巻四十五 列伝第十五 劉毅(2)

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劉毅/附:劉暾・程衛/和嶠・武陔・任愷/崔洪・郭奕・侯史光・何攀

〔劉暾〕

 劉暾は字を長升という。正直な気質で、父(劉毅)の風格を備えていた。太康のはじめ、博士となった。そのころ、斉王攸が就国するにあたり、典礼を加崇することについての議論が開かれた。劉暾はほかの博士たちとともに、武帝の意向に逆らった議を提出したことで罪に問われた1この詳議については庾純伝附旉伝に詳しく記されている。武帝は斉王攸の就国にあわせ、どのような礼物を加崇するべきかについて、博士などの礼官に議を命じた。ところが、庾旉や劉暾ら博士八人は(おそらく連名で)上表し、そもそも大司馬の位にある斉王を就国させること自体、礼制にもとっていると陳述し、就国そのものを諫めるかたちとなった。「武帝の意向に逆らった」というのはこのことを言う。。武帝はおおいに怒り、劉暾らを逮捕して廷尉に収監させた。ちょうど赦令が下って獄から出ることができたが、免官された。これ以前、劉暾の父の劉毅は馮紞の邪悪ぶりを憎み、彼の罪を上奏するつもりであったが、果たすことができずに卒してしまったのであった。このとき、馮紞の位宦(官位?)は日に日に高まるので、劉暾は慨嘆して言った、「先人(父=劉毅)が生きておられれば、馮紞をただで済ませるようなことはしなかっただろうに」2馮紞伝によれば、斉王攸の就国を武帝に進言したのは馮紞である(荀勖の意向を受けてのことであったとされるが)。ここで馮紞の名が出てくるのはかかる背景のゆえであろう。
 のち、酸棗令となり、侍御史に移った。ちょうどそのころ、司徒の王渾の主簿である劉輿が〔罪人の〕獄辞3取り調べの供述の意。なお劉琨の兄である劉輿は、列伝によると「宰府」に辟召されているが(劉琨伝附輿伝)、「宰府」は司徒府を指していると解釈することも可能なので、ここにみえる劉輿と同一人物であるかもしれない。に連なって出てきたため、劉暾は劉輿を逮捕して廷尉に送ろうとした4原文「獄辞連暾、将収付廷尉」。「辞連某」と言う場合、多くは「供述から某の関与が明らかになった」という意味である。すると、この中華書局の句読どおりに読んでみると、「劉輿の供述から劉暾の関与が明らかになったので、朝廷は劉暾を逮捕しようとした」ということになってしまい、後文とのつながりがよくない。やや強引な読み方になってしまいそうだが、句読を「獄辞連、暾将収付廷尉」に改め、「取り調べ中の罪人の供述から劉輿の関与が明らかになったため、劉暾は劉輿を捕えようとした」と読んでみることにした。。王渾は府に不祥事を起こさせたくなかったため、弾劾を阻止してみずから劉輿を検挙しようとした。そして劉暾と批判の応酬になると、王渾は怒り、位を辞して邸宅に帰ろうとした5つまり官を退くことを申し出たということ。まだ申し出たのみの段階であったはず。。そこで劉暾は上奏して王渾について述べた、「謹みて案じますに、司徒の王渾は国家の厚恩をこうむり、位を鼎司(三公)に充てられたにもかかわらず、上は天子を輔佐して陰陽を調和できず、下は万物のよろしきをかなえさせ、卿大夫に各自の適所を得させることもできていません6この箇所は漢の文帝に陳平が言った言葉を意識していると思われる。『史記』陳丞相世家に「宰相者、上佐天子理陰陽、順四時、下育万物之宜、外鎮撫四夷諸侯、内親附百姓、使卿大夫各得任其職焉」とある。。劉輿が詔使7詔の使者、つまり天子の使者を指すと考えられる。弾劾を受けて発布された詔を伝える使者か。を拒んだのをあえて利用し、大府(司徒府)が裁判をむやみに起こすことを自分の都合で望んでいます8原文「私欲大府興長獄訟」。こういうふうに訳出してしまってよいのか自信がもてない。。むかし、陳平は漢の文帝の〔国政に関する具体的な〕質問に〔専門の官にたずねるようにだけ述べて〕回答せず、邴吉は〔道ばたで遭遇した〕死人が出ている事件を〔小事とみなして〕何も問いませんでしたが、彼らはまことに宰相の本質を体得しています。裁判をむやみに起こそうとしたうえ、〔批判を受けると〕怒って朝廷から身を退こうとしていますけれども、その挙動は軽々しいものであり、大臣としての節操が欠けています。渾の官を免じなさいますよう、要望いたします。〔司徒府の〕右長史である楊丘亭侯の劉肇は便辟にして善柔なる者で9どちらも『論語』季氏篇が出典。「便辟」が「人のいやがることを避けて媚びる」、「善柔」は「おだやかで明るい顔つきをもっておもねる」。、迎合して取り繕っています。爵と封国を貶割なさいますよう、大鴻臚に要望いたします10『宋書』百官志上に「大鴻臚、掌賛導拝授諸王」とあり、大鴻臚は諸侯関連の業務を主管していたのであろう。」。およそ、劉暾のこの奏文を聞いた者は、みなこれに感嘆したのであった11なお王渾伝を参照するかぎり、王渾はたぶん免官されていない。
 そののち、武庫で火災が起こったとき、列曹尚書の郭彰は百人を率いて自衛するだけで、消火活動にあたらなかった。劉暾は顔つきを正して郭彰を詰問した。郭彰は怒って、「私は君の冠の角を斬れるんだぞ」と言った。劉暾はカチンときて郭彰に言った、「君、寵愛を恃んで権力を振りかざしたり恩賞をばらまいたりして人に言うことを聞かせようというのかい。これは天子から授かった法冠だぞ。その角を斬ろうとは何事だ」。〔人に〕紙と筆を求めてこの件を奏文にしたためようとしたところ、郭彰は俯いて何も言おうとしなかった。周囲の人々がとりなしたので、奏聞はやめになった。郭彰は久しく高貴な身分にあり、奢侈で、外出のたびに百余人を従えていたが、これ以後、簡素に努めるようになった12『通典』巻二四、侍御史の自注に「晋武庫失火、尚書郭彰与侍御史劉暾典知修復。彰以后親軽傲、以功程之聞呵暾曰、『我不能截卿角耶』。以御史著法冠、有両角故也。暾厲色曰、『天子法冠、而欲截角』。命紙筆奏之」とあるのにもとづいて訳出した。
 劉暾は太原内史に移った。趙王倫が帝位を奪うと、〔劉暾に〕征虜将軍を授けたが、〔劉暾は〕受けず、三王(斉王冏ら)とともに起義した。恵帝が帝位に回復すると、劉暾は尚書左丞となり、顔つきを正して朝廷に臨んだので、三台(中央官署?)は清らかで厳粛になった。ほどなく兼御史中丞となり、上奏して尚書僕射の東安公繇、董艾ら十余人の免官を求めた。朝廷はこれを嘉し、そのまま真官に就かせた13原文「即真」。いわゆる「試守満歳為真」と同様の意味であるのか、詳しくないのでわからない。兼であった御史中丞が本官になったというふうにも読める。。太子中庶子、左衛将軍、司隷校尉に移った。〔司隷校尉として〕上奏して武陵王澹、何綏、劉坦、温畿、李晅らを罷免した。長沙王乂が斉王冏を討ったさい、劉暾はその謀略に参与したので、朱虚県侯に封じられ、食邑は千八百戸とされた。長沙王が死ぬと、罪に問われて免官された。しばらくすると、ふたたび司隷校尉になった。
 恵帝が長安へ行幸すると、劉暾を留めて洛陽を守らせた。河間王顒が使者をつかわして羊皇后を毒殺しようとしたため、劉暾は留台僕射の荀藩、河南尹の周馥らとともに上表し、皇后の無罪を弁論した。その言葉は皇后伝に記してある。河間王はその上表を見るとおおいに怒り、陳顔と呂朗を派遣し、騎兵五千を統率させて劉暾を捕えさせようとしたが、劉暾は東の高密王略(青州に出鎮)のもとへ逃げた。ちょうど劉根が反乱を起こしたので、高密王は劉暾を大都督とし、鎮軍将軍を加え、劉根を討伐させた。劉暾は戦ったものの、勝利できず、洛陽へ戻ってしまった。酸棗に着くと、東海王越が天子を奉迎しようとするところに遭遇し〔、そのまま合流することにし〕た。恵帝が洛陽へ帰還すると、羊皇后も宮殿に戻った。羊皇后は使者をつかわして劉暾に感謝を述べた、「劉司隷が忠誠のお心をおもちであったおかげで、こんにちを得ることができました」。旧勲(羊皇后を救済したこと?)をもって封国と爵(朱虚県侯)を回復され、光禄大夫を加えられた。
 劉暾の妻はこれ以前に卒してしまっており、先に合葬墓に埋葬してあった。〔このころ、〕子の劉更生が初婚を迎えたが、家法では、その妻は墓を参拝せねばならず、そのさいは〔劉家の?〕賓客や親族を車数十乗に乗せて連れて行き、酒食を積んで行くしきたりであった。これより以前、洛陽令の王棱は東海王から信任を得ていたが、劉暾を軽視していた。劉暾はいつも王棱を糾弾しようと思っていたので、王棱は不満を抱いていた。このころ、劉聡や王弥が黄河の北に駐屯しており、京師はおびえていた。王棱は東海王に報告し、〔劉暾が一族を連れて出かけているが、〕劉暾は王弥と同郷であるから、王弥のもとへ投じようとしているのだと訴えた。東海王は騎兵を整え、劉暾を追おうとしたが、〔東海王の〕右長史の傅宣が、劉暾はそんなことをしないと潔白を述べた。劉暾がこの一件を耳にすると、墓に着く前に引き返し、正当な道義にもとづいて東海王を批判したため、東海王ははなはだ恥じ入った。
 劉曜が京師を侵略すると、劉暾を撫軍将軍、仮節、都督城守諸軍事とした。劉曜が退却すると、尚書僕射に移った。東海王は、劉暾が長いあいだ監司(監察官)に就いていること、〔監察官として〕人心を得ていることを嫌がったため、〔劉暾を〕右光禄大夫、領太子少傅とし、散騎常侍を加えた。外面上は昇進を示したのだが、内実は劉暾の権力を奪ったのである。懐帝はさらに劉暾に詔を下し、領衛尉とし、特進を加えた。のち、ふたたび劉暾を司隷校尉とし、侍中を加えた。劉暾は五たび司隷校尉になったが、それは人心に適っていたからである。
 王弥が洛陽に入ると、百官は皆殺しにされた。王弥は、劉暾が郷里の宿望であったので〔殺さず〕、このため〔劉暾は〕難を逃れたのであった。劉暾は王弥に説いて言った、「現在、英雄が競って決起し、九州は分裂し、不世出の功績をあげた者は天下に入りきらないほどいます。将軍は挙兵以来、攻めて下せなかったものはなく、戦って勝てなかったものはなく14ひじょうに強力な軍である、つまり警戒をもたれるはずである、と言いたいのであろう。、そのうえ劉曜とは不和です。文種の災難を考慮し、范蠡を手本となさるのがよいでしょう15文種と范蠡はともに越王句践に仕えた臣。句践が呉を滅ぼし、覇王を称すと、范蠡は危険を察知してすばやく越を去った。その際に文種にも越を離れるよう勧めたが、文種は越を去らなかった。文種はほどなく讒言をこうむり、死を賜った。。しばらくのあいだ、将軍は帝王への大志をお忘れになり、東の本州(郷里の青州)で王となり、そうして情勢を観察なさるのがよいと考えます。〔そうすれば、〕上は天下を統一でき、下は鼎立の事態を造成できるでしょう。〔最低でも〕孫氏や劉氏のようになれない、といったことはないはずです。蒯通は〔韓信に勧めて、漢からそむいて天下三分の情勢をなすよう〕進言したものです。将軍よ、このことをご考慮なさいますよう」。王弥はそのとおりだと思い、劉暾を青州へつかわし、〔先に青州に戻っていた〕曹嶷と計画を練らせ、かつ曹嶷を召集させた。劉暾が東阿に着くと、石勒の游騎に捕えられた。〔石勒は〕王弥の曹嶷宛の書簡を見るとおおいに怒り、劉暾を殺した16王弥伝や石勒載記上によれば、劉暾は石勒暗殺の計画を進めるために青州へ向かい、曹嶷を呼び寄せるところであった。書簡にはその計画が記されていたため、石勒は怒ったのである。。劉暾には劉佑、劉白の二人の息子がいた。
 劉佑は太傅属となり、劉白は太子舎人となった。劉白は勇猛で荒々しく、才幹はあったが、東海王越は彼を嫌っていた。ひそかに上軍将軍の何倫に百余人を率いさせて劉暾の邸宅に侵入させると、金目の物を強盗させ、劉白を殺させてから去らせた。
 劉総は字を弘紀という(劉暾の兄弟)。学問を好み、正直で誠実な人柄であった。叔父の劉彪のあとを継ぎ、官位は北軍中候にまでのぼった。

劉毅/附:劉暾・程衛/和嶠・武陔・任愷/崔洪・郭奕・侯史光・何攀

(2021/2/11:公開)

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    この詳議については庾純伝附旉伝に詳しく記されている。武帝は斉王攸の就国にあわせ、どのような礼物を加崇するべきかについて、博士などの礼官に議を命じた。ところが、庾旉や劉暾ら博士八人は(おそらく連名で)上表し、そもそも大司馬の位にある斉王を就国させること自体、礼制にもとっていると陳述し、就国そのものを諫めるかたちとなった。「武帝の意向に逆らった」というのはこのことを言う。
  • 2
    馮紞伝によれば、斉王攸の就国を武帝に進言したのは馮紞である(荀勖の意向を受けてのことであったとされるが)。ここで馮紞の名が出てくるのはかかる背景のゆえであろう。
  • 3
    取り調べの供述の意。なお劉琨の兄である劉輿は、列伝によると「宰府」に辟召されているが(劉琨伝附輿伝)、「宰府」は司徒府を指していると解釈することも可能なので、ここにみえる劉輿と同一人物であるかもしれない。
  • 4
    原文「獄辞連暾、将収付廷尉」。「辞連某」と言う場合、多くは「供述から某の関与が明らかになった」という意味である。すると、この中華書局の句読どおりに読んでみると、「劉輿の供述から劉暾の関与が明らかになったので、朝廷は劉暾を逮捕しようとした」ということになってしまい、後文とのつながりがよくない。やや強引な読み方になってしまいそうだが、句読を「獄辞連、暾将収付廷尉」に改め、「取り調べ中の罪人の供述から劉輿の関与が明らかになったため、劉暾は劉輿を捕えようとした」と読んでみることにした。
  • 5
    つまり官を退くことを申し出たということ。まだ申し出たのみの段階であったはず。
  • 6
    この箇所は漢の文帝に陳平が言った言葉を意識していると思われる。『史記』陳丞相世家に「宰相者、上佐天子理陰陽、順四時、下育万物之宜、外鎮撫四夷諸侯、内親附百姓、使卿大夫各得任其職焉」とある。
  • 7
    詔の使者、つまり天子の使者を指すと考えられる。弾劾を受けて発布された詔を伝える使者か。
  • 8
    原文「私欲大府興長獄訟」。こういうふうに訳出してしまってよいのか自信がもてない。
  • 9
    どちらも『論語』季氏篇が出典。「便辟」が「人のいやがることを避けて媚びる」、「善柔」は「おだやかで明るい顔つきをもっておもねる」。
  • 10
    『宋書』百官志上に「大鴻臚、掌賛導拝授諸王」とあり、大鴻臚は諸侯関連の業務を主管していたのであろう。
  • 11
    なお王渾伝を参照するかぎり、王渾はたぶん免官されていない。
  • 12
    『通典』巻二四、侍御史の自注に「晋武庫失火、尚書郭彰与侍御史劉暾典知修復。彰以后親軽傲、以功程之聞呵暾曰、『我不能截卿角耶』。以御史著法冠、有両角故也。暾厲色曰、『天子法冠、而欲截角』。命紙筆奏之」とあるのにもとづいて訳出した。
  • 13
    原文「即真」。いわゆる「試守満歳為真」と同様の意味であるのか、詳しくないのでわからない。兼であった御史中丞が本官になったというふうにも読める。
  • 14
    ひじょうに強力な軍である、つまり警戒をもたれるはずである、と言いたいのであろう。
  • 15
    文種と范蠡はともに越王句践に仕えた臣。句践が呉を滅ぼし、覇王を称すと、范蠡は危険を察知してすばやく越を去った。その際に文種にも越を離れるよう勧めたが、文種は越を去らなかった。文種はほどなく讒言をこうむり、死を賜った。
  • 16
    王弥伝や石勒載記上によれば、劉暾は石勒暗殺の計画を進めるために青州へ向かい、曹嶷を呼び寄せるところであった。書簡にはその計画が記されていたため、石勒は怒ったのである。
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