巻三十三 列伝第三 石苞

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王祥(附:王覧)・鄭沖/何曾(附:何劭・何遵)石苞(附:石崇・欧陽建・孫鑠)

石苞

 石苞は字を仲容といい、渤海の南皮の人である。度量が広く、才知があり、容貌は格別にうるわしく、ささいな節義は修めなかった。そのゆえ、世の人々は石苞のために評語を立てて言った、「石仲容、無双の顔立ち」。県が召して吏とし1原文「県召為吏」。以下の一連の逸話は『三国志』魏書二八、鄧艾伝の裴松之注に引く「世語」にもおおむね同内容で見えているが、『世語』だと石苞は鄧艾とともに襄城典農部民で、二人とも十二、三歳であったという。本伝は石苞を「吏」としたと記しているが、『世語』の記述と整合させれば、この「吏」は典農部民、すなわち屯田民を指すことになる。訳者は屯田制の研究に疎いのだが、たとえば藤家礼之助氏[一九八九]は屯田民の身分について、法制上は庶民扱いであったが、社会的には差別されていたとしている(第二章第一節、注二四)。屯田民を「吏」と呼称しているらしい本伝の記述も重んじれば、屯田民はあるいは半官半民的な地位で、官に給仕する存在ともみなされ、その側面においては「吏」であったということなのかもしれない。また、本伝は「県」が石苞を召したと記述しているが、この「県」は石苞の出身地・南皮県を指すかのごとくに文脈上は読める。しかし前述のように、『世語』だと石苞らは襄城典農に所属していたとされる。襄城はもともと潁川の属県で、後漢末以降は典農が置かれていたが、ともかく渤海南皮とは大きく離れている場所である。鄧艾伝本伝によると、鄧艾は十二歳のときに潁川へ移住しており、その年齢のころに襄城典農部民であったという『世語』の記述と矛盾しない。これをふまえると、以下の逸話の舞台は潁川方面と考えるのが妥当であろう。石苞は実際には南皮から潁川方面へ移住しており、移住先の「県」から「吏」に召されたのだが、本伝は編纂過程で移住のくだりを省いてしまった、という次第なのかもしれない。、農司馬2『三国志』鄧艾伝の裴松之注に引く「世語」だと「典農司馬」となっている。『世語』が正しい。のもとに配属された。そのころ、謁者である陽翟出身の郭玄信が使者の命をおおせつかると、御者を募集した。農司馬は石苞と鄧艾を郭玄信に配給した。十余里進んだところで、郭玄信は二人に向かって言った、「将来、君たちはきっと卿相(宰相)に出世するぞ」。石苞は「下働きの御者ですよ。どうして卿相なぞに」と言った。ほどなく、さらに使者の命を受けて鄴へ赴いたが、案件がしばらくのあいだ決着しないので、鄴の市場で鉄を売るようになった。市長である沛国出身の趙元儒はひとの才能を見抜くことで有名だったが、石苞に会うと異才と評価し、そのまま友情を結んだ。〔趙元儒は〕石苞の広い度量に感嘆し、きっと公輔(宰相)に出世すると評したので、これにより名が知られるようになった。吏部郎の許允に会うと、小県の県令を求めた。許允は石苞に言った、「卿(あなた)は我々と同格の人間ですから、朝廷に召し寄せるのがふさわしい。どうして小県の県令を望むのでしょうか」。石苞は帰ると嘆息したが、許允が自分のことをこのように認めてくれているとは思いもしなかったからである。
 昇進を重ね、中護軍であった景帝の司馬に移った。石苞が好色で品行に欠けていることを知った宣帝は、そのことで景帝を咎めた3『三国志』魏書四、高貴郷公紀、甘露五年五月の裴松之注に引く「世語」によると、魏の青龍年間、石苞は長安で鉄を売っていたときに宣帝と面識を得たという。面識はあっても、石苞の人柄までは宣帝も把握していなかったということなのかもしれない。。景帝は答えて言った、「石苞は細かな品行に欠けているとは申しましても、国家を経営する才略をそなえています。そもそも、貞節の士であろうとも時世を治める仕事に有能であるとはかぎりません。このため、斉の桓公は管仲の分不相応の奢侈を見逃して、覇業の計略を採用し、漢の高祖は陳平の醜聞をかえりみずに、六つの奇策を取りあげたのでした。石苞はいまだ前述の二子に比肩しうるとまではいきませんが、当代の選りすぐりなのです」。宣帝はようやく疑惑が解けた。鄴の典農中郎将に移った。その当時、魏の王侯の多くが鄴に居住しており、〔また〕列曹尚書の丁謐は世を傾けるほどに高貴であったが、みなそろって金品を競いあっていた。石苞はそれらの件を上奏して批判したため、いよいよ称賛を受けた。東莱太守、琅邪太守を歴任し、どの任地でも法治と徳治がゆきとどいた。徐州刺史に移った。
 文帝が東関で〔呉軍に〕敗北を喫したとき、石苞だけは軍を完全に保って退却した。文帝は所持していた節を指さしながら石苞に言った、「これを卿に授けて作戦をとことん突き詰めなかったのが悔やまれる」。そして石苞を奮武将軍、仮節、監青州諸軍事に移した。諸葛誕が淮南で挙兵すると、石苞は青州の諸軍を統率し、兗州刺史の州泰と徐州刺史の胡質を監督し、精鋭を選抜して遊軍を組織し、外寇(呉軍の襲来)に備えた。呉が大将の朱異や丁奉らを派遣して〔諸葛誕を〕迎えに行かせると、諸葛誕らは都陸に輜重部隊を留め置き、軽装兵を率いて黎水を渡った。石苞らはこれを迎撃し、おおいに破った。泰山太守の胡烈は都陸を奇襲し、諸葛誕軍の輸送物資をすべて焼いた。朱異らは敗残兵を集めて撤退した。寿春が平定されると、石苞を鎮東将軍に任じ、東光侯に封じ、仮節を授けた。しばらくすると、王基に代わって都督揚州諸軍事となった。石苞はそのさいに入朝した。任地に戻るとき、高貴郷公に別れの挨拶をしに行ったが、そのまま終日語りあった。退出すると、文帝に「非凡な君主です」と報告した4『三国志』高貴郷公紀、甘露五年五月の裴松之注に引く「世語」だと次のように記されている。文帝は退出後の石苞にこちらにも立ち寄るように言いつけ、訪ねてきた石苞に「なぜ長く滞在していたのか」と質問し、それに対し石苞が「非凡な君主だからです」と答えた、と。。数日後、成済の事件(高貴郷公弑逆)が起こった。のちに征東大将軍に進められ、それからまもなく驃騎将軍に移った。
 文帝が崩ずると、賈充と荀勖が葬礼について議論したが、結論が出なかった。ちょうど石苞が葬儀に駆けつけると、慟哭して言った、「基盤となる事業をこのように築かれたのに、人臣をもって終わってしまうのですか」。こうして葬礼は定まったのであった。のち、陳騫といっしょに「〔魏朝の〕暦数はすでに尽き、天命はしかるべきところにある」旨を遠回しな表現で魏帝にいつも言っていた。禅譲の実現には石苞の尽力もあったのである。武帝が即位すると、大司馬に移り、楽陵郡公に昇格され、侍中を加えられ、羽葆、鼓吹を支給された。
 諸葛誕が破滅して以後、石苞が淮南を統治していたが、〔その地方は〕軍隊が強力にして旺盛で、辺境ならではの激務であったが、石苞は政務に尽力していたうえ、さらに威厳(法治)と恩恵(徳治)によって人々を従えていた。淮北監軍の王琛は石苞が寒門出身であることを軽んじていた。そのうえ、このような童謡を耳にした、「宮中の大馬がロバ(馬よりも小さい)になりそう、大石が圧迫して身体を伸ばせないから」。これらの理由があって、〔王琛は〕石苞が呉人と連絡を取っているとひそかに上表した5『三国志』呉書一〇、丁奉伝に「〔丁〕奉与晋大将石苞書、搆而間之、苞以徴還」とあり、このことを指しているのであろう。。これより以前、気を観測する者が「東南で大軍が決起する」と言っていた。王琛の上表が届くと、武帝は石苞〔がこの予言に相当すること〕をおおいに疑った。ちょうど荊州刺史の胡烈が上表し、呉人が大挙して侵略しようと企んでいると報告してきたが、石苞も呉軍が侵略してきそうだと知り6原文「苞亦聞呉師将入」。「聞」は聞く、知るの意味で取ったが、奏聞の意で読むべきなのかもしれない。、軍塁を築いて河川の流れをせき止め、守りを固めた。武帝がそのことを聞くと、羊祜に言った、「呉人は襲来するたびに、いつも東西で呼応して動いてきており、片方からだけで侵入することがない。石苞には本当に不忠の行動があるのではないだろうか7武帝の思考過程がよくわからないが、石苞が晋軍の事情を呉軍に漏らしているから呉軍はいつも東西同時に侵攻できているのだ、と言いたいのだろうか。」。羊祜は石苞の濡れ衣を明らかにしたものの、それでも武帝は疑っていた。そのころ、石苞の子の石喬は尚書郎であったが、武帝は石喬を召し寄せたものの、一日経ってもやって来なかった。反逆を起こしたにちがいないと武帝は思い、石苞を討伐しようと考えたが、その件を表沙汰にはしなかった。そしてついに詔を下し、石苞は賊の軍勢を調べもせずに軍塁を築いて河川の流れをせき止め、百姓を疲弊させたとの理由で、策書によって石苞の官を免じた。〔そして武帝は〕太尉の義陽王望に大軍を統率させて派遣し、石苞を中央に召還させに行かせ、非常事態(石苞が挙兵して抗戦すること)に備えた。また、鎮東将軍の琅邪王伷に命じ、下邳から寿春へ行かせた。石苞は掾の孫鑠の計略を採用し、兵を手放して徒歩で都亭へ向かい、そこに滞在して処罰を待った8原文「放兵歩出、住都亭待罪」。『資治通鑑』巻七九、泰始四年の胡三省注はこの都亭を「寿春都亭也」という。。武帝がこのことを聞くと、疑心が解けた。石苞が闕門に到着すると、公の位をもって私宅に帰らせた。石苞は、職務を授かりながら功績を立てられなかったことをみずから恥じたものの、不満げな顔色を見せることはなかった。
 ときに、鄴の奚官督であった郭廙が上書し、石苞の無実を弁護した。武帝は詔を下して言った、「まえの大司馬の石苞は忠誠清明で、政務を治める才能があり、優秀な功績が歴任した官職において記録されている。教典(教化の法典)をつかさどって、政治を補佐するべきであろう。そこで石苞を司徒とする9『周礼』によれば、司徒は教典をつかさどる教化の官である。」。有司が上奏した、「石苞は以前に失敗を起こしているのですから10原文「前有折撓」。直前の騒動を指しているのであろう。、司徒の任には役不足です。公の位をもって私宅に帰らせた処分がすでに寛大な措置なのですから、登用するのは適切ではありません」。詔が下って言った、「呉人は軽率な連中で、けっきょくのところ何もできはしない。それゆえ、辺境での仕事については、守備を十全に固め、〔自軍の守備兵が呉へ〕脱走できないようにさせること11原文「使不得越逸」。「越逸」は『三国志』や南北朝の史書の用例だと、逃亡の意味で使われていることが多い。ここで武帝は「どうせ呉軍は何もできやしない」と言い、守備を固めるだけで十分だと言っているのだから、「襲来した呉軍が逃げられないようにする」という意味ではなく、「自軍の守備兵が脱走してしまわないようにする」と言いたいのではないだろうか。とりあえずこの解釈で訳出してみた。だけを望んでいたのである。石苞の作戦は〔朕の前述の考えと〕同じではなく、敵軍を過度に憂慮していたため、中央に召し返して改任しようとしたのである。むかし、鄧禹は関中で敗北したが、最終的には漢室〔の中興〕を輔弼した。一度の過失を理由に高大な徳を覆い隠してよいものだろうか」。かくして〔石苞は司徒の〕位に就いた。
 石苞は上奏して言った、「州郡の農業と養蚕には、〔成果に応じた〕賞罰の決まりがいまだ存在していません。掾属を派遣して〔州郡を〕巡回させるのがよいと考えます。すべての州郡において、土地の性質に応じて平等に比較し、優秀なところと劣悪なところを挙げ、それから〔それらの地を担当している地方官を〕昇降なさるべきです」。詔が下って言った、「農業は政治の根幹であり、国を治める者にとっての大事な仕事である。世を安定させ、教化を振興させようと望んでいるものの、まず生活を豊かにさせることなく教化を施すという、そのような方途を取るつもりはない。しかしながら、現在にいたるまでのあいだ、四海は騒動が多く、軍事と国政はこのために規模が拡大し、そのうえ戦争(伐蜀を指すか)後の情勢を受け継いでいて、しばしば水害や干害があったゆえ、倉庫の貯蓄は欠乏し、百姓は蓄えがない。いにしえでは、農業は司徒が管轄していた12原文「古者稼穡樹蓺、司徒掌之」。『周礼』地官、大司徒に「辨十有二壤之物、而知其種、以教稼穡樹蓺」とあるのを言うのであろう。。いま、〔石苞は三公の位に〕登って道を論じているのみとはいえ13原文「雖登論道」。「論道」は三公の職掌としてしばしば言及される仕事だが、ここではとくに「古之三公、坐而論道」(『三国志』魏書一六、杜畿伝)という旨の記載をふまえて訳出した。、国を治めて政治をしっかり確立することは時世の急務で、そのゆえに陶唐(堯)の世では稷官(農業の官)が重要だったのであり、現在は司徒の位が稷官の任に相当している。〔石苞は〕帝王の事業に忠誠を尽くし14原文「乃心王事」。『尚書』康王之誥篇「乃心罔不在王室」をつづめた「乃心王室」(王室に忠誠を尽くす)が一般によく見られる表現なので、本伝の「事」は誤りかもしれない。、みずからの家に破損をもたらしてまで国難を緩和しようとし15原文「毀家紓国」。『左伝』荘公三十年に「闘穀於菟為令尹、自毀其家、以紓楚国之難」とあるのにもとづく表現。長年辺境で任務に当たりつつ、粗相を犯した子の石喬を生涯謹慎させたこと(あとの附伝を参照)を言っているのかもしれない。、終日職務に励み、わが身をかえりみずに奉公する志をそなえている16原文「乾乾匪躬之志」。「乾乾」は『易』乾、九三の爻辞「君子終日乾乾、夕惕若厲」、「匪躬」は『易』蹇、六二の爻辞「王臣蹇蹇、匪躬之故」がそれぞれ出典。
 以上の「乃心王事」(帝王の事業に忠誠を尽くし)からここまでの文は司徒に一般に求められる資質を言っているのか、それとも石苞個人の資質を言っているのか判然としないが、さしあたり石苞個人について述べた文と解釈した。
。そこで、司徒に州郡の農業を監督させることとする。事業を任せて成功を委ね、〔朕みずからは〕手をこまねいて処置を眺めるだけ17原文「垂拱仰辦」。「仰辦」は用例も少なく、よくわからないが、文脈から判断すれば「取り計らいに任せる」という意味であろう。にしようと思う。もし巡回する人材が必要ならば、掾属を十人に増やし18『宋書』巻三九、百官志上によれば、晋初の公府は掾属五人。、王官19原文まま。詳細不明。のうち事業を経験して熟知している者を〔掾属に〕用いることを許可する」。石苞は在任中、忠勤であると称賛され、武帝はいつも仕事を委任していた。
 泰始八年、薨じた。武帝は朝堂で哀悼儀礼を挙行し、東園秘器、朝服一具、衣一襲、銭三十万、布百匹を賜与した。埋葬時、節、憧、麾、曲蓋、追鋒車、鼓吹、介士、大車を支給し、すべて魏の司空の陳泰の故事に倣った。馬車で東掖門の外まで見送った。策書を下し、武の諡号をおくった。咸寧のはじめ、詔を下し、石苞らはみな王業を助けて成就させた勲功を立てたため、銘饗に並べた20原文「列於銘饗」。「銘饗」は「名を列記されて祀られることを言う(謂列名受祭)」(『漢語大詞典』)。晋朝の元勲として祀られたということ。巻三、武帝紀、咸寧元年八月に記述がある。
 石苞は事前に「終制」という文書を作成し、次のように記しておいた、「延陵(季札)は薄葬であったが、孔子はこれを礼に通達していると評し、華元は厚葬であったが、『春秋』はこれを不臣と評した。〔これらの例は〕いにしえの明白な義である。今後、死んだ者は21原文「自今死亡者」。この直後に「皆」とも出てくるが、おそらく石苞個人だけでなく、将来の子孫も含めて家族の成員はすべてこの言いつけを守るようにとの訓戒なのであろう。、みな時服で納棺し、重ね着してはならない。また物を遺体の口に含ませてはならない。愚俗のやることだからだ。また寝台、帳、明器(副葬品)を〔墓の中に〕置いてはならない。棺を墓穴に置いたあと、掘り出した土で墓穴を埋めるように。土盛りしたり、樹木を植えたりといったことはいっさいしてはならない。むかし、楊王孫は裸での埋葬によって世の風俗を矯正しようとし、子はその言いつけを守ったが、君子はそのことを批判していない22楊王孫のこの話は『漢書』巻六七の列伝に記されている。。まして礼典に合致しているもの23上述の石苞の言いつけのことを指している。であれば、なおさら問題なかろう」。子供たちはみな遺令を遵奉し、また親族や故吏が祭祀の品物を設置しようとするのを禁じた。石越、石喬、石統、石浚、石儁、石崇の六人の子がいた。石統を後継ぎとした。

〔石統ほか:石苞の子たち〕

〔石統〕

 石統は字を弘緒という。射声校尉、大鴻臚を歴任した。子の石順は尚書郎となった。

〔石越〕

 石越は字を弘倫という。早世した。

〔石喬、石超、石煕〕

 石喬は字を弘祖という。尚書郎、散騎侍郎を歴任した。〔あるとき、〕武帝が石喬を召し出したが来なかったので、石苞が反逆したのではないかと深刻に疑うようになった24この一件は石苞伝にも記載されている。石苞は魏末以来寿春に駐屯していたが、孫呉と通じているとの密告があり、武帝は疑心を抱いていた。ちょうどそのころにこの石喬の件があったため、疑いを強めたのだという。。〔そこで武帝は詔を下し、石苞を免官して中央に呼び出した。〕石苞が〔詔にすなおに応じて〕到着すると、〔武帝は〕気まずそうな顔をして、「卿の子がもうすぐ卿の家を破滅させるところであったぞ」と石苞に言った。石苞はとうとう石喬を廃位し、生涯にわたって出仕を許可しなかった。また、醜聞があったため、頓丘に強制的に移住させた。〔のちに〕弟の石崇といっしょに殺された。〔そのさい、〕石超と石煕の二人の子は逃亡して難を逃れた。成都王穎が〔斉王冏に呼応して〕起義したとき、石超を折衝将軍とし、孫秀を討たせた。〔石超は〕功績により侯に封じられた。さらに振武将軍とし、荊州の賊の李辰を征伐させた。成都王が長沙王乂と交戦すると、石超はいつも先鋒を務めた。〔戦後に〕中護軍に移った。陳眕らが恵帝を擁して〔鄴の成都王へ〕北伐すると、石超は〔中護軍の任のために滞在していた洛陽から〕逃げ、鄴へ戻った。成都王は石超に命じ、恵帝軍を蕩陰で防がると、王師は敗北した。石超は恵帝を連行し、鄴の宮殿へ行幸した。ちょうど王浚が成都王を鄴で攻めたので、成都王は石超を右将軍として王浚軍を防がせたが、大敗して帰還した。恵帝が洛陽へ向かうのに随行し、〔ついで〕西の長安へ移った。河間王顒は石超を領北中郎将とし、成都王と協力させて〔山東で起義した〕東海王越を防がせようとした。石超は滎陽で兵を募集すると、右将軍の王闡と典兵中郎の趙則はともに石超の指揮下に入り、〔東海王軍と交戦中であった〕豫州刺史の劉喬の増援となった。范陽王虓が迎撃して石超を斬った。石煕は逃げて死を免れた。永嘉年間、〔石煕は〕東海王の太傅府の参軍となった。

〔石浚〕

 石浚は字を景倫という。清廉質素で、人材を見抜く眼をそなえ、ひとを敬愛した。黄門侍郎まで昇進した。当世きっての名士であったものの、早世した。

〔石儁〕

 石儁は字を彦倫という。若くして名声があり、議者は「美麗な器(優秀な才能がある)」と評した。陽平太守にまで昇進したが、早世した。

〔石崇:石苞の子〕

 石崇は字を季倫という。青州で生まれたので、幼少時の名は斉奴であった。若くして聡明で、勇敢なうえに知謀があった。石苞の臨終時、財産を子どもたちに分割したが、石崇だけには分けなかった。石崇の母がそのことを言うと、石苞は「この子はまだ幼いが、いずれ自分で獲得できるさ」と言った。二十余歳のとき、修武令となり、有能との名声を得た。中央に入って散騎郎となり、城陽太守に移った。伐呉で功績をあげ、安陽郷侯に封じられた。城陽郡に赴任中は、職務があっても学問に励み、倦まなかった。〔のちに〕病気を理由に自分から辞職した。しばらく経ち、黄門郎に任じられた。
 兄の石統が扶風王駿に逆らってしまうと、有司は〔扶風王の〕意向に沿って石統を弾劾した。〔石統に〕重罪が加えられるところであったが、まもなく〔武帝により特別に〕赦免された。しかし、石崇が闕門25宮門のこと。転じて宮殿を指す。に参って謝恩しなかったのを理由に、有司はふたたび石統に罪を加えようとした。石崇はみずから上表して述べた、「臣の兄の統は亡父の恩恵にあずかって、若くして厚遇をこうむり、内外で清顕の官を授けられ26原文「出入清顕」。「清顕」は清官・顕官で、エリートコースの官を指す。「出入」は外と内の意味で取ってみた。つまり、地方でも中央でもエリート官を授かったことを言っているのではないだろうか。、いくつもの職任を経歴して労力を尽くしてきました。伏して思いますに、陛下の御心も〔こうした統の働きに〕ご理解を賜わりくださっていることかと存じます。近ごろ、〔統が〕扶風王から不条理に誹謗を受けると、司隷校尉や御史中丞らが即座に書類を作成して繰り返し上奏し、告発と取り調べにあたっては法を過度に厳しく適用し、何度も陛下のお耳をお騒がせしています。臣の兄弟は恐怖で身を縮こませ、まるで動悸を起こしているかのごとく憂鬱で胸が痛みました。扶風王は年長で重鎮のご宗室であり、盛大な権勢をおもちです。内外の有司は空気を読み、〔王の〕意向を忖度しています。もし〔王に〕嫌いな人間がいれば、卵を投げつけるよりも簡単に破滅させることができるでしょう。統が無実の罪で告発されて以来、臣の兄弟は一言も身の潔白を訴えようとしませんでした。口を閉ざし、ひたすら刑罰を通知する書類をお待ちしていました。古人の言葉に『従順なところでは華が咲き、反抗的なところでは木が枯れる』というのがありますが、この言葉は本当なのだと、いまこのときに真実であることが証明されています。このゆえ、法に従って不正を糾す監察官27原文「董司直縄」。「董司」は監督する、統べまとめるという意味での用例がほとんどだが、その意味だと本文が通じない。「董」字には「正しくする」(『漢辞海』)の意味あいもあるらしいので、ここでは「監察の官職」と解釈することにした。「直縄」は「法にもとづいて糾弾する」。ようするに二つの語は同じ意味で、法にのっとって不正を検挙する官職のことを言う。といえども、〔意向を忖度して〕法を過度に厳しく適用せざるをえず、濡れ衣を着せられて誹謗を堪え忍んでいる冤罪被害者といえども、〔権力者を恐れて〕無罪の弁明を諦めざるをえないのです28原文「抱枉含謗、不得不輸其理」。よく読めない。「輸其理」は「申理」と同じ意味だと思うが、そうなると「自己弁護を一言もせずにただ待っていた」と言っていた前文と齟齬が生じてしまう。古人の俚諺との文脈上のつながりもわからない。不本意だが、「輸」は「別の場所に移す」という含意があるので、これを考慮して「手放す」という意味あいで読んでみた。。幸いにも、陛下のお耳はすみずみまで聞き漏らさず、ご洞察は遠くまではっきり見通しておられ、亡父の積み重ねた功績と徳を覚えておいてくださり、臣らの職務に励もうとする志を見抜いてくださりました。中詔29〔尚書などを経由せずに〕宮中から直接発出された皇帝直筆の詔。(宮中直接発出的帝王親筆詔令。)(『漢語大詞典』)をお下しになって無実を明らかにしていただき、罪はそそがれました。〔この恩に対して〕肌に刻み込み、身を粉にしても、臣らは感謝しきれません30原文「臣等刻肌砕首、未足上報」。「砕首」は首を斬るの意で、つまり「死んでも感謝しきれない」という表現であろう。その意を汲んで意訳した。そうすると「刻肌」も「粉骨砕身」の意で取ったほうがいいのかもしれないが、ここではいわゆる「骨身に刻む」の意で訳出した。。臣はすぐさま、今月の十四日に兄の統や浚らといっしょに公車門へ参り、表を奉じて謝恩を申しあげました。伏して考えますに、〔臣らの表は〕上表した日からすぐに陛下のお耳に入ったはずです31原文「伏度奏御之日、暫経天聴」。自信はないが、「暫」を「即座に」の意で取った。。今月の二十日、蘭台(御史台)から禁止32自宅軟禁と宮中出入禁止の二つの意味があるが、後者は光禄勲の権限で下される処置であるから、本伝は前者の意か。巻三三、何曾伝附何劭伝の訳注を参照。の符(文書の形式のひとつ)をいきなり授かりました。統は赦免にあずかり、その恩恵は破格のものであるというのに、臣は私宅で安穏と過ごし、一言も感謝を述べなかった、という理由でふたたび弾劾を受けたのです。誹謗と恥辱をこうむり、無罪を訴える言葉は何も残っていません33原文「理尽」。自信はない。「言葉を失った」と言いたいのだろうか。。臣が最初にこの弾劾を耳にしたときは、恐怖におびえ、苦境に立たされた気分でしたが、冷静になって考えてみますと、まことに不思議なところはございません。高貴なお方や権勢をおもちのお方から駆り立てられた人馬に、たどり着けない場所があるでしょうか。〔高貴な権力者から駆り立てられてしまったならば、〕法の遵守をつかさどる監察官に、法にもとづいた監察業務の遂行を願ったとしても、かなわぬ望みなのです。臣は凡才ながら、しきりに要職を授かりましたのに、亡父の働きぶりを受け継いで万分の一でも期待にお応えすることができませんでした34原文「不能負載析薪、以答万分」。『左伝』昭公七年「古人有言曰、『其父析薪、其子弗克負荷』」にもとづく。父の仕事が子にとっては重荷であること。転じて父の仕事の継承が困難であることの比喩。。ひと月のうちに弾劾が繰り返し加えられましたが、法を曲げているのか、それとも法に従っているのか、臣が判定することではございません。恥ずかしく思うのは、宗室に従順になれず、みずからこの窮地に陥ってしまったことです。かまどの神(権力者)の機嫌を取らなければ、まことに王孫賈に恥をかかせてしまうわけです35『論語』八佾篇の話にもとづく。王孫賈が「『奥の間の神よりもかまどの神に媚びよ』という俚諺はどういう意味だろうか」と孔子にたずねた。こういう言い方によって、衛の近臣よりも執政者である自分の機嫌を取るように孔子に要求したのである。孔子は「天(君主)に対して罪を得てしまったら祈る神はない」と言ってこの要求をはねつけた。というもの。。『随巣子』36『漢書』巻三〇、芸文志、諸子略、墨家者流に記録されている著作。随巣子は墨子の弟子だと注記されている。はこのように言っています。『明君の徳とは、ひとの心を見抜くのを最上とし、出来事の真偽を見抜くのをその次とするものである』と。思うところはつぶさに陛下のお耳に申しあげました。伏して罪をお待ちし、これ以上は申しあげません」。かくして騒動は解決した。散騎常侍、侍中と昇進を重ねた。
 武帝は、石崇が功臣の子で、才幹もそなえていることから、彼を高く評価していた。元康のはじめ、楊駿が輔政すると、褒賞として封爵をおおいにバラまき、徒党や支援者を多く〔諸侯に〕樹立した。石崇は散騎郎であった蜀郡の何攀と共同で議を立て、恵帝に上奏した、「陛下の聖なる徳はくまなく行きわたり、輝かしい霊力は幸運を切りひらいています。位を東宮にお就きになられてから二十余年、教化は流布し、万国が心を寄せております。このたび帝業をお継ぎになられたのは、天の定めでしょう。褒賞を頒布し、封爵を授与することにかんしてですが、〔このたびの規模は〕泰始はじめの革命のときよりも盛大です。これがひとつめの不安です。呉会地方(呉と会稽。孫呉のこと)の僭越はほぼ百年に及びましたが、辺境は呉の害毒をこうむり、朝廷(中央政府)は呉のために食事の時間がずれ込むほど仕事に忙殺されました。先帝が聡明なるご決断をご自分の強い意志でお下しになり、神妙なる武略を発揮なされたので、枯れ木を砕くよりも容易に、罪から逃れていた賊を滅ぼすことができました。しかるに〔先帝おひとりの力だけではなく、〕謀臣や猛将にも、知恵を振り絞り、武力を出し尽くした功績があったのです。それなのに、このたびの恩恵の封爵は呉を滅ぼした功績よりも盛大です。これがふたつめの不安です。天帝のひいきと手助けはまことに大晋へ向けられており、約束された朝命の年数はいまだにわからないほどです。このたび創設した〔即位時に封爵を賜与するという〕法制は、当然ながら後世に伝えられるでしょう。かりに尊卑の別なく一律に、爵を必ず昇格させてしまえば、〔わが朝は無限に存続するのですから、〕数世代後には誰もがことごとく公や侯になっていることでしょう。これがみっつめの不安です。臣らは不遜を承知であえて申しあげました。愚考しますに、泰始はじめの革命時や孫呉平定時における論功行賞は、規定や名簿がすべて詳細に残っています。たとえはるか昔の規範に依拠することは不可能だとしましても、ひと昔前の故事には準拠なさいますよう、お願い申しあげます」。議は奏上されたが、採用されなかった37この封爵賜与のバラまきにかんして、巻四〇、楊駿伝には「依魏明帝即位故事、遂大開封賞、欲以悦衆」とあり、いちおう近代の故事(「魏明帝即位故事」)に依拠はしていたらしい。あるいは石崇らの批判を受けて参照する故事を持ち出したのかもしれない。。地方に出て南中郎将、荊州刺史、領南蛮校尉となり、鷹揚将軍を加えられた。石崇が南方に赴任しているあいだ、鴆(伝承上の毒のある鳥)のヒナを手に入れたので、後軍将軍の王愷に贈った。当時の法では、鴆は長江を越えて持ち出すことが禁じられていたため、司隷校尉の傅祗から弾劾された。詔が下って石崇を赦し、鴆を都街(洛陽の大通り)で焼いた。
 石崇は聡明で才気があったが、任侠気質で品行に欠けていた。荊州赴任中、長距離の使者や行商人を拉致し、数えきれないほどの富を築いた。中央に召されて大司農となったが、徴集の文書が届く前にかってに官を離れたため、免官となった。しばらくすると、太僕に任じられ、〔ついで〕地方に出て征虜将軍、仮節、監徐州諸軍事となり、下邳に出鎮した。石崇は河陽の金谷、別名を梓沢という場所に別荘をもっていた。〔徐州赴任時に〕見送る者は都を傾けるほど大勢集まったので、金谷の別荘で野外に帳を張り、送別の宴会を開いた38このとき詩会も催されており、その情景は石崇の「金谷詩序」に描かれている(『世説新語』品藻篇、第五七章の劉孝標注などに引)。潘岳「金谷集作詩」(『文選』巻二〇)はこのときの作品。。鎮(徐州)に到着すると、徐州刺史の高誕と酒席で口論になり、たがいに罵りあったところ、軍司に弾劾され、免官された。ふたたび〔起家して〕衛尉に任じられ、潘岳とともに賈謐にへつらって仕えた。賈謐は石崇らと仲が善く、〔石崇をはじめとする親しい取り巻きを〕「二十四友」と号した。広城君(賈謐の祖母・賈后の母)が外出するたびに、石崇は車を下りて道路の左に避け、〔広城君の車が巻き上げる〕塵を眺めながら拝礼した。彼の卑屈迎合ぶりはこのような類いであった。
 〔石崇は〕財産が豊かで、家屋は広大美麗であった。奥の寝室(婦人の部屋)は百を数え、女性はみな刺繍のある薄絹の服を着て、金と翡翠でできた耳飾りを付けていた。糸竹(音楽器)は当代の選りすぐりをそろえ、食事は水陸の珍味を究めていた。貴戚(高貴な外戚)である王愷や羊琇といった連中39王愷は文帝皇后・王氏の弟、羊琇は景帝皇后・羊氏の従父弟。と奢侈を競い合っていた。王愷は〔水の代わりに〕水あめで釜をすすぎ40原文「愷以【米台】澳釜」。『資治通鑑』巻八一、太康三年正月は同じ。『世説新語』汰侈篇、第四章は「王君夫以【米台】糒澳釜」に作る。[川勝ほか一九六四]は「乾飯(ほしいい)で釜をたきつけると」、[井波二〇一四D]は「乾飯で釜を炊くと」と訳出している。どちらも「【米台】」を単独で読まずに「【米台】糒」と熟して読んで「乾飯」の意で取り(すなわち「【米台】」を「飴」とは解さず)、「澳」は「炊く」の意とする。後文を勘案してこのように解釈したのだろうが、疑問も残る。『資治通鑑』胡三省注は「【米台】」を「餳」(水あめ)とし、「澳」を「今台・明謂以水沃釜為澳鑊」と言い、「洗う」の意味だと注している。これをふまえ、『世説新語』徐震堮注は「謂以餳糖和飯擦鍋子(水あめと乾飯で釜を拭き洗うことを言う)」と解釈している。『世説新語詞典(修訂本)』もこれに倣って「【米台】」を「飴糖」、「澳」を「擦」とし、『漢語大詞典』は「澳」の義に「刷洗」を載せ、その用例に『世説新語』のこの話を挙げている。和刻本は「澳」を「ヌル」と訓じている。
 このように、まず「澳」を「炊く」「熱する」などの意味で読める根拠が不明で、『資治通鑑』胡注をはじめとする解釈が一般的ではないかと思われる。「【米台】」についても、「【米台】糒」で熟して「乾飯」の意味で取り、飴のニュアンスを含めないという解釈は、疑問がぬぐえない。そもそも『芸文類聚』巻八〇、燭に引く「世説」には「王君夫【米台】糖澳釜」とあって、「糒」字は誤りである可能性もある。類書に引用されている「世説」も本伝も、どれも飴類・糖類の字を使用していることは共通しているのだから、水あめ(「【米台】」)の含意こそ重んじるべきであって、逆に乾飯(「糒」)の意は疑ってかかるべきであろう。さしあたり、ここでは『資治通鑑』胡注や『世説新語詞典』に従って訳出することにした。案ずるに、洗うときに水の代わりに水あめを流し注いだという話だろう。
、石崇は薪木の代わりに蝋をくべた。王愷が紫に染めた絹布で四十里の歩障41身分の高い人や権力者が外出するとき、風やほこりをさけるために用いる囲い幕。(『漢辞海』)を製作すると、石崇は錦で五十里の歩障を製作して王愷に対抗した。石崇が家屋に山椒を塗り込むと42山椒を壁に塗り込むと、暖気と芳香の効果があるという。『漢書』巻六六、車千秋伝「未央椒房」の顔師古注に「椒房、殿名、皇后所居也。以椒和泥塗壁、取其温而芳也」とある。山椒を香辛料や薬用としては使用せず、家屋の塗料として使用したという意味で奢侈だと言いたいのだろうか。、王愷は赤石脂(しゃくせきし)43漢方薬の名称。赤色の陶土。五石散の原料としても用いられるらしい。止血や止瀉に効能があるというが、壁に塗り込むとどういう効果があるのかはわからない。服用薬を塗装に使ったという意味で贅沢だという話か。を用いた。石崇と王愷が豪勢を競い合うさまはこのようであった。武帝はいつも王愷に助太刀していたが、あるときは珊瑚樹44原文まま。実際に「珊瑚樹」という名称の樹木も存在するようだが、ここの場合は珊瑚のこと。「珊瑚の形が樹木に似ていることにちなんで、こう呼んだ(因其形似樹、故称)」(『漢語大詞典』)。を王愷に賜い、その高さは二尺ほどで、枝が茂り、世にまたとない逸品であった。王愷がそれを石崇に見せると、石崇はにわかに鉄の如意棒でこれをぶち叩き、棒が振るわれたと同時に粉々になってしまった45原文「応手而砕」。「応手」は直訳すると「手の動きに合わせて」。技芸が熟達していることの比喩表現としてよく用いられる。ここでは「見事な一撃によって一瞬で粉々になってしまった」という意味あいだと思われる。。王愷は残念がると同時に、「石崇のヤツはオレの宝に嫉妬しやがったんだ」と思い、顔を怒らせ、声を怒鳴りあげた。石崇は「そんなに恨むまでもありませんよ。いま卿にお返ししますから」と言うと、左右の者たちに命じ、珊瑚樹を全部持って来させた。高さ三、四尺のものが六、七本あり、枝と幹はこの世のものとは思えない美しさで、日光を照り返して光り輝き、王愷の珊瑚樹に匹敵するものがひじょうにたくさんあった。王愷は呆気にとられて放心してしまった。
 石崇は訪問客のために豆粥(豆入りの粥)をふるまっていたが、あっという間に用意していた46後文でも説明されているが、豆は茹であがるまでに時間がかかるらしい(訳者には経験的知識がないのでよくわからない)。調理に時間がかかるはずの料理を短時間で出していたというわけである。。〔また石崇は、〕毎歳冬にはニラとウキクサのあえものを入手していた47ウキクサは「秋になると姿を消し、春に再び現れる」(ウィキペディア――二〇二二年十二月七日最終閲覧)という。冬のウキクサは珍味ということなのだろう。。またある日、石崇が王愷と外出したとき、〔帰りに〕洛陽城まで競争したところ、石崇の牛は鳥類のように速く、王愷はまったく追いつけなかった。王愷はいつもこの三件を根にもっていたので、石崇の帳下48原文まま。侍従の者を指すのであろう。『世説新語』汰侈篇、第五章は「帳下都督及御車人」に作る。にこっそりと賄賂を渡し、これらの理由を訊ねてみた。すると答えて言った、「豆は煮あがるのにとても時間がかかるので、茹でて十分に熱が通ったもの49原文「熟末」。『世説新語』汰侈篇、第五章も同じ。[川勝ほか一九六四]、[井波二〇一四D]、『世説新語詞典(修訂本)』は「末」字を粉末の意味で取っている。『漢語大詞典』は「熟末」を「煮て十分に熱が通った食べ物を指す(指煮得爛熟的食物)」とし、「末」を粉末とは取っていない。『太平御覧』巻八五九、麋粥に引く「語林」には「石崇為客作豆粥、咄嗟便辦。王愷乃密貨崇帳中都督、曰、『豆難煮、唯豫作熟豆、以白粥投之』」とあり、たんに「熟豆」とある。思うに、粉末にした豆を入れてしまっていたらタネはすぐにわかりそうなものだし、そういう意味での豆粥が短時間で出てきたから驚いているわけではないように思われる。そもそも「豆粥」でイメージされる料理は、豆のふりかけがかけられた粥というよりも、まるごとの豆が混ぜられた粥であろう。「末」は粉末状態ではなく、粒ひとつひとつに分けられた状態を指すのではないだろうか。とりあえずここでは『漢語大詞典』に従って訳出した。を下準備しておき、客が来たら白粥(白米のみの粥)を作ってそれを投入するだけです。ニラとウキクサのあえものは、ニラの根をすりつぶして麦の苗に混ぜただけですね。牛の走りは〔もともと〕遅くありませんが、〔遅いのは〕じつに御者が急き立てることに原因があり、かえって制御する必要はないのです50原文「良由馭者逐不及反制之」。よくわからない。『世説新語』汰侈篇、第五章は「由将車人不及制之爾」に作る。「良由馭者逐、不及反制之」と句読して訳出してみた。。〔両側の〕ながえを片方にすれば速くなります51原文「可聴蹁轅則駃矣」。この文もよくわからない。『世説新語』汰侈篇、第五章は「急時聴偏轅、則駛矣」に作る。「蹁」は『世説新語』に従い「偏」の意で読んだ。」。かくして、ことごとく言うとおりにしてみると、ついに〔石崇に対抗できるようになって〕上下を競うようになった。石崇は後日、このわけを知ると、密告した者を殺してしまった。
 あるとき、王敦といっしょに太学に遊びに入ったが、顔回と原憲の肖像画を見かけると、王敦のほうを向いて嘆息して言った、「もしあのひとたちといっしょに孔子の学堂に登校できたら、〔自分は〕きっとあのひとたちと差はなかっただろうに」。王敦、「余人(ほかの孔子の弟子)と比べてどうかはわからないが、子貢は卿にやや近いと思うぞ」。石崇は顔つきを正して言った、「男士は身体(内実)も名声(外面)もどちらもどっしりしていないといけない。どうして甕(かめ)の窓にする必要があろうか52原文「何至甕牖哉」。原憲は貧しく、割れた甕の口を壁にはめ込んで牖(まど)にしていたという。」。彼の立志はこのようであった53『世説新語』汰侈篇、第一〇章、略同。[井波二〇一四D]の解説が的確である。「王敦が石崇に、孔子の高弟のうち、商才があり貨殖に長けていた子貢なら、きみとやや近いところがあると言ったところ、石崇は憤然として、ゆたかな生活をするのは大事なことであり、やはり孔子の高弟で貧乏暮らしをした原憲のようになる必要はない、と言い返す。石崇の贅沢志向が一種の確信にもとづくものであったことを示す言葉である」(一三〇―三一頁)。
 劉輿・劉琨の兄弟は若いころ、王愷から憎まれていた。王愷は兄弟を〔自宅に〕招待して泊まらせると、二人が眠っている機会を利用して地中に生き埋めにしてしまおうとした。石崇はふだんから劉輿らと親密だったが54劉輿と劉琨も「二十四友」のメンバーである。、事変が起きそうだと知ると、夜中に馬を走らせて王愷のもとを訪れ、兄弟の居場所を尋ねた。王愷は突然のことで隠しきれなかった。石崇はまっすぐ奥の部屋へ進んでゆき、〔兄弟を〕探し出すと、車に同乗させて立ち去った。〔車中で石崇は兄弟に〕話して言った、「年少者なのに、どういうわけでかるがるしく他人の家に泊まりに行ったのか」。劉輿は石崇に深く感謝した。
 賈謐が誅殺されると、石崇は賈謐の党派であったことを理由に免官された。当時、趙王倫が専権していたが、石崇の甥(姉妹の子)である欧陽建は趙王と不仲であった。石崇には緑珠という妓女がいた55『芸文類聚』巻三五、婢に引く「又曰」(「世説」)には「崇婢緑珠」とあり、婢女と記載されているが、同義ととらえてよいだろう。。なまめかしい美しさで、笛を吹くのが上手だった。孫秀はひとをつかわして緑珠を要求した。そのとき、石崇は金谷の別荘に滞在しており、ちょうど涼台(涼むための台観)に登り、美しい水流を見下ろしているところで、女性がかたわらに侍っていた。使者が〔孫秀の要求を〕告げると、石崇は数十人の婢女や妾を全員出て来させて使者に見せた。みな蘭麝(らんじゃ)56ランと麝香。すばらしい香料をいう。(『漢辞海』)の香りをまとい、薄織りのちりめんを羽織っていた。石崇が「自由に選びたまえ」57原文「在所択」。『芸文類聚』巻一八、美婦人に引く「干宝晋紀」も同じだが、『世説新語』仇隙篇、第一章の劉孝標注に引く「干宝晋紀」は「任所以択」に作る。「在」だと意味がよくわからないが、「任」(自由にさせる)だと文意がスッキリ通じる。なるべく原文を尊重したいところなのだが、ここは「在」を「任」の誤りとみなして訳出した。と言うと、使者は「君侯の服御58原文まま。干宝『晋紀』(『世説新語』仇隙篇、第一章、劉孝標注引、『芸文類聚』巻一八、美婦人、引、『太平御覧』巻三八〇、美婦人上、引)も同じ。衣服、車馬、器物などの日用品を指す語として多く用いられるが、ここでは婢女や妾といった侍女を指すか。はどれも美しいといえば美しいのですが、しかしもともとはご指示を承って緑珠を探し求めております59原文「本受命指索緑珠」。ニュアンスは伝わるが、厳密に読もうとすると読みにくい。『芸文類聚』巻一八、美婦人および『太平御覧』巻三八〇、美婦人上に引く「干宝晋紀」は「本受旨、索緑珠」に作り、『世説新語』仇隙篇、第一章の劉孝標注に引く「干宝晋紀」は「本受命者、指緑珠也」に作る。『芸文類聚』と『太平御覧』に引く『晋紀』佚文を参照し、「命指」を熟して読み、「指」を「旨」の意で取ることにした。。どのお方が緑珠なのか、お分かりにならないでしょうか60原文「不識孰是」。『世説新語』仇隙篇、第一章の劉孝標注に引く「干宝晋紀」も「未識孰是」とほぼ同じ。このような文は「どれなのかわからない」と読むのが一般的で、その場合、使者が「どのお方が緑珠なのか、見分けがつきません」と言い、暗に教示を乞うている発言として読める。しかし中華書局、および『世説新語』徐震堮校箋本(中華書局)はともに疑問文として読んでおり、それに従うならば、使者が石崇に対して「どのお方が緑珠なのか、お分かりになりませんか」と質問している発言と解釈でき、文脈的にも自然である。疑問文ならば文末に「乎」などの助字が欲しいところに思えるので、疑問文として読むのに抵抗はあるが、ここは文脈を重んじて中華書局に従うことにした。」と言うので、石崇はムッとして、「緑珠はおれの女だ。諦めろ」と言った。使者は「君侯は古今の事柄に博通し、遠近の事情を見抜いておられます。どうかご再考を」と言うも、「してやらねぇ」と石崇。使者は引き下がり、もう一度戻って来たが、石崇はけっきょく承諾しなかった。孫秀は怒り、そこで石崇と欧陽建の誅殺を趙王に勧めた。石崇と欧陽建もひそかにその策謀を察知したため、黄門郎の潘岳と手を組み61欧陽建と潘岳も「二十四友」のメンバーであった。、趙王と孫秀を討滅するよう淮南王允と斉王冏に秘密裏に献策した。孫秀はこの動きに気づき、とうとう矯詔を下して石崇、潘岳、欧陽建らの身柄を確保させた。石崇がちょうど楼上で酒宴を開いていたところに、武装した兵士が門にやって来た。石崇は緑珠に言った、「おまえのせいで罪を得たわ」。緑珠は泣いて言った、「死をもって官(との)に誠意をお見せするほかありません62原文「当効死於官前」。「官」はおそらく石崇を指す。「効死」は「命を捧げて忠節や誠心誠意を誓う」という表現。本伝の場合は「死を捧げて誠意を示す」、平たく言うと「死んでお詫びする」ということであろう。「当」は論理的・情況的に当然しなければならないことを表わす。石崇が自分のせいで罪を得てしまったことに対し、「旦那様の御前で死を捧げて償わなければならない」という意味あいだろう。訳文は意訳した。」。そしてみずから楼の下へ飛び降り、死んでしまった63文脈からある程度推測できるが、このとき石崇がいたのは金谷園ではなく、洛陽の自宅であろう。『洛陽伽藍記』巻一、昭儀尼寺「昭儀寺有池、京師学徒謂之翟泉」の自注に「隠士趙逸云、『此地是晋侍中石崇家池、池南有緑珠楼』。於是学徒始寤、経過者想見緑珠之容也」とあり、『太平寰宇記』巻三、河南府、洛陽県に「石崇宅。有緑珠楼、今謂之狄泉是也」とある。。石崇は「交広(交州と広州。南の辺境)へ流される以上にはならんだろう」と話していたが、乗った車が東市に到着するに及んで、やっと〔死罪を察して〕石崇は嘆息し、「クソ野郎め。わが財産に目がくらみおったか」と言った。逮捕担当者が答えて言った、「財産が禍を招くことを知っていたのなら、なぜさっさと散じなかったのですか」。石崇は答えられなかった。石崇の母、兄、妻子と、少長を問わずみな殺され、死者は十五人に及んだ。石崇は享年五十二であった。
 むかし、石崇の家で、地面に落ちていた稲の飯が一晩経ったらすべて螺に変化していたことがあった。世の人々は、族滅の予兆だとみなしていた。〔石崇の没後、〕有司は〔石崇の財産を調査して〕帳簿に記録したが、水碓は三十余区、蒼頭は八百余人、そのほか珍宝、貨幣、田宅はこれに釣り合う程度の量であった。
 恵帝が復位すると、詔を下し、卿の礼によって石崇を埋葬した。石崇の従孫の石演を楽陵公に封じた。

〔石樸:石苞の曾孫〕

 石苞の曾孫の石樸は字を玄真という。謙虚で篤実な人柄だったが、ほかに才能はなく、胡に没した。石勒は、〔自分が〕石樸と同姓で、二人とも河北出身であることから、石樸を召して宗室とし、特別に優遇を加えた。司徒にまで昇進した。

〔欧陽建:石崇の姉妹の子〕

 欧陽建は字を堅石という。代々、冀州の名族であった。もとより合理的な思考をそなえ、美麗で豊かな文才があり、北州(北中国)で名声を独占していた。世の人々は欧陽建のために評語を立てて言った、「渤海の赫赫たり、欧陽堅石」。公府に辟召され、山陽令、尚書郎、馮翊太守を歴任し、世の名声をすこぶる獲得した。禍に遭うと、彼の死を悼まない者はいなかった64趙王倫とのあいだに嫌隙があったことについては石崇伝にも記載されているが、王隠『晋書』や『晋陽秋』の佚文によると、馮翊太守時代、関中に出鎮した趙王倫をしきりに諫めて糾したことが原因で不仲になったという。『文選』巻二三、欧陽堅石「臨終詩」の李善注に引く「王隠晋書」に「石崇外生欧陽建、渤海人也。為馮翊太守。趙王倫之為征西、撓乱関中、建毎匡正、不従私欲、由是有隙。及乎倫簒立、勧淮南王允誅倫、未行、事覚、倫収崇・建及母・妻、無少長、皆行斬刑」とあり、『世説新語』仇隙篇、第一章の劉孝標注に引く「晋陽秋」に「建為馮翊太守、趙王倫為征西将軍、孫秀為腹心、撓乱関中、建毎匡正、由是有隙」とある。。享年三十余。臨終時に詩を作ったが、その文章はひじょうに悲哀であった65この詩は『文選』巻二三に「臨終詩」と題されて収録されている。ほかに「言尽意論」という論文(『芸文類聚』巻一九、言語、引)も伝わっている。

〔孫鑠:石苞の掾〕

 孫鑠は字を巨鄴といい、河内の懐の人である。若くしてみずから進んで県吏となり66原文「少楽為県吏」。むりやり読んだ。周家禄『晋書校勘記』は「楽」を「録」(任用される)の誤りではないかと疑っている。そうかもしれない。、河内太守の呉奮は主簿に転任させた。孫鑠は卑賤な出自から郡の綱紀職(主簿のこと)に登ったが、名門出身の同僚はそれでもなお孫鑠と同席しようとしなかった。呉奮はおおいに怒り、とうとう孫鑠を司隷校尉の都官従事とするように推薦した。司隷校尉の劉訥は孫鑠の才能を見抜き、おおいに評価した。ときに、呉奮は大司馬の石苞にも孫鑠を推薦していたので、石苞は掾に辟召した。孫鑠は辟召に応じようと思い、出向いて許昌に到着した。そのころ、台(中央政府)はすでに軽装羣をひそかに派遣して、石苞を襲撃するつもりでいた。当時、汝陰王駿(のちの扶風王駿)が許昌に出鎮していたので、孫鑠は汝陰王を訪問して謁見した。汝陰王はすでに孫鑠と面識があり、同郷のよしみから孫鑠に「厄介事に関わってはならぬぞ」と個人的に忠告した67秘密裏に進められていた石苞討伐計画を教えてやり、石苞のもとへ行かないよう忠告したということ。。孫鑠は退出すると、すぐさま馬を走らせて寿春に到着し、石苞のために計略を立てた。石苞はそのおかげで死を免れることができたのである。尚書郎に移り、在任中は十余件の駁議を上呈し、当時の人々から称賛を受けた。

 史臣曰く、(以下略)

王祥(附:王覧)・鄭沖/何曾(附:何劭・何遵)石苞(附:石崇・欧陽建・孫鑠)

(2022/12/27:公開)

  • 1
    原文「県召為吏」。以下の一連の逸話は『三国志』魏書二八、鄧艾伝の裴松之注に引く「世語」にもおおむね同内容で見えているが、『世語』だと石苞は鄧艾とともに襄城典農部民で、二人とも十二、三歳であったという。本伝は石苞を「吏」としたと記しているが、『世語』の記述と整合させれば、この「吏」は典農部民、すなわち屯田民を指すことになる。訳者は屯田制の研究に疎いのだが、たとえば藤家礼之助氏[一九八九]は屯田民の身分について、法制上は庶民扱いであったが、社会的には差別されていたとしている(第二章第一節、注二四)。屯田民を「吏」と呼称しているらしい本伝の記述も重んじれば、屯田民はあるいは半官半民的な地位で、官に給仕する存在ともみなされ、その側面においては「吏」であったということなのかもしれない。また、本伝は「県」が石苞を召したと記述しているが、この「県」は石苞の出身地・南皮県を指すかのごとくに文脈上は読める。しかし前述のように、『世語』だと石苞らは襄城典農に所属していたとされる。襄城はもともと潁川の属県で、後漢末以降は典農が置かれていたが、ともかく渤海南皮とは大きく離れている場所である。鄧艾伝本伝によると、鄧艾は十二歳のときに潁川へ移住しており、その年齢のころに襄城典農部民であったという『世語』の記述と矛盾しない。これをふまえると、以下の逸話の舞台は潁川方面と考えるのが妥当であろう。石苞は実際には南皮から潁川方面へ移住しており、移住先の「県」から「吏」に召されたのだが、本伝は編纂過程で移住のくだりを省いてしまった、という次第なのかもしれない。
  • 2
    『三国志』鄧艾伝の裴松之注に引く「世語」だと「典農司馬」となっている。『世語』が正しい。
  • 3
    『三国志』魏書四、高貴郷公紀、甘露五年五月の裴松之注に引く「世語」によると、魏の青龍年間、石苞は長安で鉄を売っていたときに宣帝と面識を得たという。面識はあっても、石苞の人柄までは宣帝も把握していなかったということなのかもしれない。
  • 4
    『三国志』高貴郷公紀、甘露五年五月の裴松之注に引く「世語」だと次のように記されている。文帝は退出後の石苞にこちらにも立ち寄るように言いつけ、訪ねてきた石苞に「なぜ長く滞在していたのか」と質問し、それに対し石苞が「非凡な君主だからです」と答えた、と。
  • 5
    『三国志』呉書一〇、丁奉伝に「〔丁〕奉与晋大将石苞書、搆而間之、苞以徴還」とあり、このことを指しているのであろう。
  • 6
    原文「苞亦聞呉師将入」。「聞」は聞く、知るの意味で取ったが、奏聞の意で読むべきなのかもしれない。
  • 7
    武帝の思考過程がよくわからないが、石苞が晋軍の事情を呉軍に漏らしているから呉軍はいつも東西同時に侵攻できているのだ、と言いたいのだろうか。
  • 8
    原文「放兵歩出、住都亭待罪」。『資治通鑑』巻七九、泰始四年の胡三省注はこの都亭を「寿春都亭也」という。
  • 9
    『周礼』によれば、司徒は教典をつかさどる教化の官である。
  • 10
    原文「前有折撓」。直前の騒動を指しているのであろう。
  • 11
    原文「使不得越逸」。「越逸」は『三国志』や南北朝の史書の用例だと、逃亡の意味で使われていることが多い。ここで武帝は「どうせ呉軍は何もできやしない」と言い、守備を固めるだけで十分だと言っているのだから、「襲来した呉軍が逃げられないようにする」という意味ではなく、「自軍の守備兵が脱走してしまわないようにする」と言いたいのではないだろうか。とりあえずこの解釈で訳出してみた。
  • 12
    原文「古者稼穡樹蓺、司徒掌之」。『周礼』地官、大司徒に「辨十有二壤之物、而知其種、以教稼穡樹蓺」とあるのを言うのであろう。
  • 13
    原文「雖登論道」。「論道」は三公の職掌としてしばしば言及される仕事だが、ここではとくに「古之三公、坐而論道」(『三国志』魏書一六、杜畿伝)という旨の記載をふまえて訳出した。
  • 14
    原文「乃心王事」。『尚書』康王之誥篇「乃心罔不在王室」をつづめた「乃心王室」(王室に忠誠を尽くす)が一般によく見られる表現なので、本伝の「事」は誤りかもしれない。
  • 15
    原文「毀家紓国」。『左伝』荘公三十年に「闘穀於菟為令尹、自毀其家、以紓楚国之難」とあるのにもとづく表現。長年辺境で任務に当たりつつ、粗相を犯した子の石喬を生涯謹慎させたこと(あとの附伝を参照)を言っているのかもしれない。
  • 16
    原文「乾乾匪躬之志」。「乾乾」は『易』乾、九三の爻辞「君子終日乾乾、夕惕若厲」、「匪躬」は『易』蹇、六二の爻辞「王臣蹇蹇、匪躬之故」がそれぞれ出典。
     以上の「乃心王事」(帝王の事業に忠誠を尽くし)からここまでの文は司徒に一般に求められる資質を言っているのか、それとも石苞個人の資質を言っているのか判然としないが、さしあたり石苞個人について述べた文と解釈した。
  • 17
    原文「垂拱仰辦」。「仰辦」は用例も少なく、よくわからないが、文脈から判断すれば「取り計らいに任せる」という意味であろう。
  • 18
    『宋書』巻三九、百官志上によれば、晋初の公府は掾属五人。
  • 19
    原文まま。詳細不明。
  • 20
    原文「列於銘饗」。「銘饗」は「名を列記されて祀られることを言う(謂列名受祭)」(『漢語大詞典』)。晋朝の元勲として祀られたということ。巻三、武帝紀、咸寧元年八月に記述がある。
  • 21
    原文「自今死亡者」。この直後に「皆」とも出てくるが、おそらく石苞個人だけでなく、将来の子孫も含めて家族の成員はすべてこの言いつけを守るようにとの訓戒なのであろう。
  • 22
    楊王孫のこの話は『漢書』巻六七の列伝に記されている。
  • 23
    上述の石苞の言いつけのことを指している。
  • 24
    この一件は石苞伝にも記載されている。石苞は魏末以来寿春に駐屯していたが、孫呉と通じているとの密告があり、武帝は疑心を抱いていた。ちょうどそのころにこの石喬の件があったため、疑いを強めたのだという。
  • 25
    宮門のこと。転じて宮殿を指す。
  • 26
    原文「出入清顕」。「清顕」は清官・顕官で、エリートコースの官を指す。「出入」は外と内の意味で取ってみた。つまり、地方でも中央でもエリート官を授かったことを言っているのではないだろうか。
  • 27
    原文「董司直縄」。「董司」は監督する、統べまとめるという意味での用例がほとんどだが、その意味だと本文が通じない。「董」字には「正しくする」(『漢辞海』)の意味あいもあるらしいので、ここでは「監察の官職」と解釈することにした。「直縄」は「法にもとづいて糾弾する」。ようするに二つの語は同じ意味で、法にのっとって不正を検挙する官職のことを言う。
  • 28
    原文「抱枉含謗、不得不輸其理」。よく読めない。「輸其理」は「申理」と同じ意味だと思うが、そうなると「自己弁護を一言もせずにただ待っていた」と言っていた前文と齟齬が生じてしまう。古人の俚諺との文脈上のつながりもわからない。不本意だが、「輸」は「別の場所に移す」という含意があるので、これを考慮して「手放す」という意味あいで読んでみた。
  • 29
    〔尚書などを経由せずに〕宮中から直接発出された皇帝直筆の詔。(宮中直接発出的帝王親筆詔令。)(『漢語大詞典』)
  • 30
    原文「臣等刻肌砕首、未足上報」。「砕首」は首を斬るの意で、つまり「死んでも感謝しきれない」という表現であろう。その意を汲んで意訳した。そうすると「刻肌」も「粉骨砕身」の意で取ったほうがいいのかもしれないが、ここではいわゆる「骨身に刻む」の意で訳出した。
  • 31
    原文「伏度奏御之日、暫経天聴」。自信はないが、「暫」を「即座に」の意で取った。
  • 32
    自宅軟禁と宮中出入禁止の二つの意味があるが、後者は光禄勲の権限で下される処置であるから、本伝は前者の意か。巻三三、何曾伝附何劭伝の訳注を参照。
  • 33
    原文「理尽」。自信はない。「言葉を失った」と言いたいのだろうか。
  • 34
    原文「不能負載析薪、以答万分」。『左伝』昭公七年「古人有言曰、『其父析薪、其子弗克負荷』」にもとづく。父の仕事が子にとっては重荷であること。転じて父の仕事の継承が困難であることの比喩。
  • 35
    『論語』八佾篇の話にもとづく。王孫賈が「『奥の間の神よりもかまどの神に媚びよ』という俚諺はどういう意味だろうか」と孔子にたずねた。こういう言い方によって、衛の近臣よりも執政者である自分の機嫌を取るように孔子に要求したのである。孔子は「天(君主)に対して罪を得てしまったら祈る神はない」と言ってこの要求をはねつけた。というもの。
  • 36
    『漢書』巻三〇、芸文志、諸子略、墨家者流に記録されている著作。随巣子は墨子の弟子だと注記されている。
  • 37
    この封爵賜与のバラまきにかんして、巻四〇、楊駿伝には「依魏明帝即位故事、遂大開封賞、欲以悦衆」とあり、いちおう近代の故事(「魏明帝即位故事」)に依拠はしていたらしい。あるいは石崇らの批判を受けて参照する故事を持ち出したのかもしれない。
  • 38
    このとき詩会も催されており、その情景は石崇の「金谷詩序」に描かれている(『世説新語』品藻篇、第五七章の劉孝標注などに引)。潘岳「金谷集作詩」(『文選』巻二〇)はこのときの作品。
  • 39
    王愷は文帝皇后・王氏の弟、羊琇は景帝皇后・羊氏の従父弟。
  • 40
    原文「愷以【米台】澳釜」。『資治通鑑』巻八一、太康三年正月は同じ。『世説新語』汰侈篇、第四章は「王君夫以【米台】糒澳釜」に作る。[川勝ほか一九六四]は「乾飯(ほしいい)で釜をたきつけると」、[井波二〇一四D]は「乾飯で釜を炊くと」と訳出している。どちらも「【米台】」を単独で読まずに「【米台】糒」と熟して読んで「乾飯」の意で取り(すなわち「【米台】」を「飴」とは解さず)、「澳」は「炊く」の意とする。後文を勘案してこのように解釈したのだろうが、疑問も残る。『資治通鑑』胡三省注は「【米台】」を「餳」(水あめ)とし、「澳」を「今台・明謂以水沃釜為澳鑊」と言い、「洗う」の意味だと注している。これをふまえ、『世説新語』徐震堮注は「謂以餳糖和飯擦鍋子(水あめと乾飯で釜を拭き洗うことを言う)」と解釈している。『世説新語詞典(修訂本)』もこれに倣って「【米台】」を「飴糖」、「澳」を「擦」とし、『漢語大詞典』は「澳」の義に「刷洗」を載せ、その用例に『世説新語』のこの話を挙げている。和刻本は「澳」を「ヌル」と訓じている。
     このように、まず「澳」を「炊く」「熱する」などの意味で読める根拠が不明で、『資治通鑑』胡注をはじめとする解釈が一般的ではないかと思われる。「【米台】」についても、「【米台】糒」で熟して「乾飯」の意味で取り、飴のニュアンスを含めないという解釈は、疑問がぬぐえない。そもそも『芸文類聚』巻八〇、燭に引く「世説」には「王君夫【米台】糖澳釜」とあって、「糒」字は誤りである可能性もある。類書に引用されている「世説」も本伝も、どれも飴類・糖類の字を使用していることは共通しているのだから、水あめ(「【米台】」)の含意こそ重んじるべきであって、逆に乾飯(「糒」)の意は疑ってかかるべきであろう。さしあたり、ここでは『資治通鑑』胡注や『世説新語詞典』に従って訳出することにした。案ずるに、洗うときに水の代わりに水あめを流し注いだという話だろう。
  • 41
    身分の高い人や権力者が外出するとき、風やほこりをさけるために用いる囲い幕。(『漢辞海』)
  • 42
    山椒を壁に塗り込むと、暖気と芳香の効果があるという。『漢書』巻六六、車千秋伝「未央椒房」の顔師古注に「椒房、殿名、皇后所居也。以椒和泥塗壁、取其温而芳也」とある。山椒を香辛料や薬用としては使用せず、家屋の塗料として使用したという意味で奢侈だと言いたいのだろうか。
  • 43
    漢方薬の名称。赤色の陶土。五石散の原料としても用いられるらしい。止血や止瀉に効能があるというが、壁に塗り込むとどういう効果があるのかはわからない。服用薬を塗装に使ったという意味で贅沢だという話か。
  • 44
    原文まま。実際に「珊瑚樹」という名称の樹木も存在するようだが、ここの場合は珊瑚のこと。「珊瑚の形が樹木に似ていることにちなんで、こう呼んだ(因其形似樹、故称)」(『漢語大詞典』)。
  • 45
    原文「応手而砕」。「応手」は直訳すると「手の動きに合わせて」。技芸が熟達していることの比喩表現としてよく用いられる。ここでは「見事な一撃によって一瞬で粉々になってしまった」という意味あいだと思われる。
  • 46
    後文でも説明されているが、豆は茹であがるまでに時間がかかるらしい(訳者には経験的知識がないのでよくわからない)。調理に時間がかかるはずの料理を短時間で出していたというわけである。
  • 47
    ウキクサは「秋になると姿を消し、春に再び現れる」(ウィキペディア――二〇二二年十二月七日最終閲覧)という。冬のウキクサは珍味ということなのだろう。
  • 48
    原文まま。侍従の者を指すのであろう。『世説新語』汰侈篇、第五章は「帳下都督及御車人」に作る。
  • 49
    原文「熟末」。『世説新語』汰侈篇、第五章も同じ。[川勝ほか一九六四]、[井波二〇一四D]、『世説新語詞典(修訂本)』は「末」字を粉末の意味で取っている。『漢語大詞典』は「熟末」を「煮て十分に熱が通った食べ物を指す(指煮得爛熟的食物)」とし、「末」を粉末とは取っていない。『太平御覧』巻八五九、麋粥に引く「語林」には「石崇為客作豆粥、咄嗟便辦。王愷乃密貨崇帳中都督、曰、『豆難煮、唯豫作熟豆、以白粥投之』」とあり、たんに「熟豆」とある。思うに、粉末にした豆を入れてしまっていたらタネはすぐにわかりそうなものだし、そういう意味での豆粥が短時間で出てきたから驚いているわけではないように思われる。そもそも「豆粥」でイメージされる料理は、豆のふりかけがかけられた粥というよりも、まるごとの豆が混ぜられた粥であろう。「末」は粉末状態ではなく、粒ひとつひとつに分けられた状態を指すのではないだろうか。とりあえずここでは『漢語大詞典』に従って訳出した。
  • 50
    原文「良由馭者逐不及反制之」。よくわからない。『世説新語』汰侈篇、第五章は「由将車人不及制之爾」に作る。「良由馭者逐、不及反制之」と句読して訳出してみた。
  • 51
    原文「可聴蹁轅則駃矣」。この文もよくわからない。『世説新語』汰侈篇、第五章は「急時聴偏轅、則駛矣」に作る。「蹁」は『世説新語』に従い「偏」の意で読んだ。
  • 52
    原文「何至甕牖哉」。原憲は貧しく、割れた甕の口を壁にはめ込んで牖(まど)にしていたという。
  • 53
    『世説新語』汰侈篇、第一〇章、略同。[井波二〇一四D]の解説が的確である。「王敦が石崇に、孔子の高弟のうち、商才があり貨殖に長けていた子貢なら、きみとやや近いところがあると言ったところ、石崇は憤然として、ゆたかな生活をするのは大事なことであり、やはり孔子の高弟で貧乏暮らしをした原憲のようになる必要はない、と言い返す。石崇の贅沢志向が一種の確信にもとづくものであったことを示す言葉である」(一三〇―三一頁)。
  • 54
    劉輿と劉琨も「二十四友」のメンバーである。
  • 55
    『芸文類聚』巻三五、婢に引く「又曰」(「世説」)には「崇婢緑珠」とあり、婢女と記載されているが、同義ととらえてよいだろう。
  • 56
    ランと麝香。すばらしい香料をいう。(『漢辞海』)
  • 57
    原文「在所択」。『芸文類聚』巻一八、美婦人に引く「干宝晋紀」も同じだが、『世説新語』仇隙篇、第一章の劉孝標注に引く「干宝晋紀」は「任所以択」に作る。「在」だと意味がよくわからないが、「任」(自由にさせる)だと文意がスッキリ通じる。なるべく原文を尊重したいところなのだが、ここは「在」を「任」の誤りとみなして訳出した。
  • 58
    原文まま。干宝『晋紀』(『世説新語』仇隙篇、第一章、劉孝標注引、『芸文類聚』巻一八、美婦人、引、『太平御覧』巻三八〇、美婦人上、引)も同じ。衣服、車馬、器物などの日用品を指す語として多く用いられるが、ここでは婢女や妾といった侍女を指すか。
  • 59
    原文「本受命指索緑珠」。ニュアンスは伝わるが、厳密に読もうとすると読みにくい。『芸文類聚』巻一八、美婦人および『太平御覧』巻三八〇、美婦人上に引く「干宝晋紀」は「本受旨、索緑珠」に作り、『世説新語』仇隙篇、第一章の劉孝標注に引く「干宝晋紀」は「本受命者、指緑珠也」に作る。『芸文類聚』と『太平御覧』に引く『晋紀』佚文を参照し、「命指」を熟して読み、「指」を「旨」の意で取ることにした。
  • 60
    原文「不識孰是」。『世説新語』仇隙篇、第一章の劉孝標注に引く「干宝晋紀」も「未識孰是」とほぼ同じ。このような文は「どれなのかわからない」と読むのが一般的で、その場合、使者が「どのお方が緑珠なのか、見分けがつきません」と言い、暗に教示を乞うている発言として読める。しかし中華書局、および『世説新語』徐震堮校箋本(中華書局)はともに疑問文として読んでおり、それに従うならば、使者が石崇に対して「どのお方が緑珠なのか、お分かりになりませんか」と質問している発言と解釈でき、文脈的にも自然である。疑問文ならば文末に「乎」などの助字が欲しいところに思えるので、疑問文として読むのに抵抗はあるが、ここは文脈を重んじて中華書局に従うことにした。
  • 61
    欧陽建と潘岳も「二十四友」のメンバーであった。
  • 62
    原文「当効死於官前」。「官」はおそらく石崇を指す。「効死」は「命を捧げて忠節や誠心誠意を誓う」という表現。本伝の場合は「死を捧げて誠意を示す」、平たく言うと「死んでお詫びする」ということであろう。「当」は論理的・情況的に当然しなければならないことを表わす。石崇が自分のせいで罪を得てしまったことに対し、「旦那様の御前で死を捧げて償わなければならない」という意味あいだろう。訳文は意訳した。
  • 63
    文脈からある程度推測できるが、このとき石崇がいたのは金谷園ではなく、洛陽の自宅であろう。『洛陽伽藍記』巻一、昭儀尼寺「昭儀寺有池、京師学徒謂之翟泉」の自注に「隠士趙逸云、『此地是晋侍中石崇家池、池南有緑珠楼』。於是学徒始寤、経過者想見緑珠之容也」とあり、『太平寰宇記』巻三、河南府、洛陽県に「石崇宅。有緑珠楼、今謂之狄泉是也」とある。
  • 64
    趙王倫とのあいだに嫌隙があったことについては石崇伝にも記載されているが、王隠『晋書』や『晋陽秋』の佚文によると、馮翊太守時代、関中に出鎮した趙王倫をしきりに諫めて糾したことが原因で不仲になったという。『文選』巻二三、欧陽堅石「臨終詩」の李善注に引く「王隠晋書」に「石崇外生欧陽建、渤海人也。為馮翊太守。趙王倫之為征西、撓乱関中、建毎匡正、不従私欲、由是有隙。及乎倫簒立、勧淮南王允誅倫、未行、事覚、倫収崇・建及母・妻、無少長、皆行斬刑」とあり、『世説新語』仇隙篇、第一章の劉孝標注に引く「晋陽秋」に「建為馮翊太守、趙王倫為征西将軍、孫秀為腹心、撓乱関中、建毎匡正、由是有隙」とある。
  • 65
    この詩は『文選』巻二三に「臨終詩」と題されて収録されている。ほかに「言尽意論」という論文(『芸文類聚』巻一九、言語、引)も伝わっている。
  • 66
    原文「少楽為県吏」。むりやり読んだ。周家禄『晋書校勘記』は「楽」を「録」(任用される)の誤りではないかと疑っている。そうかもしれない。
  • 67
    秘密裏に進められていた石苞討伐計画を教えてやり、石苞のもとへ行かないよう忠告したということ。
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