けつけるのを禁じた。成都王穎は王浚を討伐しようとしたが、そのいとまがなかった。趙王が誅殺されると、安北将軍に昇進した。河間王顒と成都王が軍を起こして中央に向かい、長沙王乂を殺すと、王浚は不満を抱いた。成都王は上表して、幽州刺史の石堪を〔自分の〕右司馬とし、〔現在の〕右司馬の和演を石堪の後任とするよう要望し、ひそかに和演に王浚を殺させ、王浚軍を〔成都王の軍に?〕併合しようとした。和演は烏丸単于の審登とこの件を共謀し、こうして薊城の南にある清泉水のほとりで遊ぶことを王浚と約束した。薊の城内には西へ向かう道路が二本あり、和演と王浚は二手に分かれて進んだ4原文「演浚各従一道」。自信がない。あるいは「同じ道から進んだ」の意かもしれない。。〔合流地点に近づいたので〕和演と王浚は鹵簿(行列)を合流させようとしていたが、〔和演は〕その機会に王浚を殺す手はずであった。すると、ちょうどにわかに雨が降り、武器が濡れたため、果たせずに戻った。単于はこのため、種人と謀って言った、「和演は王浚の殺害をたくらんだが、計画が成功しようかというときに、天がにわかに雨を降らせ、成功を妨げた。これは天が王浚を助けたのだ。天に逆らえば不吉である。われわれは久しく和演と行動をともにするべきではない」。そして〔和演のこのたびの〕謀略を王浚に知らせた。王浚はひそかに兵を配備し、単于と共同して和演を包囲した。和演は白旗を持って王浚のもとへ行き、降った。〔王浚は〕そのまま和演を斬り、みずから幽州刺史を領した5原文「自領幽州」。『資治通鑑』は「自領幽州営兵」に作り、胡三省は「幽州刺史営兵也」と注している。私はたんに幽州刺史を省略して「幽州」と書いているだけだと考えたのだが……。。兵器をおおいに製造し、段務勿塵を呼び寄せ、胡人と晋人のべ二万人を率い、軍を進めて成都王を討伐した。〔王浚は〕主簿の祁弘を先鋒とし、〔祁弘は〕成都王の将の石超と平棘と遭遇したが、これを攻めて破った。王浚は勝利に乗じてとうとう鄴城を落とした。兵士は強奪をはたらき、死者は甚大であった。鮮卑は女性をおおいに拉致し、王浚はあえて〔女性を〕隠匿する者は斬ると命じたので、こうして〔斬られて?〕易水に沈められた者は八千人にのぼった。民衆が苦痛にさいなむようになったのは、ここからはじまったのである。
 王浚が薊に帰還すると、名実ともますます盛んになった。東海王越が天子を〔長安から〕迎えようとすると、王浚は祁弘を派遣し、烏丸突騎を統率させて先駆とさせた。恵帝が洛陽に戻ると、王浚を驃騎大将軍、都督東夷・河北諸軍事に移し、領幽州刺史とし、燕国を博陵国の封域に加増した。懐帝が帝位につくと、王浚を司空、領烏丸校尉とし、段務勿塵を大単于とした。王浚はさらに上表し、段務勿塵を遼西郡公に封じ、その別部の大飄滑と弟の渇末6成都王穎伝にみえる「烏丸羯朱」と同一人物と目され(該所の中華書局校勘記を参照)、烏丸であるらしい(もっとも、中華書局はこの文を「烏丸と羯朱」と並列で読んでいるが、「烏丸の羯朱」と読むほうが妥当だろう)。本文で「其別部大飄滑……」と言っているのは、厳密には「段部とは別の部の……」という意だと思うが、そもそも烏丸なので別部であるしだいなのだろう。、別部の大屠瓮らをみな親晋王とするように求めた7原文「其別部大飄滑及其弟渴末別部大屠瓮等皆為親晋王」。中華書局は上に引いたように句点を打たず、「別部の大飄滑と渇末別部の大屠瓮」と読んでいる。前注で触れたように、「渇末」は人名と捉えたほうがよさそうだし、「渇末部」ならまだしも、「渇末別部」というのは違和感がある。『資治通鑑』も勘案して訳文のように読んだ。
 永嘉年間、石勒が冀州を侵略したので、王浚は鮮卑の段文鴦を派遣して石勒を討伐させると、石勒は南陽へ敗走した。翌年、石勒がふたたび冀州を侵略し、冀州刺史の王斌が石勒に殺されたので、王浚はさらに冀州刺史を領した。詔が下り、王浚を大司馬に進め、侍中、大都督督幽・冀諸軍事を加えた。使者が出発するまえに、洛陽が転覆したので、王浚は政令をおおいに樹立し8原文「大樹威令」。政治上の決定を独断で下すようになったということ。、戦争を専断した。督護の王昌、中山太守の阮豹らを派遣して、〔彼らに〕諸軍、段務勿塵の世子の段疾陸眷、その弟の段文鴦、従弟の段末柸を統率させ、石勒を襄国で攻めさせた。石勒は軍を率いて出撃し、防ごうとしたが、王昌は迎撃してこれを破った。段末柸は敗走する石勒軍を追撃し、石勒軍の塁門に入ったが、石勒に捕えられてしまった。石勒は段末柸を人質とし、〔段氏に〕密使をつかわして和睦を求めたところ、段疾陸眷はとうとう鎧馬二百五十匹、金銀それぞれ簏(竹で編んだ箱)ひとつ分で末柸を贖い、盟を結んで退いた。
 そののち、王浚は天下に布告し、中詔9皇帝から授かった手詔のこと。を授かって承制10皇帝の命令(「制」)を受け(「承」)、朝政を統べるという意。今後、自分からいろいろと命令を発するけど、それは皇帝から委託を受けてのことなのでみんな言うこと聞いてね、という話。「称制」は「制を称す」(皇帝を称す、もしくは皇帝の代行に就く)で、実質上やっていることは似ているけど、意味はちがう。を命じられたと称し、そして司空の荀藩を太尉とし、光禄大夫の荀組を司隷校尉とし、大司農の華薈を太常とし、中書令の李絚を河南尹とした11この承制に関する記述は、『資治通鑑』だと後文の「皇太子を立ててみずからは尚書令を領し云々」という記述と同時系列のものとして扱われており、たしかに『資治通鑑』のように考えたほうがよさそうである。ほかにも時系列が混乱している箇所がありそうなので要注意。。また、祁弘を派遣して石勒を討伐させ、〔祁弘は〕広宗に到着した。そのころ、霧が濃く、祁弘は軍を率いて道を進んでいたが、にわかに石勒と遭遇し、石勒に殺されてしまった。これを機に、劉琨は王浚と冀州を争うようになった12原文「由是劉琨与浚争冀州」。「由是」で前文と接続されているわけがよくわからない。錯簡もしくは前文の省略があるのかもしれない。。劉琨は宗人の劉希を〔郷里の〕中山に帰らせて兵を集めさせると、代郡、上谷、広寗の民はみな劉琨に帰順した。王浚はこのことを厄介に思い、とうとう石勒討伐軍を中止し、劉琨と対立するようになった。王浚は燕相の胡矩を派遣して諸軍を監督させ、段疾陸眷と協力させて劉希を攻め破らせた。〔段氏は劉希のもとに集まっていた〕三郡の男女を拉致して出塞したため、劉琨はもう争うことができなくなった。
 王浚は帰還すると、石勒を討伐しようと考え、棗嵩に諸軍を監督させて易水に駐屯させ、〔また〕段疾陸眷を呼び寄せ、棗嵩と共同させて襄国を攻めさせようとした。王浚の為政は法に厳しく、暴虐であった。将や官吏も貪欲かつ残虐で、みなで山沢を広く占領し、河川を引いて〔自分の〕田を灌漑し、〔それによって〕墓地を水没させた。徴発が頻繁であったため、民は命令にこらえきれず、多くがそむいて鮮卑に流入した。従事中郎の韓咸は厳しく諫めたが、王浚は怒り、殺してしまった。段疾陸眷は前後で命令にそむいてしまっていたため、王浚が誅殺してくるのではないかと恐れていた。石勒がまたも使者をつかわし、厚く金品を贈ってきたので、段疾陸眷らはこのために〔王浚の〕招集に応じなかった。王浚は怒り、手厚い金品を贈って単于の猗盧の子である右賢王の日律孫を勧誘し、段疾陸眷を攻めさせたが、逆に破られてしまった。
 このころ、劉琨は劉聡からおおいに圧迫を受けていたので、戦乱を避けようとする士人の多くは王浚のもとへ帰していた。王浚は日に日に勢力を強めていることをもって、檀を設置して天帝に報告し、皇太子を立て、百官を整えた。王浚はみずから尚書令を領し13一見するといかにも帝位を僭称したかのごとくだが、あくまで行台(都の外に置かれた尚書台)を称したにすぎない。『芸文類聚』巻三八、宗廟に引く「晋諸公賛」にも「王浚、字彭祖、為幽州刺史。尋洛陽破、浚承制建行台、以宗廟焚毀、設墠、望祀七室及功臣配食者」とある。前注で触れたように、「中詔を授かったと言って承制を称した」のと同時系列のことと考えられる。
 したがって、皇太子も懐帝の後継者という意であろう。『資治通鑑考異』は「晋書初無其名、劉琨与丞相牋曰、『浚設壇場、有所建立、称皇太子』、不知為誰」と言い、素性は不明という。はじめに浮かぶのは琅邪王であろうが、『資治通鑑』には百官配置の記述につづけて「列署征鎮、以荀藩為太尉、琅邪王睿為大将軍」とあり、王浚の差配によって大将軍に任命されているらしいので、琅邪王ではなさそうである。
、棗嵩と裴憲を列曹尚書とし、自分の子を王宮におらしめ、〔その子を〕持節、領護匈奴中郎将とし、妻の舅の崔毖を東夷校尉とした。また、棗嵩を監司・冀・并・兗諸軍事、行安北将軍とし、田徽を兗州刺史とし、李惲を青州刺史とした。〔のちに〕李惲は石勒に殺されてしまったので、薄盛を後任とした。
 王浚は、父(王沈)の字の「処道」を「当途高」とみなし、王者の予言に呼応していると考え、帝号の僭称を画策した。胡矩は王浚を諫め、よろしくないと盛んに述べた。王浚はこれを怒り、胡矩を出して魏郡太守とした。まえの渤海太守の劉亮、その従子(おい)である北海太守の劉搏、司空掾の高柔がそろって厳しく諫めたので、王浚は怒り、彼らを誅殺した。王浚は平素から長史である燕国の王悌に不満をもっていたので、とうとうほかの事柄にかこつけて王悌を殺してしまった。この当時の童謡に「十の袋(刺史府の物資)のうち五つが棗郎(棗嵩)に入っている」14『資治通鑑』だと「府中赫赫、朱丘伯。十囊五囊、入棗郎(刺史府が盛大なのは朱丘伯のおかげ。十の袋の五つが棗郎のもとへ)」となっている。朱丘伯は胡三省によると朱碩のことで、本伝には見えないが石勒載記上に王浚の取り巻きの一人として言及されている。朱碩の厳しい徴発で刺史府は豊かになっているが、取り立てた物資の半分を棗嵩が横流しして私物にしているということだろう。というのがあった。棗嵩は王浚の娘婿である。王浚はこの童謡を耳にはさむと、棗嵩を譴責したが、罰することはできなかった。また別の童謡に「幽州の城門は戸を隠している15原文は「蔵戸」。戸籍登録せず、不法に隠れている戸を指す。かのようだけど、中には王彭祖のむくろが転がっているだけ」16自信はないが、「幽州はたくさんの民を不法に統治しているように見えそうだけど、実際にはぜんぜん蔵戸なんかいなくて空っぽだよ」と歌いつつ王浚の死を暗示したものか。というのがあった17どちらの童謡も王隠『晋書』の佚文にみえている。前者の童謡は『太平御覧』巻七〇四、嚢に引く佚文、後者は『太平御覧』巻五四九、屍、および『北堂書鈔』巻七二、刺史「王俊伏屍」に引く佚文にそれぞれ見えている。。このとき、狐が刺史府の城門に前足を立てて座り、雉が〔刺史府の〕庁舎に入ったことがあった。当時、燕国の霍原は北州(北中国)で名声のある賢人であったが、王浚は帝位僭称計画を彼にたずねてみたところ、霍原は答えなかったため、王浚はついには彼を殺してしまった。このため、士人は憤懣を抱き、内外で〔王浚に〕親しむ者はいなくなった。傲慢が日に日にひどくなり、みずから政事をみず、任用する者は多くが法に峻厳であった。さらに旱魃と蝗害がかさなり、兵士は衰弱した。
 王浚が承制したとき、参佐(府の官吏)はみな内叙(中央の官職)を得たが、司馬の游統だけは外に出された18石勒載記上によると、范陽に出鎮していたらしい。。游統はうらみに思い、ひそかに石勒と謀略を通じた。そこで石勒は偽って王浚に降り、王浚を主君に奉じるのを賛同した。このとき、百姓は境内でそむき、段疾陸眷らが侵略してきていた。王浚は石勒が自分に帰順したのを喜んだので、石勒はそのままへりくだった言葉で王浚に臣従し、珍宝を献上し、駅馬に乗った使者をあいついでつかわした。王浚は石勒をまごころのある者だと思い、防備を設けなかった。そこで石勒は使者をつかわし、期日を取り決めて尊号を王浚に奉じたいと願い出たので、王浚は聴き入れた。
 石勒が易水に駐屯すると、督護の孫緯が欺瞞を疑い、馬を走らせて王浚に話し、軍を率いて石勒を迎撃しようとした。王浚は聴き入れず、石勒をまっすぐ進ませた。配下の者たちが会議したところ、「胡人は貪欲で信義がなく、必ず偽りがあるでしょう。石勒を拒んでください」とみなが言ったが、王浚は怒り、あれこれ言う者を斬ろうとしたので、人々はしまいに諫めようとしなくなった。〔王浚は〕盛大に〔宴席を〕準備して石勒を待った。石勒は城に到着すると、すぐに兵を放っておおいに掠奪させた。王浚の左右の者たちは石勒討伐をふたたび要請したが、許さなかった。石勒が庁舎に登ると、ようやく王浚は逃げて広間へ向かったが、石勒の兵士が捕えて石勒に差し出した。石勒はついに王浚の妻と並んで座り、王浚の前に立った。王浚は罵倒して言った、「胡奴のくせにおまえの主人をからかいやがって。なんだこの反逆は」。石勒は王浚が晋に不忠であった罪状を数え上げてなじり、あわせて百姓が飢えていたのに粟五十万斛を蓄積して配給しなかったことを譴責した。そのまま五百騎を派遣し、先に王浚を襄国へ護送させ、王浚麾下の精兵一万人を捕え、皆殺しにした。二日間停留してから帰還したが、孫緯が阻んで攻めてきたので、石勒はかろうじて逃げ延びることができた。石勒が襄国に到着すると、王浚を斬った。王浚は最期まで石勒に屈さず、おおいに罵倒して死んでいった。息子はいなかった。
 太元二年、〔孝武帝は〕詔を下し、断絶した家の復興を命じたので、王沈の従孫の王道素を博陵公に封じた。〔王道素が〕卒すると、子の王崇之があとを継いだ。義煕十一年、東莞郡公に改封された。宋が受禅すると、国は廃された。

王沈/附:王浚/荀顗・荀勖/附:荀藩・荀邃・荀闓・荀組・荀奕/馮紞

(2020/11/3:公開)

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    どういう家を指した語であるのか解釈が分かれている。片倉穣氏は、従来の解釈のひとつに「富裕者」の意があることを紹介しながらも、本伝の例(良家なのに貧賤)を挙げて「財の蓄積の有無でもって良家を規定することは無理な解釈」と言い、諸史料の例を検討して「三世代にわたって換言すれば大功親以上の範囲から、巫、医もしくは七科の譴を一人も出さなかった完全無欠の家をさす言葉」と結論している。片倉「漢唐間における良家の一解釈」(『史林』四八―六、一九六五年)四二、四八頁。ほか、尾形勇氏と堀敏一氏にも専論があるらしいが、未見。とりあえずここでは、片倉氏が本伝の例にも配慮したうえで解釈を下されているので、氏の結論に従って読んでみる。
  • 2
    令の規定だとは思うが、よくわからない。そういう規定があったのならば、そもそもこういう人事をしないはずでは……?とか思うが。ちなみに王戎が制定した人事ルールに「甲午制」というのがあり、「凡選挙皆先治百姓、然後授用」(王戎伝)と、地方行政官を経てから中央に戻るという昇進ルートを整備したようである。中村圭爾氏はこの制の成立を太康一〇年と推測しており(中村『六朝政治社会史研究』汲古書院、二〇一三年、一二八―二九頁)、本伝のこのころには施行されていたとみられるから、王浚がここでなんとしても地方に出されているのもこの定めに則ってのことなのかもしれない。
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    『資治通鑑』は「素怒延」に作り、胡三省は宇文氏と注している。
  • 4
    原文「演浚各従一道」。自信がない。あるいは「同じ道から進んだ」の意かもしれない。
  • 5
    原文「自領幽州」。『資治通鑑』は「自領幽州営兵」に作り、胡三省は「幽州刺史営兵也」と注している。私はたんに幽州刺史を省略して「幽州」と書いているだけだと考えたのだが……。
  • 6
    成都王穎伝にみえる「烏丸羯朱」と同一人物と目され(該所の中華書局校勘記を参照)、烏丸であるらしい(もっとも、中華書局はこの文を「烏丸と羯朱」と並列で読んでいるが、「烏丸の羯朱」と読むほうが妥当だろう)。本文で「其別部大飄滑……」と言っているのは、厳密には「段部とは別の部の……」という意だと思うが、そもそも烏丸なので別部であるしだいなのだろう。
  • 7
    原文「其別部大飄滑及其弟渴末別部大屠瓮等皆為親晋王」。中華書局は上に引いたように句点を打たず、「別部の大飄滑と渇末別部の大屠瓮」と読んでいる。前注で触れたように、「渇末」は人名と捉えたほうがよさそうだし、「渇末部」ならまだしも、「渇末別部」というのは違和感がある。『資治通鑑』も勘案して訳文のように読んだ。
  • 8
    原文「大樹威令」。政治上の決定を独断で下すようになったということ。
  • 9
    皇帝から授かった手詔のこと。
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    皇帝の命令(「制」)を受け(「承」)、朝政を統べるという意。今後、自分からいろいろと命令を発するけど、それは皇帝から委託を受けてのことなのでみんな言うこと聞いてね、という話。「称制」は「制を称す」(皇帝を称す、もしくは皇帝の代行に就く)で、実質上やっていることは似ているけど、意味はちがう。
  • 11
    この承制に関する記述は、『資治通鑑』だと後文の「皇太子を立ててみずからは尚書令を領し云々」という記述と同時系列のものとして扱われており、たしかに『資治通鑑』のように考えたほうがよさそうである。ほかにも時系列が混乱している箇所がありそうなので要注意。
  • 12
    原文「由是劉琨与浚争冀州」。「由是」で前文と接続されているわけがよくわからない。錯簡もしくは前文の省略があるのかもしれない。
  • 13
    一見するといかにも帝位を僭称したかのごとくだが、あくまで行台(都の外に置かれた尚書台)を称したにすぎない。『芸文類聚』巻三八、宗廟に引く「晋諸公賛」にも「王浚、字彭祖、為幽州刺史。尋洛陽破、浚承制建行台、以宗廟焚毀、設墠、望祀七室及功臣配食者」とある。前注で触れたように、「中詔を授かったと言って承制を称した」のと同時系列のことと考えられる。
     したがって、皇太子も懐帝の後継者という意であろう。『資治通鑑考異』は「晋書初無其名、劉琨与丞相牋曰、『浚設壇場、有所建立、称皇太子』、不知為誰」と言い、素性は不明という。はじめに浮かぶのは琅邪王であろうが、『資治通鑑』には百官配置の記述につづけて「列署征鎮、以荀藩為太尉、琅邪王睿為大将軍」とあり、王浚の差配によって大将軍に任命されているらしいので、琅邪王ではなさそうである。
  • 14
    『資治通鑑』だと「府中赫赫、朱丘伯。十囊五囊、入棗郎(刺史府が盛大なのは朱丘伯のおかげ。十の袋の五つが棗郎のもとへ)」となっている。朱丘伯は胡三省によると朱碩のことで、本伝には見えないが石勒載記上に王浚の取り巻きの一人として言及されている。朱碩の厳しい徴発で刺史府は豊かになっているが、取り立てた物資の半分を棗嵩が横流しして私物にしているということだろう。
  • 15
    原文は「蔵戸」。戸籍登録せず、不法に隠れている戸を指す。
  • 16
    自信はないが、「幽州はたくさんの民を不法に統治しているように見えそうだけど、実際にはぜんぜん蔵戸なんかいなくて空っぽだよ」と歌いつつ王浚の死を暗示したものか。
  • 17
    どちらの童謡も王隠『晋書』の佚文にみえている。前者の童謡は『太平御覧』巻七〇四、嚢に引く佚文、後者は『太平御覧』巻五四九、屍、および『北堂書鈔』巻七二、刺史「王俊伏屍」に引く佚文にそれぞれ見えている。
  • 18
    石勒載記上によると、范陽に出鎮していたらしい。
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