巻一百七 載記第七 石季龍下(3)

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石季龍(1)石季龍(2)石季龍(3)附:石世・石遵・石鑑附:冉閔

〔冉閔〕

 石閔は字を永曾といい、小字(幼少の字)を棘奴といい、石季龍の養孫である。父の石瞻は字を弘武といったが、もともとの姓名は冉良といい、魏郡の内黄の人であった。先祖は漢の黎陽営の騎都督であり1原文「黎陽騎都督」。「黎陽」は後漢の黎陽営を指すと考えられる。『後漢書』南匈奴伝の李賢注に引く「漢官儀」に「光武以幽冀并兵克定天下、故於黎陽立営、以謁者監領兵騎千人」とある。「騎都督」というのは見慣れないが、騎馬兵の部隊長みたいなものであろう。、代々牙門将であった。石勒が陳午を破ると、石瞻を捕えたが、この当時十二歳であった。〔石勒は〕石季龍に命じて子とさせた。勇猛で腕力があり、進撃すれば立ちはだかる者はいなかった。歴任して左積弩将軍、西華侯にいたった。石閔は幼くして決断力と胆力があり、石季龍は孫のようにかわいがった。成長すると、身長は八尺あり、謀略に長け、勇猛さは他人をしのいだ。建節将軍に任じられ、〔西華侯から〕脩成侯に移され、北中郎将、游撃将軍を歴任した。石季龍が昌黎で敗れたとき2慕容皝の討伐のこと。石季龍載記上を参照。、石閔の軍だけは完全を保ったため、これによって功績と名声がおおいに目立つようになった。梁犢(もとの東宮高力督)を破ったのちには、威勢と名声はますます振るうようになり、胡人および夏人の宿将はみな石閔を憚るようになった。
 永和六年、石鑑を殺すと、司徒の申鍾、司空の郎闓ら四十八人が尊号を石閔に奉じたが、石閔は固く辞退して李農に譲った。李農は死をもって強く〔石閔に〕請うたため、こうして〔石閔は〕僭越して南郊で皇帝の位につき3いったん李農に譲っているのは、「継趙李」という讖緯(石鑑の載記の注を参照)も関係しているだろうか。もっとも、このときは冉閔も李氏に改めていたはずだが。『資治通鑑』によれば、李農の辞退ののち、次のようなやり取りをしてから帝位についたらしい。「閔曰、『吾属故晋人也、今晋室猶存、請与諸君分割州郡、各称牧守公侯、奉表迎晋天子還都洛陽』。尚書胡睦進曰、『陛下聖徳応天、宜登大位、晋氏衰微、遠竄江表、豈能総御英雄、混壱四海乎』。閔曰、『胡尚書之言、可謂識機知命矣』」。、大赦し、永興と改元し、国号を大魏とし、姓を冉氏に戻した。祖父の隆を元皇帝と追尊し、父の瞻を烈祖高皇帝と追尊し、母の王氏を尊んで皇太后とし、妻の董氏を皇后に立て、子の冉智を皇太子に立てた。李農を太宰、領太尉、録尚書事とし、斉王に封じ、李農の子供たちをみな県公に封じた。冉閔の子の冉胤、冉明、冉裕をみな王に封じた。文武の官は〔ひとしく〕位を三等進められ、封建は〔おのおの〕格差があった。使者に節を持たせて派遣し、屯結4石鑑の時代に、石琨、張賀度、姚戈仲、苻洪らが各地に割拠したが、おそらくその各地に拠り立った者たちのことを指していると考えられる。胡三省も同様の見解。を赦免したが、みな従わなかった。
 石祗は石鑑が死んだことを知ると、尊号を襄国で僭称し5『資治通鑑』はこれ以後、石祗(趙新興王祗)を「趙主」と呼称しており、つまり石祗が趙を継いだようである。もっとも、載記は彼を後趙の君主にカウントしないが。『魏書』羯胡石勒伝も数えていないのをみると、『十六国春秋』から同様の扱いだったのかもしれない。『資治通鑑』によると石祗はこのとき皇帝に即位し、永寧に改元し、石琨を相国とし、姚戈仲を右丞相、親趙王、殊礼とし、姚襄を驃騎将軍、豫州刺史、新昌公とし、苻健を都督河南諸軍事、鎮南大将軍、開府儀同三司、兗州牧、略陽郡公としている。旧趙の臣が体裁上は従っているので、いちおうこのときまで趙が存続していたとみるのが適切であろうか。、州郡に拠り立ち、兵を擁している各地の六夷はみなこれに呼応した。冉閔は使者をつかわし、長江に臨ませて晋に知らせた長江に行かせて晋に告げさせた(2020/12/15:修正)、「胡が中原で反乱を起こしているから、いまから誅殺しようと考えている。もし共同で討伐しようと思うならば、軍を派遣するべし」。〔晋の〕朝廷は返答しなかった。冉閔は李農とその三人の子、および尚書令の王謨、侍中の王衍、中常侍の厳震、趙昇らを誅殺した。晋の廬江太守の袁真が冉閔の合肥を攻め、南蛮校尉の桑坦を捕え、合肥の百姓を〔他の土地に〕移してから帰還した。
 石祗は趙の相国の石琨を派遣し、軍十万を統率させて鄴(冉閔)を攻めさせ、進軍して邯鄲を占拠した。石祗の鎮南将軍の劉国は繁陽から石琨に合流した。冉閔は石琨を邯鄲でおおいに破り、死者は一万余であった。劉国は帰還し、繁陽に駐屯した。苻健が枋頭から関中に入った。張賀度と段勤が劉国や靳豚と昌城で合流し、鄴を攻めようとした。冉閔は尚書左僕射の劉群を派遣して行台都督とし、将の王泰、崔通、周成らに歩騎十二万を統率させて黄城に駐屯させ、冉閔みずからは精鋭兵八万を率いてこの後詰となった。〔冉閔軍は〕蒼亭で〔張賀度らと〕戦った。張賀度らは大敗し、死者は二万八千であった。〔冉閔軍は〕追撃して靳豚を陰安郷で斬り、その軍をすべて捕虜にし、軍列を整えて帰還した。〔その軍列は〕兵士三十余万で、旗や鉦、太鼓は連綿として百余里にわたって連なり、石氏の最盛期といえどもこれを凌駕しなかったほどであった。
 冉閔は蒼亭から〔鄴に〕到着すると、飲至の礼6石季龍載記上の注を参照。をおこない、九流(九品)を清定し7清定については石勒載記、石季龍載記上の注を参照。、才能を調べて叙任し、儒者や寒門が多く栄達にあずかった。〔これらによって世は〕このときに心を安め、この時期を魏や晋の当初の時期になぞらえた。
 冉閔は歩騎十万を率いて石祗を襄国に攻め、子の太元王胤を大単于、驃騎大将軍に任命し、降胡(降服した胡人)一千を配して麾下とさせた。光禄大夫の韋謏が啓し、ひじょうに厳しく諫めたところ8『資治通鑑』によると、胡人とはもうやべー関係なのに降ってきた胡人を麾下に組織するのはやばくないですかという諫言であったらしい。「諫曰、『胡羯皆我之仇敵、今来帰附、苟存性命耳。万一為変、悔之何及。請誅屛降胡、去単于之号、以防微杜漸』。閔方欲撫納群胡、大怒、誅謏及其子伯陽」とある。、冉閔はその奏案を見ておおいに怒り、韋謏とその子や孫を誅殺した。冉閔が襄国を攻めて百余日におよんだ。〔冉閔は〕土で小山(防壁の役割だろう)を築き、地下道を掘り、家屋を建て、屯田した(持久戦の構えを見せた)。石祗はおおいに恐懼し、皇帝の称号を取り払い、趙王を称し、使者を慕容儁と姚戈仲のもとにつかわし、援軍を要請した。ちょうど石琨が冀州(信都)から石祗の応援に来た。姚戈仲も子の姚襄に騎兵三万八千を統率させて派遣し、滆頭から向かわせ、慕容儁は将軍の悦綰に兵士三万を統率させて派遣し、龍城から向かわせた。三方向の強靭な兵卒は合計で十余万であった。冉閔は車騎将軍の胡睦を派遣して姚襄を長蘆で防がせ、将軍の孫威を派遣して石琨を黄丘で迎撃させたが、どちらも敵軍に敗北し、兵士は〔死傷や逃亡で〕ほとんど残らず、胡睦と孫威は単騎で帰還した。石琨らの軍がまもなく到着しようというとき、冉閔は出軍してこれを攻めようとしたが、衛将軍の王泰が諫めて言った、「追い詰められた賊は頑迷にも外部の援軍を願いました。現在、強力な援軍が雲のように多く集まっていますが、〔敵軍は〕われわれが出撃するのを望んでいるはずであり、〔出撃してきたら石祗と共同して〕前後で挟み撃ちにしてくるでしょう。防塁を固めて出撃なさらず、情勢を観察して〔それに応じて〕行動し、そうして敵軍の作戦をくじくのがよいと考えます。〔また〕いま、陛下がみずから指揮を取るというのは、万全を失するのと同じことであり、〔万が一のことが起これば〕大業が去ってしまうでしょう。慎重になって出撃なさいませんように。〔敵軍の機を見て攻勢をかけるときは〕臣が諸将を率い、陛下のために敵を滅ぼしたく存じます」。冉閔はこれを聴き入れようとしたが、道士の法饒が進み出て言った、「太白が昴を通過しましたから、胡王を殺すことになるにちがいありません。一戦して百回勝利するでしょうから9原文「一戦百克」。『資治通鑑』は「百戦百克」に作る。さすがに『資治通鑑』のほうが適切で、載記の「一戦」は誤りであろう。、失敗するわけがありません」。冉閔はたもとを振り払って起ち上がり、「戦うことに決めた。あえて諫めようとする者は斬る」と大声で言った。こうして全軍を動員して出撃した。姚襄、悦綰、石琨らは三方から冉閔軍を攻め、石祗が背後を突いたため、冉閔軍は大敗した。冉閔は襄国の行宮10石虎時代の行宮か。『初学記』巻八、河北道、事対の「三台 九殿」に引く「又(陸翽鄴中記)曰」に「石季龍、自襄国至鄴、二百里輒一宮、宮有一夫人、侍婢数十」とある。に潜伏し、十余騎とともに鄴へ敗走した。降胡の栗特康らが冉胤と尚書左僕射の劉琦らを捕え、石祗に送り、〔石祗は〕全員殺してしまった。司空の石璞、尚書令の徐機、車騎将軍の胡睦、侍中の李綝、中書監の盧諶、少府の王鬱、尚書の劉欽、劉休らおよび諸将士など死者は十余万人に達し、かくしてひとかどの人物は〔ことごとく〕死に絶えたのであった。盗賊があちこちに発生し、司州と冀州は大飢饉で、人々は食いあった。石季龍の末年以来11原文「自季龍末年」。『資治通鑑』は「初、閔之為趙相也」に作る。『資治通鑑』のほうが表現としては適切だろう。、冉閔は倉庫〔の貯蓄〕をすべて散じて〔人々に対して〕私的な恩恵を与え12中華書局校勘記は、この一文は前後の文とのつながりが不明であると述べ、脱文の存在を推測している。この文自体の意味は、石虎時代の豊富な貯蓄をぜんぶ使い切ってしまっていたよという具合か。つながりが不明とされる後文(「与羌胡相攻、無月不戦」)だが、これも「季龍末年」以来、冉閔はこうだったよという意味だと思われ、この文もまた消耗が激しかったというニュアンスなのだろう。そう考えると、中華書局が言うほど文意のつながりに乏しいとも思えない(『資治通鑑』も採用している)。ただ、文意が全体として曖昧で何を言いたいのかイマイチつかみきれないのは確かであり、また前後の文というより一連の文脈においたときにどういう意味上の位置を占めているのかはわかりにくい。、羌や胡と攻め合い、戦いのない月はなかった。青州、雍州、幽州、荊州にいる〔各地から〕移されてきた戸や〔同じく移されてきた〕氐、羌、胡、蛮の〔すべて合わせて〕百余万は、おのおの故郷に帰ろうとしたので、道路は入り乱れ、たがいに殺したり掠奪したりし、そのうえ飢饉や疫病による死者もあったので、故郷にたどり着いた者は十人中二、三人であった。諸夏(中華)は混乱し、農業に戻る者はいなかった。冉閔はみずからの決断を後悔し、法饒父子を誅殺して四肢を切断し、韋謏に大司徒を追贈した。
 石祗は劉顕に軍七万を統率させて鄴を攻めさせた。このとき、冉閔はひそかに〔鄴に〕帰還していたが、そのことを知る者はおらず、〔魏朝の〕内外はおびえ、冉閔はすでに死んだものと誰もが思っていた。射声校尉の張艾は冉閔に、みずから郊祀して人心を落ち着かせることを勧め、冉閔はこれを聴き入れたが、流言があったので中止した。劉顕は明光宮(鄴の城外の行宮か)に駐屯していたが、その場所は鄴から二十三里離れたところであった。冉閔は恐れ、衛将軍の王泰を召してこの件について議論しようとした。王泰は〔襄国の会戦で〕自分の作戦が採用されなかったことに怒っていたため、負傷がひどいのを理由に辞退した。冉閔はみずから〔王泰の邸宅に〕来訪して質問したが、〔王泰は〕病気がひどいと強く称し〔て応じなかっ〕た。冉閔は怒り、宮殿に帰ると左右の者たちのほうに顔を向けて言った、「巴奴め13王泰は巴であったのだろう。『資治通鑑』胡三省注「王泰蓋巴蛮也」。。乃公(なんじの公=自分の自称)がおまえなぞに命を預けるものか。必ずや、群胡を滅ぼしてから王泰を斬ってやる」。こうして兵を総動員して〔劉顕と〕闘い、劉顕軍をおおいに破り、追撃して陽平まで達し、斬首は三万余級であった。劉顕はおびえ、密使をつかわして降服を請い、石祗を殺して手柄を挙げることを願い出たので、冉閔は軍列を整えて帰還した。ちょうど、王泰が秦人(関中出身の人)を召集し、関中に逃げようとしている14王泰は巴であるから、関中・益州方面が故郷だったのだろう。と告げる者がいたので、冉閔は怒り、王泰を殺し、夷三族とした。劉顕は約束どおり、石祗と趙の太宰の趙鹿ら十余人を殺し、首を鄴に送り、質任を送って命乞いした15『太平御覧』巻一二〇、石閔に引く「崔鴻十六国春秋後趙録」に「劉顕煞祗及其丞相楽安王炳、太保張挙等。遣拝顕上大将軍、大単于、冀州牧。祗、炳、皆虎庶子也」とある。。驃騎将軍の石寧は柏人に逃げた。冉閔は石祗の首を〔鄴城内の〕大通りで燃やすよう命じた。
 冉閔の兗州刺史の劉啓16穆帝紀は「祗兗州刺史」とし、『資治通鑑』は「趙兗州刺史」とする。中華書局校勘記は、石祗の死亡によって劉啓が晋に降ったのであろうから、穆帝紀と通鑑が適当だろう述べている。が鄄城をもって〔晋に〕帰順した。劉顕はふたたび軍を率いて鄴を攻めたが、冉閔はこれを撃破した。〔劉顕は〕帰ると、尊号を襄国で称した。冉閔の徐州刺史の周成、兗州刺史の魏統、豫州牧の冉遇、荊州刺史の楽弘はみな城をもって〔晋に〕帰順した。〔冉閔の〕平南将軍の高崇、征虜将軍の呂護は〔冉閔の〕洛州刺史の鄭系を捕え、三河をもって〔晋に〕帰順した。慕容彪は中山を攻め落とし、冉閔の寧北将軍の白同と幽州刺史の劉準を殺し、慕容儁に降った。このころ、黄赤色の雲が出現し、東北から現れ、長さは百余丈であった。一羽の白い鳥が雲の隙間から西南へ飛び去った。占者はこの現象を不吉にみなした。
 劉顕は軍を率いて常山を攻めた。常山太守の蘇亥は危難を冉閔に知らせた。冉閔は大将軍の蒋幹らを留め、太子の冉智を輔佐させて鄴を守らせ、みずからは騎兵八千を率いて常山の救援に向かった。劉顕が任命した大司馬の清河王寧は棗強をもって冉閔に降った。〔冉閔は〕寧の兵士を集め、劉顕を攻め、これを破り、追撃して襄国に達した。劉顕の大将軍の曹伏駒は〔襄国の〕門を開いて〔冉閔に〕呼応したので、〔冉閔は〕そのまま襄国に入り、劉顕とその公卿以下百余人を誅殺した。襄国の宮殿に火をつけ、襄国の百姓を鄴に移した。劉顕の領軍将軍の范路が軍千余を率い、〔襄国の〕関(かんぬき)を斬って枋頭へ逃げた。
 このころ、慕容儁はすでに幽薊の地(幽州)を平定しており、土地を侵略して冀州にまで到達していた。冉閔は騎兵を率いてこれを防ごうとし、慕容恪と魏昌城で遭遇した。冉閔の大将軍の董閏と車騎将軍の張温は冉閔に言った、「鮮卑は勝利に乗じて自信がみなぎっているため、当たるべきではありません。〔いったん〕これを避けて自信を溢れさせて〔驕慢にさせ〕17原文「請之以溢其気」。よくわからないので、『資治通鑑』だと「宜且避之、俟其驕惰」とあるのを参照して訳出した。、それから兵を増してこれを攻めれば、勝利することができるでしょう」。冉閔は怒って言った、「私が軍を組織して出撃したのは、幽州を平定し、慕容儁を斬ろうとしたからである。〔だというのに、〕いま、慕容恪に遭遇しておきながらこれを避けるというのでは、人々は私を侮るであろう」。そうして慕容恪と接触したが、十戦してすべてこれを破った。そこで慕容恪は鉄の鎖で馬をつなぎ、射撃が得意な鮮卑で、勇敢だが強気ではない者18原文「勇而無剛」。『左伝』隠公九年の杜預注によれば「勇則能往、無剛不恥退」という。危険な命令に臆せず従うけど、意地になって進撃一辺倒にならず、これはムリって思ったら素直に退けるヤツってことであろう。を五千人選抜し、〔選抜者をつないだ馬に乗せ、〕方陣を布いて前進した19胡三省の注もふまえて考慮してみると、馬上の兵が死んでも馬はつながっているので陣は崩れず、冉閔軍への圧力を維持できる、という作戦なのであろうか。なお『資治通鑑』によれば、このとき冉閔軍は歩兵多めで、慕容軍は騎兵多めであったという。。冉閔の乗っている赤馬は朱龍という名前で、一日に千里を走った。〔冉閔は〕左手に両刃矛を持ち、右手に鉤戟(刃が鉤型の戟)を持ち、風に乗って慕容恪軍を攻め、鮮卑三百余級を斬った。にわかに燕の騎兵がおおいに到着し、冉閔を何重にも包囲した。冉閔の兵は少なく、〔燕軍に〕対抗できないため、馬を躍らせて包囲を破り、東へ逃げた。二十余里進んだところで馬(朱龍)がわけもなく死んでしまい、慕容恪に捕えられ、董閏、張温らといっしょに薊へ送られた。慕容儁は冉閔を立たせて問うた、「なんじは奴僕の下才たる分際でありながら、どうして分を越えて天子を自称したのかね」。冉閔、「天下がおおいに乱れ、人のツラをしておいて獣の心をもっているおまえら夷狄の連中ですら、〔帝位の〕簒奪を欲しているではないか。〔おまえらとちがって〕私は当世の英雄だ20『資治通鑑』は「中土英雄(中国/中原の英雄)」に作る。。なぜ帝王にふさわしくないのかね」。慕容儁は怒り、三百回鞭で打ち、龍城に送り、慕容瘣と慕容皝の廟に報告した。
 〔慕容儁は〕慕容評を派遣し、軍を統率させて鄴を包囲させた。〔魏朝の〕劉寧と弟の劉崇は胡騎三千を率いて晋陽へ逃げ、蘇亥は常山を放棄して新興へ逃げた。鄴の城中は飢饉で、人々が食いあい、石季龍の時代の宮人は食われてほとんど生き残らなかった21原文「被食略尽」。こういう読みで合っているかやや自信なし。合っているとすれば、あまり考えたくはないが肉付きがよかったからとかそういう理由じゃないかな……。。冉智はまだ幼かったので、蒋幹は侍中の繆嵩と太子詹事の劉猗をつかわし、〔晋に〕表を奉じて帰順し、かつ援軍を要請した。〔晋の〕濮陽太守の戴施は〔蒋幹が使者をつかわしたことを知ると〕倉垣から〔移って〕棘津に駐屯し22この一文の補語は『資治通鑑』を参照して挿入した。、〔建康へ向かう途中の〕劉猗を留め、〔建康へ〕進むことは許さず、魏が有している伝国の璽を要求した。劉猗は繆嵩を鄴へ帰らせて報告させたが、蒋幹は悩み込んで決められなかった23は? なに悩んでんの? と思うでしょう。謝尚伝によると蒋幹は寿春の謝尚へ援軍を要請しようとしていたそうだが、この報告を聞いて「もしかして謝尚はもう負けていてオレたちを救援できないんじゃね?」と疑ってしまい、逡巡したそうである。謝尚伝に「大司馬桓温欲有事中原、使尚率衆向寿春、……。初、尚之行也、使建武将軍、濮陽太守戴施拠枋頭。会冉閔之子智与其大将蒋幹来附、復遣行人劉猗詣尚請救。施止猗、求伝国璽、猗帰、以告幹。幹謂尚已敗、慮不能救己、猶豫不許」とある。。そこで戴施は壮士百余人を率いて鄴に入り24謝尚伝には「施遣参軍何融率壮士百人入鄴」とあり、戴施自身は鄴に入っていないことになっている。『資治通鑑』は載記に従っている。、三台の守備に協力し、蒋幹を騙してこう言った、「ひとまず璽を出して私に渡せ。いま、凶賊が城外におり、道路(連絡)は〔外部に〕通じていないのに、まだ送ろうとしていない。璽を得るのを待ってから、使者を走らせて天子に報告しよう。天子は璽がすでにわがもとにあるのを知れば、卿の至誠を信頼し、必ずや軍と食糧を豊富に送り、救援なさるだろう」。蒋幹はそのとおりだと思ったので、璽を出して戴施に渡した。戴施は督護の何融に食糧を迎えさせるのだと公言したが、ひそかに〔何融に〕璽を持たせ、京師(建康)に送らせた25謝尚伝は「幹乃出璽付融、融齎璽馳還枋頭。尚遣振武将軍胡彬率騎三百迎璽、致諸京師」とする。『資治通鑑』は「施宣言使督護何融迎糧、陰令懐璽送于枋頭」と折衷した文になっている。謝尚伝は、督護の何融が鄴の三台に入り、蒋幹にウソを言って璽を入手し、得たらさっさと鄴を出て戴施のところへ帰った、という話の流れになっていて、載記とはだいぶちがっているが、これはこれで自然に感じる。とはいえ、載記後文の「戴施は城壁を縄で下り」というくだりも迫真性があり、載記がウソをついているように感じにくい。わからないですねえ。。〔魏の〕長水校尉の馬願と龍驤将軍の田香は〔鄴の〕門を開いて慕容評に降った。戴施、何融、蒋幹は城壁を縄で下り26中華書局の校勘記は、載記によればもう何融は鄴を出ているはずなのにどうしてここでいっしょなんだ、矛盾しているとツッコミを入れている。、倉垣へ逃げた。慕容評は冉閔の妻の董氏、太子の冉智、太尉の申鍾、司空の條攸、中書監の聶熊、司隷校尉の籍羆、中書令の李垣、および諸王公卿士を薊に送った。尚書令の王簡、尚書左僕射の張乾、尚書右僕射の郎粛は自殺した。
 慕容儁は冉閔を送ったが、龍城に到着すると、遏陘山で斬った。〔すると〕山の周辺七里の草木はことごとく枯れ、蝗が大発生し、五月から十二月まで雨が降らなかった。慕容儁は使者をつかわして冉閔を祀らせ、武悼天王の諡号をおくった。その日、大雪が降った。この年は永和八年である。

 史臣曰く、(以下略)

石季龍(1)石季龍(2)石季龍(3)附:石世・石遵・石鑑附:冉閔

(2020/8/16:公開)

  • 1
    原文「黎陽騎都督」。「黎陽」は後漢の黎陽営を指すと考えられる。『後漢書』南匈奴伝の李賢注に引く「漢官儀」に「光武以幽冀并兵克定天下、故於黎陽立営、以謁者監領兵騎千人」とある。「騎都督」というのは見慣れないが、騎馬兵の部隊長みたいなものであろう。
  • 2
    慕容皝の討伐のこと。石季龍載記上を参照。
  • 3
    いったん李農に譲っているのは、「継趙李」という讖緯(石鑑の載記の注を参照)も関係しているだろうか。もっとも、このときは冉閔も李氏に改めていたはずだが。『資治通鑑』によれば、李農の辞退ののち、次のようなやり取りをしてから帝位についたらしい。「閔曰、『吾属故晋人也、今晋室猶存、請与諸君分割州郡、各称牧守公侯、奉表迎晋天子還都洛陽』。尚書胡睦進曰、『陛下聖徳応天、宜登大位、晋氏衰微、遠竄江表、豈能総御英雄、混壱四海乎』。閔曰、『胡尚書之言、可謂識機知命矣』」。
  • 4
    石鑑の時代に、石琨、張賀度、姚戈仲、苻洪らが各地に割拠したが、おそらくその各地に拠り立った者たちのことを指していると考えられる。胡三省も同様の見解。
  • 5
    『資治通鑑』はこれ以後、石祗(趙新興王祗)を「趙主」と呼称しており、つまり石祗が趙を継いだようである。もっとも、載記は彼を後趙の君主にカウントしないが。『魏書』羯胡石勒伝も数えていないのをみると、『十六国春秋』から同様の扱いだったのかもしれない。『資治通鑑』によると石祗はこのとき皇帝に即位し、永寧に改元し、石琨を相国とし、姚戈仲を右丞相、親趙王、殊礼とし、姚襄を驃騎将軍、豫州刺史、新昌公とし、苻健を都督河南諸軍事、鎮南大将軍、開府儀同三司、兗州牧、略陽郡公としている。旧趙の臣が体裁上は従っているので、いちおうこのときまで趙が存続していたとみるのが適切であろうか。
  • 6
    石季龍載記上の注を参照。
  • 7
    清定については石勒載記、石季龍載記上の注を参照。
  • 8
    『資治通鑑』によると、胡人とはもうやべー関係なのに降ってきた胡人を麾下に組織するのはやばくないですかという諫言であったらしい。「諫曰、『胡羯皆我之仇敵、今来帰附、苟存性命耳。万一為変、悔之何及。請誅屛降胡、去単于之号、以防微杜漸』。閔方欲撫納群胡、大怒、誅謏及其子伯陽」とある。
  • 9
    原文「一戦百克」。『資治通鑑』は「百戦百克」に作る。さすがに『資治通鑑』のほうが適切で、載記の「一戦」は誤りであろう。
  • 10
    石虎時代の行宮か。『初学記』巻八、河北道、事対の「三台 九殿」に引く「又(陸翽鄴中記)曰」に「石季龍、自襄国至鄴、二百里輒一宮、宮有一夫人、侍婢数十」とある。
  • 11
    原文「自季龍末年」。『資治通鑑』は「初、閔之為趙相也」に作る。『資治通鑑』のほうが表現としては適切だろう。
  • 12
    中華書局校勘記は、この一文は前後の文とのつながりが不明であると述べ、脱文の存在を推測している。この文自体の意味は、石虎時代の豊富な貯蓄をぜんぶ使い切ってしまっていたよという具合か。つながりが不明とされる後文(「与羌胡相攻、無月不戦」)だが、これも「季龍末年」以来、冉閔はこうだったよという意味だと思われ、この文もまた消耗が激しかったというニュアンスなのだろう。そう考えると、中華書局が言うほど文意のつながりに乏しいとも思えない(『資治通鑑』も採用している)。ただ、文意が全体として曖昧で何を言いたいのかイマイチつかみきれないのは確かであり、また前後の文というより一連の文脈においたときにどういう意味上の位置を占めているのかはわかりにくい。
  • 13
    王泰は巴であったのだろう。『資治通鑑』胡三省注「王泰蓋巴蛮也」。
  • 14
    王泰は巴であるから、関中・益州方面が故郷だったのだろう。
  • 15
    『太平御覧』巻一二〇、石閔に引く「崔鴻十六国春秋後趙録」に「劉顕煞祗及其丞相楽安王炳、太保張挙等。遣拝顕上大将軍、大単于、冀州牧。祗、炳、皆虎庶子也」とある。
  • 16
    穆帝紀は「祗兗州刺史」とし、『資治通鑑』は「趙兗州刺史」とする。中華書局校勘記は、石祗の死亡によって劉啓が晋に降ったのであろうから、穆帝紀と通鑑が適当だろう述べている。
  • 17
    原文「請之以溢其気」。よくわからないので、『資治通鑑』だと「宜且避之、俟其驕惰」とあるのを参照して訳出した。
  • 18
    原文「勇而無剛」。『左伝』隠公九年の杜預注によれば「勇則能往、無剛不恥退」という。危険な命令に臆せず従うけど、意地になって進撃一辺倒にならず、これはムリって思ったら素直に退けるヤツってことであろう。
  • 19
    胡三省の注もふまえて考慮してみると、馬上の兵が死んでも馬はつながっているので陣は崩れず、冉閔軍への圧力を維持できる、という作戦なのであろうか。なお『資治通鑑』によれば、このとき冉閔軍は歩兵多めで、慕容軍は騎兵多めであったという。
  • 20
    『資治通鑑』は「中土英雄(中国/中原の英雄)」に作る。
  • 21
    原文「被食略尽」。こういう読みで合っているかやや自信なし。合っているとすれば、あまり考えたくはないが肉付きがよかったからとかそういう理由じゃないかな……。
  • 22
    この一文の補語は『資治通鑑』を参照して挿入した。
  • 23
    は? なに悩んでんの? と思うでしょう。謝尚伝によると蒋幹は寿春の謝尚へ援軍を要請しようとしていたそうだが、この報告を聞いて「もしかして謝尚はもう負けていてオレたちを救援できないんじゃね?」と疑ってしまい、逡巡したそうである。謝尚伝に「大司馬桓温欲有事中原、使尚率衆向寿春、……。初、尚之行也、使建武将軍、濮陽太守戴施拠枋頭。会冉閔之子智与其大将蒋幹来附、復遣行人劉猗詣尚請救。施止猗、求伝国璽、猗帰、以告幹。幹謂尚已敗、慮不能救己、猶豫不許」とある。
  • 24
    謝尚伝には「施遣参軍何融率壮士百人入鄴」とあり、戴施自身は鄴に入っていないことになっている。『資治通鑑』は載記に従っている。
  • 25
    謝尚伝は「幹乃出璽付融、融齎璽馳還枋頭。尚遣振武将軍胡彬率騎三百迎璽、致諸京師」とする。『資治通鑑』は「施宣言使督護何融迎糧、陰令懐璽送于枋頭」と折衷した文になっている。謝尚伝は、督護の何融が鄴の三台に入り、蒋幹にウソを言って璽を入手し、得たらさっさと鄴を出て戴施のところへ帰った、という話の流れになっていて、載記とはだいぶちがっているが、これはこれで自然に感じる。とはいえ、載記後文の「戴施は城壁を縄で下り」というくだりも迫真性があり、載記がウソをついているように感じにくい。わからないですねえ。
  • 26
    中華書局の校勘記は、載記によればもう何融は鄴を出ているはずなのにどうしてここでいっしょなんだ、矛盾しているとツッコミを入れている。
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