巻一百一 載記第一 劉元海(1)

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載記序劉元海附:劉和・劉宣

 劉元海は新興郡の匈奴で、冒頓単于の後裔である。名は〔唐の〕高祖の諱(淵)を犯しているため、字で呼んでいる。
 そのむかし、漢の高祖は宗室の女を公主とし、そうして冒頓単于に嫁がせ、兄弟の誓約を結んだ。そのため、冒頓の子孫はとうとう劉氏の姓を名乗ったのである。建武のはじめ、烏珠留若鞮単于の子である右奥鞬日逐王の比は自立して南単于(呼韓邪単于)となり、西河郡の美稷県に入植した。現在の離石の左国城こそ、南単于が単于庭を移した場所である1漢代では美稷県と離石県はだいぶ離れているし、たぶんこの文はおかしい。ただ、南単于庭が途中で移動した可能性はあり、移動後の単于庭が離石県に置かれていたのかもしれない。のちのちの劉淵らの行動をみても、離石は象徴的な場所であったようで、そうした伝承があったのだろう。ちなみに『太平御覧』巻一六三、石州に引く「前趙録」に「今離石在(「左」の誤りであろう)国、単于所徙庭是也」とみえ、載記本文と同様の文は『十六国春秋』にもあったようである。とすれば、「現在」と訳した載記本文の「今」は、厳密には北魏の意かもしれない。。〔漢の〕中平年間、単于の羌渠は子の於扶羅に兵を統率させて漢を援助させ、黄巾を討伐させて平定させた。ちょうど羌渠が国人に殺されたので、於扶羅は衆を連れて漢〔の地〕に留まり、自立して単于となった。董卓の乱が起こると、〔於扶羅は〕太原、河東を侵略し、河内に駐留した。於扶羅が死ぬと、弟の呼廚泉が立ち、於扶羅の子の劉豹を左賢王とした。劉豹が劉元海の父である。魏の武帝は匈奴の衆を五部に分け、劉豹を左部帥とし、その他の部の帥もすべて劉氏をあてた。〔晋の〕太康年間、〔帥を〕改めて都尉を置き、左部は太原郡茲氏県、右部は祁県、南部は蒲子県、北部は新興2原文は「北部居新興」。四夷伝・北狄匈奴の条には「北部都尉……居新興県」とあり、ほかの部の記載からみても県と取るのが適当だが、地理志上、并州新興郡には新興県の記録がない。[劉二〇一九]は新興郡の属県として記録されている晋昌県の旧名が新興県なのであろうと推測している。さしあたりここでは郡とも県とも訳出しないことにする。、中部は大陵県に住まわせた。劉氏は五部に分散して居住していたが、みな晋陽の汾水や渓流の水辺付近に住んでいた3意味がよくわからず。劉氏は匈奴五部全体に分散していたけど、とくに晋陽付近が本拠地でその地に集住していた、ということか。原文は「皆居于晋陽汾澗之浜」で、『魏書』巻九五、匈奴劉聡伝も同じだが、「澗」の字はあるいは誤りで、本来は晋陽付近を流れる「洞過水」を指しているのかもしれない。なお晋書の中華書局標点本は「澗」に傍線を引いて固有名詞と読むよう指示しているが、魏書の中華書局標点本は傍線を引かず、一般名詞として読んでいるようである。『水経注』巻六、汾水注に「澗水東出穀遠県西山、西南径霍山南、……西流入于汾水」とあり、晋陽よりずっと南で汾水に合流する澗水という河川がいちおう存在したらしい。とりあえずここでは魏書の中華書局標点本に従って訳出した。
 劉豹の妻の呼延氏が、魏の嘉平年間に龍門で子〔の妊娠〕を祈ると、にわかに一匹の大魚が現れた。頭には二本の角があり、背びれを振りあげ、鱗を躍らせて祈祷所にいたり、しばらく経ってから去って行った。祈祷師はみなこの出来事を奇異なこととし、「これはめでたい瑞祥です」と言った。その日の夜、夢で、早朝に見た魚が人に化け〔て現れ〕、左手に或る物を持っており、その大きさは鶏の卵の半分ほどで、輝きが異常であった。それを呼延氏に授けると、「これは太陽の精気で、飲めば貴子を生むだろう」と言った。目が覚めると劉豹に〔夢のことを〕話した。劉豹は「吉兆だ。私はむかし、邯鄲の張冏の母である司徒氏に付き従い、人相占いをしてもらったのだが、〔司徒氏は〕私に高貴な子孫が出て、三世で必ずおおいに栄えるだろうと言っていた。〔その夢と司徒氏の占いは〕ぴったり合っているようだ」。これより十三ヵ月後に劉元海が生まれ、左手のすじに名が示されていたので、そのまま〔淵と〕名づけた。歯の抜け替わる年齢のころには聡明であった。七歳のときに母の死に遭ったが、胸をたたき、じだんだを踏んで号泣したので、近隣の人々を感動させ、宗族や部落の者たちはみな褒め称えた。当時、司空であった太原の王昶らはこれを聞いて称賛し、そのうえ弔いの金品を贈った。幼くして学問を好み、上党の崔游に師事し、『毛詩』、『京氏易』、『馬氏尚書』を学習し、とりわけ『春秋左氏伝』、孫呉の兵法を好み、おおむねどれも暗誦した。『史記』、『漢書』、諸子百家にかんしては、精通していないものはなかった。あるとき、同門の学生の朱紀と范隆にこのように語った、「私は書籍を読むたびに、隨何と陸賈に武がなく、周勃と灌嬰に文がないのをつまらなく思っている。道は人間によって広げるものであるから4原文「道由人弘」。『論語』衛霊公篇「子曰、人能弘道、非道弘人」をいちおう念頭に置いた。、あるひとつの物事を知らないというのは、もとより君子が恥じることである5自分の器を拡大させないのはおかしい、ということであろう。。隨何と陸賈は漢の高祖に巡り会いながら、諸侯に封じられる仕事を打ち立てることができず、周勃と灌嬰は漢の文帝に遇いながら、学校の美麗を広めることができなかった。惜しいことだ」。こうしてとうとう、武芸を学ぶようになった。〔武芸についても〕衆人から傑出し、猿のように腕が長いので射撃に長じ、体力は人々をしのいでいた。魁偉な風采で、身長は八尺四寸、あごひげの長さは三尺あまり、その中心には赤い細毛が三本あり、その毛の長さは三尺六寸あった。屯留の崔懿之、襄陵の公師彧などはみな人相占いを得意としていたが、劉元海に会うと驚愕し、たがいに言い合った、「この者の容貌は尋常ではなく、いままで見たことがないものだ」。こうして深く敬うようになり、本分を守って6原文「推分」。『漢語大詞典』によれば「守分自安」。友情を結んだ。太原の王渾は襟を虚しくして劉元海と友情を結び、子の王済に命じて拝礼させた。
 〔魏の〕咸煕年間、〔劉元海は〕任子となって洛陽に滞在したが、〔晋の〕文帝は厚遇した。泰始の後年、王渾はしばしば劉元海のことを武帝に話した。武帝は〔劉元海を〕召して語り合い、おおいに満足し、王済に言った、「劉元海は顔つきや所作に礼儀があり、見識に優れ、由余や金日磾といえども勝りはしないだろう」。王済は答えて言った、「劉元海の身なりと見識は、まことに陛下の仰せのとおりですが、しかし劉元海の文武の才能は二子(由余と金日磾)よりもはるかに優っています。陛下がもし、彼に東南の事業(孫呉の征討)を任せれば、呉会の地は平定するまでもないでしょう7原文「不足平」。武力を用いるまでもない、という意?」。武帝は讃嘆した。〔すると〕孔恂と楊珧が進み出て言った、「臣が劉元海の才を観察したところ、現在において彼に匹敵する人材がいないことに不安を覚えます。陛下がもし、〔劉元海に授ける〕兵士を減らせば、事業を成すことはできないでしょう。〔あるいは〕もし彼に威権(武力と権力)を授ければ、呉を平定したのち、二度と〔長江を〕北に渡ってこないことを心配します。『わが族類でなければ、その心は必ず異なる』(『左伝』成公四年)ものです。彼に本軍を任せることについて、臣はひそかに陛下のために心を寒くしております。天然の要害(江南)をごっそり彼に与えてしまうというのは、おそらく採用するべきことではないと存じます」。武帝は黙ってしまった。
 のち、〔禿髪樹機能によって〕秦州と涼州が転覆すると、武帝は誰が〔征討軍の〕総帥にふさわしいかを諮問した。上党の李憙は、「陛下がもし、匈奴五部の衆を発し、劉元海に将軍号を授け、太鼓を鳴らして西に進軍させましたら、すぐにでも平定することができましょう」と言った。孔恂は「李公の言葉は、災厄を滅ぼす道理を尽くしていません」と言った。李憙は顔をしかめ、「匈奴の精悍さと元海の用兵をもって御稜威を行きわたらせるのが、どうして道理を尽くしていないというのか」。孔恂、「劉元海がかりにも涼州を平定し、樹機能を斬ることができたら、涼州にまもなく難事(元海の反乱)が起こるであろうことを心配しているのである。蛟龍は雲雨を得れば、二度と池の中の生物に戻りはしないのだ」。武帝はそこで議論を止めた。のちに王弥が洛陽から東に帰郷することになったとき、劉元海は王弥を九曲の水辺で送別したが、泣いて王弥に言った、「王渾と李憙は〔私と〕同郷で面識があるため8原文「以郷曲見知」。和刻本が「郷曲ニシテ知ラルヲ以テ」と読むのに従った。、いつも称賛して推薦してくれているのだが、讒言がこれを機会に進上されてしまっており、〔そのような状況は〕まったく私の望むところではないし、まさに〔私にとって〕害となりうるであろう。私はもともと官になるつもりはないのだが、ただあなただけがこの心をわかってくれている。おそらく〔私は〕洛陽で死ぬだろうから、君とは永遠のお別れになるな」。そうして劉元海は感極まってすすり泣き、思うままに酒を飲んで長嘯(口をすぼめて声を長く伸ばす)し、声の調子は澄んでいて、同席していた者はこれのために涙を流した。このとき、斉王攸は九曲にいたが、〔劉元海の声を〕聞くと、馬を走らせて様子を見に行かせ、〔使者は〕劉元海がそこにいるのを見た。〔その報告を受けた斉王は〕武帝に言った、「陛下が劉元海を排除しなかったら、并州は久しく安寧を得られないであろうことを臣は憂慮しています」。王渾が進み出て言った、「劉元海は長者です。渾(わたし)が陛下のために保証いたします。くわえて、大晋は信義を殊俗に示し、徳によって遠方を帰順させようとしておりますのに、兆しのない嫌疑を理由に人の侍子を殺し、晋の徳の狭小さを示すというのはどうしたものでしょうか」。武帝は「渾の言葉が正しい」と言った。
 ちょうど劉豹が卒したので、〔晋は〕劉元海を左部帥とした9『水経注』巻六、汾水注に「汾水之右有左部城、側臨汾水、蓋劉淵為晋都尉所築也」とある。。太康の末、北部都尉に任じられた10『文選』巻四九、干令升「晋紀総論」に「彼劉淵者、離石之将兵都尉」とあり、その李善注に引く「干宝晋武紀」に「太康八年、詔淵領北部都尉」とある。『太平御覧』巻一六三、石州に引く「十六国春秋」だと「晋恵帝、以劉元海為離石将兵都尉」とある。。刑法を明示し、悪事を禁じ、財産を軽視して人への施しを好み、誠心を持して人と接したため、五部の俊才で〔劉元海のもとに〕やってこない者はいなかった。幽州と冀州の名儒や寒門の秀才たちも、千里を遠しとせずにみな劉元海と交際した。楊駿が輔政すると、劉元海を建威将軍、五部大都督とし、漢光郷侯に封じた。元康の末、部人がそむいて出塞したことに坐し、官を免じられた。成都王穎が鄴に出鎮すると、劉元海を行寧朔将軍、監五部軍事とするように上表した。
 恵帝が統制を失い、盗賊が蜂起すると、劉元海の従祖父である、もとの北部都尉、左賢王11『太平御覧』巻一一九、前趙劉淵に引く「崔鴻十六国春秋前趙録」と『資治通鑑』巻八五、永興元年は「右賢王」に作る。『十六国春秋』は後文の劉淵も同様に「右賢王」に作ってある。劉宣は右賢王が正しいかもしれない。の劉宣らはひそかに協議した、「むかし、わが先祖は漢と誓約して兄弟となり、悲喜を共有していた。漢が滅んで以来、魏と晋がかわるがわる興ったが、〔その間〕わが単于は虚号(中身のない称号)を有するのみで、わずかな封土もなくわずかな土地を治めることすらまったくなく(2021/12/5:修正)、諸王侯以下は編戸同然に落ちぶれてしまった12原文は「自諸王侯、降同編戸」で、谷川道雄氏[一九九八]は「諸王侯より〔以下〕降って編戸に同じ」(〔 〕は谷川氏原注)と読み、匈奴貴族の没落を意味していると解釈している。中国の研究も多く同様に読んでいる[唐一九五五A、馬一九六二、蒋一九七九、林幹二〇〇七、周偉州二〇〇六]。内田吟風氏[一九七五]は判然としないが、単于の地位が降落したと解しているようである。文章の構成上、内田氏のように読む余地は十分にあると考えるが、魏晋王朝は南単于に高い礼遇を与えていたことを考慮すると、そのような読みは妥当ではないのかもしれない。ここでは多くの研究者に従って訳出した。。いま、司馬氏は骨肉で殺しあい、四海は沸き立っている。これは、国を回復し、事業を復興させる機会であろう。左賢王の劉元海は資質と度量が傑出しており、不世出の才能を有している。天が単于を復活させるつもりがないのならば、この人物を意味もなく生み落とすわけがない」。こうしてひそかに劉元海を共同で推戴し、大単于とした。そして劉元海の親族の呼延攸を〔劉元海が滞在している〕鄴に行かせ、計画を知らせた。劉元海は帰郷して葬儀に参列したいと願い出たが、成都王は許可しなかった。そこで呼延攸を先に帰らせ、劉宣らに命じて五部の衆を招集させ、宜陽の諸胡を集合させた。口では成都王に呼応するためだと言っていたが、実際はそむくつもりだったのである。
 成都王が皇太弟になると、劉元海を太弟屯騎校尉とした。恵帝が成都王を討伐しようとし、蕩陰に駐屯すると、成都王は劉元海に輔国将軍、督北城守事を授けた。天子の軍が敗北すると、成都王は劉元海を冠軍将軍とし、盧奴伯に封じた。并州刺史の東嬴公騰と安北将軍の王浚が挙兵し、成都王を攻めようとしたので、劉元海は成都王を説いて言った、「いま二鎮(并州の東嬴公騰と幽州の王浚)が武力を恃んで暴れておりますが、軍はゆうに十万を超えており、おそらく宿衛の兵士や近隣の士庶では彼らを防ぎきれないでしょう。殿下のために帰郷し、五部の衆を説得して、国難に参じたく思います」。成都王、「五部の衆は進発を保証してくれるのか。かりに動員することができたとしても、鮮卑と烏丸は風雲のように剽悍であるから、かるがるしくあたれようか。私は天子を奉じて洛陽に帰還しようと思う。〔そうして〕先鋒の鋭気を避け、おもむろに檄を天下に飛ばし、道理によって〔援軍を得て〕制圧しようと考えている。君はどう思うかね」。劉元海、「殿下は武帝のご子息であり、格別な勲功を王室に対して立てられ、威厳と恩沢はあまねく行きわたり、四海は殿下の風格を仰ぎ慕っています。殿下のために命を捨てて身体を投げ出そうと思わない者はいません。〔ですから〕五部を動員するのが難しいなどということがありましょうか。王浚は豎子で、東嬴公は王室の遠縁なのですから、殿下と軽重を比べるまでもありません。〔それなのに〕殿下がひとたび鄴の宮殿から出て行き、脆弱を人々に示してしまったら、洛陽までたどり着けるでしょうか。たとえ洛陽に到着したとしても、威権が殿下に備わることは二度とないでしょう。〔道理を説いた〕紙切れごときで、誰が人のために殿下を奉じようとするものでしょうか。かつ、東胡(鮮卑と烏丸)の勇猛さは五部をしのぐものではありません。殿下は兵士を慰撫することに努め、冷静になってここ(鄴)をお守りください13原文「靖以鎮之」。自信はない。。殿下のために、二部をもって東嬴公を打ち砕き、三部をもって王浚の首をさらしてみせましょう。二人の豎子の首はすぐにでもつるすことができます」。成都王は喜び、劉元海を北単于、参丞相軍事に任じた。
 劉元海が左国城に到着すると、劉宣らは大単于の称号を奉じた。二旬日ほどの間で、衆は五万も集まった。離石を都に定めた14劉聡載記および『資治通鑑』巻八五、永興元年によると、このときに劉聡を「鹿蠡王」に任じている。劉淵が漢王に即位して以後は中国風の官名ばかりが出てくるようになるが、大単于就任から漢王に即位するまでの間は匈奴伝統の王号がしばしばみえている。大単于就任と同時に、当初は匈奴式の体制を整えていたのかもしれない。なお『資治通鑑』によれば、このころに「遣左於陸王宏帥精騎五千、会穎将王粹拒東嬴公騰。粹已為騰所敗、宏無及而帰」とあり、律義に成都王に応援を派遣していたようである。
 王浚は将軍の祁弘に鮮卑を統率させて鄴を攻めさせた。成都王は敗れ、天子を連れて南に向かい、洛陽へ敗走した。劉元海は言った、「穎は私の進言を採用せず、逆らってみずから敗走してしまった。本当に使えぬ人間よ。しかし私はあの者に約束してしまったから、救援しないわけにはいかない」。こうして右於陸王の劉景、左独鹿王の劉延年15劉延年は劉淵の兄であるらしい。『元和郡県図志』巻一三、河東道二、太原府、文水県、大于城の条に「大于城、在県西南十一里。本劉元海築、令兄延年鎮之、胡語長兄為大于、因以為名」とある。らに命じ、歩騎二万を率いさせ、鮮卑を討伐させようとした。劉宣らは強く諫めた、「晋は無道のふるまいをなし、我々を下僕のようにみなして支配しています16原文の「奴隷」の語について、唐長孺氏[一九五五A]と内田吟風氏[一九七五]はこの語を匈奴部民が田客や奴婢に没落していた状態とおそらく解釈し、晋朝が匈奴を客や奴婢の身分となして支配したと読んでいるようである。林幹氏[二〇〇七]も同様。谷川道雄氏[一九九八]は、現実的に没落する匈奴部民が多数であったとしても、晋朝が主体となってそのような身分にしていたわけではないと指摘して唐・内田両氏の読みに反対し、「奴隷のごとく」と比喩の意味で読むことを提案している。そしてこの語は、晋朝が匈奴の固有生活を解体し、自立性を奪い取ったことを意味すると解釈している。谷川氏の説が全面的に妥当であるかは判断できないが、「賤民のように扱っている」というニュアンスをもっている語だと思われるため、谷川氏同様に比喩の意味で訳出した。。このために、右賢王の猛17武帝紀、泰始七年に出塞反乱した人物とおそらく同一。胡奮伝は「中部帥」とし、『魏書』巻九五、鉄弗劉虎伝は「北部帥」とする。また四夷伝・北狄匈奴伝には「単于猛叛」とみえるが、単于は自称であろう。は憤怒を抑えられなかったのです。しかしその当時は晋の紀綱が緩んでいなかったため、計画は成功せず、右賢王は仆れてしまいました。これは単于(劉淵)にとって恥辱です。いま、司馬氏は父子兄弟で殺し合っていますが、これは天が晋の徳を見限り、天命を我々に授けているのです。単于(劉淵)は積み重ねた徳行を身に備えられ、晋人から心服されています。まさしくわが邦族を復興し、呼韓邪の事業を回復するべきです。鮮卑と烏丸は味方につけるべきであるのに、どうして彼らを拒んで仇敵のほうを助けるのですか。いま、天は手を我々に差し伸べているのですから、それに反するべきではありません。天に反するのは不吉であり、民衆に逆らえば成功しません。天が与えているのに取らなければ、かえって咎を受けましょう。どうか単于(劉淵)よ、疑いませぬよう」。劉元海、「そのとおりだ。高い山をつくるべきであって、どうして小さな山をつくろうか。そもそも帝王となるのに不変の法則があるものだろうか。禹は西戎の出身で、周の文王は東夷で生まれた。〔過去の帝王を〕振り返れば、徳によって授かるものなのである。いま、現在の衆十余万は、みな一人で晋人の十人に相当する。太鼓を鳴らして進軍し、晋を粉砕するのは、朽ちた木を砕くようなものである。上は漢の高祖のごとき事業を成すことができ、下は魏氏(曹魏の武帝?)のごとき事績を為すことに失敗しないだろう18『太平御覧』巻一一九、前趙劉淵に引く「崔鴻十六国春秋前趙録」はこれにつづけて「何呼韓耶足道哉(呼韓邪のごときは語るに及ばない)」とある。。そうであっても、晋人は必ずしも我々に同調するとはかぎらない。漢は天下を所有した時代が長く、その恩徳は人々の心に結びついている。このため、昭烈帝(劉備)は一州の地を制圧しただけで、天下に対抗できたのである。私も漢氏の甥(姉妹の子)であり19漢の高祖が宗室の娘を冒頓単于に降嫁させたことを言っているのであろう。『漢書』匈奴伝上を参照。、兄弟の誓約を結んでいる。兄が亡びたら弟が継ぐのは、当然のことである。ひとまずは、漢を称し、後主(劉禅)を追尊し、そうして人心を得るのがよいであろう」。そして左国城へ遷都した。遠方の者20原文「遠人」。『太平御覧』巻一一九、前趙劉淵に引く「崔鴻十六国春秋前趙録」には「元煕元年、遷於左国城、晋人東附者数万」とある。で帰順したのは数万にもおよんだ。
 永興元年、劉元海は壇を南郊に築き、僭越して漢王の位につき21あえてはじめから皇帝につかなかったとらしい。『太平御覧』巻一一九、前趙劉淵に引く「崔鴻十六国春秋前趙録」に「宣等上尊号、淵曰、『今晋氏猶在、四方未定、可仰遵高祖初法、且称漢王、権停皇帝之号。待宙宇混一、当更議之』。十月為壇南郊、僭漢王位」とある。、令を下した、「むかし、わが太祖高皇帝は神妙なる武略で機会に応じ、偉大な事業を切りひらいた。太宗孝文皇帝は〔高帝の事業に〕うるわしい徳を積み重ね、漢の道を太平にさせた。世宗孝武皇帝は版図を拡大し夷狄を追い払い、領域は陶唐(堯)の時代をしのいだ。中宗孝宣皇帝は秀才を捜索して登用し、多くの士が朝廷に集まった。これらわが祖先の道は三王にまさり、功は五帝より高く、それゆえ、占いで予言された命数は夏や商の倍であり、姫氏(周)を超えていたのである。しかし、元成の世は悪人が多く、哀平二帝は短命で、賊臣の王莽が天に届くほどに増長し、簒奪したのである。わが世祖光武皇帝は偉大な資質と聖なる武略をそなえ22原文「誕資聖武」。「誕資」はよくわからない。、帝業を回復し、漢氏を祀って天に配し、旧来の制度を絶やさず、暗かった三光(日、月、星)をふたたび明るくさせ、光を失った神器をふたたび輝かせた。顕宗孝明皇帝と粛宗孝章皇帝は代々と事業を輝かせ、火炎の光はふたたび明るくなった。和安以後、綱紀がしだいに退廃し、天運は艱難へ向かい、皇統は何度も途絶えた。黄巾の大群が九州(天下)にわきおこり、宦官らの害毒が四海(天下)に流れ、董卓はこれに乗じて暴力を思うままに振るい、曹操父子の凶逆が世々つづいた。ゆえに、孝愍皇帝23後漢の献帝のこと。「孝献」は曹魏からおくられた諡号。漢を継いだ劉備らは孝愍皇帝とおくった。『三国志』先主伝を参照。は万国を見捨ててしまい、昭烈帝は岷蜀の地へ流浪したが、〔そうして昭烈帝は〕否の運勢が尽きて泰の運勢に転じ、天子の車を旧京(洛陽)へ戻すことを希求したのである。しかし思いもよらぬことに、天は災禍を降したことをまだ悔やんでいなかったため、後帝(劉禅)は困窮し、屈辱を受けたのであった。〔漢の〕社稷が没落し、宗廟に犠牲の血が供えられなくなって、現在で四十年になる。いま、天はその(漢人の?)衷心を教え導き、皇漢に禍を降したことを悔やまれ、司馬氏の父子兄弟を次々と滅ぼしている。民衆は塗炭の苦しみを味わっているが、訴える場所もない。孤(わたし)はいま、にわかに諸侯から推戴され、三祖の事業を継ぎ、整えることとなった。この愚小の身を省みると、恐々として〔身を〕置くところもない。しかし、恥辱がいまだにそそがれず、社稷に主君が不在であるため、胆を口にして氷の上に眠り、努めて諸侯の議論に従おう」。そして境内を赦免し、年号を元煕とし、劉禅を追尊して孝懐皇帝とし、漢の高祖以下、三祖五宗24『晋書斠注』に引く『越縵堂日記』によると、「三祖」は太祖高皇帝・世祖光武帝・烈祖昭烈帝、「五宗」は太宗文帝・世宗武帝・中宗宣帝・顕宗明帝・粛宗章帝。『太平御覧』巻一一九、前趙劉淵に引く「崔鴻十六国春秋前趙録」は「三宗五祖」とする。の神主を設けて祀った。妻の呼延氏を王后に立てた25『元和姓簒』巻三によれば、大司空、雁門郡公の呼延翼の娘。呼延翼は本載記の後文にもみえる。。百官を置き、劉宣を丞相とし、崔游を御史大夫とし、劉宏を太尉とし、そのほか、官の授与はおのおの格差があった。
 東嬴公騰は将軍の聶玄に劉元海を討伐させた。〔聶玄と劉元海は〕大陵で戦い、聶玄軍は敗北した。東嬴公は恐懼し、并州の二万余戸を率いて太行山の東へ下ったので、〔劉元海は〕とうとうあちこちで掠奪をなした。劉元海は建武将軍の劉曜を派遣し、太原、泫氏、屯留、長子、中都を侵略させ、すべて落とした。永興二年、東嬴公はさらに司馬瑜、周良、石鮮らを派遣し、劉元海を討伐させ、〔司馬瑜らは〕離石の汾城に駐屯した。劉元海は武牙将軍の劉欽ら六軍を派遣して司馬瑜らを防がせた。四度戦ったが、司馬瑜らはすべて敗れ、劉欽は軍列を整えて帰還した26『魏書』匈奴劉聡伝には、「桓帝十一年、晋并州刺史司馬騰来乞師、桓帝親率万騎救騰、斬淵将綦毋豚、淵走蒲子」とあり、勝敗の記述がやや食い違っている? 『魏書』のほうは戦争全体の勝敗を記したのではなく、たんに拓跋氏の戦功を記しただけか。劉淵が蒲子に移動したことは、載記本文でもこれからまもなくに記述されているが、拓跋氏に敗れて敗走したからだとは記されていない。この件について『資治通鑑考異』は「蓋後魏書夸誕妄言耳」と述べている。。この年、離石は甚大な飢饉であったので、黎亭に移り、そうして倉庫の穀物にありつき、太尉の劉宏と護軍将軍の馬景を留めて離石を守らせ、大司農の卜豫27卜氏は、四夷伝・北狄匈奴の条に匈奴の四姓としてみえる。『史記』匈奴列伝、『漢書』匈奴伝、『後漢書』南匈奴伝には、匈奴の貴種として「須卜氏」がみえており、須卜氏の中国風の姓が「卜氏」なのかもしれない。に食糧を運送させて離石に支給させた。前将軍の劉景を使持節、征討大都督、大将軍とし、〔新たに赴任してきた〕并州刺史の劉琨を版橋で待ち伏せさせたが28『水経注』洞過水注に「劉琨之為并州也、劉曜引兵邀撃之、合戦于洞過、即是水也」とある。、劉琨に敗れ、劉琨はとうとう晋陽に割拠した。侍中の劉殷と王育は進み出て劉元海を諫めた、「殿下が挙兵して以来、まもなく一年になりますが、僻地を守っているだけで、王威はいまだに振るっていません。かりに将に命令を下して四方に出撃させ、一擲の機会に勝負を決しさえすれば、劉琨の首をさらし、河東を平定し、帝号を打ち立てられましょう。〔そして〕太鼓を鳴らして南進し、長安を落として都に定めれば、関中の衆をもって洛陽を奪還することは、手のひらを指さすように容易なこととなりましょう。これは高皇帝が帝業を開創し、かつ強大な楚を滅ぼすことができたゆえんです」。劉元海は喜び、「これは孤(わたし)の心のとおりだ」と言った。とうとう進んで河東を占拠し、蒲坂と平陽を攻略し、ともに落とした。劉元海はそのまま蒲子に入って都に定め、河東と平陽の属県の塁壁はことごとく降った。このころ、汲桑が趙と魏の地で挙兵し、上郡の四部鮮卑の陸遂延、氐酋の大単于の徴29『資治通鑑』は「氐酋単徴(氐酋の単徴)」に作る。『資治通鑑考異』は、当時は酋長のことを「大」と言ったのであり、「于」は衍字である、という。のちに劉淵は単氏を皇后に立てているが、司馬光はこの氐酋の娘であるとしている。たぶん司馬光が正しい。、東萊の王弥、石勒らはあいついで〔劉元海に〕降った。劉元海はみなに官爵を授けた。
 永嘉二年、劉元海は僭越して皇帝の位につき、境内を大赦し、永鳳と改元した30『太平御覧』巻一一九、前趙劉淵に引く「崔鴻十六国春秋前趙録」に「永鳳元年秋七月、鳳皇集于蒲子。丞相劉宣等六十四人上尊号。十月、僭即皇帝位于南郊」とある。また『資治通鑑』同年十一月の条に「丙午、漢都督中外諸軍事、領丞相、右賢王宣卒」とある。。大将軍の劉和を大司馬とし、梁王に封じ、尚書令の劉歓楽を大司徒とし、陳留王に封じ、御史大夫の呼延翼を大司空とし、雁門郡公に封じた。宗室は親疎を等級とし、全員を郡県王に封じ、異姓は勲功と献策を格差とし、みな郡県公侯に封じた。太史令の宣于脩之は劉元海に言った、「陛下は龍のように昇り、鳳凰のように飛翔し、にわかに大命をお受けしましたが、しかし遺晋(晋の残党)はいまだ滅びておらず、〔現在の〕皇居は狭くてみすぼらしいものです。柴宮に現れている異変は、〔晋氏がまだ滅びていないので〕依然として晋氏に相当するでしょうから、三年を経たずして、必ず洛陽を落とせるでしょう。蒲子は険阻な地勢で、久しく安んじるべきところではありません。平陽の地勢には紫気(帝王の気)があり、かつ陶唐(堯)の旧都でもあります。陛下に願わくば、上は乾(天)の現象に合わせ、下は坤(地)の予兆にかなうようにされますよう」。こうして平陽へ遷都した。汾水の水中から玉璽を見つけ31『水経注』汾水注に引く「魏土地記」によれば、璽を得たのは永嘉三年、すなわち永鳳二年である。したがって後文の河瑞改元も永鳳二年のことになる。『資治通鑑』は同年の正月にかけている。、その文には「有新保之」とあったが、つまりは王莽の世の玉璽であった。玉璽を見つけた者はそこで、「泉海光」の三字を増補したので32「泉」は「淵」の避諱。この逸話はいろいろな書物にみえている。、劉元海は自分の瑞祥であると考え、境内を大赦し、河瑞と改元した。子の劉裕を斉王に封じ、劉隆を魯王に封じた33『資治通鑑』はこのあたりから劉聡を「楚王聡」、劉曜を「始安王曜」と記し、ほかの劉氏もみな王号で呼称している。劉聡ふくめ、それら劉氏の封王の記事がみえないので正確な時期は不明だが、劉勧楽が封じられたときか、劉裕らが封じられたときかいずれかで封じられたのであろう。
 こうして、〔劉元海は〕子の劉聡と王弥に命じ、進軍させて洛陽を侵略させ、劉曜と趙固らにはその後詰をさせた34『資治通鑑』によれば、これ以前の河瑞元年春ころ(懐帝紀では永嘉三年四月)、晋の将軍の朱誕という者が漢に降り、洛陽攻撃を勧めたという。劉淵はそれを受けて黎陽へ派兵しているが、この来降は洛陽侵攻の一契機であったかもしれない。『資治通鑑』「左積弩将軍朱誕奔漢、具陳洛陽孤弱、勧漢主淵攻之。淵以誕為前鋒都督、以滅晋大将軍劉景為大都督、将兵攻黎陽、克之」。。東海王越は平北将軍の曹武、将軍の宋抽、彭黙らを派遣して防がせたが、王師(晋軍)は敗北した。劉聡らは長駆して宜陽にまで到達したので、平昌公模は将軍の淳于定、呂毅らを長安より派遣してこれを討伐させ、宜陽で戦ったが、淳于定らは敗北した。劉聡は連勝に恃んで〔油断し〕、防御の備えを設けなかった。弘農太守の垣延は偽って降ると、夜に奇襲をしかけたので、劉聡軍は大敗して帰還した。劉元海は素服を着て軍を迎えた。
 この冬、ふたたび兵士を大動員し、劉聡、王弥、劉曜、劉景らを派遣し、精鋭の騎兵五万を統率させて洛陽を侵略させ、呼延翼には歩兵隊を統率させてこれに続かせた。〔劉聡らは〕王師を河南で破った。劉聡が進軍して西明門に駐屯すると、〔晋の〕護軍将軍の賈胤は夜にこれに近づき、大夏門で戦い、劉聡の将の呼延顥を斬り、劉聡の軍はとうとう潰走した。劉聡は軍の向きを変えて南に進み、洛水に軍営を築き、ついで進軍して宣陽門に駐屯した。劉曜は上東門に駐屯し、王弥は広陽門に駐屯し、劉景は大夏門を攻め、劉聡はみずから嵩岳(嵩山)で祈願し、将の劉厲、呼延朗らに留軍(劉曜ら洛陽の軍)を監督させた。東海王は参軍の孫詢、将軍の丘光、樓裒らに命じて帳下の精兵三千を統率させ、宜陽門から呼延朗を攻めさせ、これを斬った。劉聡は〔このことを〕知ると馬を走らせて〔洛陽に〕戻った。劉厲は、劉聡が自分を処罰するのを恐れたので、河川に飛び込んで死んだ。王弥は劉聡に言った、「いま、すでに利を失いましたが、洛陽は依然として固いままです。殿下は、軍を引き上げ、じょじょに後日の挙行を期すに越したことはありません。下官(わたし)は、兗豫の領域(兗州と豫州のあたり)で兵士と食料を集め、伏して〔殿下の命じた〕厳格な期日を待とうと思います」。宣于脩之も劉元海に言った、「辛未の歳にきっと洛陽を得るでしょう。いまは晋の気がまだ盛んですから、〔わが〕大軍は帰還しなければ、必ず敗北します」。劉元海は馬を走らせて黄門郎の傅詢を派遣し、劉聡らを召還して軍を引き上げさせた。王弥は轘轅から〔兗豫の地へ〕向かった。東海王は薄盛らを派遣し、王弥を追撃させ、新汲で戦うと、王弥軍は敗北した。こうして〔劉聡は〕蒲阪の拠点を整備し、平陽に帰還した。
 劉歓楽を太傅とし、劉聡を大司徒とし、劉延年を大司空とし、劉洋を大司馬とし、境内を赦免した。妻の単氏を皇后に立て、子の劉和を皇太子に立て、子の劉乂を北海王に封じた。
 劉元海は病気で寝込むと、顧託の計画を立てようと思い、劉歓楽を太宰とし、劉洋を太傅とし、劉延年を太保とし、劉聡を大司馬、大単于とし、〔以上の〕全員を録尚書事とし、単于台を平陽の西に設け、子の劉裕を大司徒とした35『資治通鑑』だともっと長い。全部引用すると長くなるので、劉和載記にかかわるであろうところだけ抜き出すと、「魯王隆為尚書令、北海王乂為撫軍大将軍、領司隷校尉、始安王曜為征討大都督、領単于左輔、……永安王安国領右衛将軍、安昌王盛、安邑王欽、西陽王璿皆領武衛将軍、分典禁兵」。。劉元海は病態が重くなると、劉歓楽、劉洋らを召して禁中に入らせ、遺詔を授けて輔政を命じた。永嘉四年に死んだ。在位は六年、偽謚は光文皇帝といい、廟号は高祖といい、墓は永光陵と号した。子の劉和が立った。

載記序劉元海附:劉和・劉宣

(2020/3/21:公開)
(2021/9/4:改訂)

  • 1
    漢代では美稷県と離石県はだいぶ離れているし、たぶんこの文はおかしい。ただ、南単于庭が途中で移動した可能性はあり、移動後の単于庭が離石県に置かれていたのかもしれない。のちのちの劉淵らの行動をみても、離石は象徴的な場所であったようで、そうした伝承があったのだろう。ちなみに『太平御覧』巻一六三、石州に引く「前趙録」に「今離石在(「左」の誤りであろう)国、単于所徙庭是也」とみえ、載記本文と同様の文は『十六国春秋』にもあったようである。とすれば、「現在」と訳した載記本文の「今」は、厳密には北魏の意かもしれない。
  • 2
    原文は「北部居新興」。四夷伝・北狄匈奴の条には「北部都尉……居新興県」とあり、ほかの部の記載からみても県と取るのが適当だが、地理志上、并州新興郡には新興県の記録がない。[劉二〇一九]は新興郡の属県として記録されている晋昌県の旧名が新興県なのであろうと推測している。さしあたりここでは郡とも県とも訳出しないことにする。
  • 3
    意味がよくわからず。劉氏は匈奴五部全体に分散していたけど、とくに晋陽付近が本拠地でその地に集住していた、ということか。原文は「皆居于晋陽汾澗之浜」で、『魏書』巻九五、匈奴劉聡伝も同じだが、「澗」の字はあるいは誤りで、本来は晋陽付近を流れる「洞過水」を指しているのかもしれない。なお晋書の中華書局標点本は「澗」に傍線を引いて固有名詞と読むよう指示しているが、魏書の中華書局標点本は傍線を引かず、一般名詞として読んでいるようである。『水経注』巻六、汾水注に「澗水東出穀遠県西山、西南径霍山南、……西流入于汾水」とあり、晋陽よりずっと南で汾水に合流する澗水という河川がいちおう存在したらしい。とりあえずここでは魏書の中華書局標点本に従って訳出した。
  • 4
    原文「道由人弘」。『論語』衛霊公篇「子曰、人能弘道、非道弘人」をいちおう念頭に置いた。
  • 5
    自分の器を拡大させないのはおかしい、ということであろう。
  • 6
    原文「推分」。『漢語大詞典』によれば「守分自安」。
  • 7
    原文「不足平」。武力を用いるまでもない、という意?
  • 8
    原文「以郷曲見知」。和刻本が「郷曲ニシテ知ラルヲ以テ」と読むのに従った。
  • 9
    『水経注』巻六、汾水注に「汾水之右有左部城、側臨汾水、蓋劉淵為晋都尉所築也」とある。
  • 10
    『文選』巻四九、干令升「晋紀総論」に「彼劉淵者、離石之将兵都尉」とあり、その李善注に引く「干宝晋武紀」に「太康八年、詔淵領北部都尉」とある。『太平御覧』巻一六三、石州に引く「十六国春秋」だと「晋恵帝、以劉元海為離石将兵都尉」とある。
  • 11
    『太平御覧』巻一一九、前趙劉淵に引く「崔鴻十六国春秋前趙録」と『資治通鑑』巻八五、永興元年は「右賢王」に作る。『十六国春秋』は後文の劉淵も同様に「右賢王」に作ってある。劉宣は右賢王が正しいかもしれない。
  • 12
    原文は「自諸王侯、降同編戸」で、谷川道雄氏[一九九八]は「諸王侯より〔以下〕降って編戸に同じ」(〔 〕は谷川氏原注)と読み、匈奴貴族の没落を意味していると解釈している。中国の研究も多く同様に読んでいる[唐一九五五A、馬一九六二、蒋一九七九、林幹二〇〇七、周偉州二〇〇六]。内田吟風氏[一九七五]は判然としないが、単于の地位が降落したと解しているようである。文章の構成上、内田氏のように読む余地は十分にあると考えるが、魏晋王朝は南単于に高い礼遇を与えていたことを考慮すると、そのような読みは妥当ではないのかもしれない。ここでは多くの研究者に従って訳出した。
  • 13
    原文「靖以鎮之」。自信はない。
  • 14
    劉聡載記および『資治通鑑』巻八五、永興元年によると、このときに劉聡を「鹿蠡王」に任じている。劉淵が漢王に即位して以後は中国風の官名ばかりが出てくるようになるが、大単于就任から漢王に即位するまでの間は匈奴伝統の王号がしばしばみえている。大単于就任と同時に、当初は匈奴式の体制を整えていたのかもしれない。なお『資治通鑑』によれば、このころに「遣左於陸王宏帥精騎五千、会穎将王粹拒東嬴公騰。粹已為騰所敗、宏無及而帰」とあり、律義に成都王に応援を派遣していたようである。
  • 15
    劉延年は劉淵の兄であるらしい。『元和郡県図志』巻一三、河東道二、太原府、文水県、大于城の条に「大于城、在県西南十一里。本劉元海築、令兄延年鎮之、胡語長兄為大于、因以為名」とある。
  • 16
    原文の「奴隷」の語について、唐長孺氏[一九五五A]と内田吟風氏[一九七五]はこの語を匈奴部民が田客や奴婢に没落していた状態とおそらく解釈し、晋朝が匈奴を客や奴婢の身分となして支配したと読んでいるようである。林幹氏[二〇〇七]も同様。谷川道雄氏[一九九八]は、現実的に没落する匈奴部民が多数であったとしても、晋朝が主体となってそのような身分にしていたわけではないと指摘して唐・内田両氏の読みに反対し、「奴隷のごとく」と比喩の意味で読むことを提案している。そしてこの語は、晋朝が匈奴の固有生活を解体し、自立性を奪い取ったことを意味すると解釈している。谷川氏の説が全面的に妥当であるかは判断できないが、「賤民のように扱っている」というニュアンスをもっている語だと思われるため、谷川氏同様に比喩の意味で訳出した。
  • 17
    武帝紀、泰始七年に出塞反乱した人物とおそらく同一。胡奮伝は「中部帥」とし、『魏書』巻九五、鉄弗劉虎伝は「北部帥」とする。また四夷伝・北狄匈奴伝には「単于猛叛」とみえるが、単于は自称であろう。
  • 18
    『太平御覧』巻一一九、前趙劉淵に引く「崔鴻十六国春秋前趙録」はこれにつづけて「何呼韓耶足道哉(呼韓邪のごときは語るに及ばない)」とある。
  • 19
    漢の高祖が宗室の娘を冒頓単于に降嫁させたことを言っているのであろう。『漢書』匈奴伝上を参照。
  • 20
    原文「遠人」。『太平御覧』巻一一九、前趙劉淵に引く「崔鴻十六国春秋前趙録」には「元煕元年、遷於左国城、晋人東附者数万」とある。
  • 21
    あえてはじめから皇帝につかなかったとらしい。『太平御覧』巻一一九、前趙劉淵に引く「崔鴻十六国春秋前趙録」に「宣等上尊号、淵曰、『今晋氏猶在、四方未定、可仰遵高祖初法、且称漢王、権停皇帝之号。待宙宇混一、当更議之』。十月為壇南郊、僭漢王位」とある。
  • 22
    原文「誕資聖武」。「誕資」はよくわからない。
  • 23
    後漢の献帝のこと。「孝献」は曹魏からおくられた諡号。漢を継いだ劉備らは孝愍皇帝とおくった。『三国志』先主伝を参照。
  • 24
    『晋書斠注』に引く『越縵堂日記』によると、「三祖」は太祖高皇帝・世祖光武帝・烈祖昭烈帝、「五宗」は太宗文帝・世宗武帝・中宗宣帝・顕宗明帝・粛宗章帝。『太平御覧』巻一一九、前趙劉淵に引く「崔鴻十六国春秋前趙録」は「三宗五祖」とする。
  • 25
    『元和姓簒』巻三によれば、大司空、雁門郡公の呼延翼の娘。呼延翼は本載記の後文にもみえる。
  • 26
    『魏書』匈奴劉聡伝には、「桓帝十一年、晋并州刺史司馬騰来乞師、桓帝親率万騎救騰、斬淵将綦毋豚、淵走蒲子」とあり、勝敗の記述がやや食い違っている? 『魏書』のほうは戦争全体の勝敗を記したのではなく、たんに拓跋氏の戦功を記しただけか。劉淵が蒲子に移動したことは、載記本文でもこれからまもなくに記述されているが、拓跋氏に敗れて敗走したからだとは記されていない。この件について『資治通鑑考異』は「蓋後魏書夸誕妄言耳」と述べている。
  • 27
    卜氏は、四夷伝・北狄匈奴の条に匈奴の四姓としてみえる。『史記』匈奴列伝、『漢書』匈奴伝、『後漢書』南匈奴伝には、匈奴の貴種として「須卜氏」がみえており、須卜氏の中国風の姓が「卜氏」なのかもしれない。
  • 28
    『水経注』洞過水注に「劉琨之為并州也、劉曜引兵邀撃之、合戦于洞過、即是水也」とある。
  • 29
    『資治通鑑』は「氐酋単徴(氐酋の単徴)」に作る。『資治通鑑考異』は、当時は酋長のことを「大」と言ったのであり、「于」は衍字である、という。のちに劉淵は単氏を皇后に立てているが、司馬光はこの氐酋の娘であるとしている。たぶん司馬光が正しい。
  • 30
    『太平御覧』巻一一九、前趙劉淵に引く「崔鴻十六国春秋前趙録」に「永鳳元年秋七月、鳳皇集于蒲子。丞相劉宣等六十四人上尊号。十月、僭即皇帝位于南郊」とある。また『資治通鑑』同年十一月の条に「丙午、漢都督中外諸軍事、領丞相、右賢王宣卒」とある。
  • 31
    『水経注』汾水注に引く「魏土地記」によれば、璽を得たのは永嘉三年、すなわち永鳳二年である。したがって後文の河瑞改元も永鳳二年のことになる。『資治通鑑』は同年の正月にかけている。
  • 32
    「泉」は「淵」の避諱。この逸話はいろいろな書物にみえている。
  • 33
    『資治通鑑』はこのあたりから劉聡を「楚王聡」、劉曜を「始安王曜」と記し、ほかの劉氏もみな王号で呼称している。劉聡ふくめ、それら劉氏の封王の記事がみえないので正確な時期は不明だが、劉勧楽が封じられたときか、劉裕らが封じられたときかいずれかで封じられたのであろう。
  • 34
    『資治通鑑』によれば、これ以前の河瑞元年春ころ(懐帝紀では永嘉三年四月)、晋の将軍の朱誕という者が漢に降り、洛陽攻撃を勧めたという。劉淵はそれを受けて黎陽へ派兵しているが、この来降は洛陽侵攻の一契機であったかもしれない。『資治通鑑』「左積弩将軍朱誕奔漢、具陳洛陽孤弱、勧漢主淵攻之。淵以誕為前鋒都督、以滅晋大将軍劉景為大都督、将兵攻黎陽、克之」。
  • 35
    『資治通鑑』だともっと長い。全部引用すると長くなるので、劉和載記にかかわるであろうところだけ抜き出すと、「魯王隆為尚書令、北海王乂為撫軍大将軍、領司隷校尉、始安王曜為征討大都督、領単于左輔、……永安王安国領右衛将軍、安昌王盛、安邑王欽、西陽王璿皆領武衛将軍、分典禁兵」。
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