巻四十一 列伝第十一 劉寔(1)

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魏舒・李憙/劉寔(1)劉寔(2、附:劉智)・高光

 劉寔は字を子真といい、平原の高唐の人である。漢の済北恵王・劉寿の子孫で、父の劉広は斥丘令であった。劉寔は若くして貧困に陥り、牛衣1牛を寒さから守るための、麻くずなどで作ったかけ布。(『漢辞海』)『漢辞海』によれば貧乏を象徴するモノでもあるという。を売って生計を立てた。しかし学問を好み、手で縄をなえながら、口で書物を読みあげ、〔こうして学問を積んで〕古今に博通するようになった。みずからの身を清くし、行動には瑕疵がなかった。郡は孝廉に挙げ、州は秀才に挙げたが、どちらにも応じなかった。〔のちに郡に出仕し、上計のとき、〕上計吏として洛陽に入ると、〔そのまま抜擢を受けて〕河南尹の丞に転じ、尚書郎、廷尉正に移った。その後、吏部郎を経て2余談的だが、選考が遅いという理由で吏部郎を免官されたのだという。『北堂書鈔』巻六〇、尚書吏部郎「坐稽遅免」に引く「臧栄緒晋書」に「劉実、字子真。為吏部郎、坐稽遅選、免官」とある。文帝の参相国軍事(相国府の参軍事)となり、循陽子に封じられた。
 鍾会と鄧艾が蜀の征伐に向かうと、ある客が劉寔に「二将は蜀を平定できるでしょうか」と訊ねた。劉寔は「蜀を撃破できるのは間違いありませんが、二人とも帰ってこれないでしょう」と言った。客がその理由を訊くと、〔劉寔は〕笑って答えなかったが3干宝『晋紀』だと「政治の道は譲ることにかかっているからですよ(治道在於克譲)」と答えたとされ、このような考え方が「崇譲論」へつながったとしている。『太平御覧』巻四二四、譲下に引く「干宝晋紀」に「鍾会・鄧艾将伐蜀、与劉寔別。客謂寔曰、『二将当破蜀不』。寔曰、『必破蜀、但皆不還』。客問其故、寔曰、『治道在於克譲』。因著崇譲論、曰、『季世不能譲賢、虚謝見用之恩、莫肯譲於勝己』」とある。、はたしてその言葉のとおりになった。劉寔の先見の明るさはすべてこのような類いであった。
 世は進趣(積極的に前に出ること)が盛んで、無欲謙遜の道が損なわれているため、〔劉寔は〕「崇譲論」を著述し、この風俗を正そうとした4『文選』巻四九に収録される干宝「晋紀総論」に「子真著崇譲而莫之省」とあり、その李善注に引く「干宝晋紀」に「時礼譲未興、賢者壅滞、少府劉寔著崇譲論」とある。本伝によれば劉寔が少府に就いたのは晋の泰始はじめのことである。。その辞に言う5以下、いささか意訳気味に訳出した。「崇譲論」は『群書治要』巻二九、晋書上、劉寔伝、『通典』巻一六、雑議論上、『芸文類聚』巻二一、譲、『太平御覧』巻四二四、譲下、『資治通鑑』巻八二、太康十年にも断片的に引用されており、適宜参照した。

 いにしえの聖王が天下を治めるにあたり6原文「古之聖王之化天下」。ここの「化」は「治める」の意で取った。「崇譲論」は「化」字を「教化する」の意味ではなく「治める」の意で多用しているふしがあり、たとえば後文に「無為而者其舜也歟」という一節があるが、この文は『論語』衛霊公篇を出典としていて、もとは「無為而者其舜也与」となっている。以下でも文脈に応じて「治める」の意で訳出した。譲ることを重んじたのは、賢才を世に出し、競争をなくそうと欲したからであった。そもそも人間の情欲というのは、自分より優秀な人材を望まないものである。だからこそ、〔いにしえの聖王は〕賢才に譲ることによってみずからの賢明さを証明するように奨励したのだ。〔そうすれば〕いいかげんにも愚鈍な人物に譲るなどということがどうしてありえようか。したがって、譲道が興れば、賢能(賢才有能の意)の人材は求めずして自然と世に出てくるし、至公の推挙はおのずと確立するし、百官の予備軍もあらかじめそろうのである。ひとつの官職が欠員になれば、群官からもっとも多く譲られた人材を抜擢してその官職に登用する。〔これが〕才能を見極める道である7原文は「審之道也」。『芸文類聚』と『太平御覧』は「審才之道也」に作る。このほうが良いため、「審才之道」で読んだ。。在朝の士が上でたがいに譲りあえば、草廬の人8草いおりに住んでいるひと。つまり在野で出仕せずにいるひと。はみなこれに感化され、賢才を推挙して有能に譲る風潮がこれを機に生じるであろう。〔このような風潮が広まれば才能も見極めやすくなり、〕一国じゅうから譲られた人物は一国の士であり、天下じゅうから推薦された人物は天下の士である。〔このように〕推譲(別人を推挙して譲ること)の風潮がゆきわたれば、賢明と愚鈍とがハッキリ分かたれるのだ。この道(譲道?)が広まれば、上に立つ者(君主のこと)には〔人材評価で〕注意を働かせる問題がなくなり、前もって立っている清議(人物批評)に依拠し、それに従うだけで済むだろう。〔譲道の興隆によってこのような治世が実現されるため、〕このゆえにこう言われるのである。「広大なものだ、堯の君主としてのありかたは。〔人民は〕このさまを言い表わしようがない」と9原文「蕩蕩乎堯之為君、莫之能名」。『論語』泰伯篇に「子曰、『大哉、堯之為君也。巍巍乎、唯天為大、唯堯則之。蕩蕩乎、民無能名焉。巍巍乎、其有成功也。煥乎、其有文章』」とあるのにもとづくか。『孟子』滕文公章句上にもほぼ同文が見える。『論語集解』に「包曰、『蕩蕩、広遠之称。言其布徳広遠、民無能識其名焉』」とある。。これの意味するところは、天下が自然と安らぎ、〔人民は〕堯が世を治めるやり方を目にしていないので、言い表わしようがない、ということだ。また、こうも言われている。「堯や舜は天下を治めながらも、みずからは政事に手をつけなかった10原文「舜禹之有天下而不与焉」。『論語』泰伯篇に「子曰、『巍巍乎、舜禹之有天下也。而不与焉』」とある。『論語集解』に「美舜禹也。言已不与求天下而得之。巍巍、高大之称」とあり、『漢書』巻九九、王莽伝上の顔師古注に「巍巍、高貌也。言舜禹之治天下、委任賢臣以成其功、而不身親其事也。与、読曰豫」とある。。無為にして世を治めた者は舜であろうか11原文「無為而化者其舜也歟」。『論語』衛霊公篇に「子曰、『無為而治者其舜也与。夫何為哉。恭己正南面而已矣』」とある。」と。〔これの意味するところは以下のはこびである。〕賢人たちが朝廷でたがいに譲りあえば、大器の人材はつねに高官におるようになり、小人たちが在野で競争しなければ、天下は無事な世となるであろう。〔そして〕賢才を用いて無事な世を治めれば、至道が興るであろう。このようにして成功した統治をただ仰ぎ眺めることのほかに、何か手をつける必要があろうか。それゆえ、〔舜は政事にかかずらうことなく〕「南風」のうたを歌い、五弦の琴を演奏できたのである12原文「故可以歌南風之詩、弾五弦之琴」。『礼記』楽記篇に「昔者舜作五弦之琴、以歌南風。夔始制樂、以賞諸侯」とある。また『史記』巻二四、楽書にもほぼ同文が見え、『史記集解』によれば鄭玄は「南風」を「長養之風、言父母之長養己也」とし、王粛は「育養民之詩也」とする。さらに『史記正義』は「南風是孝子之詩也。南風養万物、而孝子歌之、言得父母生長、如万物得南風也。舜有孝行、故以五弦之琴歌南風詩、以教理天下之孝也」と言っている。このように「南風」を歌うことの象徴的意味には諸説あるが、本文の場合にかんしてはこれらのいずれでもなく、〈無為の政治〉を意味しているのではないかと思われる。たとえば『三国志』呉書七、歩隲伝に「故舜命九賢、則無所用心、弾五弦之琴、詠南風之詩、不下堂廟而天下治也」とあり、舜が賢臣に政事を委任し、無為にして世を治めたという文脈中でこの故事が引用されている。この歩隲伝の例に従い、本伝も舜の無為を象徴する故事として引用されているものと解釈した。。このような成功はほかでもなく、崇譲(譲ることを尊ぶ)の致したところなのだ。孔子は言った。「礼譲によって国を治めることができれば、困難なことは何も起こらないであろう」と13原文「能以礼譲為国、則不難也」。『論語』里仁篇に「子曰、『能以礼譲為国乎、何有』」とあり、『論語集解』に「『何有』者言不難」とある。
 在朝の人々が譲りあうことに努めなくなって久しい。天下はこの風潮に感化されてしまった。魏以来、徴召した士を登用したり、在職中の吏を昇進させたりすると、〔彼らは〕叙任を授けられるにあたって、辞退をみずから申し出はするものの、それを貫き通すことはできず、自分よりも優れた人物に譲ろうとする者は誰もいない。いったい、推譲の風潮が止んでしまえば、競争の心が生じるものだ。孔子は「上が譲ることを興せば、下々は競争しない」と言っており、譲ることが興らなければ、下々が必ず競争してしまうのは明白なのである14原文「孔子曰、上興譲則下不争、明譲不興下必争也」。孔子の言葉は『孝経』三才章「先之以敬譲、而民不争」が出典か。かりにそうでなかったとしても、孔子の言葉は「上興譲則下不争」までであり、以下の「明譲不興下必争也」は孔子の言葉についての劉寔の解釈であろう。その読み方で訳出した。。推譲の道が興れば、賢能の人材は日々推挙を受けるが、競争の心が生じてしまえば、賢能の人材は日々誹謗を受けるだろう。そもそも、競争にいそしむ人間は自分が先んじて挙げられることを欲するので、有能な人間が先んじることをひどく妬み、誹謗せずにはいられないのである。したがって、孔子や墨子は世の誹謗から免れることができなかったのだ。まして、孔子や墨子に及ばぬ人間ならばなおさらである。議者は口をそろえて次のように言う。「世には前評判の高い逸材が少ないし、朝廷には高官に任用すべき大器の人材がいないのだ」と。山沢の民や地位の低い官吏もこう言う。「朝廷の士人のなかには、高官に就いている名徳(名声と徳を兼備するひと)もいるけれど、みな過去の偉人には及ばない」と。私の考えでは、これら二つの言葉はどちらも誤りである。昨今の時勢はたんに賢才が乏しいにすぎない、というのではない。昨今の時勢は譲ることを重んじないから15原文は「非時独乏賢也。時不貴譲……」。一見すると「非独(徒)A、亦(又/復)B」(Aだけではなく、Bもまたそうである)の構文のようだが、そうすると「そもそも世に賢才が少ない」とする議者らの意見を肯定することになってしまい(「世に賢才が少ないだけではなく、譲ることも重んじていない」という文になってしまう)、論旨がかみあわない。くわえて「也」字が付いていることからして、ここは「非時独乏賢也」のみで文意が完結していると考えるべきだろう。つまり訳文に取ってみたように、この場合の「非独A」は「単純にA、というわけではない」という意味で用いられているものと思われる。構文の場合は「非」は「独/徒」にかかり、単数を否定する(「~だけではない」)が、本文のようなケースはAにかかり、「独/徒」はAを強調するはたらきをなし、「Aにすぎない、というわけでない(Bである)」という意味になるのであろう。「崇譲論」には以下でも「非独(徒)A」がしばしば見えているが、おおむねこの意味で使用されている。、或るひとが抜きん出た評判を博せば、誹謗が必ず彼につきまとい、名声を築くことができないので、この秀才を埋もれさせてしまうのである16原文「使之然也」。「之」を前文で例挙されている名声あるひと、「然」をそもそもここの議論の発端となっている、世には賢才が乏しいという状況を指すとして解釈を試みた。。たとえ稷や契が生き返ったとしても、やはり名声を無傷に保つことはまったく不可能であろう。〔推譲の風潮が廃れたことで、〕能否が混交し、優劣が区別されず、士に前評判が立たなくなっているので17原文は「士無素定之価」。どういう文脈でこのような話が出てくるのか把握しかねるが、〈名声を博しても誹謗中傷が必ず飛んできてその名声を傷つけてしまう〉という前文のくだりを指しているのだろうか。、官職に欠員が生じたさい、選挙担当の官吏は任用する人材がわからず、もっぱら官次18原文まま。中村圭爾氏[二〇一三]によれば、「崇譲論」の言う「官次」とは「人事進退の方式」のことである。その方式というのは「あらかじめきめられた階段にそって、平板で自動的な官人生活をあゆむことであり、西晋末東晋初にはすでに官人の能力・功績にかかわらず、いつのまにか顕達しうるような人事進退の方式が成立しているのである」(一三五頁)。このような人事運用にかかせないのが、「資」である。「資」とは進退を自動で決定するための基準・資格のひとつであり、「最大の基準」(一四三頁)である。この資格は特定の官の経歴によって累積してゆき、これが所定まで満ちれば、昇進コース内における次の序列へ進むことができるという(一四五―一四六頁)。劉寔がここで批判的に言及している「官次」による人事選考というのは、人材の能力・適正・功績といった要素は捨象し、欠員となった官職に就任可能な「資」を満たしているか否かのみを基準として、人材を選別する方法を言うのであろう。
 いささか卑近な例になるが(そして訳者自身が正確に理解できていない可能性もあるのだが)、「官次」と「資」による人事運用とは次のようなものであろう。ある組織に新しくひとが入ってきたさい、事前の選考材料に依って将来のおおまかな人事方針が定められる。たとえばAは将来の取締役候補、Bは部署の管理職、といった具合に。そしておのおのの人事コースは、一定の進み方が組織内で因習的に形成されている。Aは平階級のまま組織内のすべての部署を転々と異動し、それが済んだらある部署の次階級へ昇進、Bは平階級のままある部署内のあらゆる業務を順々に担当し、それが済んだらその部署の次階級へ昇進、というふうにである。ここで因習的に形成されているコースが「官次」、次階級へ昇進するために必要な経歴が「資」に相当するはずである。
を調べて後任を挙げるのみとなっている。〔そうしてリストアップされた〕才能が同程度の人材たちのうち、先に任用される者というのは、勢家の子でないならば、必ず権勢者が依怙贔屓している人間である19原文「同才之人先用者、非勢家之子、則必為有勢者之所念也」。前文では人事運用が機械的になってしまうことを述べていたが、ここでは一転、任用に手心が加えられることが言われており、やや唐突の感が否めないが、誤って混入した文というわけでもないようである。それゆえ、前文と接続するように解釈せねばならない。とくに問題なのが、「同才之人」とは何を指すのか、である。そもそもここの論述で前提に置かれているのは、能否が混交して不明になってしまっているという状況なのに、どういう経緯で「同才」が出てくるのであろうか、誰と「同才」だというのだろうか。思うに、劉寔が理想とする選挙は「異才」の人材を見分けて抜擢する方法のはずである。ここから推してみると、「同才」というのは「異才」の対極の言葉として、ややネガティブな意味で用いられているのではないだろうか。そうだとすれば、「同才」とはさしずめ、〈似たり寄ったりの人々〉といったところであろうか。そして前文と接続して考えれば、そのような人々は「官次」を案じて選出された人材を指すのであろう。前注に記したように、「官次」を案じた人事運用とは才能・適性・功績などを度外視し、人事コースの経歴に沿って機械的に昇進させる方式を言う。そうした観点からリストアップされた後任候補者は、似たり寄ったりの無難な人材たちになるのではないか。こうして候補に挙がった「同才之人」をさらに「先用」のために選別せねばならないとき、権力者との関係性が選考材料に入るのだと言いたいのであろう。とりあえずこの解釈で訳文を作成してみた。。〔こうした人間は〕ただひたすら才能が優れている、というわけではなく、先に任用されるような資20原文「先用之資」。「官次」の注で記したように、中村圭爾氏[二〇一三]によれば、「資」とは「官次」の機械的人事方式において進退を自動で決定するための基準・資格のひとつであり、特定の官の経歴によって累積してゆき、これが所定まで満ちれば昇進コース内における次の序列へ進むことができるとされる(一四五―一四六頁)。中村氏は「崇譲論」のここの「資」も同様の意味で解釈されているようである(一四二―一四三頁)。しかし、ここの「先用之資」の「資」はそのような意味ではなさそうに思われる。機械的に選出された人材群をさらに選り分けるために権力者との関係性が考慮されると言い、そして権力者との関係性のことを「先用之資」と表現しているのだから、ここの「資」は官歴によって獲得できる資格とは別のもののはずである。どちらかと言えば「世資」とか「門資」とかいう場合の「資」、すなわち「その家柄によって自然に本人についてまわる資格のことで、……言わば先天的な資格である」([宮崎一九九七]四二三頁)の例に近いように思われる。ただ権勢者から気に入られていることもこのような意味での「資」に含まれるとは考えにくく、どうにも判然としない。かといって、ここの「資」は「選考材料全般」という意味だとも考えがたい。本文の論旨に従えば、功労や才性とは別の基準が選考材料に用いられていて、その選考材料が「資」(後文では「資次」)ということになるのだから、特定の選考材料を指す用語と考えるのが自然であろう。まとまりがつかないが、ともかく「資」とは何らかの選考材料のことであり、個人の能力や実績とは別の基準のことだと考えられる。を頼みとすることで、〔才能が優れた人材と〕同様にとどまることなく昇進しつづける。とどまることなく昇進しつづけるから、〔能力が〕官職に堪えられないという弊害が生じるのだ。在官中の人々を観察してみると、成績によい評判が立っていないのは、勢家の子でなければ、大概が資次21原文まま。前文の「資」とおそらく同じ意味。詳しくは前の「先用之資」の注を参照。を頼みに昇進した者たちである。
 もし天下じゅうの人々が譲ることを重んじたならば、士は必ず譲ることを受けてからから名声を築き、名声を築いてから〔朝廷は〕官職に任用できるようになるだろう。およそ、名声と品行が立っていない者や、官職に就いていても成績を上げていない者に譲る人間は、そのゆえに決して官職に任用してはならないのである。〔にもかかわらず、このような連中が〕任用されてやまないのは、譲道が廃れ、資を頼りにひとを任用するという過ちを犯しつづけて久しいからだ。〔この人事運用の弊害が大きいので、〕かくゆえに漢魏以来、折々に大規模な推挙を開催し、群官に命じておのおのに知っている人材を推挙させ、才能だけを基準に任用し22原文「唯才所任」。直訳すれば「任用する人物(所任)」は「才能だけ(唯才)」という意味。、階次23原文まま。中村圭爾氏[二〇一三]によれば「官次」と同じ意味(一三五頁)。個人的には、この箇所はたんに「身分」程度の意味だと思うが……。を限定しなかったのである。このような推挙はひじょうに多く実行されていた24原文「如此者甚数矣」。「如此」を「このようにして推挙された人材」と取ることもでき、文脈的にもそのように取ったほうがよさそうに思えるのだが、文章の構造としてそのように読むのは苦しいように思われたので訳文のように取った。。〔ところが、人事選考を改めれば問題がすっかり解決するわけではない。〕推挙した人材が必ず適当であった人物がいたにもかかわらず、〔そのひとが〕その当時に抜擢を受けたと聞かないのは、〔その当時の朝廷は〕誰がもっとも賢明なのかをわかっていなかったからである。〔この逆に〕推挙した人材が必ず不適当であった人物がいたにもかかわらず、〔そのひとに〕罪が加えられていないのは、〔その当時の朝廷は〕誰がもっとも不肖なのかをわかっていなかったからである。〔賢明か不肖かが〕知りえなかったのは、当時の人々が誰も〔たがいに譲って〕推薦しあおうとせず、〔推譲の風潮が広まらないので〕賢愚のレッテルが分かたれていなかったからである。賢愚が不分明で知りえないというこのような事態にせしめてしまうと25原文「令其如此」。前文に「使之然也」、後文に「令其爾也」と類似した文言があり、それらは締めの言葉(「このような結果にしてしまった/させてしまった」)として用いられている。ただ、この箇所を前文(「所以不可得知、由当時之人莫肯相推、賢愚之名不別」)を締める言葉として読もうとすると、どうにもつながりがよくないように感じる。そこで後ろの文につなげ、因果の条件文として意味を取ってみた。、推挙者は主上が人材を見分けられないのを知っているので、あえていいかげんに人材を推薦する。〔そうではなく、まじめになって〕優秀と思う人材を推挙する者もいるだろうが、〔いいかげんな人々が推薦した〕依怙贔屓している人材といっしょに集まって来るため、〔全体の〕人数があまりに多く、〔しかも〕めいめいが推挙した人材のことを優秀だと言い、さらに才能を高評価する推薦書類26原文「高状」。九品官人法下では、中正が個人を評価するさい、徳の評価が「品」(郷品)、才能の評価が「状」で、それぞれ表現されたという([中村圭爾二〇一三]一三八頁)。本文は中正の推薦について論じているわけではないので、原文の「状」をこの意味での「状」と同一視することはできないが、言わんとするところはほぼ同じではなかろうか。つまり、自分が推挙した人物の能力を褒め称える推薦書類のことを「高状」と言っているのではないだろうか。この意味で訳出してみた。を付け加えるため、〔全員が〕似たり寄ったりになってしまい、弁別しがたくなってしまう。〔人材が〕混雑して入り乱れ、本物と偽物がひとつらなりになること、如上の理由によりいよいよひどくなるのだ。推挙者が忠誠を尽くせていないことに罪があるとはいえ、主上による耳目の道の開放がむやみであることも一因して、このような混雑状態にさせてしまうのである27原文「雖挙者不能尽忠之罪、亦由上開聴察之路濫、令其爾也」。字の並びどおりに訳そうとするとぎこちなくなるので意訳した(それでもぎこちないのだが……)。。むかし、斉王は竽(う)28管楽器の一種。(『漢辞海』)笛の一種らしい。の鑑賞を好み、必ず三百人で合奏させて鑑賞し、〔楽人には一人につき、通常の官吏の〕数人分の俸禄を給付していた。南郭先生は竽の吹き方を知らなかったが、三百人が合奏していれば、吹き方を知らない者が混じっても平気だろうと考え、そこで王のために竽を演奏したいと願い出て、数人分の俸禄をただ働きで取得していた。後継ぎの王はこのことに気づき、制度を改めようと思ったが、先王の過失を白日のもとにさらすことにためらいがあった。そこで令を下してこう言った。「私は先王よりもずっと竽の音(ね)を愛好しているから、一人ずつ並ばせて演奏を聴きたい」。南郭先生はかくして逃げ去ったのであった29この話の出典は不詳。『韓非子』内儲説上篇に同じあらすじの説話が収録されているが、「崇譲論」のほうが細部に詳しく、『韓非子』が資料源とも思いにくい。。賢才を推挙する風潮が立たず、むやみに推挙する法が改正されなければ、南郭先生のような連中が朝廷に満ちることになろう。才能が高大にして道を守る士は日々世から退き、権勢者の門に馳せ参じる連中は日々増えてゆく。国家に典刑30普遍的な法のこと。常刑、常法ともいう。があったとしても、防ぐことは不可能であろう。
 いったい、譲道が興らない弊害とは、賢人が下位に留まってしまって適宜に昇進を得られないということだけではなく、国家の忠良の臣や重職を荷う者が、しだいに罪をこうむって退けられてゆくということでもある。なぜこうなるとわかるのか。孔子は、顔氏の子(顔回)は過ちを繰り返さないと評したが31原文「孔子以為顔氏之子不弐過耳」。『論語』雍也篇に「哀公問弟子孰為好学。孔子対曰、『有顔回者好学。不遷怒、不弐過。不幸短命死矣。今也則亡。未聞好学者也』」とある。、聖人でなければ誰もが過ちを犯すのは明白である。栄寵高貴の地位を望む者は多いが、そのいっぽう、賢能を妬む者たちは賢能の出世ルートをふさいでしまおうとするので、賢能が過失を犯したらそれを誹謗する者も多い32原文「悪賢能者塞其路、其過而毀之者亦多矣」。読みにくいが、訳文のようなニュアンスであろうと解釈した。。そもそも誹謗が起こるときというのは、たんに捏造されたものにすぎないのではなく、必ずひとのささいな過失につけこんでそれを誇張させたものである。讒言がしばしば奏聞されると、主上がそれを聴き入れたくないと思っても、奏聞された内容を信頼しないわけにもいかず33原文「不能不杖所聞」。「杖」は「頼りにする」の意味か。こういう訳の取り方でよいのか自信はもてない。、〔誹謗の〕上奏が届いたのを機に34原文「因事之来」。解釈にあまり自信はない。、秘密裏に調べさせ、いつまでも調べさせつづければ、誹謗を裏づける証拠に達するであろう35原文「而微察之也、無以其験至矣」。『通典』は「而微察之、察之無已、其験至矣」に作る。できれば原文を尊重したいのだが、原文だといまいち意味がわからず、そのいっぽうで『通典』だと文意が通ってしまうので、『通典』に従って読むことにした。。証拠を得た以上、その罪を処罰しないでいられようか36原文「安得不理其罪」。ここの「理」は「罪を裁く」などの意味で読んだ。。〔ささいな過失であろうと、〕もし知っていながらそれを放置してしまえば、これをきっかけにして王者としての威厳は日々退潮し、教令は行きわたらなくなってしまうだろう。〔かといって、〕知ったらすべて処罰していくと、罪をこうむって退けられる者がしだいに増加し、大臣たちは自分の身を守れないのではないかという心を抱くだろう。そもそも、賢才が用いられず、重臣が日々遠ざけられてゆくというのは、国家を治める者にとって深く憂慮すべき事態である。『詩』に「爵禄を授かって譲らなければ、破滅に至るであろう」(『毛詩』小雅、角弓)とあるが、譲ることをしない人間は破滅を憂慮して余念もないのに、それでいて彼らが国朝に利益をもたらすことを願うのは、あまりに無理な話ではないだろうか。
 愚考するところでは、このような風俗を正すのはひじょうに容易である。どうしてそのことがわかるのか。そもそも当代で官職に就いている人々は、凡才も混じっているだろうけれども、賢才も数多いのである。賢才に譲ることの重要性を誰も理解していない、などとどうして言えるだろうか。たんに昨今の時勢はみなが譲ることをせず、それに慣れて習慣化してしまったため、ついに〔譲ることを〕しなくなったにすぎない。人臣は叙任された当初に、みな上表して奏聞するが、これを「謝章」と呼んでいる。これの由来は久しい。謝章というしきたりのもともとの意味を探ってみると、〔自分の代わりに〕賢能を推薦して国恩に報いようとするためのものである37「謝」字には「礼を述べる」という意味と「辞退する」という意味がある。「謝章」(謝の章表)にはこの二つの意味が重ねられていると論じているのであろう。。むかし、舜は禹を司空にしようとすると、禹は拝礼して額ずき、稷、契、それから咎繇に譲った。益を虞官に就けさせようとすると、〔益は〕朱虎と熊羆に譲った。伯夷に三礼を司らせようとすると、〔伯夷は〕夔と龍に譲った。堯や舜の時代、群官は叙任された当初に、誰もが〔自分よりも優秀なひとに〕譲ったのである。謝章の意義はおそらくここから取られたのであろう。『尚書』がこのやり取りを記述しているのは、永代にわたる規範をつくろうとしたからなのだ。〔ところが〕末世において任用した人物は、賢ならざる才なのに賢なる人材に譲ることができず、任用された恩を形式的に感謝するのみである38つまり「謝章」がもともと有していた「辞退する」という意味は失われて、ただ感謝するという意味だけが残った形式的な慣例になっている、ということであろう。。〔このような本来的な意味を失った謝章を〕代々受け継いで改めることがなかったのは、習俗におけるあやまちである。そもそも〔主上から〕叙任された官人というのは、章表(奏上文一般)を〔主上へ〕通すことが許されている者たちであるが、〔こと謝章に限っては、〕賢能を推譲した場合ならば〔その謝章を主上へ〕通し、譲る人材を挙げられずに簡紙(簡策と紙)をムダ使いしている場合ならばすべて拒絶して通さないこととすれば、人臣は叙任された当初に、おのおの賢能を推挙してその人材に譲ることを思案するようになるだろう39「そもそも叙任された官人というのは……」からここまでの原文は「夫叙用之官、得通章表者、其譲賢推能乃通、其不能有所譲徒費簡紙者、皆絶不通、人臣初除、各思推賢能而譲之矣」。ぜんぜんうまく読めない。やっつけ気味に訳してみた。『資治通鑑』は「欲令初除官通謝章者、必推賢譲能、乃得通之」とまとめている。。〔人臣が他人に〕譲ったときの文書は主者(担当官)に送付して管理させておき40原文「譲之文付主者掌之」。意味がよく取れない。中華書局は前文(「各思推賢能而譲之矣」)と読点(コンマ)で区切って読んでいるが、この文が前文と意味上のつながりがあるとはやや考えにくいようにも思う。そこで逆に後ろのほうにつながる文として読んでみた。「譲之文」は謝章のことを指すのかもしれないが、そのように特定してよいのか自信がもてないので直訳した。、三司(司徒、司空、太尉の三公)に欠員が出れば、〔担当官が管理しておいた三司就任時の謝章を調べて?〕三司がもっとも多く譲っていた人物を抜擢して〔後任に〕任用する。このやり方は、公ひとつが欠けても三公はすでにあらかじめ選考されている、というものだ。くわえて選挙担当の官吏は、必ずしも公の職責を荷えるとはかぎらない者を三公に選考してしまうため41原文「不必任公而選三公」。よくわからない。訳文のように解釈してみたが、この解釈が妥当だとすれば、「以不必任公者選三公」だとか「主選之吏所選不必任公」だとか、もっとわかりやすい書き方がいくらでもあるなかでこのような字足らずの表現を取った意図ははかりかねる。、三公みずからに公ひとりを選考させることの公平さには及ばない。四征将軍に欠員が出れば、四征将軍がもっとも多く譲っていた人物を抜擢して〔後任に〕任用する。このやり方は、征ひとつが欠けても四征はすでにあらかじめ選考されている、というものだ。欠員をしばらく放置して主者に四征を選考させるよりも、必ず公平である。尚書八座に欠員が出れば、尚書八座がもっとも多く譲っていた人物を抜擢して〔後任に〕任用する。このやり方は、八尚書が共同で尚書ひとりを選考するというものであり、欠員に際して主者に八尚書を選考させるよりも公平である。郡守に欠員が出れば、数多の郡守がもっとも多く譲っていた人物を抜擢して〔後任に〕任用する。主者に任せて百郡の太守を選考させるよりも公平である。
 そもそも、群官や百郡の太守の退譲〔にもとづく選考〕を主者の選考と比較してみたところで、〔両者を〕同列に論じることはできない。たとえ三府42原文まま。三公を指すが、ここでは広く中央の官府全体を指すか。を官の選挙に関与させたとしても、本来は選挙業務を委ねられていないのだから、おのおのが〔選挙に〕心を込めることなど不可能であろう。〔ところで、〕人材選考で注意を働かせる問題とは、人材の判断がブレないようにすることである。〔これを避けるために、〕ただひたすら主者に官次を調べさせて選挙させるだけだと、〔上記の注意事項がクリアされているように思えるが、実際には〕注意を働かせていないのである。〔この問題は次のように解消される。〕賢者も愚者もみなが〔競争をやめて〕譲りあえば、百姓の耳目がまるごと国家の耳目となる〔、これにそのまま従って人材を判定すれば注意を要する問題はなくなるであろう〕43原文「其所用心者、裁之不二三、但令主者案官次而挙之、不用精也、賢愚皆譲、百姓耳目尽為国耳目」。意味不明。「用心」は直訳すると「心を働かせる」。文脈に応じて「注意する/集中する/心配する」などの意味で取れる熟語である。「二三」は二転三転の意味で解釈した。後半の「賢愚皆譲、百姓耳目尽為国耳目」は前後の文との接続が不明瞭で、やや奇異な文章だが、後文に「人人無所用其心、任衆人之議、而天下自化矣」とあるうちの「任衆人之議」に対応しているものと考えられるため、誤って混入した文章というわけでもなさそうである。これを考慮して大幅に文意を補って解釈を試みた。なお「崇譲論」には前文で「此道行、在上者無所用其心、因成清議、随之而已」、後文で「人人無所用其心、任衆人之議、而天下自化矣」とあり、「無所用(其)心(心配する物事が何もない)」というあり方が理想的な無為統治の姿として言及されている。いっぽう古典での用例を探ってみると、『論語』陽貨篇に「子曰、『飽食終日、無所用心、難矣哉。不有博奕者乎。為之猶賢乎已』」とあり、『孟子』滕文公章句上に「堯舜之治天下、豈無所用其心哉、亦不用於耕耳」とあるが、これらはいずれも「無所用(其)心」というさまを否定的に取りあげている。「無所用(其)心」という語をめぐって正反対の評価になっているのは個人的に興味深いところである。。いったい人間の情欲というのは、競おうと欲すれば自分の敵わない人間44原文は「己所不知」。『群書治要』と『資治通鑑』は「知」を「如」に作る。文意を鑑みると「如」が妥当なので、改めて読んだ。を中傷しようとするし、譲ろうと欲すれば自分より優秀な人間を争って推薦するものだ。したがって、世の人々がこぞって競えば、毀誉褒貶が飛び交い、優劣が分かたれず、譲ることが困難になる。世の人々がこぞって譲れば、賢才が頭角を現わし、能否はハッキリと序列づけられ、入り乱れることはありえない。この譲ることを重んじる時代に当たれば、身を退いて己れを修めることができている人物に譲る者が多数にのぼるだろう。貧賤に留まろうとしても、叶わぬ望みである。あちこちかけずり回り、積極的に前に出て〔アピールし〕、それでいて他人から譲られようと願うのは、あとずさりしながら前に進もうとするようなものである。そもそもこのような時勢であれば、愚者も智者もみなが次のことを理解するだろう。登用されたり栄達を求めたりするには、退いて修めることを身につける以外に手だてがない、と。外界をふらつき回って〔就職を〕求める者は、ここにおいて続々と家へ帰っていくだろう。偽りの名声や中身のない言論は、禁止せずとも自然に止んでいくだろう。人々には〔人材評価をめぐって〕注意を働かせる問題がなくなり、大衆の議論に任せるだけで、天下はおのずと治まるだろう。不言の教化がゆきわたり、高大な美事がこれにおいてあらわになるだろう。譲ることはこのような事態を致すことができるのだ。譲ることに努めずにいられるだろうか。
 『春秋伝』にこのようにある。「范宣子が譲ったので、下位の者たちみなが譲った。欒黶は傲慢だったとはいえ、〔この流れに〕あえて逆らおうとしなかった。晋国はかくして太平となり、数世代のあいだ、この恩恵にあずかったのである」(『左伝』襄公十三年)。上世において、よく治まっているときには、君子は才能を重視して下位者に譲り、小人は農業に努めて上に仕え、上下に礼がゆきわたり、邪悪な人間は遠ざけられ、こうして競争は起きなかったのである。その秩序が乱れてしまうと、国家が崩壊してしまうのは、いつも必ずこの礼の乱れに起因するからである。篤論45原文まま。手厚く堅実な議論のこと。ここではこの「崇譲論」を指す。の明白さは以上のとおりである。在朝の君子や選挙をつかさどる大官は、ひとをもって言葉を退けずに、この議論を実行し、各自が賢才に譲って有能を推挙することを先務(まっさきになすべき務め)に位置づけられれば、数多の秀才がおびただしく現われ、能否が分かたれよう。世をおおうほどの功績であり、これより大きな功は存在しないのだ。

(次のページへ続く)

魏舒・李憙/劉寔(1)劉寔(2、附:劉智)・高光

(2023/8/20:公開)

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    牛を寒さから守るための、麻くずなどで作ったかけ布。(『漢辞海』)『漢辞海』によれば貧乏を象徴するモノでもあるという。
  • 2
    余談的だが、選考が遅いという理由で吏部郎を免官されたのだという。『北堂書鈔』巻六〇、尚書吏部郎「坐稽遅免」に引く「臧栄緒晋書」に「劉実、字子真。為吏部郎、坐稽遅選、免官」とある。
  • 3
    干宝『晋紀』だと「政治の道は譲ることにかかっているからですよ(治道在於克譲)」と答えたとされ、このような考え方が「崇譲論」へつながったとしている。『太平御覧』巻四二四、譲下に引く「干宝晋紀」に「鍾会・鄧艾将伐蜀、与劉寔別。客謂寔曰、『二将当破蜀不』。寔曰、『必破蜀、但皆不還』。客問其故、寔曰、『治道在於克譲』。因著崇譲論、曰、『季世不能譲賢、虚謝見用之恩、莫肯譲於勝己』」とある。
  • 4
    『文選』巻四九に収録される干宝「晋紀総論」に「子真著崇譲而莫之省」とあり、その李善注に引く「干宝晋紀」に「時礼譲未興、賢者壅滞、少府劉寔著崇譲論」とある。本伝によれば劉寔が少府に就いたのは晋の泰始はじめのことである。
  • 5
    以下、いささか意訳気味に訳出した。「崇譲論」は『群書治要』巻二九、晋書上、劉寔伝、『通典』巻一六、雑議論上、『芸文類聚』巻二一、譲、『太平御覧』巻四二四、譲下、『資治通鑑』巻八二、太康十年にも断片的に引用されており、適宜参照した。
  • 6
    原文「古之聖王之化天下」。ここの「化」は「治める」の意で取った。「崇譲論」は「化」字を「教化する」の意味ではなく「治める」の意で多用しているふしがあり、たとえば後文に「無為而者其舜也歟」という一節があるが、この文は『論語』衛霊公篇を出典としていて、もとは「無為而者其舜也与」となっている。以下でも文脈に応じて「治める」の意で訳出した。
  • 7
    原文は「審之道也」。『芸文類聚』と『太平御覧』は「審才之道也」に作る。このほうが良いため、「審才之道」で読んだ。
  • 8
    草いおりに住んでいるひと。つまり在野で出仕せずにいるひと。
  • 9
    原文「蕩蕩乎堯之為君、莫之能名」。『論語』泰伯篇に「子曰、『大哉、堯之為君也。巍巍乎、唯天為大、唯堯則之。蕩蕩乎、民無能名焉。巍巍乎、其有成功也。煥乎、其有文章』」とあるのにもとづくか。『孟子』滕文公章句上にもほぼ同文が見える。『論語集解』に「包曰、『蕩蕩、広遠之称。言其布徳広遠、民無能識其名焉』」とある。
  • 10
    原文「舜禹之有天下而不与焉」。『論語』泰伯篇に「子曰、『巍巍乎、舜禹之有天下也。而不与焉』」とある。『論語集解』に「美舜禹也。言已不与求天下而得之。巍巍、高大之称」とあり、『漢書』巻九九、王莽伝上の顔師古注に「巍巍、高貌也。言舜禹之治天下、委任賢臣以成其功、而不身親其事也。与、読曰豫」とある。
  • 11
    原文「無為而化者其舜也歟」。『論語』衛霊公篇に「子曰、『無為而治者其舜也与。夫何為哉。恭己正南面而已矣』」とある。
  • 12
    原文「故可以歌南風之詩、弾五弦之琴」。『礼記』楽記篇に「昔者舜作五弦之琴、以歌南風。夔始制樂、以賞諸侯」とある。また『史記』巻二四、楽書にもほぼ同文が見え、『史記集解』によれば鄭玄は「南風」を「長養之風、言父母之長養己也」とし、王粛は「育養民之詩也」とする。さらに『史記正義』は「南風是孝子之詩也。南風養万物、而孝子歌之、言得父母生長、如万物得南風也。舜有孝行、故以五弦之琴歌南風詩、以教理天下之孝也」と言っている。このように「南風」を歌うことの象徴的意味には諸説あるが、本文の場合にかんしてはこれらのいずれでもなく、〈無為の政治〉を意味しているのではないかと思われる。たとえば『三国志』呉書七、歩隲伝に「故舜命九賢、則無所用心、弾五弦之琴、詠南風之詩、不下堂廟而天下治也」とあり、舜が賢臣に政事を委任し、無為にして世を治めたという文脈中でこの故事が引用されている。この歩隲伝の例に従い、本伝も舜の無為を象徴する故事として引用されているものと解釈した。
  • 13
    原文「能以礼譲為国、則不難也」。『論語』里仁篇に「子曰、『能以礼譲為国乎、何有』」とあり、『論語集解』に「『何有』者言不難」とある。
  • 14
    原文「孔子曰、上興譲則下不争、明譲不興下必争也」。孔子の言葉は『孝経』三才章「先之以敬譲、而民不争」が出典か。かりにそうでなかったとしても、孔子の言葉は「上興譲則下不争」までであり、以下の「明譲不興下必争也」は孔子の言葉についての劉寔の解釈であろう。その読み方で訳出した。
  • 15
    原文は「非時独乏賢也。時不貴譲……」。一見すると「非独(徒)A、亦(又/復)B」(Aだけではなく、Bもまたそうである)の構文のようだが、そうすると「そもそも世に賢才が少ない」とする議者らの意見を肯定することになってしまい(「世に賢才が少ないだけではなく、譲ることも重んじていない」という文になってしまう)、論旨がかみあわない。くわえて「也」字が付いていることからして、ここは「非時独乏賢也」のみで文意が完結していると考えるべきだろう。つまり訳文に取ってみたように、この場合の「非独A」は「単純にA、というわけではない」という意味で用いられているものと思われる。構文の場合は「非」は「独/徒」にかかり、単数を否定する(「~だけではない」)が、本文のようなケースはAにかかり、「独/徒」はAを強調するはたらきをなし、「Aにすぎない、というわけでない(Bである)」という意味になるのであろう。「崇譲論」には以下でも「非独(徒)A」がしばしば見えているが、おおむねこの意味で使用されている。
  • 16
    原文「使之然也」。「之」を前文で例挙されている名声あるひと、「然」をそもそもここの議論の発端となっている、世には賢才が乏しいという状況を指すとして解釈を試みた。
  • 17
    原文は「士無素定之価」。どういう文脈でこのような話が出てくるのか把握しかねるが、〈名声を博しても誹謗中傷が必ず飛んできてその名声を傷つけてしまう〉という前文のくだりを指しているのだろうか。
  • 18
    原文まま。中村圭爾氏[二〇一三]によれば、「崇譲論」の言う「官次」とは「人事進退の方式」のことである。その方式というのは「あらかじめきめられた階段にそって、平板で自動的な官人生活をあゆむことであり、西晋末東晋初にはすでに官人の能力・功績にかかわらず、いつのまにか顕達しうるような人事進退の方式が成立しているのである」(一三五頁)。このような人事運用にかかせないのが、「資」である。「資」とは進退を自動で決定するための基準・資格のひとつであり、「最大の基準」(一四三頁)である。この資格は特定の官の経歴によって累積してゆき、これが所定まで満ちれば、昇進コース内における次の序列へ進むことができるという(一四五―一四六頁)。劉寔がここで批判的に言及している「官次」による人事選考というのは、人材の能力・適正・功績といった要素は捨象し、欠員となった官職に就任可能な「資」を満たしているか否かのみを基準として、人材を選別する方法を言うのであろう。
     いささか卑近な例になるが(そして訳者自身が正確に理解できていない可能性もあるのだが)、「官次」と「資」による人事運用とは次のようなものであろう。ある組織に新しくひとが入ってきたさい、事前の選考材料に依って将来のおおまかな人事方針が定められる。たとえばAは将来の取締役候補、Bは部署の管理職、といった具合に。そしておのおのの人事コースは、一定の進み方が組織内で因習的に形成されている。Aは平階級のまま組織内のすべての部署を転々と異動し、それが済んだらある部署の次階級へ昇進、Bは平階級のままある部署内のあらゆる業務を順々に担当し、それが済んだらその部署の次階級へ昇進、というふうにである。ここで因習的に形成されているコースが「官次」、次階級へ昇進するために必要な経歴が「資」に相当するはずである。
  • 19
    原文「同才之人先用者、非勢家之子、則必為有勢者之所念也」。前文では人事運用が機械的になってしまうことを述べていたが、ここでは一転、任用に手心が加えられることが言われており、やや唐突の感が否めないが、誤って混入した文というわけでもないようである。それゆえ、前文と接続するように解釈せねばならない。とくに問題なのが、「同才之人」とは何を指すのか、である。そもそもここの論述で前提に置かれているのは、能否が混交して不明になってしまっているという状況なのに、どういう経緯で「同才」が出てくるのであろうか、誰と「同才」だというのだろうか。思うに、劉寔が理想とする選挙は「異才」の人材を見分けて抜擢する方法のはずである。ここから推してみると、「同才」というのは「異才」の対極の言葉として、ややネガティブな意味で用いられているのではないだろうか。そうだとすれば、「同才」とはさしずめ、〈似たり寄ったりの人々〉といったところであろうか。そして前文と接続して考えれば、そのような人々は「官次」を案じて選出された人材を指すのであろう。前注に記したように、「官次」を案じた人事運用とは才能・適性・功績などを度外視し、人事コースの経歴に沿って機械的に昇進させる方式を言う。そうした観点からリストアップされた後任候補者は、似たり寄ったりの無難な人材たちになるのではないか。こうして候補に挙がった「同才之人」をさらに「先用」のために選別せねばならないとき、権力者との関係性が選考材料に入るのだと言いたいのであろう。とりあえずこの解釈で訳文を作成してみた。
  • 20
    原文「先用之資」。「官次」の注で記したように、中村圭爾氏[二〇一三]によれば、「資」とは「官次」の機械的人事方式において進退を自動で決定するための基準・資格のひとつであり、特定の官の経歴によって累積してゆき、これが所定まで満ちれば昇進コース内における次の序列へ進むことができるとされる(一四五―一四六頁)。中村氏は「崇譲論」のここの「資」も同様の意味で解釈されているようである(一四二―一四三頁)。しかし、ここの「先用之資」の「資」はそのような意味ではなさそうに思われる。機械的に選出された人材群をさらに選り分けるために権力者との関係性が考慮されると言い、そして権力者との関係性のことを「先用之資」と表現しているのだから、ここの「資」は官歴によって獲得できる資格とは別のもののはずである。どちらかと言えば「世資」とか「門資」とかいう場合の「資」、すなわち「その家柄によって自然に本人についてまわる資格のことで、……言わば先天的な資格である」([宮崎一九九七]四二三頁)の例に近いように思われる。ただ権勢者から気に入られていることもこのような意味での「資」に含まれるとは考えにくく、どうにも判然としない。かといって、ここの「資」は「選考材料全般」という意味だとも考えがたい。本文の論旨に従えば、功労や才性とは別の基準が選考材料に用いられていて、その選考材料が「資」(後文では「資次」)ということになるのだから、特定の選考材料を指す用語と考えるのが自然であろう。まとまりがつかないが、ともかく「資」とは何らかの選考材料のことであり、個人の能力や実績とは別の基準のことだと考えられる。
  • 21
    原文まま。前文の「資」とおそらく同じ意味。詳しくは前の「先用之資」の注を参照。
  • 22
    原文「唯才所任」。直訳すれば「任用する人物(所任)」は「才能だけ(唯才)」という意味。
  • 23
    原文まま。中村圭爾氏[二〇一三]によれば「官次」と同じ意味(一三五頁)。個人的には、この箇所はたんに「身分」程度の意味だと思うが……。
  • 24
    原文「如此者甚数矣」。「如此」を「このようにして推挙された人材」と取ることもでき、文脈的にもそのように取ったほうがよさそうに思えるのだが、文章の構造としてそのように読むのは苦しいように思われたので訳文のように取った。
  • 25
    原文「令其如此」。前文に「使之然也」、後文に「令其爾也」と類似した文言があり、それらは締めの言葉(「このような結果にしてしまった/させてしまった」)として用いられている。ただ、この箇所を前文(「所以不可得知、由当時之人莫肯相推、賢愚之名不別」)を締める言葉として読もうとすると、どうにもつながりがよくないように感じる。そこで後ろの文につなげ、因果の条件文として意味を取ってみた。
  • 26
    原文「高状」。九品官人法下では、中正が個人を評価するさい、徳の評価が「品」(郷品)、才能の評価が「状」で、それぞれ表現されたという([中村圭爾二〇一三]一三八頁)。本文は中正の推薦について論じているわけではないので、原文の「状」をこの意味での「状」と同一視することはできないが、言わんとするところはほぼ同じではなかろうか。つまり、自分が推挙した人物の能力を褒め称える推薦書類のことを「高状」と言っているのではないだろうか。この意味で訳出してみた。
  • 27
    原文「雖挙者不能尽忠之罪、亦由上開聴察之路濫、令其爾也」。字の並びどおりに訳そうとするとぎこちなくなるので意訳した(それでもぎこちないのだが……)。
  • 28
    管楽器の一種。(『漢辞海』)笛の一種らしい。
  • 29
    この話の出典は不詳。『韓非子』内儲説上篇に同じあらすじの説話が収録されているが、「崇譲論」のほうが細部に詳しく、『韓非子』が資料源とも思いにくい。
  • 30
    普遍的な法のこと。常刑、常法ともいう。
  • 31
    原文「孔子以為顔氏之子不弐過耳」。『論語』雍也篇に「哀公問弟子孰為好学。孔子対曰、『有顔回者好学。不遷怒、不弐過。不幸短命死矣。今也則亡。未聞好学者也』」とある。
  • 32
    原文「悪賢能者塞其路、其過而毀之者亦多矣」。読みにくいが、訳文のようなニュアンスであろうと解釈した。
  • 33
    原文「不能不杖所聞」。「杖」は「頼りにする」の意味か。こういう訳の取り方でよいのか自信はもてない。
  • 34
    原文「因事之来」。解釈にあまり自信はない。
  • 35
    原文「而微察之也、無以其験至矣」。『通典』は「而微察之、察之無已、其験至矣」に作る。できれば原文を尊重したいのだが、原文だといまいち意味がわからず、そのいっぽうで『通典』だと文意が通ってしまうので、『通典』に従って読むことにした。
  • 36
    原文「安得不理其罪」。ここの「理」は「罪を裁く」などの意味で読んだ。
  • 37
    「謝」字には「礼を述べる」という意味と「辞退する」という意味がある。「謝章」(謝の章表)にはこの二つの意味が重ねられていると論じているのであろう。
  • 38
    つまり「謝章」がもともと有していた「辞退する」という意味は失われて、ただ感謝するという意味だけが残った形式的な慣例になっている、ということであろう。
  • 39
    「そもそも叙任された官人というのは……」からここまでの原文は「夫叙用之官、得通章表者、其譲賢推能乃通、其不能有所譲徒費簡紙者、皆絶不通、人臣初除、各思推賢能而譲之矣」。ぜんぜんうまく読めない。やっつけ気味に訳してみた。『資治通鑑』は「欲令初除官通謝章者、必推賢譲能、乃得通之」とまとめている。
  • 40
    原文「譲之文付主者掌之」。意味がよく取れない。中華書局は前文(「各思推賢能而譲之矣」)と読点(コンマ)で区切って読んでいるが、この文が前文と意味上のつながりがあるとはやや考えにくいようにも思う。そこで逆に後ろのほうにつながる文として読んでみた。「譲之文」は謝章のことを指すのかもしれないが、そのように特定してよいのか自信がもてないので直訳した。
  • 41
    原文「不必任公而選三公」。よくわからない。訳文のように解釈してみたが、この解釈が妥当だとすれば、「以不必任公者選三公」だとか「主選之吏所選不必任公」だとか、もっとわかりやすい書き方がいくらでもあるなかでこのような字足らずの表現を取った意図ははかりかねる。
  • 42
    原文まま。三公を指すが、ここでは広く中央の官府全体を指すか。
  • 43
    原文「其所用心者、裁之不二三、但令主者案官次而挙之、不用精也、賢愚皆譲、百姓耳目尽為国耳目」。意味不明。「用心」は直訳すると「心を働かせる」。文脈に応じて「注意する/集中する/心配する」などの意味で取れる熟語である。「二三」は二転三転の意味で解釈した。後半の「賢愚皆譲、百姓耳目尽為国耳目」は前後の文との接続が不明瞭で、やや奇異な文章だが、後文に「人人無所用其心、任衆人之議、而天下自化矣」とあるうちの「任衆人之議」に対応しているものと考えられるため、誤って混入した文章というわけでもなさそうである。これを考慮して大幅に文意を補って解釈を試みた。なお「崇譲論」には前文で「此道行、在上者無所用其心、因成清議、随之而已」、後文で「人人無所用其心、任衆人之議、而天下自化矣」とあり、「無所用(其)心(心配する物事が何もない)」というあり方が理想的な無為統治の姿として言及されている。いっぽう古典での用例を探ってみると、『論語』陽貨篇に「子曰、『飽食終日、無所用心、難矣哉。不有博奕者乎。為之猶賢乎已』」とあり、『孟子』滕文公章句上に「堯舜之治天下、豈無所用其心哉、亦不用於耕耳」とあるが、これらはいずれも「無所用(其)心」というさまを否定的に取りあげている。「無所用(其)心」という語をめぐって正反対の評価になっているのは個人的に興味深いところである。
  • 44
    原文は「己所不知」。『群書治要』と『資治通鑑』は「知」を「如」に作る。文意を鑑みると「如」が妥当なので、改めて読んだ。
  • 45
    原文まま。手厚く堅実な議論のこと。ここではこの「崇譲論」を指す。
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