巻二十四 志第十四 職官(1)

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序・公・位従公/尚書・門下・中書・卿・御史・中央軍・東宮・国官・州郡県・非漢族統御官

(序文は省略。後日がんばります。)

 丞相、相国はともに秦の官である。晋は魏の禅譲を受けると、どちらも置かなかったが、恵帝以後は、廃したり置いたりして一定しなかった。これらに就任した者は、趙王倫、梁王肜、成都王穎、南陽王保、王敦、王導といった人々で、みな普通の人臣の官職ではなかった。
 太宰、太傅、太保は、周の三公の官である。魏のはじめ、太傅のみを置き、鍾繇をこれに就けたが、末年になってさらに太保を置き、鄭沖をこれに就けた。晋のはじめ、〔太師は〕景帝の諱〔を犯している〕という理由と、また『周礼』の官名を採用しようとした意図のため、太宰を置いて太師の官職と交替させ、官秩は三司よりも増やし、太傅、太保とならべてみな上公とした。〔上公は〕道を論じて国家を治め、陰陽をととのえる〔のが務めである〕。適当な人がいなければ欠員とする。安平献王孚を太宰に就けた。渡江(東晋)以後、太宰の名義は廃されなかったが、これに就任する者はひじょうに少なかった。
 太尉、司徒、司空は、みな古官である。漢から魏を経るまで、設置されて三公とされていた。晋が受命してから江左(東晋)に至るまで、これらの官は継承されて廃されなかった。
 大司馬は古官である。漢の制度では大将軍、驃騎将軍、車騎将軍の上に冠する称号で、そのようにすることで太尉の官職と交替させた。ゆえに、〔漢制では〕つねに太尉と交替で置かれ、並び置かれることはなかった。魏になると、太尉が置かれ、そのうえ大司馬と大将軍がおのおの単独で官となり、〔大司馬の〕朝位(朝廷での席次)は三司の上であった。晋が魏の禅譲を受けると、魏の制度を継承し、安平王孚を太宰とし、鄭沖を太傅とし、王祥を太保とし、義陽王望を太尉とし、何曾を司徒とし、荀顗を司空とし、石苞を大司馬とし、陳鶱を大将軍とした。のべ八公が同時に並び置かれたが、丞相だけはなかった。義陽王望が大司馬になって以後、晋令を定めて旧制のとおりとし、〔朝位は〕三司の上とした1何を「如旧」したのか意味不明な文章になっているが、『太平御覧』巻二〇九、大司馬に引く「晋公卿礼秩」には「司馬、兵官也。魏氏、大司馬、大将軍各自為官、在三司上、晋以石苞為大司馬、次三司下」とあり、晋のはじめ、大司馬の朝位は三司の下とされたけれども、このときになってふたたび三司の上とした、ということであろう。
 大将軍は古官である。漢の武帝が置き、大司馬の称号を上に冠し、尊重を示す官職であった。東漢になると、大将軍は常設されず、これに就任した者はみな朝権を独占した。〔魏の世で〕景帝(司馬師)が大将軍となると、ふたたび非常の職務を担うようになった。のちに〔魏が景帝の〕叔父の孚を太尉とすると、〔景帝は〕奏上して、大将軍〔の朝位〕を太尉の下に改めるよう求めた。晋が受命しても、そのまま魏の制度に依拠し、朝位は三司の下にあったが、のちに旧制に戻され、三司の上とされた。太康元年、琅邪王伷が大将軍に移ると、ふたたび〔朝位は〕三司の下と定めたが、琅邪王伷が薨じたのち、旧制のとおりとされた。
 開府儀同三司は漢の官である。〔後漢の〕殤帝の延平元年、鄧騭が車騎将軍となると、儀は三司に同等とされた2礼遇は司徒・司空・太尉の三公に等しいものとする、の意。。儀同三司の名称はこれよりはじまったのである。魏の黄権が車騎将軍をもって府を開き、儀同三司となった。開府3「開府」の語は正確に言うと「開府辟召」であるらしい(宣五王・扶風王駿伝、文六王・斉王攸伝、荀勖伝、張軌伝)。辟召は人事登用方法のひとつで、府主が自己の裁量で府の属吏を任じる(召す)こと。漢代、府を開き、その属僚を辟召する権限を有するのは一部の高官に限られており、それゆえ、かかる権限を有さない官位の者への特権賜与として「開府辟召」がおこなわれるようになった。の名称はこれよりはじまったのである4『芸文類聚』巻四七、儀同に引く「斉職儀」に「開府儀同三司、秦漢無聞、始建初三年、馬防為車騎将軍、儀同三司事、魏以黄権為車騎開府、此後甚衆。将軍開府、依大司馬、朱服。光禄大夫開府、依司徒、皁服」とある。
 驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、伏波・撫軍・都護・鎮軍・中軍・四征・四鎮・龍驤・典軍・上軍・輔国の大将軍、左右光禄大夫、光禄大夫は、開府5たんに「開府」とあるのみだが、「開府儀同三司」の意で読むとわかりやすい。『通典』に「左右光禄、光禄三大夫。開府者皆為位従公、品秩、俸賜、儀制与諸公同」とあるように、開府を授けられ、位従公になることによって、自動的に礼遇も諸公に等しくなる(儀同三司になる)のである。つまり「開府」の語によって「幕府の創設と辟召権の賜与」という本来のことを意味する場合と、「儀同三司」のことを意味する場合の二つのケースがあったと考えられる。『隋書』巻二六、百官志上には「梁武受命之初、官班多同宋斉之旧、有丞相、太宰、太傅、太保、大将軍、大司馬、太尉、司徒、司空、開府儀同三司等官。諸公及位従公開府者、置官属。……開府儀同三司、位次三公、諸将軍、左右光禄大夫、優者則加之、同三公、置官属」とあり、開府儀同三司は特定の官職に就いている者のうち、とくに優秀な者にのみ授けられるのであろう。以下、本文「開府」の語で「開府儀同三司」を指していると考えられる箇所についてはそのように訳出し、とくに断らない。を授けられた場合、すべて位従公となる6原文「皆為位従公」。おかしな語順であるように感じるが、用例をみるかぎり、「位従公」でひとまとまりの専門用語である可能性が高いようである。そのため、このような訳文とした。「位従公」とは「朝位は諸公に準じる」の意であり、儀同三司の語で意味するところと違いはないと思われる。なので、以下に見える「(開府)位従公」は「(開府)儀同三司」と読み替えてみても良い。詳しくは訳者のブログ記事「唐修『晋書』職官志の「位従公」について」を参照。
 太宰、太傅、太保、司徒、司空、および開府位従公7開府を授けられて位従公になること、ようするに開府儀同三司。本志は位従公をこのように表現するらしい。の左右光禄大夫と光禄大夫は文官公であり、冠は進賢三梁冠、黒介幘である。
 大司馬、大将軍、太尉、および開府位従公の驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、諸大将軍は武官公であり、みな武冠をつけ、平上黒幘である。
 文官公と武官公はみな金章紫綬を授けられ、五時服を着用する。諸公のうち、相国と丞相はどちらも袞冕、緑盭綬であったが、〔この冠綬であるのは〕常公(通常の諸公)と差別するためである。
 諸公8太宰、太傅、太保、司徒、司空、大司馬、大将軍、太尉のこと。および開府位従公は、品秩第一、俸禄は一日につき五斛。太康二年、〔この俸禄のほかに〕さらに絹を支給することとし、春には〔絹〕百匹、秋には絹二百匹、綿二百斤とした。元康元年、菜田十頃、田騶十人を支給し9采田と田騶はどちらも詳細不明。中村圭爾氏は、前者を「後代の職分田の先駆的なもの」、後者を「賤民的身分にちかい」采田の耕作者、と解釈している([中村圭爾一九八七]四六七頁)。、立夏後に〔采田の〕耕作に着手しない場合は、俸禄一年〔分を支給すること〕とした。〔諸公と位従公の府には〕長史一人を置いた。〔長史は〕秩千石。西閤祭酒、東閤祭酒、西曹掾、東曹掾、戸曹・倉曹・賊曹の令史と属は10原文「戸倉賊曹令史属」。後文に「倉戸賊曹令史」が見えており、ここの箇所の「令史」は衍文か。『宋書』巻三九、百官志上は属のみ。、それぞれ一人。御属、閤下令史、西曹令史、東曹令史、倉曹令史、戸曹令史、賊曹令史、門令史、記室省事令史、閤下記室書令史、西曹学事、東曹学事はそれぞれ一人。武賁(虎賁)二十人を支給し、班剣を装備させた11石井仁氏[二〇〇一]によると、班剣は木製の剣をいい、虎賁は鹵簿を構成する儀仗兵であった。。朝車駕駟(馬四頭に引かせる朝車)、安車黒耳駕三12黒耳は不詳。安車は座って乗る車を言う。輿服志に「車、坐乗者謂之安車、倚乗者謂之立車、亦謂之高車」とある。をそれぞれ一乗、祭酒、掾、属のための白蓋小車を七乗、黒耳が飾られ後戸がある軺車13後戸は不詳。、黒い車輪の犢車をそれぞれ一乗、支給した。祭酒以下、令史以上は、すべて皁零辟朝服(黒い水玉模様の絳緋袍?)。太尉は兵を加えられなかったとしても、その府の属吏はみな絳服である14これに関連して『通典』巻二〇、総叙三師三公以下官属に「初、王渾遷司徒、仍加兵。渾以司徒文官、主吏不持兵、持兵乃吏属絳衣、自以非是旧典、皆令皁服、論者美其謙而識礼」という記述がみえる。。司徒は〔属僚を〕加増され、左長史と右長史をそれぞれ一人置き、秩は千石。主簿、左西曹の掾と属はそれぞれ一人。西曹は右西曹と称した15公府には一般的に西曹が存在しているが、司徒府の場合は特別に西曹が左右に分かれ、たんなる西曹は右西曹に呼び換えられた、ということであろう。。左西曹の令史以下の定員は旧令のとおり16既述の規定のとおり、という意味だと思う。。司空は〔属僚を〕加増され、導橋掾一人を置いた。
 諸公および開府位従公で、かつ兵を加えられた場合は、〔職員を〕加増され、司馬一人を置く。〔司馬は〕秩千石。従事中郎二人、秩比千石。主簿、記室督それぞれ一人、舎人四人、兵曹・鎧曹・士曹・営軍・刺姦・帳下都督・外都督〔など諸曹〕の令史それぞれ一人。主簿以下、令史以上はみな絳服。司馬は長史と同様に吏卒17おそらく官府の雑用のために徴発された民のこと。を支給され、従事中郎は侍二人を支給され、主簿と記室督はそれぞれ侍一人を支給される。そのほか、〔職員を〕臨時に加増する場合は、〔公に就いている当人を〕表彰するために加増するのであり、それぞれその状況に応じて規則を定め、常時の制度とはしなかった。
 諸公および開府位従公で、かつ持節都督となった場合は、参軍〔の職員〕を加増されて六人とされ、長史、司馬、従事中郎、主簿、記室督、祭酒、掾属、舎人は、常時に兵を加えられた公の制度(前文の規定のこと)と同じである。
 特進は漢の官である。両漢と魏晋では加官をもって授けられ、本官の車服(礼遇)に従うものとされ、〔府に〕吏卒はいなかった。太僕の羊琇は位を譲〔って引退しようとす〕ると、〔武帝から〕特進に任じられ、散騎常侍を加えられたが18外戚伝・羊琇伝には「及斉王攸出鎮也、琇以切諫忤旨、左遷太僕。既失寵憤怨、遂発病、以疾篤求退。拝特進、加散騎常侍」とみえる。、ほかに官を有しておらず〔、本官がない状態であったため〕、そのゆえに〔特別に特進としての〕吏卒と車服を支給したのである。羊琇のほかに特進を加えられた者は、俸禄を食み、朝位を定められるだけで、特進としての吏卒や車服が別途支給されることはなかったが、のちに〔吏卒と車服の規定が〕令に定められた19『通典』巻三四、特進に「晋恵帝元康中定令」とあり、恵帝の元康年間に定められたようである。。〔令の規定は以下のとおりである。〕特進の品秩は第二、朝位は諸公に次ぎ、開府驃騎の上である20開府を授けられた驃騎将軍は位従公であり、儀同三司となるはずである。その上であり、かつ諸公に次ぐというのならば、特進の朝位は諸公と開府位従公の間にあるということだろうか。しかし官品や冠服が開府位従公よりも一段低く定められているので、朝位がこのように定められているのは違和感がある。「開府」が衍字であるか、私に読み間違いがあるのかもしれない。。冠は進賢両梁冠、黒介幘、五時朝服、水蒼玉を佩き、印綬はなく、俸禄は一日につき四斛。太康二年、〔この俸禄のほかに絹を〕はじめて賜与することとし、春に服のための絹五十匹、秋に絹百五十匹、綿百五十斤とした。元康元年、菜田八頃、田騶八人を支給し、〔采田の〕耕作に着手しない場合は、俸禄一年〔分を支給すること〕とした。〔府に〕主簿、功曹史、門亭長、門下書佐それぞれ一人を置き、安車黒耳の御者一人、黒耳が飾られ後戸がある軺車一乗を支給した。
 左光禄大夫、右光禄大夫は、金章紫授を授けられる。光禄大夫で金章紫授を加えられた場合は、品秩第二とし、俸禄、朝位、冠幘、車服、佩玉、吏卒、羽林、卒、〔そのほか〕およそ賜与するものについては、すべて特進と同じであった。〔光禄大夫が〕加官であった場合は、印綬を授与し、俸禄と朝位があるのみで、車服や吏卒は別途支給しなかった。また、卒してこの官を追贈されたが、本官がすでに卿官であった場合は、さらに重ねて吏卒を支給せず、そのほかのものはすべて支給した。
 光禄大夫で銀章青綬を授けられた場合は、品秩第三とし、朝位は金紫将軍の下、諸卿の上である。漢の世に置かれた光禄大夫は定員がなく、官の任命や賵譄(葬儀の喪主に礼物を贈ること)の使者となったり、皇帝の葬儀を監督したりした。魏氏以来、ますます優遇の官となり、ふたたび使者の官となることはなかった。諸公が老齢を告げて引退を申し出たときは、みな家におるままでこの官を授けた21『宋書』百官志上には「自左光禄大夫以下、養老疾、無職事」とある。。朝廷で高官にあるときも、この官を加えた。晋が受命すると、なお旧制のままで改めず、さらに優遇の制度を定めた。しかし、〔同じく優遇を示す官であったとはいえ、曹魏のときとはちがい、〕諸公が官を退いたさい、光禄大夫を加えることはもはやなくなり、ある者はさらに上公を授けられ、ある者はもともとの封爵をもって公の俸禄を食んだのであった22原文「或以本封食公禄」。自信はないが、官を退いたのちも、爵と封国を保持し、その食邑が公の俸禄がわりに生涯支給された、ということか。。諸卿や尹23河南尹、京兆尹などの尹のこと。などの中朝(西晋)の高官で老齢を告げて辞職を申し出〔て光禄大夫を加えられ〕た者、および〔そのほかの〕内外の職に在任しながら光禄大夫を加えられた者は、前後でひじょうに多かった。このため、〔光禄大夫を加えられた者は〕、ある者は加増されて開府(光禄大夫開府儀同三司)を得て、ある者は進められて金章紫綬を加えられ、さらに礼贈(礼遇のために贈与する)の官位となったのである。泰始年間、太子詹事の楊珧のみが給事中光禄大夫を加えられた。〔銀青光禄大夫に〕兵を加えたときの規定は、およそ支給するものは三品将軍(金紫将軍)と同等である。そのほかの規定は旧制のとおりとされたまま、武帝、恵帝、懐帝の三代の世を終えた。
 光禄大夫は卿と同じく秩中二千石。進賢両梁冠を着用し、黒介幘、五時朝服、水蒼玉を佩き、俸禄は一日につき三斛。太康二年、〔この俸禄のほかに絹を〕はじめて支給することとし、春に絹五十匹、秋に絹百匹、綿百斤を賜与した。恵帝の元康元年、はじめて采田六頃、田騶六人を支給した。〔府に〕主簿、功曹史、門亭長、門下書佐それぞれ一人を置いた。
 驃騎以下(驃騎・車騎・衛の三将軍)および諸大将軍で、開府を授けられず24原文「不開府」。文字どおり「府がなかった」という意味ではなく、「位従公」(儀同三司)にならなかった、ということを言っているのだと思われる。、かつ持節都督ではない場合、品秩は第二で、俸禄は特進と同じであった。〔府に〕長史と司馬それぞれ一人を置いた。〔長史と司馬は〕秩千石。主簿、功曹史、門下督、録事、兵曹・鎧曹・士曹・営軍・刺姦・帳下都督〔など諸曹の令史?〕、功曹書佐門吏、門下書吏それぞれ一人。〔驃騎以下および諸大将軍で、開府を授けられなかった者のうち、〕仮節をもって都督となった場合は、府に置く属吏は、四征・四鎮で大将軍を加えられ、かつ開府を授けられず、かつ〔持節?〕都督である場合と同じであった。
 四征・四鎮・四安・四平将軍で、大将軍を加えられ、かつ開府を授けられず、かつ持節都督である場合、品秩は第二、〔府に〕参佐(属僚)、吏卒、幕府の兵卒と騎兵を置くのは通常の都督の制度と同様とし、朝会〔の席次〕と俸禄だけは二品将軍25驃騎・車騎・衛の三将軍および諸大将軍を指す。の規定に準じた。このようではあるが、持節都督に定員はない。前漢で使者を派遣するとき、はじめて節を持たせるようになった。光武帝の建武のはじめ、四方を征伐したさいに、はじめて臨時に督軍御史を置き、戦争が終わったら〔督軍御史を〕廃した。建安年間、魏の武帝が丞相になると、はじめて大将軍を派遣し、戦争を監督させた。建安二十一年、〔魏の武帝が〕孫権を征伐し、帰還するさい、夏侯惇が二十六軍(曹操が北へ戻ったのちも南に駐留した軍)を監督したのがその例である。魏の文帝の黄初三年、はじめて都督諸州軍事を置き、州刺史を領する場合もあった。また、上軍大将軍の曹真が都督中外諸軍事、仮黄鉞となったが、〔この都督は〕内外(天下)の諸軍を総統したのである。魏の明帝の太和四年秋、宣帝(司馬懿)が蜀を征伐したとき、大都督の号を加えられた。高貴郷公の正元二年、文帝(司馬師)が都督中外諸軍となったが、まもなく大都督を加えられた。晋が受禅すると、都督諸軍を最上位とし、監諸軍をその次とし、督諸軍を最下位とした。〔また〕使持節を最上位とし、持節をその次とし、仮節を最下位とした。使持節は二千石以下の士庶を〔裁量で〕殺すことが許される。持節は官位がない人間を殺すことが許される。〔ただし〕軍事(戦争などの事柄)に関しては、使持節と同様のことが許される。仮節は軍事のときに軍令を違反した人間を殺すことが許されるのみである。江左以来、都督中外がもっとも高位で、王導らのような権勢が高い者だけが都督中外に就任した。
 三品将軍(金紫将軍)で〔秩を加増されて〕秩中二千石となった場合は、武冠を着用し、平上黒幘、五時朝服、水蒼玉を佩き、〔そのほか〕俸禄、春秋に賜与される綿と絹、采田、田騶は光禄大夫や諸卿の規定と同じである。〔府に〕長史と司馬それぞれ一人を置き、秩は千石。主簿、功曹、門下都督、録事、兵曹・鎧曹・賊曹・営軍・刺姦・帳下都督〔など諸曹の令史?〕、功曹書佐門吏、門下書吏それぞれ一人。

序・公・位従公/尚書・門下・中書・卿・御史・中央軍・東宮・国官・州郡県・非漢族統御官

(2021/9/11:公開)

  • 1
    何を「如旧」したのか意味不明な文章になっているが、『太平御覧』巻二〇九、大司馬に引く「晋公卿礼秩」には「司馬、兵官也。魏氏、大司馬、大将軍各自為官、在三司上、晋以石苞為大司馬、次三司下」とあり、晋のはじめ、大司馬の朝位は三司の下とされたけれども、このときになってふたたび三司の上とした、ということであろう。
  • 2
    礼遇は司徒・司空・太尉の三公に等しいものとする、の意。
  • 3
    「開府」の語は正確に言うと「開府辟召」であるらしい(宣五王・扶風王駿伝、文六王・斉王攸伝、荀勖伝、張軌伝)。辟召は人事登用方法のひとつで、府主が自己の裁量で府の属吏を任じる(召す)こと。漢代、府を開き、その属僚を辟召する権限を有するのは一部の高官に限られており、それゆえ、かかる権限を有さない官位の者への特権賜与として「開府辟召」がおこなわれるようになった。
  • 4
    『芸文類聚』巻四七、儀同に引く「斉職儀」に「開府儀同三司、秦漢無聞、始建初三年、馬防為車騎将軍、儀同三司事、魏以黄権為車騎開府、此後甚衆。将軍開府、依大司馬、朱服。光禄大夫開府、依司徒、皁服」とある。
  • 5
    たんに「開府」とあるのみだが、「開府儀同三司」の意で読むとわかりやすい。『通典』に「左右光禄、光禄三大夫。開府者皆為位従公、品秩、俸賜、儀制与諸公同」とあるように、開府を授けられ、位従公になることによって、自動的に礼遇も諸公に等しくなる(儀同三司になる)のである。つまり「開府」の語によって「幕府の創設と辟召権の賜与」という本来のことを意味する場合と、「儀同三司」のことを意味する場合の二つのケースがあったと考えられる。『隋書』巻二六、百官志上には「梁武受命之初、官班多同宋斉之旧、有丞相、太宰、太傅、太保、大将軍、大司馬、太尉、司徒、司空、開府儀同三司等官。諸公及位従公開府者、置官属。……開府儀同三司、位次三公、諸将軍、左右光禄大夫、優者則加之、同三公、置官属」とあり、開府儀同三司は特定の官職に就いている者のうち、とくに優秀な者にのみ授けられるのであろう。以下、本文「開府」の語で「開府儀同三司」を指していると考えられる箇所についてはそのように訳出し、とくに断らない。
  • 6
    原文「皆為位従公」。おかしな語順であるように感じるが、用例をみるかぎり、「位従公」でひとまとまりの専門用語である可能性が高いようである。そのため、このような訳文とした。「位従公」とは「朝位は諸公に準じる」の意であり、儀同三司の語で意味するところと違いはないと思われる。なので、以下に見える「(開府)位従公」は「(開府)儀同三司」と読み替えてみても良い。詳しくは訳者のブログ記事「唐修『晋書』職官志の「位従公」について」を参照。
  • 7
    開府を授けられて位従公になること、ようするに開府儀同三司。本志は位従公をこのように表現するらしい。
  • 8
    太宰、太傅、太保、司徒、司空、大司馬、大将軍、太尉のこと。
  • 9
    采田と田騶はどちらも詳細不明。中村圭爾氏は、前者を「後代の職分田の先駆的なもの」、後者を「賤民的身分にちかい」采田の耕作者、と解釈している([中村圭爾一九八七]四六七頁)。
  • 10
    原文「戸倉賊曹令史属」。後文に「倉戸賊曹令史」が見えており、ここの箇所の「令史」は衍文か。『宋書』巻三九、百官志上は属のみ。
  • 11
    石井仁氏[二〇〇一]によると、班剣は木製の剣をいい、虎賁は鹵簿を構成する儀仗兵であった。
  • 12
    黒耳は不詳。安車は座って乗る車を言う。輿服志に「車、坐乗者謂之安車、倚乗者謂之立車、亦謂之高車」とある。
  • 13
    後戸は不詳。
  • 14
    これに関連して『通典』巻二〇、総叙三師三公以下官属に「初、王渾遷司徒、仍加兵。渾以司徒文官、主吏不持兵、持兵乃吏属絳衣、自以非是旧典、皆令皁服、論者美其謙而識礼」という記述がみえる。
  • 15
    公府には一般的に西曹が存在しているが、司徒府の場合は特別に西曹が左右に分かれ、たんなる西曹は右西曹に呼び換えられた、ということであろう。
  • 16
    既述の規定のとおり、という意味だと思う。
  • 17
    おそらく官府の雑用のために徴発された民のこと。
  • 18
    外戚伝・羊琇伝には「及斉王攸出鎮也、琇以切諫忤旨、左遷太僕。既失寵憤怨、遂発病、以疾篤求退。拝特進、加散騎常侍」とみえる。
  • 19
    『通典』巻三四、特進に「晋恵帝元康中定令」とあり、恵帝の元康年間に定められたようである。
  • 20
    開府を授けられた驃騎将軍は位従公であり、儀同三司となるはずである。その上であり、かつ諸公に次ぐというのならば、特進の朝位は諸公と開府位従公の間にあるということだろうか。しかし官品や冠服が開府位従公よりも一段低く定められているので、朝位がこのように定められているのは違和感がある。「開府」が衍字であるか、私に読み間違いがあるのかもしれない。
  • 21
    『宋書』百官志上には「自左光禄大夫以下、養老疾、無職事」とある。
  • 22
    原文「或以本封食公禄」。自信はないが、官を退いたのちも、爵と封国を保持し、その食邑が公の俸禄がわりに生涯支給された、ということか。
  • 23
    河南尹、京兆尹などの尹のこと。
  • 24
    原文「不開府」。文字どおり「府がなかった」という意味ではなく、「位従公」(儀同三司)にならなかった、ということを言っているのだと思われる。
  • 25
    驃騎・車騎・衛の三将軍および諸大将軍を指す。
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