巻十 帝紀第十 恭帝

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安帝恭帝

 恭帝は諱を徳文、字を徳文といい、安帝の同母弟である。はじめに琅邪王に封じられ、中軍将軍、散騎常侍、衛将軍、開府儀同三司を歴任し、侍中を加えられ、領司徒、録尚書六条事となった。元興のはじめ、車騎大将軍に移った。桓玄が執政する(権力をにぎる)と、位を太宰に進められ、袞冕の服と緑綟綬を加えられた。桓玄が帝位を簒奪すると、恭帝を石陽県公とし、安帝といっしょに尋陽におらせた。桓玄が敗れると、〔安帝と桓玄に〕随行して江陵にいたった。桓玄が死ぬと、桓振がにわかに襲来し、馬を躍らせて矛を振るい、まっすぐ階下までいたると、目を怒らせて安帝に言った、「臣の門戸は国家を背負っていたのに、どうしてこのように滅ぼされなければならないのだ」。恭帝は寝台から下りると、桓振に向かって言った、「これがわれら兄弟の意志であるものか」。桓振はそこでようやく馬から下りて拝礼した。桓振が平定されると、ふたたび琅邪王となった。さらに領徐州刺史となり、まもなく大司馬に任じられ、領司徒となり、殊礼を加えられた。
 義煕五年、左右長史、司馬、従事中郎の四人を置き、羽葆、鼓吹を加えられた。
 十二年、〔安帝は〕詔を下した、「大司馬はうるわしい徳をそなえた優れた宗室で、太尉は道勲1『宋書』巻五一、宗室伝・臨川武烈王道規伝に「褒崇道勲、経国之盛典。尊親追遠、因心之所隆」とあり、「道勲」で熟した語であったと思われるが、よくわからない。簡文帝紀の「道済」の注も参照。が広大な者であり、どちらも〔民を治める〕常理を整え、陰陽の気を調和させた。秀才たちは〔大司馬と太尉を〕首を伸ばして仰ぎ見て、国家の政治を助けようと思っている。しかし〔大司馬と太尉は〕謙遜を尊び、四方の門を開かずにいるが、それは高尚と謙虚の道にまことに合致しているけれども、賢者を促して世を助けさせる任務にじつに違背しているのである。むかし、〔漢のときに〕車輪を蒲で包んだ車で二回〔賢者(魯の申公と牧乗)を〕召すと、異才がこぞって出仕し、東平王が府を開くと、奇才がおもむいて行った2范曄『後漢書』の東平王蒼の伝には関連した記述はたぶんない……と思う。そこまでがんばって出典をみつけようと思わないので調べません。。〔こうした〕多士済々の隆盛を、朕は仰ぎ慕っている。そこで大司馬と太尉の府に勅を下し、旧例に従って辟召させるべきであろう。必ずや、優秀な人材を抜擢し、前代の賢人に倣うようにせよ」。こうして、掾属を辟召するようになった。このとき、太尉の劉裕は都督中外諸軍であったが、〔安帝は〕詔を下した、「大司馬は門地が高く、職責も重く、賢良な宗室で並ぶ者はいない。〔大司馬の〕府は〔都督中外の〕指揮を受けるとはいえ、大司馬自身は〔太尉に〕敬をいたさなくてもよいものとする3原文「可身無致敬」。「敬」は礼品の意だと一時期思っていたことがあったが、何かを見てそうでもないなと考えを改めた。が、まだ意見は定まっていないので保留。」。
 劉裕が北伐すると、恭帝は上疏し、指揮下の軍団を統率し、行軍路を開き、山陵を修復して参拝したいと願い出た。朝廷はこれを聴き入れたので、劉裕といっしょに出発した。有司が、従軍しているために辞を〔洛陽の〕山陵の廟に奉じることはできないと陳述すると、恭帝はまた上疏した、「臣は境域の外で車を推し進め〔事業を助け〕ようとしていますが、〔その間に〕寒暑(季節)が改まることでしょう。〔それなのに〕はるか遠方の墓陵で心情を申し述べることができないのでしたら、臣の私的な心は満足いたしません。伏して願いますに、どうぞ天のご慈愛を賜わり、特別にお許しいただけますよう。臣のかすかな誠意をおおまかにでも述べられれば、従軍しても後悔はございません」。これを聴き入れた。姚泓が滅ぶと、京師に帰還した。
 十四年十二月戊寅、安帝が崩じた。劉裕は遺詔と称して矯詔を下した、「わが有晋は明らかな命をおおいに授かり、その事業は九州を栄えさせ、その光明は四海を太平にさせた。朕は不徳をもって、ちょうど多難の時期にあたってしまったが、幸運にも宰相(劉裕)がかの転覆から救ってくれた。こうして加護を頼みとして、禍乱を退けることに成功し、とうとう天子4原文「冕旒辰極」。たぶん天子の比喩だと思うが……。が六合を統一したのである。まさに阿衡(劉裕)に頼り、大業を新たにしたが、病にかかっておおいに重くなってしまい、ついには起き上がれなくなることであろう。祖先の霊命を仰ぐに、賢良な宗室が〔帝位を〕になえ。ああ、なんじ大司馬の琅邪王よ、身体は先帝の血を継ぎ、うるわしい徳をそなえて輝かしく、〔朕との〕親族関係は後継ぎにあたり、人々の期待を集めている者である。そこで、晋邦に君臨し、祖先の祭祀を奉じて継承し、まことに中正を守り、天下を調和させよ。〔朕のこの〕ささいな誥を明るくし、わが高祖のおおいなる命を廃れさせないように」。この日、帝位につき、大赦した。

 元煕元年春正月壬辰朔、改元した。〔安帝を〕山陵にまだ埋葬していないことを理由に、朝会を開かなかった。皇后に褚氏を立てた。甲午、劉裕を召し、朝廷に戻らせた。戊戌、彗星が太微の西藩で光った。庚申、安帝を休平陵に埋葬した。恭帝は朝賀を受けたが、楽器を設けても演奏しなかった。驃騎将軍の劉道憐を司空とした。
 秋八月、劉裕が鎮を寿陽に移した。
 九月、劉裕はみずから揚州刺史を解いた。
 冬十月乙酉、劉裕は子の桂陽公の劉義真を揚州刺史とした。
 十一月丁亥朔、日蝕があった。
 十二月辛卯、劉裕は殊礼を加えられた。己卯、太史が奏し、四匹の黒龍が東方に現れたと報告した。

 二年夏六月壬戌、劉裕が京師に到着した。傅亮は劉裕の密旨を受け、それとなく恭帝に禅譲を促し、詔の草稿を作成し、これを浄書するように要望した。恭帝は喜んだ様子で左右に語った、「晋氏は久しいあいだ、とっくに天命を失っていたのだ。なんの後悔があろうか」。そして赤紙に浄書し、詔を作成した。甲子、とうとう琅邪王の邸宅へ退いた。劉裕は恭帝を零陵王とし、秣陵に住まわせ、晋の正朔を行わせ、車旗や服色はすべてもとの〔晋の定めの〕ままとしたが、文章があるだけで礼を整備しなかった。恭帝はこれ以後、禍の機会を深く心配するようになった。褚后がいつも恭帝のそばに従い、飲食する物はすべて褚后から出ていたので、宋人は隙をうかがうことができなかった。宋の永初二年九月丁丑、劉裕は褚后の兄の褚叔度を褚后に面会させた。隙ができると、兵士が垣を越えて侵入し、恭帝を内房で弑した。享年三十六。恭皇帝の諡号をおくられ、沖平陵に埋葬された。
 恭帝は幼少のとき、たいへん残忍でせっかちな性格であった。藩国にいるようになると(王に封じられると)、射撃がうまい者に馬を射らせる遊びをしたことがあった。ほどなく、「馬は国の姓ですのに、みずからそれを殺してしまうとは、ひじょうに不吉です」と言う人がいた。恭帝も気づき、とても悔やんだ。その後、仏教を深く信仰し、千万の貨幣を溶かして一丈六尺の金製の仏像をつくった。瓦官寺にてみずからこの仏像を迎えるため、十数里のところから〔瓦官寺まで〕歩いたのである。安帝は利発でなかったので、恭帝はいつも左右に侍り、温涼や寝食の節度を調整した。〔そのため〕恭謹をもって名声を博し、当時の人々はこれを称賛した。
 そのむかし、元帝は丁丑の年に晋王を称し、宗廟を建て、郭璞に王朝の命数を占わせたところ、「二百年を授かる」と出た。丁丑の年から〔宋への〕禅譲の年までは、〔禅譲は〕庚申の年であるため、百四年となる。しかし、丁丑で始めると〔まだ〕西晋にかかっており、庚申で終わると〔すでに〕宋の年に入ってしまっているから、〔百四からそれぞれの二年を引くと〕残る年数は百二年だけである。郭璞は、百二年の期間では短いと考え、言い回しを変え、字を転倒させて「二百」と言ったのだろう。

 史臣曰く、(以下略)

安帝恭帝

(2020/2/27:公開)

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    『宋書』巻五一、宗室伝・臨川武烈王道規伝に「褒崇道勲、経国之盛典。尊親追遠、因心之所隆」とあり、「道勲」で熟した語であったと思われるが、よくわからない。簡文帝紀の「道済」の注も参照。
  • 2
    范曄『後漢書』の東平王蒼の伝には関連した記述はたぶんない……と思う。そこまでがんばって出典をみつけようと思わないので調べません。
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    原文「可身無致敬」。「敬」は礼品の意だと一時期思っていたことがあったが、何かを見てそうでもないなと考えを改めた。が、まだ意見は定まっていないので保留。
  • 4
    原文「冕旒辰極」。たぶん天子の比喩だと思うが……。
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