巻三十五 列伝第五 裴秀(2)

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陳騫(附:陳輿)/裴秀/附:裴頠・裴楷・裴憲

〔裴頠:裴秀の子〕

 裴頠は字を逸民という。上品にして見識があり、博学で、過去の事柄を探究し、若くして名を知られていた。御史中丞の周弼は裴頠に会うと、感嘆して言った、「裴頠はまるで武庫のようだ。五種類の武器が自在に繰り出されてくる。当世の傑物だな」。賈充は裴頠の従母夫(母の姉妹の夫)だったので、上表して言った、「〔裴頠の父の〕裴秀には佐命の勲功がございましたが、不幸にも嫡子(裴頠の兄の裴濬)は物故し、その遺児(裴濬の子の裴憬)は幼弱です。裴頠の才知と徳は優秀ですから、封国(鉅鹿国)を繁栄させる後継者にふさわしいでしょう1原文「足以興隆国嗣」。よく読めない。字面から推測して訳出した。」。詔が下り、裴頠に爵(鉅鹿郡公)を継がせることとした。裴頠は強く辞退したものの、〔武帝は〕承認しなかった。太康二年、中央に召して太子中庶子とし、散騎常侍に移った。恵帝が即位すると、国子祭酒に転じ、兼右軍将軍となった。
 これ以前、裴頠の兄の子である裴憬は白衣(無位)だった。裴頠は父祖代々の勲功を述べ〔て寛大な処遇を請う〕たので、〔朝廷は裴憬に〕高陽亭侯の爵を下賜したのであった。楊駿が誅殺される直前、楊駿の徒党である左軍将軍の劉豫が兵士を整列させて〔宮城の〕門で待機していたところ、〔兼右軍将軍の〕裴頠に出くわしたので、太傅(楊駿)の居場所をたずねた。裴頠はウソをついて「ついさきほど、西掖門で素車(白い車)にお乗りの公(楊駿)を見かけましたよ。二人の従者を引き連れて西へ向かわれました」と言った。劉豫、「私はどこへ行ったらよいでしょう」。裴頠、「廷尉へ行かれるのがよろしいでしょう」。劉豫は裴頠の言葉に従い、とうとう〔左軍の兵士を〕委託して去って行った。まもなく裴頠に詔が下り、劉豫に代わって領左軍将軍に任じられ、万春門に駐屯するよう命じられた。楊駿が誅殺されると、功績によって〔子ひとりを〕武昌侯に封じるのに相当するとされたが2原文「以功当封武昌侯」。裴頠は鉅鹿公を継いでいるのにここで武昌侯に封じられるのはおかしいように思われる。後文も勘案すると、裴頠の功績を嘉して息子ひとりに武昌侯を賜うという論功だったのではないだろうか。この解釈で訳語を補った。、裴頠は裴憬を封じてほしいと要望した。恵帝はけっきょく、裴頠の次子の裴該を封じた。裴頠はなおしきりに述べた、「裴憬は本来、後継の嫡子であり、鉅鹿の爵を継ぐべきでした。しかし〔わたしに鉅鹿公を継がせるという〕先帝のご慈悲を賜わることになり、辞退したものの、お許しを得られませんでした。武昌の封爵は私がちょうだいした褒賞ですから、特別に〔裴該ではなく〕裴憬を封じていただけないでしょうか」。ときに、裴該は公主をめとっていたため、恵帝は承諾しなかった。昇進を重ねて侍中に移った。
 このころ、天下はつかのまの安寧を得ていた。裴頠は上奏し、国子学を整備して、石に経典の文章を刻むよう提議した3『北堂書鈔』巻六七、国子祭酒に引く「晋諸公賛」に「裴頠、恵帝時拝為国子祭酒、奏立国子・太学、起講堂、築門闕、刻石以写五経」とある(『芸文類聚』巻三八、学校に引く「晋諸公賛」、略同)。『晋書斠注』はこの佚文を受け、裴頠が国子学整備を上奏したのは国子祭酒時代のこととし、本伝が侍中異動後にこの記事を配しているのは適当ではないと批判している。なお国子学の創立年代にかんしては武帝時代と伝える史料もあり、諸説を整理した福原啓郎氏[二〇一二]は、武帝時代に創立決定・施行され、恵帝時代に学堂の整備が完了した、と解釈している(八八―八九頁)。。皇太子が講義を受けるようになると、釈奠を催して孔子を祀り、饗宴と射撃の儀礼を執り行なったが、たいへん秩序がそなわっていた。また〔上奏し〕、荀藩に父の荀勖の志(楽器の修繕)を完遂させてやり、〔修繕途中の〕鐘や馨(ともに楽器の名)を完成するように〔荀藩に〕命じて、〔その楽器で〕二郊や宗廟での祭祀で演奏する礼楽を整え〔るよう提案し〕た。裴頠は博識で、そのうえ医術にも明るかった。荀勖が度量衡を改定することになったとき、調査して古尺の長さが判明したが、現代に通行している一尺(約二四センチメートル)よりも四分あまり(約一センチメートル)短かった4なお『漢辞海』巻末に附録している歴代度量衡表によると、魏晋の一尺(約二四センチメートル)に比べ、秦および前漢・新の一尺は約二三センチメートルで、約一センチメートル短い。。裴頠は上言した、「もろもろの度量衡を改正するべきです。かりにすべてを改正することは不可能なのでしたら、優先して太医が用いる権衡(はかりとその重り、つまり重量計測の基準)を改正なさるべきでしょう。太医の権衡が誤っているのだとしたら、神農や岐伯が伝える正しい分量を間違って計ってしまっていることになります。薬物の分量に食い違いがあると、〔かえって〕命を損ないかねないものになり、害毒をなすこと、とりわけひどいのです。いにしえは長寿であったのに、現代は短命であるのは、きっと権衡が誤っていることに原因があるのでしょう」。けっきょく採用されなかった。あるとき、楽広は裴頠と清談したが、論理で裴頠を論破しようとしたけれども、裴頠の弁論は多様だったため、楽広は笑って言い返さなかった。世の人々は裴頠のことを言論の森林と評した。
 裴頠は、賈后が愍懐太子に不満を抱いていたことから、上表して愍懐太子の生母である謝淑妃の称号を加増するよう要請し、さらに〔恵帝に〕啓して〔東宮に左右衛率に加えて〕後衛率の吏を増設し、兵三千を〔後衛率に〕配備するよう求め、こうして東宮の宿衛兵(衛率の兵)は一万人になった。列曹尚書に移り、侍中はもとのとおりとされ、光禄大夫を加えられた。ひとつの官職を授けられるたびに、必ず何度も慇懃に辞退し(2023/8/17:修正)、十回あまり上表して、古今の成功と失敗を広く引用して文章をつづったので、これを閲覧した者は誰もが心を寒くした5裴頠の文章は身のほどをわきまえて官職を受けねばならない戒めを克明に述べていた、という意味あいだろうか。
 裴頠は賈后が政治を乱しているのを深く憂慮し、司空の張華、侍中の賈模と協議し、賈后の廃位と謝淑妃の立后について検討した。張華と賈模は言った、「陛下御自身に廃位の意向がないにもかかわらず、われわれが独断でこれを実行してしまえば、陛下は内心で納得されないでしょう。そのうえ、諸王はちょうど強盛ですし、賈氏の徒党は異論をとなえるでしょうから、おそらく弩の引き金を引いたかのように禍が勃発してしまうでしょう。命を落とし、国家が危険に陥るのならば、社稷に利益はありません」。裴頠、「たしかに公らが心配されるとおりです。しかし、〔賈后は〕暗虐な人間で、はばかる物事は何もないのですから、〔このままにしておいたところで〕たちどころに混乱が起こるでしょう。いったいどうなさるおつもりでしょうか」。張華、「〔親族である〕卿らお二人は依然として〔賈后に〕信用されていますから、努めて〔賈后の〕身近な補佐役となり、禍福の訓戒を進言してください6原文「卿二人猶且見信然、勤為左右、陳禍福之戒」。『資治通鑑』巻八三、元康九年に「卿二人於中宮皆親戚、言或見信、宜数為陳禍福之戒」とあるのを参考に解釈した。。〔そうして〕反逆が起こらないことをお祈りしましょう。幸いにも天下はまだ安寧ですから、安泰に一年を終えられるように願いましょう」。賈后廃位のこの謀議はけっきょく沙汰止みになってしまった。裴頠は朝夕に従母の広城君(賈后の母の郭槐)を説得し、愍懐太子に親しく接遇するよう賈后をたしなめてほしいと懇願していた。或るひとが裴頠に説いて言った、「幸いにも〔あなたは〕中宮(賈后)といとこの関係にあるわけですから、言いたいことは何でも言えるはずです7原文「或説頠曰、『幸与中宮内外可得尽言』」。広城君が「或るとき(或)」に言った、とも解釈できそうだが、『資治通鑑』巻八三、元康九年八月には広城君との脈絡なく「或謂頠曰、『君可以言、当尽言於中宮……』」とあり、『資治通鑑』を参考にして訳出した。「内外」はおそらく中外・中表(異姓のいとこ)と同義。広城君を介さなくても直接何でも言える関係なのにどうしてそうしないのですか、と言いたいのだろう。。〔中宮があなたの〕言ったとおりにしてくれなかったら、〔あなたは〕病気を理由に辞職なさればよいのです。もし両者(裴頠と賈后)が並び立たずに反目しあうのでしたら、〔授けられた官職の辞退を〕十度上表したとしても、災難から逃れるのは難しいでしょう8この発言はかなり核心を突いている。謙遜の姿勢をみせるわりには、けっきょく位から退くわけではない。賈后に直接言う気もない。裴頠はいったい何がしたいのか不明瞭である。」。裴頠はしばらくのあいだ悩み込んだが、けっきょく〔この勧めを〕実行できなかった。
 尚書左僕射に移り、侍中はもとのとおりとされた。裴頠は賈后の親族ではあったが、名望はもともと高かった。四海の人々は、彼のことを〔賈后の〕親族だから昇進したとはみなさず、〔かえって〕要職に就いていないのを心配するばかりであった9原文「四海不謂之以親戚進也、惟恐其不居位」。『資治通鑑』巻八三、元康九年八月に「四海惟恐其不居権位」とあるのを参考に解釈した。。ほどなく、〔朝廷は〕さらに裴頠に門下の業務を一任させることにしたところ10この件について『資治通鑑』巻八三、元康九年八月の胡三省注に「晋の制度だと、侍中と給事黄門侍郎が共同で門下の業務を管轄する。裴頠は侍中であったが、単独で門下の業務を一任されたのは賈后の意向である(晋制、侍中与給事黄門侍郎同管門下事。頠為侍中、専任門下事、賈后之意也)」とある。、〔裴頠は〕強く辞退したが、承認されなかった。裴頠は上言した、「〔侍中の〕賈模がちょうど逝去したので、つづけて臣をその後任となさいますのは、外戚の名誉を高め、身内びいきの登用を顕彰していることになります。外戚が自衛できたためしがこれまで存在したでしょうか。親族関係を強化して災難を免れた外戚が存在しないことは、周知の事実です11原文「后族何常有能自保、皆知重親無脱者也」。読みにくいが、『漢語大詞典』が「重親」を「姻戚関係にある家がさらに婚姻を結ぶこと、俗に言う『親上加親』のこと(婚姻之家復結婚姻、俗説親上加親)」と説明するのを参考に、「重親」を「親族関係を強化する」と解釈してみた。「重親無脱者」はよくわからないが、「無重親而脱者」の語順であるべきところを、上句と対にするために「無」を移動させたのだろうか。かりにこの意で取ることにした。上句の「常」は和刻本に従って「かつて」の意味で読んだ。。しかるに、漢の二十四人の皇帝のうち、文帝、光武帝、明帝だけは外戚を重用しませんでしたが、〔その三帝の外戚のみは〕すべて一族を保つことができました。たんに〔三帝が〕賢明であっただけでなく、じつに安全を得るための道理にもとづいていたからなのです。むかし、穆叔(叔孫穆子)は分不相応の礼が備わった饗応に拝礼しませんでしたが(『左伝』襄公四年)、臣も常軌を逸した詔命を拝受いたしかねます」。重ねて上表した、「咎繇(皋陶)は虞舜のために謨(計画・計略)を述べ(『尚書』皋陶謨篇)、伊尹は商を賛助し、呂望は周を輔翼し、蕭何と張良は漢を補佐しましたが、いずれも功業と教化を世に広く知らしめ、輝きを四方の極遠の地にまで届かせました。〔これらは創業期の功臣ですが、〕継体(創業以降の後継者)の時期には咎単、傅説、祖己、樊仲(仲山甫)も中興の繁栄をもたらしました。或る者は卑賤な身分から抜擢され、或る者は庶民から身を起こしましたが、徳を重視する登用でなければ、これらのような美業に至ることができたでしょうか。近世を観察しますと、疎遠なひとを敬慕できず、近親者にのみ心を寄せ、皇后の親族を信任することが多く、それによって騒動を招いてしまっています。むかし、〔漢の〕疎広は太子が舅氏(母の兄弟)を〔太子の〕官属に就けることをたしなめましたが12原文「疎広戒太子以舅氏為官属」。訳文のように読むほかないように思われるが、『漢書』巻七一、疎広伝によると、宣帝皇太子の外戚が自分の弟を太子の官属とするよう進言したので、宣帝が疎広に諮問したところ、太子のもり役に特別に外戚を充てる必要はない云々と諫めたという。原文もこれに合わせて読むべきなのかもしれないが、とりあえず『漢書』の記述は脇に措き、すなおな読み方をしてみた。、〔このことを〕前代では礼を理解していると評しました。〔東宮ですらこうあるべきなのですから、〕まして朝廷であれば、どうして外戚から登用するのでしょうか。また、たとえ〔外戚が優秀な疎遠者と〕才能が等しかったとしても、なお疎遠な人物を優先し、至公を明示するべきなのです。漢の時代に馮野王を登用しなかったのが、まさしくこれに当たる故事です13馮野王は馮奉世の子。女きょうだいが元帝の昭儀となったため、外戚に当たる。元帝の時代、御史大夫が欠員となったときに後任に馮野王を推す声が多く、成績も彼が第一位であったが、元帝は外戚を重用したとの後世の批判を懸念し、別人を御史大夫に登用した。『漢書』巻七九、本伝を参照。」。表が上呈されると、いずれに対しても優詔を下して慇懃に言い聞かせた。
 当時、陳準の子の陳匡と、韓蔚の子の韓嵩とがともに東宮に侍って仕えていたが、裴頠は〔恵帝を〕諫めて言った、「東宮が立てられるのは、帝位を継がせるためです。交友する人物については、必ず優秀な者を選び、徳を修めたひとを用いねばなりません。陳匡と韓嵩は若輩で、人間としての道理や人格形成に不可欠な節義には理解が及んでいません。東宮殿下は実際には早熟のご様子をお示しになっておられますのに、現今では少年が侍従を務めているとの風評が流れてしまっています14ちなみに巻五三、愍懐太子伝によると、元康元年時に太子に侍従していた若者は衛庭(太保・衛瓘の子)、司馬略(司空・高密王泰の子)、楊毖(太子少傅・楊済の子)、裴憲(太子少師・裴楷の子)、張禕(太子少傅・張華の子)、華恒(尚書令・華廙の子)である。このうち、裴憲の父の裴楷は、裴頠から見て従伯叔父(いとこおじ)、すなわち父・裴秀の従弟(いとこ)に当たる。本伝の韓嵩らは愍懐太子伝で言及されていないが、裴憲らに代わって侍従した者たちであろうか。。これでは深遠な風教を明示するためのおおいなる道理ではありません15原文「未是光闡遐風之弘理也」。何を言いたいのかよくわからないままに直訳した。「光闡遐風」にかんしては、「光闡大道」(巻六七、温嶠伝)、「光闡純風」(巻一二九、沮渠蒙遜載記)、「光闡徽風」(巻一三〇、赫連勃勃載記)と、『晋書』にいくつか類例がある。」。愍懐太子が廃位されるとき、裴頠は張華とともにしきりに諫めたが、聴き入れられなかった。この話は張華伝に記してある。
 裴頠は〔以下のような世の風潮を〕深く憂いていた。世俗は放蕩気味で、儒術を尊重せず、何晏や阮籍が日ごろから高く評価され、浮虚な議題で言論を交わし、礼法を遵守せず、俸禄を食(は)みながら何もせず、主上のお目こぼしに目がくらみ、出仕しておきながら政務を仕事とみなしていなかった。王衍のような連中にいたっては、名声が誇大に盛んで、官位は高く、権勢は重かったが、政務をみずからに課さず、しまいには〔そうした姿勢を〕仲間同士で模倣しあい、風教がじょじょに退廃していった。そこで〔裴頠は〕「崇有」(有を重んじる)の論を著わし、こうした風潮の欠点を解き明かして言った16『世説新語』文学篇、第一二章、同章の劉孝標注に引く「晋諸公賛」および「恵帝起居注」に関連する記述あり。『世説新語』劉孝標注に引く「晋諸公賛」と「恵帝起居注」は、裴頠は「二論」を著わしたとしているが、『三国志』魏書二三、裴潜伝の裴松之注に引く「恵帝起居注」だと「崇有・貴無二論」とあり、「崇有論」のほかに「貴無論」も著述していたらしい。

(「崇有論」は省略する。力不足でまことに申しわけない。)

王衍の一派からの批判があいついで寄せられたが、誰も〔裴頠を〕論破することはできなかった17『世説新語』文学篇、第一二章だと、王衍にはいささかひるんだという。同篇、第一一章に収録される話だと、裴頠と王衍はたがいに認め合っているふうでもあるが、たほうで同章の劉孝標注に引く「晋諸公賛」には「〔裴頠〕与王夷甫不相推下」とあり、同、雅量篇、第一二章ではたがいに挑発しあっており、譲らぬ仲でもあったようだ。。〔裴頠は〕また『辯才論』を著わし、古今の精妙深遠な道理をすべて分析して明らかにしようとしたが、完成する前に禍に遭ってしまった。
 これ以前、趙王倫は賈后におもねって仕えていたが、裴頠は趙王のことをひどく嫌っていた。趙王はしばしば〔裴頠らに〕希望する官職を要求したが、裴頠と張華は頑として承認しなかったため、これが原因で趙王から深く恨まれてしまった。趙王が簒奪の野心を抱くようになると、先に朝廷の名士を排除しようと考え、そこで賈后を廃位した機会に乗じ、とうとう裴頠を誅殺してしまった。享年三十四。裴嵩と裴該の二人の息子がいたが、趙王はこの二人も殺そうとした。梁王肜と東海王越が、裴頠の父の裴秀は王室に勲功を立て、〔創業の功臣として〕太廟に配されて祀られており、後継者を絶やしてしまうのは適当ではないと諫めたため、〔二人は〕死を免れ、帯方に流された。恵帝が復位すると、追って裴頠の本官を回復し、卿の礼にもとづいて改葬し、成の諡号をおくった。裴嵩に爵を継がせた。〔裴嵩は〕中書侍郎、黄門侍郎になった。裴該は家から出て、従伯の裴【豈幾】のあとを継ぎ、散騎常侍となった。二人とも乞活の陳午に殺された。

〔裴楷:裴秀の従弟〕

 裴楷は字を叔則という18裴楷は裴秀の従弟。裴楷の父の裴徽は裴潜の弟に当たる。裴茂―裴潜―裴秀―裴頠の系統と、裴茂―裴徽―裴楷―裴憲の系統。。父の裴徽は魏の冀州刺史であった。裴楷は聡明で、見識と度量があり、弱冠の年齢で名が知られ、『老子』と『易』にとりわけ精通し、若いときから王戎と名声を等しくした。鍾会が裴楷を文帝(司馬昭)に推薦したところ、〔文帝は〕相国掾に辟召し、〔ついで〕尚書郎に移った。賈充が律令を改定するさい、裴楷を定科郎とした。改定作業が完了すると、裴楷に詔が下り、〔魏の〕皇帝の御前で〔律令の改定案を記した文書を〕持たせて音読させ、〔朝臣らに改定案の〕是非を論評させた。裴楷は朗読が上手だったので、皇帝の左右に侍る者たちは目をみはり、聴いていた臣らは退屈を忘れて聞き惚れた。武帝が撫軍将軍となり、属僚を選抜したときは、裴楷を参軍事とした。吏部郎に欠員が生じたので、文帝は鍾会に後任の人材を訊ねた。鍾会は「裴楷は明晰にして広く物事に通じ、王戎は簡素にして物事の要点をおさえています。両者が適任でしょう」と言った。こうして裴楷を吏部郎とした。
 裴楷の風采は抜群に好く、容姿は爽やかであった。多くの書物に博通し、とくに経学に詳しかった。世の人々は裴楷を「玉人」(容姿が玉のように麗しいひと)と呼び、また「裴叔則と顔を合わせるのは玉山(白い山)に近づくようなもの。ひとを光で照らしよる」とも称賛された。中書郎に転じ、宮中に出入りするようになったが、〔彼を〕目にした人々はピシッとかしこまり、顔つきを正した。武帝が即位した当初、おみくじ棒を引いて晋の存続年数を占ってみたところ、「一」を引いたので、武帝は不機嫌になった。群臣は青ざめ、言葉を失った。裴楷はまじめな表情で、声色をやわらげ、おだやかな様子で進み出て言った、「臣はこう聞いています。天は一を得て清らかになり、地は一を得て安らかになり、王侯は一を得て天下の領導者となる、と(『老子』第三十九章)」。武帝はおおいに喜び、群臣はみな万歳をとなえた。にわかに散騎侍郎に任じられ、散騎常侍、河内太守と昇進を重ね、〔中央に〕入って屯騎校尉、右軍将軍となり、侍中に転じた。
 石崇は功臣(石苞)の子で、才気があったが、裴楷とは気が合わなかったため、交友を結んでいなかった。長水校尉の季舒(裴楷の弟の裴綽)19原文は「孫季舒」だが、中華書局校勘記に従い、「孫」を衍字とみなした。が石崇と酒宴で同席していたとき、〔裴綽は〕不遜の度が過ぎていたので、石崇は上表して彼の免職を求めようとした。裴楷がこの件を耳にすると、石崇に言った、「〔季舒が酒乱であるのは天下に知れ渡っているというのに、〕足下はひとに狂薬を飲ませながら、ひとが礼義を正さなかったことをお責めになろうとされている20『太平御覧』巻七三九、狂に引く「裴楷別伝」だと、この一節の言葉の前に「季舒酒狂、四海所知(季舒が酒乱であるのは、天下の誰もが知るところです)」の言葉がある。これがあったほうが文意のとおりが良いので、訳語を補った。。なんと矛盾していることでしょう」。石崇はそこで中止にした。
 裴楷は温厚な性格で、ひとと揉めることがなかった。質素を心がけることはなく、高貴な人々と遊ぶたびに珍奇な遊具を持って行った。馬車、器物、衣服といえども、〔手に入れてから〕わずかなあいだに貧窮している人々へ恵んでしまった。あるとき、別宅を建てたところ、従兄の裴衍がそれを見て喜んでいたので、すぐにその家を裴衍に譲ってしまった。梁王肜と趙王倫は国家の近親で、当世にあってたいへん高貴であったが、裴楷は毎年、梁国と趙国に租銭百万を融通してもらい21租銭は原文まま。詳細不明。西晋時代は戸ごとに租・絹・綿を課税していたが、一般的にこの時期は銭納ではなく、現物納であったと考えられている([渡辺二〇一〇]第七章)。また渡辺信一郎氏[二〇一〇]によれば、諸侯国の場合、国内の戸から徴収した諸税から一定額を諸侯の俸禄としていたという(第六章、第七章)。「租銭」とはこうした諸侯の俸禄のことを言っているのだろうか。なお[川勝ほか一九六四]は「租税」と訳出している。、それを親族に分け与えていた。或るひとがこのことを批判すると、裴楷は「余剰を減らして不足を補うのは天の道です」22原文「損有余以補不足、天之道也」。『老子』第七七章「天之道、損有余而補不足」をふまえる。と言った。毀誉褒貶を気にせず、己れの意志を曲げずに行動し、飾り気がないさまは、すべてこのような類いであった。
 裴楷は山濤や和嶠とともに、徳がすぐれていることによって位に就いていたが、あるとき、武帝は〔裴楷に〕訊ねた、「朕は天の命に応じて時宜に従い、海内は一新されたが、天下に立っている評判にはどのような称揚と批判があるのだろうか」。裴楷の返答、「陛下は天命を受け、四海は風教に浴しておりますが、〔陛下の〕徳が堯や舜になぞらえられていないのは、賈充のような者たちがいまだに朝廷にいるからです。天下の賢人をお召しになり、彼らと協力して正道を広げるべきであって、人々に私情をお示しになってはなりません」。ちょうど任愷と庾純も賈充を批判したため、武帝は賈充を関中都督に出した。しかし賈充は娘を皇太子に嫁がせたので、中止になった。呉を平定したのち、武帝は太平の教化を整えようと思い、しょっちゅう公卿を召し、政道についていっしょに議論した。裴楷は三皇五帝の風流を述べ、ついで漢と魏の栄枯盛衰の軌跡を論じた。武帝は褒め称え、同席していた者たちは感服した。
 裴楷の子の裴瓚は楊駿の娘を娶っていたが、裴楷はふだんから楊駿を軽視しており、楊駿とは不仲であった。楊駿が朝廷の実権をにぎると、衛尉に転じ、〔ついで〕太子少師に移ったが、悠々と職務をこなして問題を起こさず、おとなしくしていた。楊駿が誅殺されると、裴楷は〔楊駿と〕姻戚であるのを理由に逮捕されて廷尉に送られ、いまにも処刑が下されようとしていた。この日の騒動(楊駿誅殺)は突然生じたもので、誅戮があちこちで起きていたため、人々は裴楷を案じて恐れおののいていた。裴楷は顔色を変えず、所作はいつもどおりで、紙と筆を要望し、親族や旧友宛ての書簡をしたためた。幸いにも侍中の傅祗が救助したので死は免れたが、なお罪に問われて官を解かれた。太保の衛瓘、太宰の汝南王亮は、裴楷は貞節があって〔楊駿に〕阿諛追従せず、爵位と封国を賜わるのにふさわしいと提案したので、臨海侯に封じられ、食邑は二千戸とされた。楚王瑋に代わって北軍中候となり、散騎常侍を加えられた。楚王は、衛瓘と汝南王が自分を退けて裴楷を任命したことに不満を抱いたが、裴楷がそのことを知ると、〔北軍中候を〕拝命しようとしなかった、列曹尚書に転じた。
 裴楷の長子の裴輿はこれより以前に汝南王の娘をめとり、〔また裴楷の〕娘は衛瓘の子に嫁いでいた。裴楷は中央政界での災難がまだ止まないかもしれないことを心配し、地方の外鎮へ出ることを求めたので、安南将軍、仮節、都督荊州諸軍事に任じられたが、出発直前、はたして楚王が矯詔して汝南王と衛瓘を誅殺した。楚王は、裴楷が以前に自分の北軍中候を奪っていったことに加え、汝南王および衛瓘とは姻戚であることから、ひそかに兵をつかわし、裴楷を討とうとした。裴楷は、楚王が自分を恨んでいることを日ごろから気づいていたので、事件発生を知るや、車ひとつで城(洛陽)に入り、妻の父である王渾の家に隠れ、汝南王の末子と行動を共にして、一晩で八回も場所を移し、そうして難を逃れることができた。楚王が誅殺されると、〔朝廷は〕裴楷を中書令とし、侍中を加え、張華や王戎とともに機密の職務をつかさどらせた。
 裴楷は渇利の病気23原文「渇利疾」。不詳。消渇(糖尿病)のことか。(2023/7/30:訳文修正&注追加)消渇(糖尿病)と下痢を患っていたので、権勢のある地位に就いていることを喜んでいなかった。王渾は裴楷のために〔朝廷に〕要望した、「楷は先帝から抜擢の恩恵を授かりましたが、さらに陛下からも厚遇をこうむっており、まことに忠節を尽くすべき機会でございます。しかし、楷は他人と競争したがらない性分です。むかし、散騎常侍になったときには河内太守に出たいと要望し、のちに侍中になったときにも河南尹に出たいと要望し、楊駿と不仲になると衛尉を求めました。東宮の官(太子少師)に転任するに及び、朝位は同世代の名士たち24原文は「時類」。辞書的には「時人」(『漢語大詞典』)の意味だが、あまり通りがよいように思えないため、「時輩」と同義の語と解釈して訳出した。よりも下になってしまいましたが、名誉に淡白でいられる地位に心を休めています。そこで有識者は彼の本心を知ったのです。楷は現在、衰弱しきっており、臣は彼を深く心配しています。光禄勲が欠員ですから、〔裴楷を〕そこに充てるのがよいと思います。いま、張華が中書に、王戎が尚書におり、中書と尚書の意志を一致させるのには十分で、ここに楷も加入させる必要はありません。名臣は多数いるわけではありませんから、健康に配慮されるべきであり、その本意にそむかないようにして、将来の成功という利益をお求めになさいますよう」。聴き入れられず、まもなく光禄大夫、開府儀同三司を加えられた。病気が重くなると、詔が下り、黄門郎の王衍をつかわして見舞わせた。裴楷は目を動かして〔顔立ちが整っている〕王衍をジッと見ると、「〔これほど容姿端正な人物と〕まさかまだ面識がなかったとはな」と言った。王衍は裴楷の容姿端麗ぶりに感嘆した25『世説新語』容止篇、第一〇章の劉孝標注に引く「名士伝」、略同。第一〇章の話自体は見舞いに来た王衍の風采を裴楷が褒める内容である。王衍も容貌が端正であったから(巻四三、王戎伝附王衍伝)、これほどまで顔立ちが良い人物とまだ面識をもっていなかったのかと感嘆した話であろう。なお第一〇は本伝と同じく、この話を恵帝時代のこととしているが、そのわりには王衍の官位が低すぎる。『太平御覧』巻三六六、目に引く「又曰」(「世説」)は武帝時代のこととしているし、王衍伝から推測しても、黄門郎であったのは武帝の治世中だと思われる。
 裴楷は人材を見抜く眼があった。以前に河南尹だったころ、楽広が郡内に寓居していたが、まだ名を知られていなかった。裴楷は彼に会うと高く評価し、宰府(宰相の府、三公などの府をいう)に送り出した26巻四三、楽広伝によれば裴楷は楽広を賈充に推薦し、その結果、楽広は太尉掾に辟召されたという。。あるとき、夏侯玄を評して言った、「おおいにおごそかだ。まるで宗廟の中に入って、礼楽の器物ばかりが目に映るかのよう」。鍾会は「まるで武庫を観覧しているかのよう。ほの暗くて奥が知れず、矛や戟が前列に並べられているのを目にするだけ」。傅嘏、「あらゆる物が収まっているかのような広大さ」。山濤、「まるで山に登って下を見下ろすかのよう。ひっそりしていて奥深い」。
 これ以前、裴楷は家でキビを炊き、甑に保存していたのだが、〔あるときに確認してみると、〕ひとつは拳のような形状に変わり、ひとつは〔どす黒くとろけて〕血のようになり、ひとつはカブの実のようになった。その年に卒した。享年五十五。元の諡号をおくられた。裴輿、裴瓚、裴憲、裴礼、裴遜の五人の子がいた。
 裴輿は字を祖明という。若くして父の爵を継ぎ、散騎侍郎まで昇進した。卒し、簡の諡号をおくられた。
 裴瓚は字を国宝という。中書郎になった。風貌が高邁で、彼を目にしたひとはみな敬った。とりわけ王綏から尊敬され、いつも裴瓚の遊びに付いて行った。王綏の父の王戎が「国宝はいままでこちらに来たことがないのに、おまえは何度もあちらに出向いている。どういうわけでそうしているんだ」と言った。王綏の返答、「国宝は綏(わたし)を見抜いていませんけれど、綏(わたし)は国宝を見抜いているんですよ」。楊駿が誅殺されたとき、反乱兵に殺された。

〔裴憲:裴楷の子〕

 裴憲は字を景思という。若くして鋭敏で、軽はずみな任侠連中と好んで付き合った。弱冠の年になると、あらためて変節し、厳粛で重々しい生き方に転じ、儒学を修めて重んじ、数年のあいだ門のしきいをまたがなかった。陳郡の謝鯤と潁川の庾敳はともに優秀な士人であったが、裴憲に会うと高く評価し、二人で言いあった、「裴憲は剛直明亮、度量豁達で、機会に通暁し、天命を理解しており、父(裴楷)と比べてどちらが優れているかわからない。スケールが大きく、純真を保ち、世俗の物事を気に留めないという点については、おそらく父をしのいでいよう」。
 最初は東宮に侍講(侍って学問を講義する)し、黄門郎、吏部郎、侍中を歴任した。東海王越は〔裴憲を〕豫州刺史、北中郎将、仮節とした。王浚が承制すると、裴憲を〔王浚の行台の〕列曹尚書とした27『魏書』巻九六、僭晋司馬叡伝によると、西晋末の裴憲は江州刺史の華軼と結び、建康の元帝に従っていなかった。やがて元帝が派遣した討伐軍に敗れると、裴憲は石勒のもとへ逃げたという。この記述はおそらく精確ではない。『資治通鑑』巻八七、永嘉五年六月に「裴憲奔幽州」と記すように、元帝軍に敗北後の裴憲はまず幽州の王浚のもとへ身を寄せ、王浚滅亡後に石勒の下に入ったと考えられる。。永嘉の末、王浚が石勒に敗れると、〔王浚の配下の〕棗嵩らはみな〔石勒の〕軍門に出向いて罪を謝し、金品を献上してひっきりなしに行き交ったが、裴憲と荀綽だけは私宅でのんびりと過ごしていた。石勒は日ごろから二人の名声を耳にしていたので、召し出して二人に言った、「王浚は幽州で暴虐をはたらき、生者も死者もともに憎んでいた。孤(わたし)はつつしんで天罰を執行し、この地の民衆を救いあげたが、すると〔この地に住まう〕寓居者も土着民もみな喜び、祝賀や謝罪を告げる人々が道路に絶えず行き交っている。二君は〔王浚と〕悪事をともにしておきながらおごり高ぶり、誠実なありかたとはずいぶんと隔たっている。防風氏誅殺のごとき処罰は、いったい誰に下るだろうか28禹が会稽に諸侯を集めたさい、防風氏が遅れて到着したため、禹は防風氏を誅殺したという。『史記』巻四七、孔子世家などを参照。」。裴憲は毅然とした顔つきで、泣きながら返答した、「臣らは代々にわたって晋の恩栄をこうむり、寵遇はこのうえなく重いものでありました。王浚は凶暴で、正直な人間を嫌うタチではありましたが、それでも晋の遺藩(生き残りの藩屏)であることに変わりありません。〔明公の〕聖化に喜びを覚えるとはいえ、〔晋に尽くすべき〕忠義は本心と食いちがうわけです。それに、武王が紂王を伐ったさい、〔武王は紂王から退けられた〕商容を故郷の里門に表彰しましたが、商容が裏切り者の例に連なるとは聞いたことがありません29伐殷後も武王に出仕せず、それでいて武王の表彰を受けた商容が殷の裏切り者だと評された話は聞いたことがない、という意味。。明公は道にもとづいた教化によって民を磨きあげようとお考えにならず、刑罰を厳しくして統治することを決行しているお方ですから30原文「必於刑忍為治者」。『韓非子』に「刑重而必」(難二篇)、「吾以是明仁義愛恵之不足用、而厳刑重罰之可以治国也」(姦劫弑臣篇)など、ここでふまえたであろうフレーズが見える。、防風氏誅殺のような処罰は臣の分(さだめ)でしょう。有司に出頭して刑につく所存です」。拝礼せずに退出した。石勒はこれを深く嘉し、賓客の礼によって遇した。石勒は王浚の官僚や親族の財産を調べ、帳簿に記録させたが、みな財産は巨万にのぼるほど膨大であったのに対し、裴憲と荀綽の家には書物が百余帙、塩と米がそれぞれ十数斛あるだけだった。石勒はこれを知ると、長史の張賓に言った、「名声というのはでたらめではないのだな。幽州を得たことではなく、この二子を得たことをうれしく思うぞ」。〔裴憲を〕従事中郎に任命し、〔ついで〕地方に出して長楽太守とした。石勒が帝号を僭称すると、まだ制度構築に着手する余裕はなかったが、〔裴憲は〕王波と協力し、石勒のために朝儀を記述して編集したので、かくして制度や礼物は王者にならったものに整った。石勒はおおいに喜び、太中大夫に任命し、司徒に移した。
 石季龍の治世になると、ますます礼遇を加えられた。裴憲には裴挹、裴瑴の二人の息子がおり、どちらも文才によって名を揚げていた。裴瑴は石季龍に仕えて太子中庶子、散騎常侍となった。裴挹と裴瑴はそろって任侠気質で、酒を愛し、人物批評を好んでいた。〔兄弟は〕河間の邢魚とは不仲であった。邢魚は裴瑴の馬にかってに乗って段遼のもとへ逃げたが、〔道中で〕ひとに捕えられてしまった。邢魚はウソをつき、裴瑴が自分を使者に出し、石季龍が鮮卑(段氏)を襲撃しようとしていることを段氏に知らせ、防備を設けさせようとしたのだと言った。そのころ、石季龍は段遼討伐を計画していたところだったため、邢魚の証言とちょうど符合してしまった。石季龍は裴挹と裴瑴を誅殺し、裴憲も罪に問われて免官された。しばらくして右光禄大夫、司徒、太傅となり、安定郡公に封じられた。
 裴憲は歴任した官職において、好成績をあげたとの評判を立てることはなかったが、朝廷にあって無為寡黙で、政務をまったく意に介さなかった。しかし徳と名声が高かったので、いつも礼遇されていた。ついに石氏において卒し、同族の裴峙の子である裴邁を後継ぎとした。

〔裴黎、裴康、裴綽:裴楷の兄弟〕

 裴楷の長兄の裴黎、次兄の裴康はともに名声があった。裴康の子の裴盾は若くして要職を歴任した。永嘉年間、徐州刺史となり、長史の司馬奥に仕事を委任した。司馬奥は裴盾に、処刑によって威厳を確立すること、良民をおおいに徴発して兵士とすること、法に従わない者がいたら即座に死罪とすること、を勧めた。三年在任し、百姓は怨みをつのらせた。東海王越は裴盾の妹の夫であった。東海王が薨じると、騎督の満衡は〔徐州から〕徴兵していた良民を率いてすぐに東方(徐州)へ帰ってしまった。ほどなく、劉元海が将の王桑と趙固を派遣し、彭城(徐州)へ向かわせた。〔劉元海軍の〕前鋒の数騎が下邳に到着したところ、〔徐州の〕文武の官吏は〔裴盾の〕苛政に対し我慢の限界に達していたので、ことごとく逃げ散ってしまった。裴盾と司馬奥は淮陰へ逃げ、〔裴盾らの〕妻子は賊に捕えられてしまった。さらに司馬奥は裴盾をそそのかしたので、〔裴盾は〕趙固に降ってしまった。趙固は裴盾の娘を妻とし、寵愛をかけていた。裴盾はその娘に対面して涙を流した。趙固は最終的に裴盾を殺してしまった。
 裴盾の弟の裴邵31『三国志』裴潜伝の裴松之注に引く「晋諸公賛」は名を「郃」に作る。は字を道期という。元帝が安東将軍になると、裴邵を〔安東府の〕長史とし、王導を司馬としたが、二人は深い交友を結んだ。〔洛陽の朝廷に〕召されて太子中庶子となり、さらに散騎常侍に転じ、〔ついで〕使持節、都督揚州・江西・淮北諸軍事、東中郎将となり、東海王越に随伴して項へ向かったが、軍中で卒した。王導が司空になり、拝命を終えると、嘆息して言った、「裴道期と劉王喬(劉隗の子の劉疇)が健在だったならば、私が単独でこの位に登ることはありえなかっただろうに」。王導の子の王仲豫(王恬)は裴康(裴邵の父)と字が同じであったため、王導は旧交に配慮し、敬豫に改めた。
 裴楷の弟の裴綽は字を季舒といい、度量が広く、黄門侍郎、長水校尉にまで昇進した。裴綽の子の裴遐は玄学の談論を得意とし、発声は澄み、のびやかで、琴の音のように凛々しい響きだった。あるとき、河南の郭象と議論したが、同席していた者たちはみな感服した。また、平東将軍の周馥が開いた酒宴に出席したとき、ひとと囲碁を打っていたところ、周馥の司馬が酒をつぎに回ってきた。すると、裴遐はまだ酒に口をつけていなかったため、司馬は酔いに任せて怒り、裴遐を引きずって地面に叩き落としてしまった。裴遐はおもむろに起き上がって席に戻り、顔色を変えず、対局を再開した。彼のおとなしい性格はこのようであった。東海王越が主簿に召した。のち、東海王の子の毗に殺された。

 裴氏と王氏は魏晋の時代に栄え、世の人々は八人の裴氏を八人の王氏と比較した。すなわち、裴徽は王祥に、裴楷は王衍に、裴康は王綏に、裴綽は王澄に、裴瓚は王敦に、裴遐は王導に、裴頠は王戎に、裴邈32字は景声。『三国志』裴潜伝の裴松之注、および『世説新語』雅量篇、第一一章の劉孝標注に引く「晋諸公賛」によれば裴頠の従弟。は王玄に、おのおの比べられたのである。

 史臣曰く、(以下略)

陳騫(附:陳輿)/裴秀/附:裴頠・裴楷・裴憲

(2022/10/16:公開)

  • 1
    原文「足以興隆国嗣」。よく読めない。字面から推測して訳出した。
  • 2
    原文「以功当封武昌侯」。裴頠は鉅鹿公を継いでいるのにここで武昌侯に封じられるのはおかしいように思われる。後文も勘案すると、裴頠の功績を嘉して息子ひとりに武昌侯を賜うという論功だったのではないだろうか。この解釈で訳語を補った。
  • 3
    『北堂書鈔』巻六七、国子祭酒に引く「晋諸公賛」に「裴頠、恵帝時拝為国子祭酒、奏立国子・太学、起講堂、築門闕、刻石以写五経」とある(『芸文類聚』巻三八、学校に引く「晋諸公賛」、略同)。『晋書斠注』はこの佚文を受け、裴頠が国子学整備を上奏したのは国子祭酒時代のこととし、本伝が侍中異動後にこの記事を配しているのは適当ではないと批判している。なお国子学の創立年代にかんしては武帝時代と伝える史料もあり、諸説を整理した福原啓郎氏[二〇一二]は、武帝時代に創立決定・施行され、恵帝時代に学堂の整備が完了した、と解釈している(八八―八九頁)。
  • 4
    なお『漢辞海』巻末に附録している歴代度量衡表によると、魏晋の一尺(約二四センチメートル)に比べ、秦および前漢・新の一尺は約二三センチメートルで、約一センチメートル短い。
  • 5
    裴頠の文章は身のほどをわきまえて官職を受けねばならない戒めを克明に述べていた、という意味あいだろうか。
  • 6
    原文「卿二人猶且見信然、勤為左右、陳禍福之戒」。『資治通鑑』巻八三、元康九年に「卿二人於中宮皆親戚、言或見信、宜数為陳禍福之戒」とあるのを参考に解釈した。
  • 7
    原文「或説頠曰、『幸与中宮内外可得尽言』」。広城君が「或るとき(或)」に言った、とも解釈できそうだが、『資治通鑑』巻八三、元康九年八月には広城君との脈絡なく「或謂頠曰、『君可以言、当尽言於中宮……』」とあり、『資治通鑑』を参考にして訳出した。「内外」はおそらく中外・中表(異姓のいとこ)と同義。広城君を介さなくても直接何でも言える関係なのにどうしてそうしないのですか、と言いたいのだろう。
  • 8
    この発言はかなり核心を突いている。謙遜の姿勢をみせるわりには、けっきょく位から退くわけではない。賈后に直接言う気もない。裴頠はいったい何がしたいのか不明瞭である。
  • 9
    原文「四海不謂之以親戚進也、惟恐其不居位」。『資治通鑑』巻八三、元康九年八月に「四海惟恐其不居権位」とあるのを参考に解釈した。
  • 10
    この件について『資治通鑑』巻八三、元康九年八月の胡三省注に「晋の制度だと、侍中と給事黄門侍郎が共同で門下の業務を管轄する。裴頠は侍中であったが、単独で門下の業務を一任されたのは賈后の意向である(晋制、侍中与給事黄門侍郎同管門下事。頠為侍中、専任門下事、賈后之意也)」とある。
  • 11
    原文「后族何常有能自保、皆知重親無脱者也」。読みにくいが、『漢語大詞典』が「重親」を「姻戚関係にある家がさらに婚姻を結ぶこと、俗に言う『親上加親』のこと(婚姻之家復結婚姻、俗説親上加親)」と説明するのを参考に、「重親」を「親族関係を強化する」と解釈してみた。「重親無脱者」はよくわからないが、「無重親而脱者」の語順であるべきところを、上句と対にするために「無」を移動させたのだろうか。かりにこの意で取ることにした。上句の「常」は和刻本に従って「かつて」の意味で読んだ。
  • 12
    原文「疎広戒太子以舅氏為官属」。訳文のように読むほかないように思われるが、『漢書』巻七一、疎広伝によると、宣帝皇太子の外戚が自分の弟を太子の官属とするよう進言したので、宣帝が疎広に諮問したところ、太子のもり役に特別に外戚を充てる必要はない云々と諫めたという。原文もこれに合わせて読むべきなのかもしれないが、とりあえず『漢書』の記述は脇に措き、すなおな読み方をしてみた。
  • 13
    馮野王は馮奉世の子。女きょうだいが元帝の昭儀となったため、外戚に当たる。元帝の時代、御史大夫が欠員となったときに後任に馮野王を推す声が多く、成績も彼が第一位であったが、元帝は外戚を重用したとの後世の批判を懸念し、別人を御史大夫に登用した。『漢書』巻七九、本伝を参照。
  • 14
    ちなみに巻五三、愍懐太子伝によると、元康元年時に太子に侍従していた若者は衛庭(太保・衛瓘の子)、司馬略(司空・高密王泰の子)、楊毖(太子少傅・楊済の子)、裴憲(太子少師・裴楷の子)、張禕(太子少傅・張華の子)、華恒(尚書令・華廙の子)である。このうち、裴憲の父の裴楷は、裴頠から見て従伯叔父(いとこおじ)、すなわち父・裴秀の従弟(いとこ)に当たる。本伝の韓嵩らは愍懐太子伝で言及されていないが、裴憲らに代わって侍従した者たちであろうか。
  • 15
    原文「未是光闡遐風之弘理也」。何を言いたいのかよくわからないままに直訳した。「光闡遐風」にかんしては、「光闡大道」(巻六七、温嶠伝)、「光闡純風」(巻一二九、沮渠蒙遜載記)、「光闡徽風」(巻一三〇、赫連勃勃載記)と、『晋書』にいくつか類例がある。
  • 16
    『世説新語』文学篇、第一二章、同章の劉孝標注に引く「晋諸公賛」および「恵帝起居注」に関連する記述あり。『世説新語』劉孝標注に引く「晋諸公賛」と「恵帝起居注」は、裴頠は「二論」を著わしたとしているが、『三国志』魏書二三、裴潜伝の裴松之注に引く「恵帝起居注」だと「崇有・貴無二論」とあり、「崇有論」のほかに「貴無論」も著述していたらしい。
  • 17
    『世説新語』文学篇、第一二章だと、王衍にはいささかひるんだという。同篇、第一一章に収録される話だと、裴頠と王衍はたがいに認め合っているふうでもあるが、たほうで同章の劉孝標注に引く「晋諸公賛」には「〔裴頠〕与王夷甫不相推下」とあり、同、雅量篇、第一二章ではたがいに挑発しあっており、譲らぬ仲でもあったようだ。
  • 18
    裴楷は裴秀の従弟。裴楷の父の裴徽は裴潜の弟に当たる。裴茂―裴潜―裴秀―裴頠の系統と、裴茂―裴徽―裴楷―裴憲の系統。
  • 19
    原文は「孫季舒」だが、中華書局校勘記に従い、「孫」を衍字とみなした。
  • 20
    『太平御覧』巻七三九、狂に引く「裴楷別伝」だと、この一節の言葉の前に「季舒酒狂、四海所知(季舒が酒乱であるのは、天下の誰もが知るところです)」の言葉がある。これがあったほうが文意のとおりが良いので、訳語を補った。
  • 21
    租銭は原文まま。詳細不明。西晋時代は戸ごとに租・絹・綿を課税していたが、一般的にこの時期は銭納ではなく、現物納であったと考えられている([渡辺二〇一〇]第七章)。また渡辺信一郎氏[二〇一〇]によれば、諸侯国の場合、国内の戸から徴収した諸税から一定額を諸侯の俸禄としていたという(第六章、第七章)。「租銭」とはこうした諸侯の俸禄のことを言っているのだろうか。なお[川勝ほか一九六四]は「租税」と訳出している。
  • 22
    原文「損有余以補不足、天之道也」。『老子』第七七章「天之道、損有余而補不足」をふまえる。
  • 23
    原文「渇利疾」。不詳。消渇(糖尿病)のことか。(2023/7/30:訳文修正&注追加)
  • 24
    原文は「時類」。辞書的には「時人」(『漢語大詞典』)の意味だが、あまり通りがよいように思えないため、「時輩」と同義の語と解釈して訳出した。
  • 25
    『世説新語』容止篇、第一〇章の劉孝標注に引く「名士伝」、略同。第一〇章の話自体は見舞いに来た王衍の風采を裴楷が褒める内容である。王衍も容貌が端正であったから(巻四三、王戎伝附王衍伝)、これほどまで顔立ちが良い人物とまだ面識をもっていなかったのかと感嘆した話であろう。なお第一〇は本伝と同じく、この話を恵帝時代のこととしているが、そのわりには王衍の官位が低すぎる。『太平御覧』巻三六六、目に引く「又曰」(「世説」)は武帝時代のこととしているし、王衍伝から推測しても、黄門郎であったのは武帝の治世中だと思われる。
  • 26
    巻四三、楽広伝によれば裴楷は楽広を賈充に推薦し、その結果、楽広は太尉掾に辟召されたという。
  • 27
    『魏書』巻九六、僭晋司馬叡伝によると、西晋末の裴憲は江州刺史の華軼と結び、建康の元帝に従っていなかった。やがて元帝が派遣した討伐軍に敗れると、裴憲は石勒のもとへ逃げたという。この記述はおそらく精確ではない。『資治通鑑』巻八七、永嘉五年六月に「裴憲奔幽州」と記すように、元帝軍に敗北後の裴憲はまず幽州の王浚のもとへ身を寄せ、王浚滅亡後に石勒の下に入ったと考えられる。
  • 28
    禹が会稽に諸侯を集めたさい、防風氏が遅れて到着したため、禹は防風氏を誅殺したという。『史記』巻四七、孔子世家などを参照。
  • 29
    伐殷後も武王に出仕せず、それでいて武王の表彰を受けた商容が殷の裏切り者だと評された話は聞いたことがない、という意味。
  • 30
    原文「必於刑忍為治者」。『韓非子』に「刑重而必」(難二篇)、「吾以是明仁義愛恵之不足用、而厳刑重罰之可以治国也」(姦劫弑臣篇)など、ここでふまえたであろうフレーズが見える。
  • 31
    『三国志』裴潜伝の裴松之注に引く「晋諸公賛」は名を「郃」に作る。
  • 32
    字は景声。『三国志』裴潜伝の裴松之注、および『世説新語』雅量篇、第一一章の劉孝標注に引く「晋諸公賛」によれば裴頠の従弟。
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