凡例
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- 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。
劉聡の青州刺史の曹嶷が汶陽関と公丘を攻め落とし、〔晋の〕斉郡太守の徐浮を殺し、建威将軍の劉宣を捕え、斉と魯の領域の郡県にある塁壁で降ったところは四十余所にのぼった。曹嶷はそのまま土地を侵略し、西に進んで祝阿と平陰を下し、衆は十余万におよび、黄河に面した地に戍を置いて、臨淄に帰った。曹嶷はこうして、とうとう斉全土に割拠する大志を抱くようになった。石勒は曹嶷が二心を有していることを理由に、討伐を願い出た。劉聡は石勒が斉を兼併することも嫌がったので、要請を黙殺して許可しなかった。
劉曜が盟津から〔黄河を〕渡り、河南を攻めようとした。〔晋の〕将軍の魏該は一泉塢に逃げた。劉曜は進軍して李矩を滎陽で攻め、李矩は将軍の李平の軍を成皋へ派遣したが、劉曜はこれを壊滅させた。李矩は恐れ、人質を送って降服を願い出た。
このころ、劉聡は皇后の靳氏(月光)を上皇后とし、貴妃の劉氏を左皇后に立て、右貴嬪の靳氏(月華)を右皇后に立てた。左司隷校尉の陳元達は三人の皇后が立ったことをもって、厳しく諌めた。劉聡は聞き入れず、陳元達を右光禄大夫とした。外面では賢者を優遇しているように示しながら、内実では権力を剥奪したのである。こうして、太尉の范隆、大司馬の劉丹、大司空の呼延晏、尚書令の王鑑らはみな上奏して直言し、位を辞して陳元達に譲ろうとした。劉聡はそこで陳元達を御史大夫、儀同三司とした。
劉曜は長安を侵略したが、しばしば王師(晋軍)に敗れた。劉曜は「あちらはまだ手強く意気盛んであるから、攻略できまい」と言うと、軍を引き上げて帰還した。
劉聡の宮中で鬼が夜に泣き、三日すると声は右司隷寺のほうに行き、それから止んだ。上皇后の靳氏には淫乱のふるまいがあったため、陳元達はこのことを奏した。劉聡は靳氏を廃したが、靳氏は恥じ入って怒りがつのり、自殺してしまった。靳氏には格別の寵愛があったのだが、劉聡は陳元達の〔諫言の〕勢いに迫られたため、廃したのである。ほどなく靳氏の姿を忍ぶようになり、深く陳元達を恨んだ。
劉曜は軍を上党に進め、陽曲を攻めようとすると、劉聡は使者をつかわして劉曜に言った、「長安(愍帝)は〔われわれに服従せずに〕勝手に命令を出しているが、これは国家のおおいなる恥である。公は長安を優先するのが適当であろう。陽曲は驃騎将軍(不明)に任せればよい。天時と人事がまさに到来しているのだ。公よ、すみやかに帰還せよ」。劉曜は転進して郭邁を滅ぼし、劉聡に朝見し、とうとう蒲阪へ向かった。
平陽で地震があった。血が東宮に降り、一頃余の場所に降った。
劉曜はまたも〔長安に向けて〕進軍し、粟邑に駐屯した。麹允〔の軍〕は飢餓がひどかったので、黄白を離れ、霊武に駐屯した。劉曜は進軍して上郡を攻め、上郡太守の張禹と馮翊太守の梁蕭は允吾へ逃げた。こうして関右は安定し、あちこちが劉曜に呼応した。劉曜は進軍して黄阜に留まった。
劉聡の武庫で地面が一丈五尺陥没した。当時、中常侍の王沈、宣懐、兪容、中宮僕射の郭猗、中黄門の陵修らはみな劉聡に気に入られ、権勢をふるっていた。劉聡は〔政務を彼らに任せて〕後宮で宴会し、百日〔朝廷に〕出ないこともあった。群臣はみな王沈らを伝って政事案件を報告したが、多くは劉聡に上呈されず、すべて王沈らの意向や愛憎に従って決裁したため、勲功を立てたり旧来から仕えたりしている功臣でも登用されず、よこしまな佞人がたった数日で二千石にのぼる場合もあった。軍隊は毎年興されていたのに、将士には銭帛の褒賞がなく、〔その一方で〕後宮の家は僮僕まで下賜をたまわり、〔その量は〕ともすれば数千万にものぼった。王沈らの車服や邸宅はすべて諸王をしのぎ、〔王沈らの〕子弟や中表1異姓のいとこ。(『漢辞海』)で官位のない者の三十余人が内史や県の令長になった。みな奢侈は本分を超え、欲深く残虐で、善良な人々を虐げたり殺したりした。靳準は宗(同姓)全体と内外(中表)をもって〔王沈らに〕へつらい、仕えた。
郭猗は劉乂に恨みがあったので、劉粲に言った、「太弟(劉乂)は主上の御世におかれましてもなお不逞の野心を抱いています。これは殿下の父子にとって深い仇であり、四海の民衆にとって重い怨嗟です。しかるに主上は寛大な御心を過大にお示しになり、いぜんとして二尊2辞書的には父母の意だが、文脈からみると皇帝の次に尊いという意味(皇太弟、皇太子)に思える。の位を変更していません。にわかに〔劉乂による〕挙兵の異変が起こりましたらと思うと、臣はひそかに殿下のために心を寒くしております。くわえて、殿下は高祖(劉淵)の嫡孫であり、主上の嫡子です。およそ人であれば、〔殿下を〕慕い仰がない者はいません。万機の政務は重大なのですから、どうして他人に与えるべきでしょうか。臣が以前に聞いたところでは、太弟が大将軍3『資治通鑑』巻八九の胡三省注によると劉聡の子の劉驥を指す。前文で大将軍であった劉敷は没していたのだろうと胡三省は推測している。と会見し、たいへんなことを言ったそうで、もし事が成就したら、主上を太上皇とし、大将軍を皇太子とする約束をしたそうです。さらに劉乂は衛軍将軍4『資治通鑑』胡三省注は「子勱為衛大将軍」としており、将軍号がちがっているのでこの人名で正確なのかわからない。を大単于とする約束を結び、二王(大将軍と衛軍)はすでにこれを承知したそうです。二王5『資治通鑑』は「三王」に作る。は要地に駐留し、どちらも重要な軍隊を統御していますが、これらを利用して計画を実行すれば、どうして成就しないでしょうか。臣が考えますに、二王のこの挙行〔の愚かさ〕は、禽獣ですらかなわないでしょう。父にそむいて他人に親しむ者に、どうして人々が親しむでしょうか。また、いま仮に一時の権力に目がくらんでいるだけだとしても、計画が成功したのち、主上が生をまっとうできる道理はありましょうか。殿下の兄弟はもとより〔心が通じ合っているので〕言葉を必要としない間柄でしたから、〔殿下の兄弟の大将軍と衛軍将軍への約束は守られず、〕東宮、相国、単于には武陵王の兄弟が就くことになりましょう6原文「殿下兄弟故在忘言、東宮、相国、単于在武陵兄弟」。よくわからない。「忘言」は「得意忘言」というやつであろう。武陵兄弟については、『資治通鑑』胡三省注に「武陵兄弟、当是乂之諸子」とある。ただしこれが適切な読み方であるのかはわからない。とりあえず「劉粲の兄弟はみんな仲がいいから、劉粲の兄弟の大将軍と衛軍将軍も結局は警戒されてやられてしまい、最後は劉乂の子供たちが得するだけですよ」というふうに読んでみた。。どうしてみすみす他人に与えてしまうのですか。三月上巳の酒宴を利用して挙兵することを〔太弟らは〕示し合わせており、機会が整えば事変が生じるでしょうから、早急に対策せねばなりません。『春秋伝』に『雑草でさえ生い茂ったら除けない。まして主君がかわいがっている弟君ならなおさらである』(『左伝』隠公元年)とあります。臣はしばしば主上に〔太弟のことを〕申しあげましたが、主上は兄弟を大切にされる性格ですから、臣の言葉は不実であるとおっしゃりました。臣は宮刑を受けた者の生き残りですが、主上や殿下からお目こぼしの御恩をこうむりましたため、逆鱗の誅殺を恐れずに、耳にしたことは必ず申しあげ、聴き入れていただきたいと希望しています。臣が入室してこのようなことを申しあげていますのは、殿下が漏らすことなく、内密にこのたびの状況を上表されることを願っているからです。もし臣の言葉をご信用なさらないのであれば、大将軍従事中郎の王皮と衛軍将軍司馬の劉惇をお呼びになって、彼らに恩愛を授け、善良に帰順する道に通じさせてから問いただすのがよいでしょう。必ず知ることができます」。劉粲は深く納得した。郭猗はひそかに王皮と劉惇に言った、「二王の反逆の様子は、主上も相国もすでにつぶさに知っています。卿らは彼らに従うのですか」。二人は驚き、「反逆などありません」と言った。郭猗、「このことはきっと疑いえないのです。私は卿らの親族や旧友が〔卿らと〕いっしょに族刑に処されるのを憐れんでいます」。そしてすすり泣き、涙をこぼした。王皮と劉惇はおおいに恐懼し、叩頭して哀れみを乞うた。郭猗、「私が卿らのために一計を案じましょう。卿らは従いますか」。二人はともに、「謹んで大人の教えを奉じます」。郭猗、「相国は必ず卿らを問いただします。卿らはそうですとだけ言いなさい。もし、どうして先に申さなかったのかと〔相国が〕卿を責めてきたら、卿らはこう返答しなさい、『臣はまことに死罪にあたりますが、しかし仰ぎみましたところ、主上は神聖な本性と寛大なご慈愛を備えられ、殿下は骨肉の親類を大事にしていますから、〔臣の〕言葉が嘘になってしまうのを恐れたのです』と」。王皮と劉惇は了承した。劉粲はにわかに二人を召して問いただそうとした。二人は同時に来たわけではないのに、言葉は同じであったので、劉粲は信用した。
これ以前、靳準の従妹は劉乂の妾となったが、劉乂の侍人と姦淫したため、劉乂は怒って殺し、そのうえしばしば靳準を嘲った。〔そのとき〕靳準は深く恥じ入って怒りがつのり、劉粲に説いて言った、「東宮は万機の副たる地位にあたりますが、殿下はみずからがこの地位にお就きになって、相国を領し、天下の人々に望みを繋ぐ人物がいることを早く知らしめるべきであります」。このとき(郭猗の一件)になって、靳準はまたも劉粲に説いて言った、「むかし、孝成帝は子政(劉向の字)の進言を拒んだため、王氏についに簒奪を成功させてしまいましたが、適当だったでしょうか」。劉粲、「そんなわけなかろう」。靳準、「そうです、まことにおっしゃるとおりです。下官はすみやかに申しあげたいことがございますが、ただ〔下官の〕徳は更生(劉向の本名)に及ばず、親類関係は〔劉向とちがって〕宗室ではありませんから、忠誠を尽くした言葉が出てまもなく、厳しい威光がすぐに〔わが身に〕及ぶのを不安に思いましたので、あえて申しあげていませんでした」。劉粲、「君よ、言いたまえ」。靳準、「世の流言を耳にしたのですが、大将軍、衛〔軍〕将軍、単于左右輔がみな謀って太弟を奉じ、季春に期日を定めて事変を計画されているのだとか7この箇所、公開当初から訳文を修正した。原文の「風塵之言」を郭猗が劉粲に吹き込んだ劉乂挙兵の話だと当初は読んでいたのだが、考えすぎであった。(2020/12/1)。殿下は早急に備えをなすべきかと思います。そうしなければ、楚の商臣のような禍が起こることを心配しています」。劉粲、「どうすればよいか」。靳準、「主上は太弟を愛し、信頼されていますから、おそらくにわかにお聞きになっても〔下官らの言葉を〕信用されるとはかぎりません。下官が思いますに、東宮(劉乂)の禁固を緩め、太弟の賓客と絶交させず、軽薄の輩と交際できるようにさせてやればよろしいのです。太弟はもともと士をもてなすのを好んでいますから、必ず嫌疑を招かないようにしようとは思わず、軽薄な小人は〔太弟の〕意向に迎合して太弟の心をそそのかさないわけがありません。〔太弟と交際するであろう〕小人は始めがあっても終わりはなく、貫高の類いに及びもしません8貫高は漢の高祖の暗殺をはかった人物。臣従している趙王・張敖が高祖に侮られているのを見て憤慨し、貫高ら臣下だけで暗殺計画を立てたが、のちに露見し、捕えられて厳しい拷問を受けるも、気を吐いて趙王の関与を否定しつづけた。高祖はその気概を評価して貫高を赦したが、直後に自害した。『漢書』張耳伝を参照。劉乂にむらがる連中はこういう壮士には及ぶべくもない、ということであろう。。そのあとで、下官は殿下のために小人らの罪を暴露いたしますので、殿下は太宰(劉易?)とともに太弟と交遊した者を捕えて取調べ、計画の主犯を明らかにすれば、主上は必ずや反逆の心を抱いた罪をもって太弟を罰するでしょう。そうしなければ、現在の朝廷の人望は多く太弟に帰してしまい、主上がにわかに崩御されてしまえば、おそらく殿下は〔位に〕立つことができないでしょう」。こうして劉粲は〔東宮を監視していた〕卜抽に命じ、兵を連れさせて東宮から去らせた。
劉聡は去年の冬からこのときにいたるまで、とうとう朝賀を受けず、軍事と国事はすべて劉粲が決裁し、中旨(天子の命令)を発するのは殺生と叙任のときのみで、王沈、郭猗らが所望したことはすべて聴き入れていた。また市を後宮に設け、宮人と酒盛りして遊び、あるときは三日のあいだ酔って意識が混濁していた。劉聡は上秋閣を来訪し、特進の綦毋達、太中大夫の公師彧、尚書の王琰、田歆、少府の陳休、左衛の卜崇、大司農の朱誕らを誅殺しようとしたが、彼らはみな宦官が嫌っていた人物であった。侍中の卜幹は泣いて劉聡を諌めた、「陛下はちょうど武帝と宣帝の〔ような〕教化を盛りあげ、奥深い渓谷から隠者をなくそうとしていますのに、どうしてにわかに〔隠者を抜擢するよりも〕先に忠良の臣を誅殺しようとするのでしょう。どうしてこのようなことを後世に残そうとされるのでしょうか。むかし、秦〔の民衆〕は三人の良臣を慕っていたのに〔国は穆公に殉死させるため〕殺してしまったので、君子は秦が覇者になれないことを悟りました。晋の厲公は〔みずからの〕無道さでもって、三卿を殺して死体をさらしたのち、〔さらに卿を殺すことには〕忍びなく思う心がなお残っていました。陛下はどうして急に左右の者たちの愛憎に任せた言葉を信じ、一日に七卿を殺そうとされるのでしょうか。詔はなお臣(侍中の卜幹)の手の内にあり、まだ発布されていませんから、昊天の恩沢を賜い、雷霆(怒り)の刑罰を撤回されることをお願い申しあげます。また、陛下はただ七卿を誅殺しようとするだけで、罪名を公表していませんが、そのようであってどうして四海に示せましょうか。これが帝王の三訊9多方査詢。形容決獄之慎重。(『漢語大詞典』)「三刺」とも言う。『周礼』秋官、小司寇「以三刺断庶民獄訟之中、一曰訊群臣、二曰訊群吏、三曰訊万民」。の法であるものでしょうか」。そして叩頭し、流血するほどであった。王沈は卜幹を叱責し、「卜侍中は詔を拒もうというのか」と言った。劉聡は衣を払って〔上秋閣に?〕入り、卜幹を罷免して庶人とした。
太宰の劉易、大将軍の劉敷、御史大夫の陳元達、金紫光禄大夫の王延らは闕門に来訪して諌めた、「臣が聞くところでは、善良な人間は乾坤(天地)の綱紀であり、政教の根本です。邪悪な佞人は宇宙の螟螣(稲の害虫)であり、王化の蝥賊(稲の害虫)です。ゆえに、〔周の〕文王は多くの士人によって周の基礎を築き、〔後漢の〕桓帝や霊帝は宦官によって漢を滅ぼしたのです。国家の興亡が、このことを原因としない場合はありません。いにしえ以来、明王の治世において、宦官が政治にあずかることはありませんでした。武帝、元帝、安帝、順帝は〔宦官によって朝政が乱された〕故事とするのに十分ではありませんか。いま、王沈らは常伯(侍中)の位置におり、内朝で生殺与奪〔の権限〕を手中にし、権勢は海内を傾かせ、愛憎の任せるままに政治に関与し、天子の命令だと偽り、日月をあざむき、内は陛下にへつらい、外は相国(劉粲)におもねり、その権威の重さは人主に匹敵します。王公は彼ら(宦官)を目にすると驚きあがり、卿宰は〔前方に宦官の〕車の塵があがっているのを見つけると〔みずからは〕車を下り、選考の官は彼らに脅迫され、選挙は実績をもっておこなわれなくなり、士人は徒党をもって挙げられ、政治は賄賂をもって運営され、悪人たちを多く取り立て、忠善の臣を虐殺しています。〔彼らは〕王琰らが忠臣で、必ず陛下に節義を尽くすことに気づくと、みずからの悪事の芽が露見してしまうのを恐れたため、王琰らを極刑に陥れたのです。陛下は三察(たぶん三訊と同じ)をほどこさず、後先考えずに誅殺を加えてしまいました。〔王琰らは〕怨んで蒼天で悲しみ、悲痛して九泉に入りました。四海は悲しみ嘆き、賢人も愚者も悼んで不安を抱いています。王沈らはみな宮刑の生き残りであり、恩にそむいて義を忘れる類いですから、どうして士人や君子のように恩に感動し、忠勤に尽力して、陛下への恩義に報いようとするでしょうか。〔それなのに〕陛下はどのような理由で親近しておられるのですか。なぜ重用するのでしょうか。むかし、斉の桓公が易牙を信任すると乱が起こり、孝懐帝(劉禅)が黄皓に委任すると滅びました。これらはともに、車が前方で転倒したようなもので、『殷鑑遠からず』(他人の失敗をみて、自分の戒めの材料とする)です。近年の地震や日蝕、血の雨や火災は、すべて王沈らに原因があります。陛下に願わくは、悪人が政治に関与する流れを断ち切り、尚書と御史を朝廷の万機に引き戻し、相国は公卿とともに五日に一度入朝させて、政務を会議させますように。大臣をして言葉を出し尽くさせ、忠臣をして意志を満足させることができれば、多くの災異は自然とおさまり、調和した気が吉兆を示すことでしょう。現在、晋の残党はまだ滅びておらず、巴蜀(成漢)はまだ服従しておらず、石勒はひそかに趙魏に跋扈する大志を抱き、曹嶷はひそかに全斉に王として君臨する心を有し、さらに王沈らが政治の混乱を助長しているのを加えると、陛下の心腹や四肢で無事なところはどこにありましょうか。〔全身が病気のような状況であるというのに〕そのうえ巫咸〔のような人物〕を誅殺し、扁鵲〔のような人物〕を殺戮してしまいました(どちらも医者)。〔陛下が〕とうとう〔扁鵲でも治療できなかった〕斉の桓侯のような膏肓の病を発症してしまわないかと臣は恐れています。あとで治療しようと思っても、どうしようもないのです。どうか王沈らの官を免じ、有司に付して罪を決定してくださいますよう」。劉聡は上奏文を王沈らに見せ、笑って言った、「こいつらは陳元達に連れられてきたんだ。とうとうイカレちまったな」。この上表を黙殺した。王沈らは頓首し、泣いて言った、「臣らは小人ですのに、過分にも陛下の抜擢をこうむり、幸いにも宮中の清掃に加わることができました10原文「幸得備洒掃宮閤」。『論語』子張篇「子夏之門人小子、当洒掃応対進退則可矣、抑末也」とあり、「洒掃」は末事のこととされる。ここではそういう文脈の意味あいなのだろう。。しかし王公や朝士は臣らを仇敵のように憎み、また〔臣らのことで〕陛下にも大きな不満を向けています。願わくは、甚大な御恩を撤収し、臣らに油を塗って釜ゆでになさってください。〔そうすれば〕皇朝の上下はおのずと調和いたしましょう」。劉聡、「こいつらの狂言はいつものことだ。卿らが気にする必要はない」。さらに〔劉聡は〕劉粲に〔王沈らの件について〕たずねたが、劉粲は、王沈らは忠実かつ清廉で、王室に心を尽くしている、とさかんに褒め称えた。劉聡はおおいに喜び、王沈らを列侯に封じた。太宰の劉易は闕門に来訪し、ふたたび上疏して強く諫めた。劉聡はおおいに怒り、手ずから上表文を破ったので、劉易はとうとう憤死してしまった。陳元達は慟哭して悲しみ、「『賢者がいなくなれば、国家は困窮する』(『毛詩』大雅、瞻卬)。私はもう何も言えない。だからといって黙々と生きようものか」。帰宅すると自殺してしまった。
北地で飢饉がひどく、人々はたがいに食いあった。羌の酋大の軍須は食糧を輸送して麹昌に供給していたが、劉雅がこれを撃破した。麹允と劉曜が磻石谷で戦い、王師(晋軍)は敗北し、麹允は霊武に敗走した。平陽は大飢饉で、流浪したり、そむいたり、死亡したりする者は十人に五、六人にものぼった。石勒は石越に騎兵二万を統率させて派遣し、并州に駐屯させ、そむいた者を慰撫させた。劉聡は黄門侍郎の喬詩に石勒を責めさせたが、石勒は命令を奉じず、ひそかに曹嶷と結託し、鼎立の情勢を形成しようと画策した。
劉聡は上皇后に樊氏を立てた。〔樊氏は以前に皇后であった〕張氏の侍婢である。この当時、四人の皇后のほかに11これ以前に上皇后であった靳月光はすでに死んでいるので、皇后は樊氏(上皇后)、劉氏(左皇后)、靳月華(右皇后)の三人のはずである。そのため『資治通鑑考異』は「四后」は「三后」の誤りだと述べている。張皇后のように載記にはまったく登場しない皇后も存在しているので、ほかにも知られていない皇后がいた可能性もある。、皇后の璽綬を佩く者は七人おり、朝廷の内外は綱紀がすたれ、阿諛迎合は日々進上され、賄賂は公然と横行した。〔一方で〕軍隊は外におり、餓えと疫病が度重なっていたが、後宮への賞賜はともすれば千万にまでいたった。劉敷はしばしば泣いてこのことを諫めたが、劉聡は聞き入れず、怒って言った、「おまえは父上(劉聡)を死なせたいのか。一日中ずっと、生来の哭人じゃないか」。劉敷は憂い、憤激して発病し、死んでしまった。
河東で蝗が大発生したが、黍と豆だけを食わなかった。靳準は部人を率いて蝗を捕獲して埋めると、哭声が十余里にわたって響き、のちに〔埋められた蝗は〕土に穴をあけて飛び出し、黍と豆も食ってしまった。平陽で飢饉がひどく、司隷の部人で冀州に逃げる者は二十万戸あったが、これは石越が呼び集めていたからであった。犬が豚と相国府の門で交合し、さらに宮門でも交合し、司隷校尉府の門と御史台の門でも交合した。豚は進賢冠をかぶり、劉聡の玉座に登った。犬は武冠をかぶり、綬を帯び、豚といっしょに登った。にわかに殿上で闘い、死んでしまった。宿衛の兵士で〔犬と豚が宮中に〕入ってきたところを見た者はいなかった。〔このような怪異があっても〕劉聡の暗愚と暴虐はますますひどくなり、〔みずからを〕戒めて危惧する心をもたなかった。群臣と光極前殿で宴会すると、太弟の劉乂を引見したが、その容貌はやせて衰弱しており、頭髪は白く、涙を流して泣き、陳謝した。劉聡も劉乂に対面すると泣いて悲しみ、酒を思う存分に飲んでこのうえなく楽しみ、劉乂を当初のように待遇した。
劉曜が長安外城を落とした。愍帝は侍中の宋敞に劉曜への書簡を送らせ、愍帝は肉袒(肌ぬぎ)して羊を引き、棺を携え、璧を口にくわえ、城から出て降った。〔愍帝が〕平陽に到着すると、劉聡は愍帝を光禄大夫、懐安侯とし、劉粲に太廟へ報告させた。境内を大赦し、麟嘉と改元した。麹允は自殺した。
東宮の四方の門がわけもなく勝手に壊れた。その後、内史の娘が化けて丈夫(男)になった。このころ、劉聡の子の劉約が死んだが、ひとつの指がまだ暖かかったので、とうとうかりもがりをせずにいた。〔するとのちに〕蘇生し、このようなことを語った。不周山で劉元海に会い、五日経ってから、さらに〔劉元海に〕従って行って崑崙山に着き、三日してふたたび不周山に戻った。諸王、公、卿、将、相の死んだ者たち全員がそこにおり、宮室はひじょうに壮麗で、〔劉元海は〕蒙珠離国と号していた。劉元海は劉約に言った、「東北に遮須夷国という国があるが、久しく主君が不在である。おまえの父〔がここに来るの〕を待ってこれに就けるつもりだ。おまえの父は三年後にやって来るだろう。ここに来たのち、漢国はおおいに混乱して殺しあい、わが家はほとんど死に絶え、永明(劉曜)ら十数人が生き残るだけだろう。おまえはしばらく〔漢国に〕帰りなさい。後年にここにやって来るだろうが、そう遠くないうちに再会するだろう」。劉約は拝礼して辞し、帰った。道中、猗尼渠余国という国に偶然立ち寄った。〔そこの主君は〕劉約を召して宮殿に入れ、劉約に皮嚢一枚を与えると、「私のために漢の皇帝に贈ってくれ」と言った。劉約は辞して帰ろうとすると、〔主君は〕劉約に言った、「劉郎(劉約)は後年〔この世界に〕来たときに必ず再会して立ち寄ることでしょう。〔そのときに私の〕小娘を妻とさせます」。劉約は〔俗世に〕帰ると、皮嚢を机の上に置き、にわかに蘇生したのであった。左右の者に机の上の皮嚢を取らせて開かせると、一つの方形の白玉があり、文字が記されていた、「猗尼渠余国天王がつつしんで遮須夷国天王におたずねします。摂提の年に太歳が摂提格(寅)に位置する年にお会いいたしましょう」。使者を走らせて劉聡に献上した。劉聡は「もし本当にそのようであったとしても、私は死ぬのを怖く思わない」と言った。劉聡が死ぬと、この玉といっしょに埋葬された。
このころ、東宮で鬼が泣いた。赤い虹が天にかかり、南に一本枝分かれした。三つの太陽がそろって照り、それぞれ二つの珥(かさ)があり、五色がひじょうに鮮明であった。客星12対天空中新出現的星的統称、如新星・超新星等。(『漢語大詞典』)が紫宮を通過して天獄に入り、消えた。太史令の康相が劉聡に言った、「蛇のように曲折した虹が天にかかり、ひとつ南へ分岐してかかり、三つの太陽がそろって照り、客星が紫宮に入りました。これらはみな深刻な異変であり、そう遠くはない先の予兆でしょう。いま、虹が東西にかかっているのは、許洛以南は攻略できないということです。ひとつ南へ分岐してかかっているのは、李氏がこのまま巴蜀に跋扈し、司馬睿がとうとう全呉を占拠する象徴であり、天下は三分することになりましょう。月は胡王をあらわしますが、皇漢は二京(洛陽と長安)を領有し、龍が飛翔するごとく帝業を興したとはいえ、世々燕と代の地で雄をとなえ、北朔で創業しましたから、太陰(月)の異変は漢の領域内のことでありましょう。漢はすでに中原を占拠し、暦数が集まった国となりましたから、紫宮の異変もほかの国のことではないでしょう。このことの深刻さは言葉に尽くせません。石勒は梟のように趙と魏の地を眺め、曹嶷は狼のように東斉の地を狙いすまし、鮮卑の衆は星のように燕と代の地に分布し、斉、代、燕、趙どれにも将大(これから増長する?)の気がございます。陛下に願わくは、東夏を懸念され、西と南を度外視されますよう。呉(司馬睿)と蜀(李氏)が北に侵攻できないことは、大漢が南に進めないのと同様です。いま、京師(平陽)の兵は寡弱ですが、石勒の軍は精強かつ士気盛んです。もし〔石勒が〕趙魏の精鋭と、燕の突騎兵を総動員して上党から襲来し、曹嶷が三斉の軍を率いてこれに続けば、陛下はどのようにこれを防ぐおつもりでしょうか。紫宮の異変とは、絶対にこのことではないとどうして言えましょうか。どうか陛下には、早急にこれへの対処をなされ、兆民に異心を抱かせぬようお願い申しあげます。陛下がもし詔を発し、外は遠く始皇帝と〔漢の〕武帝が四海を巡回した故事を追念し、内は高帝が楚を平定した計略を実行することさえできれば、成功しないわけがありません」。劉聡はこれを見て喜ばなかった。
劉粲は王平に、劉乂へ向かって次のように言わせた、「ちょうど中詔を奉じました。京師に変乱が起こりそうだとのことで、〔太弟は〕よろいを装備してこれの準備をせよとのお命じです」。劉乂は本当のことだと思い、宮臣に命じてよろいを装備させ、待機させていた。劉粲は使者を走らせて靳準、王沈らに知らせた、「いましがた王平が報告してきたのですが、東宮がひそかに非常の事態に備えているとのこと。どのように対処しましょうか」。靳準はこのことを〔劉聡に〕上申すると、劉聡はおおいに驚き、「そんなことがあるものか」と言ったが、王沈らは異口同音に言った、「臣らは〔この計画の噂を〕ひさしく耳にしていました。ただ、おそらくこのことを申しあげても、陛下は信用なさらなかったでしょう」。こうして〔劉聡は〕劉粲に東宮を包囲させた。劉粲は王沈と靳準を派遣して氐と羌の酋長十余人を捕え13劉乂の母は氐の酋長・単氏の娘である。劉元海載記および劉聡載記の冒頭のほうを参照。、厳しく尋問し、みな首を高い格14「物を懸ける桟」(『漢辞海』)か?につるし、鉄を熱して〔それで〕目を焼きえぐると、劉乂と共謀して逆謀を計画していたというウソの自白をしてしまった。劉聡は王沈らに言った、「今後は、卿らが朕に忠実であることを私は忘れない15原文「而今而後、吾知卿等忠於朕也」。「今後は、私はわかっている、君たちが忠実であることを」という感じだと思われる。原文に忠実になろうとするとぎこちのない訳文になりそうなので、「知」を「忘れない」と訳した。。〔だから〕知ったことはすべて進言するよう心に留めよ。過日、進言しても聴き入れられなかったであろうことを不満に思うな」。こうして、劉乂が平素から親しくしている大臣と東宮の官属の〔合わせて〕数十人を誅殺した。彼らはみな、靳準と宦官が怨んでいた人物であった。〔劉聡は〕劉乂を廃して北部王とし、劉粲は靳準に劉乂を殺させた。兵士で穴埋めにされた者は一万五千余人にのぼり、平陽の街中はこれのためにものけの空となってしまった。氐と羌でそむくところは十余万落におよび、靳準を行車騎大将軍として討伐させた。この当時、劉聡の境内では蝗が大発生し、平陽、冀州、雍州はとりわけ被害がひどかった。靳準が氐と羌を討伐すると、彼の二人の息子に雷が落ちて死んでしまった。河水と汾水が大氾濫し、千余家を流したり、水没させたりした。東宮で火事があり、〔東宮の〕門閤と宮殿はすっかり失われてしまった。劉粲を皇太子に立て、殊死以下の罪人を大赦した。劉粲を領相国、大単于とし、従来のように朝政を総攬させた。
劉聡が上林で校猟16柵にけものを追い込んで、とらえる。(『漢辞海』)すると、愍帝を行車騎将軍とし、軍服を着させ、戟を持たせて先導役とし、三駆の礼17猟の礼であるらしい。『漢語大詞典』は「古王者田猟之制。謂田猟時須譲開一面、三面駆遷、以示好生之徳」の義を最初に掲げているが、これは『周易正義』に引く「褚氏諸儒」の説にもとづくらしい。ただし同じく『周易正義』には、「三度駆禽而射之也。三度則已」という「先儒」の説も引かれている。また『漢語大詞典』も「一説」として掲げているように、『漢書』五行志上「田狩有三駆之制」の顔師古注に「謂田猟三駆也。三駆之礼、一為乾豆、二為賓客、三為充君之庖也」ともある(よく読めないが)。細かいことはよくわからないが、とりあえず猟にまつわる礼とざっくり解し、愍帝がけものを追い込む役にあてられた的な感じかと……。をおこなわせた。劉粲は劉聡に言った、「いま、司馬氏は江東に割拠しており、趙固と李矩は反逆人同士で助けあっていますが、軍を興して兵士を集めている者はみな、子鄴を大義に掲げています。〔司馬鄴を〕殺し、やつらの希望を絶つにこしたことはありません」。劉聡はそのとおりだとした。
趙固と郭黙が河東を攻撃し、絳邑にまで至ると、右司隷の部人で牧馬を盗み、妻子を背負って趙固らに奔った者は、三万余騎にものぼった。騎兵将軍の劉勲がこれを追跡して討伐し、一万余人を殺すと、趙固と郭黙は撤退して帰還した。劉頡が遮ってこれを迎撃したが、趙固に敗れた。〔劉聡は〕劉粲と劉雅らに趙固を攻めさせ、小平津に駐屯させた。趙固は大声をあげ、「必ず劉粲を生捕りにして天子(愍帝)と交換してやる」と言った。劉聡はこれを知ると不快に思った。
李矩は郭黙と郭誦に趙固を救援させ、洛水の汭18『漢書』地理志の顔師古注には「洛汭、洛入河処、蓋今所謂洛口也」とある。に駐屯させ、耿稚と張皮を派遣してひそかに〔黄河を〕渡らせ、劉粲を襲撃させた19『太平御覧』巻三三六、攻具上に引く「和范漢趙記」に「麟嘉三年、太子粲討趙同・郭黙於洛陽。黙使耿稚等夜北渡河、襲太子営、飛梯騰柵而入。太子勒兵於東北、穿柵而去」とあるのにもとづいて補語を入れた。。貝丘王の翼光は厘城からこれを偵察したので、劉粲に知らせた。劉粲は言った、「征北将軍(たぶん劉雅)が南に〔黄河を〕渡ると、趙固はその声をうかがうや逃走し、向こうのほう(李矩ら)は不安になってこもっているというのに、どうして襲来する余裕があろうか。そのうえ、上(劉聡)がここにおられることを知れば、北のほうをみずから見ようとも思わないだろう、まして渡河などなおさらのことだ。将士を叩き起こす必要はない」。この夜、耿稚らは劉粲を襲撃して破り、劉粲は敗走して陽郷を守り、耿稚は劉粲が築いた軍塁に駐屯し、劉粲軍の残していった食料を取った。劉雅は〔このことを〕聞くと馬を走らせて戻り、劉粲の軍塁の外に柵を設け、耿稚と対峙した。劉聡は劉粲の敗北を聞くと、太尉の范隆に騎兵を統率させてかけつけさせた。耿稚らは恐れ、軍五千を率いて、〔劉雅の〕包囲を突破して北の山に向かい、それから南へ行った。劉勲がこれを追撃し、河陽で戦うと、耿稚軍は大敗し、死者は三千五百人、黄河に身を投じて死んだ者は千余人であった。
劉聡が居住する螽斯則百堂で火災があり、子の会稽王の衷以下二十一人が焼死した。劉聡はその報せを聞くと、みずから牀に身を投げ、哀しみのあまりに気絶し、しばらく経ってから意識を取り戻した。平陽の西明門のカギがひとりでになくなった。霍山が崩落した。
驃騎大将軍、済南王の劉驥を大将軍、都督中外諸軍事、録尚書に任命し、衛大将軍、斉王の劉勱を大司徒に任命した。
中常侍の王沈の養女は十四歳にして美貌であった。劉聡は左皇后に立てた。尚書令の王鑑、中書監の崔懿之、中書令の曹恂らは諌めた、「臣はこう聞いております、王者が立后するときは、〔后というのは〕上は乾坤(天地)の性につりあい、二儀(陰陽もしくは天地)が万物を生育する義をかたどり、存命のあいだは宗廟を受け継ぎ、母として天下に臨み、亡くなれば后土に配され、供え物を皇姑20「死んだ姑の敬称」(『漢辞海』)?にささげる〔儀礼を受ける(?)〕ことから21「王者之立后也」以下ここまで、よく読めない。、必ず代々の望族や名家で、物静かでおしとやかな者を選び、四海の希望に合い、天神地祇の御心にかなわなければなりませんでした。そのゆえ、周の文王は舟を並べて橋をつくり、姒氏(文王の妃)によって興隆し、〔『毛詩』の〕関雎のうたう教化〔の恩恵?〕を享受したので22原文「関雎之化饗」。「饗」字がよくわからず、とりあえず「享」で解し、どうにか訳文を作成してみた。、百世の朝命はとこしえのものとなったのです。〔対して〕孝成帝は欲望のおもむくままに婢(趙飛燕)を皇后としましたが、〔このために〕皇統を断絶させ、社稷を傾かせてしまいました。有周の興隆はかのようであり、大漢の災厄はこのようでありました。麟嘉年間以来、〔陛下は〕色事にみだらで、王沈の弟の娘にふけっていますが、小人の宦官ですら玉製の寝台をよごし、清らかな廟をけがすべきではありません。まして宦官の婢とくればもってのほかです。六宮の妃嬪はみな公の子や公の孫であるのに、どうしてにわかに〔宦官の〕婢に彼女らを統べさせるのでしょうか。象牙のたるきや玉製の簀が、腐った木や朽ちた柱に対面しているのとどうちがうでしょうか。幸福が国家にもたらされないことを臣は憂慮しています」。劉聡はこれを見ておおいに怒り、宣懐に劉粲へ言わせた、「王鑑ら小童どもは、国家を侮蔑し、狂言を口にし、君臣上下の礼がない。すみやかに罪状を調べよ」。こうして王鑑らを捕えて市に送った。金紫光禄大夫の王延は馬を走らせて〔宮中に〕入り、諌めようとしたが、門番が通さなかった。王鑑らが刑の執行に臨むと、王沈は杖で彼らを叩き、「ぼんくらどもめ。また悪さをしてみろ。乃公(劉聡)さまがおまえらのやっていることに関わろうとするものか23原文「乃公何与汝事」。高祖の「豎儒幾敗乃公事」という発言を意識した表現か?」と言った。王鑑は怒って目をむき上げ、叱りつけて言った、「豎子め。皇漢を滅ぼす者は、まさにおまえらしれものどもと靳準である。必ずおまえらを先帝に訴え、地下で取り押さえてやる」。崔懿之、「靳準は梟のような声と獍のような容姿だ24『資治通鑑』巻九〇、胡三省注によれば、梟は「食母」、獍(破鏡)は「食父」で「如貙而虎身」という。。必ず国家の災いとなろう。おまえらはもう人を食った。きっと別の人(靳準)がおまえらを食うだろうさ」。みな斬った。劉聡はまた中常侍の宣懐の養女を中皇后に立てた。
鬼が光極殿で泣き、さらに建始殿でも泣いた。平陽に血が降り、十里四方にわたった。このとき、劉聡の子の劉約はすでに死んでいたが、このころになって昼に現れることがあった。劉聡はひじょうに気味悪がり、劉粲に言った、「わたしは病気で寝込んで疲労しているが、〔このごろは〕怪異がとくにひどい。以前は劉約の言葉を妖しいものとみなしていたが、このところは連日であの子を見る。あの子はきっと私を迎えに来ているのだろう。人の死に神霊(神秘的な力)がまことに存在しているとは、まさか考えもしなかった。〔しかし現実は〕このようであるのだから、私は死を悲しまない25運命と受け入れる、ということであろう。。いま、世の艱難がまだ平定されていないから、〔新帝が〕喪に服す時期ではない。朝に葬式を終えて夕に納棺し、旬日で埋葬せよ」。劉曜を召して丞相、録尚書とし、輔政としたが、固辞したので沙汰止みになった。そこで劉景を太宰とし、劉驥を大司馬とし、劉顗を太師とし、朱紀を太傅とし、呼延晏を太保とし、みな録尚書事とした。范隆を守尚書令、儀同三司とし、靳準を大司空、領司隷校尉とし、二人で交代に尚書奏事を裁決した。
太興元年、劉聡は死んだ。在位は九年。昭武皇帝の偽諡をおくられ、廟号は烈宗とされた。