巻六十二 列伝第三十二 劉琨(2)

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劉琨(1)劉琨(2)劉琨(3)附:劉群・劉輿・劉演祖逖附:祖納

 愍帝が即位すると、大将軍、都督并州諸軍事に任じられ、散騎常侍をくわえられ、仮節とされた1愍帝紀によれば建興二年二月のこと。(2020/10/19:注追加)。劉琨は上疏して感謝を述べた。

 陛下は臣のひどい過ちを大目に見てくださり、臣のささいな善行を記録されました。かたじけなくもご恩をこうむり、破格の寵遇を授かり、侍官(散騎常侍)の栄光をもって顕彰され、上将(大将軍)の位をもって昇進をたまわりました。伏してこのたびの詔書を拝見すると、〔驚きのあまり〕心が消え散りそうでした。
 臣はこう聞いています。晋の文公は郤縠を元帥として覇業を定め、漢の高祖は韓信を大将として王業を成しました。郤縠と韓信の二人には、詩と書を重んじて礼と楽を喜ぶ徳2原文「敦詩閲礼之徳」。『左伝』僖公二十七年に「作三軍、謀元帥。趙衰曰、『郤縠可。臣亟聞其言矣、説礼楽而敦詩書、……』」とあるのが出典。と、戦争で果断と剛毅を発揮する武威3原文「戎昭果毅之威」。『左伝』宣公二年に「戎昭果毅以聴之、之謂礼。殺敵為果、致果為毅、易之戮也」とあり、疏に「昭、明也。兵戎之事、明此果毅」とある。があり、それゆえに多大な功績を荊南(楚)で立て、広大な基盤を河北で築くことができたのでした。臣は凡愚でありながら〔こうした〕前代の哲人に倣おうとしていますが、鼎の足を折ってしまわないかと心配のあまりに顔を伏せ、鼎の中身をひっくり返してしまわないかと憂えています4原文「俯懼折鼎、慮在覆餗」。出典は『易』鼎、九四の爻辞「鼎折足、覆公餗」。位に堪えないことの喩えとして用いられる。『後漢書』謝弼伝の李賢注に「鼎以喩三公。餗、鼎実也。折足覆餗、言不勝其任」とある。。むかし、曹沫は敗北を三度喫しましたが、功績を柯の会盟で挙げ5曹沫は『史記』刺客列伝に立伝。魯の将であったが、斉と戦って三度敗れた。魯は土地を割譲して斉と和睦を結ぼうとしたが、その会盟において、曹沫は斉の桓公を匕首で脅しつけ、魯から奪った土地をすべて返させた。、馮異は〔最初は〕翼をたれましたが、〔最終的には〕澠池で翼をはばたかせました6原文「馮異垂翅、而奮翼於澠池」。馮異が赤眉の討伐を命じられたとき、最初は敗北したが最終的には勝利したことを光武帝が「始雖垂翅回谿、終能奮翼黽池」(『後漢書』馮異伝)と喩えたことにもとづく。。両者とも敗北を成功に転じ、功績によって過失を補うことができたのでした。過失をお赦しになる陛下のご恩はすでに高大でございますが、しかし過ちを正してみずからを新たにする臣の善行は立っていません。臣は至らない者ではありますが、過去の教訓は以前から存じておりましたので、臣のような者ですら、謙遜の節義をまっとうしたいとこい願っていました。〔それにもかかわらず、辞退せずに〕軽々しくこのたびの拝命をお受けしたゆえんは、まこと、身命を賭して国家に報い、死して忠勤を示そうとつねづね思っているからであり、命を賊との戦場で投げ出し、臣としての節義を尽くしたいと考えているからです。〔このたびの〕お引き立てのご恩につきましては、言葉で感謝申し上げるものではないでしょう7原文「非言辞所謝」。自信がない。行動で示すということ?。また、謁者の史蘭、殿中中郎の王春らがあいついで参り、〔叙任の詔書とは別の?〕詔書を奉じました。臣はうつむいて聖旨をご確認し、紙に伏せり、涙で顔を濡らしました。
 臣はこう聞いています。順境と逆境は流れ移るものであり、古今より循環するものである、と。〔しかし、現今は〕神霊は晋氏の徳を見捨てられ、いまだ禍を降したことを悔やんでいません。〔このごろ、〕戎狄が神州(中国)で害毒をほしいままに流し、夷狄が上国(中国)で暴虐をほしいままに振るい、晋室の七廟は祭祀の供物を失い、百官は人倫の秩序を失いました。〔懐帝の〕梓宮(ひつぎ)は沈没して恥辱をこうむり、〔懐帝の〕山陵は埋葬が済んでおらず8原文「山陵未兆」。よく読めない。、率土の人々が〔懐帝を〕ながくしのび、その思慕は亡くなった父母に対するのと等しいものでございます。陛下のお姿は日々ご立派になられ、素質はいよいよ輝き、天下をすでに崩壊している状態から引き起こし、社稷をすでに廃れている状態から興しあげ、四海のうちにはじめて上下の秩序がもたらされ、九服の民衆はふたたび〔断絶しかかった旧来の〕制度を目にしています。伏して思いますに、陛下は〔避難して〕京師の外でほこりをかぶり、遠く京師郊外の秦(関中)に滞在されていますから、嘗烝(祖先を祀る祭祀)への尊敬を心に抱かれ、桑梓(郷里)への思いを抑えられずにおられることでしょう。臣は位に就いて数年を経ていますが、才幹は鈍重で、山のような過失がすでに明らかになっているのたいし、ほんのわずかな功績も挙げていません。ちかごろは、時宜を理由に一時的に位と称号を授かりましたが9并州刺史などのことであろう。、けっきょく戎狄を滅ぼす功績を挙げることなく、かえって負乗10行動が位にふさわしくないこと。『易』解、六三の爻辞「負且乗、致寇至」に由来する成語。董仲舒は対策文でこの爻辞を引き、「乗車者君子之位也、負担者小人之事也。此言居君子之位而為庶人之行者、其患禍必至也」と解釈している(『漢書』董仲舒伝)。ほかの用例もおおむね董仲舒と同様の意味で用いられているし、本文もこの意で通じる。の禍がございますから、まさしく法を明らかにして、賞罰を示すべきでございます。このため、臣はさきの表にて奏聞したさい、〔本来は罰がふさわしいことを承知のうえで〕あえて愚忠をよすがに、先朝(先帝)の班11班位、すなわち宮中での席次のこと。朝位、朝班とも言う。簡単に言うと官位のことで、ここでは先帝時代に授かった官を指す。を奉じ、当面のあいだは〔先朝で授かった〕偏師(一部隊)の職務を維持し、三度の(多くの)敗北という過失を赦免し、一度の功績という働きを受け入れてくださるよう、要望したのでした。志を賊との戦場に駆け巡らせ、心を大逆人へ走らせることができましたら、この身が野草を血でしめらすとしても、未練はございませんでした。〔しかし、このたびの〕陛下のごひいきは過度に厚く、特別に抜擢をこうむり、とうとう上将(大将軍)を授かり、位は常伯(散騎常侍)を兼任し、征討の任務につきましても、適宜に裁量するご許可をいだたきました。この任命には驚愕し、心は恐れおののきました。〔このまま何もできずに〕死して朝廷の恥となってしまわないかと心配しています。むかし、申包胥は柏挙の戦いで命を投げ出しませんでしたが、公壻の戦いで勲功を成しました。伍子胥は城父で従事しませんでしたが、郢に入城する功績を遂げました。臣は頑迷で、分不相応にも〔これらの〕古人のようになりたいなどとは望みませんが、よろいをまとい、武器を手にし、身命を仇賊に投げ出すよりも、いわゆる「天地のような恩恵に民衆は感謝しない」の〔ような太平を生きる〕ほうが、まさっているとは思いません12原文「臣雖頑凶、無覦古人、其於被堅執鋭、致身寇讐、所謂天地之施、群生莫謝不勝」。かなり自信がない。。ご恩をこのうえなく厚くこうむっていますゆえ、つつしんで表を奉じて〔感謝を〕申しあげました。

 麹允が劉曜を破り、趙冉を斬ると13愍帝紀によると建興二年七月のこと。、劉琨はまたも上表した。

 逆胡の劉聡はあえて犬羊のやからを率い、天子をあなどっているので、人と神は憤怒し、遠近の人々みなが発奮しています。伏して詔書を拝見しますに14おそらく戦勝についての詔。、相国の南陽王保と太尉、涼州刺史の張軌は二州(秦州と涼州)の兵を糾合し、共同で王室を救援し、冠軍将軍の麹允と護軍将軍の索綝は六軍を総合して整え、力を合わせて国難にあたり、〔そうしてこのたび、〕王師はおおいに勝利し、捕虜と斬首は千を数え、旗は晋への道路に向かい、鉦と太鼓は河曲15黄河が東に湾曲しているところのこと。劉聡載記には「曜復次渭汭、趙染次新豊」とあるが、渭汭は河曲と同じ場所を指す。新豊は河曲よりも西方にある県。で響き、崤山と函谷関の地(洛陽と長安の間)には掠奪と殺戮の警報がなくなり、汧水と隴山の地(長安以西)には事業安定の慶事がもたらされたとか。これはまことに、宗廟、社稷、そして陛下の神武がいたしたことでございましょう。呼吸している生物(人間)ですら、みなが首を伸ばして〔陛下を〕待ち望んでいるのですから、臣の心はなおさら躍り上がらずにいられません。
 臣はさきの表で申しましたように、鮮卑の猗盧と今年の三月に平陽で集合する予定でしたが、ちょうどその時期、匈羯の石勒が三月三日に薊城を急襲し、大司馬で博陵公の王浚は石勒の偽りの和睦を受け入れてしまったために、石勒に捕えられてしまいました。石勒の勢力はいよいよ盛んになり、臣を襲撃しようとしていました。そのため、〔并州域内の〕城や塢壁は震撼し、こもって守りを固めることに心を置くようになってしまいました。また、猗盧の国内にも反逆の謀略が起きつつあったのですが、幸いにも猗盧は注意深かったため〔事前に察知し〕、まもなくすべて誅殺しました16『魏書』序紀、穆帝七年の条に「帝復与劉琨約期、会於平陽。会石勒擒王浚、国有匈奴雑胡万余家、多勒種類、聞勒破幽州、乃謀為乱、欲以応勒、発覚、伏誅、討〔劉〕聡之計、於是中止」と、本伝と符合する記述が見えている。。けっきょく、南北17南=石勒、北=猗盧か。に注意が向いてしまい、成功するはずだった計画を失敗させてしまいました。臣が号泣して夜中にうめき、扼腕して長く嘆息するゆえんです。石勒は襄国を占拠し、臣とは山(太行)を隔てた位置関係にあり、賊(石勒?)の騎兵が朝に出発すれば、夕方には臣の城(陽邑)に到着します。〔劉聡と石勒は〕悪人同士でたがいに助けあい、その連中は増大しています。東と北の八つの州のうち、石勒は七つを滅ぼし、先朝(先帝)が任命した刺史のなかで、生き残っているのは臣だけです。このため、石勒は終日計画を練り、臣の討滅を計略の目標に定め、隙をうかがってはあいついで侵略してきますから、兵士はよろいを脱ぐことができず、百姓は田野で過ごすことができません。天網が張り巡らされているとはいえ、霊妙なる恩沢はいまだゆきわたらず、臣はひとり孤立し、賊と伍18五家一組。ようするに近所。を組んでいます。こもって守りを固めれば劉聡の誅殺を遅らせてしまい、進んで〔劉聡を〕討伐すれば石勒が背後をついてきます。進退が窮まり、終始狼狽しています。はやる気持ちをむなしくかかえながらも、力は願望に追いつかず、恥と恐れを感じて不安に思い、心を痛めて頭を悩まし、身体はこの場所に留まっていても、精神は賊のねぐらに飛んでいっています。秋の収穫はすでにみのり、胡馬も肉付きがよくなり、前鋒諸軍の兵士はすべてそろっていますから、臣は部隊の先頭に立ち、兵士に先んじるつもりでいます。臣と二虜(劉聡と石勒)とは、勢いが並び立つものではございません。劉聡と石勒の首がさらされないかぎり、臣は帰還しないつもりです。こい願わくは、陛下の霊妙なる武威をお借りし、〔臣の〕ささいな心を伸長させることができますように。そののちに、首を差し出して国家に謝罪し、死んでも恨みはありません。

 建興三年、愍帝は兼大鴻臚の趙廉に節を持たせて派遣し、劉琨を司空、都督并・冀・幽三州諸軍事に任じた。劉琨は上表して司空を辞退し19盧欽伝附諶伝には「琨為司空、以諶為主簿」とみえており、最終的には受けたのかもしれない。、都督を受けた。猗盧と期日を約束して劉聡を討伐しようとしたが、まもなく猗盧は父子で攻めあうようになり、猗盧と兄(猗㐌)の子の根がともに病死したため、部落は四散した20「根」はおそらく普根のこと。『魏書』序紀、穆帝九年の条に「〔穆〕帝召〔長子〕六脩、六脩不至。帝怒、討之、失利、乃微服民間、遂崩。普根先守外境、聞難来赴、攻六脩、滅之。衛雄、姫澹率晋人及烏丸三百余家、随劉遵南奔并州。普根立月余而薨」とみえる。猗盧と六脩との対立については『北史』魏諸宗室伝・六脩伝に詳しい。。劉琨の子の劉遵はこれより以前に猗盧の質任(人質)となっていたが、猗盧の部衆はみな劉遵を慕っていた21『魏書』序紀、穆帝三年の条に「晋并州刺史劉琨遣使、以子遵為質。帝嘉其意、厚報饋之」とある。なお「部衆から慕われていた」という一文は、『魏書』衛操伝だと、猗盧に仕えていてこのときに劉遵といっしょに降った衛雄と箕澹(姫澹)について言われており、本伝の記載はやや盛っている可能性がある。。このときになって、劉遵は箕澹らとともに猗盧の部衆三万人、馬牛羊十万を率い、ことごとく劉琨に帰順したので22『魏書』衛操伝にも「於是〔衛〕雄、〔姫〕澹与劉琨任子遵率烏丸、晋人数万衆而叛」とあり、本伝に違背しないが、『魏書』序紀、穆帝九年の条には「衛雄、姫澹率晋人及烏丸三百余家、随劉遵南奔并州」とあり、数字に異同がみられる。ちなみに衛雄と姫澹が連れて行った晋人と烏丸は、『魏書』衛操伝では「新人」とも呼ばれている。拓跋部に内属したばかりの者たちということであろう。あとの注で述べるが、姫澹らは晋人であったと考えられる。、劉琨は勢力を回復した。〔劉琨は〕数百騎を率い〔て北上し〕、平城で23原文は「自平城」。『魏書』衛操伝に「如平城」とあり、『資治通鑑』に「親詣平城」とあるのをふまえて訳出した。劉遵らをねぎらい、受け入れた24原文「琨由是復振、率数百騎自平城撫納之」。『資治通鑑』は句の順番を入れ替えているが、たしかにそうしたほうが文意は通りやすい。訳文は苦しいが、原文の順番どおりに訳出した。。このとき、石勒が楽平を攻め、楽兵太守の韓拠が救援を劉琨に要請した。劉琨は、兵士が新しく合流したので、その高い士気を利用して石勒を威嚇しようと考えた。箕澹は諌めて言った、「これらの人々(新たに合流した人々)は晋人とはいえ25当の箕澹(姫澹)と衛雄も晋人であった可能性が高い。『魏書』衛操伝に「雄字世遠、澹字世雅、並勇健多計画、晋世州従事。既与衛操俱入国、……穆帝初、並見委任。衛操卒後、俱為左右輔相」とある。二人を引き連れた衛操についても同伝に「衛操、字徳元、代人也。……晋征北将軍衛瓘以操為牙門将、……始祖崩後、与従子雄及其宗室郷親姫澹等十数人、同来帰国、説桓穆二帝招納晋人、於是晋人附者稍衆」とある。なお衛操は「代人」とあるが、松下憲一氏によれば、「代人」とは本貫が代という意味ではなく、「北魏社会において特殊な社会集団」の意であり、「代国時代から北魏前期にかけて平城周辺地域、所謂「代」地域」に居住していた人々によって形成されたカテゴリーであるという(松下『北魏胡族体制論』北海道大学出版会、二〇〇七年、一三九頁)。衛操らは穆帝の時期=代国創業期で滅んでいるし、衛雄らにいたってはけっきょく晋に戻っているので、そのような階級意識を有していたとは考えにくいようにも思われるが、後世から見たときには代国黎明期の中心人物=「代人」とみなされたのかもしれない。、ひさしく辺境で過ごしていましたから、恩徳と信義をまだわかっておらず26原文「未習恩信」。『資治通鑑』は「未習明公之恩信」に作る。、法によって統御するのは困難です。いま、内は鮮卑(拓跋氏)が残していった穀物を集め、外は残胡27原文のまま。残っている胡人? 『資治通鑑』は「胡賊」に作り、胡三省注に「胡、謂劉、石也」とある。の牛羊を奪い28攻撃をかけるよりも、物資の収集・蓄積をするべきだ、ということであろう。、さらに関所を閉じて要害を守り、農業に励んで兵士を休め、〔帰順した晋人が〕教化に服して義に感服してから用いれば、功績を立てることができましょう」。劉琨は聴き入れず、全軍を動員し、箕澹に歩騎二万を統率させて前駆とさせ、劉琨みずからは後詰となった。石勒は先に険阻な要地を占拠して伏兵を設けておき、そうして箕澹を攻めると、これをおおいに破った。一軍(箕澹の軍)が全滅したため、并州は震撼した。さらにほどなく、ひどい旱魃になったので、劉琨は窮地に陥って〔并州を〕守ることができなくなった。幽州刺史の鮮卑の段匹磾はしばしば書簡を送って劉琨を招き、協力して王室を助けることを望んでいた。そこで劉琨は軍を率いて段匹磾のもとへ行き、飛狐から薊に入った。段匹磾は劉琨に会うと、はなはだ尊重し、劉琨と婚姻関係を結んで、誓約して兄弟となった。
 このころ、西都(長安)が陥落し、元帝が江左(江南)で称制29自身が発布する文書を制書と称すること。転じて帝号を称することや皇帝を代行することを指す。ここは後者の意であろう。ただし、後文にあるように、劉琨らの勧進表に対して元帝は「令」で返答しており、現実には制書を称していない。実際に制書を称していたかどうかはともかく、「元帝が晋帝の代行についた」という意味で「称制」を用いているのだろう。した。劉琨は長史の温嶠をつかわして勧進させることとし、こうして河朔の征鎮の夷夏(夷狄と中華)百八十人が連名して上表した。その言葉は元帝紀にある。〔元帝は〕令を下して返答した30『芸文類聚』巻一三、晋元帝に「晋元帝答劉琨等令」が引かれているが、以下に引用されているものとはおそらく別。(2020/10/14:注追加)、「豺狼(悪人)が害毒をほしいままに流し、たびかさねて社稷を転覆させた(懐帝と愍帝のこと)。億兆の人民は顔を仰ぎ、首を伸ばして〔救いとなる人物の出現を〕待ち望んでいるが、頼りになる者がいない状態である。そのため、〔孤は〕王位(晋王)につき、天下に応答しようとしたのである。そうして聖主(愍帝)を奪還し、仇を滅ぼし、恥をそそぐことを〔孤は〕望んでいるのであって、どうしてむやみに至極の位(帝位)にあたれようか。このこと(帝位につかないこと)は、孤の至誠を遠近に示すためである。公は〔恵帝以来〕代々の寵遇を受け、人臣の位を極め、忠実公正で、正義と誠意にあふれ、その心は天地を感動させている。まことに公の遠謀に頼り、共同して艱難の救済にあたるつもりである。南北で遠く隔たっているが、心はぴたりと一致し、万里の距離にあるとはいえ、心はすぐそばにある。公よ、華戎(中華と夷狄)を安撫し、罰を醜類(劉聡ら)に下せ。動静を報告するように」。

劉琨(1)劉琨(2)劉琨(3)附:劉群・劉輿・劉演祖逖附:祖納

  • 1
    愍帝紀によれば建興二年二月のこと。(2020/10/19:注追加)
  • 2
    原文「敦詩閲礼之徳」。『左伝』僖公二十七年に「作三軍、謀元帥。趙衰曰、『郤縠可。臣亟聞其言矣、説礼楽而敦詩書、……』」とあるのが出典。
  • 3
    原文「戎昭果毅之威」。『左伝』宣公二年に「戎昭果毅以聴之、之謂礼。殺敵為果、致果為毅、易之戮也」とあり、疏に「昭、明也。兵戎之事、明此果毅」とある。
  • 4
    原文「俯懼折鼎、慮在覆餗」。出典は『易』鼎、九四の爻辞「鼎折足、覆公餗」。位に堪えないことの喩えとして用いられる。『後漢書』謝弼伝の李賢注に「鼎以喩三公。餗、鼎実也。折足覆餗、言不勝其任」とある。
  • 5
    曹沫は『史記』刺客列伝に立伝。魯の将であったが、斉と戦って三度敗れた。魯は土地を割譲して斉と和睦を結ぼうとしたが、その会盟において、曹沫は斉の桓公を匕首で脅しつけ、魯から奪った土地をすべて返させた。
  • 6
    原文「馮異垂翅、而奮翼於澠池」。馮異が赤眉の討伐を命じられたとき、最初は敗北したが最終的には勝利したことを光武帝が「始雖垂翅回谿、終能奮翼黽池」(『後漢書』馮異伝)と喩えたことにもとづく。
  • 7
    原文「非言辞所謝」。自信がない。行動で示すということ?
  • 8
    原文「山陵未兆」。よく読めない。
  • 9
    并州刺史などのことであろう。
  • 10
    行動が位にふさわしくないこと。『易』解、六三の爻辞「負且乗、致寇至」に由来する成語。董仲舒は対策文でこの爻辞を引き、「乗車者君子之位也、負担者小人之事也。此言居君子之位而為庶人之行者、其患禍必至也」と解釈している(『漢書』董仲舒伝)。ほかの用例もおおむね董仲舒と同様の意味で用いられているし、本文もこの意で通じる。
  • 11
    班位、すなわち宮中での席次のこと。朝位、朝班とも言う。簡単に言うと官位のことで、ここでは先帝時代に授かった官を指す。
  • 12
    原文「臣雖頑凶、無覦古人、其於被堅執鋭、致身寇讐、所謂天地之施、群生莫謝不勝」。かなり自信がない。
  • 13
    愍帝紀によると建興二年七月のこと。
  • 14
    おそらく戦勝についての詔。
  • 15
    黄河が東に湾曲しているところのこと。劉聡載記には「曜復次渭汭、趙染次新豊」とあるが、渭汭は河曲と同じ場所を指す。新豊は河曲よりも西方にある県。
  • 16
    『魏書』序紀、穆帝七年の条に「帝復与劉琨約期、会於平陽。会石勒擒王浚、国有匈奴雑胡万余家、多勒種類、聞勒破幽州、乃謀為乱、欲以応勒、発覚、伏誅、討〔劉〕聡之計、於是中止」と、本伝と符合する記述が見えている。
  • 17
    南=石勒、北=猗盧か。
  • 18
    五家一組。ようするに近所。
  • 19
    盧欽伝附諶伝には「琨為司空、以諶為主簿」とみえており、最終的には受けたのかもしれない。
  • 20
    「根」はおそらく普根のこと。『魏書』序紀、穆帝九年の条に「〔穆〕帝召〔長子〕六脩、六脩不至。帝怒、討之、失利、乃微服民間、遂崩。普根先守外境、聞難来赴、攻六脩、滅之。衛雄、姫澹率晋人及烏丸三百余家、随劉遵南奔并州。普根立月余而薨」とみえる。猗盧と六脩との対立については『北史』魏諸宗室伝・六脩伝に詳しい。
  • 21
    『魏書』序紀、穆帝三年の条に「晋并州刺史劉琨遣使、以子遵為質。帝嘉其意、厚報饋之」とある。なお「部衆から慕われていた」という一文は、『魏書』衛操伝だと、猗盧に仕えていてこのときに劉遵といっしょに降った衛雄と箕澹(姫澹)について言われており、本伝の記載はやや盛っている可能性がある。
  • 22
    『魏書』衛操伝にも「於是〔衛〕雄、〔姫〕澹与劉琨任子遵率烏丸、晋人数万衆而叛」とあり、本伝に違背しないが、『魏書』序紀、穆帝九年の条には「衛雄、姫澹率晋人及烏丸三百余家、随劉遵南奔并州」とあり、数字に異同がみられる。ちなみに衛雄と姫澹が連れて行った晋人と烏丸は、『魏書』衛操伝では「新人」とも呼ばれている。拓跋部に内属したばかりの者たちということであろう。あとの注で述べるが、姫澹らは晋人であったと考えられる。
  • 23
    原文は「自平城」。『魏書』衛操伝に「如平城」とあり、『資治通鑑』に「親詣平城」とあるのをふまえて訳出した。
  • 24
    原文「琨由是復振、率数百騎自平城撫納之」。『資治通鑑』は句の順番を入れ替えているが、たしかにそうしたほうが文意は通りやすい。訳文は苦しいが、原文の順番どおりに訳出した。
  • 25
    当の箕澹(姫澹)と衛雄も晋人であった可能性が高い。『魏書』衛操伝に「雄字世遠、澹字世雅、並勇健多計画、晋世州従事。既与衛操俱入国、……穆帝初、並見委任。衛操卒後、俱為左右輔相」とある。二人を引き連れた衛操についても同伝に「衛操、字徳元、代人也。……晋征北将軍衛瓘以操為牙門将、……始祖崩後、与従子雄及其宗室郷親姫澹等十数人、同来帰国、説桓穆二帝招納晋人、於是晋人附者稍衆」とある。なお衛操は「代人」とあるが、松下憲一氏によれば、「代人」とは本貫が代という意味ではなく、「北魏社会において特殊な社会集団」の意であり、「代国時代から北魏前期にかけて平城周辺地域、所謂「代」地域」に居住していた人々によって形成されたカテゴリーであるという(松下『北魏胡族体制論』北海道大学出版会、二〇〇七年、一三九頁)。衛操らは穆帝の時期=代国創業期で滅んでいるし、衛雄らにいたってはけっきょく晋に戻っているので、そのような階級意識を有していたとは考えにくいようにも思われるが、後世から見たときには代国黎明期の中心人物=「代人」とみなされたのかもしれない。
  • 26
    原文「未習恩信」。『資治通鑑』は「未習明公之恩信」に作る。
  • 27
    原文のまま。残っている胡人? 『資治通鑑』は「胡賊」に作り、胡三省注に「胡、謂劉、石也」とある。
  • 28
    攻撃をかけるよりも、物資の収集・蓄積をするべきだ、ということであろう。
  • 29
    自身が発布する文書を制書と称すること。転じて帝号を称することや皇帝を代行することを指す。ここは後者の意であろう。ただし、後文にあるように、劉琨らの勧進表に対して元帝は「令」で返答しており、現実には制書を称していない。実際に制書を称していたかどうかはともかく、「元帝が晋帝の代行についた」という意味で「称制」を用いているのだろう。
  • 30
    『芸文類聚』巻一三、晋元帝に「晋元帝答劉琨等令」が引かれているが、以下に引用されているものとはおそらく別。(2020/10/14:注追加)
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