巻六十二 列伝第三十二 劉琨(4)

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劉琨(1)劉琨(2)劉琨(3)附:劉群・劉輿・劉演祖逖附:祖納

〔劉群:劉琨の子〕

 劉群は字を公度という。若くして広武侯世子に任じられた。父に従って晋陽におり、賊の騒乱に遭遇すると、しばしば偏軍(一部隊)を率いて征討した。性格は清廉で慎み深く、決断力があり、士人の歓心を得ていた。劉琨が段匹磾に殺されると、劉琨の〔もとの〕従事中郎の盧諶らは残党軍を率い、劉群を奉じて段末波に依拠した。温嶠は前後で〔成帝に〕上表して述べた、「姨弟1母の姉妹の息子で、自分より年少の者を指す。温嶠伝によると、「琨妻、嶠之従母也」とあり、劉琨の妻=劉群の母と温嶠の母とは姉妹であった。付言すると、盧欽伝附諶伝によれば、崔悦は劉琨の妻の姪(兄弟姉妹の子)と記されているから、劉琨の妻と温嶠の母とは清河崔氏であったことになる。事実、『世説新語』尤悔篇に「温公初受劉司空使勧進、母崔氏固駐之」とあり、同、劉孝標注に引く「温氏譜」に「嶠父襜、娶清河崔参女」とある。の劉群、および内弟(妻の弟)の崔悦と盧諶は、みな段末波のうちにおりますが、首を上げて南のほうを眺め、〔陛下を〕切望していることでしょう。愚考しますに、彼らはみな文才をそなえており、人々のうちでもいささか惜しむべき人材です。もし〔彼らが陛下から〕徴用のご恩をこうむり、断絶した家を復興すれば、陛下による蘇生の恩恵は、過去に類をみないものとなりましょう」。〔そこで〕咸康二年、成帝は詔を下して劉群らを〔建康に〕召したが、段末波兄弟は彼らの才能を惜しみ、道路が険阻であることにかこつけて、送り出さなかった。
 石季龍が遼西(段遼)を滅ぼすと、劉群、盧諶、崔悦はみな胡のうちに没した2このような場合に用いられる「没」については懐帝紀の訳注を参照。。石季龍はみなを厚く礼遇し、劉群を中書令とした。冉閔が敗北したのちになって、劉群は殺された3『資治通鑑』によれば、冉閔が慕容恪に敗れたさいに「燕人殺魏僕射劉群」とある。。この当時、石勒と石季龍は公卿や士人を捕えると、多くこれを殺した。〔殺されずに〕登用され、最終的に高官にまで昇った者は、わずかに河東の裴憲、渤海の石璞、滎陽の鄭系、潁川の荀綽、北地の傅暢、劉群、崔悦、盧諶ら、十余人だけであった。

〔劉輿:劉琨の兄〕

 劉輿は字を慶孫という。儁朗(有能かつ快活であること)で才幹があり、劉琨と同じく尚書の郭奕の甥(姉妹の子)であり、名声は当世に知れわたっていた。京師では彼ら兄弟についてこう評していた、「洛中の奕奕たりし慶孫と越石」4「奕奕」は美しい、輝いている、雄大な、といった意の形容詞。簡単に言うと立派な人材ということだろう。「洛陽にいる人材のうち、劉輿と劉琨の兄弟は奕奕の語がふさわしい」の意であると思われる。。宰府(宰相の府)に召され、〔ついで〕尚書郎となった。兄弟は日ごろから孫秀を軽蔑していたため、趙王倫が輔政し、孫秀が権力を握ると、二人とも免官された。〔しかし、〕妹は趙王の世子の荂に嫁いでおり、荂は孫秀と不仲であったので、〔荂の計らいによって趙王は?〕ふたたび〔官に任じ、〕劉輿を散騎侍郎とした。斉王冏が輔政すると、劉輿を中書侍郎とした。
 東海王越と范陽王虓が挙兵すると、劉輿を潁川太守とした。河間王顒が劉喬に檄を発し、范陽王を許昌で討伐させるはこびとなると、〔河間王は〕矯詔を下した5以下の詔は恵帝紀、永興二年十月の条に引かれている詔と一部で文言が重複しており、主旨もおおむね同じであるため、おそらく同一の詔であろう。、「潁川太守の劉輿は范陽王虓を脅迫し、詔命(皇帝の命令)に逆らい、私党を多く養い、郡県をほしいままに掠奪し、兵を集めている。劉輿兄弟はむかし、趙王倫と姻戚関係にあったのを利用して、権勢を思いのままにもてあそび、凶悪無道で、久しく誅殺に相当していたものの、たまたま赦令にあったため、首領(頭と首)を保つことができたのである。〔それでも彼ら〕小人ははばかることなく、悪事を働いて日に日にひどくなり、かってに苟晞を兗州刺史に任命し、王命を断っている。鎮南大将軍の劉弘、平南将軍の彭城王釈、征東大将軍の劉準は、それぞれ麾下の軍を率い、許昌に直行して集合し、劉喬と力を合わせよ。いま、右将軍の張方を派遣して大都督とし、建威将軍の呂朗、陽平太守の刁黙を監督させ、歩騎十万を統率させる。みな許昌に集合し、劉輿兄弟を排除せよ。あえて挙兵して王命に逆らう者がいれば、誅殺は五族にまで及ぶものとする。劉輿兄弟を殺して首を送ってきた者は、三千戸の県侯に封じ、絹五千匹を下賜する」。
 范陽王虓が敗北すると、劉輿は范陽王といっしょに河北へ敗走した。范陽王が鄴に鎮すると、劉輿を征虜将軍、魏郡太守とした。
 范陽王虓が薨じると、東海王越は劉輿を召そうとしたが、ある人がこう言った、「劉輿は膩6胡三省によれば「皮脂汚れ」の意味。『資治通鑑』胡三省注に「皮膚之垢、其肥滑者為膩」とある。のような汚れた人間ですから、〔彼が〕近くに寄ってくれば人を汚すことでしょう」。〔劉輿は〕到着したが、東海王は迷って彼と会わずにいた。劉輿はひそかに天下の兵簿、倉庫〔の場所〕、牛馬と兵器〔のありか〕、河川と陸上の地形を確認し、すべて暗記しておいた7『世説新語』賞誉篇の劉孝標注に引く「晋陽秋」に「太傅将召劉輿、或曰、『輿、猶膩也、近将汙人』。太傅疑而禦之。輿乃密視天下兵簿、諸屯戍及倉庫処所、人穀多少、牛馬器械、水陸地形、皆黙識之。是時軍国多事、毎会議事、自潘滔以下皆不知所対、輿便屈指籌計、所発兵仗処所、糧廩運転、事無凝滞。於是太傅遂委仗之」とある。訳文はこれをふまえて補ってある。。この当時、軍事と国事は仕事が多く、会議のたび、〔東海王府の〕潘滔より以下は、どう返答したらよいのかわからなかった。劉輿は東海王に接見すると、機会をうかがって計画を論じたので、東海王は膝を乗り出して応酬し、〔劉輿を〕すぐに左長史とした。東海王が〔朝政を〕総録(一手に握る)すると、劉輿を上佐とした。〔劉輿への〕賓客は席を埋めるほどで、文書は机にあふれ、遠近からの書類は毎日数千あったが、終日倦むことなく、徹夜で仕事をすることもあった。人々はみな、のびのびと楽しみ、誰もが喜んで慕った。命議8『宋書』『南斉書』にいくつか用例が見えるが、不詳。上から検討するように命じられた議の意か。〔で出される彼の意見(?)〕は流れるようで、応答には誠意がこもっていて偽りがなかった。世の人々は彼の能力に感服し、陳遵になぞらえた。東海王の府には三才がいると世の人々は称えていた。すなわち、潘滔は大才、劉輿は長才、裴邈は清才である、と。東海王が繆播、王延らを誅殺したのは、すべて劉輿の謀略である。王延の愛妾である荊氏は音芸をそなえていたが、王延がまだ棺に入れられていないのに、劉輿は荊氏を娶ろうとした。〔しかし〕まだ迎えに行かないうちに、太傅従事中郎の王儁に〔荊氏を〕奪われてしまった。御史中丞の傅宣が弾劾したが、東海王は劉輿を不問とするいっぽう、王儁を免官した。劉輿は東海王に説いて、劉琨を派遣して并州に出鎮させ、東海王の北方の重鎮とするよう勧めた。洛陽がまだ陥落していないとき、指に悪性のはれものができ、卒した。享年四十七。驃騎将軍を追贈された。これより以前、功績があったので定襄侯に封じられていたが、貞の諡号をおくられた。子の劉演があとを継いだ。

〔劉演:劉輿の子〕

 劉演は字を始仁という。最初は太尉掾に召され、〔ついで〕尚書郎に任じられたが、父(劉輿)の死去を理由に職を去った。服喪が終わると、爵(定襄侯)を継ぎ、太傅の東海王越が召して主簿とした。太子中庶子に移り、〔地方へ〕出て陽平太守となった。〔まだ赴任しないうちに洛陽が陥落すると(?)、〕洛陽から劉琨のもとへ逃げた。劉琨は輔国将軍、魏郡太守とした9石勒載記上に、石勒が鄴の三台を守っている劉演を攻める記述がみえるが、おそらく魏郡太守時代のことであろう(魏郡の郡治は鄴のため)。(2020/10/19:注追加)。劉琨は石勒を討伐しようとし、劉演に勇士千人を統率させ、行北中郎将、兗州刺史とし、廩丘に出鎮させた10石勒載記上には「建興元年、石季龍攻鄴三台、鄴潰、 劉演奔于廩丘」とあり、石氏に攻められて鄴が陥落したため、廩丘へ敗走したのだとする。(2020/10/19:注追加)。劉演は王桑を斬り、趙固を敗走させ、兵士七千人を得た。石勒の攻撃を受けると、劉演は防戦し、石勒は撤退した。元帝は都督、後将軍、仮節に任じた。のち、石季龍に包囲されると、邵続と段鴦に救援を要請した11石勒載記上も「邵続使文鴦救演」とするが、『資治通鑑』には「石勒使石虎攻劉演于廩丘、幽州刺史段匹磾使其弟文鴦救之」と、段文鴦の派遣は段匹磾の命によるものだったという。(2020/10/19:注追加)推測になるが、邵続伝によると、邵続は段匹磾の勧めで石勒から離反し、晋に帰順すると、ついで救援を段匹磾に要請し、段匹磾は段文鴦を応援に派遣したそうである。その後の記述をみると、邵続と段文鴦はそのまま行動をともにしているらしく、段文鴦は段匹磾の居留する薊ではなく、邵続の拠っていた厭次に留まっていたのかもしれない。ここで邵続と段文鴦の名が並列しているのはかかる事情にもとづくのであろう。(2020/11/15:追々記)。段鴦は騎兵で劉演を救援すると、石季龍は逃走した。〔劉演は〕段鴦に随行して厭次(邵続の駐屯地)に駐屯したが12石勒載記上だと、石虎の逃走は偽りのもので、虚を突いて劉演の支援軍を撃退し、ついには廩丘も落としたのだという。そして劉演は救援に来ていた段鴦(段文鴦)のもとへ敗走し、そのまま厭次へ行ったようである。訳注の(3)を参照。(以下追記)なお愍帝紀によれば、廩丘陥落は建興四年四月のこと。(2020/10/19:注追加)、〔のちに厭次が陥落すると〕殺された。
 〔劉演の〕弟の劉胤は劉琨のために兵を引き連れていったが、その道中で烏桓の賊に遭遇し、戦死した。劉胤の弟の劉挹は、最初に太傅の東海王越の掾となり、劉琨といっしょに殺された。劉挹の弟の劉啓、劉啓の弟の劉述は、劉琨の子の劉群とともに段末波のうちにおり、のちに〔段氏が滅ぼされると〕そろって石季龍のもとに入った13劉啓については、石勒載記上および『資治通鑑』は廩丘陥落時に石虎が捕えたとしている。(2020/10/19:注追加)。劉啓は石季龍の尚書僕射となり、のちに帰国し14北方に残留していた士人の「帰国」とか「帰」とかいう文言は、南の政権(この場合は東晋)に「戻った」ことを言い表している。、穆帝は前将軍、加給事中に任じた。永和九年、中軍将軍の殷浩の北伐に従軍したが、〔北伐軍は〕姚襄に破られ、劉啓は戦死した。劉述は石季龍の侍中となり、劉啓に付き従って帰国し、驍騎将軍に任じられた。

劉琨(1)劉琨(2)劉琨(3)附:劉群・劉輿・劉演祖逖附:祖納

(2020/10/10:公開)

  • 1
    母の姉妹の息子で、自分より年少の者を指す。温嶠伝によると、「琨妻、嶠之従母也」とあり、劉琨の妻=劉群の母と温嶠の母とは姉妹であった。付言すると、盧欽伝附諶伝によれば、崔悦は劉琨の妻の姪(兄弟姉妹の子)と記されているから、劉琨の妻と温嶠の母とは清河崔氏であったことになる。事実、『世説新語』尤悔篇に「温公初受劉司空使勧進、母崔氏固駐之」とあり、同、劉孝標注に引く「温氏譜」に「嶠父襜、娶清河崔参女」とある。
  • 2
    このような場合に用いられる「没」については懐帝紀の訳注を参照。
  • 3
    『資治通鑑』によれば、冉閔が慕容恪に敗れたさいに「燕人殺魏僕射劉群」とある。
  • 4
    「奕奕」は美しい、輝いている、雄大な、といった意の形容詞。簡単に言うと立派な人材ということだろう。「洛陽にいる人材のうち、劉輿と劉琨の兄弟は奕奕の語がふさわしい」の意であると思われる。
  • 5
    以下の詔は恵帝紀、永興二年十月の条に引かれている詔と一部で文言が重複しており、主旨もおおむね同じであるため、おそらく同一の詔であろう。
  • 6
    胡三省によれば「皮脂汚れ」の意味。『資治通鑑』胡三省注に「皮膚之垢、其肥滑者為膩」とある。
  • 7
    『世説新語』賞誉篇の劉孝標注に引く「晋陽秋」に「太傅将召劉輿、或曰、『輿、猶膩也、近将汙人』。太傅疑而禦之。輿乃密視天下兵簿、諸屯戍及倉庫処所、人穀多少、牛馬器械、水陸地形、皆黙識之。是時軍国多事、毎会議事、自潘滔以下皆不知所対、輿便屈指籌計、所発兵仗処所、糧廩運転、事無凝滞。於是太傅遂委仗之」とある。訳文はこれをふまえて補ってある。
  • 8
    『宋書』『南斉書』にいくつか用例が見えるが、不詳。上から検討するように命じられた議の意か。
  • 9
    石勒載記上に、石勒が鄴の三台を守っている劉演を攻める記述がみえるが、おそらく魏郡太守時代のことであろう(魏郡の郡治は鄴のため)。(2020/10/19:注追加)
  • 10
    石勒載記上には「建興元年、石季龍攻鄴三台、鄴潰、 劉演奔于廩丘」とあり、石氏に攻められて鄴が陥落したため、廩丘へ敗走したのだとする。(2020/10/19:注追加)
  • 11
    石勒載記上も「邵続使文鴦救演」とするが、『資治通鑑』には「石勒使石虎攻劉演于廩丘、幽州刺史段匹磾使其弟文鴦救之」と、段文鴦の派遣は段匹磾の命によるものだったという。(2020/10/19:注追加)推測になるが、邵続伝によると、邵続は段匹磾の勧めで石勒から離反し、晋に帰順すると、ついで救援を段匹磾に要請し、段匹磾は段文鴦を応援に派遣したそうである。その後の記述をみると、邵続と段文鴦はそのまま行動をともにしているらしく、段文鴦は段匹磾の居留する薊ではなく、邵続の拠っていた厭次に留まっていたのかもしれない。ここで邵続と段文鴦の名が並列しているのはかかる事情にもとづくのであろう。(2020/11/15:追々記)
  • 12
    石勒載記上だと、石虎の逃走は偽りのもので、虚を突いて劉演の支援軍を撃退し、ついには廩丘も落としたのだという。そして劉演は救援に来ていた段鴦(段文鴦)のもとへ敗走し、そのまま厭次へ行ったようである。訳注の(3)を参照。(以下追記)なお愍帝紀によれば、廩丘陥落は建興四年四月のこと。(2020/10/19:注追加)
  • 13
    劉啓については、石勒載記上および『資治通鑑』は廩丘陥落時に石虎が捕えたとしている。(2020/10/19:注追加)
  • 14
    北方に残留していた士人の「帰国」とか「帰」とかいう文言は、南の政権(この場合は東晋)に「戻った」ことを言い表している。
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