『宋書』巻三十九 志第二十九 百官上(1)

凡例
  • 文中の〔 〕は訳者による補語、( )は訳者の注釈、12……は注を示す。番号をクリック(タップ)すれば注が開く。開いている状態で適当な箇所(番号でなくともよい)をクリック(タップ)すれば閉じる。

上公・公府員/特進・将軍・都督/卿/尚書/門下

 太宰は一人。周の武王のとき、周公旦がはじめてこれに就き、国家の政治を掌り、六卿の筆頭であった1『周礼』では天官に配されている。百官を統べて王を輔佐するという。『周礼』天官冢宰の序官に「惟王建国、辨方正位、体国経野、設官分職、以為民極。乃立天官冢宰、使帥其属、而掌邦治、以佐王均邦国。治官之属、大宰卿一人、……」とあり、同、天官大宰に「大宰之職、掌建邦之六典、以佐王治邦国」とある。。秦、漢、魏は常設しなかった。晋のはじめ、周の礼制に依拠して三公(太師、太傅、太保)を設置した2原文「晋初依周礼、備置三公」。中華書局は「周礼」を書名、すなわち『周礼』と読んでいる。『漢書』巻一九、百官公卿表上に「太師、太傅、太保、是為三公」とあり、『晋書』巻二四、職官志に「太師、太傅、太保、周之三公官也」とあり、さらに『太平御覧』巻二〇六、太師に引く「逸礼」に「太公為太師、周公為太傅、召公為太保」とあり、これらを踏まえれば、太師、太傅、太保の三官が周の三公として歴代に伝えられていたのは間違いないのだが、肝心の『周礼』にはこうした意味での三公に関する記述がない。地官に師氏と保氏が見えており、鄭玄の読みに従うと前者の職掌は王の教導、後者は王への諫言となり、太師と太保のことともみなせるが、太傅については相当する官がわからない。現行の『尚書』周官篇に「立太師、太傅、太保、茲惟三公」とあり、このことをもって本文の「周礼」は『尚書』周官篇を指すとの読み方もできるのかもしれないが、現行の周官篇は魏晋時代に偽作されたものである可能性があり(野間文史『五経入門――中国古典の世界』研文出版、二〇一四年、八八頁)、西晋の人々が現行の周官篇を参照したとは考えにくく、そのような読み方を採るのは抵抗がある。以上を総合し、本文の「周礼」は書名ではなく、「周の礼制」を意味するものとして読むことにした。。三公の官職では、太師が筆頭にあったが、景帝の名が師であったため、太宰を置いて太師の代わりとした3太師を太宰へ改称したのは、司馬師と関係がないという説もある。『太平御覧』巻二〇六、太宰に引く「斉職儀」に「太宰品第一、金章紫綬、佩山玄玉。……秦漢魏無其職、晋武以従祖安平王孚為太宰。安平薨、省。咸寧四年又置。或謂、本太師之職、避景帝諱、改為大宰。或謂、太宰、周之卿位、晋武依周、置職以尊安平、非避諱也。元興中、恭帝為太宰桓玄都督中外、博士徐豁議、太宰非武官、不応都督、遂従豁議」とある。。太宰とは、いにしえの太師なのであろう4原文「太宰、蓋古之太師也」。自信はないが、以下のように解釈しておきたい。前の注で詳述したように、『周礼』に太師という職自体は立てられておらず、いにしえの太師ないし師がどのような職務であったのかは明瞭でない。そこで本文の撰述者は、晋代に太師の代わりとして太宰が置かれたことから推論して、太宰といにしえの記録に見える太師とはおおむね同じ役割をもった職であろうと解釈した、ということだと思われる。ただし、『通典』巻二〇、太宰には「蓋為太師之互名、非周冢宰之任也(思うに、太宰は太師を言い換えた名称ではあるが、周の冢宰の職務ではない)」と、本文と似た文章がみえているが、実際は「非周冢宰之任也」だという本文にはみえない一文が加わっている。『通典』の職官典は曹魏、両晋、劉宋の記述を多く『宋書』百官志に負っていることを考慮すると、この一文は本文にもともとあったもので、現在は脱落してしまった文言であるのかもしれない。。殷の紂王のとき、箕子が太師となった。周の武王のとき、太公が太師となった。周の成王のとき、周公が太師となった。周公が薨ずると、畢公が後任となった。西漢(前漢)のはじめは〔太師を〕置かなかったが、平帝の世になってはじめて太師の官を復置し、孔光がこれに就いた。東漢(後漢)はふたたび廃した。献帝のはじめ、董卓が太師となったが、董卓が誅殺されるとまたも廃した。魏の時代には置かなかった。晋は太師を経てから太宰を置き、安平王孚をこれに就けた5『太平御覧』巻二〇六、太宰に引く「晋公卿礼秩」に「安平王孚、朗陵公何曾、汝南王亮皆太宰」とある。
 太傅は一人。周の成王のとき、畢公が太傅となった。漢の高后元年、最初に王陵を〔太傅に〕登用した6『太平御覧』巻二〇六、太傅に引く「応劭漢官」に「太傅、古官也。周成王時、康叔為之。高后元年、初用王陵。金印紫綬」とあり、同、「斉職儀」に「太傅、品秩冠服同太宰。成王即位、周公為太傅、遷太師。秦無其職。漢恵帝崩、呂后以丞相王陵為少帝太傅。位在三公上」とある。
 太保は一人。殷の太甲のとき、伊尹が太保となった。周の武王のとき、召公が太保となった7『尚書』君奭篇の序には「召公為保、周公為師、相成王為左右」とあり、本文の「武王」は「成王」の誤りか。。漢の平帝の元始元年、最初に王舜を〔太保に〕登用した。後漢から魏までは設置せず、晋のはじめに復置した。太師から太保までが三公である。道を論じて国家を治め、陰陽をととのえる〔のが務めである〕。適当な人がいなければ欠員とする。君主を教導して輔佐し、徳義をもって導く官職だからである8『太平御覧』巻二〇六、総叙三師に引く「宋書」に「太師、太傅、太保為三公、訓護人主、導以徳義。天子加拝、待以不臣之礼。非人則闕矣。漢制保傅在三公上、号曰上公、自後常然」とあり、赤字箇所はおそらく佚文。
 相国は一人。漢の高帝十一年にはじめて置き、蕭何をこれに就け、丞相を廃した。蕭何が薨ずると、曹参が後任となった。曹参が薨ずると廃した。魏の斉王は晋の景帝を相国とした。晋の恵帝のときは趙王倫が、愍帝のときは南陽王保が、安帝のときは宋の高祖が、順帝のときは斉王が、みな相国となった。魏晋以来、〔相国は〕人臣の位ではなかった。
 丞相は一人。殷の湯王は伊尹を右相とし、仲虺を左相とした。秦の悼武王の二年、はじめて丞相の官を置いた。「丞」は「奉」、「相」は「助」のことである9『芸文類聚』巻四五、丞相に引く「応劭風俗通」には「丞者、承也。相者、助也」とある(同様の応劭の記述は『漢書』巻一九、百官公卿表上、相国丞相の顔師古注にも引用されている)。。悼武王の子の昭襄王は最初に樗里疾を丞相とし、のちにはさらに左右丞相を置いた。漢の高帝のはじめ、単独の丞相10原文は「一丞相」。左右に分かれていたのを統合したということ。どう表現したらいいのかわからないのでこういう感じで。を置いたが、同十一年に相国に改名した。孝恵帝と高后のときは左右丞相を置き、文帝二年になって単独の丞相を復置した。哀帝の元寿二年、大司徒に改名した。東漢は〔そのまま司徒を置き、丞相を〕復置しなかった。献帝の建安十三年になって丞相を復置したが、魏の時代、および晋のはじめはふたたび廃した。恵帝のとき、趙王倫が帝位を簒奪すると、梁王肜を丞相とした。永興元年、成都王穎を丞相とした。愍帝の建興元年、琅邪王睿を左丞相とし、南陽王保を右丞相とし、同三年、南陽王を相国とし、琅邪王を丞相とした。元帝の永昌元年、王敦を丞相とし、司徒の荀組を太尉に移し、司徒の官属を丞相に併合させて留府11本人は都(建康)を離れているが、官府は都に留まっているとき、その官府のことを「留府」と呼んでいるようである。『晋書』元帝紀および『資治通鑑』によると、永昌元年十一月に司徒の荀組が司徒から太尉に転任しているが、『資治通鑑』はこの直後に「罷司徒、并丞相府。王敦以司徒官属為留府」と記し、胡三省注に「敦還武昌、遥制朝政、故有留府在建康」とある。としたが、王敦は受けなかった。成帝のとき、王導を丞相とし、司徒府を廃して丞相府としたが、王導が薨じると、丞相を廃し、ふたたび〔丞相府を〕司徒府とした。宋の世祖のはじめ、南郡王義宣を丞相としたが、司徒府はもとのとおりに置いた。
 太尉は一人。上から下をおさえて平らにすることを「尉」という12『太平御覧』巻二〇七、太尉に引く「又百官表注」に「太尉、古官也。自上安下曰尉、故官以為号」とあり、『続漢書』百官志一、太尉の劉昭注に「応劭曰、『自上安下曰尉、武官悉以為称』」とある。。兵事をつかさどる。郊祀では亜献13「郊祀」とは京師の郊外の台でおこなわれる祭祀儀礼。南郊で天(昊天上帝)、北郊で地(皇地祇)を祀る。祭祀のさい、酒を神に献上する儀礼がおこなわれるが、南郊および北郊は「三献」、すなわち三杯の酒を献上する。その二杯目のことを「亜献」と言う。ちなみに一杯目は「初献」、三杯目は「終献」。唐以前の三献儀礼は江川式部氏が表に整理しているが、それを参照するかぎり、たしかに太尉が亜献を務める傾向にあったようである(なおケースによって異なるが、主に初献は皇帝、終献は光禄勲が担当する)。江川式部「唐朝祭祀における三献」(『駿台史学』一二九、二〇〇六年)二九頁を参照。をつかさどり、大喪(皇帝の葬儀)のときは諡を南郊で告げる14『続漢書』百官志一、太尉の本注に「掌四方兵事功課、歳尽即奏其殿最而行賞罰。凡郊祀之事、掌亜献。大喪則告諡南郊」とある。。堯のとき、舜が太尉の官となり、漢はこれを継いだ。武帝の建元二年、廃した。光武帝の建武二十七年、大司馬を廃し、太尉を置いてその代わりとした15『太平御覧』巻二〇七、太尉に引く「漢官典職」に「太尉、孝文三年置、七年省。武帝建元二年置、五年復省、更名大司馬。建武二十七年復置太尉」とあり、本文とは異なった経緯を記している。。霊帝の末年、劉虞を大司馬としたが、太尉はもとのとおりに置いた。
 司徒は一人。民事をつかさどる。郊祀では犠牲を観察して祭器を洗い、大喪のときは梓宮(ひつぎ)を安置する16『続漢書』百官志一、司徒の本注に「掌人民事。凡教民孝悌、遜順、謙倹、養生送死之事、則議其制、建其度。凡四方民事功課、歳尽則奏其殿最而行賞罰。凡郊祀之事、掌省牲視濯。大喪則掌奉安棺宮」とある。。少昊氏は鳥を官名につけたが、祝鳩氏が司徒となった17『左伝』昭公十七年に「秋、郯子来朝。公与之宴。昭子問焉、曰、『少皥氏鳥名官、何故也』。郯子曰、『吾祖也、我知之。昔者黄帝氏以雲紀、故為雲師而雲名。……我高祖少皥摯之立也、鳳鳥適至、故紀於鳥、為鳥師而鳥名。……祝鳩氏司徒也、鴡鳩氏司馬也、鳲鳩氏司空也、爽鳩氏司寇也、鶻鳩氏司事也、五鳩、鳩民者也。……』」とある。。堯のとき、舜が司徒となった。舜が帝位を代行すると、契を司徒に命じた18原文「舜摂帝位、命契為司徒」。舜による位の「摂」(代行)については、『史記』巻一、五帝本紀に「堯立七十年得舜、二十年而老、令舜摂行天子之政、薦之於天」とある。契が司徒に命じれらたことは『尚書』舜典篇、『史記』巻一、五帝本紀に見える。。契の玄孫の孫である微も夏の司徒となった19微は『史記』巻三、殷本紀に見えるが、司徒については不明。。周のとき、司徒は地官であり、国家の教化をつかさどった20『周礼』地官司徒の序官に「乃立地官司徒、使帥其属而掌邦教、以佐王安擾邦国」とあり、鄭玄注に「教、所以親百姓、訓五品」とある。。西漢のはじめは置かなかった。哀帝の元寿二年、丞相を廃し、大司徒を置いた。光武帝の建武二十七年、「大」字を取り払った。
 司空は一人21『太平御覧』巻二〇九、司空に引く「漢官解詁」に「下理坤道、上和乾光、謂之司空」とある。。水木の事をつかさどる。郊祀では楽器の清掃と陳列をつかさどり、大喪のときは校尉の兵を率いて墳墓をつくる22原文「大喪掌将校復土」。『後漢書』紀二、明帝紀に「司空魴将校復土」とあり、李賢注に「馮魴也。将校謂将領五校兵以穿壙也。前書音義曰、『復土、主穿壙填塞事也。言下棺訖、復以土為墳、故言復土』」とある。これに従って訳文を作成した。また『続漢書』百官志一、司空の本注に「掌水木事。凡営城起邑・浚溝洫・修墳防之事、則議其利、建其功。凡四方水土功課、歳尽則奏其殿最而行賞罰。凡郊祀之事、掌掃除楽器。大喪則掌将校復土」とある。。舜が帝位を代行すると、禹を司空とした23『尚書』舜典篇、『史記』巻一、五帝本紀に見える。。契の玄孫の子である冥も夏の司空となった24冥は『史記』巻三、殷本紀に見え、『史記集解』に「宋忠曰、冥為司空、勤其官事、死於水中、殷人郊之」とある。。殷の湯王は咎単を司空とした25『史記』巻三、殷本紀に「咎単作明居」とあり、『史記集解』に「馬融曰、咎単、湯司空也。明居民之法也」とある。。周のとき、司空は冬官であり、国家の事業をつかさどった26原文「周時司空為冬官、掌邦事」。『周礼』天官小宰に「六曰冬官、其属六十、掌邦事」とあるのにもとづいた記述である。『周礼』冬官考工記「国有六職、百工与居一焉」の鄭玄注に「司空掌営城郭、建都邑、立社稷宗廟、造宮室、車服器械」とあり、鄭玄は「邦事」を「造営・工作の事業」と解しているようである。これに従って訳出した。。西漢のはじめ、置かなかった。成帝の綏和元年、御史大夫を大司空に改名したが、哀帝の建平二年、御史大夫に戻し、元寿二年、ふたたび大司空とし、光武帝の建武二十七年、「大」字を取り払った。献帝の建安十三年、また司空を廃し、御史大夫を置いた27『続漢書』百官志一、司空の劉昭注に引く「荀綽晋百官表注」に「献帝置御史大夫、職如司空、不領侍御史」とある。。〔その後、〕御史大夫の郗慮が免官されると、〔御史大夫の位に人員を〕補充しなかった。魏のはじめ、また司空を置いた。
 大司馬は一人。武事をつかさどる。「司」は「主」、「馬」は「武」のことである28『太平御覧』巻二〇九、大司馬に引く「韋昭辯釈」に「大司馬。馬、武也。大総武事也。大司馬掌軍。古者兵車、一車四馬、故以馬名官」とある。。堯のとき、棄が后稷となり、兼ねて司馬をつかさどった。周のとき、司馬は夏官であり、国家の政(不正の匡正)をつかさどった29『周礼』夏官司馬の序官に「乃立夏官司馬、使帥其属而掌邦政、以佐王平邦国」とあり、鄭玄注に「政、正也。政、所以正不正者也」とあるのにもとづいて訳注を補った。。項籍は曹無咎と周殷をともに大司馬とした。漢のはじめは置かなかった。武帝の元狩四年、はじめて大司馬を置いた。当初はたんに「司馬」と呼んでいたが、漢には軍候、千人、司馬の官があると議者が言うので、〔区別をつけるために〕「大」字を加えた30原文「始直云司馬、議者以漢有軍候千人司馬官、故加大」。『続漢書』百官志一、太尉の劉昭注に引く「漢官儀」に「元狩六年罷太尉、法周制置司馬。時議者以為漢軍有官候、千人、司馬、故加『大』為大司馬、所以別異大小司馬之号」と、「軍候」と「官候」で字に違いがあるが、おおむね本文と同じである。
 なお軍候(官候)、千人、司馬はすべて武官の名称。『漢書』百官公卿表上、中尉に「有両丞、候、司馬、千人」とあり、顔師古注に「候及司馬及千人皆官名也。属国都尉云有丞、候、千人。西域都護云司馬、候、千人各二人。凡此千人、皆官名也」とあり、『続漢書』百官志一、将軍に「其領軍皆有部曲。大将軍営五部、部校尉一人、比二千石。軍司馬一人、比千石。部下有曲、曲有軍候一人、比六百石。……」とある。
。司空を置いたとき、県と道の官に獄司空の官があったため、司空にも「大」字を加えた31『続漢書』百官志一、司空の劉昭注に引く「応劭漢官儀」に「綏和元年、罷御史大夫官、法周制、初置司空。議者又以県道官獄司空、故覆加『大』、為大司空、亦所以別大小之文」とある。。王莽が居摂すると、漢には小司徒がいないことを理由に32「小司徒」はよくわからない。『周礼』の地官に見えている職ではあるが、おそらくそれを指すのではなく、「「大」字のないただの司徒」を言いたいのだろうと思われる。詳しくは次の注を参照。、〔三公として〕司馬、司徒、司空の名称を定め、すべて「大」字を加えた33原文は「王莽居摂、以漢無小司徒、而定司馬、司徒、司空之号並加大」だが、『続漢書』百官志一、司徒の劉昭注に引く「漢官儀」に「王莽時、議以漢無司徒官、故定三公之号曰大司馬、大司徒、大司空」とあるのを改変したのであろう。「漢官儀」の文のニュアンスは、漢制では司徒が不在だが、これは「古制」に合わないとの主張があり、そこで大司徒を新設し、あわせて大司空、大司馬も復置して、この三つを三公に定めて三公制を整備した、ということだと思われる。本文の撰述者は「漢官儀」の「漢無司徒官」を「漢には「大」字のない司徒がいない」と律義に読んでしまい、「漢無小司徒」と書き換えてしまったのではないかと疑われるが、「大」字の有無は「漢官儀」で問題にされていることではないので、見当ちがいの読み方になってしまい、結果的に本文も意味がよくわからない文章になってしまっていると思われる。
 また本文の「王莽居摂」だが、居摂というと漢の平帝崩御後、王莽が居摂元年(紀元六年)を称したことを言うのだろうが、大司徒、大司馬、大司空の三公が整備されたのは哀帝の元寿二年(紀元前一年)のことである(『漢書』巻一一、哀帝紀、元寿二年五月の条)。「漢官儀」には「王莽時」とあるが、王莽は元寿二年、就国先の南陽から長安へ帰還しており、東晋次氏は王莽の復帰が三公制の整備に影響した可能性を指摘している(東『王莽――儒家の理想に憑かれた男』白帝社、二〇〇三年、一一一頁)。王莽が権勢を取り戻していく時期にあたることもあり、「漢官儀」の表現は一概にまちがいとも言えないが、適切とも言いがたいかもしれない。本文の撰述者は「王莽時」を「王莽居摂」と理解してしまったのであろうか。
 なお、前漢代における三公制の整備について簡単に整理しておく(以下、保科季子「前漢後半期における儒家礼制の変容――漢的伝統との対立と皇帝観の変貌」(歴史と方法編集委員会編『歴史と方法3 方法としての丸山真男』青木書店、一九九八年)、東晋次『王莽』(前掲)を適宜参照した)。当初の前漢では、「三公」という表現で丞相と御史大夫を指しはするものの、太尉と大司馬がその中に含まれているとは考えにくく、あくまで雅称として通行するのみで、「三公」に相当する三人の大臣職があるわけではなかった(保科前掲論文、二四六頁)。成帝の綏和元年になって、儒家官僚の提言にもとづき、御史大夫を大司空に改称し、大司馬を将軍号に冠する称号から独立させ、丞相、大司馬、大司空の三官を三公に定め、三公制が整えられるにいたった。その後、哀帝の建平二年に大司空と大司馬は旧に戻され(『漢書』巻一九、百官公卿表上)、三公制は解体されたが、哀帝崩御直前の元寿二年、丞相が大司徒に、御史大夫が大司空に改称され、大司馬がふたたび独立し、この三官を三公に定めるにいたった。保科前掲論文は、三公制がたどるこうした変遷の背景に、漢の体制を儒家礼制(「古制」)に合わせようとする儒家官僚と、漢の伝統的体制(「漢家故事」)を重んじる復古派官僚との対立があったと論じている。そのような情勢があったことを念頭におき、あらためて「漢官儀」の「議以漢無司徒官」を読めば、これは「議」者、すなわち儒家官僚が、「古制」に規定のある司徒の官が漢の現体制において不在であることを問題視し、司徒を立てて「古制」にかなうよう求めたところ、丞相を司徒に改めることになり、さらにもって司徒を含めた三公制も整備された、ということになるだろう(本訳注冒頭ではこの理解をふまえて「漢官儀」の主旨をまとめた)。
。光武帝の建武二十七年、大司馬を廃し、太尉をその代わりとした。魏の文帝の黄初二年、大司馬を復置し、曹仁をこれに就けたが、太尉はもとのとおりに置いた。
 大将軍は一人。およそ、すべての将軍は征伐をつかさどる。周の制では、王は六軍を立てた。晋の献公は二軍を設け、献公が上軍を将(ひき)いた34『左伝』閔公元年に「晋侯作二軍、公将上軍、大子申生将下軍」とある。。「将軍」の名称はこれに由来する。楚の懐王が三将軍を派遣して関中に入らせたさい、宋義が上将であった35『史記』高祖本紀に「趙数請救、懐王乃以宋義為上将軍、項羽為次将、范増為末将、北救趙」とある。。漢の高帝は韓信を大将軍とした。西漢は大司馬を大将軍の上に付加した36「大司馬大将軍とした」ということ。原文は「以大司馬冠之」だが、『漢書』百官公卿表上に「元狩四年初置大司馬、以冠将軍之号」とあり、顔師古注に「冠者、加於其上共為一官也」とある。。東漢は大将軍が単独で官となり37大司馬大将軍のように大司馬とセットの将軍号ではなくなり、大司馬が取れ、大将軍のみで将軍号に独立したということ。、朝位(朝廷での席次)は三司38司徒、司空、太尉の三公のこと。「三公」の語は太宰、太保、太傅の三官を指す場合もあり、ややこしくなるため、便宜的に太宰らの三公を「三公」と表記し、司徒らの三公を「三司」と表記して区別する。の上であった。魏の明帝の青龍三年、晋の宣帝が大将軍から太尉に移ったので、〔魏では〕大将軍〔の朝位〕は三司の下であったのだろう。その後、ふたたび三司の上になった。晋の景帝が大将軍となると、景帝の叔父の司馬孚が太尉となったので、〔景帝は〕奏上して、大将軍を太尉の下とするよう求めた。のちにもとに戻した39大将軍同様、大司馬の朝位も三司の前後でたびたび変動したようである。『太平御覧』巻二〇九、大司馬に引く「晋公卿礼秩」には「司馬、兵官也。魏氏、大司馬、大将軍各自為官、在三司上、晋以石苞為大司馬、次三司下」とあり、『晋書』巻二四、職官志に「自義陽王望為大司馬之後、定令如旧、在三司上」(『通典』巻二〇、大司馬、略同)とある。晋初は三司の上であったが、のちに下に移された、ということだろうか。
 晋の武帝が即位すると、安平王孚が太宰となり、鄭沖が太傅となり、王祥が太保となり、義陽王望が太尉となり、何曾が司徒となり、荀顗が司空となり、石苞が大司馬となり、陳騫が大将軍となった。八公は同時に置かれたが、丞相だけはなかった40宋では「八公」という呼び方をしなかったという。『通典』巻二〇、三公総叙に「宋皆有八公之官、而不言為八公也」とある。

(2020/12/13:公開)
(2020/12/14:改訂)

上公・公府員/特進・将軍・都督/卿/尚書/門下

  • 1
    『周礼』では天官に配されている。百官を統べて王を輔佐するという。『周礼』天官冢宰の序官に「惟王建国、辨方正位、体国経野、設官分職、以為民極。乃立天官冢宰、使帥其属、而掌邦治、以佐王均邦国。治官之属、大宰卿一人、……」とあり、同、天官大宰に「大宰之職、掌建邦之六典、以佐王治邦国」とある。
  • 2
    原文「晋初依周礼、備置三公」。中華書局は「周礼」を書名、すなわち『周礼』と読んでいる。『漢書』巻一九、百官公卿表上に「太師、太傅、太保、是為三公」とあり、『晋書』巻二四、職官志に「太師、太傅、太保、周之三公官也」とあり、さらに『太平御覧』巻二〇六、太師に引く「逸礼」に「太公為太師、周公為太傅、召公為太保」とあり、これらを踏まえれば、太師、太傅、太保の三官が周の三公として歴代に伝えられていたのは間違いないのだが、肝心の『周礼』にはこうした意味での三公に関する記述がない。地官に師氏と保氏が見えており、鄭玄の読みに従うと前者の職掌は王の教導、後者は王への諫言となり、太師と太保のことともみなせるが、太傅については相当する官がわからない。現行の『尚書』周官篇に「立太師、太傅、太保、茲惟三公」とあり、このことをもって本文の「周礼」は『尚書』周官篇を指すとの読み方もできるのかもしれないが、現行の周官篇は魏晋時代に偽作されたものである可能性があり(野間文史『五経入門――中国古典の世界』研文出版、二〇一四年、八八頁)、西晋の人々が現行の周官篇を参照したとは考えにくく、そのような読み方を採るのは抵抗がある。以上を総合し、本文の「周礼」は書名ではなく、「周の礼制」を意味するものとして読むことにした。
  • 3
    太師を太宰へ改称したのは、司馬師と関係がないという説もある。『太平御覧』巻二〇六、太宰に引く「斉職儀」に「太宰品第一、金章紫綬、佩山玄玉。……秦漢魏無其職、晋武以従祖安平王孚為太宰。安平薨、省。咸寧四年又置。或謂、本太師之職、避景帝諱、改為大宰。或謂、太宰、周之卿位、晋武依周、置職以尊安平、非避諱也。元興中、恭帝為太宰桓玄都督中外、博士徐豁議、太宰非武官、不応都督、遂従豁議」とある。
  • 4
    原文「太宰、蓋古之太師也」。自信はないが、以下のように解釈しておきたい。前の注で詳述したように、『周礼』に太師という職自体は立てられておらず、いにしえの太師ないし師がどのような職務であったのかは明瞭でない。そこで本文の撰述者は、晋代に太師の代わりとして太宰が置かれたことから推論して、太宰といにしえの記録に見える太師とはおおむね同じ役割をもった職であろうと解釈した、ということだと思われる。ただし、『通典』巻二〇、太宰には「蓋為太師之互名、非周冢宰之任也(思うに、太宰は太師を言い換えた名称ではあるが、周の冢宰の職務ではない)」と、本文と似た文章がみえているが、実際は「非周冢宰之任也」だという本文にはみえない一文が加わっている。『通典』の職官典は曹魏、両晋、劉宋の記述を多く『宋書』百官志に負っていることを考慮すると、この一文は本文にもともとあったもので、現在は脱落してしまった文言であるのかもしれない。
  • 5
    『太平御覧』巻二〇六、太宰に引く「晋公卿礼秩」に「安平王孚、朗陵公何曾、汝南王亮皆太宰」とある。
  • 6
    『太平御覧』巻二〇六、太傅に引く「応劭漢官」に「太傅、古官也。周成王時、康叔為之。高后元年、初用王陵。金印紫綬」とあり、同、「斉職儀」に「太傅、品秩冠服同太宰。成王即位、周公為太傅、遷太師。秦無其職。漢恵帝崩、呂后以丞相王陵為少帝太傅。位在三公上」とある。
  • 7
    『尚書』君奭篇の序には「召公為保、周公為師、相成王為左右」とあり、本文の「武王」は「成王」の誤りか。
  • 8
    『太平御覧』巻二〇六、総叙三師に引く「宋書」に「太師、太傅、太保為三公、訓護人主、導以徳義。天子加拝、待以不臣之礼。非人則闕矣。漢制保傅在三公上、号曰上公、自後常然」とあり、赤字箇所はおそらく佚文。
  • 9
    『芸文類聚』巻四五、丞相に引く「応劭風俗通」には「丞者、承也。相者、助也」とある(同様の応劭の記述は『漢書』巻一九、百官公卿表上、相国丞相の顔師古注にも引用されている)。
  • 10
    原文は「一丞相」。左右に分かれていたのを統合したということ。どう表現したらいいのかわからないのでこういう感じで。
  • 11
    本人は都(建康)を離れているが、官府は都に留まっているとき、その官府のことを「留府」と呼んでいるようである。『晋書』元帝紀および『資治通鑑』によると、永昌元年十一月に司徒の荀組が司徒から太尉に転任しているが、『資治通鑑』はこの直後に「罷司徒、并丞相府。王敦以司徒官属為留府」と記し、胡三省注に「敦還武昌、遥制朝政、故有留府在建康」とある。
  • 12
    『太平御覧』巻二〇七、太尉に引く「又百官表注」に「太尉、古官也。自上安下曰尉、故官以為号」とあり、『続漢書』百官志一、太尉の劉昭注に「応劭曰、『自上安下曰尉、武官悉以為称』」とある。
  • 13
    「郊祀」とは京師の郊外の台でおこなわれる祭祀儀礼。南郊で天(昊天上帝)、北郊で地(皇地祇)を祀る。祭祀のさい、酒を神に献上する儀礼がおこなわれるが、南郊および北郊は「三献」、すなわち三杯の酒を献上する。その二杯目のことを「亜献」と言う。ちなみに一杯目は「初献」、三杯目は「終献」。唐以前の三献儀礼は江川式部氏が表に整理しているが、それを参照するかぎり、たしかに太尉が亜献を務める傾向にあったようである(なおケースによって異なるが、主に初献は皇帝、終献は光禄勲が担当する)。江川式部「唐朝祭祀における三献」(『駿台史学』一二九、二〇〇六年)二九頁を参照。
  • 14
    『続漢書』百官志一、太尉の本注に「掌四方兵事功課、歳尽即奏其殿最而行賞罰。凡郊祀之事、掌亜献。大喪則告諡南郊」とある。
  • 15
    『太平御覧』巻二〇七、太尉に引く「漢官典職」に「太尉、孝文三年置、七年省。武帝建元二年置、五年復省、更名大司馬。建武二十七年復置太尉」とあり、本文とは異なった経緯を記している。
  • 16
    『続漢書』百官志一、司徒の本注に「掌人民事。凡教民孝悌、遜順、謙倹、養生送死之事、則議其制、建其度。凡四方民事功課、歳尽則奏其殿最而行賞罰。凡郊祀之事、掌省牲視濯。大喪則掌奉安棺宮」とある。
  • 17
    『左伝』昭公十七年に「秋、郯子来朝。公与之宴。昭子問焉、曰、『少皥氏鳥名官、何故也』。郯子曰、『吾祖也、我知之。昔者黄帝氏以雲紀、故為雲師而雲名。……我高祖少皥摯之立也、鳳鳥適至、故紀於鳥、為鳥師而鳥名。……祝鳩氏司徒也、鴡鳩氏司馬也、鳲鳩氏司空也、爽鳩氏司寇也、鶻鳩氏司事也、五鳩、鳩民者也。……』」とある。
  • 18
    原文「舜摂帝位、命契為司徒」。舜による位の「摂」(代行)については、『史記』巻一、五帝本紀に「堯立七十年得舜、二十年而老、令舜摂行天子之政、薦之於天」とある。契が司徒に命じれらたことは『尚書』舜典篇、『史記』巻一、五帝本紀に見える。
  • 19
    微は『史記』巻三、殷本紀に見えるが、司徒については不明。
  • 20
    『周礼』地官司徒の序官に「乃立地官司徒、使帥其属而掌邦教、以佐王安擾邦国」とあり、鄭玄注に「教、所以親百姓、訓五品」とある。
  • 21
    『太平御覧』巻二〇九、司空に引く「漢官解詁」に「下理坤道、上和乾光、謂之司空」とある。
  • 22
    原文「大喪掌将校復土」。『後漢書』紀二、明帝紀に「司空魴将校復土」とあり、李賢注に「馮魴也。将校謂将領五校兵以穿壙也。前書音義曰、『復土、主穿壙填塞事也。言下棺訖、復以土為墳、故言復土』」とある。これに従って訳文を作成した。また『続漢書』百官志一、司空の本注に「掌水木事。凡営城起邑・浚溝洫・修墳防之事、則議其利、建其功。凡四方水土功課、歳尽則奏其殿最而行賞罰。凡郊祀之事、掌掃除楽器。大喪則掌将校復土」とある。
  • 23
    『尚書』舜典篇、『史記』巻一、五帝本紀に見える。
  • 24
    冥は『史記』巻三、殷本紀に見え、『史記集解』に「宋忠曰、冥為司空、勤其官事、死於水中、殷人郊之」とある。
  • 25
    『史記』巻三、殷本紀に「咎単作明居」とあり、『史記集解』に「馬融曰、咎単、湯司空也。明居民之法也」とある。
  • 26
    原文「周時司空為冬官、掌邦事」。『周礼』天官小宰に「六曰冬官、其属六十、掌邦事」とあるのにもとづいた記述である。『周礼』冬官考工記「国有六職、百工与居一焉」の鄭玄注に「司空掌営城郭、建都邑、立社稷宗廟、造宮室、車服器械」とあり、鄭玄は「邦事」を「造営・工作の事業」と解しているようである。これに従って訳出した。
  • 27
    『続漢書』百官志一、司空の劉昭注に引く「荀綽晋百官表注」に「献帝置御史大夫、職如司空、不領侍御史」とある。
  • 28
    『太平御覧』巻二〇九、大司馬に引く「韋昭辯釈」に「大司馬。馬、武也。大総武事也。大司馬掌軍。古者兵車、一車四馬、故以馬名官」とある。
  • 29
    『周礼』夏官司馬の序官に「乃立夏官司馬、使帥其属而掌邦政、以佐王平邦国」とあり、鄭玄注に「政、正也。政、所以正不正者也」とあるのにもとづいて訳注を補った。
  • 30
    原文「始直云司馬、議者以漢有軍候千人司馬官、故加大」。『続漢書』百官志一、太尉の劉昭注に引く「漢官儀」に「元狩六年罷太尉、法周制置司馬。時議者以為漢軍有官候、千人、司馬、故加『大』為大司馬、所以別異大小司馬之号」と、「軍候」と「官候」で字に違いがあるが、おおむね本文と同じである。
     なお軍候(官候)、千人、司馬はすべて武官の名称。『漢書』百官公卿表上、中尉に「有両丞、候、司馬、千人」とあり、顔師古注に「候及司馬及千人皆官名也。属国都尉云有丞、候、千人。西域都護云司馬、候、千人各二人。凡此千人、皆官名也」とあり、『続漢書』百官志一、将軍に「其領軍皆有部曲。大将軍営五部、部校尉一人、比二千石。軍司馬一人、比千石。部下有曲、曲有軍候一人、比六百石。……」とある。
  • 31
    『続漢書』百官志一、司空の劉昭注に引く「応劭漢官儀」に「綏和元年、罷御史大夫官、法周制、初置司空。議者又以県道官獄司空、故覆加『大』、為大司空、亦所以別大小之文」とある。
  • 32
    「小司徒」はよくわからない。『周礼』の地官に見えている職ではあるが、おそらくそれを指すのではなく、「「大」字のないただの司徒」を言いたいのだろうと思われる。詳しくは次の注を参照。
  • 33
    原文は「王莽居摂、以漢無小司徒、而定司馬、司徒、司空之号並加大」だが、『続漢書』百官志一、司徒の劉昭注に引く「漢官儀」に「王莽時、議以漢無司徒官、故定三公之号曰大司馬、大司徒、大司空」とあるのを改変したのであろう。「漢官儀」の文のニュアンスは、漢制では司徒が不在だが、これは「古制」に合わないとの主張があり、そこで大司徒を新設し、あわせて大司空、大司馬も復置して、この三つを三公に定めて三公制を整備した、ということだと思われる。本文の撰述者は「漢官儀」の「漢無司徒官」を「漢には「大」字のない司徒がいない」と律義に読んでしまい、「漢無小司徒」と書き換えてしまったのではないかと疑われるが、「大」字の有無は「漢官儀」で問題にされていることではないので、見当ちがいの読み方になってしまい、結果的に本文も意味がよくわからない文章になってしまっていると思われる。
     また本文の「王莽居摂」だが、居摂というと漢の平帝崩御後、王莽が居摂元年(紀元六年)を称したことを言うのだろうが、大司徒、大司馬、大司空の三公が整備されたのは哀帝の元寿二年(紀元前一年)のことである(『漢書』巻一一、哀帝紀、元寿二年五月の条)。「漢官儀」には「王莽時」とあるが、王莽は元寿二年、就国先の南陽から長安へ帰還しており、東晋次氏は王莽の復帰が三公制の整備に影響した可能性を指摘している(東『王莽――儒家の理想に憑かれた男』白帝社、二〇〇三年、一一一頁)。王莽が権勢を取り戻していく時期にあたることもあり、「漢官儀」の表現は一概にまちがいとも言えないが、適切とも言いがたいかもしれない。本文の撰述者は「王莽時」を「王莽居摂」と理解してしまったのであろうか。
     なお、前漢代における三公制の整備について簡単に整理しておく(以下、保科季子「前漢後半期における儒家礼制の変容――漢的伝統との対立と皇帝観の変貌」(歴史と方法編集委員会編『歴史と方法3 方法としての丸山真男』青木書店、一九九八年)、東晋次『王莽』(前掲)を適宜参照した)。当初の前漢では、「三公」という表現で丞相と御史大夫を指しはするものの、太尉と大司馬がその中に含まれているとは考えにくく、あくまで雅称として通行するのみで、「三公」に相当する三人の大臣職があるわけではなかった(保科前掲論文、二四六頁)。成帝の綏和元年になって、儒家官僚の提言にもとづき、御史大夫を大司空に改称し、大司馬を将軍号に冠する称号から独立させ、丞相、大司馬、大司空の三官を三公に定め、三公制が整えられるにいたった。その後、哀帝の建平二年に大司空と大司馬は旧に戻され(『漢書』巻一九、百官公卿表上)、三公制は解体されたが、哀帝崩御直前の元寿二年、丞相が大司徒に、御史大夫が大司空に改称され、大司馬がふたたび独立し、この三官を三公に定めるにいたった。保科前掲論文は、三公制がたどるこうした変遷の背景に、漢の体制を儒家礼制(「古制」)に合わせようとする儒家官僚と、漢の伝統的体制(「漢家故事」)を重んじる復古派官僚との対立があったと論じている。そのような情勢があったことを念頭におき、あらためて「漢官儀」の「議以漢無司徒官」を読めば、これは「議」者、すなわち儒家官僚が、「古制」に規定のある司徒の官が漢の現体制において不在であることを問題視し、司徒を立てて「古制」にかなうよう求めたところ、丞相を司徒に改めることになり、さらにもって司徒を含めた三公制も整備された、ということになるだろう(本訳注冒頭ではこの理解をふまえて「漢官儀」の主旨をまとめた)。
  • 34
    『左伝』閔公元年に「晋侯作二軍、公将上軍、大子申生将下軍」とある。
  • 35
    『史記』高祖本紀に「趙数請救、懐王乃以宋義為上将軍、項羽為次将、范増為末将、北救趙」とある。
  • 36
    「大司馬大将軍とした」ということ。原文は「以大司馬冠之」だが、『漢書』百官公卿表上に「元狩四年初置大司馬、以冠将軍之号」とあり、顔師古注に「冠者、加於其上共為一官也」とある。
  • 37
    大司馬大将軍のように大司馬とセットの将軍号ではなくなり、大司馬が取れ、大将軍のみで将軍号に独立したということ。
  • 38
    司徒、司空、太尉の三公のこと。「三公」の語は太宰、太保、太傅の三官を指す場合もあり、ややこしくなるため、便宜的に太宰らの三公を「三公」と表記し、司徒らの三公を「三司」と表記して区別する。
  • 39
    大将軍同様、大司馬の朝位も三司の前後でたびたび変動したようである。『太平御覧』巻二〇九、大司馬に引く「晋公卿礼秩」には「司馬、兵官也。魏氏、大司馬、大将軍各自為官、在三司上、晋以石苞為大司馬、次三司下」とあり、『晋書』巻二四、職官志に「自義陽王望為大司馬之後、定令如旧、在三司上」(『通典』巻二〇、大司馬、略同)とある。晋初は三司の上であったが、のちに下に移された、ということだろうか。
  • 40
    宋では「八公」という呼び方をしなかったという。『通典』巻二〇、三公総叙に「宋皆有八公之官、而不言為八公也」とある。
タイトルとURLをコピーしました