凡例
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魏舒・李憙/劉寔(1)/劉寔(2、附:劉智)・高光
劉寔(前ページからの続き)
泰始のはじめ、伯に昇格され、昇進を重ねて少府に移った。咸寧年間、太常となり、列曹尚書に転じた。杜預が伐呉を起こすと、劉寔は本官を帯びたまま行鎮南軍司となった。
これ以前、劉寔の妻の盧氏が子の劉躋を生んで卒してしまうと、華氏が娘を嫁がせたいと求めてきた。劉寔の弟の劉智は諫めて、「華家の一族は貪欲ですから、必ず門戸を破滅させてしまいましょう」と言ったので、〔劉寔は〕この縁談を断ったものの、断りきれず、ついに華氏を娶り、子の劉夏を生んだのであった。〔このときになって、〕劉寔はとうとう劉夏の収賄に連座することとなり、免官されてしまった。しばらくすると大司農となったが、またも劉夏の罪を理由に免官された。
劉寔が郷里に帰るたび、郷人らは酒と肉を用意して劉寔を迎えた。劉寔は彼らの気持ちに逆らうわけにもいかず、いつも〔贈与された酒肉を〕いっしょに飲食し、余った分は彼らに返していた。或るひとが劉寔に言った、「君の品行は現代で飛びぬけて優れているのに、お子さまたちは〔君のふるまいを〕お手本にできていません。なぜしじゅう教育を施し1原文「旦夕切磋」。ここの「切磋」は「磨きあげる」の意。つまり「教育する」ということであろう。、まちがいに気づいてみずから改めるように矯正しないのでしょうか」。劉寔、「私の所作は見聞し〔て習得し〕たことであって、師に就いて学んだことではないのです。〔子どもたちも〕同様に、教育によって習得できることでしょうか」。世の人々は劉寔の言葉を妥当だと評した。
のちに起家して国子祭酒、散騎常侍となった。愍懐太子がはじめて広陵王に封じられると、王の師や友を精選することになり、かくして劉寔を師とした。元康のはじめ、侯に昇格され、昇進を重ねて太子太保に移り、侍中、特進、右光禄大夫、開府儀同三司を加えられ、領冀州都督となった。元康九年、司空を冊授され、太保に移り、太傅に転じた。
太安のはじめ、劉寔が高齢と病気を理由に官を辞すと2巻四、恵帝紀によると、太安年間ののちの永興元年三月に太傅の劉寔を太尉としたという。本伝後文にも、懐帝が即位すると劉寔は太尉を「復」(ふたたび)授けられたとある。『晋書校文』(『晋書斠注』所引)はそれゆえ、本文の「太安」は「永興」の誤りだと指摘している。、安車駟馬、銭百万を下賜し、侯の位をもって私宅に帰らせた。長沙王乂と成都王穎が交戦すると、劉寔は軍人に拉致されてしまった。こっそり〔逃げ出して?〕郷里に帰った。
恵帝が崩御すると、劉寔は〔郷里から出てきて恵帝の〕山陵へ駆けつけた。懐帝が即位すると、ふたたび太尉を授けられた3巻五、懐帝紀によると永嘉元年十二月のこと。本伝では省かれているが、恵帝紀によると劉寔はこれ以前の永興元年に太尉を授かっている。本文で「復」(ふたたび)太尉を授けられたと言っているのはこのような事情に由るものと思われる。。劉寔は高齢を理由に固辞したが、承認されなかった。尚書左丞の劉坦が上言して言った、「いったい、堂(大広間)が高ければ階段は長くなり、君主が尊貴であれば宰相は高貴となります。このゆえ、いにしえの哲王は誰もが元臣(筆頭の老臣)を師と仰ぎ、養老(老人をいたわる)の教えを重んじ、〔こうしたふるまいを〕四海に教示して、年少者と年長者のあいだに礼をゆきわたらせたのでした。七十歳で引退というのも4原文「七十致仕」。『白虎通疏証』致仕篇に「臣年七十、懸車致仕者、臣以執事趨走為職、七十陽道極、耳目不聡明、跂踦之属、是以退老去、避賢者路、所以長廉遠恥也」とある。、年配の有徳者を優遇し、高潔の風流を奨励するためです。太尉の劉寔は清廉質朴の節操を具え、不動の高潔を保ち、〔先帝の御世中に〕高齢を理由に官を退きましたが5原文は「懸車告老」。「懸車」は「車を吊るす」の意味で、転じて致仕の比喩。車を吊るすという動作の意義について、『白虎通疏証』致仕篇には「懸車、示不用也」とあり、もう車を使わないことを示すものだという。『漢語大詞典』も同様の説明をしている。いっぽうで『漢辞海』は「漢の薛広徳が年老いて退官した際、天子から安車(=老人用の車)を賜り、その車を高い所にかけつるして、子孫にその光栄を伝えた故事から」と説いている。どちらが適当なのかわからないので、訳文は引退で訳出した。、〔七十を過ぎてから〕二十余年を経ても6後文でも説明されるが、このときの劉寔は九十歳に達していた。つまり恵帝時代に引退した時点ですでに定年の七十を超え、八十代だったのである。、浩然の志は老いていよいよ厚くなっています。国の碩老(徳が高い老人)、邦の宗模(模範となる人物)と言えましょう。臣が聞くところでは、『老人の場合は体力を要する動作を礼儀としない』(『礼記』曲礼篇上)ということですが、劉寔は齢(よわい)九十を超え、命は日制の状態にありますのに7原文「命在日制」。「日制」は『礼記』王制篇「六十歳制、七十時制、八十月制、九十日脩」に見えるところの「日脩」を指す。「正義」によると『礼記』のこの一文は、六十歳になったら葬儀の道具を生前に作って用意しておくことを意味する。「歳制」は一年で用意できる物(=棺)、「時制」は一季で用意できる物(=衣服の入手しがたい物)、「月制」はひと月で用意できる物(=衣服の入手しやすい物)で、「日脩」はすべて用意できたので日々修理しておく、という意味らしく、つまり明日にでも亡くなって不思議ではないほどの命ということであろう。、ついにみずから〔老体を奮い立たせて〕車の助けを借り、危険を冒してまで〔洛陽に〕至り、〔恵帝の〕山陵に参って哀悼を尽くし、宮殿に敬礼を捧げました。〔高齢だというのにこのように〕大臣としての節義が十全に備わっています。聖詔がしきりに下り8原文「聖詔殷勤」。「殷勤」は慇懃の意で取ったほうがよいかもしれないが、ここでは「繰り返し」の意味で取ってみた。、必ず劉寔を上台(三公)の位に就けさせ、鼎に盛られた食物(朝政の比喩)をおおいに調理させようとして、〔劉寔の〕上奏を拒絶し、ねんごろに説諭しておられますが、〔そうしているうちに〕二年が経過しています。しかし劉寔は何度も露板を上呈し〔て固辞し〕、その言葉はまごころにあふれていて偽りがありません。臣が思いますに、いにしえの養老においては、出仕させないことを優遇とし、官に任命することを重視していませんでした。劉寔の願いをお許しなさるべきかと存じます」。
永嘉三年、詔が下った、「むかし、舜は五人の臣9『論語』泰伯篇に「舜有臣五人而天下治」とあり、『論語集解』に「孔曰、禹・稷・契・皐陶・伯益」とある。を官に任命したことで、手をこまねくだけで治まる教化を実現し、漢は蕭何を宰相に就けたことで、太平と統一という栄誉を打ち立てた。それゆえ、隆盛を当時にあまねくゆきわたらせ、繁栄を百世代にわたって伝えることができたのである。朕は天のおおいなる命を継ぎ、万邦に君臨することとなったが、政道を尊重するわけというのも、やはり〔五臣や蕭何のように〕重臣や長官らが力を尽くして補佐し、〔その尽力が朕の〕切実な望みにかなうことによって、現代の隆盛と後世の繁栄が実現されることを期待しているからである。しかし君は高齢で、引退を申し出ており、確固としていて逆らいがたい。いま、君が侯をもって私宅に帰ることを承認し、朝位は三司(司徒、司空、太尉)の上とし、秩禄は旧来の額に準じ10原文「秩禄準旧」。よくわからない。、脇息と杖、不朝(朝見免除)の礼遇、邸宅ひと棟を下賜する。国家の重要な政策にかんしては、君に諮問しようと思う。朕の意向にかなうようにしてくれたまえ」。一年余りして薨じた。享年九十一。元の諡号をおくられた。
劉寔は若くして貧困に陥り、杖をついて徒歩で移動し、休息のために宿泊させてもらうときは、どんな場所であっても主人に面倒をかけず、薪水の事(身の回りの事)はぜんぶ自分でやった。地位と名声が高くなっても、つねに倹約を心がけ、華美に重きを置かなかった。或るときに石崇の家を訪問したが、便所へ行くと、模様のある赤い垂れ幕がかかっていて、敷物はひじょうに壮麗であり、二人の婢女が香嚢11原文まま。消臭用香料が入った袋のことであろう。なお『語林』佚文にもここと同じ逸話が記されているが、『世説新語』汰侈篇、第二章の劉孝標注に引く佚文は「錦香嚢」、『太平御覧』巻一八六、厠に引く佚文は「錦嚢」に作っている。『御覧』に引く『語林』佚文によれば、この袋は「籌」、すなわちお尻を拭くために用意された物でもあったらしい。を持っているのが見えた。劉寔はそそくさと退出し、笑いながら石崇に言った、「間違って卿の寝室に入っちゃった」。石崇が「あの部屋は便所ですよ」と言うと、劉寔は「貧士はあんな便所を使ったことがありません」と言い、そして別の便所へ行った12『世説新語』汰侈篇、第二章の劉孝標注、および『太平御覧』巻一八六、厠に引く「語林」、略同。『御覧』のほうの佚文によれば、劉寔は石崇から「あの部屋は便所です」と言われ、もう一度例の便所に行ったのだが、しばらくしても排便できなかったので退出し、「貧士にはあんな便所は使えない」と石崇に言って別の便所に行ったという。。栄誉のある地位にいたとはいえ、豪邸はもたず、得た俸禄は親族や旧友に恵んでいた。〔当時の社会は〕礼教がじょじょに廃れつつあったが、自分自身の行動を正義で律していた。妻を亡くすと、廬杖の礼制を実践し、喪を終えるまで寝室で夜を過ごさなかった13原文は「喪妻為廬杖之制、終喪不御内」。「内」は家内の寝室。「御内」は婦人と一夜を共にするという意味だと思われる。巻四四、盧欽伝にも「制廬杖、終喪居外」と類例がある。。軽薄な連中はこの行動を嘲笑したが、劉寔は意に介さなかった。若いときから高齢になるまで、学問に励んで倦むことなく、職務に就いているあいだも、書物を手放さなかった。とくに『春秋』の三伝に詳しく、『公羊伝』の誤りを正し、〔たとえば〕衛輒(衛の出公)は祖父の命令を理由に〔父の命令を〕退けるべきではなく(哀公三年)、〔宋の要求を呑んで昭公の代わりに厲公を鄭君に立てた〕祭仲は臣としての節義を失っている(桓公十一年)と考察し、この二人の事例を挙げることで臣や子としてのありかたを明らかにし、とうとう世に広まった。また『春秋條例』二〇巻を編纂した。
〔劉躋、劉夏:劉寔の子〕
劉躋と劉夏の二人の子がおり、劉躋は字を景雲といい、散騎常侍まで昇進した。劉夏は汚職をむさぼったことによって世の人々から見捨てられた。
〔劉智:劉寔の弟〕
弟の劉智は字を子房という。貞節純朴で、兄(劉寔)の風格をそなえていた。若くして貧困に陥り、いつも薪木を背負って自給生活を送り、絶えず書物を音読し、ついには儒行によって名声を得た。中書郎、黄門郎、尚書吏部郎を歴任し14原文「歴中書黄門吏部郎」。訳出してみたように、三つの郎をつづめた言い方だと思われる。二つの郎をつづめた言い方はよく見かけるが、三つのケースは珍しい気がしたので訳注に特記しておいた。、地方に出て潁川太守となった。平原の管輅が或るとき、ひとに向かって言った、「劉潁川兄弟(劉智と劉寔)との議論はひとの思考を冴えわたらせるものだから、夜でも眠気がさしてこない15原文「昏不仮寐」。『漢辞海』には「衣服を着たままで眠る」とあり、これは経典解釈(『毛詩』小雅、小弁の鄭箋)にもとづく義なので誤りではないが、本文の場合はそのような厳密な意味で使われているわけではなく、居眠り・仮眠程度の意味あいであろう。。これ以外の人間〔との議論〕だと、昼間でも眠たくなることがほとんどだ」16『三国志』魏書二九、方技伝、管輅伝の裴松之注に引く管辰の言(『管輅別伝』の叙?)にもこれとほぼ同じ管輅の発言が引用されている。ただしそちらのほうだと、裴冀州(裴徽)、何鄧二尚書(何晏と鄧颺)の名も挙げられている。劉兄弟と管輅は同郷(平原)の関係にあり、裴松之注によると、西晋の閻纉が管輅にかんする記録を集めようとしたさいには劉寔からも証言を得たのだという。裴松之注にはその証言も引用されている。。中央に入って秘書監、領南陽王師となり、散騎常侍を加えられ、侍中、列曹尚書、太常に移った。『喪服釈疑論』を著述し、〔礼で解釈が難解な部分を〕はっきりさせたところが多かった。太康の末年に卒し、成の諡号をおくられた。
高光
高光は字を宣茂といい、陳留の圉城の人で、魏の太尉であった高柔の子である17『三国志』魏書二四、高柔伝の裴松之注に引く「晋諸公賛」によると三男。。高光は若くして家業18原文まま。家に代々伝わる学業・事業のこと。後文に「歴世明法」とあり、法学のことを指す。高柔伝からうかがうと、高柔は法に明るかったようである。を習得し、刑法を熟知した。最初は太子舎人となり、そこから昇進を重ねて尚書郎に移り、地方に出て幽州刺史、潁州太守となった。当時、武帝は黄沙獄という獄牢を設け、詔囚19原文まま。『漢語大詞典』によれば「皇帝の勅命に従って拘禁した囚人(奉皇帝命令拘禁的囚犯)」のこと。を管理させていた。高光は一家代々法に明るかったことから、〔武帝は高光を〕黄沙御史に登用し、礼秩は御史中丞と同等とした。廷尉に移った。
元康年間、列曹尚書に任じられ、三公曹を管轄した。そのころ、趙王倫が帝位を簒奪したが、高光はそうした極限状況において、道を守って貞節を無傷に保った。趙王が死を賜わり、斉王冏が輔政することになると、〔朝廷は〕ふたたび高光を廷尉とした。列曹尚書に移り、奉車都尉を加えられた。のち、恵帝に随従して成都王穎を討ち、功績をあげたので、延陵県公に封じられ、食邑は一八〇〇戸とされた。この当時、朝廷の人々がこぞって高光は法の運用に明るいと推薦したため、しきりに司法官を務めた。恵帝が張方に脅迫されて長安へ行幸させられると、朝臣は逃げ散ってしまい、〔恵帝に〕付き従う者はいなかったが、高光だけは恵帝に侍従して西へ行った。尚書左僕射に移り、散騎常侍を加えられた。
高光の兄の高誕は上官巳らから登用を受け20上官巳は巻五九、成都王穎伝によれば長沙王乂の故将。成都王への親征を首唱した一人のようで(成都王穎伝)、親征時は洛陽に留まり、清河王覃の皇太子復位を画策したが、河間王顒が派遣した張方に敗れ、洛陽から出奔したという(巻六〇、張方伝、巻六一、周浚伝附周馥伝)。その後、恵帝が長安へ連行された時期の上官巳の動静としては、河間王が矯詔を下して羊庶人の賜死を洛陽留台に命じたところ、洛陽の劉暾らが上奏してそれを諫めたが、その上奏文の一節に「今上官巳犯闕称兵、焚焼宮省、百姓諠駭、宜鎮之以静」とあり、詳しいいきさつは不明なものの、洛陽で武装活動をおこなっていたようである。高誕が上官巳らから登用された時期というのは、おそらく上官巳らが洛陽に留まって力を握っていたころではないかと思われる。のちに高光が恵帝に従って河間王のもとに赴くことになったのに対し、高誕は河間王に反目していた一派の一員であった可能性が高いというわけである。、徐州刺史、雍州刺史を歴任していた。高誕は奔放な性格で、節度がなかったうえ、人並み外れた荒々しい気性の持ち主で、高光とは品性を異にしていた。〔高誕は〕いつも「光はつまらない節義にこだわっている」と言い、つねに軽視していたが、高光はますます謹直に高誕に仕えた。
恵帝は洛陽に帰還すると、そのころは太弟(のちの懐帝)が立てられたばかりだったので21巻四、恵帝紀に従うと、永興元年(西暦三〇四年)十二月に豫章王熾(のちの懐帝)が皇太弟に立てられ、光煕元年(三〇六年)六月に恵帝が洛陽に帰還した。、あらためて傅訓(もり役)を選抜し、高光を〔東宮の〕少傅とし、光禄大夫を加え、散騎常侍はもとのとおりとした。懐帝が即位すると、金紫光禄大夫を加えられ、傅祗と並んで尊遇を受けた。まもなく尚書令となり、本官22原文まま。光禄大夫のことか?はもとのとおりとされた。病気で卒し、司空、侍中を追贈された。ちょうど洛陽が転覆したため、とうとう諡号を加えられないままとなってしまった。
〔高韜:高光の子〕
子の高韜は字を子遠という。放逸で、節操がなかった。高光が廷尉であったとき、高韜は賄賂を受け取ったので、有司が奏上してこの件の取り調べを求めたが、〔取り調べを受けた?〕高光は高韜の収賄を関知していなかった。世の人々は、高光が息子を防ぎ止めれなかったことを批判したものの、彼はふだんから注意深かったため、トラブルを起こしたとはみなさなかった。これ以前、高光が〔恵帝に付き従って〕長安の留台へ赴くと、高韜を兼右衛将軍とし、〔宿衛軍の将軍位を得た〕高韜は殿省(宮中)の小人と交流をもつようになった。高光が卒したが、喪中においてもなお往来が絶えなかった。その当時、東海王越は輔政の地位にあったが、朝見していなかった。高韜は人心に〔東海王討滅の?〕期待があるのを察知し、太傅参軍の姜賾や京兆の杜概らと東海王討伐の密謀を立てたが、計画が漏洩してしまい、誅殺された。
魏舒・李憙/劉寔(1)/劉寔(2、附:劉智)・高光
(2023/8/20:公開)