巻六 帝紀第六 元帝(1)

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元帝(1)元帝(2)明帝

 元皇帝は諱を睿、字を景文といい、宣帝の曾孫で、琅邪恭王覲の子である。咸寧二年、洛陽で生まれたとき、不思議な光が一室をあまねく照らし、敷いていたワラが刈りたてのようになった、ということがあった。成長すると、白く細長い毛が日角1額の中央の骨が日の形に隆起している人相。帝王の骨相。(『漢辞海』)の左に生え、鼻筋が高く、龍顔2眉の骨が高くもり上がった骨相。(『漢辞海』)で、瞳には光がやどり、そのまなざしには輝きがそなわっていた。十五歳のとき、琅邪王の位を継いだ。幼少から名声をあげていた。恵帝の治世中、王室には事件が多かったが、元帝はいつも慎ましく謙遜していたので、禍から逃れることができた。冷静かつ聡明で、度量があったが、輝かしい実績を世にあらわさなかったため、世の人々にはまだ知られていなかった。ただ侍中の嵆紹だけが評価し、人々に語っていた、「琅邪王の毛髪や骨格は普通ではなく、おそらく人臣の相貌ではないだろう」3才能とか人柄ではなくてけっきょく容貌かよ!という意味。
 元康二年、員外散騎常侍に任命された4『北堂書鈔』巻五八、通直散騎常侍「日新匪懈」に引く「晋起居注」に「恵帝永寧元年、詔曰、『散騎常侍・琅邪王睿、識清才、日新匪懈、宜在機近以言者、其令睿為通直』」とあり、『晋書斠注』は員外散騎常侍から通直散騎常侍へ移ったのだろうと推測している。。昇進を重ねて左将軍に移り5『魏書』巻九六、僭晋司馬叡伝では「頻遷射声・越騎校尉、左・右軍将軍」とあり、本伝では「累遷」として省かれてしまった歴官も記載されており、かつ左将軍ではなく左軍将軍としている。、成都王穎への親征に従軍した。〔恵帝軍が〕蕩陰で敗北を喫すると、叔父の東安王繇が成都王に殺された。元帝は禍が自分に及ぶのを恐れ、〔鄴から〕逃げ出そうとした。逃亡予定の日の夜は月が明るく、しかも禁衛兵の警備が厳重だったので、元帝は逃走可能な経路を失い、おおいに悲嘆していた。〔ところが〕しばらくすると、雲霧が垂れ込んで真っ暗になり、雷雨がにわかに起きたので、警備はみな仕事を怠けるようになり、これによって〔元帝は〕こっそり抜け出ることができたのである。成都王は諸所の関所に、貴人を通してはならないと事前に命令を出していた。〔そのため〕元帝が河陽に到着すると、津吏に止められてしまった。〔そこに〕従者の宋典が遅れてやって来ると、元帝の馬に鞭をうち、笑って言った、「舎長6『漢語大詞典』には「宿泊所の警衛責任者(守護客館的負責人)」という意味が掲載され、本文が用例に挙げられている。しかし『漢語大詞典』は用例に挙げていないが、『史記』巻七五、孟嘗君列伝には「伝舎長(伝舎の長)」すなわち「宿舎の長」という語がみえており、「舎長」もそういう意味で使用されているように思えなくもない。とはいえ、どちらにしても「オヤジ」のような庶民間におけるくだけた呼び方としてここでは用いられているのであろう。よ。役人は貴人の通行を禁止しているそうだが、お前まで捕まっちまったのかい」。そうしてようやく、津吏は通行を許可した。洛陽に着くと、琅邪王太妃(元帝の母)を迎え、いっしょに封国へ戻った7『文選』巻三七、劉越石「勧進表」の李善注に引く「王隠晋書」に「永興元年、就国」とあり、帰国は永興元年のことだと思われる。この逸話は『晋中興書』(『太平御覧』巻四九四、詭詐、引、および『芸文類聚』巻一三、晋元帝、引)と蕭方等『三十国春秋』(『太平御覧』巻三五九、鞭、引)にも見えている。
 東海王越が兵を下邳で徴集すると、元帝に輔国将軍を授けた。ほどなく平東将軍、監徐州諸軍事を加えられ、下邳に出鎮した。まもなく安東将軍、都督揚州諸軍事に移った8『文選』巻三七、劉越石「勧進表」の李善注に引く「王隠晋書」によると、永興二年に「加揚州諸軍事」という。また『魏書』僭晋司馬叡伝には「尋加安東将軍・都督揚州諸軍事・仮節、当鎮寿陽、且留下邳」とあり、寿陽に出鎮するべきところであったが、そのまま下邳に留まっていたのだという。なお懐帝紀、永嘉元年七月に、「以平東将軍、琅邪王睿為安東将軍、都督揚州江南諸軍事、仮節、鎮建鄴」とあり、、元帝に安東将軍を授けたのは永嘉元年のこととしており、『建康実録』巻五、中宗元皇帝も同様である。本文と『魏書』僭晋司馬叡伝は明らかに恵帝末年のこととしており、時系列に異同があるが、詳しくはわからない。。東海王が西に進んで恵帝を迎えようとすると、元帝を下邳に留め、守らせた9『魏書』僭晋司馬叡伝には「及越西迎恵帝、留叡鎮後、平東府事。当遷鎮江東、属陳敏作乱、叡以兵少因留下邳」とあり、本文とやや異にするところもあるが、元帝がそのまま下邳に留まっていたとする点では同じである。。永嘉のはじめ、〔元帝は〕王導の計略を採用し、〔下邳から〕建鄴へはじめて出鎮し10『魏書』僭晋司馬叡伝に「及越西迎恵帝、留叡鎮後、平東府事。当遷鎮江東、属陳敏作乱、叡以兵少因留下邳。永嘉元年春、敏死、秋、叡始到建業」とあり、永嘉元年の春(懐帝紀によると三月)、揚州に割拠していた陳敏が死んだので、同年秋に元帝は建業へ移ることができたという。懐帝紀および『建康実録』中宗元皇帝によると、永嘉元年七月に元帝は安東将軍、都督揚州江南諸軍事を授けられ、建鄴出鎮を命じられている。本文と『魏書』では、これ以前にすでに安東将軍、都督揚州を授けられていたことになっているものの、建業へ移ったのを永嘉元年(の秋)とする点ではすべての史料が一致している。
 ちなみに元帝は、孫呉の太初宮跡地に陳敏が建てた府舎に駐屯したのだという。『建康実録』中宗元皇帝、永嘉元年の条に「秋七月……用王導計渡江、鎮建鄴。討陳敏余党、廓清江表、因呉旧都城、修而居之。太初宮為府舎」とあり、原注に「案、太初宮、本呉之宮。晋平呉後、石氷作乱、焚焼蕩尽。陳敏平石氷、拠揚州、因太初故基、創造府舎、中宗初渡江、因居此地也」とある。
、顧栄を軍司馬とし、賀循を参佐とし、王敦、王導、周顗、刁協をみな腹心股肱11原文のまま。固有名詞なのか不明。とし、名士や賢者を賓客として礼遇し、地域社会を慰問したので、江東は〔元帝に〕帰順した。ちょうど琅邪王太妃が封国で薨じたので、みずから上表して葬儀におもむき、埋葬が終わると〔建鄴の〕鎮に戻った。封国に宣城郡(揚州の郡)の二万戸を加増され、鎮東大将軍、開府儀同三司を加えられた12懐帝紀によれば永嘉五年五月に鎮東大将軍に進められている。『魏書』司馬叡伝には「〔永嘉〕五年、進鎮東将軍、開府儀同三司、又以会稽戸二万増封、加督揚・江・湘・交・広五州諸軍事」とあり、異同が多い。。東海王越の命令を受けて、征東将軍の周馥を討伐し、敗走させた13懐帝紀によると永嘉五年正月のことである。前注で記したように、懐帝紀では鎮東大将軍就任を永嘉五年五月のこととしているので、懐帝紀とは時系列に異同があることになる。。〔匈奴劉氏が洛陽を落とし、〕懐帝が平陽でほこりをかぶると(平陽に拉致されると)、司空の荀藩らが天下に檄を発し、元帝を盟主に推戴した14懐帝紀によれば永嘉五年六月のこと。懐帝紀によると翌六年二月に「鎮東大将軍、琅邪王睿上尚書、檄四方以討石勒」とあり、『建康実録』によれば「師次寿陽、勒退河北」という(中宗元皇帝、永嘉六年二月)。『魏書』司馬叡伝だと「〔永嘉〕六年、叡檄四方、称与穆帝俱討劉淵、大会平陽」とあり、ややちがっている。。江州刺史の華軼が〔元帝に〕服従しなかったので、豫章内史の周広、まえの江州刺史の衞展に討伐させ、これを捕えた15巻六一、華軼伝によれば、華軼は晋室にそむく意志があったわけではなかったらしい。洛陽陥落以前より、洛陽の天子が健在なのに元帝の命令に従うのはおかしいとして従わず、陥落後に荀藩らが元帝を盟主に推しても、やはり元帝の命令には服さなかった。こうして元帝の討伐を受けることになったのだという。
 ところで、元帝の派遣した討伐軍について、華軼伝は王敦、甘卓、周訪、宋典、趙誘と挙げており、衛展と周広は「内応」したと記されている。巻五八、周訪伝でも、周広の肩書は「軼将」としている。『晋書斠注』が言うように、本文の書き方はやや誤りを含んでいるといえよう。また『魏書』司馬叡伝だと、裴憲が華軼と協同していたらしい。「江州刺史華軼、北中郎将裴憲並不従之。憲自称鎮東将軍、都督江北五郡軍事、与軼連和。叡遣左将軍王敦、将軍甘卓、周訪等撃軼、斬之。憲奔于石勒」とある。
。愍帝が即位すると、左丞相を加えられた16愍帝紀によれば建興元年五月のことで、左丞相と同時に侍中、大都督陝東諸軍事も授けられている。。一年あまり経つと、丞相、大都督中外諸軍事に進められた17愍帝紀、建興三年二月に「進左丞相、琅邪王睿為大都督、督中外諸軍事」とあり、このときのことか。『魏書』僭晋司馬叡伝は「〔建興元年〕七月、叡以晋室将滅、潜有他志、乃自大赦、為大都督、都督中外諸軍事、又為丞相」とする。。諸将を派遣し、分担させて江東を平定させ、反逆者の孫弼を宣城で斬り、杜弢を湘州で平定し18愍帝紀によれば杜弢の鎮圧は建興三年八月のこと。、承制して荊州と揚州に恩赦を下した。長安が陥落すると19建興四年十一月のこと。、元帝は出兵して野外で宿泊し、身体を甲冑でまとい、檄を四方に飛ばして、天下じゅうから兵を召集し、期日を定めて進み、〔賊を〕討伐しようとした20『建康実録』中宗元皇帝、建興五年正月の条に「瑯琊王出師路北、躬擐甲冑、移檄天下徴兵」とある。『宋書』巻三二、五行志三に「晋愍帝建興四年十二月丙寅、丞相府斬督運令史淳于伯、血逆流上柱二丈三尺。此赤祥也。是時後将軍褚裒(宣城公裒の誤り――引用者注)鎮広陵、丞相揚声北伐、伯以督運稽留及役使臧罪、依征軍法戮之」とあるのもこのときのことか。。当時、玉冊21天子が天命を授かったときに現われるとされる瑞祥。(伝説中天子受命的符瑞。)(『漢語大詞典』)が臨安で発見され、また白玉製で麒麟型の神璽が江寧でみつかり、〔璽の〕文には「長寿万年」とあった。太陽が重暈22太陽の周囲に二重の光の輪が現われること。をなすことがあった。人々はみな、中興の瑞祥だと考えた。

 建武元年春二月辛巳、平東将軍の宋哲が到着し、愍帝の詔を宣読した、「否の運勢に遭ってしまい、朝廷の規律は機能しなくなってしまった。朕は徳が薄い身をもって、帝業を継承したが、天に長命を祈願することもできず、〔事業を〕受け継いで盛りあげ、中興させることもできず、ついには凶悪な胡賊が犬羊のごときやからを率い、京師に迫る事態を招いてしまった。朕は現在、〔包囲を受けて〕窮迫した城に閉じ込められてしまい、憂慮がかぎりなくわき起こってきている。おそらくは、にわかに陥落してしまうであろう。卿(宋哲)はまっすぐに丞相(琅邪王)のもとへゆき、朕の心をあますところなく伝達せよ。〔丞相に〕万機の統治を代行させるので、時宜に応じて旧都(洛陽)を占拠し、山陵と宗廟を修復して、国辱を雪ぐように〔、と〕」。
 三月、元帝は素服で出次し23死者を悼んで正寝(御殿)を避け、しばらく郊外で宿泊すること。(為悼念死者而避開正寝、出郊外暫住。)(『漢語大詞典』)、三日間号泣して哀悼した。西陽王羕、群官、〔府の〕参佐、州の征鎮、州刺史、郡太守らは尊号を奉じたが、元帝は受け入れなかった。西陽王らは死を冒して強く要請し、二度三度に及んだ。元帝は深く感じ入って涙を流し、「孤は罪人である。節操を行動で示し、義に殉じて、そうして天下の恥を雪ぐことで、鈇鉞による誅殺の罪を贖いたいと願うのみだ。私はもともと琅邪王であるのに、〔どうして〕諸賢らはいつまでも〔帝号を〕迫ってくる〔のか〕」と言い、そこで私奴を呼んで馬車を用意させ、琅邪国へ帰ろうとした。そこで群臣は〔帝号を〕迫ろうとしなくなり、魏晋の故事に倣って晋王につくことを請うたので、〔元帝は〕これを聴き入れた。辛卯、〔元帝は〕晋王の位につき、〔令を下して〕大赦し、改元し、祖父母や父母を殺した者、および劉聡と石勒はこの令から除外した。参軍は奉車都尉に任じられ、掾属は駙馬都尉に任じられた。〔元帝は〕掾属を百余人召したので、世の人はこれを「百六掾」と呼んだ。そうしてようやく百官が整い、宗廟と社稷を建康に立てた。当時、四方から競って符瑞が報告されたので、元帝は、「孤は天下の重責を背負っているのに、いまだ罪を反省できていない。どうして瑞祥があるだろうか」と言った。
 丙辰、晋王世子の紹を晋王太子に立てた。撫軍大将軍の西陽王羕を太保とし、征南大将軍、漢安侯の王敦を大将軍とし、右将軍の王導を都督中外諸軍事、驃騎将軍とし、〔丞相府〕左長史の刁協を尚書左僕射とした。王子の宣城公裒を琅邪王に封じた。
 六月丙寅、司空、并州刺史、広武侯の劉琨、幽州刺史、左賢王、渤海公の段匹磾、領護烏丸校尉、鎮北将軍の劉翰、単于、広甯公の段辰、遼西公の段眷、冀州刺史、祝阿子の邵続、青州刺史、広饒侯の曹嶷、兗州刺史、定襄侯の劉演、東夷校尉の崔毖、鮮卑大都督の慕容廆ら百八十人が上書し、即位を勧めた24以下の勧進表は『文選』巻三七にも収録されており、『文選』のほうが形としては完全に近い。訳出にあたっては、明治書院の「新釈漢文大系」第八二巻『文選 文章篇 上』(原田種成、一九九四年)を参照した(三〇四―三一九頁)。また『芸文類聚』巻一三、帝王部三、晋元帝、表に劉琨の勧進表が四通収録されているが、そのうちの三通は元帝紀および『文選』に収録されているものとはだいぶ異なる。勧進表は複数回、上呈されたのであろう。

 臣はこう聞いております、天は民衆を生むと、そのなかに主君を立てたが、それは天地を祀らせ、民衆を治めさせるためであった、と。聖帝や明王は、このようであることをかんがみました。天地には祭礼の食物を欠かすわけにはいかないことを悟ったために、己れを屈して天地を奉じたのです。〔同様に〕民衆には君主を不在にするわけにはいかないことを理解したために、やむをえず君臨したのです。社稷が危機に陥れば、親族の藩屏がその傾きを正し、郊壇と宗廟が廃れれば、宗室の賢者がその祭祀を存続させました。こうして、深遠なる教化を広くゆきわたらせ、そうして万世の礎を固めたのです。三皇五帝以降、これらの定めに従わなかった帝王はいませんでした。伏して思いますに、高祖宣皇帝が最初に天のおおいなる命〔にもとづく帝業〕を開き、世祖武皇帝が最終的に諸夏を統治しました25原文「遂造区夏」。『尚書』康誥篇に「用肇造我区夏」とあり、孔伝に「用此明徳慎罰之道、始為政於我区域諸夏」とある。とりあえずこれに従った。。三代26李善によれば宣帝、景帝、文帝。にわたって輝きを積み重ね、四聖27李善によれば武帝。があとを継ぎましたが、恩恵は虞舜に等しく、予言された朝命は周の七百年をしのぎました。〔ところが〕元康以降、艱難がしきりに起こり、永嘉の時期には災厄の気が充満し、天子(懐帝)は統制力を失い、辺境の悪人の地で天に昇られました。国家の危難は、冠に垂れ下がっている珠のようでした。先帝の徳と宗廟の霊力を頼りに、皇帝(愍帝)が継いで立ち、旧来の制度は〔喪失せずに〕明白に示すことができました28原文「旧物克甄」。「不失旧物」(『左伝』哀公元年)をふまえた表現であろう。。〔愍帝は〕おおいに敬粛と明察を授かり、善を忘れずに守る聡明なお方で、玉のような才能を幼少にして発揮され、鐘の音のような響きを早くから振るわせていました29原文「金声夙振」。『孟子』万章章句下に「孔子之謂集大成。集大成也者、金声而玉振之也。金声也者、始條理也。玉振之也者、終條理也」とあるのをふまえたものと思われる。。宰相が綱紀を補佐し、百官が政治を助けました。天下の人々は中興の慶事を頭に浮かべ、世の民衆は復活の希望を抱きました。しかし、まさか考えもしませんでしたが、天は災禍を下したことを後悔せず、甚大な災厄がつぎつぎ生じ、国家はまだ〔さきに受けた〕艱難を忘れていないというのに、賊の侵略がまもなく起こりました。逆胡の劉曜は長安を蹂躙し、故意に犬羊のような輩を解き放ち、天邑を荒らしました。臣の奉表使が戻ってきましたので、西朝は昨年の十一月に陥落し、陛下は拘禁されて拉致され、〔懐帝につづいて〕ふたたび夷狄の本拠に沈没され、神器は散乱し、またも辺境の悪人に屈辱をこうむりましたことを知りました。臣は日ごろから史籍を読んでいますが、本朝の事件を前代までの出来事と比べてみますに、災厄の極みたること、古今かつてこれほどのものはございません。かりにも、率土の産物を口にし30原文「食土之毛」。『左伝』昭公七年に「封略之内、何非君土、食土之毛、誰非君臣」とある。、血が通っている生物であるならば、胸を叩いて失神し、道路で号泣しない者はいません。まして、臣らは三代にわたって恩寵をこうむり、位は三公にありますので、報告を耳にするや震撼し、精神が飛び散り、驚愕と嘆きがこみあげ、心がうつろになり、北の辺境で号泣して哀悼し、上下とも血を流しているかのようにひどく泣きました31原文「上下泣血」。李善は『毛詩』小雅、雨無正の「鼠思泣血」を引く。漢文大系はここの毛伝に「無声曰泣血」とあるのにもとづき、「声を忍んで泣きました」と訳す。「声にならないほどの怒りの涙」と言えなくもないが、『晋書』の用例をみるかぎり、「極度の悲しみのときに流す涙」(『漢辞海』)と取るのが適当だと思う。
 臣はこう聞いております、夜と昼は交替でつかさどり、否の卦と泰の卦はたがいに補う、と。天命がまだ改まっていないならば、暦数の帰するところがあります。難事の多発によって国家を固めることや、憂患の頻発によって聖人の事業をはじめることもあります。このため、斉には公子無知の禍乱がありましたが、〔そのあとで〕小白(桓公)が五覇の先駆けになり、晋には麗姫の災難がありましたが、〔そのあとで〕重耳(文公)が諸侯の会盟を主導しました。社稷から安全が失われれば、必ずその危難を救済する者が現れるでしょうし、民衆が死にかければ、必ずその生き残りを生存させる者が出てくるのです。伏して考えますに、陛下の幽遠なる徳は天地に通じ、聖なるお姿は両儀に合致され、命世32『孟子』公孫丑章句下に「五百年必有王者興、其間必有名世者」とあり、趙注に「五百年王者興、有興王道者也。名世、次聖之才、物来能名、正於一世者、生於聖人之間也」とある。李善はここの「名世」を「命世」と同義とする。が、趙注からも明白なように、「名世」は王者不在の時期に現れる名賢をいう。ここで元帝をそのような意味での「名世」に喩えるのは不自然に思われる。魏晋期の正史の用例をみると、「王者不在の時期の……」という部分はカットされ、「世を正し治め、名を残す」というニュアンスで使用しているようにみえる。「命世之期」に似た用例も散見するが、そのような意味での「命世」を成しとげる機会という意味であろうか。の時期に当たられ、千載一出33原文「千載」。李善は「桓子新論」の「夫聖人乃千載一出」を引いている。の機運を継がれています。瑞祥のしるしは天と民とにあらわれていますし、中興の予兆は讖緯の典籍に法則が示されています。近畿が陥落し、九服が瓦解して以来、天下は騒然とし、帰して仰ぎ慕うところがない状況で、夏が夷羿の反逆に遭った事件や、周が犬戎の侵略をこうむった事件といえども、このたびをしのぎはしないでしょう。陛下は江南を鎮圧され、旧呉の地域を保有され、服従者を慰撫するのに徳をもってし、反逆者を討伐するのに罰をもってし、明白な天誅34原文「明威」。上の「伐叛以刑」に対応していると思われるので、「威」は刑罰の意であろう。李善は『尚書』多士篇の「我有周佑命、将天明威」を引いているが、この句はさらに「致王罰」とつづき、この『尚書』の文脈上でも罰の意で解するのがよいと思う。を高々と掲げて類にあらざる者どもを震えさせ35原文「摂不類」。李善は「摂」を「安」で読むよう注している。しかし先の注で述べたように、ここの句は上の「伐叛以刑」に対応していることを考えると、「安」で解するのはやや疑問である。珍しい用法かもしれないが、『漢辞海』によれば「摂(攝)」は「懾」に通じ、『史記』や『塩鉄論』に用例があるようである。ここはそれに従い、「おどす、おそれさせる」で訳出した。
 また「不類」については、漢文大系は「「不類」は不善。一説に異国(五臣注)」と注し、「不善なる者」と訳している。李善の注はなく、また適した用例もなさそうなので、私も自信はないのだが、西晋末東晋初の時期でなにものかを「類」と形容するケースをみると、「非我族類、其心必異」(『左伝』成公四年)を思わず想起してしまう。やりすぎない程度にこれをふまえた訳出を試みた。
、徳治にもとづいて天下に号令をかけています。純粋な教化が広まりましたので、天下の人民は心を帰して従い、義の名教が行きわたりましたので、遠方の者どもはつまさきだって眺めやっています。上はあらゆる政務が秩序を得て整い36原文「百揆時叙于上」。出典は『尚書』舜典篇「納于百揆、百揆時敘」。「百揆」は正確には舜が就けられた官の名称だが、孔伝に「揆、度也。度百事、揔百官、納舜於此官。舜挙八凱、使揆度百事、百事時敘、無廃事業」とあるように、「百事」と読み替えられる場合もあったのかもしれない。その意で取ったほうがここでは通りがいいので、そのように訳出した。、下は四方の門が美化されています37原文「四門穆穆于下」。出典は『尚書』舜典篇「賓于四門、四門穆穆」。孔伝に「穆穆、美也。四門、四方之門。舜流四凶族。四方諸侯来朝者、舜賓迎之。皆有美徳、無凶人」とあるのに従っておく。。むかし、夏の少康が〔夏王朝を〕興隆させると、夏の訓話は〔これを〕美談としました。周の宣王が〔周王朝を〕中興させると、周の詩は〔これを〕めでたい歌としました。まして、〔陛下の〕偉大な勲功は天に等しく、清らかな輝きは四海を照らしており、民衆は望み慕って、誰もが喜んで推戴し、〔陛下の〕名教が及ぶ所の男女は臣妾になることを願い出ているのですから、なおさら〔中興をなし、美談美歌をつくられること〕でしょう。くわえて、宣帝の子孫は陛下だけで、人民の帰すお方は他におられません。天は大晋に幸いをもたらし、必ず主君が現れるにちがいありませんが、晋の祭祀を継承されるお方は、陛下以外に誰がいましょうか。このようであるため、近隣の者たちは異論なく、遠方の者たちは異心なく、〔主君の徳を〕歌う者は誰もが〔陛下の〕美道を口ずさみ、陳情する者は誰もが〔陛下の〕聖徳を待望しています38原文「謳歌者無不吟諷徽猷、獄訟者無不思于聖徳」。『孟子』万章章句上「堯崩、三年之喪畢、舜避堯之子於南河之南。天下諸侯朝覲者不之堯之子而之舜、訟獄者不之堯之子而之舜、謳歌者不謳歌堯之子而謳歌舜」とあり、趙注に「訟獄、獄不決其罪、故訟之。謳歌、謳歌舜徳也」とある。「獄訟」(『孟子』では「訟獄」)は趙岐ほどに厳密に解する必要もなく、「困ったことがあるので頼りに来て、不平を言う」程度でいいのではないだろうか。「徽猷」については、『毛詩』小雅、角弓に「君子有徽猷、小人与属」とあり、毛伝に「徽、美也」とあり、鄭箋に「猷、道也。君子有美道、以得声誉、則小人亦楽与之而自連属焉」とある。。天地の境界はすでに混交し、華夷の心情はまことに合一しています。一角獣や連理の樹木のような、吉兆をなす予兆はおおよそ百を数えます。冠帯(中国)の同輩や、要荒(辺境)の人々で、示しあわせるでもなく言葉を同じくする者たちは、ともすれば一万を数えます。こうした様子のゆえに、臣らはあえて天地の心意を探り、中華の趨勢に則り、死を冒して尊号を奉じます。陛下に願わくば、舜や禹のような至公の御心を保持し、許由や巣父のような偏屈を高尚とする節操を軽視されますように。社稷の物事を責務とし、ささいな品行を優先されませんように。民衆の事柄を心配事とし、謙遜を仕事となさいませんように。上は〔陛下を〕期待してかえりみている宗廟の意思を安堵させ、下は〔陛下を〕切望して仰ぎみている天下の不安を除去されますように。そのようになさいましたら、いわゆる立派な華が枯れた芽にみのり、ハリのある肌がやせこけた骨にそなわる、というもので、神も民も安寧を得て、幸福にならない者はいないでしょう。
 臣はこう聞いております、尊号をひさしく空位にしてはならないし、万機をひさしく空虚にしてはならない、と。一日でも空位にすれば、尊号は危なくなります。十二支がひとめぐりする間(十二日)でも空虚にすれば、万機は乱れます。ちょうど現在は、百代の王者の末世につづき、陽九(災厄)の時機にあたっていますが、狡猾な賊は分不相応の願いを望んで、国家の隙をうかがい、民衆は波のように揺れて、心をつなぎとめるところがありません。どうして〔人民を〕捨ておいて憐れまないのでしょうか。陛下は〔即位を〕躊躇していったん保留したいとお考えのようですが、宗廟〔の祭祀〕はどうするおつもりですか。百姓はどうするおつもりですか。むかし、晋の恵公が秦に捕えられると、晋は震撼し、呂氏と卻氏は謀って太子の子圉を立てようとしました。〔そうして〕外は敵国の野心を断ちきり、内は国内の人心を固めようとしたのです。ゆえに『左伝』に「主君を失っても新たな主君が立ち、群臣が団結し、己れを好む者は励まし、己れを憎む者は恐れる」(僖公十五年)と言われるのです。前代の出来事を参照することは、後世にとって道しるべなのです。陛下の輝きは日月に匹敵し、かげって照らさないところはなく、深遠なる謀略がご自身の胸の内から発せられています。犬馬のごとき臣らは国家を憂慮する心を抑えられず、人民と神とは泰の運勢がはじまる道筋を目にしようと待っています39原文「不勝犬馬憂国之情、遅覩人神開泰之路」。構文の理解に自身がない。漢文大系は全体の主語を「臣ら」(劉琨ら)とする。「臣不勝犬馬……」という成句があるため、上の句は漢文大系の理解でも通じるが、下の句はどうであろうか。漢文大系のように、「開」を「進む」の意で取れるのであれば問題なさそうだが、「開泰」の用例からして、「太平になる」すなわち「はじまる」の意で取るのが適当であるように思われる。気持ち悪さは残るのだが、上の句の主語は犬馬、下の句の主語は人神で取って訳出してみた。。そこで誠心を申し上げ、執事の者にお伝えしたしだいです。臣らは地方の職務を授かり、ひさしく遠方におりますため、宮殿に参列できず、盛大な儀礼をお目にかかれませんが、胸を躍らせながら、南をいつまでも眺めております。

元帝は優令でもってこれに返答した。その言葉は劉琨伝にある。

元帝(1)元帝(2)明帝

(2020/2/27:公開)
(2021/11/21:改訂)

  • 1
    額の中央の骨が日の形に隆起している人相。帝王の骨相。(『漢辞海』)
  • 2
    眉の骨が高くもり上がった骨相。(『漢辞海』)
  • 3
    才能とか人柄ではなくてけっきょく容貌かよ!という意味。
  • 4
    『北堂書鈔』巻五八、通直散騎常侍「日新匪懈」に引く「晋起居注」に「恵帝永寧元年、詔曰、『散騎常侍・琅邪王睿、識清才、日新匪懈、宜在機近以言者、其令睿為通直』」とあり、『晋書斠注』は員外散騎常侍から通直散騎常侍へ移ったのだろうと推測している。
  • 5
    『魏書』巻九六、僭晋司馬叡伝では「頻遷射声・越騎校尉、左・右軍将軍」とあり、本伝では「累遷」として省かれてしまった歴官も記載されており、かつ左将軍ではなく左軍将軍としている。
  • 6
    『漢語大詞典』には「宿泊所の警衛責任者(守護客館的負責人)」という意味が掲載され、本文が用例に挙げられている。しかし『漢語大詞典』は用例に挙げていないが、『史記』巻七五、孟嘗君列伝には「伝舎長(伝舎の長)」すなわち「宿舎の長」という語がみえており、「舎長」もそういう意味で使用されているように思えなくもない。とはいえ、どちらにしても「オヤジ」のような庶民間におけるくだけた呼び方としてここでは用いられているのであろう。
  • 7
    『文選』巻三七、劉越石「勧進表」の李善注に引く「王隠晋書」に「永興元年、就国」とあり、帰国は永興元年のことだと思われる。この逸話は『晋中興書』(『太平御覧』巻四九四、詭詐、引、および『芸文類聚』巻一三、晋元帝、引)と蕭方等『三十国春秋』(『太平御覧』巻三五九、鞭、引)にも見えている。
  • 8
    『文選』巻三七、劉越石「勧進表」の李善注に引く「王隠晋書」によると、永興二年に「加揚州諸軍事」という。また『魏書』僭晋司馬叡伝には「尋加安東将軍・都督揚州諸軍事・仮節、当鎮寿陽、且留下邳」とあり、寿陽に出鎮するべきところであったが、そのまま下邳に留まっていたのだという。なお懐帝紀、永嘉元年七月に、「以平東将軍、琅邪王睿為安東将軍、都督揚州江南諸軍事、仮節、鎮建鄴」とあり、、元帝に安東将軍を授けたのは永嘉元年のこととしており、『建康実録』巻五、中宗元皇帝も同様である。本文と『魏書』僭晋司馬叡伝は明らかに恵帝末年のこととしており、時系列に異同があるが、詳しくはわからない。
  • 9
    『魏書』僭晋司馬叡伝には「及越西迎恵帝、留叡鎮後、平東府事。当遷鎮江東、属陳敏作乱、叡以兵少因留下邳」とあり、本文とやや異にするところもあるが、元帝がそのまま下邳に留まっていたとする点では同じである。
  • 10
    『魏書』僭晋司馬叡伝に「及越西迎恵帝、留叡鎮後、平東府事。当遷鎮江東、属陳敏作乱、叡以兵少因留下邳。永嘉元年春、敏死、秋、叡始到建業」とあり、永嘉元年の春(懐帝紀によると三月)、揚州に割拠していた陳敏が死んだので、同年秋に元帝は建業へ移ることができたという。懐帝紀および『建康実録』中宗元皇帝によると、永嘉元年七月に元帝は安東将軍、都督揚州江南諸軍事を授けられ、建鄴出鎮を命じられている。本文と『魏書』では、これ以前にすでに安東将軍、都督揚州を授けられていたことになっているものの、建業へ移ったのを永嘉元年(の秋)とする点ではすべての史料が一致している。
     ちなみに元帝は、孫呉の太初宮跡地に陳敏が建てた府舎に駐屯したのだという。『建康実録』中宗元皇帝、永嘉元年の条に「秋七月……用王導計渡江、鎮建鄴。討陳敏余党、廓清江表、因呉旧都城、修而居之。太初宮為府舎」とあり、原注に「案、太初宮、本呉之宮。晋平呉後、石氷作乱、焚焼蕩尽。陳敏平石氷、拠揚州、因太初故基、創造府舎、中宗初渡江、因居此地也」とある。
  • 11
    原文のまま。固有名詞なのか不明。
  • 12
    懐帝紀によれば永嘉五年五月に鎮東大将軍に進められている。『魏書』司馬叡伝には「〔永嘉〕五年、進鎮東将軍、開府儀同三司、又以会稽戸二万増封、加督揚・江・湘・交・広五州諸軍事」とあり、異同が多い。
  • 13
    懐帝紀によると永嘉五年正月のことである。前注で記したように、懐帝紀では鎮東大将軍就任を永嘉五年五月のこととしているので、懐帝紀とは時系列に異同があることになる。
  • 14
    懐帝紀によれば永嘉五年六月のこと。懐帝紀によると翌六年二月に「鎮東大将軍、琅邪王睿上尚書、檄四方以討石勒」とあり、『建康実録』によれば「師次寿陽、勒退河北」という(中宗元皇帝、永嘉六年二月)。『魏書』司馬叡伝だと「〔永嘉〕六年、叡檄四方、称与穆帝俱討劉淵、大会平陽」とあり、ややちがっている。
  • 15
    巻六一、華軼伝によれば、華軼は晋室にそむく意志があったわけではなかったらしい。洛陽陥落以前より、洛陽の天子が健在なのに元帝の命令に従うのはおかしいとして従わず、陥落後に荀藩らが元帝を盟主に推しても、やはり元帝の命令には服さなかった。こうして元帝の討伐を受けることになったのだという。
     ところで、元帝の派遣した討伐軍について、華軼伝は王敦、甘卓、周訪、宋典、趙誘と挙げており、衛展と周広は「内応」したと記されている。巻五八、周訪伝でも、周広の肩書は「軼将」としている。『晋書斠注』が言うように、本文の書き方はやや誤りを含んでいるといえよう。また『魏書』司馬叡伝だと、裴憲が華軼と協同していたらしい。「江州刺史華軼、北中郎将裴憲並不従之。憲自称鎮東将軍、都督江北五郡軍事、与軼連和。叡遣左将軍王敦、将軍甘卓、周訪等撃軼、斬之。憲奔于石勒」とある。
  • 16
    愍帝紀によれば建興元年五月のことで、左丞相と同時に侍中、大都督陝東諸軍事も授けられている。
  • 17
    愍帝紀、建興三年二月に「進左丞相、琅邪王睿為大都督、督中外諸軍事」とあり、このときのことか。『魏書』僭晋司馬叡伝は「〔建興元年〕七月、叡以晋室将滅、潜有他志、乃自大赦、為大都督、都督中外諸軍事、又為丞相」とする。
  • 18
    愍帝紀によれば杜弢の鎮圧は建興三年八月のこと。
  • 19
    建興四年十一月のこと。
  • 20
    『建康実録』中宗元皇帝、建興五年正月の条に「瑯琊王出師路北、躬擐甲冑、移檄天下徴兵」とある。『宋書』巻三二、五行志三に「晋愍帝建興四年十二月丙寅、丞相府斬督運令史淳于伯、血逆流上柱二丈三尺。此赤祥也。是時後将軍褚裒(宣城公裒の誤り――引用者注)鎮広陵、丞相揚声北伐、伯以督運稽留及役使臧罪、依征軍法戮之」とあるのもこのときのことか。
  • 21
    天子が天命を授かったときに現われるとされる瑞祥。(伝説中天子受命的符瑞。)(『漢語大詞典』)
  • 22
    太陽の周囲に二重の光の輪が現われること。
  • 23
    死者を悼んで正寝(御殿)を避け、しばらく郊外で宿泊すること。(為悼念死者而避開正寝、出郊外暫住。)(『漢語大詞典』)
  • 24
    以下の勧進表は『文選』巻三七にも収録されており、『文選』のほうが形としては完全に近い。訳出にあたっては、明治書院の「新釈漢文大系」第八二巻『文選 文章篇 上』(原田種成、一九九四年)を参照した(三〇四―三一九頁)。また『芸文類聚』巻一三、帝王部三、晋元帝、表に劉琨の勧進表が四通収録されているが、そのうちの三通は元帝紀および『文選』に収録されているものとはだいぶ異なる。勧進表は複数回、上呈されたのであろう。
  • 25
    原文「遂造区夏」。『尚書』康誥篇に「用肇造我区夏」とあり、孔伝に「用此明徳慎罰之道、始為政於我区域諸夏」とある。とりあえずこれに従った。
  • 26
    李善によれば宣帝、景帝、文帝。
  • 27
    李善によれば武帝。
  • 28
    原文「旧物克甄」。「不失旧物」(『左伝』哀公元年)をふまえた表現であろう。
  • 29
    原文「金声夙振」。『孟子』万章章句下に「孔子之謂集大成。集大成也者、金声而玉振之也。金声也者、始條理也。玉振之也者、終條理也」とあるのをふまえたものと思われる。
  • 30
    原文「食土之毛」。『左伝』昭公七年に「封略之内、何非君土、食土之毛、誰非君臣」とある。
  • 31
    原文「上下泣血」。李善は『毛詩』小雅、雨無正の「鼠思泣血」を引く。漢文大系はここの毛伝に「無声曰泣血」とあるのにもとづき、「声を忍んで泣きました」と訳す。「声にならないほどの怒りの涙」と言えなくもないが、『晋書』の用例をみるかぎり、「極度の悲しみのときに流す涙」(『漢辞海』)と取るのが適当だと思う。
  • 32
    『孟子』公孫丑章句下に「五百年必有王者興、其間必有名世者」とあり、趙注に「五百年王者興、有興王道者也。名世、次聖之才、物来能名、正於一世者、生於聖人之間也」とある。李善はここの「名世」を「命世」と同義とする。が、趙注からも明白なように、「名世」は王者不在の時期に現れる名賢をいう。ここで元帝をそのような意味での「名世」に喩えるのは不自然に思われる。魏晋期の正史の用例をみると、「王者不在の時期の……」という部分はカットされ、「世を正し治め、名を残す」というニュアンスで使用しているようにみえる。「命世之期」に似た用例も散見するが、そのような意味での「命世」を成しとげる機会という意味であろうか。
  • 33
    原文「千載」。李善は「桓子新論」の「夫聖人乃千載一出」を引いている。
  • 34
    原文「明威」。上の「伐叛以刑」に対応していると思われるので、「威」は刑罰の意であろう。李善は『尚書』多士篇の「我有周佑命、将天明威」を引いているが、この句はさらに「致王罰」とつづき、この『尚書』の文脈上でも罰の意で解するのがよいと思う。
  • 35
    原文「摂不類」。李善は「摂」を「安」で読むよう注している。しかし先の注で述べたように、ここの句は上の「伐叛以刑」に対応していることを考えると、「安」で解するのはやや疑問である。珍しい用法かもしれないが、『漢辞海』によれば「摂(攝)」は「懾」に通じ、『史記』や『塩鉄論』に用例があるようである。ここはそれに従い、「おどす、おそれさせる」で訳出した。
     また「不類」については、漢文大系は「「不類」は不善。一説に異国(五臣注)」と注し、「不善なる者」と訳している。李善の注はなく、また適した用例もなさそうなので、私も自信はないのだが、西晋末東晋初の時期でなにものかを「類」と形容するケースをみると、「非我族類、其心必異」(『左伝』成公四年)を思わず想起してしまう。やりすぎない程度にこれをふまえた訳出を試みた。
  • 36
    原文「百揆時叙于上」。出典は『尚書』舜典篇「納于百揆、百揆時敘」。「百揆」は正確には舜が就けられた官の名称だが、孔伝に「揆、度也。度百事、揔百官、納舜於此官。舜挙八凱、使揆度百事、百事時敘、無廃事業」とあるように、「百事」と読み替えられる場合もあったのかもしれない。その意で取ったほうがここでは通りがいいので、そのように訳出した。
  • 37
    原文「四門穆穆于下」。出典は『尚書』舜典篇「賓于四門、四門穆穆」。孔伝に「穆穆、美也。四門、四方之門。舜流四凶族。四方諸侯来朝者、舜賓迎之。皆有美徳、無凶人」とあるのに従っておく。
  • 38
    原文「謳歌者無不吟諷徽猷、獄訟者無不思于聖徳」。『孟子』万章章句上「堯崩、三年之喪畢、舜避堯之子於南河之南。天下諸侯朝覲者不之堯之子而之舜、訟獄者不之堯之子而之舜、謳歌者不謳歌堯之子而謳歌舜」とあり、趙注に「訟獄、獄不決其罪、故訟之。謳歌、謳歌舜徳也」とある。「獄訟」(『孟子』では「訟獄」)は趙岐ほどに厳密に解する必要もなく、「困ったことがあるので頼りに来て、不平を言う」程度でいいのではないだろうか。「徽猷」については、『毛詩』小雅、角弓に「君子有徽猷、小人与属」とあり、毛伝に「徽、美也」とあり、鄭箋に「猷、道也。君子有美道、以得声誉、則小人亦楽与之而自連属焉」とある。
  • 39
    原文「不勝犬馬憂国之情、遅覩人神開泰之路」。構文の理解に自身がない。漢文大系は全体の主語を「臣ら」(劉琨ら)とする。「臣不勝犬馬……」という成句があるため、上の句は漢文大系の理解でも通じるが、下の句はどうであろうか。漢文大系のように、「開」を「進む」の意で取れるのであれば問題なさそうだが、「開泰」の用例からして、「太平になる」すなわち「はじまる」の意で取るのが適当であるように思われる。気持ち悪さは残るのだが、上の句の主語は犬馬、下の句の主語は人神で取って訳出してみた。
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