巻一百七 載記第七 石季龍下(2)

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石季龍(1)石季龍(2)石季龍(3)附:石世・石遵・石鑑附:冉閔

 こうして石世が偽位につき、劉氏を皇太后と尊んだ。〔劉氏が〕臨朝すると、張豺を丞相に進めた。張豺は石遵と石鑑を左右丞相とし、そうして彼らを懐柔することを要望し、劉氏はこれを聴き入れた。張豺は張挙と李農の誅殺を謀ったが、張挙は李農ともともと仲が良かったため、張豺の謀略を李農に話してしまった。李農は恐れ、百騎を従えて広宗へ逃げ、乞活数万家を率いて上白にこもった。劉氏は張挙らに宿衛の精鋭を統率させ、李農を包囲させた。張豺は張離を鎮軍大将軍、監中外諸軍事、司隷校尉とし、自身の副官とした。鄴では群盗がおおいに起こり、掠奪しあっていた。
 石遵1『太平御覧』巻一二〇、石虎に引く「崔鴻十六国春秋後趙録」に「遵、字太祗、虎第九子」とある。は〔関中へ向かう途上で〕石季龍の死を聞くと、河内に駐屯した。姚弋仲、苻洪、石閔、劉寧、武衛将軍の王鸞、寧西将軍の王午、石栄、王鉄、立義将軍の段勤らはすでに秦洛2あまり見かけない表現。秦州と洛州の意か。洛州については地理志上、司州に「石季龍又分司州之河南河東弘農滎陽、兗州之陳留東燕為洛州」とあり、秦州も設置されていたことは確認できる(ただし範囲は不明)。あるいは単純に関中と河南の意味かもしれない。〔で梁犢の残党〕を平定したので、軍を引き上げて帰還していたところ、李城で石遵にたまたま遭遇し、石遵に説いて言った、「殿下は年長で、かつ賢明であり、先帝も殿下にご意向をおもちでした。ところが、末年は惑乱され、張豺によって判断を誤ってしまいました。いま、上白は拮抗しており、まだ陥落しておらず、京師の宿衛は出払っていますから、もし張豺の罪を訴え、太鼓を鳴らして進軍し、これを討伐すれば、誰もが武器を逆さまにして門を開き、殿下を迎えることでしょう」。石遵はこれを聴き入れた。洛州刺史の劉国らも洛陽の軍を率いて李城に到着した。石遵の檄文が鄴に届くと、張豺はおおいに恐れ、使者を走らせて上白の軍を呼び戻した。石遵が蕩陰に駐屯したとき、兵士は九万で、石閔が前鋒であった。張豺は出撃してこれを防ごうとしたが、年配の羯の兵士は「天子の子が葬儀(2020/12/16:修正)に駆けつけて来たのだ。われらはこれを出迎えに行こう。張豺の防壁になどなるものか」とみな言い、城壁を越えて出て行った。張豺は彼らを斬ったが、押しとどめることはできなかった。張離は龍騰二千を率いて〔鄴の〕関(かんぬき)を斬って石遵を迎えに行った。劉氏は恐懼し、張豺を召し入れ、対面して泣き、言った、「先帝の梓宮(ひつぎ)はまだ殯(かりもがり)も終わっていませんのに、禍がさかんに発生しています。いま、皇統の世継ぎは幼く、この子を将軍に託しています。将軍はどうやって挽回しようとお考えですか。遵に要官を授けたら収まらないでしょうか」。張豺はおびえがこらえきれず、また策略もなかったため、「唯唯(はい、そうですね)」と言うのみであった。劉氏は石遵を丞相、領大司馬、大都督中外諸軍、録尚書事とさせ、黄鉞と九錫をくわえ、封国に十郡を加増し、阿衡の任務を委ねた。石遵が安陽亭に到着すると、張豺は恐れて出迎えたが、石遵はこれを捕えるよう命じた。こうして、〔石遵は〕よろいで身をつつみ、武器を輝かせて鳳陽門から入城し、太武前殿にのぼり、胸をたたき、じだんだをふんで号泣し、悲哀を尽くした。〔その後〕退室して東閤に行った。張豺を平楽市で斬り、夷三族とした。劉氏の令とかこつけて言った、「後継ぎは幼く、先帝が私恩により〔位を〕授けた子であるが、皇業はこのうえなく重大であるから、荷える者ではないだろう。そこで遵に位を継がせる」。石遵は偽って辞退し、再三におよんだが、群臣が厚く勧めたため、これを受け、僭越して太武前殿で帝位についた。殊死以下を大赦し、上白の包囲をやめさせた。石世を譙王に封じ、食邑は一万戸とし、劉氏を廃して太妃としたが、まもなくどちらも殺してしまった。石世は在位三十三日であった。
 こうして、李農は〔鄴に〕帰って罪を請うたが、石遵は李農の位を回復し、以前のように待遇した。母の鄭氏を尊んで皇太后とし、妻の張氏を皇后とし、石斌の子の石衍を皇太子とし、石鑑を侍中とし、石沖を太保とし、石苞を大司馬とし、石琨を大将軍とし、石閔を中外諸軍事、輔国大将軍、録尚書事とし、〔石閔を〕輔政とした。〔石遵が立って七日のあいだに〕3『魏書』羯胡石勒伝に拠って補った。暴風が木を引き抜き、落雷があり、一升の盂(はち)くらいの大きさのひょうが降り、太武殿と暉華殿で火災があり、諸門、観、閣が焼失し、車や日用品の多くが焼けてしまい、炎は空を照らし、金属品や石製の物はすべて失われ、火はひと月余経って消えた。鄴城にくまなく血が降った。
 石沖はこの当時、薊に出鎮していたが、石遵が石世を殺してみずからが立ったことを聞くと、属僚に言った、「世は先帝の命を授かったのに、遵はかってに廃して殺してしまった。その罪と反逆は莫大である。そこで内外に勅を下して戒厳を命じる。孤みずからが遵を討伐しよう」。こうして、寧北将軍の沭堅を留めて幽州を守らせ、軍五万を率い、薊から石遵を討伐した。檄文を燕と趙の地に発すると、あちこちから雲のように集まり、常山に着くころには十余万に達していた。苑郷に駐屯したさい、ちょうど石遵が赦免の書を下したので、左右の者に言った、「わが弟であることに変わりない。死者は二度と会うことができないのに、どうして殺しあわねばならないのか。帰ろうと思う」。将の陳暹が進み出て言った、「彭城王は簒奪と弑逆をなしてみずから尊位につきましたが、罪を犯すこと、甚大であります。王が旗を北に進めたとしても、臣は車を南へ進め、京師を平定し、彭城王を捕え、そうしてから大駕(天子)に奉迎いたします」。石沖はこれを聴き入れた。石遵は王擢を派遣し、書を送って石沖を説得したが、石沖は聴き入れなかった。石遵は石閔に黄鉞と金鉦を授け、李農らとともに精鋭兵十万を統率させてこれを討伐させた。平棘で戦い、石沖軍は大敗し、石沖を元氏で捕え、死を賜い、兵士三万余人を穴埋めにした。
 ようやく石季龍を埋葬し、墓を顕原陵と号し、武皇帝の偽諡をおくり、廟号を太祖とした。
 石遵の揚州刺史の王浹が淮南をもって〔晋に〕帰順した。晋の西中郎将の陳逵が進軍して寿春を占拠した。征北将軍の褚裒が軍を率いて石遵を討伐し、下邳に駐屯した。石遵は李農を南討大都督とし、騎兵二万を統率させて防がせた。褚裒は進むことができず、退却して広陵に駐屯した。陳逵はこれを聞くと恐れを抱き、とうとう寿春の貯蓄物資を焼き、城壁を破壊して帰還した。
 当時、石苞は長安に出鎮しており、関中の軍を率いて鄴を攻めようと計画を立てたが、左長史の石光、司馬の曹曜らが強く諫めた。石苞は怒り、石光ら百余人を誅殺した。石苞の人となりは貪欲で、知謀に欠けており、雍州の豪族は石苞が成功しないのをわかっていたため、そろって晋の梁州刺史の司馬勲へ使者をつかわし、知らせた。司馬勲はこうして軍を率いて関中に赴き、懸鉤に塁壁を築いたが、その地は長安から二百余里離れたところであった。〔司馬勲は〕治中従事の劉煥に〔石遵の〕京兆太守の劉秀離を攻めさせ、これを斬った。三輔の豪族は県の令長を多く殺し、三十余の塢壁を擁し、衆五万を保持して司馬勲に呼応した。石苞は鄴攻撃の計画を中止し、麻秋、姚国らに騎兵を統率させて司馬勲を防がせた。石遵は車騎将軍の王朗を派遣し、精鋭騎兵二万を統率させ、外面では司馬勲討伐を名分に立てていたが、この機会を利用して石苞を拉致させ、鄴に送らせた。司馬勲も王朗に勝てなかったので、懸鉤を放棄し、〔転進して〕宛城を落とし、石遵の南陽太守の袁景を殺して帰還した。
 当初、石遵が李城を出発するとき、石閔にこう言った、「力をつくせ。ことが成れば、おまえを後継ぎにしよう」。〔しかし〕石衍を〔皇太子に〕立てたため、石閔はひじょうに失望した。勲功が当世でもっとも高いことを自負していたため、朝政をもっぱら総べようと図ったが、石遵は嫌って任用しなかった。石閔は都督中外諸軍事になると、内外の兵権を掌握したので、殿中の将士やもとの東宮(石宣)の高力〔あわせて〕一万余人を懐柔し、奏上してみなを殿中員外将軍とし、関外侯の爵を授け、宮女を賜うよう述べ、自身への恩を売ろうとした。石遵はこのことを疑わなかったが、〔石遵は〕さらに〔石閔の推薦の奏案に記された〕名前に善悪(好き嫌い)を記して冉閔の意図を挫き、抑圧したため(冉閔の狙いどおりにいかず、ほとんど聴き入れられなかったため?)4原文「而更題名善悪以挫抑之」。読めない。、人々はみな怨みを抱いた。さらに〔石遵は〕中書令の孟準と左衛将軍の王鸞の計略を聴き入れ、すこぶる石閔に疑念を抱いて忌み避けるようになり、じょじょに〔石閔の〕兵権を剥奪した。石閔はますます怨みを募らせている様子であったので、孟準らはみな、彼の誅殺を勧めた。石遵は石鑑らを召し入れ、太后の鄭氏の面前で議を開いたが、みなが石閔の誅殺を請うた。鄭氏は言った、「李城で軍を〔鄴へ〕めぐらしたとき、棘奴(石閔の小字)なくしてこんにちがおありとお思いですか5詳細はわからないが、ともかく石閔自身が自負するくらいには戦功を立てたのであろう。。多少の驕りはお許しなさい。すぐに殺すこともありません」6石虎は石閔を孫のようにかわいがったという。鄭氏は石虎の長子である石邃の母でもあり、石虎とは早くから婚姻していたであろうから、鄭氏も石虎同様、石閔のことを目にかけていたのかもしれない。発言中、石閔のことを「棘奴」と小字で呼んでいるのもそうした感情ないし付き合いの古さを示しているものと思われる。。石鑑は退出すると、宦官の楊環を馬に乗せてつかわし、石閔に知らせた7石鑑だけは石閔誅殺に反対していたとかそういうわけではないようで、『資治通鑑』には「遵召義陽王鑑、楽平王苞、汝陰王琨、淮南王昭等入議於鄭太后前、曰、『閔不臣之迹漸著、今欲誅之、如何』。鑑等皆曰、『宜然』」とみえている。権力を得るチャンスだと考え、変節したのであろう。。石閔はとうとう李農と右衛将軍の王基を拉致し、石遵の廃位をひそかにたくらんだ。将軍の蘇亥と周成に兵士三十人を統率させ、石遵を如意観で捕えさせた。石遵はちょうどこのとき、婦女と碁を打っており、周成らに「そむいたのは誰だ」と訊くと、周成は「義陽王の鑑がお立ちになられます」と言った。石遵は「私ですらこのざまだ。おまえらが鑑を立てたとしても、はたしてどれくらいもつかな」と言った。こうして石遵を琨華殿で殺し、〔太后の〕鄭氏、太子の石衍、上光禄大夫の張斐、中書令の孟準、左衛将軍の王鸞らを誅殺した。石遵は在位百八十三日であった。
 石鑑8『太平御覧』巻一二〇、石虎に引く「崔鴻十六国春秋後趙録」に「鑑、字大朗、虎第三子也」とある。が僭越して位につき、殊死以下を大赦した。石閔を大将軍とし、武徳王に封じ、李農を大司馬とし、両名を録尚書事とし、郎闓を司空とし、秦州刺史の劉群を尚書左僕射とし、侍中の盧諶を中書監とした。
 石鑑は石苞、中書令の李松、殿中将軍の張才9『魏書』羯胡石勒伝によれば胡人である。らに、石閔と李農を琨華殿で夜中に誅殺させようとしたが、成功せず、禁中は騒動になった。石鑑は石閔が変事を起こすのを恐れ、偽って事情を知らない者のようにふるまい、夜に李松と張才を西中華門で斬り、同時に石苞を誅殺した。
 当時、石祗は襄国におり、姚戈中、苻洪らと友好を結び、兵を合わせて檄を発し、石閔と李農を誅殺しようとした。石鑑は石琨を大都督として派遣し、張挙、侍中の呼延盛とともに歩騎七万を統率させ、軍を分けて石祗らを討伐させた。中領軍の石成、侍中の石啓、まえの河東太守の石暉が石閔と李農の誅殺をはかったが、石閔と李農は彼らを殺した。
 龍驤将軍の孫伏都10『魏書』羯胡石勒伝に「胡張才、孫伏都」とみえており、書き方からして孫伏都も胡なのであろう。、劉銖らは羯の兵士三千を集め、胡天11『資治通鑑』胡三省注に「胡天蓋石氏禁中署舎之名」とあり、「蓋」とあるので胡三省もそんなに根拠があって言っているわけではないようだ。に埋伏させ、石閔らを誅殺しようとした。このとき、石鑑は中台にいたが、孫伏都は三十余人を率いて台に登ろうとし、石鑑を連れて石閔らを攻めようとした。石鑑は、孫伏都が閣道(渡り廊下)を破壊してあるのを見て、〔観の上から〕見下ろしてその理由を尋ねた。孫伏都はこう言った、「李農らがそむきました。すでに東掖門にございます〔から、ここにいたる閣道を壊しました?〕。臣はおごそかに衛士(宿衛の兵?)を率い〔て当たり〕たく存じます。〔そこで〕つつしんで先に申しあげ、ご報告に参りましたしだいです12原文「謹先啓知」。「先」にというのは、取次を介さず直接に、ということであろうか。」。石鑑、「卿は功臣であり、よく官家(天子)のために力を尽くしてくれている。朕はこの台から卿を眺めようと思うが、報酬がないことを心配する必要はないぞ13孫伏都は石鑑を同行させるつもりであったが、石鑑は、おまえのことは信頼しているし、そばにいなくてもおまえの活躍はきちんと見ているからきちんと報いるよとかテキトウなことを言って断ったということである。」。こうして、孫伏都と劉銖は兵を率いて石閔と李農を攻めたが、勝てず、鳳陽門(鄴城南面西端の門)に駐屯した。石閔と李農は軍数千を率いて金明門(鄴城西面の門)を壊して〔鄴に〕入った。石鑑は、石閔が自分を誅殺するのを恐れたので、使者をはしらせて石閔と李農を召し、門を開いて宮中に入れ、「孫伏都がそむいた。卿よ、すみやかに討伐したまえ」と二人に言った。石閔と李農は攻めて孫伏都らを斬った。鳳陽門から琨華殿にいたるまでの道中、横たわった死体がつらなり、流血で水路ができるほどであった。内外の六夷に対し、あえて武器を掲げる者はこれを斬ると布告した。胡人は関(かんぬき)を斬ったり城壁を越えたりして〔鄴城から〕出たが、その数は数えきれなかった。〔石閔は〕尚書の王簡と少府の王鬱に軍数千を統率させ、石鑑を御龍観で守らせ、食事を吊るして石鑑に支給した。城内に令を下した、「官家と心を同じくする者は留まれ。同じくしない者は各自の行きたいところへ行け」。城門に勅を下し、〔外出を〕禁止させなかった14『資治通鑑』中華書局標点本はこの一文も令の文に含めている。。こうして、百里以内の趙人(晋人、いわゆる漢人であろう)はすべて鄴城に入り、胡人や羯は〔鄴を〕離れる者たち〔があいつぎ、それらの者たち〕で城門がいっぱいになった。石閔は胡人が自分の手駒にならないことを知ったので、令を内外の趙人に布告し、胡人の首一級を鳳陽門に送った者は、文官であれば位を三等進め、武官であれば誰であれ牙門に任じた。一日のうちに斬首は数万級におよんだ。石閔はみずから趙人を率いて胡人や羯を誅殺し、貴賤、男女、少長いっさい関係なくすべて斬った。死者は二十余万に達し、城外に死体をさらし、ことごとく野生の犬、ヤマイヌ、狼に食われた。四方に駐屯していた者たちは、あちこちで石閔の書を受けて胡人や羯を誅殺した。当時、鼻が高く、あごひげ多いためにむやみに殺された者が半数におよんだ。
 太宰の趙鹿、太尉の張挙、中軍将軍の張春、光禄大夫の石岳、撫軍将軍の石寧、武衛将軍の張季、および諸公侯卿、校尉、龍騰ら一万余人が襄国から出奔した15『資治通鑑』はこれらの出奔の記事の前に、石閔が国号を趙から衛へ、姓を石氏から李氏へ変えたという次の記事をかけている。「趙大将軍閔欲滅去石氏之迹、託以讖文『継趙李』、更国号曰衛、易姓李、大赦、改元青龍」。同様の記述は『太平御覧』巻一二〇、石虎に引く「崔鴻十六国春秋後趙録」にも見え、「青龍初元年正月、石閔欲滅二石之号、議曰、『孔子曰、「死(「易」の誤り?)姓王七月者、七十有二国、継趙李」。讖書炳然、且徳星鎮衛、宜改号大衛、易姓李氏』。又大赦、改元」とある。『十六国春秋』佚文に引かれている孔子の発言は、たとえば『白虎通疏証』封禅に「孔子曰、『升泰山、観易姓之王、可得而数者七十余君』」とあり、『太平御覧』巻六八二、璽に引く「応劭漢官儀」に「孔子称封泰山禅梁父、可得而数七十有二」とあるごとく、易姓革命をなして王者になり、封禅を実施した者のうち、数えるに値する王者は七十二君、と孔子が言ったという言い伝えのようである。すぐあとに「讖書」とあるので、「継趙李」まで含めた部分が緯書からの引用なのであろう。おそらくだが、その七十二君の内訳が緯書に記されており、そのなかに「継趙李(趙氏のあとは李氏)」とあるのを捉えて、利用したのであろう。がんばって『緯書集成』を見て探そうかと思ったけどめんどうなのでやめます。「七月」は他の文から誤って混入したものか。。石琨は出奔して冀州(信都)に拠り、撫軍将軍の張沈は滏口に駐屯し、張賀度は石瀆に拠り、建義将軍の段勤は黎陽に拠り、寧南将軍の楊群は桑壁に駐屯し、劉国は陽城に拠り、段龕は陳留に拠り、姚戈仲は混橋に拠り、苻洪は枋頭に拠り、おのおの衆は数万であった。王朗と麻秋は長安から洛陽へ奔った。麻秋は石閔の書を受けて、王朗指揮下の胡人千余を誅殺した。王朗は上告へ逃げた。麻秋は衆を率いて苻洪のもとへ奔った。
 石琨、張挙、王朗は軍七万を率いて鄴を攻めた。石閔は騎兵千余を率い、城の北でこれを防いだ。石閔は両刃矛16詳しくないのでよくわからない。『資治通鑑』胡三省注は矛の刃先部分が両刃になっているものと言っているっぽいのだけど、それってふつうの矛じゃないのか……?を手に、馬にまたがって迎え撃ち、矛先が振るわれるのに応じて〔敵軍は〕粉砕され、斬首は三千級であった。石琨らは大敗し、そのまま冀州へ帰還した。
 石閔は李農と騎兵三万を統率し、張賀度を石瀆で討伐した。石鑑は宦官に書を持参させてひそかにつかわし、張沈らを呼びよせ、虚を突かせて鄴を襲撃させようとした。〔しかし〕その宦官は石閔と李農に話してしまったので、石閔と李農は馬を走らせて帰還し、石鑑を廃してこれを殺し、石季龍の孫三十八人を誅殺し、石氏をことごとく殺した。石鑑は在位百三日であった。
 石季龍の小子の石混17『資治通鑑』は「趙汝陰王琨」と記しており、石琨のことのようである。は、永和八年に妻や妾数人を引き連れて京師(建康)へ奔った。〔穆帝は〕勅を下して廷尉に収監させ、すぐに建康の市で斬ってしまった。石季龍には十三人の男児がいたが、五人は冉閔に殺され、八人は殺しあっていたが、〔最後の一人となった〕石混もこのときになって死んでしまったのであった。そのむかし、讖緯の予言に「滅石者陵(石を滅ぼす者は陵である)」とあった。まもなく、石閔が蘭陵公に移されたが、石季龍はこれを忌み、蘭陵を武興郡に改名した。〔しかし〕このときになってとうとう石閔に滅ぼされてしまったのであった。はじまりは石勒が成帝の咸和三年をもって僭越して立ち、〔のべ〕二主四子で、総じて二十三年、穆帝の永和五年に滅んだ18中華書局校勘記が注記しているが、いろいろと不正確である。

>>冉閔

  • 1
    『太平御覧』巻一二〇、石虎に引く「崔鴻十六国春秋後趙録」に「遵、字太祗、虎第九子」とある。
  • 2
    あまり見かけない表現。秦州と洛州の意か。洛州については地理志上、司州に「石季龍又分司州之河南河東弘農滎陽、兗州之陳留東燕為洛州」とあり、秦州も設置されていたことは確認できる(ただし範囲は不明)。あるいは単純に関中と河南の意味かもしれない。
  • 3
    『魏書』羯胡石勒伝に拠って補った。
  • 4
    原文「而更題名善悪以挫抑之」。読めない。
  • 5
    詳細はわからないが、ともかく石閔自身が自負するくらいには戦功を立てたのであろう。
  • 6
    石虎は石閔を孫のようにかわいがったという。鄭氏は石虎の長子である石邃の母でもあり、石虎とは早くから婚姻していたであろうから、鄭氏も石虎同様、石閔のことを目にかけていたのかもしれない。発言中、石閔のことを「棘奴」と小字で呼んでいるのもそうした感情ないし付き合いの古さを示しているものと思われる。
  • 7
    石鑑だけは石閔誅殺に反対していたとかそういうわけではないようで、『資治通鑑』には「遵召義陽王鑑、楽平王苞、汝陰王琨、淮南王昭等入議於鄭太后前、曰、『閔不臣之迹漸著、今欲誅之、如何』。鑑等皆曰、『宜然』」とみえている。権力を得るチャンスだと考え、変節したのであろう。
  • 8
    『太平御覧』巻一二〇、石虎に引く「崔鴻十六国春秋後趙録」に「鑑、字大朗、虎第三子也」とある。
  • 9
    『魏書』羯胡石勒伝によれば胡人である。
  • 10
    『魏書』羯胡石勒伝に「胡張才、孫伏都」とみえており、書き方からして孫伏都も胡なのであろう。
  • 11
    『資治通鑑』胡三省注に「胡天蓋石氏禁中署舎之名」とあり、「蓋」とあるので胡三省もそんなに根拠があって言っているわけではないようだ。
  • 12
    原文「謹先啓知」。「先」にというのは、取次を介さず直接に、ということであろうか。
  • 13
    孫伏都は石鑑を同行させるつもりであったが、石鑑は、おまえのことは信頼しているし、そばにいなくてもおまえの活躍はきちんと見ているからきちんと報いるよとかテキトウなことを言って断ったということである。
  • 14
    『資治通鑑』中華書局標点本はこの一文も令の文に含めている。
  • 15
    『資治通鑑』はこれらの出奔の記事の前に、石閔が国号を趙から衛へ、姓を石氏から李氏へ変えたという次の記事をかけている。「趙大将軍閔欲滅去石氏之迹、託以讖文『継趙李』、更国号曰衛、易姓李、大赦、改元青龍」。同様の記述は『太平御覧』巻一二〇、石虎に引く「崔鴻十六国春秋後趙録」にも見え、「青龍初元年正月、石閔欲滅二石之号、議曰、『孔子曰、「死(「易」の誤り?)姓王七月者、七十有二国、継趙李」。讖書炳然、且徳星鎮衛、宜改号大衛、易姓李氏』。又大赦、改元」とある。『十六国春秋』佚文に引かれている孔子の発言は、たとえば『白虎通疏証』封禅に「孔子曰、『升泰山、観易姓之王、可得而数者七十余君』」とあり、『太平御覧』巻六八二、璽に引く「応劭漢官儀」に「孔子称封泰山禅梁父、可得而数七十有二」とあるごとく、易姓革命をなして王者になり、封禅を実施した者のうち、数えるに値する王者は七十二君、と孔子が言ったという言い伝えのようである。すぐあとに「讖書」とあるので、「継趙李」まで含めた部分が緯書からの引用なのであろう。おそらくだが、その七十二君の内訳が緯書に記されており、そのなかに「継趙李(趙氏のあとは李氏)」とあるのを捉えて、利用したのであろう。がんばって『緯書集成』を見て探そうかと思ったけどめんどうなのでやめます。「七月」は他の文から誤って混入したものか。
  • 16
    詳しくないのでよくわからない。『資治通鑑』胡三省注は矛の刃先部分が両刃になっているものと言っているっぽいのだけど、それってふつうの矛じゃないのか……?
  • 17
    『資治通鑑』は「趙汝陰王琨」と記しており、石琨のことのようである。
  • 18
    中華書局校勘記が注記しているが、いろいろと不正確である。
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