巻三十八 列伝第八 宣五王

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系図宣五王/文六王

 宣帝には九人の男子がいた。穆張皇后は景帝、文帝、平原王の幹を生み。伏夫人は汝南文成王の亮、琅邪武王の伷、清恵亭侯の京、扶風武王の駿を生み、張夫人は梁王の肜を生み、柏夫人は趙王の倫を生んだ。亮と倫は別に列伝がある(巻五九、汝南王亮伝趙王倫伝)。

平原王幹

 平原王の幹は字を子良という。若年のとき、公子の身分であることをもって魏の時代に安陽亭侯に封じられ、昇進を重ねて撫軍中郎将に移り、爵を平陽郷侯に昇格された。五等爵が開建されると、定陶伯に改封された。武帝が即位すると、平原王に封じられ、食邑は一万一三〇〇戸とされ、鼓吹と駙馬二匹を支給され、侍中の服を加えられた1原文「加侍中之服」。巻五九、汝南王亮伝や以降の諸伝にも用例があるが、不詳。。咸寧のはじめ、諸王を就国させた。幹は病気が重く、理性が不安定だったが、ひじょうに物静かで、寡欲であった。そこで特別に詔が下り、幹を洛陽に留めさせた。太康の末年、光禄大夫に任じられ、侍中を加えられ、特別に金章紫綬を授けられ、朝位は三公に並んだ。恵帝が即位すると、左光禄大夫に進められ、侍中はもとのとおりとされ、剣を佩き、靴をはいたまま上殿すること、入朝しても小走りにならなくともよいことの殊礼を賜わった。
 幹は大国の王であったとはいえ、政務を仕事と思わず、属僚の任命は必ず才能を基準にしていた。封爵と俸禄を保有していたけれども、自分のものではないかのように扱い、秩俸2西晋時代の諸侯の秩俸は、諸侯国の民から徴収された租(穀物)と戸調(絹)の一部を割いて支給されていた。[藤家一九八九]第二章第三節、[渡辺二〇一〇]第六章を参照。や〔下賜された?〕布帛はすべて野外に積まれ、腐乱してしまっていた。空が曇り、雨が降り出すと、犢車(牛車)を外に出して露車(車蓋がない車)を屋内に入れた。或るひとがその理由を訊ねると、「露者(屋根・覆いがないもの)は屋内に入れるべきですから」と答えた。朝士が幹のもとを訪問すると、〔幹へ〕姓名を伝えたとしても、〔幹は〕必ず〔来訪者の〕馬車を門外に立たせておき、〔そのまま放ったらかしにして〕終夜接見しないときもあった。面会できたときには、〔幹は〕訪問者をつつしみ深く接待し、終始粗相がなかった。あいついでお気に入りの妾が死んでしまったが、納棺しても、いつも棺に釘を打たず、奥の空き部屋に安置し、数日に一度、棺を開いて様子を見て、ときによっては淫行し、遺体が損壊してから埋葬した。
 趙王倫が輔政すると、幹を衛将軍とした。恵帝が復位すると、ふたたび侍中となり、太保を加えられた。斉王冏が趙王を平定したとき、宗室や朝士はみな牛肉や酒を献じて斉王を慰労したが、幹だけは百銭を持参し、斉王に面会するとそれを差し出して言った、「趙王は反逆し、おまえは義挙をなしえた。これはおまえの功績だから、百銭でおまえを祝ってやる。でも、ばかでかい権勢に居座りつづけるのは難しいんだし、慎まないわけにはいかないぞ」。斉王はすでに輔政を担っていたが、幹が斉王を訪問したとき、斉王は出迎えて拝礼した。幹が部屋に入ると、座台に尻を着けて膝を立てて座り(不遜な座り方)、斉王に着席を指示せず、語りかけて言った、「おまえ、白女児のマネはするなよ」。「白女児」は趙王のことである。斉王が誅殺されると、幹は彼のために慟哭し、周囲の人々に言った、「宗室が日に日に衰えていく。この小僧はいちばん見どころがあったが、これまた殺してしまった3原文「而復害之」。「之」は斉王冏を指す。斉王を「害」したところの主語は身内たるわれわれ「宗室」で、汝南王らにつづいてまたまた身内同士で殺しあってしまった、という含意だろう。。これからは危険だ」。
 東海王越が義挙し、洛陽に到着すると、出向いて幹に会いに行ったが、幹は門を閉じて通さなかった。東海王がしばらくのあいだ車を停めて待っていたので、幹はひとをやって〔東海王に〕謝絶を伝えさせて追い返させ、自分は門の隙間からこの様子を観察していた。当時の人々は〔東海王に会おうとしなかった〕幹の考えを理解できず、或るひとは疾患があるのだろうと思い、或るひとは隠棲のつもりなのだろうと思った。永嘉五年に薨じた。享年八十。ちょうど劉聡が洛陽を侵略したため、諡号を贈るいとまがなかった4幹に諡号が記されていないのはこのゆえであろう。なお武帝の子である呉王の晏はやはり永嘉の乱時に殺害されてしまったが、孝または敬の諡号がおくられている(巻六四、武十三王伝、呉王晏伝)。おそらく晏の場合、子の鄴(愍帝)が即位してから諡号が追贈されたのであろう。幹は子も死に絶えてしまったため、追贈の機会がなく、ついぞ諡号が加えられなかったのだと考えられる。。二人の子がおり、世子の広は早世し、次子の永は太煕年間に安徳県公に封じられ、散騎常侍となった。二人とも善良な士人であった。〔永は〕戦難に遭〔って死んでしま〕い、〔幹の〕一門は全滅してしまった。

琅邪王伷

 琅邪の武王の伷は字を子将という。正初のはじめ、南安亭侯に封じられた。若くして才能と名声を有し、起家して寧朔将軍となり、鄴城の守衛を監督したが、人心をよく懐柔したとの誉れが立った。昇進を重ねて散騎常侍に移り、東武郷侯に昇格し、右将軍、監兗州諸軍事、兗州刺史に任じられた。五等爵が開建されると、南皮伯に封じられた。征虜将軍、仮節に転じた。武帝が即位すると、東莞郡王に封じられ、食邑は一万六〇〇戸とされた。〔諸侯国のなかでも東莞国など数国に〕はじめて二卿5巻二四、職官志には、郎中令、中尉、大農の三卿が王国に置かれいたと記してある。五等開建の当初から卿が設けられていたわけではなく、段階的に増設されていったということなのかもしれないが、よくわからない。を置き、特別に詔を下し、〔それらの諸国の〕諸王みずからが県の令長を選任することを許可した。伷は上表して辞退したが、承認されなかった。中央に入って尚書右僕射、撫軍将軍となり、地方に出て鎮東大将軍、仮節、〔都督?〕徐州諸軍事となり、衛瓘に代わって下邳に出鎮した。伷の鎮護は道理に適っており、将士は死力を尽くすことができたため、呉人は伷を恐れ憚った。開府儀同三司を加えられ、琅邪王に改封され、東莞を琅邪国に加増された。
 伐呉戦争のとき、〔伷は〕軍数万を率いて涂中へ出撃したところ、孫晧は書簡を奉じて璽綬を送り、〔それらを持参させた使者を〕伷のもとに行かせて、降服を願い出た。詔が下って言った、「琅邪王の伷は麾下の軍を率い、連続して涂中を占拠し6原文「連拠涂中」。「連」字はよくわからない。涂中にある孫呉の複数の拠点を連続で落とした、ということだろうか。、賊が仲間同士で救いあえないようにさせた。また琅邪相の劉弘らを進軍させて長江に接近させたところ、賊は震撼し、〔伷のもとに〕使者をつかわして虚偽の璽綬を献上してきた。また長史の王恒に諸軍を統率させて長江を渡らせると、〔王恒は〕賊の辺境の防衛施設を落とし、督の蔡機を捕え、斬首や降服は五、六万を数え、諸葛靚や孫奕らは帰順して死罪を願い出た。勲功が顕著であるゆえ、そこで二人の子を亭侯に封じ、おのおの食邑三千戸とし、絹六千匹を賜うこととする」。しばらくすると、督青州諸軍事を兼任し、侍中の服を加えられた。大将軍、開府儀同三司に進められた。
 伷は身分が高い宗室であるうえ、孫呉平定の功績をあげたが、自己を正して謙虚であり、得意げな様子がなかった。属僚は〔伷のために〕力を尽くし、百姓は〔伷の〕教化を慕った。病気が重くなると、寝台の帳、衣服、銭帛、秔粱(上等な米)などの物品を下賜し、侍中をつかわして見舞わせた。太康四年、薨じた。享年五十七。臨終のさい、上表し、母の伏太妃の墓の近くに埋葬してほしいこと、国を分割して四人の子を封じてほしいことを求め、武帝はこれを承認した7周家禄『晋書校勘記』が指摘するように、巻三、武帝紀、太康十年十一月に伷の子供たちの封建が記載されているが、後継ぎの覲を含めると全部で五人おり、列伝中にまったく言及がない巻という子が東莞公に封じられている。巻の詳細は不明。。子の恭王の覲が〔琅邪国の後継ぎに〕立った。また、次子の澹を武陵王に、繇を東安王に、漼を淮陵王に封じた。

〔琅邪王覲〕

 覲は字を思祖という。冗従僕射に任じられた。太煕元年に薨じた。享年三十五。子の睿が〔後継ぎに〕立った。これが元帝である。中興(東晋)のはじめ、〔元帝の〕皇子の裒を琅邪王とし、恭王(覲)の祭祀を奉じさせた。裒は若くして薨じてしまったので、さらに皇子の煥を琅邪王とした8厳密には、裒の薨去後にその子の安国が琅邪王に立っている。巻六四、元四王伝、琅邪孝王裒伝を参照。。封じた日に薨じたので、さらに皇子の昱(のちの簡文帝)を琅邪王とした。咸和のはじめ、〔昱を〕会稽に改封したため、成帝はさらに〔弟の〕康帝を琅邪王とした。康帝が即位すると、成帝の長子である哀帝を琅邪王とした。哀帝が即位すると、〔弟の〕廃帝を琅邪王とした。廃帝が即位すると、会稽王の昱に琅邪国の祭祀を代行させた。簡文帝(昱)が即位すると、琅邪王を継ぐ者がいなくなった。簡文帝は臨終のさい、末子の道子を琅邪王に封じた。道子がのちに会稽王になると、さらに恭帝(簡文帝の孫・孝武帝の子)を琅邪王とした。恭帝が即位すると、琅邪国は廃された。

〔武陵王澹〕

 武陵の壮王の澹は字を思弘という。最初は冗従僕射となり、のちに東武公に封じられ、食邑は五二〇〇戸とされた。前将軍、〔ついで〕中護軍に転じた。嫉妬深い性格で、孝友の品行がなかった。弟の東安王繇には名声があり、父母から愛されていたため、澹は繇のことを仇のように憎み、とうとう汝南王亮に告げ口して繇をそしった。汝南王は平素から繇と不仲だったので、上奏して繇を廃し、辺境に流してしまった。趙王倫が反逆を起こすと、澹を領軍将軍とした。澹は日ごろから河内の郭俶およびその弟の郭侃と仲が善かった。〔ある日の〕酒宴もたけなわのころ、郭俶らが〔趙王に誅殺された〕張華は冤罪だと発言した。澹は酒が入ると凶暴化する気質だったため、二人を殺してしまい、趙王のもとへ首を送った。酒に酔うと凶悪なさまはこのようであった。
 澹の妻の郭氏は賈后の内妹9「内妹」は辞書だと妻の妹を指すというが、それだと文意が通じない。郭氏は賈后の母方の一族なので、ここでは母方の従妹を指しているのではなかろうか。であった。〔澹は〕当初、〔賈氏の〕権勢を恃み、澹の母親に無礼であった。斉王冏が輔政すると、澹の母の諸葛太妃は澹が不孝だと上表し、繇を〔辺境から〕戻すように求めた。これにより、澹は妻子といっしょに遼東に流されることになった。子の禧は五歳であったが、随行しようとせず、「〔洛陽に留まって〕父上のために帰還をお願いしなければなりませんから。いっしょに行くべきではないですよ」と言った。〔禧が澹の帰還を〕数年にわたって陳情していたが、〔やがて〕諸葛太妃は薨じ、繇は殺されてしまい、それからようやく〔澹は〕帰還することができた。光禄大夫、列曹尚書、太子太傅に任じられ、武陵王に改封された。永嘉の末年、石勒に殺された。子の哀王の喆が〔後継ぎに〕立った。喆は字を景林といい、散騎常侍に任じられたが、同様に石勒に殺されてしまった。子がおらず、後日、元帝は皇子の晞を武陵王に立て、澹の祭祀を奉じさせた。

〔東安王繇〕

 東安王の繇は字を思玄という。最初は東安公を授けられ、散騎侍郎、黄門侍郎を歴任し、散騎常侍に移った。あごとほおのひげが美しく、豪胆な性格で、威光と名望があり、博学多才で、親に対して孝行であり、服喪のときは礼を尽くした。楊駿誅殺のさいは、繇は雲龍門に駐屯し、諸軍を総統した。功績によって右衛将軍に任じられ、領射声校尉となった。封爵を郡王に昇格され、食邑は二万戸とされ、侍中を加えられ、兼典軍大将軍(外号将軍号)となり、右衛将軍はもとのとおり領した。尚書右僕射に移り、散騎常侍を加えられた10以上の楊駿誅殺後の官の経歴は、授与の流れがよくわからない。。この日11楊駿誅殺後まもなく、功罪が論じられて賞罰が決定した日のこと。、三百余人に誅罰と褒賞を下したが、すべて繇から出された賞罰であった。東夷校尉の文俶の父である文欽は、繇の外祖父(母方の祖母)である諸葛誕に殺されていた。そのため、繇は文俶が舅(母の兄弟)一族の禍になるかもしれないと心配していた。賞罰を下したこの日、罪にならない事柄にかこつけて、文俶も誅殺してしまった。
 繇の兄の澹は〔これまで〕しばしば汝南王亮に告げ口して、繇のことをそしっていたが、汝南王は耳を貸していなかった。このときになり、繇が誅罰と褒賞を独断専行していることをもって、澹は〔繇と汝南王の〕不仲に乗じて繇のことをそしると、汝南王は彼の話を信じてしまい、とうとう繇を免官し、公の位をもって私宅に帰らせた12原文「以公就第」。「以王就第」の誤りではないかと思うが、よくわからない。。批判を口にしたかどで罪に問われ、廃されて帯方に流された。永康のはじめ、繇を朝廷に呼び戻し、封爵(東安王)を回復し、宗正卿に任じた。列曹尚書に移り、尚書左僕射に転じた。恵帝が成都王穎を討ったとき、繇は母の喪のために鄴に滞在していたが、成都王に武装を解除して降るよう勧めた。王師が敗北すると、成都王は繇に怒りをつのらせたので、殺してしまった。のちに〔元帝は?〕琅邪王覲の子である長楽亭侯の渾を東安王に立て、繇の祭祀を奉じさせた。〔渾は〕まもなく薨じてしまい、国は廃された。

〔淮陵王漼〕

 淮陵の元王の漼は字を思沖という。最初は広陵公に封じられ、食邑は二九〇〇戸とされた。左将軍、散騎常侍を歴任した。趙王倫が帝位を簒奪したさい、三王(斉王冏ら)が起義すると、漼は左衛将軍の王輿と協力して孫秀を攻めて殺し、そして趙王を帝位から廃した。功績によって淮陵王に昇格され、中央に入って列曹尚書となり、侍中を加えられ、宗正、〔ついで〕光禄大夫へ転じた。薨じ、子の貞王の融が〔後継ぎに〕立った。薨じたが、子がいなかった。安帝の時代、武陵威王(元帝の子の晞)の孫である蘊を淮陵王に立て、元王(漼)の祭祀を奉じさせた。〔蘊は〕散騎常侍まで昇進した。薨じたが、子がいなかったため、臨川王宝(晞の孫)の子である安之を後継ぎとした。宋が受禅すると、国は廃された。

清恵亭侯京

 清恵亭侯の京は字を子佐という。魏の末年、公子の身分であることをもって爵(清恵亭侯)を下賜された。二十四歳で薨じた。射声校尉を追贈され、文帝の子である機、字は太玄を後継ぎとした。泰始元年、〔機は〕燕王に封じられ、食邑は六六六三戸とされた。機は就国したが、咸寧のはじめに中央に召されて歩兵校尉となり、漁陽郡を封国に加増され、侍中の服を加えられた。青州都督、鎮東将軍、仮節に任じられ、北平・上谷・広寗郡の一万三三七戸を燕国に加増され、〔合計で〕二万戸とされた13前の食邑と合計しても二万には三千戸足りないので、原文に脱落があるのかもしれない。。薨じたが、子がいなかった。斉王冏は上表し、子の幾を後継ぎとした。のちに斉王が敗亡すると、国は廃された。

扶風王駿(附:順陽王暢)

 扶風の武王の駿は字を子臧という。幼くして聡明で、五、六歳のころには手紙が書け、経書を暗誦できたので、駿のことを見知ったひとは奇才と評した。成長すると、清廉貞節にして道徳を守り、宗室のなかでもっとも優秀な人材であった。魏の景初年間、平陽亭侯に封じられた。斉王芳が即位したとき、駿は八歳だったが、散騎常侍侍講14侍講は東宮に侍従して講義する役目をいう。散騎常侍とセットで並列されているわけはわからないが、ともかく駿が太子の交友に選ばれたということだろう。『太平御覧』巻二四八、王文学に引く「晋諸公讃」には「扶風王年八歳、聡明、善詩賦、中表奇之、魏烈祖以為斉王芳文学」とある。となった。ほどなく歩兵校尉、〔ついで〕屯騎校尉に移り、散騎常侍はもとのとおりとされた。封爵を郷侯に昇格された。地方に出て平南将軍、仮節、都督淮北諸軍事となり、平寿侯に改封され、安東将軍に転じた。咸煕のはじめ、東牟侯に改封され、安東大将軍に転じ、許昌に出鎮した。
 武帝が即位すると、汝陰王に昇格され、食邑は一万戸とされ、都督豫州諸軍事となった。呉の将の丁奉が芍陂に侵略すると、駿は諸軍を監督してこれを撃退した。使持節、都督揚州諸軍事に移り、石苞に代わって寿春に出鎮した。ほどなく、ふたたび都督豫州となり、許昌へ戻った。鎮西大将軍、使持節、都督雍・涼等州諸軍事に移り、汝南王亮に代わって関中に出鎮し、袞冕侍中の服を加えられた。
 駿は人心を慰撫して治めることに手練れており、威厳(刑罰)と恩恵(教化)を兼ね備えていた。農業と養蚕を奨励するため、兵士と農作業を分担して、自分、属僚、将帥、兵士ら一人につき上限十畝で田を割り当てることにし、つぶさに〔この案を朝廷に〕奏聞した。詔が下り、〔兵士らを〕つかわし、州県に満遍なく行かせ、めいめい農業に努めさせた。
 咸寧のはじめ、羌虜の樹機能らがそむいたので、〔駿は〕軍を派遣してこれを討伐し、三千余級を斬った。征西大将軍に進められ、開府辟召・儀同三司を授けられ、持節と都督はもとのとおりとされた。また、駿に詔が下り、〔麾下の〕七千人を派遣して涼州の守備兵と交代させるよう命じられた。樹機能や侯弾勃らは〔守備兵の交代よりも?〕先に屯田兵を拉致しようともくろんだので、駿は平虜護軍の文俶に命じ、涼州・秦州・雍州の諸軍を監督させ、各軍を進めて〔屯田兵の近辺に〕駐屯させ、樹機能らを威嚇させた。そこで樹機能は統領下の二十部〔の首長?〕および侯弾勃をつかわして軍門に降り、〔首長らは?〕おのおの質子を送った。安定、北地、金城の胡人である吉軻羅や侯金多、北虜の熱冏など二十万口も来降した。その年に〔駿は〕入朝し、扶風王に改封され、封国内にいる氐戸を封国〔の食邑〕に加増され、羽葆と鼓吹を支給された。太康のはじめ、驃騎将軍に進められ、開府、持節、都督はもとのとおりとされた。
 駿は孝行に篤かった。母の伏太妃は〔駿の〕兄の汝南王亮に随伴し、官舎で生活していた。駿はいつも涙を流して思慕し、〔伏太妃が〕病気にかかったと聞くや、そのたびに憂慮のあまり食事もとらず、ときには官職を放棄して朝晩の世話をすることもあった。若くして学問を好み、論文を執筆する学力があった。仁と孝のどちらを優先するかについて荀顗と議論したが、駿の論文には称揚すべきところがあった。斉王攸の出鎮が決まると、駿は上表して切実に諫めたが、武帝に聴き入れられなかったため、ついに病気になって薨じてしまった15巻三、武帝紀によれば、駿が薨じたのは太康七年九月だが、斉王攸は太康三年十二月に出鎮を命じられ、翌四年三月に薨去している。斉王の件がきっかけで発病したにしても、すぐに亡くなったわけではないようである。。大司馬を追贈され、侍中、仮黄鉞を加えられた。西方の人々が駿の薨去を知ると、泣く者が道路にあふれ、百姓は駿のために石碑を建立した。長老は石碑を見て誰もが拝礼した。駿が遺した仁愛はこのように慕われていたのである。十人の子がいたが、暢と歆がもっとも著名であった。

〔順陽王暢〕

 暢は字を玄舒という。〔扶風王を継ぎ、のちに〕順陽王に改封され16巻三、武帝紀によると、太康十年十一月に暢が扶風王から順陽王に改封されている。、給事中、屯騎校尉、游撃将軍に任じられた。永嘉の末年、劉聡が洛陽に侵入し〔、その戦乱に巻き込まれ〕たが、どこで最期を迎えたのかはわからない。

〔新野王歆〕

 新野の壮王の歆は字を弘舒という。武王(父の駿)が薨去したあと、兄の暢が推恩することに決め、封国を分割して歆を封じるよう求めた17「推恩」は「恩恵を広く施す(広施恩恵)」(『漢語大詞典』)こと。とくに諸侯国にかんする場合、封国を分割して嫡子以外にも封領を分け与えることをいう。武帝紀によれば、太康十年十一月に暢が扶風王から順陽王に改封されたときに歆も新野県公に封じられているので、扶風から順陽への改封と封国の推恩(分割)は同時におこなわれたようである。。太康年間、詔が下り、〔歆を〕新野県公に封じ、食邑は一八〇〇戸とし、礼儀は県王に準じた。歆は若くして高貴な身分にのぼったとはいえ、身を慎んで道徳を実践した。母の臧太妃が薨じると、服喪は礼の規定を超過し、孝によって評判をあげた。散騎常侍に任じられた。
 趙王倫が帝位を簒奪すると、〔趙王は歆を〕南中郎将とした。斉王冏が義兵を挙げ、檄を天下に発したが、歆はどちらに従えばよいか判断できずにいた。嬖人(ひいきにしているひと)の王綏が言った、「趙王は近親なうえに強大で、斉王は遠縁なうえに弱小です。公は趙王にお付きになるのがよろしいかと」。参軍の孫洵は大勢の人々に向かって大声で言った、「趙王は反逆を起こしたのだから、天下は団結して趙王を討つべきである。『大義のためならば近親者を滅ぼす』(『左伝』隠公四年)とは、いにしえにおける明白な規範である」。歆はこの意見を聴き入れた。そこで孫洵を斉王のもとへつかわすと、斉王は出迎え、孫洵の手を取って言った、「わが大義を成功に導くのは新野公であろう」。斉王が洛陽に入るとき、歆は甲冑を装備し、麾下を率いて斉王を先導した。功績によって新野郡王に昇格され、食邑は二万戸とされた。使持節、都督荊州諸軍事、鎮南大将軍、開府儀同三司に移った。
 歆が鎮(荊州)に出発する直前、〔歆は〕斉王と車に同乗し、陵墓に参拝した。そのさいに斉王に説いて言った、「成都王は〔陛下と〕もっとも近しい親族で、同様に大勲を立てましたから、成都王を〔京師に〕留めていっしょに輔政なさるべきです。もしそのようにできないのでしたら、成都王の兵権を奪うべきです」。斉王は聴き入れなかった。まもなく斉王は敗亡したので、歆は恐懼し、みずから成都王穎とよしみを結んだ。
 歆の為政は法に厳しく、蛮夷はみな怨みをつのらせていた。〔義陽蛮の〕張昌が江夏で反乱を起こすと、歆は上表して討伐を求めた。そのころ、長沙王乂が朝政を握っており、成都王とは不仲であったが、〔長沙王は〕歆と成都王が結託して密謀を立てているのではないかと疑い、歆の出軍を許可しなかった。そのため、張昌の群衆は日に日に勢いを増していった。当時、孫洵が〔歆の〕従事中郎であったが、歆に言った、「古人にこのような言葉があります。『一日でも敵を放ってしまうと、数世代にわたる禍になる』(『左伝』僖公三十三年)と。公は藩屏の職任を担い、将帥の要職に就いておられるのですから、上奏文を奉じて自己の判断で実行なさることが、どうしていけないことなのでしょうか。悪人を増長させ、禍難を予測不可能な規模にふくらませてしまうことが、どうして『王室を守護し、地方を平和にする』ことだと言えましょうか」。歆はすぐにも出動しようとしたが、王綏がこう言った、「張昌らはたいした連中ではありません。部下の将でも自力で制圧できるでしょう。陛下の命令にそむき、みずから戦場に出向くめんどうは必要ありません」。そこで中止にした。張昌が樊城に到達すると、歆は出陣してこれを防いだが、軍は潰走してしまい、〔歆は〕張昌に殺されてしまった。驃騎将軍を追贈された。子はおらず、兄の子の劭を後継ぎとしたが、永嘉の末年に石勒に没した。

梁王肜

 梁の孝王の肜は字を子徽という。清廉で謙虚だったが、ほかの才能はなかった。公子の身分であることをもって平楽亭侯に封じられた。五等爵が開建されると、開平子に改封された。武帝が即位すると、梁王に封じられ、食邑は五三五八戸とされた。就国することになり、北中郎将、督鄴城守事に移った18おそらく鄴に駐在することになったのだろうが、封国の梁国は豫州にあり、鄴とはかなりの距離がある。詳しくはわからないが、それでも就国なのであろう。
 当時、諸王は〔王国の〕官属をみずから選抜していたが、肜は汝陰の上計吏である張蕃を〔梁国の〕中大夫とした。張蕃はふだんから品行がなく、本名を雄といい、妻の劉氏は音楽に詳しく、曹爽の教伎であった19原文「為曹爽教伎」。和刻本の訓読に従って訳出したが、「教伎」がよくわからない。技芸を教授する妓女を言うのだろうか。。張蕃も何晏のところへ往来し、奔放に淫乱していた。何晏が誅殺されると、〔張蕃は〕河間に流されたが、そこで名を変え、〔のちに豫州へ移り?、〕肜とみずからよしみを結んだのである。〔その張蕃を中大夫に選任したかどで〕有司に弾劾され、詔が下って〔封国から〕県ひとつを削られた。咸寧年間、〔朝廷は〕陳国と汝南国の南頓県を〔肜の〕封国に加増し、〔国の規模を〕次国とした。太康年間、孔洵に代わって監豫州軍事となり、平東将軍を加えられ、許昌に出鎮した。しばらくすると、さらに本官を帯びたまま下邳王晃に代わって監青・徐州軍事となり、安東将軍に進められた。
 元康のはじめ、征西将軍に転じ、秦王柬に代わって都督関中軍事となり、領護西戎校尉となった。侍中を加えられ、督梁州に進められた。まもなく中央に召され、衛将軍、録尚書事、行太子太保となり、千兵百騎(千人の歩兵と百匹の騎馬)を支給された。しばらく経つと、〔関中の氐や羌が反乱を起こしたので、肜は〕ふたたび征西大将軍となり、趙王倫に代わって関中に出鎮し、都督涼・雍諸軍事となり、〔征西将軍府に〕左右の長史と司馬を置いた。さらに領西戎校尉となり、好畤に駐屯し、建威将軍の周処や振威将軍の盧播らを指揮し、氐賊の斉万年を六陌で討伐した。肜は周処と不仲で、〔周処を〕催促して進軍させると、その後続を絶ってしまい、盧播も周処を救援しなかったため、周処は殺されてしまった。朝廷はこの件を批判した。まもなく中央に召され、大将軍、尚書令、領軍将軍、録尚書事に任じられた20巻四、恵帝紀、元康九年正月は録尚書事のみを記し、『資治通鑑』巻八三、元康九年正月は大将軍・録尚書事と記す。中華書局校勘記は「尚書令領軍将軍」を衍字ではないかと疑っているが、そうかもしれない。
 かつて〔長安出鎮中に〕肜が大宴会を開いたとき21原文では明記されていないものの、後文を参照すると以下のエピソードは肜の長安出鎮中のときの話だと考えられる。このあとの訳注も参照。、参軍の王銓に言った、「従兄(下邳王晃)が尚書令にお就きになられているのだが22『太平御覧』巻一五一、諸王下に引く「又曰」(晋書)に「梁孝王肜、宣帝子。拝〔征西――引用者補〕大将軍、領西戎校尉。因大会、語王銓曰、『我従兄為尚書令……』。銓知肜求為尚書令、答曰、『下邳王為令……』」とあり、ここの「従兄」は下邳王晃を指すらしい。恵帝紀によると、下邳王は元康元年三月に尚書令に就いている。同六年正月の薨去記事の肩書は司空になっており、巻三七、宗室伝の本伝でも守尚書令ののちに司空に移ったと記されているので、途中で尚書令を離任したようである。いっぽうの肜はというと、元康元年四月に征西大将軍、都督関西諸軍事(本伝だと征西将軍、都督関中軍事)となり、同年九月に中央に召され、衛将軍に就いている。前述のように下邳王がいつ尚書令から司空に移ったのかは不明であるものの、尚書令就任まもない元康元年四月から九月のあいだは依然として尚書令であった可能性が高いだろう。すなわち、ここの「従兄」が本当に下邳王晃で合っているのならば、このエピソードは肜の一度目の関中出鎮時期である元康元年四月から九月のあいだの話ということになる。、大臠(肉のかたまり)を食えずにいる23漢代、周亜夫は景帝から食事を賜わったが、肉のかたまりが置かれているだけで、切り分けられておらず、しかも箸がなかった。そこで担当官に箸を求めたところ、その様子を眺めていた景帝が笑って「君のところには何か足りないものがあるのか」と言った(『史記』巻五七、絳侯周勃世家)。景帝が何を意図していたのかは解釈が分かれているが、とりあえずそれは措き、肜がこの逸話を念頭にこのような発言をしているのならば、次のように解釈できる。下邳王は尚書令というもっとも枢密な地位にいるにもかかわらず、その権勢を振るうことができない環境に置かれている、すなわち張華らが実質的に朝政を切り盛りしていて、下邳王は蚊帳の外に置かれている、と。
 しかしたほう、原文は「不能啖大臠」であることを考慮すると、環境的な不可能性を言っているのではなく、下邳王個人の能力的不可能性からして「権力を十分に振るうことができない」と言っているようにも思われる。どのように解釈するのが妥当なのか、訳者の力量では判別がつかない。
。大臠〔を食らうの〕はじつに難しいものだ」。王銓、「公がこの地(長安)にて肉を食らう(=権力を振るう)のを独り占めするのは、なおさら難しいでしょう」24原文「公在此独嚼、尚難矣」。『太平御覧』巻一五一、諸王下に引く「又曰」(晋書)には「銓知肜求為尚書令、答曰、『下邳王為令、与天下共嚼啖大臠、故難公在此独嚼』」とあり、肜の従兄への発言の裏に、尚書令を希求する意図があるのを王銓が察知し、「下邳王はみなと大臠=権力を分かち合っているのだから、公がこの地で肉を独り占めすることは難しいですよ」と返したのだという。。肜、「長安の大臠(誰にも統御できないひと)は誰だ」25原文「長史大臠為誰」。『太平御覧』巻一五一、諸王下に引く「又曰」(晋書)には「長安大臠誰耶」とある。「長史」と「長安」、いずれが妥当か判断しかねるが、後文の盧播が長史であったのかは不明だし、長史のなかで誰が大臠なのかを質問するのはあまりに対象人物が狭い質問である。これに対し、肜がこのときに長安に滞在していたのはおそらく確実である。そこでここでは「長安」に字句を改めて訳を取ることにした。
 ここの「大臠」はよくわからない。前文までは権力・権勢の喩えであったが、ここの場合、後続の会話をふまえると、肜は「譴責すべき人間は誰かいるか」と訊ねているようである。そうだとすると、ここの「大臠」とは「食らうことができないもの」、転じて「増長して手がつけられないもの/コントロールできないもの」の喩えであろうか。とりあえずこの意で取ってみた。
。王銓、「盧播です」。肜、「あやつは家吏(司馬家の故吏)26原文まま。曹魏の時代、阮籍は司馬昭に盧播を推薦している(『芸文類聚』巻五三、薦挙に引く「魏阮籍与晋文王薦盧景宣書」。景宣は盧播の字)。その後の詳細は不明なものの、この機に盧播は司馬昭から辟召され、キャリアを積んでいったのではないか。ここの「家吏」は彼のそうした経歴をふまえた言葉であり、ようするに「門生故吏」とほぼ同じ意味ではないかと思われる。だから、見逃してやろう」。王銓、「〔家吏だからお咎めを免れるというのでしたら、〕天下の官吏はすべて家吏(司馬氏=晋氏に仕える吏)なのですから、おそらく王法(公的な支配秩序)がまったく効力をもたなくなってしまうでしょう」27天下の官吏がみな「家吏」だというのは、みな晋氏すなわち司馬氏に仕えていることをもじった表現ではないかと思われる。「王法」は法制などの公的な支配秩序・理念をいう。公的な職場で私的情誼関係を優先してしまえば、公的秩序がないがしろにされてしまうではありませんか、と返しているのではなかろうか。ちなみに潘安仁「関中詩」(『文選』巻二〇)に「盧播違命、投畀朔土」とあり、李善注に引く「王隠晋書」に「盧播詐論功、免為庶人、徙北平」とある。この逸話より後日、斉万年の乱を平定後に盧播は自身の功績を偽ったかどで庶人に免じられ、北辺に追放されたという。思うに、本伝のここのエピソードは、本来は盧播の後日の事件の前兆として意味づけされていたのであろう。
 以上のやり取りは意味が読み取りにくく、『太平御覧』巻一五一、諸王下に引く「又曰」(晋書)の佚文を多く参照した。「梁孝王肜、宣帝子。拝〔征西――引用者補〕大将軍、領西戎校尉。因大会、語王銓曰、『我従兄為尚書令、不能啖大臠』。銓知肜求為尚書令、答曰、『下邳王為令、与天下共嚼啖大臠、故難公在此独嚼』。肜曰、『長安大臠誰耶』。銓答、『盧播是』。肜曰、『是吾家吏、隠忍之耳』。銓曰、『天下皆王家吏、王法可不復行之耶』」とある。
。また、〔長安から中央へ戻ってから〕肜はこうも言った28原文は「肜又曰……」とある。上のやり取りからの続きとも取れるのかもしれないが、「又」とあっていったん区切られているとおぼしいこと、後続の王銓の返答に「位居公輔」とあることから考えて、ここからの会話は肜が長安から中央政界に戻った時期に交わされたもので、上のエピソードとは別の話と解釈するのが妥当だと考える。、「長安で私は何かまずいことをしただろうか」。そして幰(車に張る帳)で補修した単衣を指さし、清廉だと自負した。王銓は答えて言った、「朝野が公に期待しておりますことは、賢者を推薦し、不仁の人間を遠ざけることです。しかし、位は公輔(宰相)にあるというのに、衣服を幰で補修して清廉だと自負する程度のことなど、称賛にあたいしません」。肜は恥じ入る様子であった。
 永康のはじめ、趙王倫に協力して賈后を廃した。詔が下り、肜を太宰、守尚書令とし、封爵に二万戸加増された。趙王が〔相国となって〕輔政すると、星の異常が観測され、「上相29星の名称で、かつ宰相の呼称でもある。に不利益」との占いであった。孫秀は、趙王に禍が降りかかるのを恐れ、司徒を廃して丞相を設け、肜に〔丞相を〕授け、むやみに待遇を加崇し、この天文現象に対応させようとした30つまり肜を身代わりにさせようとしたということ。。或るひとが「〔そんな小細工をしたところで、〕肜に権力はないのですから、なんの足しにもならないでしょう」と言った。肜は固辞して受けなかった。趙王が帝位を簒奪すると、肜を阿衡とし、武賁百人、軒懸の楽人十人を支給した。趙王が敗亡すると、詔が下り、肜を太宰、領司徒とし、さらに高密王泰に代えて宗師とした。
 永寧二年31原文は「永康二年」だが、『晋書斠注』などの指摘に従い、「永寧二年」に改める。、薨じた。葬儀は汝南文成王亮の故事に倣った。博士である陳留の蔡克が諡号を議して述べた、「肜の位は宰相であり、責任は重大で、主上の目上かつ近縁の関係にあり、そのうえ宗師(宗室の指導者的立場)でもありましたから、朝廷の士人が仰ぎ見て、下々の人民が注目する地位にある御方でした。しかし、忠節をふるうべき場面に臨んでも、屈することのできない意志はもっておらず、危難の事態に直面しても、命を捨てて義を選ぶことができませんでした。愍懐太子が廃位されたさい、一言ですら〔肜の〕諫言を耳にしませんでした。淮南王の事変では、情勢に乗って〔淮南王の〕義挙を助けることができませんでした。趙王が簒奪したときは、身を退いて朝廷を去ることができませんでした。〔春秋時代、〕宋に蕩氏の乱が起こったとき、華元は官にこのまま残ることはできないとみずから考え、『主君と臣下の教導がわたしの職務だが、公室が軽んじられて反逆者を討つことができないのでは、わが罪は重大である』と言い〔、宋を出奔し〕ました(『左伝』成公十五年)。いったい、区々たる宋でさえ無為徒食を拒む臣が存在したというのに、帝王の朝廷でありながら実力者に迎合してやりすごす宰相が存在したのです。これを貶めないというのでしたら、いったい何に法を施行するのでしょうか。謹んで『諡法』を参照しますに、『労さずして名を成すことを霊という』とあります。肜は義を見ても行動に移さず、『勤労していた』とはとうてい言えません。諡号は霊が妥当です」。梁国常侍の孫霖や肜の党派は濡れ衣だと言い立てたので、尚書台が符(文書の一種)を下し〔て蔡克に質問し〕た、「賈氏の専権や趙王の簒奪は、どちらも力でむりやりに朝野を服従させたのであり、肜は勢いとして〔朝廷を〕去ることができなかった。それなのに、身を退いて朝廷を去ることができなかったのを咎めるのは、どのような義を根拠とするのか」。蔡克は重ねて議を提出した、「肜は宗臣(君主と同族の臣)でありながら、国家が乱れても助け救えず、主上が転倒しても助け起こせず、〔このようなふるまいは〕宰相が相(補佐する)をなすやりかたではありません。ゆえに『春秋』は華元と楽挙を批判し、不臣だと述べたのです(『左伝』成公二年)。そのうえ、賈氏の苛烈は呂后よりひどくはありませんでしたが、それでも〔呂后の時代に〕王陵は門を閉ざして出仕を拒むことができました。趙王の無道は殷の紂王よりひどくはありませんでしたが、それでも〔紂王の時代に〕微子は朝廷を去ることができました。近ごろだと、太尉の陳準は異姓の人臣で、さらに弟の陳徽には〔趙王に対して〕弓を引いた因縁がありましたが32巻六四、武十三王伝、淮南王允伝によると、淮南王が挙兵して趙王の相国府を包囲したとき、相国府内部で太子左率の陳徽なる人物が淮南王に呼応したという。このことを言っているのであろう。、やはり病気を理由に辞職し、偽朝(帝位についた趙王)と関係をもちませんでした33恵帝紀によると、淮南王が平定された永康元年八月に陳準は太尉・録尚書事に任じられている。その後の経歴は不明だが、巻八九、忠義伝、嵆紹伝で、賈謐誅殺から趙王帝位簒奪の記事のあいだに「太尉・広陵公陳準」の薨去記事が配列されている。これは本伝で言及されている陳準と同一人物でまちがいない。趙王の帝位簒奪は永康元年八月から四か月後の永寧元年正月であるから、陳準はこの間に没したのであろう。
 ところで嵆紹伝の記事内容は、陳準の諡号をめぐって嵆紹が太常に異論を提出したというものである。引用されている嵆紹の議は簡潔な内容で、陳準の具体的行跡には言及していないものの、ともかく嵆紹が陳準を批判的に評価していたことは読み取れるもので、本伝で言われているような陳準の高潔さは垣間見えない。また『宋書』巻六〇、荀伯子伝には、東晋末の義煕九年に荀伯子が上表し、陳準の行動に問題があったことを理由に挙げ、陳準以来継承されている広陵国を廃するよう求めている。彼によれば、陳準は「孫秀に協力して禍を淮南王に加え、不当に大国を食み、罪を利用して利益を得た(党翼孫秀、禍加淮南、窃食大国、因罪為利)」。それゆえに封国の広陵国は「削除」が妥当なのだ、と。これを承け、当時広陵公を継いでいた陳茂先は上表して反論し、陳準は「賈謐を滅ぼしたことによって海陵公に封じられましたが、それは淮南王が禍に遭う前の出来事でした。後日の広陵公は『騒擾』のときに授けられたとはいえ、臣の祖先はこのときにようやく格別の待遇を賜わったのであり、『元凱』の位を経歴しました(以剪除賈謐、封海陵公、事在淮南遇禍之前。後広陵雖在騒擾之際、臣祖乃始蒙殊遇、歴位元凱)」と述べている。原文の「騒擾之際」とは、おそらく淮南王の事変を指し、「元凱」は太尉を言うのであろう、つまり太尉に就任したと同時に広陵公に封じられたのではないかと思われる。以上からわかるのは、陳準は淮南王鎮圧後の官職(太尉)と封爵(広陵公)は受けていることである。そして趙王簒奪前に薨去したと考えられるわけだが、いっぽう本伝で〈辞職して趙王政権とは関わりをもたなかった〉とあるのは、おそらく陳準は太尉・広陵公受命後まもなくに官を辞すと、そのまま簒奪前に没してしまい、結果的に趙王とは距離を取れたことを言っているのではないか。
 しかし以上のように考えうるとしても、嵆紹や荀伯子はいったい陳準のどのような行動を問題視しているのかが明瞭ではない。関わりがありそうなのが、淮南王の挙兵時の行動である。淮南王允伝によれば、淮南王が趙王の相国府を攻囲したさい、陳準は両者の戦闘を停止させるため、騶虞幡を持たせた使者を派遣して停戦命令を伝えるように恵帝に進言し、これが採用された。しかし趙王の子が使者として派遣される手はずの者と結託していたので、つかわされた使者は朝命を遵守せず、使者の身分を利用して詐謀をはたらかせ、油断した淮南王に近づいて殺してしまった、と。つまり陳準の献策は結果的に趙王に加担することになり、淮南王へのアダになってしまったわけである。陳準が淮南王の死に責任をもっているというならば、このような意味においてなのかもしれない。
。どうして肜は、趙王の近親の兄であるにもかかわらず、朝廷を去ることさえできなかったのでしょうか。〔晋の〕趙盾は入朝して〔霊公を〕諫めても聴き入れられなかったため、外出して出奔しましたが、〔霊公弑逆の一報を聞いて国境を越える前に引き返したので〕遠くまでは行きませんでした。そうであってもなお、〔趙盾は霊公弑逆の〕罪を免れなかったのですから34趙盾が出奔すると、趙盾の親族が霊公を弑した。趙盾はそれを聞いて国境を越える前に引き返し、任に戻ったが、晋の太史(董狐)はこの一連の出来事を「趙盾が主君を弑した」と記した。趙盾が「自分は弑していないから無罪だ」と言うと、太史は「あなたは正卿であるのに、出奔しても国境を越えず、戻って来ても国賊を誅殺しなかった。あなたでなければ誰に罪があるのか」と答えた。孔子はこれについて「国境を越えていたら罪を免れていたのに」とコメントしたという。『左伝』宣公二年、『史記』巻三九、晋世家、霊公十四年を参照。、肜が位を去れず、北面して偽主(帝位についた趙王)に仕えたのは、なおさら罪を問われるべきではないでしょうか。さきに提出した議のとおりにしていただき、〔肜に〕譴責を加えることによって、〔世に〕臣としての節義を広め、主君に仕える道を明らかにするべきです」。こうして朝廷は蔡克の議を採用した。肜の故吏が何度も訴え出て止まなかったので、〔のちに霊から孝へ諡号が〕改められたのである。
 〔肜には〕子がいなかったため、武陵王澹の子である禧を後継ぎとした。これが〔梁の〕懐王である。征虜将軍に任じられたが、澹とともに石勒に没した。元帝の時代、西陽王羕(汝南王亮の子)の子である悝を肜の後継ぎとしたが、若くして薨じてしまった。これが〔梁の〕殤王である。このときになって、懐王の子の翹が石氏から〔東晋に〕帰国し、〔後継ぎに〕立つことができた。これが〔梁の〕声王である。散騎常侍まで昇進した。薨じたが、子がいなかったため、詔が下り、武陵威王晞(元帝の子)の子である㻱を翹の後継ぎとした。永安太僕を歴任したが、父の晞といっしょに廃され、新安に流された。〔そのまま新安で〕薨じ、太元年間に封国が回復され、子の龢が〔後継ぎに〕立った。薨じ、子の珍之が〔後継ぎに〕立った。桓玄が帝位を簒奪すると、梁国の臣である孔璞は珍之を奉じて寿陽へ逃げ、義煕のはじめになってからようやく〔建康に〕戻った。左衛将軍、太常卿と昇進を重ねていった。劉裕が姚泓を討伐するさい、〔劉裕は珍之を〕諮議参軍とすることを求め〔て聴き入れられ〕たが、劉裕に殺され、国は廃された。

系図宣五王/文六王

(2022/11/5:公開)

  • 1
    原文「加侍中之服」。巻五九、汝南王亮伝や以降の諸伝にも用例があるが、不詳。
  • 2
    西晋時代の諸侯の秩俸は、諸侯国の民から徴収された租(穀物)と戸調(絹)の一部を割いて支給されていた。[藤家一九八九]第二章第三節、[渡辺二〇一〇]第六章を参照。
  • 3
    原文「而復害之」。「之」は斉王冏を指す。斉王を「害」したところの主語は身内たるわれわれ「宗室」で、汝南王らにつづいてまたまた身内同士で殺しあってしまった、という含意だろう。
  • 4
    幹に諡号が記されていないのはこのゆえであろう。なお武帝の子である呉王の晏はやはり永嘉の乱時に殺害されてしまったが、孝または敬の諡号がおくられている(巻六四、武十三王伝、呉王晏伝)。おそらく晏の場合、子の鄴(愍帝)が即位してから諡号が追贈されたのであろう。幹は子も死に絶えてしまったため、追贈の機会がなく、ついぞ諡号が加えられなかったのだと考えられる。
  • 5
    巻二四、職官志には、郎中令、中尉、大農の三卿が王国に置かれいたと記してある。五等開建の当初から卿が設けられていたわけではなく、段階的に増設されていったということなのかもしれないが、よくわからない。
  • 6
    原文「連拠涂中」。「連」字はよくわからない。涂中にある孫呉の複数の拠点を連続で落とした、ということだろうか。
  • 7
    周家禄『晋書校勘記』が指摘するように、巻三、武帝紀、太康十年十一月に伷の子供たちの封建が記載されているが、後継ぎの覲を含めると全部で五人おり、列伝中にまったく言及がない巻という子が東莞公に封じられている。巻の詳細は不明。
  • 8
    厳密には、裒の薨去後にその子の安国が琅邪王に立っている。巻六四、元四王伝、琅邪孝王裒伝を参照。
  • 9
    「内妹」は辞書だと妻の妹を指すというが、それだと文意が通じない。郭氏は賈后の母方の一族なので、ここでは母方の従妹を指しているのではなかろうか。
  • 10
    以上の楊駿誅殺後の官の経歴は、授与の流れがよくわからない。
  • 11
    楊駿誅殺後まもなく、功罪が論じられて賞罰が決定した日のこと。
  • 12
    原文「以公就第」。「以王就第」の誤りではないかと思うが、よくわからない。
  • 13
    前の食邑と合計しても二万には三千戸足りないので、原文に脱落があるのかもしれない。
  • 14
    侍講は東宮に侍従して講義する役目をいう。散騎常侍とセットで並列されているわけはわからないが、ともかく駿が太子の交友に選ばれたということだろう。『太平御覧』巻二四八、王文学に引く「晋諸公讃」には「扶風王年八歳、聡明、善詩賦、中表奇之、魏烈祖以為斉王芳文学」とある。
  • 15
    巻三、武帝紀によれば、駿が薨じたのは太康七年九月だが、斉王攸は太康三年十二月に出鎮を命じられ、翌四年三月に薨去している。斉王の件がきっかけで発病したにしても、すぐに亡くなったわけではないようである。
  • 16
    巻三、武帝紀によると、太康十年十一月に暢が扶風王から順陽王に改封されている。
  • 17
    「推恩」は「恩恵を広く施す(広施恩恵)」(『漢語大詞典』)こと。とくに諸侯国にかんする場合、封国を分割して嫡子以外にも封領を分け与えることをいう。武帝紀によれば、太康十年十一月に暢が扶風王から順陽王に改封されたときに歆も新野県公に封じられているので、扶風から順陽への改封と封国の推恩(分割)は同時におこなわれたようである。
  • 18
    おそらく鄴に駐在することになったのだろうが、封国の梁国は豫州にあり、鄴とはかなりの距離がある。詳しくはわからないが、それでも就国なのであろう。
  • 19
    原文「為曹爽教伎」。和刻本の訓読に従って訳出したが、「教伎」がよくわからない。技芸を教授する妓女を言うのだろうか。
  • 20
    巻四、恵帝紀、元康九年正月は録尚書事のみを記し、『資治通鑑』巻八三、元康九年正月は大将軍・録尚書事と記す。中華書局校勘記は「尚書令領軍将軍」を衍字ではないかと疑っているが、そうかもしれない。
  • 21
    原文では明記されていないものの、後文を参照すると以下のエピソードは肜の長安出鎮中のときの話だと考えられる。このあとの訳注も参照。
  • 22
    『太平御覧』巻一五一、諸王下に引く「又曰」(晋書)に「梁孝王肜、宣帝子。拝〔征西――引用者補〕大将軍、領西戎校尉。因大会、語王銓曰、『我従兄為尚書令……』。銓知肜求為尚書令、答曰、『下邳王為令……』」とあり、ここの「従兄」は下邳王晃を指すらしい。恵帝紀によると、下邳王は元康元年三月に尚書令に就いている。同六年正月の薨去記事の肩書は司空になっており、巻三七、宗室伝の本伝でも守尚書令ののちに司空に移ったと記されているので、途中で尚書令を離任したようである。いっぽうの肜はというと、元康元年四月に征西大将軍、都督関西諸軍事(本伝だと征西将軍、都督関中軍事)となり、同年九月に中央に召され、衛将軍に就いている。前述のように下邳王がいつ尚書令から司空に移ったのかは不明であるものの、尚書令就任まもない元康元年四月から九月のあいだは依然として尚書令であった可能性が高いだろう。すなわち、ここの「従兄」が本当に下邳王晃で合っているのならば、このエピソードは肜の一度目の関中出鎮時期である元康元年四月から九月のあいだの話ということになる。
  • 23
    漢代、周亜夫は景帝から食事を賜わったが、肉のかたまりが置かれているだけで、切り分けられておらず、しかも箸がなかった。そこで担当官に箸を求めたところ、その様子を眺めていた景帝が笑って「君のところには何か足りないものがあるのか」と言った(『史記』巻五七、絳侯周勃世家)。景帝が何を意図していたのかは解釈が分かれているが、とりあえずそれは措き、肜がこの逸話を念頭にこのような発言をしているのならば、次のように解釈できる。下邳王は尚書令というもっとも枢密な地位にいるにもかかわらず、その権勢を振るうことができない環境に置かれている、すなわち張華らが実質的に朝政を切り盛りしていて、下邳王は蚊帳の外に置かれている、と。
     しかしたほう、原文は「不能啖大臠」であることを考慮すると、環境的な不可能性を言っているのではなく、下邳王個人の能力的不可能性からして「権力を十分に振るうことができない」と言っているようにも思われる。どのように解釈するのが妥当なのか、訳者の力量では判別がつかない。
  • 24
    原文「公在此独嚼、尚難矣」。『太平御覧』巻一五一、諸王下に引く「又曰」(晋書)には「銓知肜求為尚書令、答曰、『下邳王為令、与天下共嚼啖大臠、故難公在此独嚼』」とあり、肜の従兄への発言の裏に、尚書令を希求する意図があるのを王銓が察知し、「下邳王はみなと大臠=権力を分かち合っているのだから、公がこの地で肉を独り占めすることは難しいですよ」と返したのだという。
  • 25
    原文「長史大臠為誰」。『太平御覧』巻一五一、諸王下に引く「又曰」(晋書)には「長安大臠誰耶」とある。「長史」と「長安」、いずれが妥当か判断しかねるが、後文の盧播が長史であったのかは不明だし、長史のなかで誰が大臠なのかを質問するのはあまりに対象人物が狭い質問である。これに対し、肜がこのときに長安に滞在していたのはおそらく確実である。そこでここでは「長安」に字句を改めて訳を取ることにした。
     ここの「大臠」はよくわからない。前文までは権力・権勢の喩えであったが、ここの場合、後続の会話をふまえると、肜は「譴責すべき人間は誰かいるか」と訊ねているようである。そうだとすると、ここの「大臠」とは「食らうことができないもの」、転じて「増長して手がつけられないもの/コントロールできないもの」の喩えであろうか。とりあえずこの意で取ってみた。
  • 26
    原文まま。曹魏の時代、阮籍は司馬昭に盧播を推薦している(『芸文類聚』巻五三、薦挙に引く「魏阮籍与晋文王薦盧景宣書」。景宣は盧播の字)。その後の詳細は不明なものの、この機に盧播は司馬昭から辟召され、キャリアを積んでいったのではないか。ここの「家吏」は彼のそうした経歴をふまえた言葉であり、ようするに「門生故吏」とほぼ同じ意味ではないかと思われる。
  • 27
    天下の官吏がみな「家吏」だというのは、みな晋氏すなわち司馬氏に仕えていることをもじった表現ではないかと思われる。「王法」は法制などの公的な支配秩序・理念をいう。公的な職場で私的情誼関係を優先してしまえば、公的秩序がないがしろにされてしまうではありませんか、と返しているのではなかろうか。ちなみに潘安仁「関中詩」(『文選』巻二〇)に「盧播違命、投畀朔土」とあり、李善注に引く「王隠晋書」に「盧播詐論功、免為庶人、徙北平」とある。この逸話より後日、斉万年の乱を平定後に盧播は自身の功績を偽ったかどで庶人に免じられ、北辺に追放されたという。思うに、本伝のここのエピソードは、本来は盧播の後日の事件の前兆として意味づけされていたのであろう。
     以上のやり取りは意味が読み取りにくく、『太平御覧』巻一五一、諸王下に引く「又曰」(晋書)の佚文を多く参照した。「梁孝王肜、宣帝子。拝〔征西――引用者補〕大将軍、領西戎校尉。因大会、語王銓曰、『我従兄為尚書令、不能啖大臠』。銓知肜求為尚書令、答曰、『下邳王為令、与天下共嚼啖大臠、故難公在此独嚼』。肜曰、『長安大臠誰耶』。銓答、『盧播是』。肜曰、『是吾家吏、隠忍之耳』。銓曰、『天下皆王家吏、王法可不復行之耶』」とある。
  • 28
    原文は「肜又曰……」とある。上のやり取りからの続きとも取れるのかもしれないが、「又」とあっていったん区切られているとおぼしいこと、後続の王銓の返答に「位居公輔」とあることから考えて、ここからの会話は肜が長安から中央政界に戻った時期に交わされたもので、上のエピソードとは別の話と解釈するのが妥当だと考える。
  • 29
    星の名称で、かつ宰相の呼称でもある。
  • 30
    つまり肜を身代わりにさせようとしたということ。
  • 31
    原文は「永康二年」だが、『晋書斠注』などの指摘に従い、「永寧二年」に改める。
  • 32
    巻六四、武十三王伝、淮南王允伝によると、淮南王が挙兵して趙王の相国府を包囲したとき、相国府内部で太子左率の陳徽なる人物が淮南王に呼応したという。このことを言っているのであろう。
  • 33
    恵帝紀によると、淮南王が平定された永康元年八月に陳準は太尉・録尚書事に任じられている。その後の経歴は不明だが、巻八九、忠義伝、嵆紹伝で、賈謐誅殺から趙王帝位簒奪の記事のあいだに「太尉・広陵公陳準」の薨去記事が配列されている。これは本伝で言及されている陳準と同一人物でまちがいない。趙王の帝位簒奪は永康元年八月から四か月後の永寧元年正月であるから、陳準はこの間に没したのであろう。
     ところで嵆紹伝の記事内容は、陳準の諡号をめぐって嵆紹が太常に異論を提出したというものである。引用されている嵆紹の議は簡潔な内容で、陳準の具体的行跡には言及していないものの、ともかく嵆紹が陳準を批判的に評価していたことは読み取れるもので、本伝で言われているような陳準の高潔さは垣間見えない。また『宋書』巻六〇、荀伯子伝には、東晋末の義煕九年に荀伯子が上表し、陳準の行動に問題があったことを理由に挙げ、陳準以来継承されている広陵国を廃するよう求めている。彼によれば、陳準は「孫秀に協力して禍を淮南王に加え、不当に大国を食み、罪を利用して利益を得た(党翼孫秀、禍加淮南、窃食大国、因罪為利)」。それゆえに封国の広陵国は「削除」が妥当なのだ、と。これを承け、当時広陵公を継いでいた陳茂先は上表して反論し、陳準は「賈謐を滅ぼしたことによって海陵公に封じられましたが、それは淮南王が禍に遭う前の出来事でした。後日の広陵公は『騒擾』のときに授けられたとはいえ、臣の祖先はこのときにようやく格別の待遇を賜わったのであり、『元凱』の位を経歴しました(以剪除賈謐、封海陵公、事在淮南遇禍之前。後広陵雖在騒擾之際、臣祖乃始蒙殊遇、歴位元凱)」と述べている。原文の「騒擾之際」とは、おそらく淮南王の事変を指し、「元凱」は太尉を言うのであろう、つまり太尉に就任したと同時に広陵公に封じられたのではないかと思われる。以上からわかるのは、陳準は淮南王鎮圧後の官職(太尉)と封爵(広陵公)は受けていることである。そして趙王簒奪前に薨去したと考えられるわけだが、いっぽう本伝で〈辞職して趙王政権とは関わりをもたなかった〉とあるのは、おそらく陳準は太尉・広陵公受命後まもなくに官を辞すと、そのまま簒奪前に没してしまい、結果的に趙王とは距離を取れたことを言っているのではないか。
     しかし以上のように考えうるとしても、嵆紹や荀伯子はいったい陳準のどのような行動を問題視しているのかが明瞭ではない。関わりがありそうなのが、淮南王の挙兵時の行動である。淮南王允伝によれば、淮南王が趙王の相国府を攻囲したさい、陳準は両者の戦闘を停止させるため、騶虞幡を持たせた使者を派遣して停戦命令を伝えるように恵帝に進言し、これが採用された。しかし趙王の子が使者として派遣される手はずの者と結託していたので、つかわされた使者は朝命を遵守せず、使者の身分を利用して詐謀をはたらかせ、油断した淮南王に近づいて殺してしまった、と。つまり陳準の献策は結果的に趙王に加担することになり、淮南王へのアダになってしまったわけである。陳準が淮南王の死に責任をもっているというならば、このような意味においてなのかもしれない。
  • 34
    趙盾が出奔すると、趙盾の親族が霊公を弑した。趙盾はそれを聞いて国境を越える前に引き返し、任に戻ったが、晋の太史(董狐)はこの一連の出来事を「趙盾が主君を弑した」と記した。趙盾が「自分は弑していないから無罪だ」と言うと、太史は「あなたは正卿であるのに、出奔しても国境を越えず、戻って来ても国賊を誅殺しなかった。あなたでなければ誰に罪があるのか」と答えた。孔子はこれについて「国境を越えていたら罪を免れていたのに」とコメントしたという。『左伝』宣公二年、『史記』巻三九、晋世家、霊公十四年を参照。
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