巻五十九 列伝第二十九 八王伝序

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八王伝系図汝南王亮(附:粋・矩・羕・宗・煕・祐)・楚王瑋趙王倫斉王冏(附:鄭方)長沙王乂・成都王穎河間王顒・東海王越

 古来、帝王が天下に君臨するや、みな藩塀(宗室)を広く樹立し、城壁(宗室)を厚く固めようとしたのであった。唐(堯)虞(舜)以前は制度の記録が伝わっていないようだが1原文「憲章蓋闕」。堯舜以前の記録はなく、うかがい知ることはできないものの、宗室に関する法制は帝王の常理であるゆえ、何らかの制度は存在したはずである、という推量のニュアンスで「蓋」字を付しているのであろう。、夏殷以後は事跡を知ることができる。しかしながら、〔禹のときに〕玉帛〔を持って来た諸侯〕が塗山に集まり、その数は万国であると言われているものの2『左伝』哀公七年に「禹会諸侯于塗山、執玉帛者万国」とある。、土地を分け与えられた諸侯の詳細にかんしては、なお不明な点が残っている。周の時代になると、〔封建の制度の〕美しさは見事であり、親族や賢者を封建し、ひとしく列国としたのであった。栄華を極めていたときには、周公と召公がその太平を翼賛し、衰退にさしかかったときには、桓公や文公がその危難を救済したのであった。ゆえに、国家の年数をうらなってみると、子孫はおおいに栄え、基盤は永遠である、と出たのである。王の赧が世を去り、天禄(周に授けられていた天の恵み)がじきに終焉を告げると、天下を治める君主の不在が三十余年つづいた。暴秦が天下を併呑するに及ぶと、衰退していたときの周の劣弱ぶりを鑑み、帝業を固める深謀遠慮(=藩屏の強化)を軽視し、こう考えるにいたったのであった。すなわち、周室がじょじょに衰退していったのは、諸侯が強大だったからである、と。こうして、侯を廃止して守を設置し、己れ(皇帝)のみを尊くし3原文「独尊諸己」。「諸己」は「求諸己(諸(これ)ヲ己ニ求ム)」の形で使われることが多いが、ここの「諸」をこのような場合の用法(「之於」の意)で読めるのか自信がない。さしあたり、『古代漢語虚詞詞典』を参照して「在」「于」と同様の働きをなしているものと読むことにした。「この己れ」と読むことにした。(2021/1/15:修正)、〔己れ以外は〕子弟にいたるまで、ひとしく匹夫(庶民)とした。暴力をほしいままに振るい、威力によって他人を屈服させようと願うばかりで、子孫のためを考え、助けを残すことを顧みなかったのである。枝葉は弱く、宗祏4『左伝』荘公十四年の杜預注に「宗祏、宗廟中蔵主石室」とあり、『漢語大詞典』によれば、ここから転じて宗廟や朝廷を指すこともあるという。ここでは前文の「枝葉」の対になっているのだから、「宗廟」(皇帝の世統)で読むのが適当だろうか。は孤立して危険であり、内には社稷の臣がおらず、外には藩維(藩屏としての諸侯国)5『毛詩』大雅、板「价人維藩」が典拠であるらしい。の援助を欠いた。陳勝と項籍がひとたび声をあげると、海内は沸騰し、〔二世皇帝は〕身を望夷宮で滅ぼし、〔三世皇帝は〕軹道で首に紐をかけて降った。その事業はいにしえを模範にしなかったがために、二世にして滅んだのである。漢の高祖が勃興すると、秦の弊害を改めた。こうして子弟を分けて王とし、功臣を並べて封建し、これらに山川を賜い6原文「錫之山川」。『毛詩』魯頌、閟宮が出典で、鄭箋に「加賜之以山川」とある。、帯礪の言葉をもって誓約したのである7原文「誓以帯礪」。漢の高祖が封建諸侯らに、子孫永久に国を存続させることを約束して「いつか黄河が帯のように細くなり、泰山が礪(砥石)のように小さくなっても」と言ったことに由来する。『漢書』高恵高后文功臣表に「封爵之誓曰、『使黄河如帯、泰山若厲、国以永存、爰及苗裔』。於是申以丹書之信、重以白馬之盟」とあり、顔師古注に「応劭曰、『封爵之誓、国家欲使功臣伝祚無窮也。帯、衣帯也。厲、砥厲石也。河当何時如衣帯、山当何時如厲石、言如帯厲、国猶永存、以及後世之子孫也」とある。。しかしながら、曲がったものを正そうとして過度にまっすぐにしてしまい、羹(あつもの)に懲りて齏(あえもの)を吹くがごとく用心してしまったため、〔諸侯の〕境域は往古をしのぐ規模になってしまった。〔このため〕最初は韓信と彭越が塩漬けにされ、次に呉楚七国が反乱を起こしたのである。しかし、権偪を滅ぼしたとはいえ8原文「克滅権偪」。「権偪」は良吏伝の序にも用例がある。「権逼」だともう少し用例は広がり、南北朝から唐初くらいに使用された熟語であるらしい。諸例をみるに、「権勢を握って専横にふるまうこと、あるいはその人物」を指しているものと考えられる。これをふまえると、本文は「強大な諸侯国」のことで、それを「克滅」したというのは推恩などで諸侯国を細分・弱体化させたことを言っているのだろう。「権偪」を呂氏の意で取ることも可能ではあるが、後文とのつながりがあまりよくないこともあり、そのように解釈するのは難しいように思われる。、なお王畿を守り助けるのに十分であった9原文「維翰王畿」。「維翰」は『毛詩』大雅、文王有声「王后維翰」が出典で、毛伝に「翰、幹也」とあり、鄭箋に「王后為之幹者、正其政教、定其法度」とある。『漢語大詞典』によれば、転じて「後因以維翰喩捍衛。亦指保衛国家的重臣」という。。成哀(成帝と哀帝)よりのち、宗室の藩国はしだいに衰えてゆき、王莽10原文「君臣」。王鳴盛『十七史商搉』巻四九「君臣」は「巨君」(王莽の字)に作るべきだと指摘している。そのほうが文意もきれいに通るため、王氏の指摘に従って読む。はこの隙に乗じて、帝位を奪い、安寧を盗んだのである11原文「偸安」。「安逸をむさぼる」の意で用いられることが多い語だが、ここでは「太平の世を盗む」と読むのがよいと思う。。光武帝は雄大な武略をもって天地を整序し12原文「雄略緯天」。「緯天」はおそらく「経緯天地」を略した表現。、下国13地方、田舎の意。ここでは光武帝らが挙兵した南陽を指すと考えられる。で奮い起ち、ついに悪人を一掃して戦乱を平定し、先祖の事業を復興させ、先帝を天に配して祀り14原文「復禹配天」。諸書でしばしば、夏の少康が夏朝を中興させたことを「復禹之績、祀夏配天、不失旧物」と表現しているが、本文はおそらくこれを圧縮した表現であると思われる。少康同様、中興の主である光武帝の事跡を少康になぞらえて表現したのであろう。、幸福が両京(洛陽と長安)で盛んになり、暦数が四百年にわたって栄えた。宗室の支流(光武帝のこと)が断絶した事業を存続させた力について、しかと論じることができよう(2022/6/25:訳文修正)。魏の武帝は国家を経営するための遠大な計略をないがしろにして、他人の才能をねたむというつまらない技芸を実行し、功臣は錐を立てるほどのわずかな土地もなく、子弟は仕事に堪えない民15原文「不使之人」。『後漢書』龐参伝に「不使之民」の用例があり、李賢注に「不使之人謂戎虜凶獷、不堪為用」とある。の君主となり、虚しく封国を分け与え16原文「徒分茅社」。「茅社」は諸侯を封建するときに与えられる茅土と、諸侯に帰国させて立てさせる社稷のこと。実態が伴っていないという意味で「徒」(いたずらに)と言っているのであろう。、実態は虚爵(内実のない爵)を授けたため、根幹をかばい助ける諸侯がおらず、しまいには三世にして滅んだのであった。
 有晋は前人の失敗を改めようと思い、ふたたび藩屏としての王族を盛大にしたところ、ある者は地方に出て、旄旗(軍旗)と節を持し、岳牧17堯舜時代に地方を統治した四岳十二牧を略した言い方で、大権を有して地方を統べる諸侯ないし官の意。『資治通鑑』太安二年五月の条、「岳牧」の胡三省注に「古有四岳十二牧、各統其方諸侯之国、故後人謂専方面者為岳牧」とある。の栄位に就任し、ある者は中央に入り、台階18三公ないし宰相の比喩表現。「泰階」とも記す。「三台」あるいは「三階」という星座があるが、「台階」はこの星座の別称であるらしい。三台は三公を象徴するものとされ、そこから転じて三公や三公クラスの宰相の比喩として用いられるが、『漢語大詞典』によれば「台階」も同様の比喩で用いられる。に就き、端揆19宰相の意。『漢辞海』および『漢語大詞典』によると、「百官の筆頭(「端」)におり、国政をはかりみる(「揆」)」ということから、宰相を「端揆」と称したのだという。の重職に身をおいた。しかし委託する先をまちがえ、任命は適当な人材になされなかったので、政令は一定せず、賞罰は濫発された。才能があるのに任用されなかった者もいれば、罪過がないのに誅殺された者もおり、朝に伊尹や周公になったかと思えば、暮れに王莽や董卓になる始末であった。枢要の権力は上から失われ、禍乱が下から生じた。楚王瑋と趙王倫は20原文に「楚趙諸王」とあるのをこう訳したのだが、斉王、成都王、河間王、東海王も含めてこう言っているのかもしれない。あいついで災難を起こし、いたずらに君側の悪臣を排除する兵士を動員しただけで21原文「徒興晋陽之甲」。「晋陽之甲」は「君側の悪人を排除する兵士」の意。『後漢書』楊震伝附秉伝に「春秋趙鞅以晋陽之甲、逐君側之悪」とあり、李賢注に「公羊伝曰、『趙鞅取晋陽之甲、以逐荀寅、士吉射。曷為此。逐君側之悪人也』」とある。本文ではその「晋陽之甲」を「徒」に(無駄に)動員したというのだから、「君主を誤導する悪臣を排除するという名目で挙兵したが、そういう実績をあげることはなかった」という意味なのであろう。、けっきょく勤王の軍隊にはならなかった。〔かかる挙兵した諸王は〕はじめから自身の利益になることしか選り分けなかったが、利益が得られる前に危害が及んでしまった。はじめから国家を憂える心がなかったが、国家を憂えているのではないのだから、助けようとするわけがない22原文「初迺無心憂国、国非憂而奚拯」。こういう読み方でよいのか不安が残る。諸王は国家のためと称して挙兵したけれど、自分の利益しか眼中になく、国家を憂う心などはじめからもっていなかったのだから、国家救済の挙兵をしたところで、国家を救済するわけがなかった、というぐあいの意味で訳出してみた。。はてには、皇后23原文は「昭陽」。おそらく漢代に皇妃の居所であった昭陽殿を指す。は立てられたり廃されたりして、囲碁よりもめまぐるしい扱いを受け24原文「有甚弈棊」。和刻本に従って読んだ。囲碁以上に頻繁に局面が入れ替わった、ということか。、天子は〔金墉城に〕幽閉され、そのうえ周の文王が羑里で拘束されたのと等しい目に〔蕩陰で〕遭わされた25原文「更同羑里」。『続漢書』郡国志一、河内郡によれば蕩陰県に羑里城があるという。とすれば、たんに拘束を受けたことをこのように言っているのではなく、金墉城で幽閉されたのみならず、さらにそのうえ(「更」)蕩陰で成都王軍に敗北を喫して捕えられたということを言っているのであろう。。胡羯は〔中華を〕侮蔑し、宗廟は廃墟になったが、まことに悲しむべきことである。
 いったい、国家を治めるにあたって藩塀が必要であるのは、川を渡るにあたって舟が必要であるのと同じようなもので、〔国家経営と渡河が〕安全になるか危険になるか、あるいは成功するか失敗するかのゆえんであり、義(言うところの意味)はまことに同じである26原文「安危成敗、義実相資」。よく読めない。「義実相資」がとくにわからないが、かりに訳文のように解釈してみた。。舟がなお十分に整備されたままであれば、波涛は危険だと言うに及ばないであろう。藩塀が強固であれば、禍乱はその萌芽ですら現わさないであろう。もし八王のなかで一人だけでも頼れる王がおり、漢の梁王が〔呉楚七国の=外の〕大敵を防いだようにしたり、漢の朱虚侯が〔呂氏の=内の〕大悪を滅ぼしたようにしたりしていれば、どうして外寇が跋扈しようとしただろうか、どういう原因で内難がひそかに起こるだろうか。〔一人でも頼れる宗室がいれば、〕たとえ天子が愚劣で、重臣が奢侈放漫であったとしても、〔王朝は〕転倒することはあろうが、崩壊までにはいたらないのである。どうしてそう言えるのか。〔なぜならば、〕琅邪王睿(東晋の元帝)はかの八王と比べ、権勢は軽微で、武力は寡少であり、長さと大きさをはかって比較してみれば、〔八王と〕同等だとは言えない〔ほど弱小であった〕のに27原文「琅邪譬彼諸王、権軽衆寡、度長絜大、不可同年」。『漢書』陳勝項籍伝、賛曰に引く賈誼「過秦論」に「試使山東之国与陳渉、度長絜大、比権量力、不可同年而語矣」とあるのを踏まえた表現。、ついには単身で長江を渡り、呉会の地を領有し、あらためて〔晋の〕宗廟と社稷を百有余年のあいだ存続させることができたからである28原文「存重宗社、百有余年」。読みにくいこともあり、中華書局校勘記に引く説に従って「存重」を「重存」で読む。以上が「何以言之(どうしてそう言えるのか)」に対する回答、つまりこんなに弱勢であった元帝でも晋朝を再興させられたのだから、王朝に尽くす宗室が一人でもおれば王朝は崩壊にいたらないのである、ということであろう。。〔琅邪王による中興は〕天命と言えるだろうけれども、同時に人事でもあるのだ29晋朝中興は天の命運であったのは確かだが、元帝が王朝再興のために人事を尽くした結果でもあるのを失念してはならない、と言いたいのであろう。。〔というのも、琅邪王の事跡は、〕趙王倫や斉王冏のようなやからであったり、河間王顒や東海王越のようなともがらであったりが、家(私)と国(公)をともに滅ぼし、身体と名声をどちらも失ったことに類似しているだろうか。およそ、善をなせば幸福がもたらされ、悪をなせば災禍がくだるという善人と悪人についての帰趨の法則は、八王と琅邪王の事跡がそれの正しさを証明しているのではないだろうか30原文「善悪之数、此非其効歟」。そうとう意訳した。当初は「〔琅邪王と八王のなした〕善悪の数は、琅邪王の中興が人事でもあることの証しではないだろうか」と読んでしまっていたが、深山さんのご指摘を受け、当初の理解は誤りであることに気づき、再調査して理解を改めた。記して感謝申し上げます。(2021/1/7:追記)。西晋の政治が乱れ、朝廷が危うくなったのは、当時の天子に原因があったとはいえ、その流れを煽り、その禍を加速させた罪過は八王にある。ゆえに序文を記して八王について論じ、諸王の列伝をまとめて立てたのである。

八王伝系図汝南王亮(附:粋・矩・羕・宗・煕・祐)・楚王瑋趙王倫斉王冏(附:鄭方)長沙王乂・成都王穎河間王顒・東海王越

(2021/1/1:公開)
(2020/1/5:改訂)

  • 1
    原文「憲章蓋闕」。堯舜以前の記録はなく、うかがい知ることはできないものの、宗室に関する法制は帝王の常理であるゆえ、何らかの制度は存在したはずである、という推量のニュアンスで「蓋」字を付しているのであろう。
  • 2
    『左伝』哀公七年に「禹会諸侯于塗山、執玉帛者万国」とある。
  • 3
    原文「独尊諸己」。「諸己」は「求諸己(諸(これ)ヲ己ニ求ム)」の形で使われることが多いが、ここの「諸」をこのような場合の用法(「之於」の意)で読めるのか自信がない。さしあたり、『古代漢語虚詞詞典』を参照して「在」「于」と同様の働きをなしているものと読むことにした。「この己れ」と読むことにした。(2021/1/15:修正)
  • 4
    『左伝』荘公十四年の杜預注に「宗祏、宗廟中蔵主石室」とあり、『漢語大詞典』によれば、ここから転じて宗廟や朝廷を指すこともあるという。ここでは前文の「枝葉」の対になっているのだから、「宗廟」(皇帝の世統)で読むのが適当だろうか。
  • 5
    『毛詩』大雅、板「价人維藩」が典拠であるらしい。
  • 6
    原文「錫之山川」。『毛詩』魯頌、閟宮が出典で、鄭箋に「加賜之以山川」とある。
  • 7
    原文「誓以帯礪」。漢の高祖が封建諸侯らに、子孫永久に国を存続させることを約束して「いつか黄河が帯のように細くなり、泰山が礪(砥石)のように小さくなっても」と言ったことに由来する。『漢書』高恵高后文功臣表に「封爵之誓曰、『使黄河如帯、泰山若厲、国以永存、爰及苗裔』。於是申以丹書之信、重以白馬之盟」とあり、顔師古注に「応劭曰、『封爵之誓、国家欲使功臣伝祚無窮也。帯、衣帯也。厲、砥厲石也。河当何時如衣帯、山当何時如厲石、言如帯厲、国猶永存、以及後世之子孫也」とある。
  • 8
    原文「克滅権偪」。「権偪」は良吏伝の序にも用例がある。「権逼」だともう少し用例は広がり、南北朝から唐初くらいに使用された熟語であるらしい。諸例をみるに、「権勢を握って専横にふるまうこと、あるいはその人物」を指しているものと考えられる。これをふまえると、本文は「強大な諸侯国」のことで、それを「克滅」したというのは推恩などで諸侯国を細分・弱体化させたことを言っているのだろう。「権偪」を呂氏の意で取ることも可能ではあるが、後文とのつながりがあまりよくないこともあり、そのように解釈するのは難しいように思われる。
  • 9
    原文「維翰王畿」。「維翰」は『毛詩』大雅、文王有声「王后維翰」が出典で、毛伝に「翰、幹也」とあり、鄭箋に「王后為之幹者、正其政教、定其法度」とある。『漢語大詞典』によれば、転じて「後因以維翰喩捍衛。亦指保衛国家的重臣」という。
  • 10
    原文「君臣」。王鳴盛『十七史商搉』巻四九「君臣」は「巨君」(王莽の字)に作るべきだと指摘している。そのほうが文意もきれいに通るため、王氏の指摘に従って読む。
  • 11
    原文「偸安」。「安逸をむさぼる」の意で用いられることが多い語だが、ここでは「太平の世を盗む」と読むのがよいと思う。
  • 12
    原文「雄略緯天」。「緯天」はおそらく「経緯天地」を略した表現。
  • 13
    地方、田舎の意。ここでは光武帝らが挙兵した南陽を指すと考えられる。
  • 14
    原文「復禹配天」。諸書でしばしば、夏の少康が夏朝を中興させたことを「復禹之績、祀夏配天、不失旧物」と表現しているが、本文はおそらくこれを圧縮した表現であると思われる。少康同様、中興の主である光武帝の事跡を少康になぞらえて表現したのであろう。
  • 15
    原文「不使之人」。『後漢書』龐参伝に「不使之民」の用例があり、李賢注に「不使之人謂戎虜凶獷、不堪為用」とある。
  • 16
    原文「徒分茅社」。「茅社」は諸侯を封建するときに与えられる茅土と、諸侯に帰国させて立てさせる社稷のこと。実態が伴っていないという意味で「徒」(いたずらに)と言っているのであろう。
  • 17
    堯舜時代に地方を統治した四岳十二牧を略した言い方で、大権を有して地方を統べる諸侯ないし官の意。『資治通鑑』太安二年五月の条、「岳牧」の胡三省注に「古有四岳十二牧、各統其方諸侯之国、故後人謂専方面者為岳牧」とある。
  • 18
    三公ないし宰相の比喩表現。「泰階」とも記す。「三台」あるいは「三階」という星座があるが、「台階」はこの星座の別称であるらしい。三台は三公を象徴するものとされ、そこから転じて三公や三公クラスの宰相の比喩として用いられるが、『漢語大詞典』によれば「台階」も同様の比喩で用いられる。
  • 19
    宰相の意。『漢辞海』および『漢語大詞典』によると、「百官の筆頭(「端」)におり、国政をはかりみる(「揆」)」ということから、宰相を「端揆」と称したのだという。
  • 20
    原文に「楚趙諸王」とあるのをこう訳したのだが、斉王、成都王、河間王、東海王も含めてこう言っているのかもしれない。
  • 21
    原文「徒興晋陽之甲」。「晋陽之甲」は「君側の悪人を排除する兵士」の意。『後漢書』楊震伝附秉伝に「春秋趙鞅以晋陽之甲、逐君側之悪」とあり、李賢注に「公羊伝曰、『趙鞅取晋陽之甲、以逐荀寅、士吉射。曷為此。逐君側之悪人也』」とある。本文ではその「晋陽之甲」を「徒」に(無駄に)動員したというのだから、「君主を誤導する悪臣を排除するという名目で挙兵したが、そういう実績をあげることはなかった」という意味なのであろう。
  • 22
    原文「初迺無心憂国、国非憂而奚拯」。こういう読み方でよいのか不安が残る。諸王は国家のためと称して挙兵したけれど、自分の利益しか眼中になく、国家を憂う心などはじめからもっていなかったのだから、国家救済の挙兵をしたところで、国家を救済するわけがなかった、というぐあいの意味で訳出してみた。
  • 23
    原文は「昭陽」。おそらく漢代に皇妃の居所であった昭陽殿を指す。
  • 24
    原文「有甚弈棊」。和刻本に従って読んだ。囲碁以上に頻繁に局面が入れ替わった、ということか。
  • 25
    原文「更同羑里」。『続漢書』郡国志一、河内郡によれば蕩陰県に羑里城があるという。とすれば、たんに拘束を受けたことをこのように言っているのではなく、金墉城で幽閉されたのみならず、さらにそのうえ(「更」)蕩陰で成都王軍に敗北を喫して捕えられたということを言っているのであろう。
  • 26
    原文「安危成敗、義実相資」。よく読めない。「義実相資」がとくにわからないが、かりに訳文のように解釈してみた。
  • 27
    原文「琅邪譬彼諸王、権軽衆寡、度長絜大、不可同年」。『漢書』陳勝項籍伝、賛曰に引く賈誼「過秦論」に「試使山東之国与陳渉、度長絜大、比権量力、不可同年而語矣」とあるのを踏まえた表現。
  • 28
    原文「存重宗社、百有余年」。読みにくいこともあり、中華書局校勘記に引く説に従って「存重」を「重存」で読む。以上が「何以言之(どうしてそう言えるのか)」に対する回答、つまりこんなに弱勢であった元帝でも晋朝を再興させられたのだから、王朝に尽くす宗室が一人でもおれば王朝は崩壊にいたらないのである、ということであろう。
  • 29
    晋朝中興は天の命運であったのは確かだが、元帝が王朝再興のために人事を尽くした結果でもあるのを失念してはならない、と言いたいのであろう。
  • 30
    原文「善悪之数、此非其効歟」。そうとう意訳した。当初は「〔琅邪王と八王のなした〕善悪の数は、琅邪王の中興が人事でもあることの証しではないだろうか」と読んでしまっていたが、深山さんのご指摘を受け、当初の理解は誤りであることに気づき、再調査して理解を改めた。記して感謝申し上げます。(2021/1/7:追記)
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