巻四十五 列伝第十五 劉毅(2) 和嶠 武陔

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劉毅/劉毅(附:劉暾・程衛)・和嶠・武陔任愷・崔洪・郭奕・侯史光・何攀

〔劉暾:劉毅の子〕

 劉暾は字を長升という。正直な気質で、父(劉毅)の風格を備えていた。太康のはじめ、博士となった。そのころ、斉王攸が就国するにあたり、典礼を加崇することについての議論が開かれた。劉暾はほかの博士たちとともに、武帝の意向に逆らった議を提出したことで罪に問われた1この詳議については庾純伝附旉伝に詳しく記されている。武帝は斉王攸の就国にあわせ、どのような礼物を加崇するべきかについて、博士などの礼官に議を命じた。ところが、庾旉や劉暾ら博士八人は(おそらく連名で)上表し、そもそも大司馬の位にある斉王を就国させること自体、礼制にもとっていると陳述し、就国そのものを諫めるかたちとなった。「武帝の意向に逆らった」というのはこのことを言う。。武帝はおおいに怒り、劉暾らを逮捕して廷尉に収監させた。ちょうど赦令が下って獄から出ることができたが、免官された。これ以前、劉暾の父の劉毅は馮紞の邪悪ぶりを憎み、彼の罪を上奏するつもりであったが、果たすことができずに卒してしまったのであった。このとき、馮紞の位宦(官位?)は日に日に高まるので、劉暾は慨嘆して言った、「先人(父=劉毅)が生きておられれば、馮紞をただで済ませるようなことはしなかっただろうに」2馮紞伝によれば、斉王攸の就国を武帝に進言したのは馮紞である(荀勖の意向を受けてのことであったとされるが)。ここで馮紞の名が出てくるのはかかる背景のゆえであろう。
 のち、酸棗令となり、侍御史に移った。ちょうどそのころ、司徒の王渾の主簿である劉輿が〔罪人の〕獄辞3取り調べの供述の意。なお劉琨の兄である劉輿は、列伝によると「宰府」に辟召されているが(劉琨伝附輿伝)、「宰府」は司徒府を指していると解釈することも可能なので、ここにみえる劉輿と同一人物であるかもしれない。に連なって出てきたため、劉暾は劉輿を逮捕して廷尉に送ろうとした4原文「獄辞連暾、将収付廷尉」。「辞連某」と言う場合、多くは「供述から某の関与が明らかになった」という意味である。すると、この中華書局の句読どおりに読んでみると、「劉輿の供述から劉暾の関与が明らかになったので、朝廷は劉暾を逮捕しようとした」ということになってしまい、後文とのつながりがよくない。やや強引な読み方になってしまいそうだが、句読を「獄辞連、暾将収付廷尉」に改め、「取り調べ中の罪人の供述から劉輿の関与が明らかになったため、劉暾は劉輿を捕えようとした」と読んでみることにした。。王渾は府に不祥事を起こさせたくなかったため、弾劾を阻止してみずから劉輿を検挙しようとした。そして劉暾と批判の応酬になると、王渾は怒り、位を辞して私宅に帰ろうとした5つまり官を退くことを申し出たということ。まだ申し出たのみの段階であったはず。。そこで劉暾は上奏して王渾について述べた、「謹みて案じますに、司徒の王渾は国家の厚恩をこうむり、位を鼎司(三公)に充てられたにもかかわらず、上は天子を輔佐して陰陽を調和できず、下は万物のよろしきをかなえさせ、卿大夫に各自の適所を得させることもできていません6この箇所は漢の文帝に陳平が言った言葉を意識していると思われる。『史記』陳丞相世家に「宰相者、上佐天子理陰陽、順四時、下育万物之宜、外鎮撫四夷諸侯、内親附百姓、使卿大夫各得任其職焉」とある。。劉輿が詔使7詔の使者、つまり天子の使者を指すと考えられる。弾劾を受けて発布された詔を伝える使者か。を拒んだのをあえて利用し、大府(司徒府)が裁判をむやみに起こすことを自分の都合で望んでいます8原文「私欲大府興長獄訟」。こういうふうに訳出してしまってよいのか自信がもてない。。むかし、陳平は漢の文帝の〔国政に関する具体的な〕質問に〔専門の官にたずねるようにだけ述べて〕回答せず、邴吉は〔道ばたで遭遇した〕死人が出ている事件を〔小事とみなして〕何も問いませんでしたが、彼らはまことに宰相の本質を体得しています。裁判をむやみに起こそうとしたうえ、〔批判を受けると〕怒って朝廷から身を退こうとしていますけれども、その挙動は軽々しいものであり、大臣としての節操が欠けています。渾の官を免じなさいますよう、要望いたします。〔司徒府の〕右長史である楊丘亭侯の劉肇は便辟にして善柔なる者で9どちらも『論語』季氏篇が出典。「便辟」が「人のいやがることを避けて媚びる」、「善柔」は「おだやかで明るい顔つきをもっておもねる」。、迎合して取り繕っています。爵と封国を貶割なさいますよう、大鴻臚に要望いたします10『宋書』百官志上に「大鴻臚、掌賛導拝授諸王」とあり、大鴻臚は諸侯関連の業務を主管していたのであろう。」。およそ、劉暾のこの奏文を聞いた者は、みなこれに感嘆したのであった11なお王渾伝を参照するかぎり、王渾はたぶん免官されていない。
 そののち、武庫で火災が起こったとき、列曹尚書の郭彰は百人を率いて自衛するだけで、消火活動にあたらなかった。劉暾は顔つきを正して郭彰を詰問した。郭彰は怒って、「私は君の冠の角を斬れるんだぞ」と言った。劉暾はカチンときて郭彰に言った、「君、寵愛を恃んで権力を振りかざしたり恩賞をばらまいたりして人に言うことを聞かせようというのかい。これは天子から授かった法冠だぞ。その角を斬ろうとは何事だ」。〔人に〕紙と筆を求めてこの件を奏文にしたためようとしたところ、郭彰は俯いて何も言おうとしなかった。周囲の人々がとりなしたので、奏聞はやめになった。郭彰は久しく高貴な身分にあり、奢侈で、外出のたびに百余人を従えていたが、これ以後、簡素に努めるようになった12『通典』巻二四、侍御史の自注に「晋武庫失火、尚書郭彰与侍御史劉暾典知修復。彰以后親軽傲、以功程之聞呵暾曰、『我不能截卿角耶』。以御史著法冠、有両角故也。暾厲色曰、『天子法冠、而欲截角』。命紙筆奏之」とあるのにもとづいて訳出した。
 劉暾は太原内史に移った。趙王倫が帝位を奪うと、〔劉暾に〕征虜将軍を授けたが、〔劉暾は〕受けず、三王(斉王冏ら)とともに起義した。恵帝が帝位に回復すると、劉暾は尚書左丞となり、顔つきを正して朝廷に臨んだので、三台(中央官署?)は清らかで厳粛になった。ほどなく兼御史中丞となり、上奏して尚書僕射の東安公繇、董艾ら十余人の免官を求めた。朝廷はこれを嘉し、そのまま真官に就かせた13原文「即真」。いわゆる「試守満歳為真」と同様の意味であるのか、詳しくないのでわからない。兼であった御史中丞が本官になったというふうにも読める。。太子中庶子、左衛将軍、司隷校尉に移った。〔司隷校尉として〕上奏して武陵王澹、何綏、劉坦、温畿、李晅らを罷免した。長沙王乂が斉王冏を討ったさい、劉暾はその謀略に参与したので、朱虚県侯に封じられ、食邑は千八百戸とされた。長沙王が死ぬと、罪に問われて免官された。しばらくすると、ふたたび司隷校尉になった。
 恵帝が長安へ行幸すると、劉暾を留めて洛陽を守らせた。河間王顒が使者をつかわして羊皇后を毒殺しようとしたため、劉暾は留台僕射の荀藩、河南尹の周馥らとともに上表し、皇后の無罪を弁論した。その言葉は皇后伝に記してある。河間王はその上表を見るとおおいに怒り、陳顔と呂朗を派遣し、騎兵五千を統率させて劉暾を捕えさせようとしたが、劉暾は東の高密王略(青州に出鎮)のもとへ逃げた。ちょうど劉根が反乱を起こしたので、高密王は劉暾を大都督とし、鎮軍将軍を加え、劉根を討伐させた。劉暾は戦ったものの、勝利できず、洛陽へ戻ってしまった。酸棗に着くと、東海王越が天子を奉迎しようとするところに遭遇し〔、そのまま合流することにし〕た。恵帝が洛陽へ帰還すると、羊皇后も宮殿に戻った。羊皇后は使者をつかわして劉暾に感謝を述べた、「劉司隷が忠誠のお心をおもちであったおかげで、こんにちを得ることができました」。旧勲(羊皇后を救済したこと?)をもって封国と爵(朱虚県侯)を回復され、光禄大夫を加えられた。
 劉暾の妻はこれ以前に卒してしまっており、先に合葬墓に埋葬してあった。〔このころ、〕子の劉更生が初婚を迎えたが、家法では、その妻は墓を参拝せねばならず、そのさいは〔劉家の?〕賓客や親族を車数十乗に乗せて連れて行き、酒食を積んで行くしきたりであった。これより以前、洛陽令の王棱は東海王から信任を得ていたが、劉暾を軽視していた。劉暾はいつも王棱を糾弾しようと思っていたので、王棱は不満を抱いていた。このころ、劉聡や王弥が黄河の北に駐屯しており、京師はおびえていた。王棱は東海王に報告し、〔劉暾が一族を連れて出かけているが、〕劉暾は王弥と同郷であるから、王弥のもとへ投じようとしているのだと訴えた。東海王は騎兵を整え、劉暾を追おうとしたが、〔東海王の〕右長史の傅宣が、劉暾はそんなことをしないと潔白を述べた。劉暾がこの一件を耳にすると、墓に着く前に引き返し、正当な道義にもとづいて東海王を批判したため、東海王ははなはだ恥じ入った。
 劉曜が京師を侵略すると、劉暾を撫軍将軍、仮節、都督城守諸軍事とした。劉曜が退却すると、尚書僕射に移った。東海王は、劉暾が長いあいだ監司(監察官)に就いていること、〔監察官として〕人心を得ていることを嫌がったため、〔劉暾を〕右光禄大夫、領太子少傅とし、散騎常侍を加えた。外面上は昇進を示したのだが、内実は劉暾の権力を奪ったのである。懐帝はさらに劉暾に詔を下し、領衛尉とし、特進を加えた。のち、ふたたび劉暾を司隷校尉とし、侍中を加えた。劉暾は五たび司隷校尉になったが、それは人心に適っていたからである。
 王弥が洛陽に入ると、百官は皆殺しにされた。王弥は、劉暾が郷里の宿望であったので〔殺さず〕、このため〔劉暾は〕難を逃れたのであった。劉暾は王弥に説いて言った、「現在、英雄が競って決起し、九州は分裂し、不世出の功績をあげた者は天下に入りきらないほどいます。将軍は挙兵以来、攻めて下せなかったものはなく、戦って勝てなかったものはなく14ひじょうに強力な軍である、つまり警戒をもたれるはずである、と言いたいのであろう。、そのうえ劉曜とは不和です。文種の災難を考慮し、范蠡を手本となさるのがよいでしょう15文種と范蠡はともに越王句践に仕えた臣。句践が呉を滅ぼし、覇王を称すと、范蠡は危険を察知してすばやく越を去った。その際に文種にも越を離れるよう勧めたが、文種は越を去らなかった。文種はほどなく讒言をこうむり、死を賜った。。しばらくのあいだ、将軍は帝王への大志をお忘れになり、東の本州(郷里の青州)で王となり、そうして情勢を観察なさるのがよいと考えます。〔そうすれば、〕上は天下を統一でき、下は鼎立の事態を造成できるでしょう。〔最低でも〕孫氏や劉氏のようになれない、といったことはないはずです。蒯通は〔韓信に勧めて、漢からそむいて天下三分の情勢をなすよう〕進言したものです。将軍よ、このことをご考慮なさいますよう」。王弥はそのとおりだと思い、劉暾を青州へつかわし、〔先に青州に戻っていた〕曹嶷と計画を練らせ、かつ曹嶷を召集させた。劉暾が東阿に着くと、石勒の游騎に捕えられた。〔石勒は〕王弥の曹嶷宛の書簡を見るとおおいに怒り、劉暾を殺した16王弥伝や石勒載記上によれば、劉暾は石勒暗殺の計画を進めるために青州へ向かい、曹嶷を呼び寄せるところであった。書簡にはその計画が記されていたため、石勒は怒ったのである。。劉暾には劉佑、劉白の二人の息子がいた。

〔劉佑、劉白:劉暾の子〕

 劉佑は太傅属となり、劉白は太子舎人となった。劉白は勇猛で荒々しく、才幹はあったが、東海王越は彼を嫌っていた。ひそかに上軍将軍の何倫に百余人を率いさせて劉暾の邸宅に侵入させると、金目の物を強盗させ、劉白を殺させてから去らせた。

〔劉聡:劉毅の子〕

 劉総は字を弘紀という。学問を好み、正直で誠実な人柄であった。叔父の劉彪のあとを継ぎ、官位は北軍中候にまでのぼった。

〔程衛:劉毅の属官〕

 程衛は字を長玄といい、広平の曲周の人である。若くして品行を確立し、剛直厳正であった。劉毅は彼の名声を耳にすると、都官従事(司隷校尉の属官)に辟召した。〔或るとき〕劉毅は、中護軍の羊琇が法を犯していて死罪に相当する、と奏上した。武帝は羊琇と旧交のある間柄だったので17羊琇は景帝皇后・羊氏の従父弟(父方のいとこ)で、若いときから武帝と親しかったという。巻九三、外戚伝に立伝。、斉王攸をつかわして劉毅を説得したところ、劉毅はそれを受け容れた。程衛は顔色を変えて「いけないことだ」と思い、すぐにみずから車を走らせて護軍営に入り、羊琇の属吏を捕え、隠し事がないか聴取した。〔そうして新たに判明した〕羊琇の狼藉を奏上してから、劉毅にこのことを報告した。これにより、〔程衛の〕名声は遠近を震撼させ、百官は操行に励むようになった。やがて公府の掾に辟召され、尚書郎、侍御史へと移り、在任したどの官職においても、事務処理の才能によって評判をあげた。洛陽令に任じられ、安定太守、頓丘太守を歴任し、赴任した各地で成績をあげた。在官中に卒した。

和嶠

 和嶠は字を長輿といい、汝南の西平の人である。祖父の和洽は魏の尚書令で18『三国志』魏書二三に立伝。、父の和逌は魏の吏部尚書であった。和嶠は若くして風格があり、舅(母親の兄弟)である夏侯玄の為人に憧憬し19『世説新語』賞誉篇、第一五章の劉孝標注に引く「晋諸公賛」に「嶠常慕其舅夏侯玄為人、故於朝士中峨然不群、時類憚其風節」とあり、ひとと群れないさまを敬慕していたようである。、養生に努めた20原文「厚自崇重」。『三国志』魏書二三、和洽伝の裴松之注に引く「晋諸公賛」は「厚自封植」に作る。「厚自云々」で用例を調べてみると、「厚自封植」のほかに「厚自奉養」という類例があり、どちらも「財産を蓄える」「生活を豊かにする」「養生する」というニュアンスだと思われる。であれば、原文の「崇重」も同じような意味あいで、「健康や生活を大事にする」といったところではないだろうか。これをふまえて「厚自崇重」を直訳すると「手厚くみずから(の健康や生活)を大事にした」となろう。このままだとぎこちないので、訳文は意訳して作成した。。世に高名を博しており、朝野の人々は、和嶠は風俗を正し、人倫を整えることができるだろう、と嘱望していた。父の爵である上蔡伯を継ぎ、起家して太子舎人となった。昇進を重ねて潁川太守に移ったが、施政は清廉簡約で、百姓の支持をおおいに得た。太傅府の従事中郎であった庾顗は、和嶠に会うと感嘆して言った、「高々とそびえておること、千丈の松のようだ21魏晋の尺(『漢辞海』付録)で計算すると千丈は高さ約二四〇〇メートルに達するが、もちろんここではそのような具体的な数字を言っているわけではなく、「とてつもなく高いさま」の比喩表現である。。ゴツゴツとしていて節は多いものの、この木材を大きな建物22原文は「大廈」。王朝・朝廷の比喩でもあるのだろう。に用いれば、棟木や梁(はり)の役目をなすであろう」23『世説新語』賞誉篇、第一五章、略同。庾顗は庾敳のこと。庾峻の子で、巻五〇、庾峻伝に附伝がある。じつはこの逸話には問題がある。本伝と『世説新語』は庾敳が和嶠を評したときのこととして記述しているが、庾敳伝では庾敳が温嶠を評したときのこととして記載しているのである。真偽を判断するにあたってポイントになるのが、太傅とは誰を指すのかという点である。本伝の時系列に従えばこの逸話は武帝時代のことになり、候補に挙げられるのは鄭沖か何曾である。しかし庾敳伝には、そもそも庾敳の武帝時代のキャリアについて明確な記載が残っていない。伝によると、彼に関係のあった太傅とはもっぱら東海王越であり、彼は東海王越の太傅府参軍事に就いている。さらに『世説新語』賞誉篇、第三三章の劉孝標注に引く「晋陽秋」には、太傅府=東海王越の従事中郎に就いたと記されている。よって、一般的に言えば庾敳に関係のある太傅とは東海王越のことであろう。そうなると、武帝時代の逸話として記す本伝の時系列は根本的におかしいということになり、庾敳伝が記すように、庾敳が温嶠を称賛したときの話と考えるのが適当だと思われる。伝承の過程で、「嶠」が和嶠なのか温嶠なのか混同されてしまったのであろう。もっとも、「太傅府の従事中郎」とは逸話当時の肩書ではなく、庾敳の極官ないし代表的な官職なのであって、必ずしも官職名から時系列を抽出できるわけではない、とも批判できる。現に『世説新語』では庾敳を「庾中郎」と呼称する話がいくつか見えるが、この「中郎」とは「(太傅)従事中郎」を指すようである。この線から考えれば本伝が誤りだと一概には言えないわけだが、適当である蓋然性が高いのは庾敳伝であることに依然変わりはない、と訳者は考える。。賈充も和嶠のことを高く評価し、武帝に推薦したので、中央に入って給事黄門侍郎となり、中書令に移った。武帝は和嶠をとても有能な人材と評価して接遇した。旧来、中書監と中書令はいっしょに車に乗って朝廷に入っていたが、和嶠が中書令であった当時は荀勖が中書監であった。和嶠は荀勖の為人を軽蔑しており、そのうえ〔和嶠には〕気骨があった。いっしょに車に乗り込もうとするたびに、〔和嶠は〕毅然とした態度で車を独り占めして着座した〔ので、荀勖は同乗できなかった〕。そこで中書監と中書令は車を別にさせることになったのだが、〔この決まりは〕和嶠から始まったのである。
 呉が平定されると、謀議に参画した功績によって、〔朝廷は〕弟の和郁に汝南亭侯を下賜した。和嶠は侍中に転じ、〔武帝から〕ますます親任と礼遇を受け、任愷や張華と親密であった。和嶠は、皇太子(のちの恵帝)が優秀ではないのを見て取り、侍って同席していた機会に言った、「皇太子には古風な純朴さがそなわっておりますが、末世(現代)は虚偽にあふれていますから、おそらく陛下の家の事業24原文は「陛下家事」。「家事」を「家の事業」と訳すのはやりすぎかもしれないが、「家の事」と訳すのはあまりに曖昧にも思うし、他に適当な案も思いつかなかったので、この訳語を採った。をまっとうできないでしょう」。武帝は黙り込んで返事をしなかった。後日、和嶠が荀顗や荀勖とともに侍従していると、武帝は「太子が近々入朝してくるが、多少は成長しておるぞ。君たち、いっしょに訪ねてみたまえ。ちょっと世間話でもしてきたらよかろう」と言った。〔太子のもとを訪問せよとの〕詔を奉じ、〔太子のもとから〕戻って来ると、荀顗と荀勖は口をそろえて「まことにおっしゃるとおり、太子さまの見識と気品はご立派になっておられました」と話した。和嶠は「聖なる資質はあいも変わらずでございました」と言った25『世説新語』方正篇、第九章、略同。この逸話にも問題が指摘されている。和嶠とともに太子を訪問した人物について史書間で異同があり、王隠『晋書』(『太平御覧』巻一四八、太子三、引)、『晋陽秋』(『世説新語』方正篇、第九章、劉孝標注引)、巻三九、荀勖伝は荀勖のみを挙げ、干宝『晋紀』(『世説新語』方正篇、第九章、劉孝標注引)は荀顗のみを挙げている。これにかんして、裴松之は『晋紀』と『晋陽秋』を挙げたうえで次のように指摘している(『三国志』魏書一〇、荀彧伝注)。まず荀顗は、和嶠が侍中になったころにはとうに没してしまっている(泰始十年に没)。そして荀勖は当時、三公(「台司」)に次ぐ位であり、和嶠と同格(「同班」)ではなく、侍中と称する根拠はない。それゆえ、荀顗も荀勖もどちらも誤りであり、正しくは荀愷である、と。同注に引く「荀氏家伝」によれば、荀愷は晋の武帝の時代に侍中になったというから、おそらく裴松之は、荀顗と荀愷が混同されてしまい、なおかつ荀勖が誤って混入してしまった、と考えたのだろう。没年の点で荀顗はありえないことは、裴松之の言うとおりである。しかし荀勖は列伝によると太康年間も侍中の位を兼任していたようだし、荀勖がこの逸話に登場するのは誤りと言い切れないように思われる。いっぽう、劉孝標は裴松之とは異なる結論を出している(『世説新語』方正篇、第九章の注)。彼も『晋紀』と『晋陽秋』を挙げたうえで、荀顗はおべっかを使うような人物ではないから、『晋陽秋』のほう(すなわち荀勖のみを挙げる説)が適当である、と論じている。以上をまとめると、(1)荀顗がここで登場するのはありえず、荀愷と誤った可能性がある、(2)荀勖が登場するのは不自然ではない、となろう。ただし、これまで挙げてきた史料は荀顗(荀愷)か荀勖かどちらか一人しか登場させておらず、裴松之も劉孝標も片方だけ登場するならばどちらが妥当なのかを考察しているのであって、本伝のように二人とも登場する記述は、これらをふまえたうえであらためて考察しなおす必要がある。本伝の記述も重んじつつ考えてみると、(A)荀顗が登場するのは誤記で、荀勖のみ出てくるのが正しい、(B)荀顗は荀愷の誤りで、荀勖とセットで登場する、のどちらかになるだろうが、もちろんどちらも決め手には欠けるので、これ以上の結論は出せない。なお『晋書斠注』は(A)を採っているようである。。武帝は機嫌を損ね、席を起ってしまった。和嶠は私宅へ退き下がっているあいだも26原文「嶠退居」。「退居」の用例を確認すると、私宅や郷里に隠棲しているケースで多く用いられている。本伝の場合、和嶠が職を辞したとは明言されていないため、どういう意味でこの語を用いているのか読み取りにくいのだが、ひとまず多くの用例をふまえて「退勤して私宅で過ごす」という意味で訳出してみた。、〔太子の件で〕つねに胸を痛めていた。〔太子についての諫言が〕聴き入れられることはないと知りながらも、なおやめることができず、武帝の側に侍って話題が社稷に及んだときは、いつも後継者を心配事に挙げていた。武帝は彼の言葉が忠誠にもとづくものであることを理解していたが、〔この件にかんしては〕毎度、返答しなかった。その後、武帝は和嶠と話をしても、将来の事柄には触れないようになった。或るひとが〔和嶠の太子に対する姿勢を〕賈妃に告げ口すると、賈妃は和嶠を怨むようになった。太康末、列曹尚書となったが、母の死去を理由に辞職した。
 恵帝が即位すると、太子少傅に任じられ、散騎常侍、光禄大夫を加えられた。太子(愍懐太子)が西宮27文脈からみて、おそらく禁中を指す。に入って朝見するさい、和嶠は随行した。賈后は恵帝に指示し、和嶠に対してこのように質問させた、「卿はむかし、私(恵帝のこと)には家の事業をまっとうできないと言ったそうだが、こんにちでは結局どう考えているのかね」。和嶠、「臣はむかし、先帝にお仕えしていたときにそのような言葉を申しあげました。申しあげたとおりにならなかったのは、国家にとって幸福でございます。どうしてかの言葉を申した罪から逃れようとするでしょうか」。元康二年に卒し、金紫光禄大夫を追贈され、金章紫綬を加えられ、本位(本来の朝位)は以前のとおりとされた28原文「本位如前」。「本位」が具体的にどの官職を指すのかよくわからないし、「如前」がどういう意味なのかもよくわからない。。永平のはじめ29永平は元康の前の元号なので、なんらか誤っている可能性が高い。中華書局の校勘記を参照。、策書が下り、簡の諡号がおくられた。和嶠は資産が豊かで、王者に喩えられるほど裕福だったが、ひじょうにケチな性格だったため、このことで世間から批判を浴び、杜預は「和嶠には銭癖がある」と批評した。弟の和郁の子である和済に〔和嶠の〕あとを継がせた。〔和済は〕中書郎にまで出世した。

〔和郁:和嶠の弟〕

 和郁は字を仲輿という。才能と名望は和嶠に及ばなかったものの30『三国志』和洽伝の裴松之注に引く「晋諸公賛」には「嶠同母弟郁、素無名、嶠軽侮之、以此為損」とある。、清廉で、職務に明るかったことから評判を得た。尚書左右僕射、中書令、尚書令を歴任した。洛陽が陥落したとき、苟晞のもとへ逃げたが、〔その後〕病死した。

武陔

 武陔は字を元夏といい、沛国の竹邑の人である31以下、武陔とその二人の弟の伝の内容は『三国志』魏書二七、胡質伝の裴松之注に引く「虞預晋書」とおおむね同じである。。父の武周は魏の衛尉であった。武陔は冷静明敏で、度量があり、若くして世の名声を獲得した。武韶、字は叔夏、および武茂、字は季夏の二人の弟とそろって児童のころから名を知られ、おじ、従兄弟、同郷の名士ですら、三兄弟の優劣を判定できなかった。同郡の劉公栄はひとの才能を見抜く眼をもっていたが、或るとき武周のもとを訪れると、武周は三兄弟を〔劉公栄に〕面会させた。劉公栄は言った、「三人とも国士です。元夏がもっとも優秀で、王佐の才をそなえており、能力を振るって官職に就けば、亜公32原文まま。『漢語大詞典』は司徒の別称とするが、根拠はよくわからない。筑摩書房版『三国志』は「三公に次ぐ位」と訳出している(第四分冊、胡質伝、一九二頁)。になれるでしょう。叔夏と季夏は、最低でも常伯33侍官の雅称。侍中や散騎常侍など。や納言34王言を取り次ぐ官の雅称。ここでは尚書を指すか。にまで昇りつめるでしょう」。
 武陔は若いときから人物批評を好み、潁川の陳泰と仲が良かった。魏の明帝の時代、下邳太守にまで昇進した。景帝が大将軍になると、〔大将軍府の〕従事中郎に召され、〔その後、〕昇進を重ねて司隷校尉に移り、太僕卿に転じた。最初は亭侯に封じられ、〔その後、〕五等爵が開建されると、薛県侯に改封された。文帝は武陔をひじょうに親任し、世の人物についてしばしば批評しあっていた。或るとき、陳泰はその父の陳群と比べていかがであろうかと〔文帝が〕質問すると、武陔はそれぞれの長所を褒めつつ、陳群と陳泰にはほとんど差はないと評した。文帝はその批評に納得した35『三国志』魏書二二、陳群伝附陳泰伝、『世説新語』品藻篇、第五章だと武陔の批評がもう少し詳しく記されている。
 泰始のはじめ、列曹尚書に任じられ、吏部を担当し、〔ついで〕尚書左僕射、左光禄大夫、開府儀同三司に移った。武陔は年配の旧臣であったために名声と官位が高かったが、本人は「佐命の功績があったわけではないし、魏の時代にすでに大臣の地位にあっただけだから、やむをえず高位に就いているのみだ」と自認し、深く謙遜の心をもち、清廉を終始貫徹したので、当世の人々はこれを美談とみなした。在官中に卒し、定の諡号をおくられた。子の武輔があとを継いだ。

〔武韶、武茂:武陔の弟〕

 武韶は吏部郎、太子右衛率、散騎常侍を歴任した。

 武茂は徳行によって名声をあげ、名声は武陔に次いだ。上洛太守、散騎常侍、侍中、列曹尚書になった。潁川の荀愷は武茂よりも年少であったが、武帝の姑(おば、父親の姉妹)の子で、貴戚(高貴な外戚)を自負していた。武茂に交際を願い出たものの。武茂は拒んで応答しなかったので、これによって〔荀愷の〕怨みを買ってしまった。楊駿が誅殺されたとき、荀愷は尚書僕射であったが、武茂は楊駿の姨弟(いとこ、母方の従弟)だったので、〔武茂を〕陥れて反逆者の一味にしてしまい、〔武茂は〕とうとう殺されてしまった。武茂は清廉公正にして実直な人柄で、朝野に名声を響かせていたのに、にわかに冤罪を被ってしまったので、天下の人々は心を痛めた。〔後日?、〕侍中の傅祗は上表し、武茂は冤罪を着せられたのだと訴えた。その後、〔武茂に〕光禄勲が追贈された。

劉毅/劉毅(附:劉暾・程衛)・和嶠・武陔任愷・崔洪・郭奕・侯史光・何攀

(2021/2/11:公開=劉伝)
(2023/5/23:公開=程衛伝・和嶠伝・武陔伝

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    この詳議については庾純伝附旉伝に詳しく記されている。武帝は斉王攸の就国にあわせ、どのような礼物を加崇するべきかについて、博士などの礼官に議を命じた。ところが、庾旉や劉暾ら博士八人は(おそらく連名で)上表し、そもそも大司馬の位にある斉王を就国させること自体、礼制にもとっていると陳述し、就国そのものを諫めるかたちとなった。「武帝の意向に逆らった」というのはこのことを言う。
  • 2
    馮紞伝によれば、斉王攸の就国を武帝に進言したのは馮紞である(荀勖の意向を受けてのことであったとされるが)。ここで馮紞の名が出てくるのはかかる背景のゆえであろう。
  • 3
    取り調べの供述の意。なお劉琨の兄である劉輿は、列伝によると「宰府」に辟召されているが(劉琨伝附輿伝)、「宰府」は司徒府を指していると解釈することも可能なので、ここにみえる劉輿と同一人物であるかもしれない。
  • 4
    原文「獄辞連暾、将収付廷尉」。「辞連某」と言う場合、多くは「供述から某の関与が明らかになった」という意味である。すると、この中華書局の句読どおりに読んでみると、「劉輿の供述から劉暾の関与が明らかになったので、朝廷は劉暾を逮捕しようとした」ということになってしまい、後文とのつながりがよくない。やや強引な読み方になってしまいそうだが、句読を「獄辞連、暾将収付廷尉」に改め、「取り調べ中の罪人の供述から劉輿の関与が明らかになったため、劉暾は劉輿を捕えようとした」と読んでみることにした。
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    つまり官を退くことを申し出たということ。まだ申し出たのみの段階であったはず。
  • 6
    この箇所は漢の文帝に陳平が言った言葉を意識していると思われる。『史記』陳丞相世家に「宰相者、上佐天子理陰陽、順四時、下育万物之宜、外鎮撫四夷諸侯、内親附百姓、使卿大夫各得任其職焉」とある。
  • 7
    詔の使者、つまり天子の使者を指すと考えられる。弾劾を受けて発布された詔を伝える使者か。
  • 8
    原文「私欲大府興長獄訟」。こういうふうに訳出してしまってよいのか自信がもてない。
  • 9
    どちらも『論語』季氏篇が出典。「便辟」が「人のいやがることを避けて媚びる」、「善柔」は「おだやかで明るい顔つきをもっておもねる」。
  • 10
    『宋書』百官志上に「大鴻臚、掌賛導拝授諸王」とあり、大鴻臚は諸侯関連の業務を主管していたのであろう。
  • 11
    なお王渾伝を参照するかぎり、王渾はたぶん免官されていない。
  • 12
    『通典』巻二四、侍御史の自注に「晋武庫失火、尚書郭彰与侍御史劉暾典知修復。彰以后親軽傲、以功程之聞呵暾曰、『我不能截卿角耶』。以御史著法冠、有両角故也。暾厲色曰、『天子法冠、而欲截角』。命紙筆奏之」とあるのにもとづいて訳出した。
  • 13
    原文「即真」。いわゆる「試守満歳為真」と同様の意味であるのか、詳しくないのでわからない。兼であった御史中丞が本官になったというふうにも読める。
  • 14
    ひじょうに強力な軍である、つまり警戒をもたれるはずである、と言いたいのであろう。
  • 15
    文種と范蠡はともに越王句践に仕えた臣。句践が呉を滅ぼし、覇王を称すと、范蠡は危険を察知してすばやく越を去った。その際に文種にも越を離れるよう勧めたが、文種は越を去らなかった。文種はほどなく讒言をこうむり、死を賜った。
  • 16
    王弥伝や石勒載記上によれば、劉暾は石勒暗殺の計画を進めるために青州へ向かい、曹嶷を呼び寄せるところであった。書簡にはその計画が記されていたため、石勒は怒ったのである。
  • 17
    羊琇は景帝皇后・羊氏の従父弟(父方のいとこ)で、若いときから武帝と親しかったという。巻九三、外戚伝に立伝。
  • 18
    『三国志』魏書二三に立伝。
  • 19
    『世説新語』賞誉篇、第一五章の劉孝標注に引く「晋諸公賛」に「嶠常慕其舅夏侯玄為人、故於朝士中峨然不群、時類憚其風節」とあり、ひとと群れないさまを敬慕していたようである。
  • 20
    原文「厚自崇重」。『三国志』魏書二三、和洽伝の裴松之注に引く「晋諸公賛」は「厚自封植」に作る。「厚自云々」で用例を調べてみると、「厚自封植」のほかに「厚自奉養」という類例があり、どちらも「財産を蓄える」「生活を豊かにする」「養生する」というニュアンスだと思われる。であれば、原文の「崇重」も同じような意味あいで、「健康や生活を大事にする」といったところではないだろうか。これをふまえて「厚自崇重」を直訳すると「手厚くみずから(の健康や生活)を大事にした」となろう。このままだとぎこちないので、訳文は意訳して作成した。
  • 21
    魏晋の尺(『漢辞海』付録)で計算すると千丈は高さ約二四〇〇メートルに達するが、もちろんここではそのような具体的な数字を言っているわけではなく、「とてつもなく高いさま」の比喩表現である。
  • 22
    原文は「大廈」。王朝・朝廷の比喩でもあるのだろう。
  • 23
    『世説新語』賞誉篇、第一五章、略同。庾顗は庾敳のこと。庾峻の子で、巻五〇、庾峻伝に附伝がある。じつはこの逸話には問題がある。本伝と『世説新語』は庾敳が和嶠を評したときのこととして記述しているが、庾敳伝では庾敳が温嶠を評したときのこととして記載しているのである。真偽を判断するにあたってポイントになるのが、太傅とは誰を指すのかという点である。本伝の時系列に従えばこの逸話は武帝時代のことになり、候補に挙げられるのは鄭沖か何曾である。しかし庾敳伝には、そもそも庾敳の武帝時代のキャリアについて明確な記載が残っていない。伝によると、彼に関係のあった太傅とはもっぱら東海王越であり、彼は東海王越の太傅府参軍事に就いている。さらに『世説新語』賞誉篇、第三三章の劉孝標注に引く「晋陽秋」には、太傅府=東海王越の従事中郎に就いたと記されている。よって、一般的に言えば庾敳に関係のある太傅とは東海王越のことであろう。そうなると、武帝時代の逸話として記す本伝の時系列は根本的におかしいということになり、庾敳伝が記すように、庾敳が温嶠を称賛したときの話と考えるのが適当だと思われる。伝承の過程で、「嶠」が和嶠なのか温嶠なのか混同されてしまったのであろう。もっとも、「太傅府の従事中郎」とは逸話当時の肩書ではなく、庾敳の極官ないし代表的な官職なのであって、必ずしも官職名から時系列を抽出できるわけではない、とも批判できる。現に『世説新語』では庾敳を「庾中郎」と呼称する話がいくつか見えるが、この「中郎」とは「(太傅)従事中郎」を指すようである。この線から考えれば本伝が誤りだと一概には言えないわけだが、適当である蓋然性が高いのは庾敳伝であることに依然変わりはない、と訳者は考える。
  • 24
    原文は「陛下家事」。「家事」を「家の事業」と訳すのはやりすぎかもしれないが、「家の事」と訳すのはあまりに曖昧にも思うし、他に適当な案も思いつかなかったので、この訳語を採った。
  • 25
    『世説新語』方正篇、第九章、略同。この逸話にも問題が指摘されている。和嶠とともに太子を訪問した人物について史書間で異同があり、王隠『晋書』(『太平御覧』巻一四八、太子三、引)、『晋陽秋』(『世説新語』方正篇、第九章、劉孝標注引)、巻三九、荀勖伝は荀勖のみを挙げ、干宝『晋紀』(『世説新語』方正篇、第九章、劉孝標注引)は荀顗のみを挙げている。これにかんして、裴松之は『晋紀』と『晋陽秋』を挙げたうえで次のように指摘している(『三国志』魏書一〇、荀彧伝注)。まず荀顗は、和嶠が侍中になったころにはとうに没してしまっている(泰始十年に没)。そして荀勖は当時、三公(「台司」)に次ぐ位であり、和嶠と同格(「同班」)ではなく、侍中と称する根拠はない。それゆえ、荀顗も荀勖もどちらも誤りであり、正しくは荀愷である、と。同注に引く「荀氏家伝」によれば、荀愷は晋の武帝の時代に侍中になったというから、おそらく裴松之は、荀顗と荀愷が混同されてしまい、なおかつ荀勖が誤って混入してしまった、と考えたのだろう。没年の点で荀顗はありえないことは、裴松之の言うとおりである。しかし荀勖は列伝によると太康年間も侍中の位を兼任していたようだし、荀勖がこの逸話に登場するのは誤りと言い切れないように思われる。いっぽう、劉孝標は裴松之とは異なる結論を出している(『世説新語』方正篇、第九章の注)。彼も『晋紀』と『晋陽秋』を挙げたうえで、荀顗はおべっかを使うような人物ではないから、『晋陽秋』のほう(すなわち荀勖のみを挙げる説)が適当である、と論じている。以上をまとめると、(1)荀顗がここで登場するのはありえず、荀愷と誤った可能性がある、(2)荀勖が登場するのは不自然ではない、となろう。ただし、これまで挙げてきた史料は荀顗(荀愷)か荀勖かどちらか一人しか登場させておらず、裴松之も劉孝標も片方だけ登場するならばどちらが妥当なのかを考察しているのであって、本伝のように二人とも登場する記述は、これらをふまえたうえであらためて考察しなおす必要がある。本伝の記述も重んじつつ考えてみると、(A)荀顗が登場するのは誤記で、荀勖のみ出てくるのが正しい、(B)荀顗は荀愷の誤りで、荀勖とセットで登場する、のどちらかになるだろうが、もちろんどちらも決め手には欠けるので、これ以上の結論は出せない。なお『晋書斠注』は(A)を採っているようである。
  • 26
    原文「嶠退居」。「退居」の用例を確認すると、私宅や郷里に隠棲しているケースで多く用いられている。本伝の場合、和嶠が職を辞したとは明言されていないため、どういう意味でこの語を用いているのか読み取りにくいのだが、ひとまず多くの用例をふまえて「退勤して私宅で過ごす」という意味で訳出してみた。
  • 27
    文脈からみて、おそらく禁中を指す。
  • 28
    原文「本位如前」。「本位」が具体的にどの官職を指すのかよくわからないし、「如前」がどういう意味なのかもよくわからない。
  • 29
    永平は元康の前の元号なので、なんらか誤っている可能性が高い。中華書局の校勘記を参照。
  • 30
    『三国志』和洽伝の裴松之注に引く「晋諸公賛」には「嶠同母弟郁、素無名、嶠軽侮之、以此為損」とある。
  • 31
    以下、武陔とその二人の弟の伝の内容は『三国志』魏書二七、胡質伝の裴松之注に引く「虞預晋書」とおおむね同じである。
  • 32
    原文まま。『漢語大詞典』は司徒の別称とするが、根拠はよくわからない。筑摩書房版『三国志』は「三公に次ぐ位」と訳出している(第四分冊、胡質伝、一九二頁)。
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    侍官の雅称。侍中や散騎常侍など。
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    王言を取り次ぐ官の雅称。ここでは尚書を指すか。
  • 35
    『三国志』魏書二二、陳群伝附陳泰伝、『世説新語』品藻篇、第五章だと武陔の批評がもう少し詳しく記されている。
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