巻六十三 列伝第三十三 邵続 李矩

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邵続・李矩段匹磾・魏浚(附:魏該)・郭黙

 目 次

邵続

 邵続は字を嗣祖といい、魏郡の安陽の人である。父の邵乗は散騎侍郎であった。邵続は素朴で意志が強く、経書と史書を広く読み、理義(経書の解釈)の議論を得意とし、天文の解読に優れていた。最初は成都王穎の参軍となった。成都王が長沙王乂を討伐しようとしたとき、邵続は諫めて言った、「続が聞くところでは、兄弟は左右の手のごとくであるとか。いま、明公は天下の敵に当たろうとされていますのに、どうして手を一本失うつもりでいるのでしょうか1このとき、成都王らは羊皇后の父の羊玄之と皇甫商の討伐を名目に掲げて挙兵していた(成都王穎伝、皇甫重伝、外戚伝・羊玄之伝)。おそらくこのことを言っているのだろう。。続はひそかに困惑しています」。成都王は聴き入れなかった。のちに苟晞の参軍となり、沁水令に任じられた。
 このころ、天下はしだいに混乱しつつあったので、邵続は沁水県を去って家(郷里)に戻ろうとし、亡命者を糾合して数百人を集めた。王浚は邵続に綏集将軍、楽陵太守を授け、厭次に駐屯させ、邵続の子の邵乂を督護とした2後文の展開からみて、人質の意味あいが含まれているようである。。邵続は流浪者を慰撫して懐柔したため、多くの者が帰順した。石勒が王浚を破ると、〔石勒は王浚のもとにいた〕邵乂をつかわして帰還させ、邵続を招かせた。邵続は孤立無援であることから、一時的に石勒に帰順し、石勒も邵乂を督護とした。ほどなく、段匹磾は薊に滞在していたが3段匹磾は石勒が王浚を破って襄国へ帰還してまもなくに薊へ入ったものと考えられる。段匹磾伝の訳注を参照。、書簡を邵続に送り、いっしょに元帝に帰順しようと提案してきたので、邵続はこれに賛同した。邵続の部下は諫めて言った、「いま、石勒を棄てて段匹磾に帰してしまえば、任子(邵乂)が危険です」。邵続は涙を流して泣き、「私は国家のために世に出たのだ。子を心配して逆臣になれるものだろうか」と言った。けっきょく、石勒と関係を絶ったので、石勒は邵乂を殺した。邵続は石勒が攻めてくるのを恐れ、まず救援を段匹磾に求めたところ、段匹磾は弟の段文鴦を派遣して邵続を応援させた。段文鴦が到着するまえに、石勒はすでに八千騎を率いて邵続を包囲していた。石勒はふだんから鮮卑を畏怖していたので、段文鴦の到着を聞くと、攻城兵器を放棄して東へ逃走した。邵続は段文鴦とともに石勒を追い、安陵まで到達したが、追いつかず、石勒が任命した地方官を捕え、あわせて三千余家を駆り立て〔て連れて行っ〕た4『資治通鑑』は建興二年、すなわち永嘉の乱後のことで、劉琨はまだ并州におり、段匹磾はすでに幽州刺史として薊にいたころのこととする。本伝に明記されていないが、段文鴦は薊に戻らず、このまま厭次に留まったと推測され、のちに廩丘の劉演を救援したさいも(劉琨伝附演伝を参照)、厭次から出撃して厭次へ戻ったものと思われる。。また、騎兵を派遣し、石勒の境内の北辺に入らせて散らばらせ、常山で掠奪させ、同様に二千家を駆り立てさせてから帰還させた。
 段匹磾が劉琨を殺すと、夷狄も晋人も多くがうらんでそむいたので、とうとう〔段匹磾は〕部衆を率いて邵続を頼った。石勒の南和令の趙領らは広川と渤海の千余家を率いて石勒にそむき、邵続に帰順した。元帝は邵続を平原・楽安太守、右将軍、冀州刺史とし、平北将軍に進め、仮節とし、祝阿子に封じた。邵続は兄の子である武邑内史の邵存と段文鴦を派遣し、段匹磾の部衆を率いさせて平原で食糧を探させたが、石季龍に撃破された。これより以前、邵続は曹嶷としばしば侵略しあっていたが、曹嶷は邵存らの敗北に乗じて、邵続の屯田を破壊し、さらに邵続の戸口を拉致した。邵続は終始、救出活動にあたっていたので、忙しく動き回るのに疲弊した。太興のはじめ、邵続は邵存と段文鴦を派遣して済南の黄巾固に駐屯させ、そうして曹嶷を圧迫させたため、曹嶷は恐れ、和睦を求めた。にわかに段匹磾が部衆を率いて段末杯を攻めに行った。石勒は〔段氏の出動によって〕邵続が孤立して危険であるのを知ったため、石季龍を派遣し、虚に乗じて邵続を包囲させた。石季龍の騎兵が城下に到達すると、住人を拉致した。邵続は軍を率いて出撃し、救おうとしたが、石季龍は伏せておいた騎兵で邵続の背後を断ったので、とうとう石季龍に捕えられ5元帝紀によれば太興三年二月のこと。、〔石季龍は〕邵続に城を降服させようとした6邵続に降服を説得させたということ。。邵続は兄の子の邵竺らを呼んで言った、「国難を雪ぎ、そうして受けた恩に報いることがわが志であったが、不幸にもこのたびの事態になってしまった。なんじらは努力して励み、段匹磾を主人に奉じ、二心を抱かないように」。
 このとき、元帝は邵続が没してしまったことを知ると、詔を下した、「邵続は堅い忠節を持して公(国家)に仕え、義誠は奮発し、戦乱をこうむった遺民を慰撫して集め、国家を憂えて身を滅ぼした。勲功をうちたてることができないまま、不幸にも陥没してしまったゆえに、朕は心より残念に思う。〔邵続が〕統べていた職務は重く、適時に後任を定めるのがよいであろう。彼の部曲の文武官は、すでに共同で息子の邵緝を営主に推戴している。邵続の忠誠は公私に明瞭に示されていたから、このたび彼の子を立てるのは、人々を安心させるのに十分であろう。邵続のもとの位をすべて邵緝に授け、〔邵続が〕統べていた人々を統率させる。節義を国難に尽くし、家の仇を雪ぐようにせよ」。
 石季龍は使者をつかわし、邵続を石勒のもとへ送った。石勒は徐光をして邵続をなじらせた、「〔わが〕国家は符命に応じて戦乱を治め、八表(きわめて遠方の地)の人々も心を寄せている。遺晋7生き残りの晋人。ここでは元帝ら東晋朝の者たちをいう。は恐れおののき、遠く楊越の地(江南)に逃れた。しかし、続は海阿8海が陸地に入りこんだ所。湾。(『漢辞海』)で蟻のように巣に閉じこもり、〔主上(石勒)の〕王命を拒んだ。夷狄だから君主とするには不十分だと思ったのか。主上をないがしろにすること、なんとはなはだしいことか。『国に常刑あり』9原文「国有常刑」。「反逆者は誅罰する」というニュアンスの文句。おそらく『周礼』に由来する成語で、たとえば夏官、大司徒に「正歳、令于教官曰、『各共爾職、脩乃事、以聴王命。其有不正、則国有常刑』」とあり、「王命」に従わない者には「常刑」があるぞ、という警告として使用されている。また、ほかの史書の用例を確認すると、多くは罪を犯したり人倫にもとったりした者に対して言われる決まり文句として使われている。「常刑」は「典刑」などとおそらく同義で、時代や国を超えて共通する普遍的な刑罰の意だと思うが、美的な典故表現で用いているだけのように思われるので、それほど意味を深く考える必要はないかも。「反逆したなんじには誅殺が待ち受けているが、それはわかっているよな」ということであろう。、分(さだめ)を進んで受け入れるかね」。邵続は答えて言った、「晋の末年は飢饉と戦乱があり、逃げる場所もなければ、苦しみを訴える場所もなかったので、郷里の宗族を守り集め、老人や子どもを安全にしたいと願ったのです。ちょうど大王が龍のごとく飛翔して事業を開始されたところでしたから、命をささげて質任を納めたのですが、〔わが〕純粋な誠意は〔大王の〕心を動かさず、慈愛を賜わりませんでした。そこで遺晋に帰順したところ、寵遇を授かりましたから、〔晋に〕忠節を尽くす誓いを立てたしだいであり、まことに二心はございません。そのうえ、かの(晋の)厚遇を受けながらも、また行き先が一定しないというのは、おそらく明朝(石勒)におかれましても容認されないことでしょう。周の文王は東夷で生まれ、大禹は西羌の出自でした。帝王が興起するときというのは、徳が天命の集約を招き寄せているのです10原文「帝王之興、蓋惟天命所属、徳之所招」。逐語的には「天命が集まることは、徳が招き寄せることである」という意味だと思うが、訳文がぎこちなくなるので意訳した。。どうして常理があるものでしょうか。伏して思いますに、大王の聖武は天性であり、道は舜や禹より興隆していますから、およそ生物であれば、誰もが〔大王の〕神妙なる教化に首を延ばして嘱望し、おおいなる風教から隔たっていることを恥じ入っています。まして囚(わたし)11邵続は後趙内で「囚」と自称していたようである。『太平御覧』巻六四四、拲に引く「趙書」に「後石率精騎五千、襲邵続、一戦生禽続於青丘。鉗頸拲手、於襄国青陽城門、頓頭称囚」とある。であればなおのことです。〔にもかかわらず、〕囚(わたし)を真(石氏)から去らせて偽(東晋)につかせ、早急に天門(石氏)を叩かせないようにさせたのは、大王が囚(わたし)を裏切ったからでして、囚(わたし)が大王を裏切ったのではありません。釁鼓の刑罰は囚(わたし)の分(さだめ)です12釁鼓は犠牲の血で太鼓を塗って祀るという意。『左伝』僖公三三年の杜預注に「殺人以血塗鼓、謂之釁鼓」とある。史漢以降の用例を確認すると、おおまかには出陣前の祭礼と戦勝後の祭礼との二つの用例がみえる。前者は「衆莫敢為、乃立季為沛公。祠黄帝、祭蚩尤於沛庭、而釁鼓旗、幟皆赤」(『史記』高祖本紀)、「立秋、万物将成、殺気之始、其於王事、杖麾誓衆、釁鼓礼神、所以討逆除暴、成功済務、寧宗廟社稷、致天下之福」(『晋書』張軌伝附重華伝)など。後者は「斬温禺以釁鼓、血尸逐以染鍔」(『後漢書』竇融伝附憲伝)など。おそらくこれらの用法から転じて、端的に「誅殺を加えること」を意味する場合もみられる。「〔胡母〕班与〔王〕匡書云、『……而足下独囚僕于獄、欲以釁鼓、此悖暴無道之甚者也」(『三国志』袁紹伝の裴松之注に引く「謝承後漢書」)、「参軍王嶠以敦誅〔周〕顗、諫之甚切、敦大怒、命斬嶠、時人士畏懼、莫敢言者。〔謝〕鯤曰、『明公挙大事、不戮一人。嶠以献替忤旨、便以釁鼓、不亦過乎』。敦乃止」(『晋書』謝鯤伝)。本伝はおそらく最後の「誅殺」の意で用いられており、「反逆の罰として誅殺をこうむるのも、私の運命ですから進んで受け入れます」ということだと思われる。
 なお、ここの文は「釁鼓之刑、囚之恒分」だが、これは徐光の「国有常刑、於分甘乎」に対応した返答だと考えられる。これと酷似したやり取りが禿髪利鹿孤載記にみえ、「〔禿髪〕傉檀執〔孟〕禕而数之曰、『……国有常刑、於分甘乎』。禕曰、『……釁鼓之刑、禕之分也』」とある。正史では本伝とこの載記の例しか検出できていないが、文言があまりに一致しているため、この時期に広く行われていた定型表現だった可能性がある。
。しかし、天がまことにこのようなことを為すのを残念に思います。これを何と言ったらよいのでしょう」。石勒、「なんじの言葉にはこのうえない慨嘆がある。孤(わたし)はなんじの言葉に恥じ入るところが多かった。そもそも、主君に忠誠であるというのは、私が求める人材なのだ」。張賓に命じて邵続を館に招き入れさせ、厚く慰撫し、ついで従事中郎とした。〔石勒は〕以後、敵を破って俊才を捕えたら、みな〔石勒のもとに〕送らせ、独断で殺すことを禁じ、邵続のような人材を得ようと希求したのであった。
 これ以前、石季龍が邵続を攻めたとき、晋の朝廷には王敦の圧迫があり、救援するいとまがなかった。邵続は石勒に捕えられてしまってからは、隠居して畑仕事をし、野菜を売って、衣食(生計)に充てていた。石勒はしばしば人をやって邵続の様子をうかがわせていたが、〔彼の隠居ぶりに〕嘆息して言った、「彼はまことの高人(高潔な人)だ。このようでなければ、どうして尊重に値いしようか」。彼が清廉で貧窮した生活を守っていることを嘉し、しばしば穀物や帛を下賜した。〔石勒は〕臨朝のたびに感嘆し、百官に奨励した。
 邵続が捕えられたのち、邵存、邵竺、邵緝らは段匹磾と籠城し、賊を防いでいた。元帝はさらに邵存に揚武将軍、武邑太守を授けた。石勒はしばしば石季龍を派遣して邵緝らを攻めさせ、〔邵緝らは〕防衛したものの、疲弊して苦境におちいり、自立できなくなった。しばらくして、段匹磾、その弟の段文鴦、邵竺、邵緝らはことごとく捕えられた。邵存だけは包囲を突き破って南へ敗走したが、道中で賊に殺された。邵続も最終的には殺された13後日談だが、邵続の拠っていた厭次の城は、後趙が邵続平定を記念して邵平城と改名し、のちにたんに邵城と呼ばれるようになったのだという。『太平寰宇記』巻六四、棣州、厭次県、邵城を参照。

李矩

 李矩は字を世廻といい、平陽の人である。幼少のとき、子どもたちと集まって遊んだら大将になり、段取りを立てて指図を出し、成人(立派な士人)の度量をそなえていた。成長すると、吏となり、前任の県令を長安に送ったが14おそらく、この当時の慣習である「送故迎新」――地方官の人事があったさい、当地の吏が赴いて新任者を迎え、離任者を送ること――のことだと思われる。周一良氏も送故の例として本伝を挙げている(周氏『魏晋南北朝史札記』中華書局、一九八五年)。、〔そのまま長安で〕征西将軍の梁王肜が〔李矩を〕牙門とした15後文によれば斉万年の乱の前のこと。梁王は二度、関中に出鎮しているが、恵帝紀によると最初は元康元年、二度目は元康六年である。梁王は最初の出鎮後まもなくに中央に召され、代わって関中には趙王倫が出鎮することになったのだが、同六年、激化する非漢族の反乱に趙王では対応できなかったため(趙王倫伝)、ふたたび梁王が関中に出鎮したらしい。李矩は斉万年の制圧に関与したと後文にみえることと、梁王のこういう経緯とを合わせると、李矩が梁王の牙門になったのは二度目の元康六年のことである可能性が高い。。氐の斉万年の討伐に格別の功績があり、東明亭侯に封じられた。〔郷里に〕帰って本郡(平陽)の督護となった。平陽太守の宋胄は関係の親しい呉畿を李矩に代えようと望んでいたので、李矩は病気を理由に職を去った。呉畿は李矩がふたたび戻ってくるのを心配し、ひそかに人を使って李矩を刺させたが、たまたま助けてくれた人がいたので、生き延びることができた。このころ、劉元海が平陽を攻め、百姓は逃走した。李矩はふだんから郷人に慕われていたため、〔郷人は〕塢主に推戴した。〔李矩らは〕東に進んで滎陽に駐屯し、のちに新鄭へ移動した16以後、李矩は新鄭県(滎陽郡)に留まりつづける。
 李矩は勇敢で、その場に応じて計画を立てることに長け、志は功績を立てることにおかれていた。東海王越は〔李矩を〕汝陰太守とした。永嘉のはじめ、李矩と汝南太守の袁孚に人々を率いさせ、洛陽の千金堨を修復させ、そうして漕運を便利にさせた。洛陽が陥落すると、太尉の荀藩は陽城へ逃げ、衛将軍の華薈は成皋へ逃げた。当時、大飢饉であり、賊帥の侯都らはしょっちゅう人をさらって食っており、荀藩と華薈の部曲は多くが彼らに食われた。李矩は侯都らを討伐してこれを滅ぼすと、荀藩と華薈を護衛し、二人のために建物を建て、穀物を輸送して支給した。荀藩が承制すると、行台を建て、李矩に滎陽太守を授けた。李矩は離散した者を招き寄せて懐柔したので、遠近の人々は多く李矩に帰順した。
 石勒がみずから大軍を率いて李矩を襲撃したので、李矩は老人や弱者を山に入らせ、いたるところに牛馬を解放させると、伏兵を設けて石勒軍を待ち受けた。賊(石勒軍)は競って牛馬を取り合ったので、〔李矩は〕伏兵を発し、いっせいに喊声をあげると、その声は山谷を動かすほどであった。とうとう石勒軍をおおいに破り、斬首と捕虜はひじょうに多かったので、石勒は退却した。荀藩は元帝に上表して、李矩に冠軍将軍を加え、赤幢曲蓋の軺車を賜与し、陽武県侯に進め、領河東・平陽太守とするよう要望した。このころ、飢饉が重なり、そのうえ疫病が流行していたが、李矩は慰撫に心を砕いたので、百姓は彼を頼った。ちょうど長安の群盗が東に下ってきて、あちこちでたくさんの人さらいと掠奪をはたらいていた。李矩は部将を派遣してこれを撃破し、賊がさらった婦女千余人を全員取り戻した。諸将は、〔婦女が〕李矩の治めている人々ではないのを理由に、そのまま〔李矩の治めている滎陽に(?)〕留めおくことを希望した。李矩は「みな国家の臣妾だ。あちらにおるか、こちらにおるかで違いがあるものか」と言い、いっせいに婦女を解放した。
 このころ、劉琨が任命した河内太守の郭黙は劉元海17本伝の時系列的にはすでに劉淵は死んでいるはずで、『資治通鑑』も以下の記事を建興二年にかけているが、郭黙伝でも本伝同様、このとき劉淵は生きていることになっている。匈奴劉氏程度の意味あいかもしれない。に圧迫され、李矩のもとへ帰すことを求めてきたので18原文「乞帰於矩」。うまく日本語に訳せないのだが、つまり李矩のいる滎陽に行きたいと求めたということ。当時、郭黙は河内の懐県に拠っていた。、李矩は甥(姉妹の子)の郭誦に郭黙を迎えさせようとしたが、〔郭誦は劉氏を恐れて〕進もうとしなかった19郭黙伝をふまえると、このとき郭黙は劉曜に包囲されている。郭誦が「不敢進」というのもかかる情勢ゆえであったと考えられる。『資治通鑑』は「兵少、不敢進」とする。。このとき、劉琨は参軍の張肇を派遣し、鮮卑の范勝ら五百余騎を統率させて長安へ向かわせたが、ちょうど郭黙が包囲された折りで、道路が通じなかったため、〔張肇は〕引き返して邵続を頼ろうとした20当時、劉琨はまだ并州の陽邑(陽曲)に駐留していたが、北に進めなかったということだろうか。『資治通鑑』は本伝の「将還依邵続」を削っている。。行軍中、李矩の塁営に到着すると、李矩は張肇に言った、「郭黙は劉公が位を授けた者である。国家に関する事柄だと知ったのならば、力を尽くして何事でもするものだ21原文「公家之事、知無不為」。『左伝』僖公九年に「公曰、『何謂忠貞』。〔荀息〕対曰、『公家之利、知無不為、忠也。送往事居、耦俱無猜、貞也』」とあるのが出典らしい。『晋書』にそこそこ用例がある。」。屠各(匈奴劉氏)はかねてより鮮卑を畏怖していたので、そのまま〔李矩は〕張肇に声援(遠方からの支援)を要請したところ、張肇は了承した。賊(漢軍)は鮮卑を遠くから確認すると、戦わずして逃走した。また、郭誦はひそかに軽船をつかわして黄河を渡らせ、勇士に〔郭黙の駐屯する〕懐城を夜襲させ、賊の軍営を不意討ちさせると、賊をおおいに破った。郭黙はとうとう帰属している人々を率いて李矩のもとへ帰した。のちに劉聡が従弟の劉暢を派遣し、歩騎三万をもって李矩を討伐させ、韓王故塁に駐屯させたが、〔その場所は李矩の軍営と〕七里の距離があり、〔劉暢は〕使者をつかわして李矩を招き寄せた。このとき、劉暢は突然やって来たため、李矩は備えを設ける時間がなかった。〔そこで李矩は〕使者をつかわして牛と酒を献上し〔てねぎらいの意を示し〕、偽って劉暢に降ったが、ひそかに精鋭の勇士を隠しておき、老人や弱者を見せた。劉暢は〔弱者ばかりの李矩の軍を〕憂いとみなさず、大宴会を開いて〔劉暢軍の〕渠帥をねぎらい、人々はみな酒に酔いつぶれ、満腹になった。李矩は夜襲をしかけようと謀ったが、賊軍が多勢のため、兵士はみな不安な様子であった。李矩は郭誦に鄭の子産の祠で祈祷させた、「むかし、君が鄭の宰相となると、悪鳥は鳴かなくなった22出典捜索中。民が善導されて悪人がいなくなったということの比喩表現?。凶胡や臭羯がどうして〔君の〕庭を通過できようか」。〔また〕巫に扇動的な流言を言わせた、「東里に教示がある。神兵が助けに来てくれるだろう」。将士はこれらを知ると、みな喜び勇み、争って進もうとした。そこで郭誦と督護の楊璋らに勇敢な兵士千人を選抜させると、劉暢の軍営を夜襲させ、多数の鎧馬を鹵獲し、斬首は数千級にのぼり、劉暢はかろうじて逃げおおせた23愍帝紀によると建興五年二月のこと。
 これより以前、郭黙は李矩が〔劉暢に〕攻められていると知ると、弟の郭芝を派遣し、軍を率いさせて救援させた。ほどなく、〔李矩が〕劉暢を破ったことを聞くと、郭芝はふたたび馳せ参じて李矩のもとへ赴いた24いったん李矩が劉暢に降ったので、郭芝も兵を収めて戻っていたのであろう。。そこで李矩は郭芝に馬五百匹を与え、軍を分けて三つの道路から進ませ、夜に賊を追撃したところ、またも収穫をおおいに得てから帰還した。
 これより以前、劉聡は将の趙固を洛陽に出鎮させていたが、長史の周振は趙固と不仲で、ひそかに趙固の罪を〔劉聡に〕陳述した。李矩が劉暢を破ると、〔劉暢の〕帷幕の中から劉聡の書簡を見つけたが、〔その書簡は〕李矩の平定が終わり、洛陽を通過したさい、趙固を捕えてこれを斬り、即座に周振を趙固の後任とするように劉暢に命じていた。李矩は〔書簡を〕転送して趙固に見せると、趙固はすぐに周振父子を斬り、とうとう騎兵一千を率いて来降し、李矩はそのまま〔趙固に〕洛陽を守らせた。数か月後、劉聡は太子の劉粲を派遣し、劉雅生ら歩騎十万を統率させて孟津の北岸に駐屯させた。〔劉粲は〕軍を分けて劉雅生を派遣し、趙固を洛陽で攻めさせた。趙固は陽城山へ逃げ、弟を〔李矩に〕つかわして危急を知らせた。李矩は郭誦を派遣し、洛口に駐屯させて趙固を救援させた。郭誦は将の張皮に精兵千人を選抜させ、夜に黄河を渡らせた。劉粲の偵察は兵が来たことを報告したが、劉粲は自分の軍を過信し、憂いとみなさなかった。まもなく、郭誦らが不意に現れ、十の道からいっせいに攻めた。劉粲の兵士は驚き騒ぎ、わずかなあいだに潰走した。〔張皮らは〕多くの兵士を殺傷し、劉粲の軍営を占拠し、兵器や軍需物資を数えきれないほど鹵獲した。夜が明けると、劉粲は張皮らが少数であることを確認したため、さらに劉雅生とともに残りの兵士を総動員してこれを攻めたが、苦戦し、二十余日経っても下せなかった。李矩は進軍して張皮らを救援しようと思い、壮士三千人を船に乗らせ、張皮を迎えさせようとした。賊は黄河に面して陣を布き、長鉤をつくって船に引っかけてきたので、数日連戦したものの、黄河を渡れなかった。李矩は夜に部将の格増を派遣し、ひそかに〔黄河を〕渡らせて張皮の営塁に入らせ、張皮と精鋭騎兵千余を選抜し、鹵獲した牛馬を殺し、兵器を焼き、夜に包囲を突き破って武牢へ逃げた。劉聡はこれを追わせたが、〔劉粲らは〕追いつかなかったので退却した25一連の経緯は劉聡載記にも記載があり、おおむね符合しているが、劉聡載記では李矩軍退却時に大勝を得た(李矩軍に大きな損害が出た)と記されている。。劉聡はこのために憤怒し、発病して死んだ。元帝は李矩の功績を嘉し、李矩を都督河南三郡軍事、安西将軍、滎陽太守に任じ、脩武県侯に封じた。
 劉粲が位を継ぐと、暗愚と残虐は日に日にひどくなったので、将の靳準は挙兵して劉粲とその宗族を殺し、劉聡の墓をあばいてその遺体を斬り、使者をつかわして李矩に帰順し、こう言った、「劉元海は屠各の醜悪な小人であり、大晋が事変に遭っていた機会に乗じて、幽并の地で乱を起こし、天命を詐称し、あげくに虜庭(賊虜のねぐら)での幽閉と死没という憂き目を二帝(懐帝と愍帝)に遭わせました。すぐに軍を率いて梓宮(ひつぎ)を救護し、侍従しているところですので、〔朝廷へ〕奏聞していただきますよう」。李矩は馬を走らせて元帝に上表し、元帝は太常の韓胤らを派遣して梓宮を奉迎させたが、到着するまえに靳準はすでに石勒と劉曜に殺されてしまっていた。李矩は〔みずからの〕兵が少なく、功績を立てるには不足していたことから、いつも慨嘆していた。元帝が帝位につくと〔李矩を〕都督司州諸軍事、司州刺史とし、平陽県侯に改封し、将軍はもとのとおりとした26元帝紀によると、都督司州、司州刺史は太興元年六月、劉聡が死んだのが同年七月、劉粲が殺されたのは同年八月で、時系列がおかしくなっている。。このころ、〔前趙の〕弘農太守の尹安、振威将軍の宋始ら四軍はみな洛陽に駐屯していたが、おのおの疑いあって親しまず、強い意志をもっている者もいなかった。李矩と郭黙はそれぞれ騎兵一千を派遣して洛陽に行かせ、これらを鎮圧させようとした。そこで尹安らは共謀して石勒に報告すると、石勒は石生を派遣し、騎兵五千を統率させて洛陽に行かせたので、李矩と郭黙の軍はみな退却して帰還した。にわかに四将はふたたび石勒にそむき、使者を〔李矩と郭黙に〕つかわして迎えを求めたので、郭黙は再度、歩兵五百人を派遣して洛陽に入らせた27『資治通鑑』は「矩使潁川太守郭黙将兵入洛」とし、郭黙自身が洛陽に入ったかのように記している。。石生は、四将が共謀すると自身を安全にすることができないと考えたので、四軍のひとつである宋始を捕え、黄河を渡って南に向かった28『資治通鑑』は北に黄河を渡ったと記している。。百姓はあいついで李矩に帰順したため、洛陽城内はとうとう空虚になった29一連の経緯は劉曜載記にも記されており、それによると李矩は金墉城を落としたらしい。『資治通鑑』は趙固死後の年代(太興三年二月)にかけている。。そこで李矩は上表し、郭誦を揚武将軍、陽翟令とするよう求め、〔郭誦に〕河川に拠って軍塁を築かせ、屯田させて、賊を滅ぼす計略を実行したいと述べた。ちょうど趙固が死んだので、石生は騎兵を派遣して郭誦を襲撃させたが、郭誦は計略に長じていたため、賊が到着すると、たちまち伏兵を設けてこれを破り、賊は掠奪しようとしても何も得られなかった。石生は怒り、またみずから四千余騎を率いて諸県を掠奪し、そして郭誦の軍塁を攻めたが、短時間交戦すると、軍を堮坂に退かせた。郭誦は精悍な勇士五百を率いて追撃し、石生に磐脂故亭で追いつき、またもこれをおおいに破った30『資治通鑑』太興二年の条に「趙固死、郭誦留屯陽翟、石生屢攻之、不能克」(石勒載記下、略同)とある。「留屯陽翟」とは本伝の陽翟令を指すのであろう。こののち、『資治通鑑』によると明帝の太寧二年に「石生寇許潁、俘獲万計。攻郭誦于陽翟、誦与戦、大破之、生退守康城。後趙汲郡内史石聡聞生敗、馳救之、進攻司州刺史李矩、潁川太守郭黙、皆破之」(石勒載記下、略同)という戦闘もあった。本伝の記述は以上に引用した記録をすべて混合したものであるかもしれない。。李矩は、郭誦の功績が多大であることをもって、上表して赤幢曲蓋の車を加え、吉陽亭侯に封じるよう要望した。
 郭黙は祖約を攻めたがっていたが、李矩は郭黙を制止して許可しなかった。するととうとう〔李矩らは〕祖約に破られた。石勒は養子の石怱を派遣し、郭黙を襲撃させた31郭黙は洛陽に入って以後、どこに駐留していたのかよくわからないが、本伝後文に「自密南奔建康」とあり、密県に留まっていたのかもしれない。。郭黙は背後の憂い32原文「後患」。「後日の憂い」だと意が通らないので、訳文のように「背後の憂い」と読んだ。前趙劉氏を指すか。がいまだにやまないのを恐れ、劉曜に降ろうと思い、参軍の鄭雄を李矩のもとへつかわし、この件を謀らせたが、李矩は拒絶して許さなかった。その後、石勒は将の石良を派遣し、精兵五千を統率させて李矩を襲撃させた。李矩は迎撃したが、撃退できなかった(2020/12/27:修正済)。郭誦の弟の郭元が賊に捕えられてしまい、賊は郭元をつかわし、書簡を送って李矩を説得した、「去年、東は曹嶷を平らげ、西は猗盧を賓客として従えた33曹嶷が殺されたのは明帝紀によると太寧元年八月。しかし猗盧はすでに愍帝の建興四年に没しており、たんに拓跋氏を指してこう言っているか。『魏書』の序紀から石勒関連の記述を探してみると、平文帝(鬱律)の三年(晋の元帝の太興二年)に「石勒自称趙王、遣使乞和、請為兄弟。帝斬其使以絶之」とあり、恵帝(賀傉)の元年(晋の元帝の太興四年)に「遣使与石勒通和」とあるが、晋の明帝の太寧元年(魏の恵帝三年)にはとくに記録がない。本文の「去年」の記述には合致しないが、魏の恵帝元年の通交を指して言っているとみるのがよさそうである。。〔ところが〕矩(おまえ)は牛の角のようにねじ曲がっている。なぜ帰順しないのか」34『太平御覧』三五九、鞭に引く「蕭方等三十国春秋」には「石勒遣石虎率精騎五千、掩李矩営、生執矩外甥郭謂(「誦」の誤りか)之弟元。教元作書、与謂説云、『去年東平曹嶷、西賓猗盧、矩如牛角、何不帰命』」とあり、郭元が書簡を作成し、郭誦を説得したのだと記している。本伝も書簡の作成者は郭元と読めなくもないが、説得対象者は明らかにちがっている。。李矩は郭誦に〔この書簡を〕見せると、郭誦は「むかし、王陵の母は賊の手のうちにありましたが、〔王陵は〕それでも意志を変えませんでした35王陵は前漢はじめの人。『史記』、『漢書』に立伝。漢の高祖と項羽が戦争をはじめると、王陵は高祖に従ったが、母親は項羽の人質になってしまった。母親は項羽のもとにつかわされた王陵の使者に対し、決して高祖を裏切ってはならないと伝言して自殺した。。弟など論ずるまでもありません」と言った。石勒はさらに郭誦に払子と馬の鞭を贈り、慇懃な姿勢を示したが、郭誦は応答しなかった。石勒の将の石生は洛陽に駐屯し36明帝紀、太寧二年十月の条に「是時、石勒将石生屯洛陽、豫州刺史祖約退保寿陽」とある。『資治通鑑』に従うと、郭黙の入洛は太興三年二月のこと。それからこの石生の洛陽駐屯までの間、洛陽の帰属は不明である。郭黙はすでに洛陽から去っていた可能性が高そうなので(前注を参照)、郭黙軍がこの直前まで留まっていたか、じつは石生はすでに入洛していたか、誰も駐屯していなかったか、いずれも考えられる。、河南をおおいに掠奪したところ、李矩と郭黙はひどく飢えたので、郭黙はふたたび劉曜への投降を李矩に説得した。李矩はすでに石良に破られていたので、とうとう郭黙の計画を聴き入れ、使者を劉曜へつかわした。劉曜は従弟の劉岳を派遣し、河陰に駐屯させ、李矩と共謀して石生を攻撃させようとした。石勒は将を派遣して劉岳を包囲させたが、劉岳は門を閉じて出撃しようとしなかった。郭黙はその後、石怱に敗北し、密から南に向かい、建康へ敗走した。李矩はこれを聞いておおいに怒り、将の郭誦らに郭黙宛の書簡を持参させて派遣した。また郭誦に命じて言った、「おまえは唇亡の話(唇がなくなったら歯が寒くなる)を知っているな。郭黙を迎えられるかどうかは、すべて卿にかかっている。困難に直面して逃亡しようとしているのならば、必ず彼を引き留めてくれ」。郭誦は襄城で追いついたが、郭黙は李矩にそむいてしまったと自覚していたので、妻子を棄てて逃亡した。郭誦は郭黙の余衆を連れて帰り、李矩は郭黙の妻子をもとのように待遇した。劉岳は外から援軍がやって来ないため、石季龍に降った。
 李矩が統率する将士のなかには、ひそかに石勒に帰順しようとしている者がいたのだが、李矩はそのことを知っていても討てなかった37石勒載記下には「李矩以劉岳之敗也、懼、自滎陽遁帰。矩長史崔宣率矩衆二千降于〔石〕勒」とある。。そこで兵を率いて南へ逃げ、朝廷(東晋)へ帰そうとしたが38明帝紀によれば太寧三年四月のこと。なお明帝紀によると、後趙軍が劉岳を下したのは同年六月のことで、李矩は劉岳陥落以前に遁走したことになる。『資治通鑑』はどちらも六月のこととする。劉曜載記を参照すると、劉岳は当初こそ後趙軍相手に勝利を得ていたものの、石虎軍に喫した敗北で負傷し、以後は石梁で籠城した。劉岳の応援軍はことごとく撃破されてしまい、劉岳は石梁で粘ったものの、ついには後趙軍に捕えられてしまった。このような動向からすると、劉岳が陥落する以前にすでに李矩らが絶望していたとしても、まったく不思議ではなく、『資治通鑑』のようにどちらも同月とみなさなければならないわけではない。、人々はみな道中で逃亡してしまい、郭誦、参軍の郭方、功曹の張景、主簿の苟遠、将軍の騫韜、江覇、梁志、司馬尚、季弘、李瓌、段秀ら百余人だけが家を棄てて李矩を送った。魯陽県に着いたところで、李矩は落馬して死んだ。襄陽の峴山に埋葬された。

邵続・李矩段匹磾・魏浚(附:魏該)・郭黙

  • 1
    このとき、成都王らは羊皇后の父の羊玄之と皇甫商の討伐を名目に掲げて挙兵していた(成都王穎伝、皇甫重伝、外戚伝・羊玄之伝)。おそらくこのことを言っているのだろう。
  • 2
    後文の展開からみて、人質の意味あいが含まれているようである。
  • 3
    段匹磾は石勒が王浚を破って襄国へ帰還してまもなくに薊へ入ったものと考えられる。段匹磾伝の訳注を参照。
  • 4
    『資治通鑑』は建興二年、すなわち永嘉の乱後のことで、劉琨はまだ并州におり、段匹磾はすでに幽州刺史として薊にいたころのこととする。本伝に明記されていないが、段文鴦は薊に戻らず、このまま厭次に留まったと推測され、のちに廩丘の劉演を救援したさいも(劉琨伝附演伝を参照)、厭次から出撃して厭次へ戻ったものと思われる。
  • 5
    元帝紀によれば太興三年二月のこと。
  • 6
    邵続に降服を説得させたということ。
  • 7
    生き残りの晋人。ここでは元帝ら東晋朝の者たちをいう。
  • 8
    海が陸地に入りこんだ所。湾。(『漢辞海』)
  • 9
    原文「国有常刑」。「反逆者は誅罰する」というニュアンスの文句。おそらく『周礼』に由来する成語で、たとえば夏官、大司徒に「正歳、令于教官曰、『各共爾職、脩乃事、以聴王命。其有不正、則国有常刑』」とあり、「王命」に従わない者には「常刑」があるぞ、という警告として使用されている。また、ほかの史書の用例を確認すると、多くは罪を犯したり人倫にもとったりした者に対して言われる決まり文句として使われている。「常刑」は「典刑」などとおそらく同義で、時代や国を超えて共通する普遍的な刑罰の意だと思うが、美的な典故表現で用いているだけのように思われるので、それほど意味を深く考える必要はないかも。「反逆したなんじには誅殺が待ち受けているが、それはわかっているよな」ということであろう。
  • 10
    原文「帝王之興、蓋惟天命所属、徳之所招」。逐語的には「天命が集まることは、徳が招き寄せることである」という意味だと思うが、訳文がぎこちなくなるので意訳した。
  • 11
    邵続は後趙内で「囚」と自称していたようである。『太平御覧』巻六四四、拲に引く「趙書」に「後石率精騎五千、襲邵続、一戦生禽続於青丘。鉗頸拲手、於襄国青陽城門、頓頭称囚」とある。
  • 12
    釁鼓は犠牲の血で太鼓を塗って祀るという意。『左伝』僖公三三年の杜預注に「殺人以血塗鼓、謂之釁鼓」とある。史漢以降の用例を確認すると、おおまかには出陣前の祭礼と戦勝後の祭礼との二つの用例がみえる。前者は「衆莫敢為、乃立季為沛公。祠黄帝、祭蚩尤於沛庭、而釁鼓旗、幟皆赤」(『史記』高祖本紀)、「立秋、万物将成、殺気之始、其於王事、杖麾誓衆、釁鼓礼神、所以討逆除暴、成功済務、寧宗廟社稷、致天下之福」(『晋書』張軌伝附重華伝)など。後者は「斬温禺以釁鼓、血尸逐以染鍔」(『後漢書』竇融伝附憲伝)など。おそらくこれらの用法から転じて、端的に「誅殺を加えること」を意味する場合もみられる。「〔胡母〕班与〔王〕匡書云、『……而足下独囚僕于獄、欲以釁鼓、此悖暴無道之甚者也」(『三国志』袁紹伝の裴松之注に引く「謝承後漢書」)、「参軍王嶠以敦誅〔周〕顗、諫之甚切、敦大怒、命斬嶠、時人士畏懼、莫敢言者。〔謝〕鯤曰、『明公挙大事、不戮一人。嶠以献替忤旨、便以釁鼓、不亦過乎』。敦乃止」(『晋書』謝鯤伝)。本伝はおそらく最後の「誅殺」の意で用いられており、「反逆の罰として誅殺をこうむるのも、私の運命ですから進んで受け入れます」ということだと思われる。
     なお、ここの文は「釁鼓之刑、囚之恒分」だが、これは徐光の「国有常刑、於分甘乎」に対応した返答だと考えられる。これと酷似したやり取りが禿髪利鹿孤載記にみえ、「〔禿髪〕傉檀執〔孟〕禕而数之曰、『……国有常刑、於分甘乎』。禕曰、『……釁鼓之刑、禕之分也』」とある。正史では本伝とこの載記の例しか検出できていないが、文言があまりに一致しているため、この時期に広く行われていた定型表現だった可能性がある。
  • 13
    後日談だが、邵続の拠っていた厭次の城は、後趙が邵続平定を記念して邵平城と改名し、のちにたんに邵城と呼ばれるようになったのだという。『太平寰宇記』巻六四、棣州、厭次県、邵城を参照。
  • 14
    おそらく、この当時の慣習である「送故迎新」――地方官の人事があったさい、当地の吏が赴いて新任者を迎え、離任者を送ること――のことだと思われる。周一良氏も送故の例として本伝を挙げている(周氏『魏晋南北朝史札記』中華書局、一九八五年)。
  • 15
    後文によれば斉万年の乱の前のこと。梁王は二度、関中に出鎮しているが、恵帝紀によると最初は元康元年、二度目は元康六年である。梁王は最初の出鎮後まもなくに中央に召され、代わって関中には趙王倫が出鎮することになったのだが、同六年、激化する非漢族の反乱に趙王では対応できなかったため(趙王倫伝)、ふたたび梁王が関中に出鎮したらしい。李矩は斉万年の制圧に関与したと後文にみえることと、梁王のこういう経緯とを合わせると、李矩が梁王の牙門になったのは二度目の元康六年のことである可能性が高い。
  • 16
    以後、李矩は新鄭県(滎陽郡)に留まりつづける。
  • 17
    本伝の時系列的にはすでに劉淵は死んでいるはずで、『資治通鑑』も以下の記事を建興二年にかけているが、郭黙伝でも本伝同様、このとき劉淵は生きていることになっている。匈奴劉氏程度の意味あいかもしれない。
  • 18
    原文「乞帰於矩」。うまく日本語に訳せないのだが、つまり李矩のいる滎陽に行きたいと求めたということ。当時、郭黙は河内の懐県に拠っていた。
  • 19
    郭黙伝をふまえると、このとき郭黙は劉曜に包囲されている。郭誦が「不敢進」というのもかかる情勢ゆえであったと考えられる。『資治通鑑』は「兵少、不敢進」とする。
  • 20
    当時、劉琨はまだ并州の陽邑(陽曲)に駐留していたが、北に進めなかったということだろうか。『資治通鑑』は本伝の「将還依邵続」を削っている。
  • 21
    原文「公家之事、知無不為」。『左伝』僖公九年に「公曰、『何謂忠貞』。〔荀息〕対曰、『公家之利、知無不為、忠也。送往事居、耦俱無猜、貞也』」とあるのが出典らしい。『晋書』にそこそこ用例がある。
  • 22
    出典捜索中。民が善導されて悪人がいなくなったということの比喩表現?
  • 23
    愍帝紀によると建興五年二月のこと。
  • 24
    いったん李矩が劉暢に降ったので、郭芝も兵を収めて戻っていたのであろう。
  • 25
    一連の経緯は劉聡載記にも記載があり、おおむね符合しているが、劉聡載記では李矩軍退却時に大勝を得た(李矩軍に大きな損害が出た)と記されている。
  • 26
    元帝紀によると、都督司州、司州刺史は太興元年六月、劉聡が死んだのが同年七月、劉粲が殺されたのは同年八月で、時系列がおかしくなっている。
  • 27
    『資治通鑑』は「矩使潁川太守郭黙将兵入洛」とし、郭黙自身が洛陽に入ったかのように記している。
  • 28
    『資治通鑑』は北に黄河を渡ったと記している。
  • 29
    一連の経緯は劉曜載記にも記されており、それによると李矩は金墉城を落としたらしい。『資治通鑑』は趙固死後の年代(太興三年二月)にかけている。
  • 30
    『資治通鑑』太興二年の条に「趙固死、郭誦留屯陽翟、石生屢攻之、不能克」(石勒載記下、略同)とある。「留屯陽翟」とは本伝の陽翟令を指すのであろう。こののち、『資治通鑑』によると明帝の太寧二年に「石生寇許潁、俘獲万計。攻郭誦于陽翟、誦与戦、大破之、生退守康城。後趙汲郡内史石聡聞生敗、馳救之、進攻司州刺史李矩、潁川太守郭黙、皆破之」(石勒載記下、略同)という戦闘もあった。本伝の記述は以上に引用した記録をすべて混合したものであるかもしれない。
  • 31
    郭黙は洛陽に入って以後、どこに駐留していたのかよくわからないが、本伝後文に「自密南奔建康」とあり、密県に留まっていたのかもしれない。
  • 32
    原文「後患」。「後日の憂い」だと意が通らないので、訳文のように「背後の憂い」と読んだ。前趙劉氏を指すか。
  • 33
    曹嶷が殺されたのは明帝紀によると太寧元年八月。しかし猗盧はすでに愍帝の建興四年に没しており、たんに拓跋氏を指してこう言っているか。『魏書』の序紀から石勒関連の記述を探してみると、平文帝(鬱律)の三年(晋の元帝の太興二年)に「石勒自称趙王、遣使乞和、請為兄弟。帝斬其使以絶之」とあり、恵帝(賀傉)の元年(晋の元帝の太興四年)に「遣使与石勒通和」とあるが、晋の明帝の太寧元年(魏の恵帝三年)にはとくに記録がない。本文の「去年」の記述には合致しないが、魏の恵帝元年の通交を指して言っているとみるのがよさそうである。
  • 34
    『太平御覧』三五九、鞭に引く「蕭方等三十国春秋」には「石勒遣石虎率精騎五千、掩李矩営、生執矩外甥郭謂(「誦」の誤りか)之弟元。教元作書、与謂説云、『去年東平曹嶷、西賓猗盧、矩如牛角、何不帰命』」とあり、郭元が書簡を作成し、郭誦を説得したのだと記している。本伝も書簡の作成者は郭元と読めなくもないが、説得対象者は明らかにちがっている。
  • 35
    王陵は前漢はじめの人。『史記』、『漢書』に立伝。漢の高祖と項羽が戦争をはじめると、王陵は高祖に従ったが、母親は項羽の人質になってしまった。母親は項羽のもとにつかわされた王陵の使者に対し、決して高祖を裏切ってはならないと伝言して自殺した。
  • 36
    明帝紀、太寧二年十月の条に「是時、石勒将石生屯洛陽、豫州刺史祖約退保寿陽」とある。『資治通鑑』に従うと、郭黙の入洛は太興三年二月のこと。それからこの石生の洛陽駐屯までの間、洛陽の帰属は不明である。郭黙はすでに洛陽から去っていた可能性が高そうなので(前注を参照)、郭黙軍がこの直前まで留まっていたか、じつは石生はすでに入洛していたか、誰も駐屯していなかったか、いずれも考えられる。
  • 37
    石勒載記下には「李矩以劉岳之敗也、懼、自滎陽遁帰。矩長史崔宣率矩衆二千降于〔石〕勒」とある。
  • 38
    明帝紀によれば太寧三年四月のこと。なお明帝紀によると、後趙軍が劉岳を下したのは同年六月のことで、李矩は劉岳陥落以前に遁走したことになる。『資治通鑑』はどちらも六月のこととする。劉曜載記を参照すると、劉岳は当初こそ後趙軍相手に勝利を得ていたものの、石虎軍に喫した敗北で負傷し、以後は石梁で籠城した。劉岳の応援軍はことごとく撃破されてしまい、劉岳は石梁で粘ったものの、ついには後趙軍に捕えられてしまった。このような動向からすると、劉岳が陥落する以前にすでに李矩らが絶望していたとしても、まったく不思議ではなく、『資治通鑑』のようにどちらも同月とみなさなければならないわけではない。
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