巻六十三 列伝第三十三 段匹磾 魏浚 郭黙

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邵続・李矩段匹磾・魏浚(附:魏該)・郭黙

段匹磾

 段匹磾は東部の鮮卑である1段氏の名の漢字表記は史料によってちがっている。匹磾疋磾(『北史』徒何段就六眷伝)。【匹磾父】務勿塵(王沈伝附王浚伝)=務目塵(『北史』徒何段就六眷伝)。【匹磾兄】疾陸眷(王沈伝附王浚伝)=就六眷(石勒載記上、『北史』徒何段就六眷伝)=(元帝紀、慕容皝載記附陽裕載記)。【匹磾従弟】末杯末波(諸帝紀、盧欽伝附諶伝、劉琨伝、仏図澄伝、慕容瘣載記、『北史』徒何段就六眷伝)=末柸(王沈伝附王浚伝、石勒載記上)。【匹磾叔父】渉復辰(石勒載記上)=(元帝紀)。。種類(段部)は強健で、代々、大人であった。父の段務勿塵は、軍を派遣して東海王越による〔河間王顒らの〕征討を助け、功績があったので、王浚は上表して、親晋王とし、遼西公に封じることを求め、また〔王浚は〕娘を段務勿塵に嫁がせ、隣接の援助を結んだ。懐帝が即位すると、段務勿塵を大単于とし、段匹磾を左賢王とした。〔段務勿塵は〕部衆を率いて国家(晋)の征討を助け、撫軍大将軍を授けられた。段務勿塵が死ぬと、〔段務勿塵の〕弟の段渉復辰は段務勿塵の子の段疾陸眷に号2単于もしくは務勿塵の官爵。を継承させた。
 劉曜が洛陽に迫ると、王浚は督護の王昌らを派遣し、段疾陸眷、弟の段文鴦、従弟の段末杯を統率させ、石勒を襄国で攻めさせた。石勒は敗北し、軍塁に帰還しようとしたので、段末杯は追って軍塁の門に入ったが、石勒に捕えられてしまった。石勒は段末杯を人質とし、使者をつかわして段疾陸眷に和睦を求めた3石勒載記上では、段氏から和睦を求めてきたのであり、石勒の諸将はそれに反対したが、石勒は受け入れたのだと記している。。段疾陸眷はこれを承認しようとしたが、段文鴦は諫めて言った、「命令を受けて石勒を討伐しているのに、段末杯一人をもって、捕えることのできる賊を見逃そうというのですか。〔そんなことをしてしまえば〕王浚を失望させるだけでなく、後日の憂い(のちに王浚と敵対することのちに石勒が危害をなすであろうということ(2022/3/5:修正))をも残してしまうでしょう。絶対に承認してはなりません」。段疾陸眷は聴き入れず、鎧馬二百五十匹、金銀それぞれ簏(竹で編んだ箱)ひとつ分で段末杯を贖った4石勒載記上には「并以末柸三弟為質而請末柸」とあり、三人の弟を末杯の代わりの人質に差し出したようである。。石勒は段末杯を帰すと、さらに金宝や綵絹(あやぎぬ)を段疾陸眷に手厚く贈って返礼した5なお、このとき石勒は段末杯と父子の誓約を交わしたらしい。石勒載記上に「命段末柸為子。……末柸感〔石〕勒厚恩、在途上日南而拝者三」とあり、『北史』徒何段就六眷伝に「〔石勒〕置之(末杯)座上、与飲宴尽歓、約為父子、盟誓而遣之。……自此以後、末波常不敢南向溲焉。人問其故、末波曰、『吾父在南』。其感勒不害己也如此」とある。。段疾陸眷は段文鴦に石季龍と盟を結ばせ、誓約して兄弟となると、そのまま騎兵を率いて帰還してしまった。王昌らは単独で踏みとどまることができなかったので、同様に帰還した。
 建武のはじめ、段匹磾は劉琨を大都督に推戴し、〔劉琨と〕盟を結んで石勒討伐を誓約し、あわせて段渉復辰、段疾陸眷、段末杯らに檄を発し、三方面から同時に襄国へ集合するよう命じた。劉琨と段匹磾は進軍して固安に駐屯し、大軍の到着を待った。石勒は恐懼し、間者をつかわして段末杯に手厚い金品を贈った。段末杯は石勒への旧恩に報いようと思っていたうえ、段匹磾が〔段氏の国の〕外にいるのに乗じて、段氏の国を襲って奪おうと考えたので、段匹磾を段渉復辰および段疾陸眷と離間させようとして〔段渉復辰らに〕言った、「父兄であるのに子弟に従うのですか6段匹磾からみれば、段疾陸眷は兄であり、段渉復辰は叔父にあたる。。にわかに功績をあげたとしても、匹磾が独り占めするでしょう」。段渉復辰らはもっともだと思い、軍を率いて帰還した。段匹磾も〔戦争を〕中止した。ちょうど段疾陸眷が病死したので、段匹磾は薊から喪にかけつけ帰郷して葬儀にかけつけ(2020/12/16:修正)、右北平に着いた。〔すると〕段末杯は段匹磾が国を簒奪しようとしていると言いふらし、軍を出して段匹磾を攻め破った。段末杯はしまいに段渉復辰とその子弟や党与二百余人を殺し、みずから単于に立った。
 王浚が敗れると、段匹磾は領幽州刺史となった7段匹磾がどういう経緯で幽州刺史を領し、薊に駐留するようになったのかは本伝に明記されていないが、石勒載記上によると、石勒は王浚を殺したのち、「以晋尚書劉翰為寧朔将軍、行幽州刺史、戍薊。……勒既還襄国、 劉翰叛勒、奔段匹磾」とあり、劉翰を幽州刺史に就け、薊に駐留させたが、石勒が襄国へ戻るとすぐにそむいて段匹磾に奔ったという。『資治通鑑』は「劉翰不欲従石勒、乃帰段匹磾、匹磾遂拠薊城」とし、このときに段匹磾が薊に拠ったとする。劉翰については、慕容皝載記附陽裕載記に「石勒既克薊城、問棗嵩曰、『幽州人士、誰最可者』。嵩曰、『燕国劉翰、徳素長者。……』」とあり、おそらくもともとは王浚に仕えており、王浚の滅亡後、石勒によって後任の幽州刺史に抜擢されたのであろう。元帝紀所載の勧進表にも名が見えている。。劉琨が并州から〔逃れて〕段匹磾に頼り、ふたたび段匹磾と盟を結び、ともに石勒を討伐しようとした。段匹磾はふたたび段末杯に敗れ8この段落のはじめからここまでは、前段落と重複している。というより厳密には、ここの文中には「復」(ふたたび)とあるので、時系列の整理に混乱が生じてしまっているようである。、兵士は離散した。劉琨が自分を殺そうと謀っているのではないかと心配になり、とうとう劉琨を殺してしまったので、こうして晋人は離散してしまったのであった。段匹磾は守りを固めることができなくなったので、逃げて邵続を頼ったが、段末杯がふたたび攻めて段匹磾を破った9本伝は省略されているらしいが、邵続のもとへ逃げるのは一度未遂に終わっている。すなわち石勒載記上に「〔段匹磾〕因害太尉劉琨、琨将佐相継降勒。末柸遣弟騎督撃匹磾于幽州、匹磾率其部衆数千、将奔邵続、勒将石越要之于塩山、大敗之、匹磾退保幽州」とあり、太興元年の劉琨殺害直後、段末杯がさらに攻めて来たので邵続への逃走をはかったが、道中で石勒軍に迎撃され、幽州へ戻ったというものである。本伝に記されているのはこの出来事を指すのであろう。このあと、『資治通鑑』によれば太興二年四―五月になって「孔萇攻幽州諸郡、悉取之。段匹磾士衆飢散、欲移保上谷、代王鬱律勒兵将撃之、匹磾棄妻子奔楽陵、依邵続」(『北史』徒何段就六眷伝、略同)といい、邵続のもとへ逃げた。本伝ではこの過程が省かれているようである。劉琨伝に掲載されている盧諶らの上表には「匹磾遂欲尽勒胡晋、徙居上谷。〔劉〕琨深不然之、勧移厭次、南憑朝廷。匹磾不能納、反禍害父息四人、従兄二息同時并命」とあり、段匹磾が上谷に移動しようとしたのは劉琨殺害の直前だと述べており、『資治通鑑』や『北史』らと異同がある。。段匹磾は負傷し、邵続に言った、「私は夷狄であるのに義を慕ったために、家を破滅に追いやってしまった。君が旧要(むかしの約束?)を忘れていないのならば、私といっしょに進んで〔段末杯を〕討ってくれないか。君の慈愛をめぐんでほしい」。邵続、「公の威徳を頼りにして、続(わたし)は節義を貫くことができているのだ。いま、公に困難がふりかかっているのに、協力をしぶることなどありましょうか」。ついに力を合わせて段末杯を追撃し、〔段末杯軍の〕ほぼ全員を斬首するか捕獲した10『資治通鑑』はこの戦闘を太興三年正月にかけている。つまり、『資治通鑑』の時系列に従えば、段匹磾が厭次へ逃げてから約一年後のことである。本伝の展開のままに読むと、厭次へ逃げる段匹磾を段末杯が追ってきて、かろうじて逃げおおせた段匹磾が邵続に協力を要請し、帰還していく段末杯を追撃した、という話に読めるが、『資治通鑑』が正しければそういうわけではないようである。あくまで『資治通鑑』の整理が正しければ、段匹磾が厭次へ逃げてからも段匹磾と段末杯とのあいだには小競り合いがあったということなのかもしれないし、そもそも「段末杯を追撃し」たという本伝の記述は誤っていて、幽州にのさばっていたらしく思われる段末杯の討伐に向かったということなのかもしれない(邵続伝のほうはそういうニュアンスの記述になっている)。。また段文鴦を北に進ませて、段末杯の弟を薊城で討伐させた11『資治通鑑』胡三省注は「匹磾奔邵続、薊為石氏所破」というが、本伝のこの記載に従うと、薊は段末杯ら段部が占拠していたようである。どちらが妥当かは判断しかねるが、段末杯が厭次近辺まで段匹磾を追い回していたというのなら、薊は段末杯らの勢力下にあったと考えるのが適当なように思う。。帰路につき、〔厭次の〕城から八十里のところで、〔段匹磾らは〕邵続がすでに石勒に没したことを知った12本文にそのまま従うと段匹磾は薊まで行っていないかのごとくだが、邵続伝に「匹磾率衆攻段末杯、石勒知続孤危」とあるのをふまえると、段匹磾もろとも段氏が不在であったからこそ石勒は邵続討伐に着手したのだと思われる。『資治通鑑』には「匹磾与弟文鴦攻薊」とあり、『太平御覧』巻四三五、勇三に引く「王隠晋書」にも「段疋磾召弟文鴦、還厭次」とある。薊にまでは行っていなかったとしても、少なくとも厭次の外にはいたのであろう。。軍は恐懼して逃げ散ってしまい、さらに石季龍に遮られたが、段文鴦は側近の兵数百人を率いて力戦し、これを破ったので、ようやく〔厭次の〕城に入ることができた。石季龍はさらに城下で掠奪しており、段文鴦は城壁に登ってそれを眺めると、出動してこれを攻めようとしたが、段匹磾は許可しなかった。段文鴦、「私は勇猛をもって名をあげています。だから百姓は私を頼りにしているのです。民が掠奪を受けているのを見ていながら、それを救わないのは丈夫ではありません。民を失望させてしまえば、私たちのために命を投げ出してくれる者はいなくなります」。とうとう壮士数十騎を率いて出撃し、ひじょうに多くの胡人を殺した。ちょうど馬が疲労してしまい、倒れて起ち上がれなくなった13『太平御覧』巻四三五、勇三に引く「王隠晋書」には、段文鴦出撃から馬がつぶれるまでの経緯がもう少し詳しく見えている。それによると、段文鴦が数十騎で出撃して後趙軍を圧倒すると、段文鴦はそれを追撃し、段匹磾が歩兵を率いてそれに続いたが、そこに石虎の伏兵が現れた。段文鴦は力戦し、段匹磾のもとへ戻ろうとしたが、すでに段匹磾は退いてしまっていていなかった。そしてちょうど馬が疲労で倒れてしまった、という。「石虎来、先縦騎抄城左右。鴦登城臨見、不勝其勇、欲出撃胡、磾疑有伏、不聴出。民出、大為胡所殺掠。鴦単将壮士数十騎出撃、胡所殺甚多。胡騎退、鴦追躡、磾率歩継鴦、虎伏騎起、磾鴦力戦、殺胡数十。鴦還赴磾、磾已散還。鴦所乗馬乏頓」とある。。石季龍は呼びかけた、「大兄は私と同じように戎狄だ。ひさしく行動をともにしたいと願っていたものよ。天はその願いにたがわず、こんにちあいまみえたのに、どうして戦いをつづけるのか。頼む、武器を捨ててくれ」。段文鴦は罵った、「おまえは悪逆な賊だ。ひさしいあいだ、死がふさわしかったものよ。兄(段疾陸眷)が私の計略を採用しなかった14段末杯が石勒の人質になったときの一件を指すと考えられる。ために、おまえをここまでのさばらせてしまった。おまえの捕虜になるくらいなら、死を選ぶさ」。そのまま馬を下り、死を賭して戦い、槊が折れたので刀を手にして力戦し、戦うことを止めなかった。石季龍の軍は四方で馬の羅披15絹でつくった馬の外套のことか。『資治通鑑』胡三省注は「意即障泥」とする。を外して障壁をつくり、前方で段文鴦を捕えた。段文鴦は辰から申の刻まで戦い、力尽きてから捕えられたのだった。城内はおおいに恐懼した16段匹磾らが入城してまもなくの出来事のように読めるが、『資治通鑑』によれば邵続が捕えられたのは太興三年二月(元帝紀も同じ)、段文鴦が捕えられたのは太興四年の三月―四月ころである(なお元帝紀によれば段匹磾陥落は太興四年四月)。つまり、段氏は入城してから一年ちかくは踏みとどまっていたことになる。また段匹磾らが降ったときの戦闘について、石勒載記下に「石季龍攻段匹磾于厭次」とあることからうかがうと、後趙軍はずっと厭次を包囲していたわけでもないようであり、『資治通鑑』はこれ以前の太興三年六月にも「後趙孔萇攻段匹磾、恃勝而不設備、段文鴦襲撃、大破之」(石勒載記下、略同)と、戦闘があったことを記している。
 段匹磾は単騎で朝廷(建康)に帰そうとしたが、邵続の弟である楽安内史の邵泪が兵を従えて許さなかった。邵泪はまた、台使(晋の使者)の王英を捕えて石季龍に送ろうとしたので、段匹磾は顔色を正して譴責した、「卿は兄の志を遵守できず、私を脅して朝廷に帰させなかった。これらもひどいものだが、そのうえ天子(元帝)の使者を捕えようとすることなど、私は夷狄であるとはいえ、いまだ聞いたことがないおこないだ」。そして王英に言った、「匹磾は〔先帝以来〕代々、厚い恩を蒙り、忠孝を忘れることはありませんでした。しかしこんにち、事態は逼迫し、朝廷に罪を自首しようと思っても、脅迫を受けてしまい、忠誠を完遂できません。もし、しばしの休息を得られるのでしたら、生きているかぎり、心は根本(晋朝)を忘れたりしません」。〔王英は〕とうとう黄河を渡って南へ向かった17原文「遂渡黄河南」。この一文が意味するところはよくわからない。段匹磾が南に向かったのであればそれは晋朝へ向かったことを意味するのだが、後文では石虎に面会している。石勒載記下には「匹磾勢弱、乃率其臣下輿櫬出降」とあり、やはり石虎に降っている。「晋朝へ向かおうとしたがまたも失敗し、けっきょく石虎に降った」という可能性もあるが、後文に「出見季龍」とあるのを考えると、この文は王英が主語なのかもしれない。さしあたりそういう解釈のほうが後文との整合性も取れるので、そのように訳出した。。段匹磾は朝服を着用し、節を持ち、賓客と従者を従え、〔城を〕出て石季龍に接見し、言った、「私は国家(晋)の恩を授かっており、志はおまえたちを滅ぼすことである。不幸にも、わが国(晋?)は自壊したため、こんにちの事態(石氏への投降)に至ってしまった。死ぬこともできないが、おまえたちに敬礼することもできない」。石勒と石季龍はもともと段匹磾と兄弟の関係を結んでいたので、石季龍は起立して拝礼した。段匹磾は襄国に到着したが、石勒にも敬礼しなかった。いつも朝服を着用し、晋の節を持っていた。しばらく経ち、国内(後趙国内?)で段匹磾を主人に推戴する謀略がくわだてられたが、事が露見し、〔段匹磾は〕殺された。段文鴦もまた毒に当たって死に、段末波(段末杯)だけが生き残った。〔段末杯が〕死ぬと、弟の段牙が立った。段牙が死ぬと、そのあとは従祖の段就陸眷の孫である段遼が立った18『北史』徒何段就六眷伝には「国人因立陸眷弟護遼為主」とあり、かなりちがっている。『北史』の「陸眷」は段末杯の従祖で、務勿塵の伯父にあたる日陸眷を指している。本伝の「就陸眷」は末杯の従祖とあることからみて、末杯の兄の疾陸眷のことではなく、日陸眷の誤記であろう。ただ世代的には、疾陸眷の孫であっても違和感はないので、「従祖」の記述のほうが間違っているのかもしれない。実際、『資治通鑑』は「段疾陸眷之孫遼」とする。
 段務勿塵より以後、〔段氏は〕晋の混乱に遭遇し、位号(官位と称号)を自称し、遼西の地を占有し、そのうえ晋人を臣従させた。占有していた地は、西は幽州全域におよび、東は遼水までであった。そして統べていた胡人と晋人は約三万余家、控弦(兵士)は約四、五万騎であり、石季龍と交互に侵略しあい、兵を集めて〔戦争し〕止むことがなかったが、最終的には石季龍に破られ、〔石季龍は〕段氏の遺民数万家を司雍の地(河南から関中)に移した。段遼の子の段蘭はふたたび兵を集め、石季龍とひさしいあいだ患害(戦争)を起こした。石氏が滅ぶと、段末波(段末杯)の子の段勤は胡羯を集め、一万余人を得ると、枉人山にこもり、趙王を自称し、慕容儁に帰順した19石季龍載記などを参照すると、段勤は後趙に仕えていたようである。おそらく後趙の末期、冉閔が権力を掌握すると後趙の将はあいついで鄴から離れたが、彼もその一人だったのだろう。そのさい、慕容儁の庇護下に入ったのだと思われる。。たちまち冉閔に敗北したので、繹幕に移り、僭越して帝号についた20『資治通鑑』によると趙帝を自称したという。。慕容儁が慕容恪を派遣して段勤を攻めさせると、段勤は恐懼して降った。

魏浚(附:魏該)

 魏浚は東郡の東阿の人であるが、関中に客寓していた。最初は雍州の小吏となったが、河間王顒が敗北するさい、武威将軍になった。のちに度支校尉となり、有能であった。永嘉の末年、流人数百家とともに東に向かい、河陰の硤石にこもった。このころ、京師は凶作であったので、魏浚は掠奪して穀物を手に入れ、懐帝に献上した。懐帝は〔魏浚を〕揚武将軍、平陽太守とし、度支校尉はもとのとおりとしたが、戦乱を理由に就任しなかった。
 洛陽が陥落すると、洛水の北の石梁塢に駐屯し、晋の遺民をいたわり、少しずつ兵器を修理した。賊に帰順している者には、みなにまず説得し、大晋の暦数は永続するのであり、運勢はすでに確立していると説いたところ、魏浚に帰順する者は多数であった。遠方であるのを恃んで命令に従わない者には、将を派遣してこれを討伐させ、服従させるだけで、暴力は加えなかった。こうして、遠近の人々みなが喜び、幼児を背負ってやって来る者もしだいに多くなった。
 劉琨が承制すると21劉琨伝をみても承制の話は出てこないが、ほかにも芸術伝・続咸伝に「永嘉中、歴廷尉平、東安太守。劉琨承制于并州、以為従事中郎」とみえるし、また劉琨伝に徐潤を晋陽令に任じたこと、李矩伝と郭黙伝に郭黙を河内太守に任じたことが記されているので、承制していた可能性が高いのだろう。、魏浚に河南尹を授けた。当時、太尉の荀藩は密県に行台を建てていた。魏浚が荀藩のところへ行くと、軍事について諮問を受けた。荀藩は〔その回答に〕ひじょうに喜び、李矩を招いて引き合わせようとした。李矩は夜に出かけようとしたが、李矩の官属は、魏浚は信頼できないから夜に行くのはよろしくないと諫めた。李矩は、「忠臣は心を同じくするもの。どうして疑うのか」と言った。会合になると、客人も主人も心より歓談し、魏浚はこの機に李矩と友情を結んで別れた。
 劉曜は魏浚が多くの人々を集めていることを嫌がり、大軍を率いて魏浚を包囲した。劉演と郭黙は軍を派遣して救援したが、劉曜は兵を分けて黄河の北で〔応援軍を〕迎撃しようと思い、兵を深い隠し場所に伏せさせ、劉演と郭黙の軍を待ちうけさせると、これをおおいに破り、劉演らの騎兵をことごとく捕えた。魏浚は夜に遁走したが、劉曜に捕えられ、とうとうこれによって死んだ。平西将軍を追贈された。族子の魏該が魏浚の衆を統べた。

〔魏該〕

 魏該は別名を亥という。もともとは京兆の陰磐に客寓していた。河間王顒が趙王倫を討伐したさい、魏該を将兵都尉とした。劉曜が洛陽を攻めると、魏浚に随行して国難におもむき、率先して兵を率い、金墉城を守備した。そのため、〔金墉城は?〕無事を得た。劉曜が引きあげると、〔洛陽に〕残った人々は魏該を頼った22『資治通鑑』はこれを永嘉の乱、すなわち永嘉五年の洛陽陥落時のこととしている。
 当時、杜預の子の杜尹は弘農太守で、宜陽県の域内にある一泉塢に駐屯していたが、しばしば賊から掠奪を受けていた。杜尹は魏該を招き、いっしょに賊を防ごうと求めたところ、魏該は将の馬瞻を派遣し、三百人を統率させて杜尹のところへ行かせた。馬瞻は杜尹が無防備であることを知り、杜尹を夜襲して殺し、魏該を迎え入れて塢を占拠した。塢の民は震撼し、みな魏該に服従した。そして李矩や郭黙と関係を結んで賊に抵抗した。荀藩は魏該を武威将軍とし、城(一泉塢)の西方にいる雍涼出身の人々を統べさせ23原文「統城西雍涼人」。よくわからない。魏該の拠っていた塢について、『水経注』巻一五、洛水注に「洛水又東径一合塢南、城在川北原上、高二十丈、南北東三箱、天険峭絶、惟築西面即為固、一合之名、起于是矣。劉曜之将攻河南也、晋将軍魏該奔于此、故于父邑也」とあり、南・北・東は天然の要害で、西方にだけ人工的な城壁を築いた場所なのだという。自信のない解釈だが、雍州や涼州から避難してきた人々は塢の西方に集住していたということなのかもしれない。、劉曜を討伐させた。元帝が承制すると、〔魏該に〕冠軍将軍、河東太守を加え、督護河東・河南・平陽三郡とした。
 あるとき、劉曜が李矩を攻めたが、魏該が劉曜を破った。李矩が郭黙を迎えようとすると、魏該は軍を派遣してこれを助けた。また、河南尹の任愔とも連携した。のち、しだいに飢え、疲弊が溜まってゆき、劉曜軍の侵略が毎日やって来るので、〔魏該は〕部衆を率いて南へ移動しようとしたが、部衆は従わなかった。とうとう、魏該は単騎で逃げ、南陽にまで至った。元帝はまた前鋒都督、平北将軍、雍州刺史とした。馬瞻は魏該の余衆を率いて劉曜に降った。劉曜の徴発は苦痛なうえ、馬瞻も横暴であったから、部曲の人々(魏該の部衆)は使者をつかわして魏該を呼び戻した。魏該がこっそり出向くと、部衆は馬瞻を殺して魏該を受け入れた。魏該は新野に移動し、軍を率いて周訪を助け、杜曾を討伐して平定した。詔が下り、魏該を順陽太守とした24『南斉書』州郡志下、雍州に「雍州、鎮襄陽、晋中朝荊州都督所治也。元帝以魏該為雍州、鎮酇城、襄陽別有重戍」とあり、雍州刺史はもとのとおりだったようである(順陽の郡治は酇)。その後の経過は本伝に記されていないが、成帝紀、咸和元年十月の条に「劉曜将黄秀、帛成寇酇、平北将軍魏該帥衆奔襄陽」とあり、前趙に攻められて襄陽まで退いている。
 王敦が反乱すると、梁州刺史の甘卓は〔王敦に〕従わず、魏該の去就を観察しようと思い、試しに王敦の命だと言って魏該を出動させようとした。魏該は言った、「もともと、私が賊から離れた(賊に帰順しなかった)のは、ただ国家に忠誠を尽くそうと思ったからである。いま、王公(王敦)は挙兵して天子のもとへ向かっているが、私が与するべき行動ではない」。とうとう拒んで応じなかった。蘇峻が反乱すると、軍を率いて台(尚書台=中央政府)を救援し、石頭に駐屯して、陶侃の指揮を受けた。蘇峻の平定前に、魏該は病気が重くなったので〔もとの〕駐屯地に帰還することになり、道中で卒した25成帝紀、咸和三年六月の条に「平北将軍、雍州刺史魏該卒于師」とある。。武陵に埋葬された。従子(おい)の魏雄が魏該の部衆を統べた26石勒載記下に「〔石〕勒荊州監軍郭敬、南蛮校尉董幼寇襄陽。……敬入襄陽、軍無私掠、百姓安之。晋平北将軍魏該弟遐等率該部衆自石城降于敬」とあり、後趙軍が襄陽を落としたさい、魏該の弟の魏遐が魏該の部衆を率いて後趙に降ったという。成帝紀によれば咸和五年八月のことで、魏該が没してから二年後のことだが、この間に部衆の統領が交代したのかもしれない(魏遐が魏雄から勝手に離反してだけの可能性もあるが)。

郭黙

 郭黙は河内の懐の人である27『太平御覧』巻三八六、健に引く「又前趙録」(崔鴻十六国春秋)に「郭黙字玄雄、河内懐人」とある。。若いときは卑賤で、勇壮をもって河内太守の裴整に仕え、督将となった。永嘉の乱のとき、郭黙は遺民を率いてみずから塢主となり、漁船を使って東へ帰る旅人を掠奪し、しばらく経つと、ついには巨万の富を蓄え、流人で依存する者はしだいに増えていった。〔郭黙は〕将士をいたわったので、彼らの歓心をおおいに得ていた。
 郭黙の妻の兄は同郡(河内郡)の陸嘉であったが、官の米数石をくすねて妹に送った。郭黙は法に違反しているとみなし、陸嘉を殺そうとすると、陸嘉は恐れ、石勒のもとへ逃げた。すると郭黙は妻を射殺し、そうして私心がないことを証明した。〔郭黙は〕使者をつかわして劉琨に謁見させると、劉琨は郭黙に河内太守を加えた。劉元海は従子(おい)の劉曜を派遣して郭黙を討伐させた28劉聡載記と『資治通鑑』によれば、このとき劉曜は趙染らと長安を侵略したのだが、麹允、索綝らに敗れ、撤退する途中で郭黙を包囲したようである。『資治通鑑』は建興二年のこととする。。劉曜は三つの部隊に分けて郭黙を包囲し、餓死させようとした。郭黙は〔劉曜に〕妻子を送って人質とし、同時に食糧の購入を要請した。食糧の購入が終わると、防備を設けた29『水経注』巻九、沁水注に「沁水于〔武徳〕県南、水積為陂、通結数湖、有朱溝水注之。其水上承沁水于沁水県西北、……。朱溝自枝渠東南、径州城南、又東径懐城南、又東径殷城北。郭縁生『述征記』曰、『河之北岸、河内懐県有殷城』。……昔劉曜以郭黙為殷州刺史、督縁河諸軍事、治此」とあり、郭黙は劉曜から殷州刺史に任じられ、懐県の殷城を治所としていたという。本伝および李矩伝によると、郭黙はのちに李矩のいる滎陽へ帰し、彼と協力するようになった。郭黙が劉氏の刺史であったのはまだ郭黙が河内にいたとき、すなわち李矩に帰服する以前のことであると考えられ、タイミング的には本伝のここに記されている劉曜の包囲を受けたときではないだろうか。。劉曜は怒り、郭黙の妻子を黄河に沈めてから郭黙を攻めた。郭黙は弟の郭芝をつかわし、劉琨に救援を求めたが30当時の劉琨は晋陽こそ失ったものの、まだ并州の陽邑(陽曲)に留まっていた。、劉琨は郭黙が狡猾であるのを知っていたので、郭芝を留めて救援を引き延ばしていた。郭黙はさらに人をつかわして急を告げさせた。ちょうど郭芝は城を出て馬を洗っていたが、使者はむりやり〔郭芝を〕連れ帰ってきた。そして郭黙は郭芝を石勒に送り、人質とした。石勒は、郭黙は虚偽が多いことから、郭黙の書簡を封じて劉曜に送った。郭黙は人に機会を狙って石勒の書簡を盗ませると、〔劉曜の〕包囲を突破して李矩に身を投じた。のちに李矩と力を合わせて劉曜と石勒に抵抗した。その事跡については李矩伝を参照のこと。
 太興のはじめ、潁川太守に任じられた。郭黙は石怱と戦って敗北し、李矩はますます苦境におちいって衰弱した。郭黙は深く憂慮し、印綬を解いて参軍の殷嶠に授け、殷嶠に言った、「李使君(李矩)は私をたいへん厚く遇された。それなのにあろうことか、いま〔李君を〕見棄てて立ち去り、顔を合わせて謝罪することもしない。三日経ってから私がいなくなったことを話してくれ」。そして陽翟へ逃げた。李矩はこれを知るとおおいに怒り、将の郭誦を派遣して郭黙を追わせ、襄城で追いついた。郭黙は家族を棄て、単騎で逃げた。郭黙が京師(建康)に着くと、明帝は征虜将軍を授けた。劉遐が卒すると、郭黙を北中郎将、監淮北軍事、仮節とした。劉遐のもとの部曲の李龍らが謀反したので31劉遐の部曲は、劉遐の親族でない人間がトップに立つのが嫌だったようで、この人事に反発してまだ幼かった劉遐の子を推戴した。劉遐伝を参照。、詔を下し、郭黙と右衛将軍の趙胤にこれを討伐させて平定させた。
 朝廷は蘇峻を中央に召そうとしたが、蘇峻が乱を起こすことを心配したので、郭黙を〔中央に〕召して後将軍に任じ、領屯騎校尉とした。〔蘇峻が反乱を起こすと、郭黙は〕最初の戦闘で功績を建てたが、六軍が敗北すると南へ逃げた32成帝紀、咸和三年二月の条に「庾亮又敗于宣陽門内、遂携其諸弟与郭黙、趙胤奔尋陽」とあり、庾亮らと尋陽へ敗走している。このとき、尋陽には江州刺史の温嶠が駐屯しており(温嶠伝)、ともかく温嶠のもとへ向かったということであろう。庾亮らが尋陽に到着してのち、荊州刺史の陶侃も尋陽に着いて温嶠と庾亮に合流し(庾亮伝)、それから陶侃、温嶠、庾亮は石頭へ向かった(陶侃伝)。郭黙も庾亮と同様の経緯で蘇峻討伐軍に合流し、石頭へ向かったのだろう。それにしても、尋陽は南という感じがしないが、庾亮伝にも「南奔温嶠」とあるので、そういう方向感覚なのだろう。。郗鑑は議を奏し、曲阿の北の大業里に軍塁を築き、賊の勢力を分散させ、郭黙にこの軍塁を守備させるよう提案した33孔愉伝附坦伝に「時郗鑑鎮京口、〔陶〕侃等各以兵会。既至、〔孔〕坦議以為本不応須召郗公、遂使東門無限。今宜遣還、雖晩、猶勝不也。侃等猶疑、坦固争甚切、始令鑑還拠京口、遣郭黙屯大業、又令驍将李閎、曹統、周光与黙并力、賊遂勢分、卒如坦計」とあり、郭黙らを東方へつかわし、賊の勢力を分散させようとしたのは孔坦の立案という。郗鑑伝には「時撫軍将軍王舒、輔軍将軍虞潭皆受鑑節度、率衆渡江、与〔陶〕侃会于茄子浦。鑑築白石塁而拠之。会舒、潭戦不利、鑑与後将軍郭黙還丹徒、立大業、曲阿、庱亭三塁以距賊」とあるので、郗鑑と郭黙が東方へ行ったあと、郗鑑が大業塁の構築を提案したのだろ考えられる。陶侃伝、温嶠伝、蘇峻伝などによると、晋軍は石頭(蘇峻軍の本拠)の北にある白石に軍塁を築き、そこに主力を集めていたようである。陶侃伝に「賊攻大業塁、〔陶〕侃将救之、長史殷羨曰、『若遣救大業、歩戦不如〔蘇〕峻、則大事去矣。但当急攻石頭、峻必救之、而大業自解』。侃又従羨言。峻果棄大業而救石頭」とあることから察すると、蘇峻軍を分散させ、石頭の本軍を相対的に弱化するおとりのような役割を大業塁などはもっていたようだ。。蘇峻は韓晃らを派遣して郭黙を攻めさせた。〔その攻撃は〕いたって激しく、軍塁の中はひどい水不足であった。郭黙は恐れて、人馬を別々に分けて〔軍塁の〕外に出させると、〔みずからは〕ひそかに南門から出て、〔蘇峻軍の包囲を〕突破し、〔大業塁には〕人を留めて堅守させた34郗鑑伝に「而賊将張健来攻大業、城中乏水、郭黙窘迫、遂突囲而出、三軍失色」と、同趣旨の記述がある。。ちょうど蘇峻が死んだので、包囲が解かれた。〔郭黙は〕中央に召されて右軍将軍となった。
 郭黙は辺境の将になるのを望んでおり、宿衛の任は願っていなかった。徴召に応じるにあたって、平南将軍の劉胤35『建康実録』巻七、顕宗成皇帝、咸和四年の条に「徴西中郎将郭黙為右将軍、黙過江州、刺史劉胤不礼、送豚一頭、酒五斗」とあり、中央への赴任途中に江州に立ち寄り、江州刺史の劉胤と接見したようである。劉胤の無礼の話は本伝後文にも見える。に言った、「私は胡を防ぐことができるのに、〔その任には〕用いられない。右軍将軍は禁兵を管轄する職だが、国境に事件が起こり、出征の任をこうむれば、そこではじめて〔禁兵を〕支給されるのだから、将卒を実質的には有しておらず、〔私に対する〕恩義や信頼もはっきりしていない。この兵士で敵に臨めば、敗北しないことのほうがわずかであろう。現今は、官職のために適任の才能をもつ人間を選ぶべきなのだ。〔この逆に〕もし人臣がみずから官職を選ぶようなことがあったら、混乱を招かずにいられようか36どういうことが言いたいのかよくつかめないが、このたびの人事は自分の能力や適性をきちんと審査してないんじゃないのというグチであろうと思われる。」。劉胤、「おっしゃるとおりだが、小人(わたし)37『資治通鑑』胡三省注に「晋以後、文武之士率称小人、今西北之人猶然」とある。ではどうにもしようのないことだ」。出発にさいし、資金を劉胤に要望した38原文はここで途切れてしまっていて後文とのつながりも不明になってしまっているが、『資治通鑑』はつづけて「劉胤は与えなかったので、郭黙は劉胤をうらんだ(胤不与、黙由是怨胤)」とある。。このころ、劉胤は詔を下されて免官されたものの、すぐに出頭せず、みずから無罪の弁論をしているところであったが、傲慢と奢侈はいよいよ激しくなっていたので、遠近の者はこのこと(郭黙に資金を与えなかったこと)を不思議に思った。
 これ以前、郭黙が中央に召されて蘇峻を防ぐことになったとき、〔六軍が敗北すると、郭黙は〕長江を下って尋陽に駐留した。その地で劉胤にまみえたのだが、劉胤の参佐の張満らは郭黙を軽視し、裸で郭黙を接待した。〔このことを〕郭黙はいつも歯をかみしめて悔しがった。このとき(郭黙が江州に寄ったとき)になって、臘日に劉胤は郭黙へ酒一器と小豚一頭を贈ったが、郭黙は使者の目の前でこれらを川の中に投げ捨ててしまった。郭黙の憤懣はいよいよつのった。また僑人(北人)の蓋肫はこれより以前、祖煥が殺した孔煒の遺子を拉致し、妻としていたのだが、孔煒の家はその娘の返還を求めたので、張満らが〔娘を〕家に帰させようとしたところ、蓋肫は〔娘を〕渡さなかった。このことで、〔蓋肫は〕劉胤や張満と仲たがいが生じた。このとき(郭黙が江州に寄ったとき)になって、蓋肫は郭黙に言った、「劉江州(江州刺史の劉胤)が免官を受け入れないのは、ひそかに異心を抱いているからです。長史や司馬の張満、荀楷らと日夜にわたって策謀を練り、反逆はすでにはっきり現れていますが、ただ郭侯(郭黙)おひとりを恐れているがゆえに、『郭侯を先に排除してから事を実行するべきだ』と言っています。禍が降りかかろうとしていますから、備えを深くしておくのがよろしいかと思います」。郭黙はおおいに恨みを抱いていたから、すぐに部下を連れ、朝の開門を待って劉胤を襲撃した。劉胤の将吏は郭黙を防ごうとしたが、郭黙は彼らに大声で言った、「私は詔を授かってある者を討ちに来た。動く者は三族まで誅殺する」。そのまま入って内寝(居宅の寝室)寝室(2020/11/16:修正)に至った。劉胤はまだ妾と寝ていたが、郭黙は〔ベッドから〕引きずり下ろして劉胤を斬った。〔部屋から〕出ると、劉胤の僚佐の張満や荀楷らを取り押さえ、大逆であると誣告した。劉胤の首を京師に送り、詔書を偽造し、内外に宣示した39成帝紀によれば、郭黙が劉胤を殺したのは咸和四年十二月のこと。。劉胤の娘や妾を拉致し、あわせて金宝を奪い、船で帰還した。〔そのとき〕最初は都(建康)へ長江を下ると言っていたが、すぐに戻って来て劉胤の故府に留まり、桓宣と王愆期を招聘した。王愆期は脅迫を恐れ、郭黙に平南将軍、江州刺史となるのを勧めたところ、郭黙はそれに従った。そして王愆期は廬山へ逃れ、桓宣は〔武昌に〕こもって招きに応じなかった。
 司徒の王導は〔郭黙を〕統御できないことを心配したため、天下を大赦し、劉胤の首を大航(朱雀橋)でさらし、郭黙を西中郎将、豫州刺史40江州刺史の誤りである可能性が高い。中華書局の校勘記を参照。とした。武昌太守の鄧嶽は馬を走らせて太尉の陶侃に事のしだいを報告した。陶侃は経緯を知ると、袂を振り払って立ち上がり、「これ(劉胤の謀反)はまちがいなく偽りだ」と言った。即日、軍を率いて郭黙を討伐しに向かい、上疏して郭黙の罪悪を述べた。王導はこれを知ってから、劉胤の首を回収し、庾亮に詔を下し、陶侃を援助させて郭黙を討伐させた。郭黙は〔尋陽から〕南に行って豫章に拠ろうとしたが、陶侃がすでに城下に到着しており、土の山を築いて郭黙に対峙した41『資治通鑑』はもう少し詳しく、「郭黙欲南拠豫章、会太尉侃兵至、黙出戦不利、入城固守、聚米為塁、以示有余。侃築土山臨之」と記す。。諸軍がおおいに集合し、郭黙を何重にも包囲した。陶侃は郭黙の勇猛を惜しみ、彼を生かそうと思って、郭誦をつかわして郭黙にまみえさせたところ、郭黙は投降を了承した。しかし、郭黙の将の張丑、宋侯らは陶侃に殺されるのを恐れたので、〔郭黙を〕躊躇させたところ42原文「致進退」。自信はない。、〔郭黙は逡巡して〕時間内に〔城から〕出られなかった。〔陶侃は〕一転して郭黙を激しく攻めると、宋侯はとうとう郭黙を捕縛して投降を請うた。〔陶侃は〕即座に軍門で〔郭黙を〕斬り、郭黙の徒党で死ぬ者は四十人であった。〔郭黙の〕首は京師に送られた43成帝紀によれば、郭黙が斬られたのは咸和五年五月のこと。

 史臣曰く、(以下略)

邵続・李矩段匹磾・魏浚(附:魏該)・郭黙

(2020/11/15:公開)

  • 1
    段氏の名の漢字表記は史料によってちがっている。匹磾疋磾(『北史』徒何段就六眷伝)。【匹磾父】務勿塵(王沈伝附王浚伝)=務目塵(『北史』徒何段就六眷伝)。【匹磾兄】疾陸眷(王沈伝附王浚伝)=就六眷(石勒載記上、『北史』徒何段就六眷伝)=(元帝紀、慕容皝載記附陽裕載記)。【匹磾従弟】末杯末波(諸帝紀、盧欽伝附諶伝、劉琨伝、仏図澄伝、慕容瘣載記、『北史』徒何段就六眷伝)=末柸(王沈伝附王浚伝、石勒載記上)。【匹磾叔父】渉復辰(石勒載記上)=(元帝紀)。
  • 2
    単于もしくは務勿塵の官爵。
  • 3
    石勒載記上では、段氏から和睦を求めてきたのであり、石勒の諸将はそれに反対したが、石勒は受け入れたのだと記している。
  • 4
    石勒載記上には「并以末柸三弟為質而請末柸」とあり、三人の弟を末杯の代わりの人質に差し出したようである。
  • 5
    なお、このとき石勒は段末杯と父子の誓約を交わしたらしい。石勒載記上に「命段末柸為子。……末柸感〔石〕勒厚恩、在途上日南而拝者三」とあり、『北史』徒何段就六眷伝に「〔石勒〕置之(末杯)座上、与飲宴尽歓、約為父子、盟誓而遣之。……自此以後、末波常不敢南向溲焉。人問其故、末波曰、『吾父在南』。其感勒不害己也如此」とある。
  • 6
    段匹磾からみれば、段疾陸眷は兄であり、段渉復辰は叔父にあたる。
  • 7
    段匹磾がどういう経緯で幽州刺史を領し、薊に駐留するようになったのかは本伝に明記されていないが、石勒載記上によると、石勒は王浚を殺したのち、「以晋尚書劉翰為寧朔将軍、行幽州刺史、戍薊。……勒既還襄国、 劉翰叛勒、奔段匹磾」とあり、劉翰を幽州刺史に就け、薊に駐留させたが、石勒が襄国へ戻るとすぐにそむいて段匹磾に奔ったという。『資治通鑑』は「劉翰不欲従石勒、乃帰段匹磾、匹磾遂拠薊城」とし、このときに段匹磾が薊に拠ったとする。劉翰については、慕容皝載記附陽裕載記に「石勒既克薊城、問棗嵩曰、『幽州人士、誰最可者』。嵩曰、『燕国劉翰、徳素長者。……』」とあり、おそらくもともとは王浚に仕えており、王浚の滅亡後、石勒によって後任の幽州刺史に抜擢されたのであろう。元帝紀所載の勧進表にも名が見えている。
  • 8
    この段落のはじめからここまでは、前段落と重複している。というより厳密には、ここの文中には「復」(ふたたび)とあるので、時系列の整理に混乱が生じてしまっているようである。
  • 9
    本伝は省略されているらしいが、邵続のもとへ逃げるのは一度未遂に終わっている。すなわち石勒載記上に「〔段匹磾〕因害太尉劉琨、琨将佐相継降勒。末柸遣弟騎督撃匹磾于幽州、匹磾率其部衆数千、将奔邵続、勒将石越要之于塩山、大敗之、匹磾退保幽州」とあり、太興元年の劉琨殺害直後、段末杯がさらに攻めて来たので邵続への逃走をはかったが、道中で石勒軍に迎撃され、幽州へ戻ったというものである。本伝に記されているのはこの出来事を指すのであろう。このあと、『資治通鑑』によれば太興二年四―五月になって「孔萇攻幽州諸郡、悉取之。段匹磾士衆飢散、欲移保上谷、代王鬱律勒兵将撃之、匹磾棄妻子奔楽陵、依邵続」(『北史』徒何段就六眷伝、略同)といい、邵続のもとへ逃げた。本伝ではこの過程が省かれているようである。劉琨伝に掲載されている盧諶らの上表には「匹磾遂欲尽勒胡晋、徙居上谷。〔劉〕琨深不然之、勧移厭次、南憑朝廷。匹磾不能納、反禍害父息四人、従兄二息同時并命」とあり、段匹磾が上谷に移動しようとしたのは劉琨殺害の直前だと述べており、『資治通鑑』や『北史』らと異同がある。
  • 10
    『資治通鑑』はこの戦闘を太興三年正月にかけている。つまり、『資治通鑑』の時系列に従えば、段匹磾が厭次へ逃げてから約一年後のことである。本伝の展開のままに読むと、厭次へ逃げる段匹磾を段末杯が追ってきて、かろうじて逃げおおせた段匹磾が邵続に協力を要請し、帰還していく段末杯を追撃した、という話に読めるが、『資治通鑑』が正しければそういうわけではないようである。あくまで『資治通鑑』の整理が正しければ、段匹磾が厭次へ逃げてからも段匹磾と段末杯とのあいだには小競り合いがあったということなのかもしれないし、そもそも「段末杯を追撃し」たという本伝の記述は誤っていて、幽州にのさばっていたらしく思われる段末杯の討伐に向かったということなのかもしれない(邵続伝のほうはそういうニュアンスの記述になっている)。
  • 11
    『資治通鑑』胡三省注は「匹磾奔邵続、薊為石氏所破」というが、本伝のこの記載に従うと、薊は段末杯ら段部が占拠していたようである。どちらが妥当かは判断しかねるが、段末杯が厭次近辺まで段匹磾を追い回していたというのなら、薊は段末杯らの勢力下にあったと考えるのが適当なように思う。
  • 12
    本文にそのまま従うと段匹磾は薊まで行っていないかのごとくだが、邵続伝に「匹磾率衆攻段末杯、石勒知続孤危」とあるのをふまえると、段匹磾もろとも段氏が不在であったからこそ石勒は邵続討伐に着手したのだと思われる。『資治通鑑』には「匹磾与弟文鴦攻薊」とあり、『太平御覧』巻四三五、勇三に引く「王隠晋書」にも「段疋磾召弟文鴦、還厭次」とある。薊にまでは行っていなかったとしても、少なくとも厭次の外にはいたのであろう。
  • 13
    『太平御覧』巻四三五、勇三に引く「王隠晋書」には、段文鴦出撃から馬がつぶれるまでの経緯がもう少し詳しく見えている。それによると、段文鴦が数十騎で出撃して後趙軍を圧倒すると、段文鴦はそれを追撃し、段匹磾が歩兵を率いてそれに続いたが、そこに石虎の伏兵が現れた。段文鴦は力戦し、段匹磾のもとへ戻ろうとしたが、すでに段匹磾は退いてしまっていていなかった。そしてちょうど馬が疲労で倒れてしまった、という。「石虎来、先縦騎抄城左右。鴦登城臨見、不勝其勇、欲出撃胡、磾疑有伏、不聴出。民出、大為胡所殺掠。鴦単将壮士数十騎出撃、胡所殺甚多。胡騎退、鴦追躡、磾率歩継鴦、虎伏騎起、磾鴦力戦、殺胡数十。鴦還赴磾、磾已散還。鴦所乗馬乏頓」とある。
  • 14
    段末杯が石勒の人質になったときの一件を指すと考えられる。
  • 15
    絹でつくった馬の外套のことか。『資治通鑑』胡三省注は「意即障泥」とする。
  • 16
    段匹磾らが入城してまもなくの出来事のように読めるが、『資治通鑑』によれば邵続が捕えられたのは太興三年二月(元帝紀も同じ)、段文鴦が捕えられたのは太興四年の三月―四月ころである(なお元帝紀によれば段匹磾陥落は太興四年四月)。つまり、段氏は入城してから一年ちかくは踏みとどまっていたことになる。また段匹磾らが降ったときの戦闘について、石勒載記下に「石季龍攻段匹磾于厭次」とあることからうかがうと、後趙軍はずっと厭次を包囲していたわけでもないようであり、『資治通鑑』はこれ以前の太興三年六月にも「後趙孔萇攻段匹磾、恃勝而不設備、段文鴦襲撃、大破之」(石勒載記下、略同)と、戦闘があったことを記している。
  • 17
    原文「遂渡黄河南」。この一文が意味するところはよくわからない。段匹磾が南に向かったのであればそれは晋朝へ向かったことを意味するのだが、後文では石虎に面会している。石勒載記下には「匹磾勢弱、乃率其臣下輿櫬出降」とあり、やはり石虎に降っている。「晋朝へ向かおうとしたがまたも失敗し、けっきょく石虎に降った」という可能性もあるが、後文に「出見季龍」とあるのを考えると、この文は王英が主語なのかもしれない。さしあたりそういう解釈のほうが後文との整合性も取れるので、そのように訳出した。
  • 18
    『北史』徒何段就六眷伝には「国人因立陸眷弟護遼為主」とあり、かなりちがっている。『北史』の「陸眷」は段末杯の従祖で、務勿塵の伯父にあたる日陸眷を指している。本伝の「就陸眷」は末杯の従祖とあることからみて、末杯の兄の疾陸眷のことではなく、日陸眷の誤記であろう。ただ世代的には、疾陸眷の孫であっても違和感はないので、「従祖」の記述のほうが間違っているのかもしれない。実際、『資治通鑑』は「段疾陸眷之孫遼」とする。
  • 19
    石季龍載記などを参照すると、段勤は後趙に仕えていたようである。おそらく後趙の末期、冉閔が権力を掌握すると後趙の将はあいついで鄴から離れたが、彼もその一人だったのだろう。そのさい、慕容儁の庇護下に入ったのだと思われる。
  • 20
    『資治通鑑』によると趙帝を自称したという。
  • 21
    劉琨伝をみても承制の話は出てこないが、ほかにも芸術伝・続咸伝に「永嘉中、歴廷尉平、東安太守。劉琨承制于并州、以為従事中郎」とみえるし、また劉琨伝に徐潤を晋陽令に任じたこと、李矩伝と郭黙伝に郭黙を河内太守に任じたことが記されているので、承制していた可能性が高いのだろう。
  • 22
    『資治通鑑』はこれを永嘉の乱、すなわち永嘉五年の洛陽陥落時のこととしている。
  • 23
    原文「統城西雍涼人」。よくわからない。魏該の拠っていた塢について、『水経注』巻一五、洛水注に「洛水又東径一合塢南、城在川北原上、高二十丈、南北東三箱、天険峭絶、惟築西面即為固、一合之名、起于是矣。劉曜之将攻河南也、晋将軍魏該奔于此、故于父邑也」とあり、南・北・東は天然の要害で、西方にだけ人工的な城壁を築いた場所なのだという。自信のない解釈だが、雍州や涼州から避難してきた人々は塢の西方に集住していたということなのかもしれない。
  • 24
    『南斉書』州郡志下、雍州に「雍州、鎮襄陽、晋中朝荊州都督所治也。元帝以魏該為雍州、鎮酇城、襄陽別有重戍」とあり、雍州刺史はもとのとおりだったようである(順陽の郡治は酇)。その後の経過は本伝に記されていないが、成帝紀、咸和元年十月の条に「劉曜将黄秀、帛成寇酇、平北将軍魏該帥衆奔襄陽」とあり、前趙に攻められて襄陽まで退いている。
  • 25
    成帝紀、咸和三年六月の条に「平北将軍、雍州刺史魏該卒于師」とある。
  • 26
    石勒載記下に「〔石〕勒荊州監軍郭敬、南蛮校尉董幼寇襄陽。……敬入襄陽、軍無私掠、百姓安之。晋平北将軍魏該弟遐等率該部衆自石城降于敬」とあり、後趙軍が襄陽を落としたさい、魏該の弟の魏遐が魏該の部衆を率いて後趙に降ったという。成帝紀によれば咸和五年八月のことで、魏該が没してから二年後のことだが、この間に部衆の統領が交代したのかもしれない(魏遐が魏雄から勝手に離反してだけの可能性もあるが)。
  • 27
    『太平御覧』巻三八六、健に引く「又前趙録」(崔鴻十六国春秋)に「郭黙字玄雄、河内懐人」とある。
  • 28
    劉聡載記と『資治通鑑』によれば、このとき劉曜は趙染らと長安を侵略したのだが、麹允、索綝らに敗れ、撤退する途中で郭黙を包囲したようである。『資治通鑑』は建興二年のこととする。
  • 29
    『水経注』巻九、沁水注に「沁水于〔武徳〕県南、水積為陂、通結数湖、有朱溝水注之。其水上承沁水于沁水県西北、……。朱溝自枝渠東南、径州城南、又東径懐城南、又東径殷城北。郭縁生『述征記』曰、『河之北岸、河内懐県有殷城』。……昔劉曜以郭黙為殷州刺史、督縁河諸軍事、治此」とあり、郭黙は劉曜から殷州刺史に任じられ、懐県の殷城を治所としていたという。本伝および李矩伝によると、郭黙はのちに李矩のいる滎陽へ帰し、彼と協力するようになった。郭黙が劉氏の刺史であったのはまだ郭黙が河内にいたとき、すなわち李矩に帰服する以前のことであると考えられ、タイミング的には本伝のここに記されている劉曜の包囲を受けたときではないだろうか。
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    当時の劉琨は晋陽こそ失ったものの、まだ并州の陽邑(陽曲)に留まっていた。
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    劉遐の部曲は、劉遐の親族でない人間がトップに立つのが嫌だったようで、この人事に反発してまだ幼かった劉遐の子を推戴した。劉遐伝を参照。
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    成帝紀、咸和三年二月の条に「庾亮又敗于宣陽門内、遂携其諸弟与郭黙、趙胤奔尋陽」とあり、庾亮らと尋陽へ敗走している。このとき、尋陽には江州刺史の温嶠が駐屯しており(温嶠伝)、ともかく温嶠のもとへ向かったということであろう。庾亮らが尋陽に到着してのち、荊州刺史の陶侃も尋陽に着いて温嶠と庾亮に合流し(庾亮伝)、それから陶侃、温嶠、庾亮は石頭へ向かった(陶侃伝)。郭黙も庾亮と同様の経緯で蘇峻討伐軍に合流し、石頭へ向かったのだろう。それにしても、尋陽は南という感じがしないが、庾亮伝にも「南奔温嶠」とあるので、そういう方向感覚なのだろう。
  • 33
    孔愉伝附坦伝に「時郗鑑鎮京口、〔陶〕侃等各以兵会。既至、〔孔〕坦議以為本不応須召郗公、遂使東門無限。今宜遣還、雖晩、猶勝不也。侃等猶疑、坦固争甚切、始令鑑還拠京口、遣郭黙屯大業、又令驍将李閎、曹統、周光与黙并力、賊遂勢分、卒如坦計」とあり、郭黙らを東方へつかわし、賊の勢力を分散させようとしたのは孔坦の立案という。郗鑑伝には「時撫軍将軍王舒、輔軍将軍虞潭皆受鑑節度、率衆渡江、与〔陶〕侃会于茄子浦。鑑築白石塁而拠之。会舒、潭戦不利、鑑与後将軍郭黙還丹徒、立大業、曲阿、庱亭三塁以距賊」とあるので、郗鑑と郭黙が東方へ行ったあと、郗鑑が大業塁の構築を提案したのだろ考えられる。陶侃伝、温嶠伝、蘇峻伝などによると、晋軍は石頭(蘇峻軍の本拠)の北にある白石に軍塁を築き、そこに主力を集めていたようである。陶侃伝に「賊攻大業塁、〔陶〕侃将救之、長史殷羨曰、『若遣救大業、歩戦不如〔蘇〕峻、則大事去矣。但当急攻石頭、峻必救之、而大業自解』。侃又従羨言。峻果棄大業而救石頭」とあることから察すると、蘇峻軍を分散させ、石頭の本軍を相対的に弱化するおとりのような役割を大業塁などはもっていたようだ。
  • 34
    郗鑑伝に「而賊将張健来攻大業、城中乏水、郭黙窘迫、遂突囲而出、三軍失色」と、同趣旨の記述がある。
  • 35
    『建康実録』巻七、顕宗成皇帝、咸和四年の条に「徴西中郎将郭黙為右将軍、黙過江州、刺史劉胤不礼、送豚一頭、酒五斗」とあり、中央への赴任途中に江州に立ち寄り、江州刺史の劉胤と接見したようである。劉胤の無礼の話は本伝後文にも見える。
  • 36
    どういうことが言いたいのかよくつかめないが、このたびの人事は自分の能力や適性をきちんと審査してないんじゃないのというグチであろうと思われる。
  • 37
    『資治通鑑』胡三省注に「晋以後、文武之士率称小人、今西北之人猶然」とある。
  • 38
    原文はここで途切れてしまっていて後文とのつながりも不明になってしまっているが、『資治通鑑』はつづけて「劉胤は与えなかったので、郭黙は劉胤をうらんだ(胤不与、黙由是怨胤)」とある。
  • 39
    成帝紀によれば、郭黙が劉胤を殺したのは咸和四年十二月のこと。
  • 40
    江州刺史の誤りである可能性が高い。中華書局の校勘記を参照。
  • 41
    『資治通鑑』はもう少し詳しく、「郭黙欲南拠豫章、会太尉侃兵至、黙出戦不利、入城固守、聚米為塁、以示有余。侃築土山臨之」と記す。
  • 42
    原文「致進退」。自信はない。
  • 43
    成帝紀によれば、郭黙が斬られたのは咸和五年五月のこと。
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