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劉琨(1)/劉琨(2)/劉琨(3)/附:劉群・劉輿・劉演/祖逖/附:祖納
祖逖は字を士稚といい、范陽の遒の人である。代々二千石を輩出し、北州(北中国)の旧族(旧来の名族)であった。父の祖武は晋王府の掾、上谷太守であった。祖逖は若くして父を亡くし、兄弟は六人いた。兄の祖該、祖納はどちらも度量が大きく、爽快な人柄で、才幹をそなえていた。祖逖は豪快豁達な性格で、礼儀を身につけず、十四、五歳になってもまだ文字がわからなかったので、兄たちはいつも祖逖のことを心配していた。だが〔祖逖は〕財産を軽んじて侠を好み、意気が高く、志節を抱いており、農村にいたるたび、いつも兄の意向だと称して穀物や帛をばらまき、貧民を助けた。これによって、郷党や宗族は祖逖を尊重するようになった。のちになって文献を広く読み、古今のことに博通するようになった。京師を往来するようになったが、〔祖逖に〕会った人は「祖逖には天下の経営を輔佐する優れた才能がある」と言っていた。〔のち、〕陽平(司州の郡)に僑居(客寓)した。二十四歳のとき、陽平太守が召して孝廉に推挙し、〔その後、〕司隷校尉がふたたび召して秀才に推挙したが、どちらも応じなかった。〔のちに〕司空〔となる〕劉琨とともに司州刺史府の主簿となり1『世説新語』賞誉篇の劉孝標注に引く「晋陽秋」によればこれも二十四歳のときのことらしい。祖逖は太興四年(西暦三二一年)に享年五十六で死去しているから、逆算すると武帝の太康一〇年(二八九年)になる。、意気投合し、同じふとんでいっしょに眠っていた。〔ある日、〕真夜中に鶏のでたらめな鳴き声を聞くと、劉琨を蹴って目を覚まさせ、「こいつは不吉な音じゃないぜ」と言い、起き上がって踊った。祖逖と劉琨は二人とも高い気概があり、つねに時事について話しあっていた。ある真夜中、〔二人とも〕寝床から起きて座ると、たがいに言いあった、「もし四海が混乱し、豪傑たちがこぞって割拠したら、私と足下はいっしょに中原から離れることにしよう」。
斉王冏の大司馬府の掾に召され、〔ついで〕長沙王乂の驃騎将軍府の祭酒に召され、〔さらに〕主簿に移り、昇進を重ねて太子中舎人、豫章王の従事中郎に移った。恵帝の北伐(成都王穎の討伐)に従軍し、王師が蕩陰で敗北すると、そのまま退却して洛陽へ帰還した。天子が西へ進んで長安へ行幸すると、関東の諸侯の范陽王虓、高密王略、平昌公模らが競って祖逖を召したが、どれにも応じなかった。東海王越は祖逖を典兵参軍、済陰太守としたが、母が亡くなったので赴任しなかった2『北堂書鈔』巻六九、中兵参軍「逖智出人表」に引く「晋中興書范陽祖録」に「祖逖為東海王越典兵参軍、智出人表」とあり、この佚文では就任したかのごとくである(なおこの佚文は湯球の輯本には収められておらず、楊徳炳「論祖逖与北伐」(『武漢大学学報(社会科学版)』一九八五―二)の注五で引用されているので知った)。。
京師がおおいに混乱すると、祖逖は親党(親しい仲間)数百家を率いて淮水と泗水の方面(徐州)へ避難した。祖逖は〔自分が〕使っている車と馬に同行している老人や病人を載せ、みずからは徒歩で進み、薬、物資、衣服、食糧は衆と共有し、また機転を利かせて計画を立てることが多かったのでその場に応じて計画を立てることに長けていたので(2020/11/7:修正)、少長みな祖逖に帰服し、行主に推戴した。泗口に到着すると、元帝は〔祖逖を〕迎えて徐州刺史に登用し、ほどなく〔丞相府の〕軍諮祭酒に召され3丞相府の軍諮祭酒とするのは金民寿氏の研究にもとづいている。金氏「東晋政権の成立過程――司馬睿(元帝)の府僚を中心として」(『東洋史研究』四八―二、一九八九年)八八頁を参照。、丹徒の京口に居留した。
社稷が転覆してしまったために、祖逖はいつも〔社稷〕回復の志を抱いていた。賓客や義徒はみな乱暴な勇士であったが、祖逖は彼らを子弟のように待遇した。このころ、揚州は大飢饉であったが、〔祖逖が遇した〕こうした連中は盗みを働くことが多く、富豪の家を襲って強盗していた。祖逖は彼らをいたわりながら訊ねた、「最近、また南塘4胡三省によれば秦淮水の南にあったという。『資治通鑑』太寧二年七月の条の胡三省注に「晋都建康、自江口沿淮築堤、南塘、秦淮之南塘岸也」とある。にちょっと出かけたのかい」5『世説新語』任誕篇には「祖車騎過江時、公私倹薄、無好服玩。王庾諸公共就祖、忽見裘袍重疊、珍飾盈列。公怪問之、祖曰、『昨夜復南塘一出』。祖于時恒自使健児鼓行劫鈔、在事之人亦容而不問」とあり、諸公が急に華美になった祖逖をいぶかしみ、事情を聞いたときの祖逖の返答が「ちょっと南塘まで出かけたもんでね」となっており、本伝とは大きく異なっている。。吏に捕まった者がいれば、祖逖はそのたびに弁護して釈放させた。論者はこれらを理由に祖逖をそしったが、〔祖逖は〕気にせず、動揺しなかった。当時、元帝はちょうど江南を平定しているところで、北伐するいとまがなかった。〔そこで〕祖逖は進み出て、説いて言った、「晋室の混乱は、上が無道であったゆえに下々が怨んでそむいたのではありません。藩王(藩屏たる宗室)が権勢を争い、誅殺しあっていたのが原因であり、そのはてに、戎狄に隙をつかれ、害毒を中原に流されたのです。いま、遺黎6「亡国之民」(『漢語大詞典』)の意で、ここでは晋朝の民を指す。はすでにひどい目に遭っていますが、人々は奮闘する志を保持しています。大王(元帝)がもし武威を発して将軍を任命し、逖らのような者をこの軍の統主とされるのならば7原文「使若逖等為之統主」。「統主」は統帥の意味だと思われるものの、文脈的には、元帝が任命した将軍が北伐軍の大将で、「逖らのような者」をその下で従軍させるようにしてほしい、という意味であったほうがよいはずである。現に、『太平御覧』巻四六二、游説下に引く「又曰」(晋中興書)はこの箇所を「使若逖等執殳前駆」と記している。ゆえに、本伝の記述にはやや不備があるように感じられるが、とりあえずこのまま訳出することにした。、郡国の豪傑は必ずや風に乗って参じ、溺れていた士8『太平御覧』巻四六二、游説下に引く「又曰」(晋中興書)は「民」に作る。は来蘇9君主がやって来たことで、苦しみから息をふきかえすこと。『孟子』梁恵王章句下に「書曰、『徯我后、后来其蘇』」とあり、趙岐の注に「徯、待也。后、君也。待我君来、則我蘇息而已」とある。を喜ぶでしょう。国家の恥がそそがれることを〔逖は〕望んでいます。大王に願わくは、このことをご思案いただきますよう」。そこで元帝は祖逖を奮威将軍、豫州刺史とし10『太平御覧』巻四八〇、盟誓に引く「又曰」(晋中興書)に「祖逖説中宗、以掃平中原。於是以逖為前鋒都督、奮威将軍、豫州刺史」とあり、本伝では前鋒都督が省略されてしまっているようである。また『太平御覧』巻四六二、游説下に引く「又曰」(晋中興書)には「建興初、祖逖進説曰、『晋室之乱、非上無道而逃民怨叛也。由藩王争権、自相誅滅、遂使戎狄乗隙、毒流中原。今天下既被残酷、遺黎思本、人有奮撃之志。但悉無所憑倚。大王誠能命将帥、使若逖等執殳前駆、上為国家雪恥、下為百姓請命、則郡国豪傑、必因風嚮起、沈溺之民欣於来蘇也。掃灑中原、清復寰宇、此千載之一時。願大王図之』。中宗於是始欲理神州」とあり、本伝に記されている祖逖の言葉とは異同が多い。なお、この『晋中興書』佚文に従えば、祖逖がこの進言をおこない、豫州刺史に任じられたのは「建興初」ということになる。『資治通鑑』は祖逖の豫州刺史就任を建興元年にかけているが、この佚文の記述は『資治通鑑』の判断の妥当性を補強するものになるだろう。拙稿「東晋元帝紀の北伐の理解をめぐって」(『史滴』四一、二〇一九年)では『資治通鑑』の判断は根拠がないと論断してしまっていたが(六六頁)、筆者の臆断であった。そんな拙稿ではありますが、以下の祖逖の行動履歴について簡単に整理してあるものなので、よければご参照ください。、千人分の食料と布三千匹を支給したが、鎧や武器は支給せず、〔兵士も〕祖逖自身に募集させた。こうして、もとから〔いっしょに〕流浪してきた部曲百余家を率いて長江を渡ったが、〔その途中、〕長江の中ほどで舟の櫂を打ち、誓って言った、「この祖逖、中原を平定できずに、もう一度〔ここを〕渡ることがあれば、長江の神の罰を受けよう(中原を平定してからここを渡ることを、長江の神に誓おう)」11原文「祖逖不能清中原而復済者、有如大江」。湯浅幸孫氏は、『左伝』に散見する「所……者、有如……」という誓約の構文について、「もしこの盟約に背けば、神に盟う如きの禍罰を受くべしという意味である」と述べており(湯浅「地券徴存考釈」(『中国思想史研究』四、一九八一年)四頁)、これにもとづいて訳出した。。言葉と顔色は壮烈で、人々はみな感じ入って嘆息した。江陰12中華書局校勘記が指摘するように、おそらく「淮陰」の誤り。に駐屯し、兵器の鋳造をはじめ、二千余人を得てから進軍した。
これ以前、北中郎将の劉演が〔廩丘で〕石勒を食いとめていたころ、流人で塢主の張平や樊雅らは譙にいたが、劉演は張平を豫州刺史に任命し、樊雅を譙郡太守に任命した。さらに董瞻、于武、謝浮ら十余の部(集団?)があり、衆はそれぞれ数百で、みな張平に統属していた。祖逖は、謝浮に張平を捕えるよう誘いかけると、謝浮は張平をだまして面会し、とうとう〔張平を〕斬って祖逖に報告した13劉演が廩丘に駐屯していたのは建興元年から同四年までのこと(劉琨伝附演伝の訳注を参照)。祖逖は張平の平定に「歳余」(桓宣伝)かかっており、またのちに譙へ襲来した石虎を祖逖が撃退したのが建武元年であり、これらをふまえると祖逖と張平の抗争がはじまったのは劉演がギリギリでいなくなったころ(建興四年ころ)かもしれない。いずれにせよ、劉演が味方につけておいた塢主をなぜ有無をいわさず殺しているのか意味不明に思うかもしれないが、桓宣伝によると張平の懐柔に失敗して反感を買ってしまったため、こういう結末になってしまったようである。拙稿「東晋元帝紀の北伐の理解をめぐって」(前掲)五二頁を参照。。元帝は祖逖の勲功を嘉し、食糧を輸送させて祖逖に供給したが、道が遠いため到着せず、祖逖軍はおおいに飢えた。〔祖逖は〕進軍して太丘を占有した。樊雅は兵を派遣して祖逖を夜襲させた。〔樊雅の兵士は〕そのまま〔祖逖の〕軍塁に侵入し、戟を抜き出して大声をあげ、まっすぐ祖逖の帷幕に進んだので、〔祖逖の〕兵士はおおいに混乱した。祖逖は左右に命じてこれを防がせ、督護の董昭が賊と戦い、これを敗走させた。祖逖は兵を率いて追撃したが、張平の残党が樊雅を援護して祖逖を攻めた。〔この当時、〕蓬陂14蓬陂の地理について一考をくわえておく。陳川について、元帝紀、太興二年四月の条に「龍驤将軍陳川以浚儀叛、降于石勒」とあり、敦煌文献P.2586(この文献については劉琨伝(3)の訳注を参照)に陳川の前代の塢主である陳午は「時拠浚儀」とあることから、「蓬陂」は浚儀県の近辺に位置していたと考えられる。『資治通鑑』巻八七、永嘉五年九月の条の胡三省注によれば、この地は漢代の蓬池に相当する。村松弘一氏によると蓬池は開封県と陳留県の間にあり(村松『中国古代環境史の研究』汲古書院、二〇一六年、二二五頁)、魏晋・北魏の間に陂(百尺陂)へ整備された(同前、二六四頁)。これらに従えば、蓬池は浚儀県からみて南に位置し、おそらく西晋末までに陂へ整備され、蓬池に因んで「蓬陂」とも呼ばれていたのだろう。また『水経注』巻二二、渠注に「渠水又東南流径開封県、……右則新溝注之、其水出逢池、池上承役水于苑陵県、別為魯溝水。……魯溝南際富城、東南入百尺陂、即古之逢沢也。……其水東北流為新溝、新溝又東北流径牛首郷北、……又東北注渠、即沙水也」とあるように、「逢池(逢沢)」は沙水付近にあったと推測される。その沙水については、『水経注』渠注に「渠水又北屈、分為二水、『続述征記』曰、「汳沙到浚儀而分也」。汳東注、沙南流」とあるように、浚儀県以南を流れる渠水(蒗蕩渠)の呼称であった。以上をまとめると、蓬陂は沙水近辺にあったと考えられ、沙水を北に上れば汳水へ、南に下れば潁水・淮水へ出ることができた地点であったと考えられる。の塢主の陳川15ついでに言うと、彼らは「乞活」と呼ばれる集団である。は、寧朔将軍、陳留太守を自称していた。祖逖は使者をつかわし、陳川に救援を要請すると、陳川は将の李頭を派遣し、兵を統率させて祖逖を援護させ、とうとう祖逖は譙城を落とした。
当初、樊雅が譙を占拠していたとき、祖逖は兵力が弱小であったことから、南中郎将の王含に応援を求め、王含は桓宣を派遣し、兵を統率させて祖逖を援護させたのであった。祖逖が譙を落とすと、桓宣らは去ってしまった。石季龍が〔桓宣らが戻ったことを〕知ると、軍を率いて譙を包囲したので、王含はふたたび桓宣を派遣して祖逖を救援させた。石季龍は桓宣の到着を聞くと撤退した16元帝紀によると建武元年六月のこと。。桓宣はそのまま留まり、祖逖を助けてまだ帰順していない塢壁を討伐した。
李頭が樊雅を討伐したとき、力戦して功績をあげた。祖逖はこのとき、樊雅の駿馬を鹵獲したが、李頭はこの駿馬がとても欲しかったものの、言えずにいた。祖逖は彼の心を察すると、とうとう李頭に与えた。李頭は祖逖の恩遇に感動し、いつも嘆息して、「この人を主人にできたら、死んでも悔いがないんだけどな」と言っていた。陳川はこれを耳にすると怒り、とうとう李頭を殺してしまった。李頭の親党(親しい仲間)である馮寵は部下四百人を率いて祖逖に帰順したので、陳川はますます怒り、将の魏碩を派遣して豫州の諸郡を掠奪させ、子女や車馬をおおいに得た。祖逖は将軍の衛策を派遣して〔陳川軍を〕谷永で迎撃させ、掠奪された人や物資をことごとく取り返し、すべてもとの場所に帰させ、軍の私物にしなかった。陳川はおおいに恐れ、とうとう衆をもって石勒に帰順した17元帝紀によると太興二年四月のこと。。祖逖が軍を率いて陳川を討伐しようとすると、石季龍が兵五万を率いて陳川を救援した。祖逖は奇兵を設けて石季龍を攻め、石季龍は大敗した18このときの戦闘のことではない可能性もあるが、元帝紀、太興二年五月の条には「平北将軍祖逖及石勒将石季龍戦于浚儀、王師敗績」とあり、祖逖軍が敗北したことになっている。石勒載記上は「平西将軍祖逖攻陳川于蓬関、石季龍救川、逖退屯梁国、石季龍使揚武左伏粛攻之。……桃豹至蓬関、祖逖退如淮南。徙陳川部衆五千余戸于広宗」といい、後趙軍が祖逖を破ったとは記していないが、祖逖は淮南(寿春)まで退いたのだとしている。『資治通鑑』は元帝紀および石勒載記上の記述を採用し、「祖逖攻陳川于蓬関、石勒遣石虎将兵五万救之、戦于浚儀、逖兵敗、退屯梁国。勒又遣桃豹将兵至蓬関、逖退屯淮南。虎徙川部衆五千戸于襄国、留豹川故城」と整理している。敦煌文献P.2586は読みにくくてよくわからないが、「祖逖が石虎の先鋒の左伏粛を殺したので、石虎は退いた」という主旨のようで、おおむね本伝と同じようである。。〔石季龍は〕兵をまとめて豫州を掠奪し、陳川〔の部衆〕を〔蓬陂から襄国に〕移して襄国へ帰還し19原文「徙陳川還襄国」。『資治通鑑』が「虎徙川部衆五千戸于襄国」と記すのに従って補った。、桃豹らを留めて陳川の故城を守らせ、西台に駐屯させた20『水経注』巻二二、渠注に「渠水又北屈、分為二水、『続述征記』曰、「汳沙到浚儀而分也」。汳東注、沙南流、其水更南流、径梁王吹台東。……晋世喪乱、乞活憑居、削堕故基、遂成二層、上基猶方四五十歩、高一丈余、世謂之乞活台、又謂之繁台城」と、乞活台なるものがみえ、周一良氏は陳川らの拠っていた場所であり、桃豹軍と祖逖軍が分かれて拠った東西台のことかもしれないと推測している(周氏「乞活考――西晋東晋間流民史之一頁」(『周一良集』第壱巻所収、遼寧教育出版社、一九九八年、初出は一九四八年)二七頁)。訳者個人としてはやはり、陳川の塢壁と同一であると確信はもてない。。祖逖は将の韓潜らを派遣して東台に鎮させた21桃豹の駐屯地にかんして、『太平御覧』巻二八六、機略五に引く「又曰」(崔鴻十六国春秋)には「後趙石勒将石季龍、太掠陳蔡間而去、留将桃豹守譙城、住西台。東晋将祖逖遣将韓潜等鎮東台」とあり、桃豹は「譙城」に留まったとする。前の注で記したように、石勒載記上だと祖逖は梁国、さらに淮南へ退いたというのだが、冷鵬飛「辨祖逖石虎浚儀之戦」(『中国史研究』一九八二―四)はこうした記述を根拠に、『十六国春秋』佚文の記載が正しく、石虎は最初こそ桃豹を陳川故城に留め、祖逖が淮南へ退いたのちは譙に留めたのだとし、以下の文で展開される祖逖軍と桃豹軍の攻防は譙でのことであったとする。筋が通っていないわけではないが、このあとの展開をみていくと、浚儀付近での戦争とみなしたほうが地理的には自然であるとも思う。淮南と浚儀(陳川故城)とではたしかに距離があるが、祖逖がずっと淮南に留まっていたともかぎらない。元も子もないことだが、そもそもこの一連の経緯に関連する諸記述は整理のしようがなく、おおまかな流れは把握できても、細かな経緯は判明しないと思う。。〔祖逖軍と賊軍は〕大城を共有し、賊は南門から出入りして放牧をおこない、祖逖軍は東門を開いて〔出入りし〕、たがいに守りあって四旬(四十)日に及んだ。祖逖は布の袋に土を入れ、米が入っているかのようにみせかけ、千余人に運ばせて台を登らせた。また、数人に〔本当の〕米袋を担がせ、わざと疲労の極みにあるふりをさせ、道端で休憩させた。はたして賊はこれを追い払ってきたので、みな荷物を棄てて逃げた。賊はその米を得ると、祖逖の兵士は食糧があり余っているほどなのかと思い、対して胡人の拠点は飢えが久しくつづいていたため、ますます不安になり、勇気も失っていった。石勒の将の劉夜堂は驢馬千頭を用いて食糧を運送し、桃豹へ届けようとしたが、祖逖は韓潜、馮鉄らを派遣し、汴水で追わせて襲撃させ、すべての食糧を鹵獲した22元帝紀、太興三年七月の条には「祖逖部将衛策大破石勒別軍於汴水」とあり、本伝には登場しない将の功績になっている。ちなみにこの衛策は敦煌文献P.2586には登場しており、「〔陳〕川使魏碩師衆掠豫州諸郡。逖遣衛策徼撃滅之」と、これ以前の陳川が豫州を掠奪したときに、帰還途上の陳川軍を討った将としてみえている。
この韓潜と桃豹との戦闘が「四旬」ほどの期間であったのならば、戦闘は太興三年五―六月ころにはじまったのだろうか。だとすれば、元帝紀、太興二年十月の条に「平北将軍祖逖使督護陳超襲石勒将桃豹、超敗、没於陣」という敗北の記録がみえるけれども、これは韓潜派遣以前にも祖逖が将を断続的に派遣していたことを示すのであろう。。桃豹は夜に遁走し、退却して東燕城に拠った。祖逖は韓潜を進ませて封丘に駐屯させ、桃豹に近づかせた。馮鉄は東西の台を占拠し、祖逖は雍丘に鎮し23祖逖の駐屯地については、『元和郡県図志』巻七、河南道三、雍丘県に「雍丘故城、今県城是也。……城北臨汴河。晋永嘉末、鎮西将軍祖逖為豫州刺史、理於此」とあり、汴水付近であったとされ、『水経注』巻二三、汳水注にも「汳水又東径雍丘故城北」とある。だが『水経注』巻二四、睢水注に「睢水又東径雍丘故城北」と、雍丘故城は汳水の南を流れる睢水の南に位置していたとの記述もある。浚儀との位置関係を考慮すると、雍丘は睢水の南に位置していたとみるのが妥当だが、汳水ともそれほど離れていなかったということなのかもしれない。祖逖が軍を駐留させていた陳川の塢壁は沙水付近にあり(前注を参照)、封丘は域内に済水が流れていた。こうした地理的特性をふまえると、祖逖は汳水や蒗蕩渠を用いて各地と連絡ができることを念頭に、駐屯地を選定した可能性がある。なお汳水は西晋末でも利用されていたと考えられるが(李碩『南北戦争三百年――中国4―6世紀的軍事与政権』上海人民出版社、二〇一八年、二五三頁)、一方の蒗蕩渠はこのころの利用事例に乏しく、明瞭ではない。東晋時代における河川を利用した移動については、佐久間吉也『魏晋南北朝水利史研究』(開明書院、一九八〇年)二七一―二七九頁、王鑫義「東晋南北朝時期的淮河流域漕運」(『安徽史学』一九九九―一)も参照。、しばしば軍を派遣して石勒軍〔の南進〕をさえぎったので、石勒の軍事拠点はしだいに困窮していった。〔祖逖の〕斥候騎兵はしょっちゅう濮陽の民を捕えていたが、祖逖はこれを厚遇してから帰したので、みな祖逖の恩徳に感動し、〔濮陽の有力者は?〕郷里の五百家を率いて祖逖に降った。石勒はふたたび精鋭騎兵一万人を派遣し、祖逖〔の北上〕を阻んだが、またも祖逖に敗れたため、石勒の軍事拠点で〔祖逖に〕帰順するところはひじょうに多かった。このころ、趙固、上官巳、李矩、郭黙らはおのおの詐欺と武力を用いて攻撃しあっていたが、祖逖は使者をつかわして彼らを和解させようとし、〔いがみあっていることと和解することとの〕禍福を示したため、とうとう〔彼らは〕祖逖の指揮を受けることになった。祖逖は人を慈しんで士人にへりくだり、賤民には親しく接していたわけではなかったが、みな恩礼をもって待遇した。こうして、黄河以南はすべて晋の領域となった。黄河のほとりの塢壁で、もともとこれ以前から胡(石勒)に任子(人質)がいるところは、〔祖逖は〕すべて〔晋と石勒との〕両属を許可しつつ、しばしば遊軍を派遣してこれらを掠奪するふりをし、まだ〔晋に〕服従していないことを証明してやった24原文「明其未附」。石氏に任子を差し出している彼らが裏では祖逖と通じているとバレたら危ないので、わざと敵対的行動を石氏に見せつけて彼らを安全にさせてやったということだろう。。塢主らは感激し、胡(石勒)が〔晋に〕反逆する謀略を立てていたら、そのたびにひそかに〔祖逖へ〕報告した。前後の勝利は、これのためでもあったのである。ささいな功績でも、その褒賞は日を越えずに与えられた。みずから率先して倹約し、農業と養蚕を奨励し、自己を律して施しに努め、財産を蓄えなかった。子弟であっても〔特別扱いされず(?)〕除草や耕作をしたり、たきぎを背負って運んだりした。また〔原野に放置されている〕遺体を回収して埋葬し、死者のために埋葬地に酒をまいて供え、祀った。〔こうして〕百姓は感激して喜んだ。酒を設けて大勢で集まったとき、父老が途中で涙を流し、「わしらは老いた。〔しかし〕ふたたび父母(祖逖のこと)を得られたのだから、死んでも未練はない」と言うと、こう歌ったのであった、「幸いなるかな、遺黎(前注を参照)は捕虜になるのを免れ、三辰(太陽・月・北斗星)が輝きを取り戻すと慈父(祖逖)に遭遇した。玄酒25味の薄い酒。そんな酒でもすごくうまいと歌っているしだい。は疲れを忘れさせてくれるし干したユウガオは美味だ、どのようにしてこの恩を詠じようか、歌って舞おうか」。祖逖が人心を得ていたのは、このようであった。ゆえに、劉琨はなじみの親類に書簡を送ったさい、祖逖の威徳をさかんに称賛したのである。〔元帝は〕詔を下し、祖逖を鎮西将軍に進めた。
石勒は河南への出兵の機会を断念し、成皋県〔の長官〕に祖逖の母の墓を修繕させると26『資治通鑑』は石勒載記下の記述にもとづき、「逖練兵積穀、為取河北之計。後趙王勒患之、乃下幽州為逖脩祖父墓、置守冢二家」と、范陽の父祖の墓を修繕したことは記すが、母の墓については触れていない。『世説新語』賞誉篇の劉孝標注に引く「晋陽秋」には「石勒為逖母墓置守吏」とあり、母の墓には触れているが、場所には言及していない。母の墓がなぜ成皋にあるのかはよくわからない。、祖逖に書簡を送り、使者を交わして〔和平し〕互市を求めた。祖逖は返事をしなかったが、互市は承認し、利益は十倍をあげたので、公私ともに豊かになり、兵士と馬は日々増えていった。〔祖逖が〕これから軍の先鋒を進めて黄河を渡り、冀朔の地(河北)を平定しようとしていたとき、ちょうど朝廷は戴若思を派遣して都督にしようとしていた。祖逖は、戴若思は呉人であり、才能と名声があるとはいえ、広大な志と深遠な見識があるわけではない27原文「無弘致遠識」。拙稿「東晋元帝紀の北伐の理解をめぐって」(前掲)六〇頁では「弘く遠識を致す無し」と訓じたが、誤りであった。、と思っていた。かつ、〔祖逖が〕すでにいばら(障害になるもの)を切りはらい、河南の地を奪取したいっぽうで、戴若思はゆっくりしてい〔て戦っていたわけではなかっ〕たのに、にわかにやって来て祖逖を統率するというのは、内心で悶々としたものを感じ、納得がいかなかった。くわえて、王敦と劉隗らが不仲であることを聞き、内乱が起こり、大きな功績〔の建立〕が失敗することを心配した28戴淵(戴若思)らの派遣は北伐であったと訳者は考えている。拙稿「東晋元帝紀の北伐の理解をめぐって」(前掲)第三節を参照。。〔祖逖は〕感情が高ぶって発病したので、妻子を汝南の大木山のふもとに呼び寄せた。このころ、中原の士庶はみな、祖逖は進軍して武牢(虎牢)を占拠するはずだと思っていたのだが、それなのにかえって家族を険阻な(安全な)場所に置いたため、ある者はこのことを諫めたが、聴き入れなかった。祖逖は内心に憂憤を抱いていたとはいえ、進撃して奪取する計画を中断せず、〔進んで〕武牢城を〔奪取して〕修繕した。城の北は黄河に臨み、西は成皋に隣接し、四方をひじょうに遠くまで見渡せた。祖逖は〔武牢の〕南に堅固な軍塁がないため、必ず賊に襲撃されるだろうと恐れたので、従子29「おい」のこと。詳細は石季龍載記上(1)の訳注を参照のこと。の汝南太守の祖済に汝陽太守の張敞と新蔡内史の周閎を統べさせ、軍を統率させて軍塁を築かせた。完成するまえに、祖逖の病状が悪化した。これより以前、華譚と庾闡は方術士の戴洋に質問すると、戴洋は「祖豫州(豫州刺史の祖逖)は九月に死ぬだろう」と言った。これ以前、妖星が豫州の分野に現れたとき、歴陽の陳訓も「今年、西北の大将が死ぬだろう」と人に言った。祖逖もこの星を見て、「私のことか。これから河北を平定しようとしていたのに、天は私を殺すつもりか。国家を見捨てるというのか」と言った。にわかに〔祖逖は〕雍丘で卒した30元帝紀によれば太興四年九月のこと。。享年五十六。豫州の男女は父母を亡くしたかのように悲しみ、譙と梁の地の百姓は祖逖のために祠を立てた31『元和郡県図志』巻七、河南道三、雍丘県に「雍丘故城、今県城是也。……逖卒、百姓立祠」とあり、雍丘に立てられたようである。また『太平御覧』巻三三六、攻具上に「袁宏祖逖碑」なる文が引かれており、「逖為豫州刺史、薨時、君柩未旋、群寇囲城、衝櫓既附、城将降矣。勇士五百、撫戈同泣、『非祖侯之為、吾誰為死』。并力斉赴、巻甲宵起、遂陥堅陣、負才而反」とある。文を見るかぎり、祖逖が没したあとで「群寇」(後趙だろう)に攻めたてられた「城」に建立された碑であろうと思われる。つまり、祖逖にゆかりのある土地である。袁宏は永和一二年の桓温の北伐に同行しているが、おそらくこのときにこの「城」を通過し、この碑を建てたというしだいではなかろうか。桓温伝によれば、桓温はこのとき、「以譙梁水道既通、請徐豫兵乗淮泗入河。……於是過淮泗、践北境」という。「譙梁水道」はよくわからないが(蒗蕩渠か汳水だと思う)、「淮泗」を通って、ということはつまり彭城を経由して黄河に入ったようである。それならば汳水―汴渠を進んで黄河に入った可能性が高いだろう。そのルート近辺で祖逖にゆかりが深そうな地は雍丘と浚儀だが、碑文に「薨時、君柩未旋」とみえることを考慮すると、雍丘である蓋然性が高い。。〔朝廷は〕冊書を下して車騎将軍を追贈した。王敦は久しいあいだ反逆の心を抱いていたものの、祖逖を恐れて実行できずにいたのだが、このときになってようやく意のままに行動できたのである32祖逖が死去して四か月後の永昌元年正月に王敦は挙兵した。。まもなく、〔朝廷は〕祖逖の弟の祖約に交代して祖逖の部衆を統率させた。祖約は別に列伝がある。祖逖の兄は祖納という。