凡例
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王祥(附:王覧)・鄭沖/何曾(附:何劭・何遵)/石苞(附:石崇・欧陽建・孫鑠)
何曾
何曾は字を穎考といい、陳国の陽夏の人である。父の何夔は魏の太僕、陽武亭侯であった1『三国志』魏書一二に立伝されている。。何曾は若くして爵を継ぎ、学問を好んで博識で、同郡の袁侃と名声を等しくした。魏の明帝がはじめて平原王2原文は「平原侯」だが、中華書局校勘記が引く説に従い、「王」に改める。になると、何曾は王文学となった。明帝が帝位につくと、散騎侍郎、汲郡典農中郎将、給事黄門侍郎と昇進を重ねた。上疏して述べた。「臣はこう聞いております。国家を治める者は清静を基礎としますが3原文「為国者以清静為基」。「清静」は清廉で物静か、無為無欲なこと、余計なことをしないこと、といった意。『老子』第五十七章の「故聖人云、我無為而民自化、我好静而民自正、我無事而民自富、我無欲而民自樸」にもとづくか。、百姓は良吏を根本とする、と。いま、海内は消耗しきっているのに、労役事業はたくさん起こっています。じつに、百姓をいたわって保養し、喜ばせてから使役するべきです。郡守の権力は軽いとは申せ、それでも千里の範囲を専任されており、いにしえと比較してみると、列国の君主に当たります。上は朝恩を布き広めて慈愛と平穏を行き届かせ、下は〔民にとっての〕利益を高めて損害を除外せねばなりません。適任を得られれば無事を成すことができ、適任でなければ害となります。ゆえに漢の宣帝はこう言ったのです。『百姓が田園で安穏とし、不満をもたずにいられるのは、政治が公平で、裁判が公正だからである。私とともにこれを実行してくれるのは、良二千石(優秀な郡守)だけであろうか』(『漢書』巻八九、循吏伝)。この発言はまことに政治の根幹を理解していると評せましょう。ちょうどいま、国家は大事業を挙行して、新たに徴発があり、軍隊が遠征したため、上下ともども疲弊しています。そもそも百姓とは、成功をともに喜ぶことはできても、事業の開始をともに考案することは難しいものです。愚鈍な人間とは、目前のささいな勤労を嫌がり、乱に発展するような大きな災禍を忘れる者のことであり、かくゆえに郡守はいよいよ適任者を得なければなりません。才能が完璧にそなわっておらずとも、おおよそ威厳と恩恵をそなえ、百姓から信用と畏怖を得られている者ならば適切でしょう。臣が聞くところでは、郡守たちのなかには高齢の者や病気の者がおり、〔そういう者たちは〕みな丞や掾に政治を委ねてしまい、政務に頭を回していません。或る者は粗忽怠惰な気性で、政務を意中におかず、就任して数年経つのに、恩恵が人民に加えられていません。それなのに、成績考課の範囲内だと、その罪も罷免には及びません。そのゆえに留任を獲得するいっぽうで、罷免の機会はないのです。臣が愚考しますに、秘密裏に主者に詔を下して郡守の実態を調査するように命じるべきかと存じます。高齢または疾患により、人民をみずからいたわらない者、または統治に温愛が乏しく、賄賂を好んで受け取り、百姓をかき乱す者がいた場合は、どちらも召し返し、あらためて後任を選ぶべきでしょう」。しばらくすると散騎常侍に移った。
宣帝が遼東(公孫氏)を征伐しようとすると、何曾は魏帝(明帝)に上疏して述べた4以下の上疏は『三国志』魏書三、明帝紀、景初二年正月の裴松之注に引く「魏名臣奏」(以下、裴注引「魏名臣奏」と略記)にも引用されている。。「臣はこう聞いています。先王は法を定めるさいに必ず万全を期した、と。そのゆえ、官職を設置してその任を授けるときには補佐の副官を置き、軍隊を整列させて将帥を任命するときには監察の副官を立て、命令を宣布するために使者をつかわすときには付き添いの副使を設け、敵軍と対峙して交戦するときにも御右を陪乗させたのでした。策略の効果を出し尽くし、安全をゆるがす事変を防ぐためなのでしょう。かくして、危難に直面したら、〔副官の〕権限は〔長官を〕助けることが可能で、不測の事態に陥ったら、〔副官の〕能力は〔長官に〕代替することが可能となります。副官を設置することの国家防備としてのはたらきは5原文「其為国防」。裴注引「魏名臣奏」は「其為固防」に作る。、〔以上のように〕このうえなく深遠なのです。漢氏の時代になっても、やはり旧制を踏襲しており、韓信が趙を討ったときは張耳が副将となり、馬援が越を討ったときは劉隆が副軍を率いました。〔このような〕前代までの事跡は文献に記録されています。いま、太尉(宣帝司馬懿)は〔公孫氏を〕譴責する〔陛下の〕お言葉を奉じて、罪人の討伐に向かわれ6原文「奉辞伐罪」。『尚書』大禹謨篇が出典。正義に「奉此譴責之辞、伐彼有罪之国」とある。、精鋭の歩騎は数万にのぼり、道路は長距離にしてかつ険しく、その距離はほぼ四千里に及びます。天の御威光を借り、『征伐はあっても戦闘はない』7原文「有征無戦」。「戦わずして勝利する」という決まり文句。としても、賊が逃げ隠れてしまうようなことがあれば、日月を浪費するはめになるでしょう。〔ひとの〕寿命は一定しておらず8原文「命無常期」。「常期」は固定的に定まった期限・周期のこと。人間の寿命は一律に期限が決まっているわけではない、すなわち寿命は個々バラバラで、いつ終わりを迎えるのかは予測がつかない、ということ。、人間は金石(永遠の物質の比喩)ではありませんから、計画を長期的に立てて用意を周到にしておき、まことに副官を置くべきでしょう。いま、北軍の諸将9原文「北軍諸将」。裴注引「魏名臣奏」は「北辺諸将」に作る。や太尉の指揮下の将校は、全員が僚属(部下)であり、身分に差がなく、もともと〔彼らのなかには〕明確な肩書を有して統率するような〔相対的な〕上位者が不在ですから10原文「素無定分統御之尊」。「定分」は「確立した地位・身分」の意味で取った。彼ら僚属を統べまとめ、僚属と長官(司馬懿)のあいだに位置する中間管理職的な存在がいない、ということだろう。、にわかに事変が起きれば、自発的に鎮静しないでしょう。『存続しつつも滅亡を忘れない』11『易』繋辞下伝に引く孔子の言葉。とは、聖達(孔子のこと)が定めた誓約です12原文「聖達所裁」。裴注引「魏名臣奏」は「聖達所戒」に作る。これをふまえ、「裁」を約束などの意味で取ることにした。。臣が愚考しますに、大臣や高名な将軍のうち、威厳があり、長きにわたって名声を博している人物を選び出し、その者の礼秩を高め13原文「成其礼秩」。裴注引「魏名臣奏」は「盛其礼秩」に作る。「成」だと文意が不明なので、「盛」に改めて読んだ。、派遣して北軍に向かわせ14原文「遣詣北軍」。裴注引「魏名臣奏」は「遣詣懿軍」に作る。、進んでは謀略に参画させ、退いては副官とするようになさるのが適当かと存じます。万一の不測の事件が起きたとしても、軍隊の責任者に予備の人材をそなえておけば、心配は無用でしょう」。明帝は聴き入れなかった。地方に出て河内太守に任じられると、在任中、威厳があるとの評判を得た。中央に召されて侍中に任じられたが、母の死去のため辞職した。
嘉平年間、司隷校尉となった。撫軍校事15原文まま。不詳。校事は監察官のようなものだと思われるが、撫軍を冠しているわけはわからない。『太平御覧』巻二四一、都尉に引く「又曰」(魏略)に「撫軍都尉、秩比二千石、本校事官。始太祖欲広耳目、使盧洪・趙達二人、主刺挙。洪・達多所陥入、故于時軍中為之語曰、『不畏曹公、但畏盧洪。盧洪尚可、趙達殺我』」とあり、『北堂書鈔』巻六一、司隷校尉「奏収尹模」に引く「王晋書」に「何曾、字穎考、為司隷校尉。時撫軍都尉尹模、因校事作威」とあり、これらをふまえると、本来の名称は撫軍都尉で、「校事」は職掌を表現した文言であり、職掌の具体的な内容は軍中の監察だったようである。の尹模は恩寵を笠に着て威張りちらし、悪だくみで得た利益が積みあがっており、朝野の人々が恐れていたが、誰も批判を口にできずにいた。〔そのような情況のなかで〕何曾は尹模を弾劾したので、朝廷の人々は何曾を称えた。このころ、曹爽が専権していたため、宣帝は病気と称して私宅に帰ったが、何曾も病気を理由に出勤しなかった。曹爽が誅殺されてから、出勤して仕事をこなした。魏帝(高貴郷公)の廃位時、何曾はその謀議に参与した。
そのころ、歩兵校尉の阮籍は才能を恃みに放逸し、喪中なのに礼をないがしろにしていた。何曾は文帝が設けた宴席上で、面と向かって阮籍を詰問した、「卿(きみ)は情欲に任せて礼にそむき、風俗を退廃させている人間だ。いま、忠良賢明のお方(文帝のこと)が朝政を切り盛りし、〔官人の〕評判と実態が一致しているか総合的にお調べになるだろうから、卿のような連中はもう伸び伸びとできないぞ」。そして文帝に言った、「公は『孝をもって天下を治める』(『孝経』孝治章)ことにとりかかっているところです。しかし、阮籍は親の喪中16原文は「重哀」。『世説新語』任誕篇、第二章は「重喪」に作る。『世説新語』によれば阮籍はこのとき母の喪中にあったという。にもかかわらず、公の設けた宴席上で〔公を前に堂々と〕酒を飲んだり肉を食ったりしていますのに、それを公は見過ごしておられます。〔阮籍を〕辺境に放擲し、華夏を汚染させないようになさるべきです」。文帝、「この子(おかた)はこれほどにやつれておるぞ。私のために容認できないかね」。何曾はふたたび古典を引用して苦言を呈したが、その言葉はひじょうに厳しかった。文帝は聴き入れなかったが、世の人々は何曾を畏怖した。
毌丘倹が誅殺され、子の毌丘甸とその妻の荀氏は連座により死罪に相当した。荀氏の妻の荀顗や族父の荀虞はともに景帝の姻戚であったが、いっしょに魏帝に上表し、荀氏の助命を嘆願した。詔が下り、〔毌丘甸と荀氏との〕離婚を許可した。荀氏が生んだ娘である毌丘芝は潁川太守の劉子元に嫁いでおり、同様に連座により死罪に当たったが、妊娠中だったため牢獄に拘留された。荀氏は何曾のもとへ告訴しに行き17原文「荀辞詣曾」。「辞詣」の用例を見ると、「冤罪などを訴えるために司法機関などへ赴く」という意味あいのようである。本伝もこの意味で問題なく通じる。、恩赦を求めて言った、「芝(むすめ)は廷尉の牢獄に拘留され、影を眺めて命運を悟り18原文「顧影知命」。わからない。「顧影」は「苦境にある自分をみずから憐れむ」という文脈で使われることもあるようなので、そのようなニュアンスなのかもしれない。、日数を数えて死刑執行に備えています19原文「計日備法」。「備法」はよくわからないが、「刑の執行に備える」と解釈した。。〔私を〕官婢に没して芝の命を贖わせていただけないでしょうか」。何曾は母子を憐れに思い、〔荀氏の〕告訴を報告し、議を奏上した。朝廷の人々はみな〔その議を〕妥当だと考えたため、とうとう律令を改定し〔て、毌丘芝に連座が及ばないようにし〕た。この議の言葉は刑法志に記してある。
何曾は長年にわたって司隷校尉を務め、〔そののちに〕列曹尚書に移った。正元年間、鎮北将軍、都督河北諸軍事、仮節となった。鎮へ出発するさい、文帝は武帝と斉王攸を数十里の見送りに行かせた。何曾は賓主の礼を盛大に執り行ない、太牢の料理20牛・羊・豚の三種の肉がそろった料理。を用意した。侍従や吏騶21どちらも原文まま。詳細はわからないが、武帝たちの付き添いだろう。はみな酒を存分に飲み、食事をたらふく食べた。武帝は退出し、さらに何曾の子の何劭のもとに立ち寄った22原文「帝既出、又過其子劭」。ここの「帝」はもしかすると文帝のことかもしれないが、とりあえず武帝で取ってみた。。何曾はあらかじめ何劭を戒めて、「客人が必ずおまえを訪問するから、おまえは事前に服装を整えておかねばならぬぞ」と言っておいた。〔武帝が訪問したとき、〕何劭は冠と帯を装着しておらず、武帝を長らく外で待たせたため、何曾は何劭を厳しく譴責した。何曾はこのように尊重されていたのである23唐突な一文だが、おそらく文帝が武帝らを見送りにつかわしたことについて言っているのだろう。。征北将軍に移り、潁昌郷侯に昇格された。咸煕のはじめ、司徒に任じられ、朗陵侯に改封された。文帝が晋王になったとき、何曾は高柔や鄭沖とともに〔魏朝の〕三公であった。入室して接見するさい、何曾だけは拝礼して礼を尽くしたが、ほかの二人は拱手するのみであった24似たような話が巻三三、王祥伝、『三国志』魏書四、陳留王紀、咸煕元年三月の裴松之注に引く「漢晋春秋」に記されているが、それらではほかの二人とは王祥と荀顗のことになっている。実際、文帝が晋王になる直前、王祥、何曾、荀顗の三人が魏の三公に就いている(『三国志』陳留王紀、咸煕元年三月)。そもそも銭大昕が指摘するように、高柔は文帝が晋王に封じられる前に死去しているため(『廿二史考異』巻二一、晋書四)、本伝の記述は根本的におかしい。高柔も鄭沖も文帝が晋王に封じられる以前の時代に魏の三公を務めているので、なんらかの混同があって本伝のような記述になってしまったのだろう。。
武帝が晋王を継承すると、何曾を晋の丞相とし、侍中を加えた。何曾は裴秀や王沈らと勧進(帝位に就くよう勧める)した。武帝が即位すると、太尉に任じられ、封爵を公に進められ、食邑は一八〇〇戸とされた。泰始のはじめ、詔が下った、「およそ、『優れたはかりごとによって政治を助けて調整する』(『尚書』皐陶謨篇)ことで、『王の御身はかくして安らかになる』(『毛詩』大雅、烝民)のは、〔その者が〕おおいなる規範を宣布し、四海に行き渡らせることができるからであろう。侍中、太尉の何曾は、打ち立ててきた徳業は高大にして、堅持している心は忠誠であり、知識は広く、知性は明敏で、先帝を輔翼し、その勲功は顕著である。朕は帝業を受け継ぎ、王室の筆頭となった25原文「首相王室」。「首相」は地位が一番であることを言う。。〔なんじは〕先人の道を踏襲し、〔先人に倣った補佐を〕朕の身に施すようにせよ26原文「迪惟前人、施于朕躬」。『尚書』君奭篇に「迪惟前人光、施于我沖子」とあり、孔伝に「欲蹈行先王光大之道、施正於我童子」とある。ただし本伝の「前人」は、何曾の先祖を指しているのではなく、前代までの模範的な宰相たちを言っているのであろう。。まことに受命を助け、教化を振興し、政道をおおいに翼賛したまえ。そもそも三司(司徒・司空・太尉の三公)の任務は帝王の仕事をかたわらで支援することだといっても、『わたしが誤っていたら、なんじが正す』(『尚書』益稷篇)のような、君主の過ちを匡正する任務に関しては、〔三司よりも上位の〕保傅の職分である。そのゆえに、袞職(三公などの大臣職)を明らかにして置こうとするときは、『〔有徳者を登用して〕君主の事業を治めさせる』(『尚書』君奭篇)よりも重要なことはないのである。そこで、何曾を太保とし、侍中はもとのとおりとする」。しばらくすると、本官を帯びさせたまま領司徒とした。何曾は固辞したが、承認せず、散騎常侍をつかわして武帝の意向を説諭させると、〔何曾は〕ようやく仕事を執った。〔のちに〕太傅に進められた。
何曾は高齢を理由にしばしば辞職を求めた。詔が下った、「太傅は清明高潔で、広い度量と強い意志を保持しており、高い徳をそなえた老臣、または国家の宗臣(尊敬を集める臣)と評せよう。しかしながら、〔太傅は〕隠棲に憧れて何度も辞職しようとしている。朕は寡徳であるから、〔太傅の〕補佐を頼みとしていたため、上奏文を見てまことに失望している。ひとの美点を完成させてやりたいと思ってはいるものの、太傅の雅志(日ごろの志)高尚な志(2023/3/28:修正)をかなえさせて補佐の利益をうちすてることが、どうしてできようか。また、司徒の職務は煩瑣で、年配者を久しくわずらわせるべきではない。そこで〔太傅を〕太宰に進め、侍中はもとのとおりとする。朝会のさいは、剣と靴を着用したままで、輿(こし)に乗りながら上殿することを許し、漢の相国の蕭何、田千秋、魏の太傅の鍾繇の故事に従え。銭百万、絹五百匹、八尺の寝台の帳、すのこと敷物のセット27原文「八尺牀帳簟褥自副」。武帝期には隠退を申し出た老臣に「牀帳簟褥」を賜う例がほかにもある。「簟褥自副」はよくわからないが、「簟」をすのこ、「褥」を敷物(マットレス)、「自副」を一式・セットの意味で読んでみた。を下賜する。〔府には〕長史、祭酒、およびその他の府吏をすべて旧制に従って設けよ。〔かつて?〕支給した親兵と官騎は以前のままとせよ。主者は序列に従い、礼典を参照して、〔礼遇を〕手厚く備えさせるように努めよ28原文「主者依次按礼典、務使優備」。巻三六、衛瓘伝にも「主者務令優備、以称吾崇賢之意焉」と、似た文言が見えているが、使役の対象がわからず、よく読めない。かりに武帝を使役の対象とし、「私が礼遇を手厚く用意することができるように詳細を詰めよ」という意味で解釈した。」。こののち、接見に呼び寄せるたびに、〔何曾が〕日常で飲食しているものや着用しているものを持参するように〔何曾に〕言いつけ29原文「勅以常所飲食服物自随」。よく読めないが、好きな飲食物(介護食的な?)や服装(私服)で来てよい、という意味で解釈した。、二人の子(何劭と何遵?)に付き添いを命じた。
咸寧四年、薨じた。享年八十。武帝は朝堂で素服を着用し、哀悼儀礼を挙行した。東園秘器、朝服一具、衣一襲、銭三十万、布百匹を賜与した。埋葬直前、礼官に命じて諡号を議論させた。博士の秦秀は「繆醜」と結論したが、武帝は採用せず、策書を下して「孝」を諡号とした。太康の末年、子の何劭がみずから上表し、諡号を「元」に変更するよう求めた。
何曾は至孝の性格で、家庭内は整然厳粛としており30原文「閨門整粛」。「閨門」は婦女用の寝室の入口のことで、転じて家庭を指す。「閨門」をとくに女性関係と解し、「何曾は女性関係がきちんとしていた」とも読めるかもしれないが、「〔鄧〕訓雖寛中容衆、而於閨門甚厳、兄弟莫不敬憚、諸子進見、未嘗賜席接以温色」(『後漢書』列伝六、鄧禹伝附鄧訓伝)、「幼而母卒、養於伯母王氏、事之如親、閨門中甚有孝義」(『南斉書』巻四八、袁彖伝)など、類例の多くは「閨門」で兄弟関係や親子関係を含めた家庭関係全般を指しており、女性関係に限って解釈する必要はない。、少年から大人におよぶまで31原文「自少及長」。「何曾が幼いときからずっと」とも読めるが、文脈上は本文のように取ったほうがよいと考えたため、そのようには読まなかった。、音楽や女色を好む者はいなかった。高齢になったあと、妻と顔を合わせるときは、二人とも服装を正し、おたがいに賓客を相手にしているかのように接した。何曾自身は南面、妻は北面となり、再拝して酒を奉じ、酒杯の応酬が終わったらすみやかに退出する、というやりとりを一年のうちに二、三回程度おこなっていた。むかし、司隷校尉の傅玄は論(『傅子』)を著述し、何曾と荀顗を称えて次のように述べた。「文王の道をもって親に仕える者は潁昌侯の何侯であろうか、それとも荀侯であろうか。いにしえは曾閔(曾子と閔子騫)と言われたが、いまは何荀(何曾と荀顗)と言われよう。内は心を尽くして親に仕え、外は礼敬を尊んで世間の人々に接遇している。孝子は百世代にわたる手本、仁人は天下の命脈である32原文「孝子、百世之宗、仁人、天下之命」。いまいちよくわからない。『三国志』何夔伝の裴松之注に引く「傅子」は「命」字を「令」字に作る。「令」ならば「天下きっての立派なひと」という意味あいだろう。これだと意味も取りやすく、「令」が正しいかもしれない。。孝の道を実践しうる者がおれば、君子の模範なのである。『詩』に『高山ハ仰ギ、景行ハ行ク(立派な徳を仰ぎ慕い、立派な行動を実践する)』(『毛詩』小雅、車舝)と言う。立派な徳をそなえながら、二人の夫子(何曾と荀顗)の立派な行動に倣わない者は、中正の道を好んでいるわけではないのであろう」。「荀何(何曾と荀顗)は君子から模範と仰がれる第一人者である」。「潁昌侯の親への奉仕は、孝子の道を尽くしているのではないだろうか。親の存命中は和合を尽くし、奉仕は恭敬を尽くし、死没時は悲哀を尽くした。私はこれらの所作を潁昌侯から目撃したのだ」。「親の親族に会うときは親に会うかのごとくで、六十歳にして幼子のように親を敬慕した。私はこれらの所作を潁昌侯から目撃したのだ」。
しかし豪奢な気質で、贅沢に力をそそいでいた。とばり、車、衣服は美麗を極め、料理は王者のものをしのぐ美味であった。〔宮廷の〕宴席に召されるといつも太官が用意した料理に手をつけないので、武帝はそのたびに食事を取るよう命じていた。蒸餅は、上に十字の切れ目を入れなければ食べなかった。一日の食費は一万銭にのぼったが、それでもなお「箸を下ろすところがないわい33貧相で食べる気が起きない、という意味であろう。」と言っていた。ひとが価値の低い紙34原文は「小紙」。紙片、メモの謂いかもしれないが、ここでは「小」を価値が低いこと、つまらないことの意で取った。で書類を作成してきた場合は、「〔その書類を自分に〕報告するな」と記室35府の職員。府主宛ての書類の受付業務をつかさどっていた。に言いつけていた。〔監察官を務めていた〕劉毅らは、何曾の奢侈に限度がないことをしばしば弾劾したが、武帝は何曾が重臣であるのを理由に、いっさい不問としていた。
都官従事の劉享はかつて何曾の奢侈を弾劾したことがあり、銅製の鉤(フック)と黻のひもによって牛車を牽かせ36原文「以銅鉤紖車」。わからない。和刻本は「銅鉤ヲ以テ車ヲ紖シ」と読んでいる。『漢語大詞典』によれば「」は「黻」と同義という。「高官用の礼服(「黻」)から牛を牽引するひもを作り、車を牽かせた」ということだろうか。、牛の蹄と角を磨いていたこと37原文「瑩牛蹄角」。この文もよくわからないが、『世説新語』汰侈篇、第六章に「王君夫有牛名八百里駮、常瑩其蹄角」と同文が見え、「蹄と角を磨いていた」と読むのが一般的のようである。磨いてピカピカにしていたということなのだろう。を批判した。後日、何曾が劉享を掾に辟召したが、或るひとは〔劉享に〕応じてはならないと忠告した。劉享は「〔何曾は〕至公の体裁でおられるから、私怨を晴らそうとしているわけではなかろう」と考え、とうとう辟召に応じてしまった。何曾はしょっちゅうささいな件で因縁をつけ、劉享に棍棒で懲罰を加えた。外面は寛大に見えて内面は恨み深いのも、このような類いであった。ときに、司空の賈充の権勢が君主になぞらえられるほど大きかったころ、何曾は賈充にへり下り、迎合していた。賈充と庾純が酒席で諍いを起こすと38巻五〇、庾純伝に記述がある。この二人はもともと良好な関係ではなかったようだが、あるとき賈充が宴会を開き、途中で庾純が酒を注いで回っていたところ、賈充は注がれた酒を飲まなかったので、言い争いになってしまった。そのときに賈充が「父が高齢なのに官を去って世話をしないのはどういうわけか」となじると、庾純が「高貴郷公はどこにおられるのか」と返したという。このあと、賈充は上表して解職を求め、庾純も上表して印綬を返還し、みずから処分を求めた。『資治通鑑』巻七九、泰始八年も参照。、〔庾純の処分をめぐる〕何曾の議は賈充にひいきし、庾純を不当におとしめる内容であった39庾純伝によれば、詔により庾純を免官とし、さらに「父の世話をしていない」という件にかんして、さらなる処分(爵土の退削)が必要かどうか議論された。このとき何曾は斉王攸、荀顗とともに議を提出し、庾純の兄弟が父の世話をしているから、庾純は礼的にも法的にも違反はしておらず、免官のみで妥当、と陳述している。それゆえ、庾純に不当に厳しかったというわけではないように思うのだが、本伝にはこのように書いてある。。この件によって、正直な人々からは非難された。何遵、何劭の二人の子がおり、何劭があとを継いだ。
〔何劭:何曾の子〕
何劭は字を敬祖という。武帝と同年齢で、児童のころから親しい関係だった。武帝が晋王太子となると、何劭を太子中庶子とした。武帝が即位すると、散騎常侍に転じ、ひじょうに親しい待遇を受けた。何劭は生まれつき容姿端麗で、遠方からの客が朝見に来たときは、必ず何劭を武帝の側に侍立させた。各地方が物品を貢納するたびに、武帝はいつもそれを何劭に下賜し、何劭が感謝を申し述べる様子を見物した。咸寧のはじめ、有司が上奏し、何劭とその兄の何遵らは前の鬲令であった袁毅から賄賂を受け取っており、赦免にあずかっ〔て罪には問われなかっ〕たとはいえ、〔賄賂を受け取った人士らは〕全員禁止40「禁止」は原文まま。『資治通鑑』巻七一、太和四年十二月に「朱拠禁止」とあり、ここの胡三省注に二つの説が注記されている。ひとつが胡三省の説で、自宅軟禁処分のことを言い、監視がつき、外部との接触も許さないというもの。もうひとつが『通志』などの解説で、宮中への出入りを禁じる処分のこと。この意味での「禁止」は『宋書』巻三九、百官志上、光禄勲にも記載があり、「二台奏劾、則符光禄加禁止、解禁止亦如之。禁止、身不得入殿省、光禄主殿門故也」とある。どちらが適当なのか判断つかないが、おおざっぱには「弾劾を受けた官吏の行動の自由を制限することを言う(謂限制受弾劾官吏的行動自由)」(『漢語大詞典』)という理解で問題ないだろう。に処すべきである、と求めた。事案は廷尉に下されて審議された。詔が下った、「太保(何曾)は袁毅と累代の付き合いがあったし、何遵らが受け取った物品はおおむね少額であるから、一律に全員を赦すことにする」41廷尉で審議されたものの、その判決が出るのを俟たずに(あるいは出たあとで?)、武帝が恩赦の詔を下して不問としたという流れであろう。。侍中、列曹尚書に移った。
恵帝が即位し、東宮を初めて立てた42原文「初建東宮」。最初(「初」)の東宮、すなわち愍懐太子のこと。。太子(愍懐太子)はまだ年少であったが、〔太子に〕万機をみずから処理させてみようと考えたため、六人の傅(もり役)を精選することにして、〔その一人として〕何劭を太子太師とし、〔この六人を〕通省尚書事(尚書奏事をあまねく閲覧してチェックする)とした43王隠『晋書』佚文によると、この措置は楊駿の発案であったという。『北堂書鈔』巻六五、太子太師「何劭領太師通省尚書事」に引く「王晋書」に「何劭、字敬祖、以本官領太子太師。初、楊駿以祖毎注情於広陵王遹而賈后無子、遂立遹為太子、欲令親万機、而年尚小、故盛選六傅、以劭領太師、通省尚書事」とあり、『太平御覧』巻二一一、録尚書に引く「傅暢晋故事」に「何劭、王戎、張華、裴楷、楊済、和嶠、為愍懐太傅、通省尚書事」とある。。のちに特進に転じ、昇進を重ねて尚書左僕射に移った。
何劭は博学で、文章の制作に巧みであり、近代の出来事をスラスラと説明することができた。永康のはじめ、司徒に移った。趙王倫が帝位を簒奪すると、何劭を太宰とした。三王(斉王冏ら)が争いあうようになると、何劭は高位に就いたまま争乱のさなかを渡り歩いたが、何劭のことを怨む人間はいなかった。しかし傲慢奢侈で、プライドが高く、父(何曾)の風格を受け継いでいた。夏冬用の衣服や日用の器物は、新品と中古品が膨大に蓄積されていた。食事は必ず天下の珍味を尽くし、一日の食費は銭二万を上限としていた。世論は「太官(天子の食事係)のお食事ですら何劭以上ではない」と評していた。けれども、悠々自適と過ごして満足し、権勢に貪欲ではなかった。あるとき、同郷の王詮にこう言った、「僕は名声と位が過分で、特筆すべき事跡は若いときからありませんが、ただ夏侯長容(夏侯駿)といっしょに〔某に〕博士を授けるのを諫めたことだけは44原文「惟与夏侯長容諫授博士」。詳細不明ゆえ、この読み方で正確なのかもわからない。、史籍に伝えられるにあたいするでしょう」。編纂物の「荀粲伝」と「王弼伝」、および何劭の奏議や文章はどれも世に広く流通した。永寧元年に薨じ、司徒を追贈され、康の諡号をおくられた。子の何岐があとを継いだ45『太平御覧』巻五六一、弔に引く「王隠晋書」に「何劭為司徒、薨、養子岐為嗣」とあり、何岐は養子であるという。また『三国志』魏書一二、何夔伝の裴松之注に引く「晋諸公賛」だと名が「蕤」と表記されている。『晋書斠注』は『晋諸公賛』を誤りとしている。。
何劭が薨去したばかりのころ、〔当時中正に就いていた〕袁粲が何岐を弔問したが、何岐は病気を理由に面会を謝絶した。袁粲はひとりで慟哭してから退出すると、「今年、ぜったいに婢子(何岐のこと)の品(郷品のこと)を下げてやる」と言った。王詮が袁粲に言った、「死去を聞いて死者を弔うのに、どうして生者に会う必要がありましょうか。何岐は以前に多くの罪を犯していたのに、そのときには〔品を〕下げませんでした。何公が亡くなるや、すぐに何岐の品を下げるとなると、人々は『中正(袁粲)は強者を恐れて弱者を侮っているぞ』と噂するようになるでしょう」。そこで袁粲はやめにした。
〔何遵:何曾の子〕
何遵は字を思祖といい、何劭の庶兄(庶子で何劭より年長)である。若くして才幹をそなえていた。起家して散騎侍郎、黄門侍郎、散騎常侍、侍中を歴任し、昇進を重ねて大鴻臚に転じた。やはり奢侈な気質で、御府46漢代は少府に属した官署で、天子の衣服の製作・補修・洗濯を管轄し、魏晋でも変わらず置かれていた。ただし本伝の「御府」はこの官署を指しているのではなく、天子の日用品を管轄する官府全般のことを言っているのかもしれない。の職人を働かせて禁止物品を製作させ、さらに〔それらの?〕器物を行商させたところ、司隷校尉の劉毅に弾劾され、免官となった。太康のはじめ、〔免官から〕起家して魏郡太守となり、太僕卿に移ったが、またも免官となった。〔そのまま官に復帰することなく〕家で卒した。何嵩、何綏、何機、何羨の四人の子がいた。
〔何綏ほか:何遵の子たち〕
〔何嵩〕
何嵩は字を泰基という。温厚寛大で、士人を敬愛し、書籍を広く読み、とりわけ『史記』と『漢書』に詳しかった。若くして清官を歴任し、領著作郎となった。
〔何綏〕
何綏は字を伯蔚という。侍中、列曹尚書にまで昇進した。代々の名貴(名声があって高貴)であるのを自負し、奢侈は過度で、他人を侮る性格であり、書簡でも傲慢だった。城陽の王尼は何綏の書簡を読むと、ひとにこう言った、「伯蔚は騒乱のなかにあってもこんな傲慢ぶりだ。どうして災難から逃れられようか」。劉輿と潘滔が東海王越に告げ口し、何綏のことをそしったので、東海王はとうとう何綏を誅殺した。そのむかし、〔何綏らの祖父である〕何曾が武帝の主催した宴会に参加したとき、帰ると何遵らに話をし、「国家は天命に応じて受禅し、帝業を創始して後世に伝えていくことになったわけだが、宴席に召されて会食するたび、一度も国家経営の長期的な計画の話を聞いたことはなく、ひたすら日常の事柄を話題にしている。『子孫に良き計画を伝え残す』(『毛詩』大雅、文王有声)という予兆を感じさせる雰囲気ではない。御自身のことにしか気が回っていないから、お世継ぎは危険であろうな。これは子や孫たちにとっての悩みの種であろう。おまえたち(子の何遵たち)はまだ終わりを全うできようが……」と言うと、孫たちを指さし、「こやつらはきっと騒乱に巻き込まれて死によるわ」と言った。何綏が死ぬと、何嵩は慟哭して言った、「我祖(おじいさま)はまるで聖人だ」。
〔何機〕
何機は鄒平令となった。これまた傲慢な性格で、同郷の謝鯤らに拝礼を強制した。或るひとが何機をたしなめて言った、「年長者や有爵者に礼儀を示して敬意を払うのは、有徳者を主人とするからです47原文「礼敬年爵、以徳為主」。よくわからない。。謝鯤を権勢者に向かって拝礼させるというのは、おそらく風俗を損なわせてしまうでしょう」。何機は恥だと思わなかった。
〔何羨〕
何羨は離狐令となった。傲慢かつケチで、他人を見下しており、郷里の人々からは仇のように嫌われていた。
永嘉の末年、何氏は死に絶え、誰も生き残らなかった48このように書かれてあるが、『芸文類聚』巻五一、尊賢継絶封に引く「晋中興書」に「泰元二年、興滅継絶後、……何曾後闡為朗陵侯」とあり、孝武帝の太元二年に何曾の子孫を封じている。。
王祥(附:王覧)・鄭沖/何曾(附:何劭・何遵)/石苞(附:石崇・欧陽建・孫鑠)
(2022/12/27:公開)