巻五 帝紀第五 孝愍帝

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懐帝愍帝

 孝愍皇帝は諱を鄴1『文選』巻四九、干令升「晋紀総論」の李善注に引く「干宝晋懐紀」は「業」に作る。また『資治通鑑考異』によれば、『三十国春秋』と『晋春秋』は「子業」あるいは「子鄴」に作っているという。司馬光は「業」が正しいと判断し、すべて「業」で叙述を進めている。、字を彦旗といい、武帝の孫で、呉王晏の子である。〔呉王家から〕出て伯父の秦王柬を継ぎ、秦王の爵を襲った。
 永嘉二年、散騎常侍、撫軍将軍に任じられた。洛陽が転覆すると、滎陽の密県に避難し、舅の荀藩、荀組とたまたま遭遇し、〔いっしょに〕密県から南に進み、許潁の地(豫州)へ向かった。豫州刺史の閻鼎は、まえの撫軍将軍長史の王毗、司徒長史の劉疇、中書郎の李昕、それから荀藩、荀組らとともに計画を立て、愍帝を奉じて長安に帰ろうとしたが、劉疇らが道中でそむいて〔逃げ出して〕しまい、閻鼎は追って彼らを殺し、荀藩と荀組だけがかろうじて逃げ延びた2閻鼎伝によれば、閻鼎は天水の人で、関西で名をあげたかったからそっちに向かう計画を立てたのだけど、それ以外のメンバーはみな関東人であまり気乗りしなかったそうである。それで荀藩らも全員逃げ出したのだと。。閻鼎はそのまま愍帝を連れて牛車に乗せ、宛から武関に向かった。しばしば山賊に遭遇し、兵士は逃亡した。藍田に駐屯した。閻鼎が雍州刺史の賈疋に知らせると、賈疋はすぐに州兵を派遣し、〔愍帝らを〕迎えさせて護衛させた。長安に到着すると、〔賈疋は〕さらに輔国将軍の梁綜に護衛させた。このとき、玉亀が覇水に現れ、神馬が長安城の南で鳴いた。
 永嘉六年九月辛巳、〔閻鼎らは〕愍帝を奉じて皇太子とし、壇に登って天に告げ、宗廟と社稷を立て、大赦した。賈疋に征西大将軍を加え、秦州刺史の南陽王保を大司馬とした。賈疋は賊の張連を討伐したが、殺されてしまった。人々は始平太守の麹允を推薦して領雍州刺史とさせ、盟主とした。〔麹允は〕承制して〔百官を〕選挙して設けた。

 建興元年夏四月丙午、懐帝崩御の知らせを受けると、号泣して哀悼し3原文「挙哀」。『漢語大詞典』によると「大声で号泣し、哀悼することを言う(指高声号哭以哀悼)」。『晋書』には用例が多く、専門用語気味だが、『漢語大詞典』に従って訳出した。類語に「発哀」がある。渡辺信一郎氏[一九九六]は「挙哀」と「発哀」を「哀悼儀礼」と訳している(六九頁)。、礼を執り行った。壬申、皇帝の位につき、大赦し、改元した。衛将軍の梁芬を司徒とし、雍州刺史の麹允を使持節、領軍将軍、録尚書事とし、京兆太守の索綝を尚書右僕射とした。石勒が龍驤将軍の李惲を上白で攻め、李惲は敗れ、戦死した。
 五月壬辰、鎮東大将軍の琅邪王睿を侍中、左丞相、大都督陝東諸軍事とし、大司馬の南陽王保を右丞相、大都督陝西諸軍事とした。また、琅邪王と南陽王に詔を下した、「いったい、陽九や百六4陽九と百六は災難、厄運の意味。『漢語大詞典』は、数術家と道家の説を紹介している。陽九は陽数の窮みで、百六は陰数の窮みとかそういう感じ。の災厄というものは、たとえ最盛期であったとしても、これに遇うことがあろう。朕は年少でもって、帝業を継承した。祖先の霊力、群公や義士の力に頼り、悪賊を滅ぼし、幽宮5辞書的には、深いところにある宮殿とか墳墓を意味するらしいが、ここでは、死没した(幽)皇帝(宮)のこと、すなわち懐帝を指すのであろう。を救い出すことを願っているが、見通しはいまだ立たず、心が張り裂けんばかりである。むかし、周公と召公が陝を〔東西に〕分け〔て治め〕たため、姫氏は興隆したし、平王が東遷したときは、〔同姓諸侯の〕晋と鄭が補佐となった。いま、左右の丞相はすぐれた徳をそなえた斉聖6原文「斉聖」。『毛詩』小雅、小宛に「人之斉聖」とあり、毛伝に「斉、正」とあり、鄭箋に「中正通知之人」とある。の人で、国家の宗室であるから、まさに二公に頼って、悪人を排除し、〔懐帝の〕梓宮(棺のこと)を奉迎し、失地を回復して中興せねばならないだろう7原文「克復中興」。自信がない。『晋書』における「克復」の用例をみると、「回復する」「取り戻す」という意で使われているため、このように訳出した。「克復中原」ならばわかりやすいのだが。。幽州刺史(王浚)と并州刺史(劉琨)には、兵三十万を率い、まっすぐ平陽へ向かうように命じた。右丞相(南陽王)は秦州、涼州、梁州、雍州の軍三十万を統率し、直接に長安へ参れ。左丞相(琅邪王)は指揮下の精兵二十万を統率し、直接に洛陽へ向かえ。先鋒を分けて派遣し、幽州刺史と并州刺史の後詰にするように。駆けつけて期日に集合し、元勲をうちたてよ」。
 また琅邪王に詔を下した、「朕は年少かつ愚昧でもって、帝業を継承したものの、いまだ悪逆の者をさらし首にして、〔懐帝の〕梓宮を奉迎できずにおり、矛を枕にして憂いもだえ、心が張り裂けんばかりである。さきに魏浚の表を得て、公が三軍の先頭に立って指揮し、すでに寿春を定め、檄文を諸侯に飛ばし、軍と勢力を糾合して整えている8原文「協斉威勢」。自信はない。ことを知った9『建康実録』巻五、中宗元皇帝、永嘉六年の条に「春二月壬子、瑯琊王馳檄四方、徴兵以討石勒、師次寿陽、勒退河北」とある。。現在もじょじょに進んでいることを考えると、ほどなく洛陽に到着するだろうか。涼州刺史の張軌であるが、王室に心を尽くし、旗を万里にわたって連ね〔るような大軍を派遣し〕、すでに汧隴の地に着いている。梁州刺史の張光も巴漢の地の兵士を派遣し、駱谷に駐屯させている。秦川の勇敢な者たちは、林のように集まっている。ちかごろ、派遣した使者がちょうど帰ってきたのだが、〔それによって〕平陽の確実な情報をつぶさに知った。使者が言うところによれば、幽州刺史と并州刺史は士気盛んで、胡の残党は衰えているが、依然として土地の険阻さをたのみとしており、〔滅ぼすためには〕大規模な軍事行動を必要としなければならない。公が現在はどこまで到達したのかがまだわからないため、〔朕らは〕兵を休めて馬に秣を与え、〔軍が集結しているのに〕まだすみやかに軍を進めていないのである。いま、〔公は〕すでにどこかに到着したと考えている。〔公からの〕到着の知らせを待ってから、ただちに朕みずから出撃し、中原で合流して〔中原を〕清めようと思う10原文「今為已至何許、当須来旨、便乗輿自出、会除中原也」。よく読めない。。公よ、計画を広大にすることを考え、遠大な戦略を実現することに努めよ。〔そうして〕先帝の山陵を奪還し、四海に幸いをもたらすように。そこで、殿中都尉の劉蜀、蘇馬らを派遣し、朕の意をつぶさに語らせる。公はすぐれた徳をそなえた宗室である。東夏(東中国)を広く隆盛させ、六合(天下)を広く融和させる事業は、公でなければ誰ができようか。しかし洛陽の山陵と宗廟は、空虚にしておくわけにはいかない。公よ、〔洛陽を〕平定して、そうして山東を治めるようにせよ。右丞相はすぐにも〔長安に〕入り、〔政治を〕助けるであろう。周公と召公の事績にならい、そうして中興を盛り立てるように」。
 六月、石勒が兗州刺史の田徽を殺した。このとき、山東の郡邑はあいついで石勒に落とされた。
 秋八月癸亥、劉蜀らが揚州に到着した。建鄴を建康に改称し、鄴を臨漳に改称した。杜弢が武昌を侵略し、城邑(都市と郷村)を焼いた。杜弢の別将の王真が沌陽を襲撃すると、荊州刺史の周顗は建康へ逃げた。
 九月、司空の荀藩が滎陽で薨じた。劉聡が河南を侵略し、河南尹の張髦が戦死した。
 冬十月、荊州刺史の陶侃が杜弢の徒党の杜曾を石城で討伐したが、杜曾に敗れた。己巳、ひょうがおおいに降った。庚午、大雪だった。
 十一月、流人の楊武が梁州を攻め落とした。
 十二月、河東で地震があり、肉が空から降ってきた。

 建興二年春正月己巳朔、黒い霧が人に付着し、墨のようであった。連夜つづき、五日でやんだ。辛未、辰の時刻に日没した。また、三つの太陽が順々に西方から出て東へ進んだ。丁丑、大赦した。楊武が漢中をおおいに侵略し、そのまま李雄のもとに奔った。
 二月壬寅、司空の王浚を大司馬とし、衛將軍の荀組を司空とし、涼州刺史の張軌を太尉とし、西平郡公に封じ、并州刺史の劉琨を大将軍とした。
 三月癸酉、石勒が幽州を落とし、侍中、大司馬、幽州牧、博陵公の王浚を殺し、城邑を焼き、一万余人を殺した。杜弢の別帥の王真が荊州刺史の陶侃を林鄣で襲撃し、陶侃は灄中へ敗走した。
 夏四月甲辰、地震があった。
 五月壬辰、太尉、領護羌校尉、涼州刺史、西平公の張軌が薨じた。
 六月、劉曜と趙冉が新豊の諸県を侵略し、安東将軍の索綝がこれを討伐し、破った。
 秋七月、劉曜と趙冉らがさらに京師(長安)に迫ってきたので、領軍将軍の麹允がこれを討伐して破り、趙冉は流矢に当たって死んだ。
 九月、北中郎将の劉演が頓丘を落とし、石勒が任命した頓丘太守の邵攀を斬った。丙戌、麟が襄平に現れた。単于、代公の猗盧が使者を派遣して馬を献上した。蒲子の馬が人を生んだ。

 建興三年春正月、盗賊が晋昌太守の趙珮を殺した。呉興の徐馥が呉興太守の袁琇を殺した。侍中の宋哲を平東将軍とし、華陰に駐屯させた。
 二月丙子、左丞相の琅邪王睿を大都督督中外諸軍事に進め、右丞相の南陽王保を相国に進め、司空の荀組を太尉に進め、大将軍の劉琨を司空に進めた。代公の猗盧を代王に昇格させた。荊州刺史の陶侃が王真を巴陵で破った。杜弢の別将の杜弘と張彦が、臨川内史の謝摛と海昬で戦い、謝摛は敗北して戦死した。
 三月、豫章内史の周訪が杜弘を攻めて敗走させ、張彦を陣中で斬った。
 夏四月、大赦した。
 五月、劉聡が并州を侵略した。
 六月、盗賊が漢の覇陵(文帝陵)、杜陵(宣帝陵)、薄太后陵をあばいた。薄太后の顔は生きているかのようで、金、玉、綵(絹織物)、帛は数えきれないほど得られた。当時、朝廷は立ち上がったばかりで、〔尊卑を表示するための〕衣冠は多くが失われていたので、勅を下して〔墓に〕余っている物を集めるように命じ、内府11正確な意はわからない。『漢語大詞典』は「帝室の倉庫(王室的倉庫)」とするが、おおむねその意で当たっているだろう。に貯蔵した。丁卯、〔長安で〕地震があった。辛巳、大赦した。雍州に勅を下し、死体を埋葬させ、墓を修復させ、違反し〔て墓をあばい〕た者は誅殺および三族刑とした。
 秋七月、石勒が濮陽を落とし、濮陽太守の韓弘を殺した。劉聡が上党を侵略したので、劉琨は将を派遣して救援させた。
 八月癸亥、〔劉聡軍と劉琨軍が〕襄垣で戦ったが、王師は敗北した。荊州刺史の陶侃が杜弢を攻め、杜弢は敗走し、道中で死んだ。〔こうして〕湘州は平定された。
 九月、劉曜が北地を侵略したので、領軍将軍の麹允に討伐を命じた。
 冬十月、麹允は進んで青白城を攻めた。豫州牧、征東将軍の索綝を尚書僕射、都督宮城諸軍事とした。劉聡が馮翊を落とし、馮翊太守の梁粛は万年へ敗走した。
 十二月、涼州刺史の張寔が皇帝行璽を一紐送ってきた。盗賊が安定太守の趙班を殺した。

 建興四年春三月、代王の猗盧が薨じ、その部衆は劉琨に帰順した。
 夏四月丁丑、劉曜が上郡を侵略し、上郡太守の籍韋は軍を率いて南鄭へ敗走した。涼州刺史の張寔が歩騎五千を派遣し、京師にかけつけさせた。石勒が廩丘を落とし、北中郎将の劉演は敗走した。
 五月、平夷太守の雷炤が南広太守の孟桓を殺し、二郡(平夷と南広)の三千余家を率いてそむき、李雄に降った。
 六月丁巳朔、日蝕があった。蝗が大発生した。
 秋七月、劉曜が北地を攻めたので、麹允が歩騎三万を率いて救援した。〔しかし〕王師は戦わずして潰走し、北地太守の麹昌は京師へ敗走した。劉曜が進んで涇陽に至ると、渭水の北の諸城はことごとく敗れ、建威将軍の魯充、散騎常侍の梁緯、少府の皇甫陽らはみな戦死した。
 八月、劉曜が京師に迫り、〔都城の〕内と外が断絶してしまった。鎮西将軍の焦嵩、平東将軍の宋哲、始平太守の竺恢らはそろって国難にかけつけ、麹允は公卿と長安小城にこもって守りを固め、散騎常侍の華輯は京兆、馮翊、弘農、上洛の四郡の兵を指揮し、東に進んで覇上に駐屯し、鎮軍将軍の胡崧は長安城より西の諸郡の兵を率いて遮馬橋に駐屯したが、みな〔それ以上〕進もうとはしなかった。
 冬十月、京師の飢饉がひどく、米は一斗で金二両にのぼり、人々は食いあい、死者が大量に出た。太倉に麹12蒸した米・麦・豆などに、こうじ菌を繁殖させたもの。(『漢辞海』)が数十個あったので、麹允はそれをすりつぶして粥をつくり、愍帝に供出していたが、このときになってそれも尽きてしまった。愍帝は泣いて麹允に言った、「いま、困窮はこのようなさまで、外からの救援もない。社稷に殉じるのは朕の役目である。しかし、将士がこの苛酷な状況をこうむっていることを思うと、城はまだ陥落していないが死を羞じた行動(投降)を実行すると〔将士らに〕知らせたいし、民衆を虐殺の苦しみから逃れさせたい。行こう。書簡を送れ。朕の腹は決まった」。
 十一月乙未、侍中の宋敞をつかわし、文書を劉曜へ届けさせた。愍帝は羊車に乗り、肉袒(肌ぬぎ)して璧を口にくわえ、棺を携えて城から出て、降った。群臣は号泣して車にしがみつき、愍帝の手を取った。愍帝も悲しみに堪えられなかった。御史中丞の吉朗は自殺した。劉曜は棺を焼き、璧を受け取り、宋敞に愍帝を奉じさせて〔長安の〕宮殿に帰らせた。以前、このような童謡があった、「天子がどうして豆の田んぼの中にいるの」。その当時、王浚は幽州にいたが、豆には藿13豆の葉。食料となる豆の若葉。(『漢辞海』)があることから、隠士の霍原を殺してこれに対処した。愍帝が劉曜の軍営に行くと、その軍営はじつに、長安城の東の豆田壁におかれていたのであった。辛丑、愍帝は〔連行されて〕平陽でほこりをかぶり、麹允、および群官が付き従った。劉聡は愍帝に光禄大夫、懐安侯を授けた。壬寅、劉聡が光極殿に臨御すると、愍帝はその前で稽首(ひざを曲げて頭を地面につける礼)した。麹允は地に伏せて慟哭し、自殺してしまった。尚書の梁允、侍中の梁濬、散騎常侍の厳敦、尚書左丞の臧振、黄門侍郎の任播、張偉、杜曼、諸郡の太守はみな劉曜に殺され、華輯は南山へ逃げた。石勒が楽平を包囲したので、司空の劉琨は軍を派遣して救援させたが、石勒に敗れ、楽平太守の韓拠は敗走した。司空長史の李弘が并州をもってそむき、石勒に降った。
 十二月乙卯朔、日蝕があった。己未、劉琨が薊へ逃げ、段匹磾に頼った。

 建興五年春正月、愍帝は平陽にいた。庚子、虹が空一面にかかり、三つの太陽がそろって照った。平東将軍の宋哲が江南へ逃げた。李雄が将の李恭と羅寅に巴東を侵略させた。
 二月、劉聡が将の劉暢に滎陽を攻めさせたが、滎陽太守の李矩がこれを撃破した。
 三月、琅邪王睿が承制して改元し、建康で晋王を称した。
 夏五月丙子、日蝕があった。
 秋七月、甚大な旱魃があり、司州、冀州、青州、雍州で蝗害があった。〔蝗同様に〕石勒も競って百姓の稲を奪っていたので、世の人々は石勒を「胡蝗」と呼んだ。
 八月、劉聡は趙固に、衛将軍の華薈を定潁で襲撃させ、とうとう華薈を殺させた。
 冬十月丙子、日蝕があった。劉聡が狩猟に出たが、愍帝を行車騎将軍とし、軍服を着させ、戟を持たせて先導役とした。百姓は集まってこの様子を見たが、すすり泣いて涙を流す故老がいた。劉聡はそれを知ると苦々しく思った。劉聡はのち、宴会のさいに愍帝に酒をつがせて回らせ、杯を洗わせた。〔劉聡が休憩部屋に〕戻って着替え〔て休息す〕るとき14原文「反而更衣」。自信はない。『資治通鑑』は「已而更衣」に作る。ここでは「更衣」を「着替えのための休憩部屋」と取ったが、あるいは「便所」を指すかもしれない。、今度は愍帝にかさを持たせた。戻らせると〔劉聡の〕着替えを手伝わせ、また愍帝にかさを持たせた。(2022/1/27:修正)晋の朝臣で在席していた者は、多くが声を失って泣き、尚書郎の辛賓は愍帝を抱きかかえて慟哭し、〔そのために〕劉聡に殺された。
 十二月戊戌、愍帝は弑され、平陽で崩じた。享年十八。愍帝が帝位を継いだのは、ちょうど永嘉の乱で天下が瓦解していたときであり、長安城中の戸数は百にも満たず、家屋は倒壊し、よもぎやいばらが林のように茂っていた。朝廷には車馬や衣冠がなく、桑の板に役所の名前を記しておくだけであった15原文「唯桑版署号而已」。自信なし。。軍隊は一旅のみで、公私とも車は四乗だけ、武器は多くが不足し、食料輸送は持続しなかった。巨大な悪人が天下にはびこり、帝都が危急になっても、諸侯には地位を棄ててまで助けようとする志がなく16原文「諸侯無釈位之志」。『左伝』昭公二十六年に「諸侯釈位以間王政」とあり、杜預の注に「間、猶与也。去其位、与治王之政事」とある。、征鎮には勤王の行動が欠けていた。したがって、君臣とも窮地におちいり、殺害と恥辱をこうむってしまったのである。

 史臣曰く、(以下略)

懐帝愍帝

(2020/2/22:公開)
(2021/9/18:改訂)

  • 1
    『文選』巻四九、干令升「晋紀総論」の李善注に引く「干宝晋懐紀」は「業」に作る。また『資治通鑑考異』によれば、『三十国春秋』と『晋春秋』は「子業」あるいは「子鄴」に作っているという。司馬光は「業」が正しいと判断し、すべて「業」で叙述を進めている。
  • 2
    閻鼎伝によれば、閻鼎は天水の人で、関西で名をあげたかったからそっちに向かう計画を立てたのだけど、それ以外のメンバーはみな関東人であまり気乗りしなかったそうである。それで荀藩らも全員逃げ出したのだと。
  • 3
    原文「挙哀」。『漢語大詞典』によると「大声で号泣し、哀悼することを言う(指高声号哭以哀悼)」。『晋書』には用例が多く、専門用語気味だが、『漢語大詞典』に従って訳出した。類語に「発哀」がある。渡辺信一郎氏[一九九六]は「挙哀」と「発哀」を「哀悼儀礼」と訳している(六九頁)。
  • 4
    陽九と百六は災難、厄運の意味。『漢語大詞典』は、数術家と道家の説を紹介している。陽九は陽数の窮みで、百六は陰数の窮みとかそういう感じ。
  • 5
    辞書的には、深いところにある宮殿とか墳墓を意味するらしいが、ここでは、死没した(幽)皇帝(宮)のこと、すなわち懐帝を指すのであろう。
  • 6
    原文「斉聖」。『毛詩』小雅、小宛に「人之斉聖」とあり、毛伝に「斉、正」とあり、鄭箋に「中正通知之人」とある。
  • 7
    原文「克復中興」。自信がない。『晋書』における「克復」の用例をみると、「回復する」「取り戻す」という意で使われているため、このように訳出した。「克復中原」ならばわかりやすいのだが。
  • 8
    原文「協斉威勢」。自信はない。
  • 9
    『建康実録』巻五、中宗元皇帝、永嘉六年の条に「春二月壬子、瑯琊王馳檄四方、徴兵以討石勒、師次寿陽、勒退河北」とある。
  • 10
    原文「今為已至何許、当須来旨、便乗輿自出、会除中原也」。よく読めない。
  • 11
    正確な意はわからない。『漢語大詞典』は「帝室の倉庫(王室的倉庫)」とするが、おおむねその意で当たっているだろう。
  • 12
    蒸した米・麦・豆などに、こうじ菌を繁殖させたもの。(『漢辞海』)
  • 13
    豆の葉。食料となる豆の若葉。(『漢辞海』)
  • 14
    原文「反而更衣」。自信はない。『資治通鑑』は「已而更衣」に作る。ここでは「更衣」を「着替えのための休憩部屋」と取ったが、あるいは「便所」を指すかもしれない。
  • 15
    原文「唯桑版署号而已」。自信なし。
  • 16
    原文「諸侯無釈位之志」。『左伝』昭公二十六年に「諸侯釈位以間王政」とあり、杜預の注に「間、猶与也。去其位、与治王之政事」とある。
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