凡例
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- 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。
〔劉粲〕
劉粲は字を士光という。若くして傑出し、才能は文武を兼ねた。宰相に就いて以来、刑罰と恩恵は感情のままに下し、忠賢な臣を遠ざけ、姦佞な小人を近づけ、欲望に任せて苛刻にふるまい、寛容さはなく、諫言を拒んで欠点をごまかして隠した。宮室の建造を好み、相国符は紫宮(天子の宮殿)を模倣しようとして、相国の位に就いていくばくもしないうちに、昼夜兼行で建造させた。〔動員された?人々は〕飢えて困憊し、窮してそむき、死者は続出したが、劉粲は救済しなかった。
偽位を継ぐと、劉聡の皇后の靳氏を皇太后とし、樊氏を弘道皇后、宣氏を弘徳皇后、王氏を弘孝皇后とした。靳氏らはみな二十歳未満で、そろって絶世の美しさであったので、劉粲は終日宮中で姦通し、心は〔劉聡への〕哀悼におかれていなかった。妻の靳氏を皇后に立て、子の劉元公を太子とし、境内を大赦し、漢昌と改元した。平陽に血が降った。
靳準は異謀(二心の謀略)を立てようと思い、ひそかに劉粲に言った、「聞くところでは1原文「如聞」。和刻本は「如」字を疑わしいとする。従う。、諸公は近くに伊尹や霍光の故事を実行しようとしており、まず太保(呼延晏)と臣を誅殺し、それから大司馬(劉驥)に万機を統べさせようと計画しているとのこと。陛下がもしこれに先んじなければ、災厄が到来するのは朝でなければ夕であろうこと(すぐにも到来すること)を臣は心配しています」。劉粲は聴き入れなかった。靳準は自分の進言が採用されないのを憂慮し、劉聡の二人の靳氏に言った2胡三省は劉聡皇后と劉粲皇后とする。それを受け、中華書局は「聡」字は衍字であろうと推量している。、「いま、諸公侯は帝を廃位し、済南王(劉驥)を立てようとしているが、〔そうなると〕おそらくわが家は根絶やしになるだろう。どうしてこのことを帝に言わないのだ」。二人の靳氏は機会を見計らってこのことを話した。劉粲は〔聴き入れて〕太宰、上洛王の劉景、太師、昌国公の劉顗、大司馬、済南王の劉驥、大司徒、斉王の劉勱らを誅殺した。太傅の朱紀、太尉の范隆は長安へ出奔した。さらに〔劉粲は〕車騎将軍、呉王の劉逞を誅殺した。〔劉逞は〕劉驥の同母弟であった。劉粲は上林でおおいに閲兵し、石勒討伐を計画した。靳準を大将軍、録尚書事とした。劉粲は酒色にふけり、後宮で酒宴を開き、軍事と国事はすべて靳準によって決裁された。靳準は劉粲の命令だといつわり、従弟の靳明を車騎将軍とし、靳康を衛将軍とした。
靳準は反乱を起こそうと思い、金紫光禄大夫の王延は年長の有徳者で、人望に厚かったことから、この件を王延に相談した。王延は承服せず、馬を走らせて〔劉粲に〕報告しようとしたが、〔道中で〕靳康に出くわし、〔靳康は〕王延を強引に帰らせた。靳準は兵を率いて宮中に入り、光極前殿にのぼり、命令を下して(?)甲士に劉粲を捕えさせ3原文「下使甲士執粲」。「下」字がよくわからない。、罪を数え挙げて殺した4劉粲の諡号については、『太平御覧』巻一一九、劉聡に引く「崔鴻十六国春秋前趙録」は「霊帝」、『資治通鑑』巻九〇は「隠帝」とする。。劉氏の男女は少長なく、みな東市で斬った。劉元海と劉聡の墓を掘り起こし、宗廟を焼いた。鬼がおおいに泣き、その声は百里にわたって聞こえた。
靳準は大将軍、漢大王5『資治通鑑』巻九〇は「漢天王」。を自称し、百官を置き、使者を派遣して晋に称藩した。左光禄大夫の劉雅が西平へ出奔した。尚書の北宮純、胡崧らは晋人を招集し、東宮を守っていたが、靳康が攻めてこれを滅ぼした。靳準は王延を左光禄大夫にしようとしたが、王延は罵倒して言った、「屠各の反逆野郎め。どうして私をすぐに殺さないのか。わが左目を西陽門に置け。相国(劉曜)が入ってくるのを見させてもらおう。右目を建春門に置け。大将軍(石勒)が入ってくるのを見させてもらおう」。靳準は怒り、殺してしまった。
〔陳元達〕
陳元達は字を長宏といい、〔五部のうちの〕後部の人である。本姓は高であったが、生まれた月に父を亡くしたので、陳に改姓した。若くして孤独かつ貧困で、いつも農業に従事しながら書物を朗読し、道を好んで歩きながら吟詠し、楽しんでいるふうであった。四十歳になっても、人と交際しなかった。
劉元海が左賢王になると、陳元達の評判を聞いて召したが、陳元達は応じなかった。劉元海が僭越して帝号につくと、ある人は陳元達に言った、「以前、劉公は屈して(おのれを低くして)召されたのに、君は軽んじて応じなかった。いま、〔劉公は〕帝号を称して龍のように飛翔した(即位した)。君は恐くないか」。陳元達は笑って言った、「どういうことだ。かの方(元海)は容姿と度量が傑出し、宇宙を包み込もうとする大志を有しておられる。私はとうに気づいていた。だが、過日に応じなかったのは、時機がまだ満ちておらず、仕事がなくて騒がしくすることもできなかったからだ。かのお方はおのずと私を貞節と評してくれていよう。卿はただこのことだけを覚えておいてくれたまえ、つまりおそらく二、三日経たずに駅馬の文書がきっと来るであろうことをね」。その日の暮れごろ、劉元海は果たして陳元達を召し、黄門郎とした。その人は「君は聖人のようだ」と言った。〔朝廷に〕着くと、引見され、劉元海が言った、「卿がもっと早く来ていれば、郎官にしなかったのだが」。陳元達、「臣が思いますに、性(もちまえの性分)には本分があり、その本分が限界に達すると転覆してしまいます。臣がもし早期に天門を叩いていれば、おそらく大王は〔臣に〕九卿と納言(たぶん尚書)の間の地位を賜わったでしょうが、これは臣の本分にはそぐいません。どうしてその任をになえましょうか。このため、気持ちを抑え、ぐずぐずして進まず、分〔がふさわしくなるの〕を待ってからおもむいたのです。大王には過分な授与のそしりがなく、小臣には賊を呼び寄せる災いから免れます。なんと良きことではありませんか」。劉元海はおおいに喜んだ。位にあっては忠実で、しばしば進み出て直言し、退くとその上奏文の草稿を廃棄し、子弟といえども〔直言の内容を〕知ることはできなかった。劉聡はよく陳元達に言った、「卿は朕に畏服していようが、反対に朕を卿に畏服させられるかな」。陳元達は叩頭して謝罪した、「臣が聞くところでは、臣下を師とする者は王者で、臣下を友とする者は覇者であるとのことです。臣はまことに愚昧で、採用するべきこともありませんが、幸運にも斉の桓公が九九の者を登用した義を陛下が賜わりくださるのに遭遇し、ゆえに微臣に愚忠を尽くさせているのです。むかし、世宗(漢の武帝)は〔服装が正しくないときには直接対面せず〕遠くから(帳の中から)汲黯の上奏を裁可させましたが、このゆえに漢の道を拡大させ、興隆させることができたのです。桀王と紂王は諌臣を誅殺し、〔周の〕幽王と厲王は批判を禁じましたが、このため、三代(夏殷周)の滅亡はすみやかだったのです。陛下は大聖の資質をもって時宜に応じ、不世出の度量を抜群に傑出させていますが、遠くは商と周が国を転覆させた弊害を捨て去り、近くは孝武帝が漢を輝かせた故事にならうことができましたら、天下は幸甚となり、群臣は赦されたことを知るでしょう6原文「群臣知免」。直言して怒りを買ったけど、寛大にも赦してくれて罪や誅殺から免れた、という意味で取った。」。陳元達が死ぬと、人々はみな冤罪であるとした7劉聡載記に見える陳元達とのやり取りはごく一部である可能性もあるが、載記からうかがうかぎりでは、劉聡は治世後年において、陳元達の諫言に耳を貸さず、怒ってばかりであった。陳元達は誅殺されたのではなく自殺したのだが、ここの言葉の最後にあるのとは逆の結末を迎えてしまったのである。。
(2020/4/18:公開)