凡例
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- 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。
序・羊琇/王恂(附:王虔・王愷)・楊文宗・羊玄之/虞豫(附:虞胤)・庾琛・杜乂・褚裒・何準(附:何澄)・王濛(附:王脩)・王遐・王蘊(附:王爽)・褚爽
王恂(附:王虔・王愷)
王恂は字を良夫といい、文明皇后の弟である。父の王粛は魏の蘭陵侯であった。王恂は文才をそなえ、学識博通であり、朝廷においては忠誠を保持した。昇進を重ねて河南尹に移り、二学(太学と国子学)を建立し、五経を崇重した。或るとき、鬲令の袁毅が駿馬を贈与してきたが、王恂は受け取らなかった。〔その後、袁毅がさまざまな高官に贈賄していたことが発覚し、〕袁毅が失脚すると、賄賂を受け取っていた者たちはみな貶退させられたのであった。
魏氏は公卿以下に租牛や客戸を給付しており、その数は〔位に応じて〕おのおの差等が設けられていた。のち、小人は労役を嫌って、多くが好んで客戸になり、貴勢の家〔の客戸〕はともすれば数百にものぼった。また太原の各管轄区域でも、匈奴の胡人を田客となし、多いところでは〔田客が〕数千あった。武帝が即位すると、詔を下し、客を募ることを禁じた。王恂はその禁止を明示して厳格に適用したので、〔河南尹の〕管轄区域であえて〔この禁止に〕違反しようとする者はいなかった。咸寧四年に卒し、車騎将軍を贈られた。王恂の弟は王虔、王愷という。
〔王虔〕
王虔は字を恭祖という。功績と才能によって評価を受け、昇進を重ねて衛尉に移り、安寿亭侯に封じられ、〔ついで〕平東将軍、仮節、監青州諸軍事に任じられた。中央に召されて光録勲となり、列曹尚書に転じ、卒した。子の王士文があとを継ぎ、右衛将軍を経て、南中郎将に移り、許昌に出鎮したが、劉聡に殺された。
〔王愷〕
王愷は字を君夫という。若くして能力があり、清顕(エリートコース)の官位を歴任した。細かな礼法は修めていなかったとはいえ、公職を担うにふさわしいとの名声があった。楊駿を討った功績により、山都県公に封じられ、食邑は一八〇〇戸とされた。龍驤将軍に移り、領驍騎将軍となり、散騎常侍を加えられた。まもなく、事件で罪に問われ、免官された。〔その後、〕起家して射声校尉となり、しばらく経って後将軍に転じた。王愷は代々の外戚だったうえ、豪奢な気質であり、〔例えば〕赤石脂(しゃくせきし)1漢方薬の名称。赤色の陶土。五石散の原料としても用いられるらしい。止血や止瀉に効能があるというが、壁に塗り込むとどういう効果があるのかはわからない。服用薬を塗装に使ったという意味で贅沢だという話か。を壁に塗り込んだ。石崇と王愷が鴆毒の取引を行おうとすると2荊州刺史に赴任していた石崇が鴆(伝説上の毒鳥)のヒナを入手したので、これを王愷へ贈ろうとしたこと。鴆は長江を越えて持ち出すことが禁じられていたのだという。巻三三、石苞伝附石崇伝を参照。、司隷校尉の傅祗が彼らを弾劾した。有司はみな、まさしく重罪に当たると論決したが、詔が下り、特別に二人を赦した。このことにより、人々は誰もが王愷を怖がるようになったので3おそらく、罪を犯しても皇帝の意で特別に赦免された一件で、王愷と関わると皇帝の意向次第で何が起きるかわからないので、関わりを避けるようになった、という意味ではないかと思われる。、〔王愷は〕ずうずうしく思うままにふるまうようになり、望んだ物事に気兼ねすることはなくなった。卒すると、醜の諡号をおくられた。
楊文宗
楊文宗4『太平御覧』巻一三八、武元楊皇后に引く「晋書」は名を「炳」と記している。中華書局校勘記(巻三一、后妃伝上)も整理しているように、「文宗」は字で、唐の避諱のために「炳」が避けられ、字で呼称されているのであろう。は武元皇后の父である。その先祖は漢に仕え、四世にわたって三公であった(弘農楊氏のこと)。楊文宗は魏の通事郎となり、封蓩亭侯を継いだ。早世したが、皇后の父であることをもって、車騎将軍を追贈され、穆の諡号をおくられた。
羊玄之
羊玄之は恵皇后の父であり、尚書右僕射の羊瑾の子である。羊玄之は、最初は尚書郎となったが、皇后の父であったことから、光禄大夫、特進、散騎常侍に任じられ、さらに興晋侯に封じられた。尚書右僕射に移り、侍中を加えられ、爵を公に進められた。成都王穎が長沙王乂を討とうとしたとき、羊玄之の討伐を名分に掲げたので5なぜ彼が標的にされたのかはよくわからない。『資治通鑑』巻八五、太安二年八月には河間王顒と成都王穎の連名上表が引かれているが、「乂論功不平、与右僕射羊玄之、左将軍皇甫商専擅朝政、殺害忠良(胡三省注:謂殺李含等)、請誅玄之・商、遣乂還国」とあり、朝政を独占していると批判されている。おそらく彼が外戚であったことも重なり、朝政の事実上のトップにいたことが問題視されたのではないだろうか。、とうとう憂慮のあまり卒してしまった。車騎将軍、開府儀同三司を追贈された。
序・羊琇/王恂(附:王虔・王愷)・楊文宗・羊玄之/虞豫(附:虞胤)・庾琛・杜乂・褚裒・何準(附:何澄)・王濛(附:王脩)・王遐・王蘊(附:王爽)・褚爽
(2025/3/2:公開)