凡例
- 文中の〔 〕は訳者による補語、( )は訳者の注釈、1、2……は注を示す。番号をクリック(タップ)すれば注が開く。開いている状態で適当な箇所(番号でなくともよい)をクリック(タップ)すれば閉じる。
- 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。
劉聡は字を玄明といい、別名を載といい、劉元海の第四子である。母は張夫人という。当初、劉聡が腹の中にいたとき、張氏は夢で、太陽が懐(胸のあたり)に入っていくのを見た。目が覚めて話したところ、劉元海は「これは吉兆だ。口を慎んで他言しないように」と言った。十五ヶ月で劉聡を生んだが、夜に白い光が現象するという怪異があった。体つきは尋常ではなく、左耳には一本の白く細長い毛があり、その長さは二尺あまりで、たいへん光沢があった。幼少にして聡明で、学問を好み、博士の朱紀はおおいに評価した。十四歳のとき、経史の書物にあまねく通暁し、諸子百家の言説にも精通し、孫呉の兵法はすべて暗誦した。草書と隷書に巧みで、作文に長け、述懐詩(「心を述べた詩」、詠懐詩)百余篇、賦頌五十余篇を著した。十五歳で剣術を習い、猿のように腕が長いので射撃に長じ、三百斤の弓を引き、体力があり、勇敢かつ敏捷で、当世で抜群であった。太原の王渾は〔劉聡に〕会うと喜び、劉元海に「この子は私には推し測れない」と言った。
弱冠(二十歳)で京師に遊学したが、名士は誰もが〔劉聡と〕交際を結び、楽広と張華はとりわけ劉聡を評価した。新興太守の郭頤が辟召して主簿とし、〔ついで〕良将(賢良などと同様の選挙項目)に推挙され、〔中央に〕入って驍騎将軍の別部司馬となり、昇進を重ねて右部都尉(匈奴五部の都尉のひとつ)に移った。慰撫することに長けていたので、五部の豪右で劉聡に帰順しない者はいなかった。河間王顒は〔劉聡を〕赤沙中郎将とするよう上表した。〔このとき〕劉聡は、劉元海が鄴におり、成都王穎に殺されることを心配したので、成都王のもとへ逃亡し、〔成都王から〕右積弩将軍、参前鋒戦時に任じられた。
劉元海が北単于になると、〔劉聡を〕右賢王に立て、〔劉元海に〕随伴して右部に帰った。〔劉元海が〕大単于の位につくと、さらに鹿蠡王に任じられた。〔劉元海を継いだ〕兄の劉和を殺すと、群臣は〔劉聡に〕帝位につくことを勧めた。劉聡は最初、弟の北海王乂に譲ったが、乂は公卿とともに泣いて強く〔劉聡に〕要請したので、劉聡はしばらく経ってから聴き入れ、言った、「乂と群公は、いままさに四海がいまだ平定されず、艱難がなお盛んであるために、年長の孤(わたし)を必要としているのである。これは国家の大事であるから、孤はどうしてつつしんで従わないことがあろうか。いま、遠く魯の隠公の故事を尊び、乂が成長するのを待って、政治を返還しよう」。こうして、永嘉四年に僭越して皇帝の位につき、境内を大赦し、光興と改元した。劉元海の妻の単氏を尊んで皇太后とし、劉聡の母の張氏を帝太后とし、乂を皇太弟、領大単于、大司徒とし、妻の呼延氏を皇后に立て1『太平御覧』巻一四二、劉聡呼延后に引く「崔鴻三十国春秋前趙禄」に「劉聡皇后呼延氏、淵后之従父妹。有美色恭孝、称於宗族。淵后愛聡姿貌、故以配焉」とある。劉聡が劉乂を太弟としていたこと(将来的に政治を返還すること)に反対していたらしい。、子の劉粲を河内王に封じ、使持節、撫軍大将軍、都督中外諸軍事に任命し、〔同じく子の〕劉易を河間王に封じ、劉翼を彭城王に封じ、劉悝を高平王に封じた。劉粲、征東将軍の王弥、龍驤将軍の劉曜らを派遣し、軍四万を統率させ、長駆させて洛川に入らせ、そのまま轘轅へ出撃させた。〔劉粲らは〕梁、陳、汝(南)、潁(川)の領域をめぐりまわり、百余の塁壁を落とした。司空の劉景を大司馬とし、左光禄大夫の劉殷を大司徒とし、右光禄大夫の王育を大司空とした。
偽太后の単氏の容姿は美麗で、劉聡はこれと姦通した。単氏は劉乂の母であったので、劉乂はしばしばこのことを言う(諫める)と、単氏は恥じ入って怒りがつのり、死んでしまった。劉聡は果てなく悲しんだ。のちに原因を知り、劉乂への恩寵もこれが理由でしだいに減退していったが、しかしなお単氏のことを想い起こし、即座に廃位しようとはしなかった。また劉聡の母(張氏)を尊んで皇太后とした。
衞尉の呼延晏を使持節、前鋒大都督、前軍大将軍に任命し、禁兵二万七千を配し、宜陽から洛川に入らせた。王弥、劉曜、鎮軍将軍の石勒に命令し、進軍させて呼延晏と合流させた。呼延晏が河南に到着したころ、王師(晋軍)は前後で十二敗を喫しており、死者は三万余人にのぼっていた。王弥らはまだ到着していなかったが、呼延晏は輜重(軍需物資)を張方の故塁に留め、そのまま洛陽を侵略し、平昌門を攻め落とし、東陽や宣陽の諸門および諸府寺(官庁)に火を放った。懐帝は河南尹の劉黙を派遣して防がせたが、王師は社門で敗れた。呼延晏は、後詰が到着しないことから、東陽門より〔洛陽城の外に〕出て、王公以下の子女二百余人を拉致して帰った。このとき、懐帝はちょうど黄河を渡って東に逃げようとしており、船を洛水に用意させていたが、呼延晏は船をすべて燃やし、張方の故塁に戻った。王弥と劉曜が到着すると、ふたたび呼延晏と合流して洛陽を包囲した。このとき、城内の飢餓はひどく、人々はみなたがいに食いあい、百官は逃げて散り散りになり、〔城内の人々に〕強い意志はなかった。宣陽門が陥落し、王弥と呼延晏が南宮に入り、太極前殿にのぼり、兵士に自由に掠奪させ、宮人や珍宝をすべて接収した。劉曜はこうして諸王公や百官以下、三万余人を殺し、洛水の北に京観2戦勝者が武功を示すため、敵の死体を小山のように積んだもの。(『漢辞海』)を築いた。懐帝、恵帝皇后の羊氏、伝国の六璽を平陽に移した。劉聡は大赦し、嘉平に改元し、懐帝を特進、左光禄大夫、平阿公3懐帝紀は会稽公とする。劉聡載記では会稽公に封じられたのはもう少しあとのこと。とした。
平西将軍の趙染と安西将軍の劉雅を派遣し、騎兵二万を統率させて南陽王模を長安で攻めさせ、劉粲と劉曜に大軍を率いさせ、これに続かせた。趙染は王師を潼関で破り、〔晋の〕将軍の呂毅が戦死した。〔趙染らの〕軍が下邽に到着すると、南陽王模は趙染に降った。趙染が南陽王を劉粲のもとへ送ると、劉粲は南陽王とその子の范陽王黎を殺し、衛将軍の梁芬、南陽王の長史の魯繇、兼散騎常侍の杜驁、辛謐、北宮純らを平陽に送った。劉聡は、劉粲が南陽王を〔勝手に〕殺したことから、おおいに怒った。劉粲、「臣が模を殺したのは、もとより〔模が〕天命〔が革まったの〕を理解するのが遅かったからではございません。たんに、晋氏の宗室でありながら、洛陽の難事で節義に殉じようとしなかったからです。天下の悪は〔天命が革まろうと〕同一です。『天下の悪はどこも同じ』と申します4原文「天下之悪一也」。『左伝』荘公十二年が出典。弑逆のような重大な悪事は、国の違いという立場を越えて普遍的に憎まれるものなのだ、という意味(だと思う)。南陽王を殺したのは彼が敵だからというよりも、王室の一員でありながら王室の苦難を傍観したという天下の悪事を犯したから、と劉粲は述べているのだと思われる。(2021/1/13:修正&注追加)。だから誅殺しました」。劉聡、「そうとはいっても、おまえが誅殺と廃位の禍から逃れられないのではないかと私は心配だ。いったい、天道というのは至神なのだ。道理として報復がないわけがない」。
劉曜を車騎大将軍、開府儀同三司、雍州牧に任命し、中山王に改封し、長安に出鎮させ、王弥を大将軍とし、斉公に封じた。まもなく、石勒らは王弥を己吾で殺し、その衆を併合し、上表して王弥が反逆していたさまを述べた。劉聡はおおいに怒り、使者を派遣して、石勒が勝手に公輔(天子の補佐)を殺し、主君をないがしろする心をもっていると責めたが、同時に石勒が二心を抱くことを恐れたので、王弥の部衆を石勒に配した。劉曜が長安を占拠すると、安定太守の賈疋や氐、羌はみな質任(人質)を送ったが、ただ雍州刺史の麴特と新平太守の竺恢だけは固く守って降らなかった。護軍の麴允5麹允伝によれば、このときは安夷護軍であった。、頻陽令の梁粛は京兆の南山から安定〔の賈疋のもと〕へ逃げようとしたが、〔安定から出立していた〕賈疋の任子に陰密で遭遇すると、〔任子を〕保護して臨涇(安定郡の治所)に戻り、賈疋を平南将軍に推戴した。〔賈疋は〕五万の軍を率い、劉曜を長安で攻めると、扶風太守の梁綜、麴特、竺恢らも十万の軍を率いて合流した。劉曜は劉雅、趙染を派遣して防がせたが、敗北して帰還した。劉曜はさらに、長安の精鋭を総動員し、〔晋の〕諸軍と黄丘で戦ったが、劉曜軍は大敗し、〔劉曜は〕流矢に当たり、退却して甘渠を守った。杜の王禿、紀特らが劉粲を新豊で攻めると、劉粲は平陽へ帰還した。劉曜は池陽を攻め落とし、一万余人を拉致して長安に戻った。このころ、閻鼎らは秦王鄴を皇太子に奉じ、雍城に入ると、関中の夷狄と晋人はこぞって呼応した。
劉聡の皇后の呼延氏が死ぬと、太保の劉殷の娘をめとろうとしたが、弟の劉乂は〔同じ劉氏であるのを理由に〕強く諫めた。劉聡はさらに、この件を太宰の劉延年、太傅の劉景にたずねると、劉景らはともに言った、「臣がいつも聞くところでは、太保(劉殷)は周の劉康公の後裔だとみずから申しております。聖氏(天子の劉氏)とは祖先が異なりますので、劉殷の娘をめとるのは適正です」。劉聡はおおいに喜び、兼大鴻臚の李弘をつかわして劉殷の二人の娘を左右貴嬪に任じ、位は昭儀の上とした6列女伝に立伝されており、姉は名を英、字を麗芳、妹は名を娥、字を麗華という。『太平御覧』巻一四二では大劉后、小劉后としてそれぞれ立項され、引用されている「崔鴻三十国春秋前趙録」によれば、大劉后は劉殷の「長女」で、小劉后は劉殷の「小女」である。。また劉殷の四人の孫娘をめとって貴人とし、位は貴嬪の次とした。〔劉聡は〕李弘に言った、「この娘たちはみな不世出の美貌で、女徳も冠絶している。そのうえ、太保は朕とたしかにちがった祖先に由来している。卿はどう思うか」。李弘、「太保の子どもたちは周の劉氏の出自で、陛下の祖先とまことに異なっていますから、陛下はたんに同姓であるのをお気になさっているにすぎません。また、魏の司空の東莱の王基は当時の大儒でしたが、礼に精通していなかったとお思いでしょうか。〔王基が〕息子のために司空の太原の王沈の娘をめとったのは、姓が同じであっても祖先が異なっていたからです」。劉聡はおおいに喜び、李弘に黄金六十斤を賜い、「卿はこの意見をもってわが子弟たちを諭せ」と言った。こうして六劉の寵愛は後宮を傾かせ、劉聡はほとんど宮中の外に出なくなり、政事はすべて、中黄門が奏を受け、左貴嬪(劉麗芳)が奏事を決裁した。
劉聡は懐帝に儀同三司を授け、会稽郡公に封じ、庾珉らには序列に応じて秩を加増した。劉聡は懐帝を召し入れて懇談し、懐帝に言った、「卿が豫章王であったとき、朕は王武子(王済)といっしょに〔卿を〕訪問したことがあったな。武子が朕を卿に紹介すると、卿は『その名声を耳にして久しい』と言った。卿は、自分が制作した楽府歌を朕に聴かせると、『君は辞賦をつくるのが上手いと聞いている。ためしに、私のためにその技能をみせてくれないか』と言うので、朕はそのとき、武子といっしょに盛徳頌を作成したが、卿はそれからずっと称賛してくれた。また朕を招き、皇堂で射撃をしたとき、朕は十二籌を射たが、卿と武子はともに九籌を射た。卿は朕に柘弓と銀研(すずり)を贈ってくれた。卿はよく覚えているかね」。懐帝、「臣がどうしてこれらを忘れましょうか。ただそれらの日に〔陛下が〕龍顔(天子をかたどる容貌)であったのを早々に認識できなかったのが残念でなりません」。劉聡、「卿の家は肉親同士で殺しあっていたが、どうしてそんなひどいことになったのだ」。懐帝、「このことはおそらく人事ではなく、皇天の意志でしょう。大漢が天にかなって暦数を授かったので、〔わが家は〕陛下のためにみずから駆逐しあったのです。また、もし臣の家が武帝の事業を奉じることができましたら、九族は仲睦まじくしておりましたでしょう。〔わが家の同士討ちを天意ではなく人事とみなせば、革命も人事に因るものとなってしまいますが、人事であるならばわが家が順風であった可能性もあることになり、そのようであった場合は〕なぜ陛下は天命を得られましょうか〔。わが家の騒乱に関係なく、この革命は天の意志であり、陛下の即位は必然だったのです〕」7やりすぎてしまったが、原文のみだと意が読み取りにくいので挿入した補語のように解釈してみた。。日が暮れてから退出させ、小劉貴人を懐帝に賜い、懐帝に言った、「彼女は名公(劉殷)の孫である。いま、特別に妻とさせよう。卿よ、良く待遇するがよい」。劉氏を会稽国夫人に任じた。
鎮北将軍の靳沖を派遣して太原を侵略させ、平北将軍の卜珝に軍を統率させてこれに続かせた。靳沖は太原を攻めたが落とせなかった。それなのに罪を卜珝に押しつけ、独断で斬ってしまった。劉聡はこれを聞いておおいに怒り、「この人物(卜珝)は朕でも刑罰を加えられない者だぞ。靳沖はなにさまだ」と言った。御史中丞の浩衍に節を持たせて派遣し、靳沖を斬らせた。
左都水使者の襄陵王攄は魚と蟹を進上しなかったことで罪に坐し、将作大匠、望都公の靳陵は温明殿と微光殿が完成していないことで罪に坐し、ともに東市で斬られた。劉聡は節度なく狩猟に出かけ、いつも朝に出て日暮れに帰っていた。〔それから?〕汾水で漁を楽しみ、たいまつを灯して昼まで続けた。中軍将軍の王彰8『資治通鑑』巻八二、永煕元年に「〔楊〕駿辟匈奴東部人王彰為司馬、彰逃避不受」とあり、おそらく同一人物。は諌めた、「いま、大難はいまだに平定されておらず、余晋(晋の残党)はしばしの休息を得ています。〔それなのに〕陛下は、白龍が魚に姿を変えていたときにこうむったような禍を心配せず、しかも深夜になっても帰るのを忘れています。陛下はまさに、先帝が創業されたときの苦難と、〔その事業を〕継承することの容易なさに思い馳せるべきであり、帝業はすでに隆盛し、四海は心を寄せていますのに、どうしてこの事業を完成しようというときに失墜させ、将就しようというときに破壊してしまうのでしょうか。このごろ、陛下のご行動をひそかに観察しましたところ、臣がまことに心を痛め、頭を悩ますこと、毎日でございます。かつ、愚人(道理のわからない人間)は、いまだに漢にもっぱら心を帰しておらず、依然として晋におおいに心を寄せておりまして、劉琨はこの地(平陽)からわずかな距離におりますから、狂涓(偏屈)な刺客(暗殺者)がすぐにも来れます。帝王が軽率に外出してしまえば、一人分の人間にすぎません。陛下に願わくは、過去を反省して将来を正していただきますよう。さすれば、億兆の民衆は幸甚となりましょう」。劉聡はおおいに怒って、王彰を斬るように命じた。上夫人の王氏9『資治通鑑』巻八八、永嘉六年の胡三省注によれば王彰の娘。『資治通鑑』巻八八、永嘉六年によると、劉殷の娘をめとったときに他の臣の娘もめとっており、「漢主聡以司空王育、尚書令任顗女為左右昭儀、中軍大将軍王彰、中書監范隆、左僕射馬景女皆為夫人、右僕射朱紀女為貴妃、皆金印紫綬」とある。は叩頭して哀れみを乞うたので、王彰を詔獄に拘禁した。劉聡の母は劉聡の刑罰と怒りが誤っているのを理由に三日間絶食し、弟の劉乂と子の劉粲はどちらも棺を携えて(決死の覚悟で)厳しく諌めた。劉聡は怒り、「私が桀王、紂王、幽王、厲王であるものか。おまえらは生来の哭人(泣いているヤツ)だ」と言った。太宰の劉延年(劉淵の兄)と諸公卿列侯の百余人が、みな冠をぬいで涙を流し、強く諌めた、「光文皇帝(劉淵)は聖武をもって天命を受け、帝業を開創しましたが、六合(天下)はいまだ統一されぬまま、即位してまもなくに昇天されてしまいました。陛下の御徳は天から授かった生来のもので、龍のごとく飛翔して大統をお継ぎになり、東は洛陽を平げ、南は長安を定め、まこと、功は周の成王より高く、徳は夏の啓王をしのいでいると言えましょう。いにしえであれば唐(堯)と虞(舜)、いまであれば陛下です。記録を一々に確認すると、〔陛下に〕匹敵する者はいません。しかし近ごろは相前後して、ささいな業務を奉じなかったという理由で王公を斬り、直言が意に反すると、大将(高位の将軍)を拘禁し、狩猟は節度がなく、政務の機枢は整えられず、臣らの理解が及ばぬことでございます。〔これらの事情は〕臣らが身を粉にして寝食を忘れるゆえんなのです」。劉聡はようやく王彰を赦した。
麹特らが長安を攻囲し、劉曜は連戦して敗北したので、士女八万余口を拉致し、退却して平陽に帰還した。そして〔劉粲は晋の〕司徒の傅祗を三渚で攻め10載記の文脈的には劉曜が攻めたようにしか読めないのだが、『資治通鑑』によると劉粲が攻めたらしい。、〔劉聡は〕右将軍の劉参に郭黙を懐城で攻めさせた。傅祗は病死したので、城は陥落し、傅祗の孫の傅純と傅粋、および城中の二万余戸を平陽県に移した。劉聡は傅祗に太保を追贈し、傅純と傅粋はともに給事中とし、傅祗の子の傅暢に言った、「尊公(傅祗)は天命を理解していなかったとはいえ、おのおの主君に忠誠を尽くし11原文「然各忠其主」。「各」はよくわからない。、私もこのことは貞節だと思っている。しかし、晋主はすでに降伏しているし、天命は人間が支えるものではないというのに、〔晋の残党は〕南の辺境で暴虐をはたらき、辺境の民衆を妨害しており、これは晋の罪である。〔これに対し漢は〕元悪(悪人の首領)の世継ぎであっても贈位は勲臣や旧臣と同等とし、逆臣の子孫は禁中勤務の栄光を荷っている。皇漢の徳は広大だと卿(傅暢)は思わないか」。傅暢、「陛下は、先臣(傅暢の父の傅祗)が小臣12原文のまま。おそらく「天命を理解せずに晋に仕えている臣」のことをこう表現しているのではないかと思うが自信はない。大臣の反対の意かと思われる。の立場にあっても忠誠を失わなかったことを平素から嘉されています。このたびの恩恵に及びましては、もとより明主は国家〔の罪〕を征伐して民を憐れむという義でございましょう。臣は日ごろから、万物と同じように生を自然に感謝したことはありません13原文「臣輒同万物、未敢謝生於自然」。『三国志』劉廙伝に類似した表現がある。この生は劉聡のおかげです、という意味か。ここだけでなく、傅暢の発言は全体的によく読めない。」。
劉聡は劉粲、劉曜らを派遣して劉琨を晋陽で攻めさせた。劉琨は張喬に防がせ、武灌で戦ったが、張喬は敗北して戦死したので、晋陽は不安に陥った。太原太守の高喬と劉琨の〔并州刺史〕別駕の郝聿は晋陽をもって劉粲に降った。劉琨は左右の側近の数十騎とともに、妻子を連れて趙郡の亭頭に逃亡し、そのまま常山に向かった。劉粲と劉曜は晋陽に入った。これより以前、劉琨は代王の猗盧と誓約して兄弟となっていたので、敗北を猗盧に知らせ、また援軍を求めた。猗盧は子の日利孫、賓六須、将軍の衛雄、姫澹らを派遣し、軍数万を統率させて晋陽を攻撃させた。劉琨は散り散りになった兵卒千余を集め、猗盧軍の先導とし、猗盧〔みずから〕は軍六万を率いて狼猛に到着した。劉曜と賓六須は汾水の東で戦い、劉曜は落馬して流矢に当たり、身体に七か所の傷を負った。討虜将軍の傅武は〔自分の〕馬を劉曜に与えようとしたので、劉曜は「いまは危亡の極みであって、人々は各自で生存を図るときだ。私の傷はもはや重く、ここで死ぬのが本分だと覚悟している」と言った。傅武は泣き、「武は小人でありながら、大王(劉曜)の抜擢を受け、こうしてここにいるのでございます。いつでも命を差し出すつもりでいましたが、いまこそそのときです。また、皇室はようやく基礎がついたところで、大難はいまだ平定されていませんから、天下に一日として大王がいない日があってはならないのです」。こうして〔傅武は〕劉曜を支えて馬に乗せ、馬を走らせて汾水を渡らせると、〔みずからは〕転進して〔戦場に戻り〕戦死した。劉曜は晋陽に入ると、夜に劉粲らとともに百姓を拉致し、蒙山を越えて遁走し、〔平陽に〕帰還した。猗盧は騎兵を率いて追撃し、藍谷で戦った。劉粲は敗北し、〔猗盧は〕征虜将軍の邢延を斬り、鎮北将軍の劉豊を捕えた。劉琨は離散兵を集めて陽曲を守り、猗盧は陽曲を守備してから帰還した〔将を留めて〕晋陽を守らせてから帰還した(2020/9/20:修正)14劉琨伝、『魏書』序紀、穆帝五年の条を参照して訳文を修正した。。
正月、劉聡は光極殿の前殿で宴会を開き、懐帝に酒を注いで回るように強要すると、光禄大夫の庾珉、王儁らが立ち上がっておおいに慟哭したので、劉聡はこのことを不快に思った。ちょうどそのころ、庾珉らが平陽をもって劉琨に呼応しようと謀っていると知らせる者がいたので、劉聡はとうとう懐帝を毒酒で殺し、庾珉と王儁を誅殺し、また懐帝に下賜していた劉夫人を〔自身の〕貴人とし、境内の殊死死罪以下の罪人を大赦した。
左貴嬪の劉氏を皇后に立てた15以下の逸話は、『太平御覧』巻一四二所引「崔鴻三十国春秋前趙録」は載記同様に左貴嬪(大劉后)の話とするが、列女伝と『資治通鑑』は妹の小劉后(右貴嬪)の話としている。列女伝によれば、大劉后は左貴嬪を拝してまもなくに卒しているらしい。また、『資治通鑑』巻八八、永嘉六年によると、劉聡は呼延后が没したのちに空位となっていた皇后に劉麗芳を立てるつもりであったが、母の張氏の意向を受け、張氏の親族の娘を皇后に立てた(六月)。劉麗芳が没したのはそれからまもなくという。翌年正月に張太后が没し、あとをおって張皇后も亡くなった。劉氏の立后は同年三月のことである。。劉聡が劉氏のために䳨儀殿を後宮に建てようとすると、廷尉の陳元達は諫めた、「臣が聞くところでは、いにしえの聖王は国をみずからの家のように大切にし、ゆえに皇天もまた天子をみずからの子のように守るのだと。そもそも、天が庶民を生むと民のために主君を立てたのは、主君を民の父母とさせることで民に刑罰と恩沢を与えるためであり、多くの民衆を苦しませてたった一人を奔放に遇するというのを望んでいるのではございません。晋氏は愚昧かつ暴虐で、百姓を草芥(雑草とごみ)のようにみなし〔子のように扱わなかっ〕たので、上天はその朝命を絶ったのです。そこで〔天は〕皇漢をかえりみ、民衆は首を伸ばして待望し、肩の荷を下ろし、蘇生の希望を抱くこと、毎日のことでした。わが高祖光文皇帝は安らかに16原文「靖言」。和刻本が「靖カニ言(コ〃)ニ」と読むのに従った。このことを慮り、心と頭を痛めて心配されましたので、身体は大布(粗末な麻や綿)の衣服をまとい、座るときは敷物を重ねませんでしたし、また先の皇后の婦人服には飾りがなかったのです。〔さらに〕群臣の要請を受け入れるのをはばかったため17原文「重逆群臣之請」。やはり和刻本の読みに従った。、南北宮を建造したのです。いま、光極殿の前方は諸侯に朝見し、万国を饗宴するのに十分ですし、昭徳殿と温明殿の後方は六宮を収容し、十二等(側室)を並べるのに十分です。陛下が龍のように飛翔されて以来、外は二京(洛陽と長安)における稀代の賊を滅ぼし、内は殿や観を四十余箇所に建て、これらに加えて飢饉と流行病があり、死亡者があいついでおり、兵士は外で疲弊し、民衆は内で怨嗟しています。庶民の父母になるというのは、もとよりこのようなさまなのでしょうか。伏して御詔の御旨をおうかがいしますに、䳨儀殿を建造し、中宮(皇后)が新たに立つとのこと。まこと、臣らは喜んで『子のように集まって来る』(『毛詩』大雅、霊台)を実行いたしましょう。〔しかし〕愚見では、大難はいまだ平定されておらず、宮殿はほぼ足りていますので、いま建造されようとしているものは、実際のところ適切ではありません。臣の聞くところでは、太宗(漢の文帝)は高祖の事業を継ぎ、恵帝と呂后の時期の戦役が終わったあとを受け、天下の繁栄をもって君臨したにもかかわらず、なお百金の出費がかかるのを理由に露台〔の建設〕を止めたため、歴代に名声を残し、不朽の事績を成しとげました。ゆえに、重罪の断獄はわずか四百件で、周の成王と康王になぞらえられたのです。陛下が領有している地は、太宗にとっての二郡の地をも超えませんが、〔陛下が〕防備を設けなければならないのは、太宗にとっての匈奴と南越だけで済むとお思いでしょうか(2021/4/17:訳文修正)。孝文帝の広大さとくれば、出費に思いをめぐらすこと、かのようでございました。陛下の狭小さとくれば、損出を望むこと、このたびのようでございます。愚臣があえて死罪にあたる無礼を申しあげ、陛下の顔色に逆らい、不測の禍を犯すゆえんでございます」。劉聡はおおいに怒って言った、「私は万機の主君である。一つの殿を建造しようとするのに、わざわざおまえのようなネズミ野郎に聞いておらん。こいつを殺さなければ、朕の心を邪魔するものだから、朕の殿がどうして完成しようか。こいつをつまみ出して斬り、その妻子とともに東市に首をさらし、ネズミどもをいっしょに穴に埋めてやる」。このとき、〔陳元達は〕逍遙園の李中堂というところにいたので、陳元達は堂のそばの樹に抱きついて叫んだ、「臣の申しあげたことは、社稷の計略であります。それなのに陛下は臣を殺そうとしておられる。もし、死者に知性があるならば、臣は必ずや陛下のことを、上は天に訴え、下は先帝に訴えます。朱雲はこのように言いました、『臣は龍逢や比干とともに地下で交遊することができれば、それで満足です』と18『漢書』巻六七に立伝。直言して成帝の逆鱗に触れてしまい、引っ張り出されるところを欄干にしがみついて折ったときにこう言った。陛下はどのようなご主君であられるのか、まだわかりません」。陳元達は前もって腰に鎖を巻きつけて入っていたが、ここに到着すると鎖を樹に巻きつけたので、左右の者たちがこれを引っ張っても動かすことができなかった。劉聡の怒りは頂点に達しつつあった。劉氏はこのとき、後堂にいたが、騒ぎを聞きつけ、ひそかに中常侍をつかわして、左右の者に刑を停止するよう命じた。こうして〔劉氏は〕手疏を奉じて厳しく諌めたので、劉聡はようやく理解し、陳元達を召して謝罪し、逍遙園を納賢園に、李中堂を愧賢堂に改名した。
このころ、愍帝が長安で即位したので、劉聡は劉曜、司隷校尉の喬智明、武牙将軍の李景年らを派遣し、長安を侵略させ、趙染には軍を率いてこれに駆けつけるよう命じた。当時、〔晋の〕大都督の麹允は黄白城にこもり、たびたび劉曜と趙染に敗れていた。趙染は劉曜に言った、「麹允は大軍を率いて〔長安城の〕外にいますから、長安は襲撃すれば落とせましょう。長安を得れば、黄白城はおのずと降ります。願わくは、大王は重装兵でここをお守りください。染は軽装騎兵で長安を襲撃したく存じます」。劉曜はそこで承制して趙染に前鋒大都督、安南大将軍を加え、精鋭騎兵五千を与えて進軍させた。王師(晋軍)は渭陽で敗れ、将軍の王広が戦死した。趙染は夜に長安外城に入り、愍帝は射雁楼へ逃げた。趙染は龍尾の軍塁と諸軍の軍営を焼き、千余人を殺戮もしくは拉致し、朝に退却して〔長安の〕逍遙園に駐屯した。麹允は軍を率いて劉曜を襲撃し、連戦してこれ(劉曜)を破った。劉曜は粟邑に入ると、そのまま平陽へ帰還した。
このころ、流星が牽牛から紫微に入り、〔その軌跡は〕龍のような線形で曲がりくねり、その光は地を照らし、平陽の北十里の地点に落ちた。そこを見ると、肉片があり、長さは三十歩、幅は二十七歩で、臭いは平陽までただよい、肉片の近くではつねに哭き声が聞こえ、昼夜止むことがなかった。劉聡はとても気味悪がり、公卿以下を召して諮問した、「朕の不徳がかのような怪異をもたらしたのだろう。各自、言葉を尽くして進言し、憚るところのないように」。陳元達と博士の張師らが進み出て答えた、「星の異変があれば、災禍がもうすぐ起こることでしょう。臣は、後宮に三人の皇后19『資治通鑑考異』が指摘するように、三人の皇后が立てられたのはこれよりも後の話のはずなので、ここで三后に言及されているのはおかしい。がおられますことを心配しています。国家を滅亡させるのは、これを原因とするにまちがいありません。願わくは、お慎みくださいますよう」。劉聡、「これ(星の異変)は陰陽の道理であって、どうして人事に関わるのだ」。まもなく、〔皇后の〕劉氏が一匹の蛇と一匹の猛獣20『太平御覧』巻一一九、劉聡に引く「崔鴻十六国春秋前趙録」、同、巻一四二、小劉后に引く「崔鴻三十国春秋前趙録」、『魏書』匈奴劉聡伝は「虎」に作る。を生み、それぞれが人を殺傷して逃げ、探したが見つからなかった。しばらく経ち、あの落ちてきた肉片のそばで発見された。にわかに劉氏が死に、するとこの肉片もなくなり、哭き声も止んだ。これ以後、後宮での寵愛は度を逸し、進御に秩序がなかった。
劉聡は劉易を太尉とした。はじめて相国を置き、官の位は上公とし、格別な功績や徳をそなえた者が死んだ場合に贈るものとした。こうしておおいに百官を整え、太師と丞相を置き、大司馬より以上の七公21晋の八公は太宰(太師)、太傅、太保、太尉、司徒、司空、大司馬、大将軍は、すべて位を上公とし、緑綟綬、遠遊冠とした。輔漢、都護、中軍、上軍、輔軍、鎮軍、衛軍、京軍(中軍?)、前軍、後軍、左軍、右軍、上軍、下軍、輔国、冠軍、龍驤、武牙の大将軍を置き、おのおのの営に兵二千を配し、すべて諸子をこれらに任命した。左右の司隷校尉を置き、それぞれ二十余万戸を管轄させ、一万戸ごとに内史一人を置き、全部で内史は四十三であった。単于左右輔を置き、それぞれ六夷の十万落を管轄させ、一万落ごとに都尉一人を置いた。吏部尚書を廃し、左右選曹尚書を置いた。司隷校尉以下の六官は、みな位は尚書僕射に次いだ。御史大夫と州牧を置き、どちらも位は亜公とした。劉聡の子の劉粲を丞相、領大将軍、録尚書事とし、晋王に進め、五都を食邑とさせた。劉延年を録尚書六條事とし、劉景を太師とし、王育を太傅とし、任顗を太保とし、馬景を大司徒とし、朱紀を大司空とし、劉曜を大司馬とした。
劉曜がふたたび渭水の汭に駐屯し、趙染は新豊に駐屯した。〔晋の〕索綝は長安から東に進んで趙染を討伐しようとした。趙染は連勝で心が緩み、索綝を軽んじている様子であった。〔趙染の〕長史の魯徽は言った、「いま司馬鄴(愍帝)ら君臣は、僭称するところの王畿に逼られているものの22原文「逼僭王畿」。こういう意味であるのか自信はない。、〔晋と漢とは〕優劣が変わらないと考えているので、必ずや決死の覚悟でわれらを防ごうとするでしょう。将軍は陣を整え、兵を見まわって〔準備をそろえて〕これを撃退するべきであって、軽んずるべきではありません。困窮した獣ですら闘おうとするもの、ましてや国家ならなおさらです」。趙染、「司馬模の精強をもってしても、私にとっては朽ちた木を砕くようなものだ。索綝のような豎子など、わが馬の蹄と刀の刃を汚すまでもない。必ず生け捕りにしてあとで食ってやる」。〔趙染は〕夜明けに精鋭騎兵数百を率い、馬を疾走させて出撃し、索綝を迎撃し、城の西で戦ったが、敗北して帰還し、悔やんで言った、「私が魯徽の進言を用いなかったがために、このような事態になってしまった。どの面(つら)下げて魯徽に会えようか」。こうして魯徽を斬ろうとした。魯徽は刑に臨んで趙染に言った、「将軍は〔私の〕諫言に耳をかさず、計略にさからい、愚かにも敗北を得てきました。そのうえ〔自分よりも〕優れた人物をねたんで殺そうとし、忠良の人間を誅殺しようとし、そうしてその愚昧と強情をほしいままにされています。いったい、どのような顔を世間に向けるのでしょうか。袁紹はこのようなことを以前におこないましたが、将軍はこれを後世にならい、敗北したのも〔袁紹に〕つづいています。残念に思うのは、大司馬(劉曜)に一度でもまみえることができず、死ぬことです。死者に知性がなければ〔それで〕しまいになります。もし知性があるならば、地下で田豊に会って仲間になり、必ず将軍を黄泉で訴えましょう。将軍には寝台や枕に寝た状態で死なせたりしません」。〔そして魯徽は〕刑の執行者を叱り、「わがおもてを東(劉曜?平陽?)に向けさせよ」と言った。大司馬の劉曜はこれを聞いて言った、「牛馬の蹄の跡にたまった水では一尺の鯉は入らないというが、趙染のことだな」。
劉曜は軍を戻して郭黙を懐城で攻め、その米粟八十万斛を没収し、三つの駐屯地を並べ、これ(米粟)を守らせた三つの部隊に分けて懐に留めた(2020/11/15:修正)。劉聡は使者を派遣して劉曜に言った、「いま、長安は一息つき、劉琨は心をゆったりさせている。これらは国家がとくに優先して排除しなければならないものたちだ。郭黙はささいな悪人であるから、公の神略を働かせるまでもない。征虜将軍の貝丘王翼光を留めさせてそこを守らせればよい。公、帰還せよ」。こうして劉曜は蒲坂に帰還した。にわかに劉曜を召して輔政させた。
趙染は北地を侵略した。夢で魯徽がおおいに怒り、弓を引いて射てきた。趙染は驚いて目が覚めた。〔趙染は〕朝に城を攻めようとしたところ、弩に当たって死んだ。
劉聡は劉粲を相国とし、百揆を総べさせ、丞相を廃して相国に統合した23『太平御覧』巻一一九、劉聡に引く「崔鴻十六国春秋前趙録」、『資治通鑑』巻八九、建興二年十一月によれば同時に大単于にも就いている。。平陽で地震があり、強風が木を抜き、家屋を壊した。光義の羊充の妻が、頭が二つある子を産み、その兄(羊充の兄?)がこっそりこの子を保育していたが、三日経って死んでしまった。劉聡は太廟が新たに建ったことから、境内を大赦し、建元と改元した。血が東宮の延明殿に降り、地面にあった瓦器に深さ五寸までたまった。劉乂はこれを嫌がり、太師の盧志、太傅の崔瑋、太保の許遐に質問した。盧志らは言った、「主上がかつて殿下を皇太弟としましたのは、人望を安心させるためだったのでしょう。〔実際の〕意志が晋王(劉粲)に向けられて久しいものです。王公以下はみな、主上に迎合して従うにちがいありません。相国の位は、魏の武帝以来、人臣の就く官ではなく、主上はもともと、明詔を発せられて贈官として設けたのですが、いま、にわかに晋王を相国に就かせ、礼物と威尊は東宮をしのぎ、万機の政務は必ず相国を経由し、太宰、大将軍、諸王の営を設けて〔相国の〕羽翼としています。これは、事の情勢が〔殿下から〕離れてしまったのです。殿下が立てないことは明白であります。しかもたんに立つことができないだけでなく、不測の災厄が旦夕に迫っており、早急にこれに対処するべきであります。四衛の精兵24『資治通鑑』巻八九、建興三年の胡三省注は「謂東宮左右前後四衛率所統兵也」という。は五千を下りませんし、ほかの軍営の諸王はみな幼いですから、その軍団を奪い取れましょう。相国は軽率な方ですから、一人の刺客を働かせるだけで済みます。大将軍25『資治通鑑』胡三省注によれば劉粲の弟の渤海王敷。は必ず毎日外出されますから、その軍営は襲撃して奪うことができましょう。殿下が意志をおもちになりさえすれば、二万の精兵(諸王と大将軍の営の合計?)がすぐに得られましょう。〔その軍でもって〕太鼓を鳴らして進軍し、雲龍門に向かえば、宿衛の兵士はみな矛をこちらに向けずに〔殿下を〕奉迎し、大司馬(劉曜)は反対行動を起こそうと考えないでしょう」。劉乂は従わなかったので、沙汰止みになった。
劉聡は中護軍の靳準の邸宅に行き、彼の二人の娘をめとり、左右貴嬪とした。姉を月光、妹を月華といい、どちらも傾国の美貌であった。数か月して月光を皇后に立てた。
東宮舎人の荀裕が、盧志らが劉乂に謀反を勧めたが、劉乂が従わなかったさまを〔劉聡に〕告発した。劉聡はこうして、盧志、崔瑋、許遐を詔獄に収監し、他事にかこつけて殺した。冠威将軍の卜抽に東宮を監視させ、劉乂には朝賀を禁じた。劉乂は憂慮してどうしてよいかわからず、上表してみずから陳謝し、〔みずからは〕庶民となること、また子どもたちの封を免じることを求め、晋王の劉粲を賛美し、後継ぎに立てるのが良いと述べようとしたが、卜抽がこれも制止して通さなかった。