巻三 帝紀第三 武帝(1)

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系図武帝(1)武帝(2)武帝(3)恵帝(1)恵帝(2)懐帝愍帝東晋

 武皇帝は諱を炎、字を安世といい、文帝の長子である。温厚で仁愛に満ち、落ち着いていて思慮深く、度量があった。魏の嘉平年間、北平亭侯に封じられ、給事中、奉車都尉、中塁将軍を歴任し、散騎常侍を加えられ、昇進をかさねて中護軍、仮節に移った1原文「累遷中護軍・仮節」。「累遷」は「鰻上りの意味で、中間に若干の官があるのを省略した書き方である」([宮崎一九九七]二一九頁)。。常道郷公を東武陽で迎え、中撫軍に移り、新昌郷侯に進められた。晋国が建つと、世子に立てられ、撫軍大将軍に任命され、開府を授けられ、相国〔の業務〕を補佐した2原文「副弐相国」。『三国志』巻四、陳留王紀、咸煕元年八月の条に「命中撫軍司馬炎副弐相国事、以同魯公拝後之義」とあるのをふまえた。
 そもそも文帝は、景帝が宣帝の嫡子であったが、若くして他界し、後継ぎがいなかったことから、武帝の弟の攸を〔景帝の〕後継ぎとした。〔文帝は攸を〕特別にかわいがり、〔自分は〕代行として相国の位にいるのであって、百年後には大業は攸に帰すべきである、と考えていた。いつも「これは景王の天下である。どうして私が関与できようか」と言っていた。世子を立てる議論のさいには、攸に心を傾けていた。何曾らは強く諫め、「中撫軍(武帝)は聡明で、神妙な武略をそなえており、不世出の才能があります。髪は地面に垂れ、手は膝を過ぎていますが、これは人臣の相貌ではありません」と言った。こうして、最終的に〔武帝に〕定まったのである。咸熙二年五月、〔世子から進められて〕晋王太子に立てられた。
 八月辛卯、文帝が崩じ、太子が相国、晋王を継いだ。〔晋国に〕令を下して、刑罰をゆるめて罪人を赦免し、民衆を慰撫して労役をやめ、国内に三日間の服喪を命じた。この月、巨人が襄武に現れた。身長は三丈あり、県人の王始に「まもなく太平になるぞ」と言った。
 九月戊午、魏の司徒の何曾を〔晋国の〕丞相とし、鎮南将軍の王沈を御史大夫とし、中護軍の賈充を衛将軍とし、議郎の裴秀を尚書令、光禄大夫とし、みな開府とした3原文「皆開府」。丞相と御史大夫は常設の府があるはずだから、原文の「皆」は「二人」の意で、賈充(衛将軍)と裴秀(光禄大夫)を指すとも考えられるが(つまり開府衛将軍、開府光禄大夫とされたということ)、裴秀伝に「武帝既即王位、拝尚書令、右光禄大夫、与御史大夫王沈、衛将軍賈充俱開府」とあり、これに拠るかぎり、「皆」はやはり本文で列記されている全員を指すと考えるべきかもしれない。もっとも、そうなると何曾と王沈への開府とは何であるかがわからなるが。
 なお職官志によれば、衛将軍と光禄大夫は開府を授けられると「位従公」になるが、訳者はこれを「儀同三司」と同義だと解釈している(ブログ記事「唐修『晋書』職官志の「位従公」について」)。はたして賈充伝には「帝襲王位、拝充晋国衛将軍、儀同三司」とあり、訳者の解釈を傍証する。

 十一月、はじめて四つの護軍を置き、城外の諸軍を統率させた。乙未、〔晋国内の〕諸郡の中正に令を下して、六条の基準を示し、才能がありながら下位にいる者を推挙させた。〔その六条とは〕一、忠誠かつ慎み深く、わが身をかえりみない。二、孝行で年長を敬い、礼を尽くしている。三、兄弟と仲むつまじい。四、清廉で苦労をほこらずに謙遜する。五、いつわりのない言葉と義にかなった行動を繰り返している4原文「信義可復」。『論語』学而篇「信近於義、言可復也」とあり、『論語集解』は「復、猶覆也。義不必信、信非義也。以其言可反覆、故曰近義」と注している。これが出典かはわからないが、とりあえずこれに従って訳出する。。六、自分を磨くために学問をしている。
 この当時、晋の徳はすでに広まり、天下は心服していた。こうして〔魏の〕天子は暦数の所在を悟り、太保の鄭沖をつかわして策書を奉じさせた、「ああ、なんじ晋王よ。わが祖先の有虞氏(舜)は霊妙な命運をおおいに授かり、陶唐(堯)の終わりを継ぎ、また夏に〔次の天子となるよう〕命じた。三后は位に登って天を祀り、そうしてみな聖徳を広く及ぼした5原文「惟三后陟配于天、而咸用光敷聖徳」。このように訳してよいかは自信がない。。これよりのち、天はまた命を漢に集約した6原文「漢又輯大命于漢」。「輯(大)命」は武帝の即位詔、元帝の即位詔にも見られる表現。「輯」は集、和、合の意で取る場合が多いため、訳文の表現を取った。「天命を漢に下した」ということだろう。。火徳が衰えると、わが高祖(文帝)に目をかけて命を下したのである。〔いま〕虞と夏〔の禅譲の故事〕に倣うのは、〔なんじら〕四代の輝きは7原文「方軌虞夏四代之明顕」。中華書局はこれで一句と読んでいるが、私は訳文のように、「方軌虞夏、四代之明顕(、我不敢知)」と読んだ。「四代」については、辞書的には舜、夏、殷、周を意味する。たとえば『礼記』学記篇に「記曰、三王四代……」とあり、鄭玄注に「四代、虞夏殷周」とある。しかし、ここの「四代」がその意味だとは考えにくい。上に「虞夏」があるのだから、夏以降の四代、すなわち殷、周、秦、漢を指すとみるのが素直な捉え方であろう。だがこの場合は、秦も「明顕」のひとつに数えられてしまうことになり、十分な解釈と思えない。「四代」の解釈としては、三つ挙げられる。
 (1)前文に挙がっている禅譲した四代、つまり堯、舜、禹、漢のこと。後文との繋がりも悪くなさそうだが、ただしこれらの指示対象は「四代」というより「四王」なので、「四代」の解釈としてはやや不適な印象もある。(2)曹魏の四代、すなわち文帝、明帝、斉王、高貴郷公のこと。しかし「明顕」というのに、そこに廃帝が含まれてしまっているのはまずそうである。(3)司馬氏の四代、すなわち司馬懿、司馬師、司馬昭、司馬炎のこと。前後の文とのつながりがもっともしっくりくるが、司馬炎を含めてしまっていて問題がないのか不安も残る。
 現段階では確たる自信をもてないが、今回は(3)の意味で訳出を試みることにした。
私だけが知っていることではないからである8原文「我不敢知」。『尚書』召誥篇、同君奭篇に見える語。召誥篇の孔伝には「我不敢独知、亦王所知」とある。また君奭篇の正義によれば、鄭玄も同様の読み方をしているようである(「鄭玄亦然也」)。ここの典拠ではないかもしれないが、ほかに手がかりもないので、とりあえずこの注をふまえて訳出してみた。。思うに、王の祖父と父は、善を得たら忘れずに守りゆく聡明の人で9原文「服膺明哲」。「服膺」は『礼記』中庸篇に「子曰、回之為人也、択乎中庸、得一善、則拳拳服膺而弗失之矣」とあるのが出典。直接には「胸につける」意で、転じて「忘れない」ことを指すと考えられる。この箇所は、「得一善、則服膺而弗失之」を短縮して「服膺」と言っているのだろうと思われる。、わが皇家を補佐し、その勲功と徳望は天下にあまねくゆきわたっている。天と地の神を感動させ、心服しない者はおらず、天地は調和し、万国が太平となった。まさに天帝の命を受けとり、政治秩序の根本をととのえる10原文「協皇極之中」。「皇極」の語は『尚書』洪範篇に「建用皇極」とみえ、孔伝は「皇」を「大」、「極」を「中」と解している。後漢末の戦乱を表現するさいに、しばしば「皇極不建」と記されている場合が散見され(たとえば『三国志』巻二、文帝紀、延康元年十一月の条の裴注に引く「献帝伝」に「桓霊之末、皇極不建」とある)、おそらくは「政治の根幹秩序」といった意味あいだと思われる。べきである。ゆえに予一人(天子の自称)は、天の道理をうやうやしく受け入れ、つつしんでなんじに位を授ける。じつに、暦数がなんじの身に移ったからである。まことに中正を守れば、天の恵みは永久となろう11原文「允執其中、天禄永終」。『論語』堯曰篇に「允執其中、四海困窮、天禄永終」とあり、『論語集解』に「包曰、允、信也。困、極也。永、長也。言為政信執其中、則能窮極四海、天禄所以長終」とある。。ああ、王よ、天命につつしんで従え。いにしえの教えに従い、四方に安定をもたらし12原文「底綏四国」。『尚書』盤庚上篇に「厎綏四方」とある。、天のさいわいを保ち、わが二帝(文帝と明帝)のおおいなる業績を放り棄てることのないように」。武帝は最初、礼をもって固辞したが、魏の公卿である何曾や王沈らが強く要請したため、ようやく受け入れた。

 泰始元年冬十二月丙寅、壇を南郊に立てた。百官で朝位を有している者13原文「百僚在位」。思い切って「位」を「朝位」の意で取った。、匈奴の南単于、四夷が集まり、数万人にのぼった。柴を焼いて上帝に告げた14以下は『宋書』巻一六、礼志三にもあるが、文に異同が多い。以下、大きな異同は注記するが、細かな字のちがいは注記しない。、「皇帝である臣の炎はあえて黒い牡を捧げて皇皇后帝に申しあげます。魏帝はおおいなる天運に沿い、天の明らかな命を受け、炎に命じ〔て言い〕ました15原文「魏帝稽協皇運、紹天明命以命炎。昔者唐堯、煕隆大道、禅位虞舜……」。『宋書』に「魏帝稽協皇運、紹天明命、以命炎曰、『昔者唐堯禅位虞舜……』」とあるのに従う。。『むかし、堯はおおいなる道を高らかにして輝かせ、位を舜に譲り、舜はまた禹に譲った。〔この三者は〕徳〔を広めること〕につとめ、教訓を〔後世に〕残し、〔治世は〕長命を得たのである16ここの三帝にかんする文は、けっきょく何を言いたいのかはわからない。。漢の徳が衰微すると、太祖武皇帝が乱世を治め、世を救済し、劉氏を助けた。さらにこうして、漢より命を受けたのである。だが、魏の世においても、代々多難で、ほとんど滅亡しかかっていたが、まことに晋の救済の徳に頼ることで、肆祀17祖先を祀る祭祀の名称。『漢語大詞典』の「祭名。謂以全牛全羊祭祀祖先」に拠る。を維持でき、艱難から救われた。これは晋が魏の世において開かれたということであるこれは晋が魏に対して大功を建てたということである18原文「晋之有大造于魏也」。『左伝』成公十三年に「我有大造于西也」とあり、杜預注に「造、成也。言晋有成功於秦」とある。(2022/2/22:修正)。おおいなることに、四方で敬い従わない者はおらず、梁岷の地(蜀漢を指す)を制圧し、揚越の地(孫呉を指す)を包摂し、天下は軌を同じくし、瑞祥がしばしば起こり、天と人とが饗応し、誰もが心服を願っている。ゆえに私は三后19前掲の策書でも使用されている語で、策書では堯、舜、禹を指している。に倣い、ここにおおいなる命を下すのである』と。炎は継承するに不適切な徳でありましたので、辞退して命を受けませんでした辞退しましたものの、承認を得られませんでした(2022/4/12:修正)。すると公卿士や百官、在野の賢者、奴婢、さらには百蛮の君長におよぶまで、みなが言いました、『皇天は下々をご観察され、民の苦しみをお探しになり、そうして天命を下したのでありますから、謙遜して拒否できることではありません。自然の秩序には統御者がいなければなりませんし、人々には主君がいなければなりません』と20末尾の二句の「天序不可以無統、人神不可以曠主」は、中華書局の『宋書』の句読では百官らの発言外におかれている。。炎はつつしんで皇運を奉じ、天威をうやうやしく畏れ、吉日を選んで、壇に登って禅譲を受け、上帝にご報告し、永久に人々の願いに応えます」。礼が終わると、洛陽宮に向かい、太極前殿に行き、詔を下した21以下の詔は『文館詞林』巻六六八にも収録されている(張華「西晋武帝即位改元大赦詔一首」)。、「むかし、朕の皇祖(祖父)の宣王は聡明でつつしみ深く、おおいに時運に応じ、帝業を興し、その基礎を開いた。伯考(伯父)の景王は、道を実践して道理に通じ、諸夏を明るく照らした。皇考(父)の文王にいたって、明朗遠大にして、霊妙な地祇を調和させ、天に応じて時宜にかない、ここに明らかな命を受けたのである。その仁は宇宙を救い、その功は天地に等しい。ゆえに魏氏はいにしえの教えを広く参照して、堯と舜の故事(禅譲のこと)を手本とし、諸侯22原文「群后」。『漢語大詞典』によれば、「四方の諸侯と九州の牧伯のこと。……のちに広く公卿を言う(四方諸侯及九州牧伯。……後亦泛指公卿)」。以後、この語は文脈によって訳し分ける。に誰が適任であるかを諮問し23原文「疇咨群后」。「疇咨」は『尚書』堯典篇が出典の語。『漢書』巻六、武帝紀、賛曰に「孝武……遂疇咨海内、挙其俊茂」とあり、顔師古注に「疇、誰也。咨、謀也。言謀於衆人、誰可為事者也」とある。、こうしておおいなる命を朕の身に集約したのである。予一人(わたし)は天命を畏れて、あえて拒まない。ただ朕は徳が少ない身でありながら、帝業を継承し、王公の上を任され、そうして四海に君臨することになったので、戦々兢々としてなすところを知らない。なんじら股肱爪牙の補佐や、文武の忠臣たちよ、なんじらの祖父や父が、まことにわが先王を補佐したように、わが大業を盛りたてよ。万国とともにおおいなる幸いを享受したいと思う」。こうして大赦し、改元した。天下に爵を賜い、一人につき五級を下賜した。配偶者がいない高齢の男女、親がいない幼子、子がいない老人、〔そのほか?〕自活不能の者には穀物を賜い、一人につき五斛を下賜した。天下の租、賦、関所や市場の税を一年間免除し、借金や滞納税はすべて帳消しにした。前代からの怨恨を取り去り、禁錮を解除し、官をなくした者や爵を失った者についてはすべてもとに戻した。
 丁卯、太僕の劉原を派遣し、太廟に報告した。魏帝を陳留王に封じ、食邑を一万戸とし、鄴宮に住まわせ、魏氏の諸王はみな県侯とした。宣王を宣皇帝、景王を景皇帝、文王を文皇帝、宣王妃の張氏を宣穆皇后に追尊した。太妃の王氏を皇太后と尊び、その宮を崇化と呼んだ。叔祖父の孚を安平王、叔父の幹を平原王、亮を扶風王、伷を東莞王、駿を汝陰王、肜を梁王、倫を琅邪王、弟の攸を斉王、鑑を楽安王、機を燕王、従伯父の望を義陽王、従叔父の輔を渤海王、晃を下邳王、瓌を太原王、珪を高陽王、衡を常山王、子文を沛王、泰を隴西王、権を彭城王、綏を范陽王、遂を済南王、遜を譙王、睦を中山王、陵を北海王、斌を陳王、従父兄の洪を河間王、従父弟の楙を東平王に封じた。驃騎将軍の石苞を大司馬とし、楽陵公に封じ、車騎将軍の陳騫を高平公とし、衛将軍の賈充を車騎将軍、魯公とし、尚書令の裴秀を鉅鹿公とし、侍中の荀勖を済北公とし、太保の鄭沖を太傅、寿光公とし、太尉の王祥を太保、睢陵公とし、丞相の何曾を太尉、朗陵公とし、御史大夫の王沈を驃騎将軍、博陵公とし、司空の荀顗を臨淮公とし、鎮北大将軍の衛瓘を菑陽公とした。そのほか、封邑の加増や爵の昇進はおのおの格差があり、文武の官は一律に位を二等加えられた24原文「文武普増位二等」。「位」が何を指すのかは不詳。かつてブログにしたことがある(「晋南朝の「増位」」)。上の「増封進爵」などの措置は「各有差」なのに対し、「位」の加増は「普」すなわち一律である。表現は対照的であるが、その意味はどちらも「平等な措置をほどこした」である。。景初暦を改めて泰始暦をつくり、臘(祭礼の名称)を酉の日に、社(祭礼の名称)を丑の日におこなうこととした。
 戊辰、詔を下し、倹約の心を広めるため、御府の珠玉や玩具を出させて、王公以下に格差を設けて下賜した。中軍将軍を置き、宿衛の七軍を統率させた。
 己巳、陳留王に詔を下し、天子の旗を飾り、五時の副車を備え、魏の正朔をおこなわせ、天地を郊祀させ、礼楽や法制はみな魏のままとさせ、上書するさいに臣と称さなくてよいとした。山陽公の劉康と安楽公の劉禅の〔それぞれの〕子弟一人に駙馬都尉を下賜した。乙亥、安平王孚を太宰、仮黄鉞、大都督中外諸軍事とした。詔を下した、「むかし、王淩は魏の斉王を廃そうと企んだが、斉王は最終的には〔みずからの徳行が原因で〕位を保つことができなかった。鄧艾は功績を鼻にかけ、節操をなくしたとはいえ、手を縛られて罪を受けた25王淩と鄧艾はまちがった行為をしたけど、判断が誤っていたとも言い切れないし、相応の罰は受けたよね、ということであろうか。。いま、それらの家を大赦し、さらに後継ぎを立たせることとする。滅びた家を復興させ、絶えた系統を存続させ、法を簡潔にして刑罰を減らすこととする。魏氏の宗室の禁錮を解除する。もろもろの将吏で三年喪に遭った者は、家に帰らせて喪に服させることとする。百姓は徭役を免除する。部曲将26[浜口一九六六]によれば官名。後文の部曲督も同様。や長吏以下の質任(人質)を廃止する。郡国の御調27不詳。「供御之物」(恵帝紀、永興元年十二月条)か。を減らし、楽府管轄下の華美な雑技を演じる芸人および彫刻のほどこされた狩猟道具を禁止する。直言の道を開くため、諫官を設けてこのことを担当させる」。
 この月、鳳凰が六、青龍が三、白龍が二、麒と麟がおのおの一28原文「麒麟各一」。あまり例がない表現か。『漢書』巻五七上、司馬相如伝上、子虚賦の顔師古注に「張揖曰、雄曰麒、雌曰麟、其状麋身牛尾、狼題一角、角端似牛、其角可以為弓」とあり、『漢辞海』はこのような説を「一説」として注記し、紹介している。実際、「麒麟各」をワードに中央研究院電子文献で検索をかけても、『晋書』武帝紀にしか用例がない。だが、この説に従う以外に読み方もないので、いまこの一説に従う。、それぞれ郡国に現れた。

 泰始二年春正月丙戌、兼侍中の侯史光らに節を持たせて四方に派遣し、風俗を巡視させ、祭祀の典籍に記録がない祭礼を廃止させた。丁亥、有司29有司は原文のまま。「尚書主管曹のこと」([中村圭爾二〇一五]二五六頁)。いちいち別の訳語に置き換えず、有司のままとする。が七廟の建設を要請したが、武帝は〔それにかかる〕労役が重いことを理由に、許可しなかった。庚寅、雞鳴歌を廃止した。辛丑、景帝夫人の羊氏を景皇后と尊び、その宮を弘訓と呼んだ。丙午、皇后に楊氏を立てた。
 二月、漢の宗室の禁錮を解除した。己未、常山王衡が薨じた。詔を下した、「〔魏末に開建した〕五等の封建は、すべて旧代までの勲功を記録したものである。〔五等封建以前に〕もともと県侯(列侯の県侯。以下の侯もすべて列侯)であった者は〔封建を〕次子まで及ぼして亭侯に封じ30原文「本為県侯者伝封次子為亭侯」。「伝封」は「封国を継承する」とも読めるが、その場合、この文はかなり限定されたケースを想定していることになってしまう。つまり、家が断絶しているか、あるいは断絶しそうで、かつ長子がおらず、かつ次子はいる、という。だいいち、長子がいないならば以降の子にそのまま継がせるはずである。したがってここは、「伝」をどう訳出するかがいまいち落ち着かないけれども、「功績を嘉して本人だけでなく、長子以降の子も封建した」という意味の恩恵だと解釈する。紀瞻伝に「論討陳敏功、封臨湘県侯。……卒。……論討王含功、追封華容子、降先爵二等、封次子一人亭侯」とあり、東晋初期の話ではあるが、ぴったりの事例であろう。、郷侯であった者は〔次子を〕関内侯に封じ、亭侯であった者は〔次子を〕関中侯に封じ、すべて〔五等封建以前の〕もともとの食邑の十分の一の戸を食邑とする五等の封建は、すべて旧代までの勲功を記録するものである。もともと県侯である者は〔封建を〕次子まで及ぼして亭侯に封じ、郷侯である者は〔次子を〕関内侯に封じ、亭侯である者は〔次子を〕関中侯に封じ、すべてもとの食邑の十分の一の戸を食邑とする31[越智一九六三]二六〇頁を参考に訳出しなおした。(2021/11/5:修正)。丁丑、宣帝を郊祀して天に配し、文帝を明堂で宗祀して上帝に配した。庚午、詔を下した、「いにしえは、百官が王の過ちを戒めたものである。そのため、〔周の〕保氏は特別に諫言を職掌としたのだが、現在の侍中や常侍がこの立場にある。厳粛な態度で過ちを正し、〔朕の〕いたらない点を助けることができる者を抜擢し、この官を兼ねさせることとする」。
 三月戊戌、呉人が〔文帝の〕弔問に来たので、有司が返答の詔を下すよう奏した。武帝は言った、「むかし、漢の文帝や光武帝が尉他や公孫述をいたわるさい、ともに君臣の礼儀を正さなかったが、それは羈縻の状態であってまだ服従していないからであった。孫晧が使者を派遣したときには、まだ国慶(武帝の即位)を知らなかったのだから、〔詔ではなく〕書でこれに応答するのみとする32皇帝が臣らに下す文書の形式(詔)で返答するのではなく、対等の敵国に対する文書の形式、あるいは形式のない文書で応じる、という意味だと考えているが、知識不足ゆえによくわからない。なお例に挙がっている光武帝にかんして言えば、隗囂には「報以手書」(『後漢書』列伝三、隗囂伝)、公孫述には「与述書」(『後漢書』列伝三、公孫述伝)と記されている。」。
 夏五月戊辰、詔を下した、「陳留王は品行がすぐれ、謙虚であり、事あるごとに上表をしているが、これでは〔陳留王を〕尊ぶことになっていない。担当の官は〔朕の〕意向を知らせて、重要でない事柄については王官(王国の官?)に上表させるようにせよ」。壬子、驃騎将軍、博陵公の王沈が卒した。
 六月壬申、済南王遂が薨じた。
 秋七月辛巳、太廟を建造するため、荊山の木を取り寄せ、華山の石を集めた。また銅柱を十二本鋳造し、黄金で塗り、百物(さまざまなもの)を彫刻し、明るい珠玉で飾った。戊戌、譙王遜が薨じた。丙午晦、日蝕があった。
 八月丙辰、右将軍を廃した。
 当初、武帝は漢魏の〔服喪期間を軽減する〕制度に従っていたとはいえ、すでに埋葬が済み、喪服を脱いだのに、なお深衣を着て素冠をかぶり、料理を下げさせており33原文「降席撤膳」。「席」をむしろで読んで、「寝苫」に結びつけたくもなるが、「降」をそのように読んでいいのか不明瞭であるし、『漢語大詞典』に従って、「料理・酒席を下げること」と解することにした。疏食にすることを言うのであろう。、その哀敬は喪に服しているかのようであった。戊辰、有司は奏して、服装を変え、料理を進めるように述べたが、許可せず、けっきょく〔三年の〕礼が終わってから吉礼〔の参加〕に戻った34原文「復吉」。おそらく「即吉」と同義。。〔のちの〕太后の喪のさいもこれと同様であった。
 九月乙未、散騎常侍の皇甫陶と傅玄は諫官を領(兼任)していたので、上書して諫めたが、有司はそれを却下するように奏した。詔を下した、「およそ君主に関わる言葉は、人臣にとってこのうえなく困難な事柄である。しかもまったく聞き入れられないことが、いにしえからの忠臣や直士が憤慨する理由になっているのである。〔諫官が〕政治の問題で述べてくるたびに、詔を発して〔尚書の〕担当の官に送っているが、〔諫官によれば、主者は〕多くの場合で法に厳しい政治を旨としており、そこで『寛大な処置は〔尚書を経るのではなく〕主上から発せられるべきです』と言っている。これはどういうことを言っているのか。詳しく協議せよ」35原文「散騎常侍皇甫陶・傅玄領諫官、上書諫諍、有司奏請寝之。詔曰、『凡関言人主、人臣所至難、而苦不能聴納、自古忠臣直士之所慷慨也。毎陳事出付主者、多従深刻、乃云恩貸当由主上、是何言乎。其詳評議』」。よく読めない。
 このいきさつは『群書治要』巻三〇、晋書下、傅玄伝のほうがやや詳しく、訳出はそれを参考にした。以下に引用しておく。「与皇甫陶俱掌諫職。玄志在拾遺、多所献替。上疏曰、『前皇甫陶上事、為政之要、計民而置官、分民而授事、陶之所上、義合古制。前春、楽平太守胄志、上欲為博士、置史卒、此尊儒之一隅也。主者奏寝之。今志典千里、臣等並受殊寵、雖言辞不足以自申、意在有益、主者請寝、多不施用。臣恐草莱之士、雖懐一善、莫敢献之矣』。詔曰、『凡関言於人主、人臣之所至難、而人主苦不能虚心聴納、自古忠臣直士慷慨也。其甚者至使杜口結舌、毎念於此、未嘗不嘆息也。故前詔、敢有直言、勿有所拒、庶幾得以発蒙補過、獲保高位。喉舌納言諸賢、当深解此心、務使下情必尽。苟言有偏善、情在忠益、不可責備於一人、雖文辞有謬誤、言語有得失、皆当曠然恕之。古人猶不拒誹謗、况皆善意、在可采録乎。近者孔晁、綦母和、皆案以軽慢之罪、所以皆原、欲使四海知区区之朝、無諱言之忌也。又毎有陳事、輒出付主者、主者衆事之本、故身而所処当、多従深刻、至乃云恩貸当由上出、出村(付の誤りか)外者、寧縦刻峻、是信耶。故復因此喩意』」。

 戊戌、有司が奏した、「大晋は三皇の業績を継承し、舜と禹の事跡を踏襲し、天に応じて時宜にかない、魏から禅譲を受けましたので、すべて前代の正朔や服色を採用し、舜が堯を踏襲した故事に従うのが適当と考えます」。奏は認可された。
 冬十月丙午朔、日蝕があった。丁未、詔を下した、「むかし、舜は蒼梧に葬られたが、農作地については〔埋葬のために〕田畑をならしたりしなかった。禹は成紀に葬られたが、市場については店を壊したりしなかった。上は祖父の簡潔の遺志を考慮すると、陵の十里内の住人を移住させるのは、ともすれば煩瑣であるから、すべて止めよ」。
 十一月己卯、倭人が産物を朝献した。圜丘と方丘を南北の郊に統合し、二至の祭祀を二郊の祭祀に統合した。山陽公国の督軍を廃止し、禁制を解除した。己丑、景帝夫人の夏侯氏を追尊して景懐皇后とした。辛卯、父祖の神主を太廟に移した。
 十二月、農官を廃して郡県とした36「農官」は原文まま。屯田の官のこと。ここで記されている措置は、典農中郎将・典農校尉を廃して郡太守とし、典農都尉を廃して県令長としたことを指す。[越智一九六三]一七頁を参照。(2022/12/26:訳注追加)
 この年、鳳凰が六、青龍が十、黄龍が九、麒と麟がおのおの一、それぞれ郡国に現れた。

 泰始三年春正月癸丑、二匹の白龍が弘農の澠池に現れた。
 丁卯、皇子の衷を皇太子に立てた。詔を下した、「朕は不徳でありながら、四海の上を任され、戦々兢々としてかしこまり、天下を太平にできないのではないかと不安である。天下の人々とともに、王法に則ってそれを明らかにし、本源を正して清らかにしようと思っているが、それに比べると、後継者を設置するのは優先しておこなう仕事ではないだろう。また近ごろでは、太子を立てるたびに、赦免や恩賜が、必要に迫られていないのにやむをえず下されていたが37原文「間不獲已」。よくわからない。「間」を「余裕のある状態」の意で取った。、〔それは〕王公や卿士の意見に従ったにすぎないからである。現在、世は太平になりつつあるので、徳義を広め、好悪を明示して、百姓に大きな幸福を求める思慮を悟らせ、生涯にわたる行動を重んじるようにさせたい。ささいな恩恵、ちっぽけな仁義は、したがって採用しない38その場しのぎの恩恵に頼ってしまうような思考・行動を百姓から除き、もっとおおきな、もっと長期の視点からの幸福を求めるようにさせたい。という意であろうと解した。。みなに〔朕の意を〕知らしめよ」。
 三月戊寅、二千石に三年喪に服する許可をはじめて下した。丁未、日中に暗くなった。武衛将軍を廃した。李憙を太子太傅とした。泰山で石崩れがあった。
 夏四月戊午、張掖太守の焦勝が上言するに、氐池県の大柳谷の入口に黒い石がひとつあり、白い図柄が文字になっていて、まことに大晋のおおいなる瑞祥であろうから、これを図に書き取り、献上するとのことであった。詔を下し、一制(一丈八尺)の絹織物を奉じて太廟に報告し、この図を天府に収蔵した。
 秋八月、都護将軍を廃し、その管轄下の五つの署を光禄勲に戻した。
 九月甲申、詔を下した、「いにしえは、徳にもとづいて爵を与え、功績にもとづいて俸禄を定めていた。下士は上農と同等の俸禄であったとはいえ、〔その俸禄の量は〕外は公務に従事して私事をおろそかにしても問題なく、内は親を養って〔他人に〕恩恵を施すのに十分であった。〔しかし〕いま、官位にある者たちの俸禄は農耕収入の代替になっておらず、教化の根本を重んじる方法になっていない。官吏の俸禄を増すことについて議論せよ」。王公以下に帛を賜い、おのおの格差があった。太尉の何曾を太保とし、義陽王望を太尉とし、司空の荀顗を司徒とした。
 冬十月、士卒(兵士)で父母の喪に遭った者は、〔赴任地が〕国境地帯でなければ、すべて〔家に〕駆けつけることを許可した。
 十二月、宗聖侯の孔震を奉聖亭侯に移した。山陽公の劉康が来朝した。星気と讖緯の学問を禁止した。

 泰始四年春二月辛未、尚書令の裴秀を司空とした。
 丙戌、律令が完成したので、爵や帛を賜い、おのおの格差があった。彗星が軫で光った。丁亥、武帝は藉田を耕した。戊子、詔を下した、「いにしえは象刑39堯・舜の治世に、身体を殺傷する刑の代わりに罪人に特別な衣服を着せ、恥を悟らせた刑。(『漢辞海』)を設けても人々は違反しなかったが、現在は三族刑を設けても悪事は絶えない。徳政と刑罰が乖離すること、なんと遠いことだろうか。先帝は人民を深くいたわり、裁判が多いのをあわれんだので、公卿に命じ、刑法を改正させたのである。朕はその遺業を維持し、皇業の基礎を安定させることにいつまでも意を注ぎ、万国とともに無為(刑を濫用しない)を政治〔の方針〕にしたいと思う。現在、春の時節で万物が養われていて、東方から〔物事の〕始まりが起こっており、〔そこで〕朕みずから王公卿士を率いて藉田を千畝耕した。また律令が完成したので、これを天下に頒布したところだが、法令を簡略にし、根本を重んじることによって、天下の人々をいつくしみ、はぐくむつもりである。〔このように、万物が始まる季節であるとともに、新たな法が頒布されたところであるから、〕有罪者を赦免し、更生の機会を与えるのが適当であろう。そこで、天下を大赦する。長吏、郡丞、長史にはおのおの馬一匹を賜う」。
 二月庚子、山陽公国に相、郎中令、陵令、雑工、宰人(不詳)、鼓吹隊と車馬を増置し、おのおの格差があった40原文「増置山陽公国相・郎中令・陵令・雑工宰人・鼓吹車馬各有差」。よくわからない。。中軍将軍を廃し、北軍中候を置いた。甲寅、東海の劉倹にすぐれた行為があったことから、郎に任じた。中軍将軍の羊祜を尚書左僕射とし、東莞王伷を尚書右僕射とした。
 三月戊子、皇太后の王氏が崩じた。
 夏四月戊戌、太保、睢陵公の王祥が薨じた。己亥、文明皇后の王氏を崇陽陵に合葬した。振威護軍と揚威護軍を廃し、左右積弩将軍を置いた。
 六月丙申朔、詔を下した、「郡国の守相は三年に一度、属県を巡回するが、必ず春に実施することになっている。この巡回はいにしえにおける、職務を〔天子に〕報告し、風流を行き渡らせ、義を広める手段だったのである。〔県の〕長吏に会い、風俗を観察し、礼制を整え、法令を調べ41原文「協礼律、考度量」。直訳気味に訳出したが、よくわからない。礼や法がきちんと行き渡っているか、乱れているところはないか、不備はないか、といった諸点をチェックするというニュアンスであろうか。(2023/3/5:修正)礼法と刑律とを調和させ、度量を推し測り、老人に様子をたずね、みずから百歳の者に面会する。囚人を調べ、冤罪を正し、政治や刑罰の得失を詳細に調査し、百姓の苦しんでいる事柄を知る。〔このようにすれば〕遠近に関係なく、朕みずからが県に臨んでいるかのようになるのである。五教(仁義礼智信?)を広めることに努め、農業にいそしむことを奨励し、学問をする者を励ますことに注力し、法制を順守することを考え、諸子百家の手先にならないようにし、ささいな事柄に捉われて遠大な目標にきっと支障をきたす42原文「致遠必泥」。『論語』子張篇「子夏曰、雖小道、必有可観者焉。致遠恐泥、是以君子不為也」。ことのないように43中華書局の原文は「無為百家庸末、致遠必泥」。「末」を否定の意で取れば、「無為百家庸、末致遠必泥」と対句になる。そのため、中華書局の標点には従わなかった。。士庶のうち、好学、篤道、孝悌、忠信、清白、異行がある者は推挙せよ。父母をうやまわずに不孝である者、親族への尊重あるいは悌がない者、礼にそむいて五常を棄てている者、法令に従わない者は、糾弾して罰せよ。田畑が開墾され、生業(農業)が整い、礼教が設けられ、禁令が行き渡れば、それは長吏が有能だということである。人民が困窮し、農業が荒廃し、盗賊が発生し、裁判が頻繁になり、下位の者がのさばって上位の者が衰え、礼義がすたれていたら、これは長吏が無能だということである。もし、長吏で職において公正清廉で、私事にまで配慮をめぐらさず、威儀を整えて節義をまっすぐにし、名誉を飾り立てない者、汚いこと(賄賂)でまみれ、上にへつらって下をあなどり、顔色をうかがうばかりで、公共への節義が立たず、それでいて私門は日々富裕になっていく者がいれば、どちらもつつしんで挙げよ。清らかな者をすくいあげ、濁った者を排除し、善を挙げて違反を糾弾するというこのことは、朕が何もせずして秩序を整える手段であり、〔この仕事の〕成功は良二千石に求められているのだ。ああ、注意せよ」。
 秋七月、泰山で石崩れがあった。多くの星が西に流れた。戊午、使者の侯史光を派遣し、天下を巡回させた。己卯、崇陽陵に参拝した。
 九月、青州、徐州、兗州、豫州で洪水が起こり、伊水と洛水が氾濫し、黄河に合流した。倉庫を開いて援助した。詔を下した、「詔〔の命令〕であろうとも要望がある場合、および上奏して裁可されたけれども実情に不便であった場合は、どちらも本心を包み隠してはならない」。
 冬十月、呉の将の施績が江夏に侵入し、万郁が襄陽を侵略した。太尉の義陽王望を派遣し、龍陂に駐屯させた。荊州刺史の胡烈が万郁を撃破した。呉の将の顧容が鬱林を侵略したが、鬱林太守の毛炅がこれをおおいに破り、呉の交州刺史の劉俊と将軍の修則を斬った。
 十一月、呉の将の丁奉らが芍陂に出撃してきたが、安東将軍の汝陰王駿と義陽王望が撃退した。己未、王公卿尹と郡国の守相に詔を下し、賢良、方正、直言の士を推挙させた。
 十二月、五条詔書を郡国に頒布した。〔その五条とは〕一、身を正すこと。二、百姓を勤労させること。三、親がいない幼子、夫がいない高齢の女をいたわること。四、根本を重んじ、末業を抑制すること。五、人事(賄賂)を排除すること44五条の解釈は[渡辺一九九六]一四九頁に従った。。庚寅、武帝は聴訟観に登り、廷尉管轄下の洛陽の囚人を調べ、みずから公平に裁判した。扶南と林邑がそれぞれ使者を派遣し、朝献した。

 泰始五年春正月癸巳、郡国の計吏に訓戒を述べ、〔郡国の〕守相や〔県の〕令長は、農地の生産力を完全活用することに努め、浮浪や商業を取り締まるように注意した。丙申、武帝は聴松観に登り、囚人を調べたところ、赦免して釈放する者が多かった。二匹の青龍が滎陽に現れた。
 二月、雍州の隴西地方の五郡、涼州の金城、涼州の陰平をまとめ合わせ、秦州を置いた。辛巳、二匹の白龍が趙国に現れた。青州、徐州、兗州で水害があったので、使者を派遣して援助させた。壬寅、尚書左僕射の羊祜を都督荊州諸軍事とし、征東大将軍の衛瓘を都督青州諸軍事とし、東莞王伷を鎮東大将軍、都督徐州諸軍事とした。丁亥、詔を下した、「いにしえは、毎年もろもろの吏の能否を記録し、三年ごとに罰と賞を下した。〔しかし現在は、〕令史前後の吏は、成績の悪い者を選んで免ずるのみで、〔優秀な者を〕奨励して昇進させていない。これでは昇進と罷免をおこなっているとは言いがたい。勤務に熱心な者、評判を立てている者、とりわけ優秀な者を列挙し、毎年の常制とせよ。推薦された者の功労45原文「功労」。簡単に言えば「仕事の成績」。具体的には、[大庭一九八二]によれば、「労」は勤務日数で、「功」は「その人のみが有する特別なてがら」(五六三頁)であり、「労は言わば最低の功」(五六四頁)である。功労によって、あるいは功労を積んで昇進するというのは、「官に永年勤務しているだけで、必ずしも能力がなくとも、高官に昇進する制度」(五四八頁)のことを表している。を私が検討しよう」。己未、詔を下し、蜀の丞相の諸葛亮の孫である諸葛京を才能に適した吏に任命した。
 夏四月、地震があった。
 五月辛卯朔、鳳凰が趙国に現れた。交趾、九真、日南の五歳刑の罪人を曲赦46特定の地域だけに恩赦を下すこと。した。
 六月、鄴奚官督の郭廙が上疏して、五つの事柄について意見を述べ、諫めたが、その言葉はひじょうに厳しかった。〔そこで〕屯留令に抜擢した。西平の麹路が登聞鼓を叩いた〔ので意見を聴いた〕が、怪しげな批判ばかりであったので、有司は棄市にするように奏した。武帝は「〔これもまた〕朕の過ちである」と言い、〔麹路を〕赦して不問とした。鎮軍将軍を廃し、左右将軍を復置した。
 秋七月、諸公を召集し、諫言を求めた。
 九月、彗星が紫宮で光った。
 冬十月丙子、汲郡太守の王宏が治績をあげたので、穀物千斛を下賜した。
 十一月、皇弟の兆を城陽王に追封し、哀王の諡号をおくり、皇子の景度にあとを継がせた。
 十二月、州郡に詔を下し、勇猛な者、優秀な者を推挙させた。

 泰始六年春正月丁亥朔、武帝は臨軒47皇帝が正殿ではなく前殿に御坐すること。殿の前方の空間には堂(テラス)と階段があるが、ひさしの近くのテラスと階段には両辺に手すりがついており、車の軒(ひさし)のようであった。そのため、皇帝がこの前殿に御坐することを「臨軒」と称したのである。(皇帝不坐正殿而御前殿。殿前堂陛之間近檐処両辺有檻楯、如車之軒、故称。)(『漢語大詞典』)して、音楽を演奏しなかった。呉の将の丁奉が渦口に侵入したが、揚州刺史の牽弘が撃退した。
 三月、五歳刑以下の罪人を赦免した。
 夏四月、二匹の白龍が東莞に現れた。
 五月、寿安亭侯の承を南宮王に立てた。
 六月戊午、秦州刺史の胡烈が叛虜(禿髪樹機能)を万斛堆で攻めたが、力戦のすえ、戦死した。詔を下して、尚書の石鑑を行安西将軍、都督秦州諸軍事として派遣し、奮威護軍の田章と共同で討伐させた。
 秋七月丁酉、隴西地方の五郡で叛虜の被害に遭った者の租賦を免除し、また自力で生活ができない者には食料を支給した。乙巳、城陽王景度が薨じた。詔を下した、「泰始以来、重要な出来事はすべて記録に残し、秘書がその副本を作成している。今後、この仕事が発生したときは、そのたびに集成するのを常制とせよ」。丁未、汝陰王の駿を鎮西大将軍、都督雍涼二州諸軍事とした。
 九月、大宛が汗血馬を、焉耆が産物を朝献した。
 冬十一月、辟雍に行幸した。郷飲酒の礼を実施し、太常博士と学生に帛、牛肉、酒を賜い、おのおの格差があった。皇子の柬を汝南王に立てた。
 十二月、呉の夏口督、前将軍の孫秀が軍を率いて来奔した。驃騎将軍、開府儀同三司に任じ、会稽公に封じた。戊辰、鎮軍将軍を復置した。

 泰始七年春正月丙午、皇太子が成人したので、王公以下に帛を賜い、おのおの格差があった。匈奴の帥の劉猛がそむいて出塞48王朝の統治領域外に出ること。この時期、匈奴は并州に散居していた。した。
 三月、孫晧が軍を率いて寿陽に進んだので、大司馬の望を派遣して淮北に駐屯させ、防がせた。丙戌、司空、鉅鹿公の裴秀が薨じた。癸巳、中護軍の王業を尚書左僕射とし、高陽王珪を尚書右僕射とした。孫秀の部将の何崇が五千の軍を率いて来降した。
 夏四月、九真太守の董元が呉の将の虞氾から攻撃を受けた。董元軍は敗れ、董元は戦死した。北地胡が金城を侵略したので、涼州刺史の牽弘が討伐に向かったが、多くの異民族が内応してそむき、牽弘を青山で包囲したため、牽弘軍は敗北し、牽弘は戦死した。
 五月、皇子の憲を城陽王に立てた。雍州、涼州、秦州で飢饉があったので、各州内の殊死(斬首刑)以下を赦免した。
 閏月、おおいに雨ごいをおこない、太官に皇帝の食事を減らさせた。詔を下し、交趾〔など〕の三郡、南中の諸郡は、今年の戸調を納めなくてよいと命じた。
 六月、公卿以下に詔を下し、軍の将帥を各自一人、推挙するように命じた。辛丑、大司馬の義陽王望が薨じた。大雨が連日つづいた。伊水、洛水、黄河が氾濫し、四千余家の住人を流し、三百余の死者を出した。詔を下し、〔被災者に〕援助し、棺を支給した。
 秋七月癸酉、車騎将軍の賈充を都督秦・涼二州諸軍事とした。呉の将の陶璜らが交趾を包囲し、交趾太守の楊稷、鬱林太守の毛炅、日南〔太守〕が呉に降った。
 八月丙戌、征東大将軍の衛瓘を征北大将軍、都督幽州諸軍事とした。丙申、城陽王憲が薨じた。益州の南中の四郡を分割して寧州を置き、四郡の殊死以下を曲赦した。
 冬十月丁丑、日蝕があった。
 十一月丁巳、衛公の姫署が薨じた。
 十二月、大雪が降った。中領軍を廃し、北軍中候に併合した。光禄大夫の鄭袤を司空とした。

 泰始八年春正月、監軍の何楨が匈奴の劉猛を討伐し、しばしばこれを破ると、左部帥の李恪が劉猛を殺して降った。癸亥、武帝は藉田を耕した。
 二月乙亥、模様飾りや華美な色彩が法にそむいている物を禁止した49原文「禁雕文綺組非法之物」。『太平御覧』巻九六、世祖武皇帝に引く「晋書」には「禁雕文綺組非礼法之物」とあり、こちらのほうがしっくりくる。。壬辰、太宰の安平王孚が薨じた。詔を内外の群官に下し、辺郡の太守に適任な者を各自三人、推挙させた。武帝が右将軍の皇甫陶と政治を議論したところ、皇甫陶は武帝と言い争いになったので、散騎常侍の鄭徽は上表し、処罰するように求めた。武帝は「へつらいのない直言は、〔朕が〕左右の者たちに望んでいることだ。人主はおよそ、へつらいを害とみなすのであって、どうして言い争ってくる臣を害とみなそうか。鄭徽は職分を越えてかってに奏上してきたが、どうして朕の意にかなっているだろうか」と言った。とうとう鄭徽の官を免じた。
 夏四月、後将軍50後軍将軍の誤りである可能性が高い。『宋書』巻四〇、百官志下、左右前後軍将軍の条に「魏明帝時、有左軍将軍。……晋武帝初、置前軍、右軍、泰始八年、又置後軍、是為四軍」とある。を置き、〔前後左右の〕四軍を整えた。
 六月、益州〔刺史〕牙門の張弘が、益州刺史の皇甫晏がそむいたといつわって報告し、皇甫晏を殺して、首を京師に送ってきた。〔事の真相が明るみになり、〕張弘は誅殺され、夷三族とされた。壬辰、大赦した。丙申、詔を下し、隴西地方の四郡で侵略の被害に遭った者の田租を免税した。
 秋七月、車騎将軍の賈充を司空とした。
 九月、呉の西陵督の歩闡が来降した。衛将軍、開府儀同三司に任じ、宜都公に封じた。呉の将の陸抗が歩闡を攻めたので、車騎将軍の羊祜に軍を統率させて江陵に向かわせ、荊州刺史の楊肇を西陵に行かせて歩闡を迎えさせ、巴東監軍の徐胤に建平を攻めさせて歩闡を援護させた。
 冬十月辛未朔、日蝕があった。
 十二月、楊肇が陸抗を攻めたが、勝てずに帰還した。歩闡の城が陥落し、陸抗に捕えられた。

 泰始九年春正月辛酉、司空、密陵侯の鄭袤が薨じた。
 二月癸巳、司徒、楽陵公の石苞が薨じた。安平亭侯隆を安平王に立てた。
 三月、皇子の祗を東海王に立てた。
 夏四月戊辰朔、日蝕があった。
 五月、旱魃があった。太保の何曾を領司徒とした。
 六月乙未、東海王祗が薨じた。
 秋七月丁酉朔、日蝕があった。呉の将の魯淑が弋陽を包囲したが、征虜将軍の王渾が撃破した。五官中郎将、左中郎将、右中郎将、弘訓の太僕、弘訓の衛尉、大長秋を廃した。鮮卑が広寧を侵略し、五千人を殺害または拉致した。詔を下し、公卿以下の子女を〔選抜して〕めとり、六宮(後宮)に入れさせた。選抜が終わらないうちは、一時的に婚姻を禁止した。
 冬十月辛巳、制を下し51原文「制」。制書の意で取った。、十七歳の女性で両親が嫁にやっていない者は、長吏に配偶させた。
 十一月丁酉、宣武観に登って閲兵し、甲辰になって終えた。

 泰始十年春正月辛亥、武帝は藉田を耕した。
 閏月癸酉、太傅、寿光公の鄭沖が薨じた。己卯、高陽王珪が薨じた。庚辰、太原王瓌が薨じた。
 丁亥、詔を下した、「嫡庶を弁別するのは、上下を区別し、貴賤をはっきりさせるためである。しかし近世以来、多くの場合において、寵愛を得た女が皇后に立てられ、尊卑の秩序を乱している。今後、側室の女52原文「妾媵」。『漢語大詞典』によれば侍妾の意だが、それでは文の意味が通りにくい。『三国志』には「側室の妾」を指す用例が散見するので、その用例に従って訳出した。を正室に立てることはできないものとする」。
 二月、幽州の五郡を分割して平州を置いた。
 三月癸亥、日蝕があった。
 夏四月己未、太尉、臨淮公の荀顗が薨じた。
 六月癸巳、聴松観に登り、囚人を調べたところ、赦免して釈放する者が多かった。この夏、蝗が大発生した。
 秋七月丙寅、皇后の楊氏が崩じた。壬午、呉の平虜将軍の孟泰、偏将軍の王嗣らが軍を率いて降った。
 八月、涼州虜が金城などの諸郡を侵略したので、鎮西将軍の汝陰王駿が討伐し、帥の乞文泥らを斬った。戊申、楊元皇后を峻陽陵に埋葬した。
 九月癸亥、大将軍の陳騫を太尉とした。呉の枳里城を攻め落とし、呉の立信校尉の荘祐を捕えた。呉の将の孫遵と李承が軍を率いて江夏を侵略したが、江夏太守の嵆喜が撃破した。富平津に河橋をかけた。
 冬十一月、洛陽城の東の七里澗に石橋をかけた。庚午、武帝は宣武観に登り、閲兵した。
 十二月、彗星が軫で光った。藉田令を置いた。太原王の子の緝を高陽王に立てた。呉の威北将軍の厳聡、揚威将軍の厳整、偏将軍の朱買が来降した。
 この年、陝の南山を開鑿して黄河を流し、東に流して洛水に合流させ、そうして漕運を通じさせた。

系図武帝(1)武帝(2)武帝(3)恵帝(1)恵帝(2)懐帝愍帝東晋

(2020/2/22:公開)
(2021/9/10:改訂)

  • 1
    原文「累遷中護軍・仮節」。「累遷」は「鰻上りの意味で、中間に若干の官があるのを省略した書き方である」([宮崎一九九七]二一九頁)。
  • 2
    原文「副弐相国」。『三国志』巻四、陳留王紀、咸煕元年八月の条に「命中撫軍司馬炎副弐相国事、以同魯公拝後之義」とあるのをふまえた。
  • 3
    原文「皆開府」。丞相と御史大夫は常設の府があるはずだから、原文の「皆」は「二人」の意で、賈充(衛将軍)と裴秀(光禄大夫)を指すとも考えられるが(つまり開府衛将軍、開府光禄大夫とされたということ)、裴秀伝に「武帝既即王位、拝尚書令、右光禄大夫、与御史大夫王沈、衛将軍賈充俱開府」とあり、これに拠るかぎり、「皆」はやはり本文で列記されている全員を指すと考えるべきかもしれない。もっとも、そうなると何曾と王沈への開府とは何であるかがわからなるが。
     なお職官志によれば、衛将軍と光禄大夫は開府を授けられると「位従公」になるが、訳者はこれを「儀同三司」と同義だと解釈している(ブログ記事「唐修『晋書』職官志の「位従公」について」)。はたして賈充伝には「帝襲王位、拝充晋国衛将軍、儀同三司」とあり、訳者の解釈を傍証する。
  • 4
    原文「信義可復」。『論語』学而篇「信近於義、言可復也」とあり、『論語集解』は「復、猶覆也。義不必信、信非義也。以其言可反覆、故曰近義」と注している。これが出典かはわからないが、とりあえずこれに従って訳出する。
  • 5
    原文「惟三后陟配于天、而咸用光敷聖徳」。このように訳してよいかは自信がない。
  • 6
    原文「漢又輯大命于漢」。「輯(大)命」は武帝の即位詔、元帝の即位詔にも見られる表現。「輯」は集、和、合の意で取る場合が多いため、訳文の表現を取った。「天命を漢に下した」ということだろう。
  • 7
    原文「方軌虞夏四代之明顕」。中華書局はこれで一句と読んでいるが、私は訳文のように、「方軌虞夏、四代之明顕(、我不敢知)」と読んだ。「四代」については、辞書的には舜、夏、殷、周を意味する。たとえば『礼記』学記篇に「記曰、三王四代……」とあり、鄭玄注に「四代、虞夏殷周」とある。しかし、ここの「四代」がその意味だとは考えにくい。上に「虞夏」があるのだから、夏以降の四代、すなわち殷、周、秦、漢を指すとみるのが素直な捉え方であろう。だがこの場合は、秦も「明顕」のひとつに数えられてしまうことになり、十分な解釈と思えない。「四代」の解釈としては、三つ挙げられる。
     (1)前文に挙がっている禅譲した四代、つまり堯、舜、禹、漢のこと。後文との繋がりも悪くなさそうだが、ただしこれらの指示対象は「四代」というより「四王」なので、「四代」の解釈としてはやや不適な印象もある。(2)曹魏の四代、すなわち文帝、明帝、斉王、高貴郷公のこと。しかし「明顕」というのに、そこに廃帝が含まれてしまっているのはまずそうである。(3)司馬氏の四代、すなわち司馬懿、司馬師、司馬昭、司馬炎のこと。前後の文とのつながりがもっともしっくりくるが、司馬炎を含めてしまっていて問題がないのか不安も残る。
     現段階では確たる自信をもてないが、今回は(3)の意味で訳出を試みることにした。
  • 8
    原文「我不敢知」。『尚書』召誥篇、同君奭篇に見える語。召誥篇の孔伝には「我不敢独知、亦王所知」とある。また君奭篇の正義によれば、鄭玄も同様の読み方をしているようである(「鄭玄亦然也」)。ここの典拠ではないかもしれないが、ほかに手がかりもないので、とりあえずこの注をふまえて訳出してみた。
  • 9
    原文「服膺明哲」。「服膺」は『礼記』中庸篇に「子曰、回之為人也、択乎中庸、得一善、則拳拳服膺而弗失之矣」とあるのが出典。直接には「胸につける」意で、転じて「忘れない」ことを指すと考えられる。この箇所は、「得一善、則服膺而弗失之」を短縮して「服膺」と言っているのだろうと思われる。
  • 10
    原文「協皇極之中」。「皇極」の語は『尚書』洪範篇に「建用皇極」とみえ、孔伝は「皇」を「大」、「極」を「中」と解している。後漢末の戦乱を表現するさいに、しばしば「皇極不建」と記されている場合が散見され(たとえば『三国志』巻二、文帝紀、延康元年十一月の条の裴注に引く「献帝伝」に「桓霊之末、皇極不建」とある)、おそらくは「政治の根幹秩序」といった意味あいだと思われる。
  • 11
    原文「允執其中、天禄永終」。『論語』堯曰篇に「允執其中、四海困窮、天禄永終」とあり、『論語集解』に「包曰、允、信也。困、極也。永、長也。言為政信執其中、則能窮極四海、天禄所以長終」とある。
  • 12
    原文「底綏四国」。『尚書』盤庚上篇に「厎綏四方」とある。
  • 13
    原文「百僚在位」。思い切って「位」を「朝位」の意で取った。
  • 14
    以下は『宋書』巻一六、礼志三にもあるが、文に異同が多い。以下、大きな異同は注記するが、細かな字のちがいは注記しない。
  • 15
    原文「魏帝稽協皇運、紹天明命以命炎。昔者唐堯、煕隆大道、禅位虞舜……」。『宋書』に「魏帝稽協皇運、紹天明命、以命炎曰、『昔者唐堯禅位虞舜……』」とあるのに従う。
  • 16
    ここの三帝にかんする文は、けっきょく何を言いたいのかはわからない。
  • 17
    祖先を祀る祭祀の名称。『漢語大詞典』の「祭名。謂以全牛全羊祭祀祖先」に拠る。
  • 18
    原文「晋之有大造于魏也」。『左伝』成公十三年に「我有大造于西也」とあり、杜預注に「造、成也。言晋有成功於秦」とある。(2022/2/22:修正)
  • 19
    前掲の策書でも使用されている語で、策書では堯、舜、禹を指している。
  • 20
    末尾の二句の「天序不可以無統、人神不可以曠主」は、中華書局の『宋書』の句読では百官らの発言外におかれている。
  • 21
    以下の詔は『文館詞林』巻六六八にも収録されている(張華「西晋武帝即位改元大赦詔一首」)。
  • 22
    原文「群后」。『漢語大詞典』によれば、「四方の諸侯と九州の牧伯のこと。……のちに広く公卿を言う(四方諸侯及九州牧伯。……後亦泛指公卿)」。以後、この語は文脈によって訳し分ける。
  • 23
    原文「疇咨群后」。「疇咨」は『尚書』堯典篇が出典の語。『漢書』巻六、武帝紀、賛曰に「孝武……遂疇咨海内、挙其俊茂」とあり、顔師古注に「疇、誰也。咨、謀也。言謀於衆人、誰可為事者也」とある。
  • 24
    原文「文武普増位二等」。「位」が何を指すのかは不詳。かつてブログにしたことがある(「晋南朝の「増位」」)。上の「増封進爵」などの措置は「各有差」なのに対し、「位」の加増は「普」すなわち一律である。表現は対照的であるが、その意味はどちらも「平等な措置をほどこした」である。
  • 25
    王淩と鄧艾はまちがった行為をしたけど、判断が誤っていたとも言い切れないし、相応の罰は受けたよね、ということであろうか。
  • 26
    [浜口一九六六]によれば官名。後文の部曲督も同様。
  • 27
    不詳。「供御之物」(恵帝紀、永興元年十二月条)か。
  • 28
    原文「麒麟各一」。あまり例がない表現か。『漢書』巻五七上、司馬相如伝上、子虚賦の顔師古注に「張揖曰、雄曰麒、雌曰麟、其状麋身牛尾、狼題一角、角端似牛、其角可以為弓」とあり、『漢辞海』はこのような説を「一説」として注記し、紹介している。実際、「麒麟各」をワードに中央研究院電子文献で検索をかけても、『晋書』武帝紀にしか用例がない。だが、この説に従う以外に読み方もないので、いまこの一説に従う。
  • 29
    有司は原文のまま。「尚書主管曹のこと」([中村圭爾二〇一五]二五六頁)。いちいち別の訳語に置き換えず、有司のままとする。
  • 30
    原文「本為県侯者伝封次子為亭侯」。「伝封」は「封国を継承する」とも読めるが、その場合、この文はかなり限定されたケースを想定していることになってしまう。つまり、家が断絶しているか、あるいは断絶しそうで、かつ長子がおらず、かつ次子はいる、という。だいいち、長子がいないならば以降の子にそのまま継がせるはずである。したがってここは、「伝」をどう訳出するかがいまいち落ち着かないけれども、「功績を嘉して本人だけでなく、長子以降の子も封建した」という意味の恩恵だと解釈する。紀瞻伝に「論討陳敏功、封臨湘県侯。……卒。……論討王含功、追封華容子、降先爵二等、封次子一人亭侯」とあり、東晋初期の話ではあるが、ぴったりの事例であろう。
  • 31
    [越智一九六三]二六〇頁を参考に訳出しなおした。(2021/11/5:修正)
  • 32
    皇帝が臣らに下す文書の形式(詔)で返答するのではなく、対等の敵国に対する文書の形式、あるいは形式のない文書で応じる、という意味だと考えているが、知識不足ゆえによくわからない。なお例に挙がっている光武帝にかんして言えば、隗囂には「報以手書」(『後漢書』列伝三、隗囂伝)、公孫述には「与述書」(『後漢書』列伝三、公孫述伝)と記されている。
  • 33
    原文「降席撤膳」。「席」をむしろで読んで、「寝苫」に結びつけたくもなるが、「降」をそのように読んでいいのか不明瞭であるし、『漢語大詞典』に従って、「料理・酒席を下げること」と解することにした。疏食にすることを言うのであろう。
  • 34
    原文「復吉」。おそらく「即吉」と同義。
  • 35
    原文「散騎常侍皇甫陶・傅玄領諫官、上書諫諍、有司奏請寝之。詔曰、『凡関言人主、人臣所至難、而苦不能聴納、自古忠臣直士之所慷慨也。毎陳事出付主者、多従深刻、乃云恩貸当由主上、是何言乎。其詳評議』」。よく読めない。
     このいきさつは『群書治要』巻三〇、晋書下、傅玄伝のほうがやや詳しく、訳出はそれを参考にした。以下に引用しておく。「与皇甫陶俱掌諫職。玄志在拾遺、多所献替。上疏曰、『前皇甫陶上事、為政之要、計民而置官、分民而授事、陶之所上、義合古制。前春、楽平太守胄志、上欲為博士、置史卒、此尊儒之一隅也。主者奏寝之。今志典千里、臣等並受殊寵、雖言辞不足以自申、意在有益、主者請寝、多不施用。臣恐草莱之士、雖懐一善、莫敢献之矣』。詔曰、『凡関言於人主、人臣之所至難、而人主苦不能虚心聴納、自古忠臣直士慷慨也。其甚者至使杜口結舌、毎念於此、未嘗不嘆息也。故前詔、敢有直言、勿有所拒、庶幾得以発蒙補過、獲保高位。喉舌納言諸賢、当深解此心、務使下情必尽。苟言有偏善、情在忠益、不可責備於一人、雖文辞有謬誤、言語有得失、皆当曠然恕之。古人猶不拒誹謗、况皆善意、在可采録乎。近者孔晁、綦母和、皆案以軽慢之罪、所以皆原、欲使四海知区区之朝、無諱言之忌也。又毎有陳事、輒出付主者、主者衆事之本、故身而所処当、多従深刻、至乃云恩貸当由上出、出村(付の誤りか)外者、寧縦刻峻、是信耶。故復因此喩意』」。
  • 36
    「農官」は原文まま。屯田の官のこと。ここで記されている措置は、典農中郎将・典農校尉を廃して郡太守とし、典農都尉を廃して県令長としたことを指す。[越智一九六三]一七頁を参照。(2022/12/26:訳注追加)
  • 37
    原文「間不獲已」。よくわからない。「間」を「余裕のある状態」の意で取った。
  • 38
    その場しのぎの恩恵に頼ってしまうような思考・行動を百姓から除き、もっとおおきな、もっと長期の視点からの幸福を求めるようにさせたい。という意であろうと解した。
  • 39
    堯・舜の治世に、身体を殺傷する刑の代わりに罪人に特別な衣服を着せ、恥を悟らせた刑。(『漢辞海』)
  • 40
    原文「増置山陽公国相・郎中令・陵令・雑工宰人・鼓吹車馬各有差」。よくわからない。
  • 41
    原文「協礼律、考度量」。直訳気味に訳出したが、よくわからない。礼や法がきちんと行き渡っているか、乱れているところはないか、不備はないか、といった諸点をチェックするというニュアンスであろうか。(2023/3/5:修正)
  • 42
    原文「致遠必泥」。『論語』子張篇「子夏曰、雖小道、必有可観者焉。致遠恐泥、是以君子不為也」。
  • 43
    中華書局の原文は「無為百家庸末、致遠必泥」。「末」を否定の意で取れば、「無為百家庸、末致遠必泥」と対句になる。そのため、中華書局の標点には従わなかった。
  • 44
    五条の解釈は[渡辺一九九六]一四九頁に従った。
  • 45
    原文「功労」。簡単に言えば「仕事の成績」。具体的には、[大庭一九八二]によれば、「労」は勤務日数で、「功」は「その人のみが有する特別なてがら」(五六三頁)であり、「労は言わば最低の功」(五六四頁)である。功労によって、あるいは功労を積んで昇進するというのは、「官に永年勤務しているだけで、必ずしも能力がなくとも、高官に昇進する制度」(五四八頁)のことを表している。
  • 46
    特定の地域だけに恩赦を下すこと。
  • 47
    皇帝が正殿ではなく前殿に御坐すること。殿の前方の空間には堂(テラス)と階段があるが、ひさしの近くのテラスと階段には両辺に手すりがついており、車の軒(ひさし)のようであった。そのため、皇帝がこの前殿に御坐することを「臨軒」と称したのである。(皇帝不坐正殿而御前殿。殿前堂陛之間近檐処両辺有檻楯、如車之軒、故称。)(『漢語大詞典』)
  • 48
    王朝の統治領域外に出ること。この時期、匈奴は并州に散居していた。
  • 49
    原文「禁雕文綺組非法之物」。『太平御覧』巻九六、世祖武皇帝に引く「晋書」には「禁雕文綺組非礼法之物」とあり、こちらのほうがしっくりくる。
  • 50
    後軍将軍の誤りである可能性が高い。『宋書』巻四〇、百官志下、左右前後軍将軍の条に「魏明帝時、有左軍将軍。……晋武帝初、置前軍、右軍、泰始八年、又置後軍、是為四軍」とある。
  • 51
    原文「制」。制書の意で取った。
  • 52
    原文「妾媵」。『漢語大詞典』によれば侍妾の意だが、それでは文の意味が通りにくい。『三国志』には「側室の妾」を指す用例が散見するので、その用例に従って訳出した。
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