巻一百六 載記第六 石季龍上(1)

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石季龍(1)石季龍(2)石季龍(3)附:石世・石遵・石鑑附:冉閔

 石季龍は石勒の従子1「おい」のこと。狭義には兄弟の子を指すが、広義には兄弟姉妹の子と同輩の親族(従兄弟の子とか)も含む(荀彧と荀攸、王導と王羲之など)。そうなると、後文にあるように石勒の父は石虎を子として引き取っているわけだが、もし石勒の「おい」=子の世代であるならば、石勒の父にとっては孫の世代にあたり、それを石勒と同輩のように扱うというのはいくら羯とはいえ不可解な印象が……。まあ、いろいろと事情があったのかもしれない。である。名は太祖廟(唐の李虎)の諱を犯しているので、字で呼んでいるのである。祖父は㔨邪といい、父は寇覓といった。石勒の父の周曷朱は幼くして石季龍を子としたため、石勒の弟と言われることもある2『世説新語』言語篇の劉孝標注に引く「趙書」に「虎字季龍、勒従弟也」とあり、『太平御覧』巻三八六、健に引く「石虎別伝」に「虎字季龍、勒従弟」とあるのがそうした例であろう。。六、七歳のとき、人相見が得意な者が言った、「この子の容貌は奇異で、壮骨がある。言い表せないほど尊貴だ」。永興年間、石勒とはぐれてしまった。のちに劉琨が石勒の母の王氏と石季龍を葛阪に送ってきたが、このとき十七歳であった3『魏書』羯胡石勒伝によれば永嘉五年のこと。。性格は残忍で、狩猟を好み、放蕩して限度がなく、とりわけ弾(パチンコ)を得意としており、しばしば人に向けて弾を発したため、軍中は〔石季龍を〕厄介者に思っていた。石勒は母の王氏に、石季龍を殺そうと考えていると言ったところ、王氏は「快牛(速い牛)というのはね、子牛のときはたくさんの車を壊すものよ。あんた、もうしばらく我慢なさい」と言った。十八歳になると、しだいに人の言うことを聞くようになった。身長は七尺五寸、敏捷で、弓術と馬術に長け、勇猛さは当世に冠し、将佐や親戚で敬い憚らない者はいなかった。石勒は石季龍を深く嘉し、征虜将軍に任じ、石季龍のために将軍の郭栄の妹を娶らせ、妻とさせた。〔ところが〕石季龍は優僮の鄭桜桃を寵愛し、郭氏を殺してしまった。さらに清河の崔氏の娘を娶ったが、鄭桜桃がふたたびそしると、これを殺してしまった。〔石季龍の〕なすことは残忍であった。軍中に勇猛さや策略で自分に匹敵する者がいれば、そのつどに機会に乗じて殺してしまい、〔このようにして〕前後で殺した者はひじょうに多かった。城を降したり塢壁を落としたりすると、人の善悪を判別することなく、男女を穴埋めにしたり斬ったりしたため、生き残った者はわずかであった。石勒はしばしば叱責して善導しようとしたが、意のままにふるまってふだんと変わらなかった。しかし軍を統率すれば厳格で、しかも煩雑ではなかった(規則がうるさいわけではなかった)ので、あえて軍法を犯す者はおらず、指揮をとって攻撃を命じれば、向かうところ前を遮るものはおらず、そのため石勒は石季龍を気に入り、信頼はいよいよ高まり、専征の任を授けた。
 石勒が襄国に留まると、〔石季龍を〕魏郡太守に任命し、鄴の三台に出鎮させ、のちに繁陽侯に封じた。石勒が大単于、趙王の位につくと、単于元輔、都督禁衛諸軍事に任命され、侍中、開府に移り、中山公に昇格した。石勒が帝号を僭称すると、太尉、守尚書令を授けられ、王に昇格し、食邑一万戸とされた。石季龍は功績が当時でもっとも高いと自負していたので、石勒が即位したのち、大単于には必ず自分が就くだろうと思っていたが、〔石勒は〕子の石弘に授けた4石勒載記下によれば、大単于を授けられたのは石宏。。石季龍はこれを深く恨み、私的な場で(プライベートで)子の石邃に言った、「主上は襄国に都を置いて以来、朝廷に臨んで指示を出すのみだが、私は身をもって矢石に当たってきた。二十余年の間に、南は劉岳を捕え、北は索頭を敗走させ、東は斉魯(山東)を平らげ、西は秦雍(関中)を定め、十三州を平定してきた。大趙の事業を成功させたのは私だ。大単于の期待はじつに私にあったのに、かえって婢の生んだ小童に授けるとは。いったんこのことを思うたび、寝食する気も起きない。主上が世を去ったあとを待てば、子を〔世に?〕残しておく必要もなくなるだろう」。
 咸康元年、石季龍は石勒の子の石弘を廃し、群臣以下は尊号を称することを勧めた。石季龍は書を下した、「王室は多難で、海陽王(石弘)はみずから〔位を〕棄てられたが、四海の事業は重大である。ゆえにつとめて即位の要請5原文「推逼」。推戴して君主に立つよう催促すること。意訳した。に従おうと思う。朕が聞くところでは、道が乾坤(天地)に等しい者は皇を称し、徳が人と神に合う者は帝を称するそうだが6出典不明。『白虎通疏証』号に「帝王者何、号也。……徳合天地者称帝、仁義合者称王、別優劣也。……皇者、何謂也、亦号也。皇、君也、美也、大也。天人之総、美大之称也。時質、故総称之也」とあり、『太平御覧』巻七六、叙皇王上に引く「応劭漢官儀」に「皇者大帝(孫星衍の輯本は「也」に作る)、言其煌煌盛美。帝者徳象天地、言其能行天道、挙措審諦、……」とあり、『独断』巻上に「皇帝、至尊之称。皇者、煌也。盛徳煌煌、無所不照。帝者、諦也。能行天道、事天審諦。故称皇帝」とあり、やや近いが載記とはちがっている記述が見えている。、皇帝の称号は寡聞にして聞いたことがない7原文「非所敢聞」。「(天子などに)申しあげるまでもない」、もしくは「よくわからない」「詳しくなくてよく知らない」の謙遜表現、すなわち「寡聞にして知らない」の二つの使い方がある句のようである。ここは後者か。「皇」や「帝」という君主号の意味は知っているが、それらをミックスした「皇帝」という称号はどういう君主が称する称号なのか知識が乏しいゆえにわからない、ということだろうか。『資治通鑑』は「非所敢当」に作る。。ひとまず居摂趙天王を称し8「居摂」は臣が君主に代行して職務をおこなうことを言い、周公についてよく言われる。「居摂趙天王」は「趙天王の代行」という意になる。前文で言われれていることをふまえれば、石勒が最終的についた皇帝号が自分にふさわしいのかよくわからないので、ひとまず天王の代行につくことにして、群臣が勧めている皇帝号については今後検討する、となろうか。あくまで「居摂」であって天王位につかないのは、皇帝の君主号はいったん保留とし、その保留期間は仮の君主号を称すると示すためであろう。そうだとすれば、そもそも得体のわからない皇帝号が暫定的な君主号に採用されないのは当然であろうが、天王号は皇帝号とは逆に理解できており、そうであるがゆえにここで仮の君主号に採られているのだと考えられる。松下洋巳氏は、胡族にとって皇帝号は意味が理解できない称号で、胡語への翻訳も不可能であり、「多言語社会の中では、「中国」の域内でしか通用しない」ものであったのに対し、「各言語に簡単に訳す事が出来、意味もわかりやすく、普遍的な概念である「天」と「王(首長)」からなる天王号の方がより状況に即した称号であった」と論じている(松下「五胡十六国の天王号について」、学習院大学東洋文化研究所『調査研究報告』四四、一九九九年、一二頁)。少なくともここで石虎が開陳している論理は松下氏の考察のとおりである可能性が高い。、そうして天と人の嘱望にかなうのがよいであろう」。こうして境内を大赦し、建武と改元した。夔安を侍中、太尉、守尚書令とし、郭殷を司空とし、韓晞を尚書左僕射とし、魏槩、馮莫、張崇、曹顕を尚書とし、申鍾を侍中とし、郎闓を光禄大夫とし、王波を中書令とし、文武の官の封建や叙任はおのおの格差があった。子の石邃を太子に立てた。石季龍は、讖言に「天子が東北からやって来る」とあることから、法駕(天子の車)を準備して外出し、信都から〔襄国に〕帰って来て、この讖言に応じようとした。廮陶の柳郷を分割し、停駕県を立てた9名前からして、往復のどちらかの道中で車を停めた場所を記念したのだろう。
 石季龍の徐州〔刺史の〕従事中郎の朱縦が徐州刺史の郭祥を殺し、彭城をもって〔晋に〕帰順した。石季龍は将の王朗を派遣してこれを攻めさせると、朱縦は淮南に敗走した。
 石季龍は遊び耽って政事をみず、造営事業が多かった。石邃に尚書奏事を裁決させ、牧守(州郡の長官)を選ばせ、郊廟を祀らせたが、征伐や刑罰の事柄だけはみずからみた。観雀台が崩落したので、典匠少府の任汪を殺した。観雀台を修復させたが、通常の規格の倍であった。
 石季龍はみずから軍を率いて南に進み、歴陽を侵略し、長江に達してから帰還すると、京師(建康)はおおいに震撼した。征虜将軍の石遇を派遣して中廬を侵略させ、そのまま平北将軍の桓宣を襄陽で包囲させた。輔国将軍の毛宝、南中郎将の王国、征西将軍司馬の王愆期らが荊州の軍を率いて桓宣を救援し、章山に駐屯した。石遇は二旬日(二十日)の間、攻防したが、軍中で飢えと疫病があったため、帰還した。
 石季龍は、租税収入の量が増えて範囲も広域になり、〔租税を中央へ移す〕輸送が煩わしいことから、中倉に毎年百万斛を入れさせ、ほかはすべて水次(水路に設けられた駐屯地)〔の倉〕に蓄えておいた。
 晋の将軍の淳于安が琅邪の費県を攻め、捕虜を得てから帰った。
 石邃の保母の劉芝は当初、巫術をもって登用された。石邃を育てあげると、そのまま〔石季龍に?〕深く寵愛されるようになり、賄賂に通じ、言論に関与し、権勢は朝廷を傾け、親貴(親任されて高貴である者)は多くその一族から輩出された。そしてとうとう、劉芝を宜城君に封じた。
 石季龍は書を下し、贖罪したい家は銭を財帛(厳密には「金銭と布帛」の意だが、ここはたんに布帛の意か)の代わりとすることを許し、銭がなければ穀麦を代わりとすることを許し、すべて〔交換相場は〕時価に従わせ、〔納めた物品は〕水次倉に輸送させた。冀州の八郡でひょうが降り、秋の収穫に大きな損害を与えたので、書を下して深く自責した。御史をあちこちに派遣し、水次倉の麦を出させ、秋に植える種子として支給し、とりわけ被害がひどい場所はほぼ一年間免税した。
 石季龍が鄴に遷都しようとすると、尚書は太常に宗廟へ報告させるよう要請した。石季龍、「いにしえは大事を起こそうとするとき、必ず宗廟に報告したが、社稷にはそうしなかった。尚書は〔このことについて〕詳議し、〔結論を〕報告せよ」。公卿はそこで〔詳議し〕、太尉に社稷へ報告させるよう要請したので、これに従った。鄴の宮殿に入ると、降雨が広くゆきわたったため、石季龍はおおいに喜び、殊死以下を赦免した。尚方令の解飛が司南車を完成させた。石季龍はその構想が精緻であることから、関内侯の爵を賜い、賞賜はひじょうに手厚かった。はじめて〔以下のような礼制を〕制定し、散騎常侍以上であれば軺軒に乗ることを許し、王公は郊祀のさいは副車に乗り、駕四馬、龍旂、八旒とし、朔日(一日)と望日(十五日)の朝会のさいは軺軒に乗ることを定めた。
 この当時、羌の薄句大はいぜんとして険阻の地にこもり、まだ服従していなかった。〔石季龍は〕子の章武王斌を派遣し、精鋭騎兵二万および秦州と雍州の兵を統率させ、これを討伐させた。
 石季龍が長楽と衛国に行った。田畑が開墾されておらず、養蚕が整っていないところがあったので、そこの守宰(郡県の長官)を降格して帰った。
 咸康二年、牙門将の張弥に洛陽の鍾虡、九龍、翁仲、銅駝、飛廉を鄴へ移させた10鍾虡は、鍾は「鐘」(楽器)の意、虡は神獣のことで、鐘を吊るす木にその装飾を施したものであるらしい。『漢書』郊祀志下の顔師古注に「虡、神獣名也。懸鍾之木刻飾為之、因名曰虡也」とある。『太平御覧』巻五七五、鍾に引く「趙書」に「将軍張珍、領郡県民丁万人、徙洛陽六鍾猛虡、九龍、翁仲、銅駝、飛廉」とあり、鍾は六つあった? 九龍以下はおそらく銅像。『資治通鑑』胡三省注は「皆魏明帝所鋳」とする。。鍾(鐘)のひとつが黄河に落ちたので、水中で動ける者三百人を募って黄河に入らせ、竹でつくった綱を縛りつけ、牛百頭と鹿盧(滑車)を用いて引き上げ、万斛船(大型の船)を建造して黄河を渡した。〔鍾虡以下はすべて〕車の四輪にタガをかぶせた車を用い〔陸上を輸送させ〕たが、〔車が通過したあとの〕轍(わだち)は広さ四尺、深さ二尺であった。〔こうして〕鄴に輸送し、到着した。石季龍はおおいに喜び、二歳刑の罪人を赦免し、百官には穀物と帛を賜い、百姓には爵一級を下賜した。
 書を下した、「三年ごとに成績を考査し、成績が優良な者を昇進させ、不良な者を降格させるというのは、先王の優れた典範であり、政道の通塞11文字どおりにとれば「通ずることと塞がること」だが、『宋書』蔡廓伝の史臣曰に「良以主闇時難、不欲居通塞之任也」とあり、ここの「居通塞」は「居権要」(蔡廓伝)とほぼ同義であると思われる。どういうことから「権要」の意になるのかよくわからないが、この箇所も「権要」の意で取ると通じる。である。魏ははじめて九品の制を立て、三年に一度、これ(たぶん九品に就いている官人)を清定した12「清定」は原文のまま。文脈的に、官人の成績を考課し、人事に反映して、九品の序列を適切に正すことを言うのであろう。石勒載記下の注も参照。。美風の拡大を究めた制とは言えないが、縉紳(士大夫を選挙すること)の清明なる法律であり、人倫(人材を選挙すること)の明白な模範でもある。これ以来、〔この制を〕尊んで採用し、改変することはなかった。先帝が創業して天下に臨むと、黄紙〔を用いた選挙の制〕がふたたび定まったのであった13原文「黄紙再定」。「黄紙」にかんしては、中村圭爾氏によれば「「文官挙補満叙」のような人事案件もふくむ重大事案を、尚書諸官の連署のもとに奏するものをいう」(中村『六朝政治社会史研究』汲古書院、二〇一三年、二三一頁)。『宋書』蔡廓伝に「選案黄紙、録尚書与吏部尚書連名」とあり、中村氏は「尚書が上呈する黄紙をもちいた人事選任原案」(同前)とする。また中村氏前掲書、二二三頁以下で考察をくわえている陳の「用官式」(『隋書』百官志上)に「吏部先為白牒、録数十人名、……勅或可或不可、……若勅可、則付選、……以黄紙録名、八座通署、奏可、即出付典名。……其有特発詔授官者、即宣付詔誥局、作詔章草奏聞、勅可、黄紙写出門下、門下答詔、請付外施行、又画可、付選司行召」とあり、選挙過程で黄紙が使用されている。他の用例でも選挙や推挙に関連するものが散見されるので、ここでは「被選挙者の人名が列記された奏案」と捉えることにし、転じて「黄紙を用いた選挙」と読むことにする。具体的には前文で言及されている九品制と清定のことであり、清定は九品制に付随するものともみなせようから、端的には九品制を指すと解釈したい。増村宏氏は、本文の「黄紙」を蔡廓伝の「選案黄紙」と同一視し、その「再定」というのは石勒載記下の「清定五品」と「復続定九品」を指すとしている(増村「黄白籍の研究」、『東洋史研究』二―四、一九三七年、三四二―三四三頁)。「再定」の実質的な意味としては異論ないが、読み方としてはもう少し簡単でよいように思う。というのも、前文からの文脈としては、「黄紙を用いた選挙」が魏以降も継承され、晋末の混乱でいったん廃れてしまったけれども石勒が天下に君臨するに及んで「ふたたび定まった」という話の展開だと思われるからである。その「ふたたび定まった」のは石勒による二度の「定」を経てのことであろうと思われるため、さきにも述べたように実質的には増村氏に異論ないわけだが。。ところで、選挙というものは、銓衡14人物の能力や成績を審査してその者に適切な官職を選定すること。が首格(最重要な定め)であるが、清定をしなくなってから(最後に清定してから)、今年で三年になる15原文「至於選挙、銓為首格。自不清定、三載于茲」。自信はない。。主者はあらためて銓衡の議論をし、清(優秀な者)を引き上げ、濁(不良な者)を防ぎ止めることに努め、九流(九品)すべてを適切にせしめよ。吏部の選挙は晋氏の九班の選制16宮崎市定『九品官人法の研究――科挙前史』(中公文庫、一九九七年、原著は一九五六年)二一三―二一四頁はじめ、劉頌が西晋・恵帝期に提案した「九班之制」を指すと考えられている。劉頌伝に「転吏部尚書、建九班之制、欲令百官居職希遷、考課能否、明其賞罰。賈郭専朝、仕者欲速、竟不施行」とあり、官人をすぐに転任・昇進させず、一定期間官におらせて成績を審査するための制度であったらしいが、具体的にどういう設計がなされていたのかはわからない。ここでそれに従えと言っているのは、制度の概要こそ不詳であるものの、劉頌の「令百官居職希遷、考課能否、明其賞罰」という理念を継承し、「仕者欲速」という世の風潮になびいた頻繁な人事昇進をしないように命じているのだろう。に従い、ながく基準の法とせよ。銓衡が終われば、〔その人事案を〕中書と門下に経由させて、三省17直前に見えている中書と門下にくわえて尚書、具体的には尚書令と僕射のことを指していると考えられる。本載記の後文によると、通常の人事(「調用」)においては、吏部曹が考案した選挙案は尚書令と僕射の承認を経てからでなければ奏聞できなかったそうである。であれば、今回の三年の一度の「清定」ももちろん令僕の承認が必要であろう。尚書全体を統括する長からの承認をもって「尚書の承認を得た」と認定していたのだろうと思われる。に〔案を〕示し〔て承認を得て〕、それから施行せよ。この詔書を令に付加せよ。〔承認を得て決定した〕銓衡を奉じない者がいれば、御史は弾劾して奏聞せよ」。
 索頭18『資治通鑑』胡三省注によれば「鮮卑種。……以其辮髪故謂之索頭」という。の郁鞠が衆三万を率いて石季龍に降った。〔石季龍は〕郁鞠ら十三人を親通趙王に任命し、みな列侯に封じ、その部衆を冀州や青州など六州に散らせた。
 このころ、数多の労役がわずらわしく起こり、軍隊(戦争)は止まず、くわえて旱魃が久しいために穀物が高騰し、金一斤が米二斗に相当し、百姓は悲鳴をあげ、生活のかてがなかった。また解飛の進言を採用し、鄴の真南から石を黄河に投げ入れて、飛橋19架設于高空的橋梁。(『漢語大詞典』)をつくろうとしたが、事業の費用は数千億万かかり、橋は最終的に完成せず、労役に徴発された人夫の飢えがひどかったので、中止した。県の令長に壮丁(成人男性)を率いさせ、山沢に沿って橡(どんぐり)を集めさせたり、魚を捕らせたりして、老人や弱者を救済させようとしたが、〔支給した物は〕権豪に奪われてしまったため、民衆は何も得られなかった。また富裕な家を統計し、飢えている民を〔それらの家に〕配して養わせ、公卿以下には穀物を供出させて〔朝廷の〕援助に協力させたが、姦吏はこれに乗じて〔貧民への〕収奪が際限なく、貸付援助の名目があるだけでその内実はなかった。
 直盪(たぶん武官の名称)を龍騰に改称し、冠は絳幘とした。
 襄国に太武殿を建造し、鄴に東西宮を建造していたが、このときになってともに完成した。太武殿の土台は高さ二丈八尺、模様のある石を混ぜ込み、地下には部屋を掘り、衛士五百人をその部屋に置いた。〔太武殿は〕東西七十五歩、南北六十五歩である。すべて漆の瓦、金の鐺(瓦当)、銀の楹(正面のはしら)、金の柱、珠の簾、玉の壁であり、技術を尽くした代物であった。また霊風台の九殿(?)20原文「霊風台九殿」。『太平御覧』巻一二〇、石虎に引く「崔鴻十六国春秋後趙録」は「霊台之殿」に作る。「九」は「之」の誤字かも?を顕陽殿の後方に建造し、士庶の娘を精選してここに住まわせた。後宮で綺縠21絹製品の総称。(『漢辞海』)を衣服とし、珍奇な物を玩具とする者は一万余人おり、内(内朝?)には十八等の女官を設け、〔女官は〕宮人に星占い、騎射、歩射を教育した。女太史を霊台に置き、〔天の〕災異や瑞祥を仰いで観察させ、それによって外(外朝?)の太史の〔観測結果の〕虚実を調べた。また女鼓吹、女羽儀、女雑伎、女工巧を置き、みな外〔のそれ〕と等しくした。郡国に禁令を下し、私的(非公認)に星纎の学問を学ぶのを許さず、あえて犯す者がいたら誅殺するとした。
 左校令の成公段が庭燎(庭をてらすかがり火)を高いさおの先端にともした。高さは十余丈で、上の盤(大皿みたいなもの)に火をともし、下の盤に人を配置し〔て火に侍らせ〕、綱を上下の盤に結んで巻きつけた22原文「絚繳上下」。呉振清氏の解釈を参照した。呉氏は縄を使って盤を昇降したのだろうという。呉振清校注『三十国春秋輯本』(天津古籍出版社、二〇〇九年)一三〇頁。私は装置の想像があまりつかないので、どうにも説明ができないというか、うまく訳せないです。。石季龍は試しに使用してみると、これに満足した。太保の夔安ら文武の官五百九人が石季龍に尊号を称することを勧めようとし、夔安らが〔そのために宮中に〕ちょうど入ったとき、庭燎の油が下の盤に流れてしまい、〔火事が起きて?〕七人の死者が出た。石季龍はこれをにくんで、おおいに怒り、成公段を閶闔門で斬った。
 こうして、〔石季龍は〕殷周の制度に従い、咸康三年に大趙天王を僭称し、南郊で即位し、殊死以下を大赦した。祖父の㔨邪を武皇帝と追尊し、父の寇覓を太宗孝皇帝と追尊した。鄭氏を天王皇后に立て、子の石邃を天王皇太子とした。親王23『資治通鑑』によれば「諸子為王者」のこと。はみな降格して郡公に封じ、藩王24『資治通鑑』によれば「宗室為王者」のこと。は県侯とし、百官の封建や叙任はおのおの格差があった。
 太原の移民五百余戸がそむいて黒羌に入った。
 武郷の長城の移民である韓彊が玄(黒い?)玉璽を得た。四方は四寸七分、亀紐、金文字(?)で、鄴に行って献上した。韓彊を騎都尉に任じ、その一族を免税した。夔安らがふたたび勧進した、「臣らが謹んで考えますに、大趙は水徳ですが、玄亀(玄武)は水を象徴する精霊です。玉は最高級の石です。分の数値は七政25『漢書』郊祀志上に「虞書曰、舜在璿璣玉衡、以斉七政」とあり、顔師古注に「虞書舜典也。在、察也。璿、美玉也。璣転而衡平。以玉為璣衡、謂渾天儀也。七政、日月五星也。言舜観察璣衡、以斉同日月五星之政、度合天意」とある。をかたどり、寸の数値は四極26『漢書』礼楽志の顔師古注に「四方極遠之処也」とある。をかたどっています。昊天が命を下しているのですから、久しくそむくべきではありません。ただちに史官に命令を下し、吉日を選び、礼儀を整えますよう。謹んで昧死し、皇帝の尊号を奉ります」。石季龍は書を下した、「過分に顕彰され、にわかに推戴されて皇帝に立つよう催促され、〔勧進表を〕見てますます恥じ入るものだが、〔皇帝の称号は〕所望しているものではない。すみやかにこの議を止めよ。いま、春の農耕がはじまりを告げたところなので、京城の内外(京師の周辺?)以外は、みな表して祝賀を述べてはならない」。中書令の王波は「玄璽頌」を奉じてこのことを賛美した。石季龍は、石弘のときにこの璽が製造されたのだが、韓彊が偶然それを得て、献上したのだと考えていたのである。
 石邃は百揆を総べて以後、酒に耽って女に溺れ、自分勝手にふるまって無道であり、あるときは田畑で遊び、懸管して入り27原文「懸管而入」。後文で石斌についてもこう言われているが、「懸管」の用例がほかになく、意味不詳。荻生徂徠は「懸管シテ」と読んでいる。、あるときは夜に宮臣(東宮の臣)の家に出かけ、その妻や妾を犯した。化粧した宮人(後宮の女性)で美人の者がいれば、その首を斬り、〔首に付着した〕血を洗い落とし、盤の上に〔その首を〕置き、〔人々と〕回覧して鑑賞した。また、比丘尼で容姿端麗な者がいれば内に入れ28原文「内諸比丘尼有姿色者」。「内」は内朝の意で取れそうに思うが、『太平御覧』巻一二〇、石虎に引く「崔鴻十六国春秋後趙録」に「納諸比丘尼有姿色者」とあり、これをふまえるならば、「宮中に召し入れる」意なのだろう。、これと性交して凌辱してから29原文「与其交褻」。荻生徂徠の読み方に従い、「其れと(与)交褻して」と読んだが、違和感はある。殺し、牛や羊の肉といっしょに煮込んで食い、それを左右の者にも下賜して、その肉の味を〔多くの人の見解をまじえて?〕判定しようとした。河間公宣、楽安公韜は石季龍に寵愛されていたので、石邃は仇敵のように憎んでいた。石季龍は宮中での遊びに耽り、刑罰は適度を失っていた。石邃が上呈すべき奏事だと判断したものを上呈すると、石季龍は怒って、「これは些細な奏事だ。上呈する必要なんかない」と言い、〔一方で〕ときに奏聞しない奏事があると、これまた怒り、「どうして上呈しないんだ」と言い、譴責して棍棒で打ち、これがひと月で再三に及んだ。石邃ははなはだ恨み、ひそかに常従30官名もしくは従者一般の意。の無窮、長生、中庶子の李顔らに言った、「官家(天子=石虎)はふさわしいと言いがたい。私は冒頓の故事31父を殺して自分が主君に立つこと。を実行しようと考えているが、卿は私に従うか」。李顔らはうつむき、答えようとしなかった。石邃は病気と称して政事を見ず、宮臣や文武の官五百余騎を率い、李顔の別宅で宴会を開いたが、〔そのとき〕李顔らに言った、「冀州(信都)に行って石宣を殺そうと思う。従わない者は斬る」。数里進んだところで、騎馬はみな逃げてしまい、李顔は叩頭して強く諌め、石邃も泥酔していたため、帰った。石邃の母の鄭氏はこのことを聞くと、ひそかに中人(宦官)をつかわして石邃を叱責した。石邃は怒り、その使者を殺してしまった。石季龍は石邃が病気であると知ると、親任していた女尚書をつかわして見舞わせた。石邃は〔女尚書に〕呼びかけて前に進ませ、会話をしたが、剣を抜いて斬ってしまった。石季龍はおおいに怒り、李顔らを捕えて詰問すると、李顔は顚末をつぶさに話したので、李顔ら三十余人を誅殺した。石邃を東宮に幽閉したが、まもなく赦免すると、召して太武東堂で接見した。〔しかし〕石邃は朝見しても謝罪せず、すぐに退出してしまった。石季龍は使者をつかわして石邃に言った、「太子よ、中宮(皇后)にも朝見せよ。なぜすぐに退出するのか」。石邃は脇目も振らずに退出し、無視してしまった。石季龍はおおいに怒り、石邃を庶人に廃した。その夜、石邃、その妻の張氏、および男女二十六人を殺し、みなひとつの棺の中に入れて埋葬した32『資治通鑑』は石邃のこの一連の挿話の書き出しに次の記述を配置している。「趙太子邃素驍勇、趙王虎愛之。常謂群臣曰、『司馬氏父子兄弟自相残滅、故使朕得至此。如朕有殺阿鉄理否[胡注:阿鉄、邃子小字也]』」。『十六国春秋』以来の話の構成なのであろうが、皮肉が効いている。。宮臣や徒党二百余人を誅殺した。鄭氏を廃して東海太妃とした。子の石宣を天王皇太子に立て、石宣の母の杜昭儀を天王皇后に立てた。
 安定の侯子光は弱冠にして容姿にすぐれ、仏太子を自称し、大秦国から来て小秦国の王になるのだと称していた。姓名を李子楊に変え、鄠県の爰赤眉の家と交游し、みずからの妖状(不思議な雰囲気)を頻繁に示し、〔周囲の〕出来事にもわずかに験(妖状を確証するもの)があった。爰赤眉は李子楊を信じて敬い、二人の娘を妻とさせ、ますます扇動され、惑乱するようになった。京兆の樊経、竺龍、厳諶、謝楽子らは衆数千人を杜南山に集め、李子楊は大黄帝を自称し、龍興と建元した。爰赤眉と樊経は左右丞相となり、竺龍と厳諶は左右大司馬となり、謝楽子は大将軍となった。鎮西将軍の石広がこれを攻め、斬った。李子楊の首からは血が出ず、十余日経っても、その顔色は生きているときと変わらなかった。
 石季龍は遼西の鮮卑の段遼を討伐しようとし、勇猛で腕力のある者三万人を募集し、みな龍騰中郎に任じた。段遼が従弟の段屈雲を派遣して幽州を襲撃させると、幽州刺史の李孟は撤退して易京へ敗走した。石季龍は桃豹を横海将軍とし、王華を渡遼将軍とし、水軍十万を統率させて漂渝津へ出撃させ、支雄を龍驤大将軍とし、姚戈仲を冠軍将軍とし、歩騎十万を統率させて前鋒とし、このようにして段遼を討伐させた。石季龍軍が金台に駐屯すると、支雄は長躯して薊に入った。段遼の漁陽太守の馬鮑、代相の張牧、北平相の陽裕、上谷相の侯龕ら四十余城がこぞって衆を率い、石季龍に降った。支雄が安次を攻めると、段遼の部大の夫那楼奇を斬った。段遼は恐れ、令支(地名)を放棄し、密雲山へ逃げた。段遼の左右長史の劉群と盧諶、司馬の崔悦らは府庫を封印し、使者をつかわして降服を願い出た。石季龍は将軍の郭太、麻秋ら軽装騎兵二万を派遣し、段遼を追撃させた。〔郭太らが〕これに追いつくと、密雲で戦い、段遼の母と妻を捕え、斬首は三千級であった。段遼は単騎で険阻な地へ逃げ隠れ、子の乞特真を派遣し、表(上表)と名馬を献じたが、石季龍はこれらを受け入れた。そして段遼の二万余戸を雍州、司州、兗州、豫州に移し、才能と品行がある者はみな抜擢して叙任した。これより以前、北単于の乙回は鮮卑の敦那に放逐されていたが、〔石季龍が〕遼西を平定すると、将の李穆を派遣して敦那を撃破させ、ふたたび乙回を単于に立ててから帰還した。石季龍は段遼の宮殿に入ると、功績を評定し、封建と褒賞はおのおの格差があった。
 当初、慕容皝は段遼と不仲であったので、使者を〔石季龍に〕つかわして称藩し、段遼を討伐すべきだと述べ、〔そのときには〕衆を総動員して合流したいと願い出た。〔石季龍の〕軍が令支に到着したとき、慕容皝の軍は出てこなかったので、石季龍は慕容皝を討伐しようとした。天竺の仏図澄は進み出て言った、「燕は福徳の国ですから、まだ兵を加えるべきではありません」。石季龍は顔色を変え、「この軍で城を攻めて、落とせない城があるだろうか。この軍で戦って、防衛しきれる者がいるだろうか。ちっぽけな愚物に逃げる場所はない」と言った。太史令の趙攬が固く諌めた、「燕の地は歳星が守護している場所です。出兵しても功績は立てられないでしょうし、必ずやその禍を受けるでしょう」。石季龍は怒り、これを鞭で打ち、肥如長に降格させた。軍を進めて棘城を攻めたが、旬日余経っても落とせなかった。慕容皝は子の慕容恪を派遣し、胡騎二千を統率させ、早朝に出撃させて戦闘を誘わせ、〔一方で〕諸門はことごとく、軍が出撃し、四方から雲のように大量に集まる構えを見せたので、石季龍はおおいに驚き、武器を棄てて逃げた。こうして、趙攬を召してふたたび太史令とした。石季龍は令支から帰還したが、易京を通過したさい、その城が堅固であるのを嫌がり、破壊した。〔襄国に〕帰還すると石勒の墓を拝謁し、襄国の建徳前殿で群臣に朝見し、外征に従った文武の官を免税し、格差があった。鄴に到着すると、飲至の礼33上古諸侯朝会盟伐完畢、祭告宗廟并飲酒慶祝的典礼。後代指出征奏凱、至宗廟祭祀宴飲慶功之礼。(『漢語大詞典』)を設け、〔群臣に〕捕虜を賜い、丞郎(尚書丞と尚書郎?)にまでゆきわたった。
 石季龍は昌黎(慕容皝のこと)の討伐を計画し、渡遼将軍の曹伏を派遣し、青州軍を統率させて海を渡らせ、蹋頓城に拠点を築いたが、水がなかったので帰還した。そして海中の島に拠点を築き、穀物三百万斛を輸送してここに支給した。また船三百艘で穀物三十万斛を輸送し、高句麗に向かわせ、典農中郎将の王典に軍一万余を統率させ、海辺で屯田させた。さらに青州に船千艘を建造させた。石宣に歩騎二万を統率させ、朔方の鮮卑の斛摩頭を攻めさせ、これを破り、斬首は四万余級であった。
 冀州の八郡で蝗が大発生し、司隷校尉は守宰(郡県の長官)を罪に問うよう要請した。石季龍は言った、「これは政治が調和を失い、朕が不徳であるゆえであるのに、罪を守宰に転嫁しようとするのは、禹や湯王がみずからを罰した義にまったく当たらない。司隷校尉は直言を進めず、朕の不徳を助長し、罪を無実の者に着せようとしている。私の過失を重くする原因であるので、白衣として司隷校尉を領させることとする34原文「白衣領司隷校尉」。いわゆる「白衣領職」の一例。中村圭爾氏によれば「白衣領職というのは、官人が事に坐したばあい、その当時現任していた官職を白衣なる資格・身分で帯領するという一種の官人の刑」であり、「白衣」とは「現任官のない、もしくは無官の官人の、官人としての身分を意味する言葉」だと推測している。中村氏『六朝貴族制研究』(風間書房、一九八七年)三〇三、三〇七頁。」。
 子の司徒の石韜に金鉦、黄鉞、鑾輅、九旒を加えた。
 これより以前、襄城公の渉帰、上庸公の日帰35『資治通鑑』胡三省注によると、両者は「亦石氏之族」という。に軍を統率させて長安に駐屯させていた。〔このときになって〕二帰(渉帰と日帰)は、鎮西将軍の石広が私的に(プライベートで)恩沢を広め、ひそかに不軌を謀っていると報告した。石季龍はおおいに怒り、石広を追わせ〔て捕えさせると、護送させ〕、鄴に到着すると、これを殺してしまった36原文「追広至鄴、殺之」。『資治通鑑』も同じだが、「百衲本」「和刻本」は「追広、至而殺之」に作る。とりあえず本文のままに従って読んだ。
 段遼は密雲山にて、使者をつかわして偽って降服した。石季龍はこれを信じ、征東将軍の麻秋に百里の郊37原文「百里郊」。狭義には都城から百里を「遠郊」と呼ぶが、おそらくここは厳密にそういう意味ではなく、都城からすっごい遠い地点という意味だと思われる。で〔段遼を〕迎えさせたが、麻秋に勅して(戒めて)言った、「降服を受け入れるときは、敵を待ち受けるように〔警戒〕せよ。将軍よ、慎重になりたまえ」。段遼は慕容皝にも使者をつかわして降ったが、こう言った、「胡は貪欲ですが、策略〔を立てる機知〕はありません。私がいま、降服を願い出て迎えを求めたところ、あの者はとうとう疑いませんでした。もし重装備の軍を伏せておき、これを迎え撃てば、志を遂げることができるでしょう」。慕容皝は子の慕容恪を派遣し、兵を密雲に伏せておいた。麻秋は軍三万を率いて段遼を迎えに来たが、慕容恪の襲撃に遭い、十人のうち六、七人が死に、麻秋は徒歩で逃げ帰った。石季龍はこれを聞くと、驚愕して怒り、食べていた物を吐き出し、麻秋の官と爵を降格した。
 書を下し、諸郡国に五経博士を立てさせた。そのむかし、石勒は大学と小学に博士を置いたが、このときになって国子博士と助教を復置した38国子学を置いたということであろう。。石季龍は、吏部の選挙が年長の有徳者を排斥し、勢門(権勢のある家柄)の年少者が多く美官に就いていることから、郎中の魏【 】を免じて庶人とした。太子の石宣を大単于とし、天子の旌旗を立てさせた。
 夔安を征討大都督とし、五将と歩騎七万を統率させて荊州と揚州の北辺を侵略させた。石閔は王師(晋軍)を沔陰(沔南)で破り、〔晋の〕将軍の蔡懐が戦死した。石宣の将の朱保も王師を白石で破り、〔晋の〕将軍の鄭豹、談玄、郝荘、随相、蔡熊がみな殺された。石季龍の将の張賀度が邾城を攻め落とし、晋の将の毛宝を邾の西で破り、〔毛宝軍の〕死者は一万余人であった。夔安が進軍して胡亭を占拠すると、晋の将軍の黄沖と歴陽太守の鄭進がともに降った。夔安はこうして、七万戸を拉致して帰還した。
 このころ、豪戚39権勢をふるっている外戚、という意味であろうか。似たような語に「貴戚」があり、東晋次氏によれば「皇帝の寵遇、信任を被り、列侯(以上)の爵位を有する帝室の戚属者」を指すという。東氏『後漢時代の政治と社会』(名古屋大学出版会、一九九五年)一〇八頁。は思うままに収奪し、賄賂が公然と横行していた。石季龍はこれに頭を悩まし、殿中御史の李矩を抜擢して御史中丞とし、特別に親任した。これ以後、百官は震撼し、州郡は粛然となった。石季龍は言った、「朕が聞くところでは、良臣は猛獣のような者で、高らかに道路を闊歩すれば40原文「高歩通衢」。『漢語大詞典』によれば「謂得意于朝廷、官居顕位」という。、豺狼(悪人)は道を譲るのだとか。確かにそのとおりだ」。
 鎮遠将軍の王擢が上表し、雍州と秦州の名族は東に移されて以来、そのまま戍役(兵役)につく慣例となっているが、衣冠の名族の子孫であるのだから、特別に免除の恩恵を受けるのがふさわしいと述べ、〔石季龍は〕これを聴き入れた。これ以後、皇甫氏、胡氏、梁氏、韋氏、杜氏、牛氏、辛氏ら十七姓は兵役の慣例から免除され、すべて旧族と同等〔の待遇〕とし、才能に応じて選考し、叙任し、故郷に戻りたい者は帰郷を許した。これらの十七姓でない家については、例(優遇の規定?)を立てるのを許さなかった。
 撫軍将軍の李農を使持節、監遼西・北平諸軍事、征東将軍、営州牧とし、令支に出鎮させた。
 このころ、大旱魃で、白虹が天にかかった。石季龍は書を下した、「朕が位について六年になるが、上は天の現象を調和させられず、下は民衆を救済できず、そのために天体と虹の災異を招いてしまった。そこで、百官おのおのに封事(密封した文書)を奉じさせる。〔また〕西山の禁令を解き、蒲、葦、魚、塩は毎年の供御を除いた分について、すべて〔特定の者たちが〕確保してはならない。公侯卿牧は山沢の独占をたくらみ、百姓の利益を奪ってはならない」。さらに書を下した、「さきに豊国と澠池に冶鉄所が建てられたとき、刑徒を移してここに配置し、便宜的に当面の仕事を助けさせた。しかし主者はそれを継続して常法にしてしまったため、怨嗟の声を招いてしまった。今後、罪人で流徒に処された者は、すべて奏聞するようにし、かってに配置してはならない。京師の獄の現役囚人で、みずからの手で人を殺した者でなければ、すべて赦免し、釈放する」。その日、雨が降った。

石季龍(1)石季龍(2)石季龍(3)附:石世・石遵・石鑑附:冉閔

  • 1
    「おい」のこと。狭義には兄弟の子を指すが、広義には兄弟姉妹の子と同輩の親族(従兄弟の子とか)も含む(荀彧と荀攸、王導と王羲之など)。そうなると、後文にあるように石勒の父は石虎を子として引き取っているわけだが、もし石勒の「おい」=子の世代であるならば、石勒の父にとっては孫の世代にあたり、それを石勒と同輩のように扱うというのはいくら羯とはいえ不可解な印象が……。まあ、いろいろと事情があったのかもしれない。
  • 2
    『世説新語』言語篇の劉孝標注に引く「趙書」に「虎字季龍、勒従弟也」とあり、『太平御覧』巻三八六、健に引く「石虎別伝」に「虎字季龍、勒従弟」とあるのがそうした例であろう。
  • 3
    『魏書』羯胡石勒伝によれば永嘉五年のこと。
  • 4
    石勒載記下によれば、大単于を授けられたのは石宏。
  • 5
    原文「推逼」。推戴して君主に立つよう催促すること。意訳した。
  • 6
    出典不明。『白虎通疏証』号に「帝王者何、号也。……徳合天地者称帝、仁義合者称王、別優劣也。……皇者、何謂也、亦号也。皇、君也、美也、大也。天人之総、美大之称也。時質、故総称之也」とあり、『太平御覧』巻七六、叙皇王上に引く「応劭漢官儀」に「皇者大帝(孫星衍の輯本は「也」に作る)、言其煌煌盛美。帝者徳象天地、言其能行天道、挙措審諦、……」とあり、『独断』巻上に「皇帝、至尊之称。皇者、煌也。盛徳煌煌、無所不照。帝者、諦也。能行天道、事天審諦。故称皇帝」とあり、やや近いが載記とはちがっている記述が見えている。
  • 7
    原文「非所敢聞」。「(天子などに)申しあげるまでもない」、もしくは「よくわからない」「詳しくなくてよく知らない」の謙遜表現、すなわち「寡聞にして知らない」の二つの使い方がある句のようである。ここは後者か。「皇」や「帝」という君主号の意味は知っているが、それらをミックスした「皇帝」という称号はどういう君主が称する称号なのか知識が乏しいゆえにわからない、ということだろうか。『資治通鑑』は「非所敢当」に作る。
  • 8
    「居摂」は臣が君主に代行して職務をおこなうことを言い、周公についてよく言われる。「居摂趙天王」は「趙天王の代行」という意になる。前文で言われれていることをふまえれば、石勒が最終的についた皇帝号が自分にふさわしいのかよくわからないので、ひとまず天王の代行につくことにして、群臣が勧めている皇帝号については今後検討する、となろうか。あくまで「居摂」であって天王位につかないのは、皇帝の君主号はいったん保留とし、その保留期間は仮の君主号を称すると示すためであろう。そうだとすれば、そもそも得体のわからない皇帝号が暫定的な君主号に採用されないのは当然であろうが、天王号は皇帝号とは逆に理解できており、そうであるがゆえにここで仮の君主号に採られているのだと考えられる。松下洋巳氏は、胡族にとって皇帝号は意味が理解できない称号で、胡語への翻訳も不可能であり、「多言語社会の中では、「中国」の域内でしか通用しない」ものであったのに対し、「各言語に簡単に訳す事が出来、意味もわかりやすく、普遍的な概念である「天」と「王(首長)」からなる天王号の方がより状況に即した称号であった」と論じている(松下「五胡十六国の天王号について」、学習院大学東洋文化研究所『調査研究報告』四四、一九九九年、一二頁)。少なくともここで石虎が開陳している論理は松下氏の考察のとおりである可能性が高い。
  • 9
    名前からして、往復のどちらかの道中で車を停めた場所を記念したのだろう。
  • 10
    鍾虡は、鍾は「鐘」(楽器)の意、虡は神獣のことで、鐘を吊るす木にその装飾を施したものであるらしい。『漢書』郊祀志下の顔師古注に「虡、神獣名也。懸鍾之木刻飾為之、因名曰虡也」とある。『太平御覧』巻五七五、鍾に引く「趙書」に「将軍張珍、領郡県民丁万人、徙洛陽六鍾猛虡、九龍、翁仲、銅駝、飛廉」とあり、鍾は六つあった? 九龍以下はおそらく銅像。『資治通鑑』胡三省注は「皆魏明帝所鋳」とする。
  • 11
    文字どおりにとれば「通ずることと塞がること」だが、『宋書』蔡廓伝の史臣曰に「良以主闇時難、不欲居通塞之任也」とあり、ここの「居通塞」は「居権要」(蔡廓伝)とほぼ同義であると思われる。どういうことから「権要」の意になるのかよくわからないが、この箇所も「権要」の意で取ると通じる。
  • 12
    「清定」は原文のまま。文脈的に、官人の成績を考課し、人事に反映して、九品の序列を適切に正すことを言うのであろう。石勒載記下の注も参照。
  • 13
    原文「黄紙再定」。「黄紙」にかんしては、中村圭爾氏によれば「「文官挙補満叙」のような人事案件もふくむ重大事案を、尚書諸官の連署のもとに奏するものをいう」(中村『六朝政治社会史研究』汲古書院、二〇一三年、二三一頁)。『宋書』蔡廓伝に「選案黄紙、録尚書与吏部尚書連名」とあり、中村氏は「尚書が上呈する黄紙をもちいた人事選任原案」(同前)とする。また中村氏前掲書、二二三頁以下で考察をくわえている陳の「用官式」(『隋書』百官志上)に「吏部先為白牒、録数十人名、……勅或可或不可、……若勅可、則付選、……以黄紙録名、八座通署、奏可、即出付典名。……其有特発詔授官者、即宣付詔誥局、作詔章草奏聞、勅可、黄紙写出門下、門下答詔、請付外施行、又画可、付選司行召」とあり、選挙過程で黄紙が使用されている。他の用例でも選挙や推挙に関連するものが散見されるので、ここでは「被選挙者の人名が列記された奏案」と捉えることにし、転じて「黄紙を用いた選挙」と読むことにする。具体的には前文で言及されている九品制と清定のことであり、清定は九品制に付随するものともみなせようから、端的には九品制を指すと解釈したい。増村宏氏は、本文の「黄紙」を蔡廓伝の「選案黄紙」と同一視し、その「再定」というのは石勒載記下の「清定五品」と「復続定九品」を指すとしている(増村「黄白籍の研究」、『東洋史研究』二―四、一九三七年、三四二―三四三頁)。「再定」の実質的な意味としては異論ないが、読み方としてはもう少し簡単でよいように思う。というのも、前文からの文脈としては、「黄紙を用いた選挙」が魏以降も継承され、晋末の混乱でいったん廃れてしまったけれども石勒が天下に君臨するに及んで「ふたたび定まった」という話の展開だと思われるからである。その「ふたたび定まった」のは石勒による二度の「定」を経てのことであろうと思われるため、さきにも述べたように実質的には増村氏に異論ないわけだが。
  • 14
    人物の能力や成績を審査してその者に適切な官職を選定すること。
  • 15
    原文「至於選挙、銓為首格。自不清定、三載于茲」。自信はない。
  • 16
    宮崎市定『九品官人法の研究――科挙前史』(中公文庫、一九九七年、原著は一九五六年)二一三―二一四頁はじめ、劉頌が西晋・恵帝期に提案した「九班之制」を指すと考えられている。劉頌伝に「転吏部尚書、建九班之制、欲令百官居職希遷、考課能否、明其賞罰。賈郭専朝、仕者欲速、竟不施行」とあり、官人をすぐに転任・昇進させず、一定期間官におらせて成績を審査するための制度であったらしいが、具体的にどういう設計がなされていたのかはわからない。ここでそれに従えと言っているのは、制度の概要こそ不詳であるものの、劉頌の「令百官居職希遷、考課能否、明其賞罰」という理念を継承し、「仕者欲速」という世の風潮になびいた頻繁な人事昇進をしないように命じているのだろう。
  • 17
    直前に見えている中書と門下にくわえて尚書、具体的には尚書令と僕射のことを指していると考えられる。本載記の後文によると、通常の人事(「調用」)においては、吏部曹が考案した選挙案は尚書令と僕射の承認を経てからでなければ奏聞できなかったそうである。であれば、今回の三年の一度の「清定」ももちろん令僕の承認が必要であろう。尚書全体を統括する長からの承認をもって「尚書の承認を得た」と認定していたのだろうと思われる。
  • 18
    『資治通鑑』胡三省注によれば「鮮卑種。……以其辮髪故謂之索頭」という。
  • 19
    架設于高空的橋梁。(『漢語大詞典』)
  • 20
    原文「霊風台九殿」。『太平御覧』巻一二〇、石虎に引く「崔鴻十六国春秋後趙録」は「霊台之殿」に作る。「九」は「之」の誤字かも?
  • 21
    絹製品の総称。(『漢辞海』)
  • 22
    原文「絚繳上下」。呉振清氏の解釈を参照した。呉氏は縄を使って盤を昇降したのだろうという。呉振清校注『三十国春秋輯本』(天津古籍出版社、二〇〇九年)一三〇頁。私は装置の想像があまりつかないので、どうにも説明ができないというか、うまく訳せないです。
  • 23
    『資治通鑑』によれば「諸子為王者」のこと。
  • 24
    『資治通鑑』によれば「宗室為王者」のこと。
  • 25
    『漢書』郊祀志上に「虞書曰、舜在璿璣玉衡、以斉七政」とあり、顔師古注に「虞書舜典也。在、察也。璿、美玉也。璣転而衡平。以玉為璣衡、謂渾天儀也。七政、日月五星也。言舜観察璣衡、以斉同日月五星之政、度合天意」とある。
  • 26
    『漢書』礼楽志の顔師古注に「四方極遠之処也」とある。
  • 27
    原文「懸管而入」。後文で石斌についてもこう言われているが、「懸管」の用例がほかになく、意味不詳。荻生徂徠は「懸管シテ」と読んでいる。
  • 28
    原文「内諸比丘尼有姿色者」。「内」は内朝の意で取れそうに思うが、『太平御覧』巻一二〇、石虎に引く「崔鴻十六国春秋後趙録」に「納諸比丘尼有姿色者」とあり、これをふまえるならば、「宮中に召し入れる」意なのだろう。
  • 29
    原文「与其交褻」。荻生徂徠の読み方に従い、「其れと(与)交褻して」と読んだが、違和感はある。
  • 30
    官名もしくは従者一般の意。
  • 31
    父を殺して自分が主君に立つこと。
  • 32
    『資治通鑑』は石邃のこの一連の挿話の書き出しに次の記述を配置している。「趙太子邃素驍勇、趙王虎愛之。常謂群臣曰、『司馬氏父子兄弟自相残滅、故使朕得至此。如朕有殺阿鉄理否[胡注:阿鉄、邃子小字也]』」。『十六国春秋』以来の話の構成なのであろうが、皮肉が効いている。
  • 33
    上古諸侯朝会盟伐完畢、祭告宗廟并飲酒慶祝的典礼。後代指出征奏凱、至宗廟祭祀宴飲慶功之礼。(『漢語大詞典』)
  • 34
    原文「白衣領司隷校尉」。いわゆる「白衣領職」の一例。中村圭爾氏によれば「白衣領職というのは、官人が事に坐したばあい、その当時現任していた官職を白衣なる資格・身分で帯領するという一種の官人の刑」であり、「白衣」とは「現任官のない、もしくは無官の官人の、官人としての身分を意味する言葉」だと推測している。中村氏『六朝貴族制研究』(風間書房、一九八七年)三〇三、三〇七頁。
  • 35
    『資治通鑑』胡三省注によると、両者は「亦石氏之族」という。
  • 36
    原文「追広至鄴、殺之」。『資治通鑑』も同じだが、「百衲本」「和刻本」は「追広、至而殺之」に作る。とりあえず本文のままに従って読んだ。
  • 37
    原文「百里郊」。狭義には都城から百里を「遠郊」と呼ぶが、おそらくここは厳密にそういう意味ではなく、都城からすっごい遠い地点という意味だと思われる。
  • 38
    国子学を置いたということであろう。
  • 39
    権勢をふるっている外戚、という意味であろうか。似たような語に「貴戚」があり、東晋次氏によれば「皇帝の寵遇、信任を被り、列侯(以上)の爵位を有する帝室の戚属者」を指すという。東氏『後漢時代の政治と社会』(名古屋大学出版会、一九九五年)一〇八頁。
  • 40
    原文「高歩通衢」。『漢語大詞典』によれば「謂得意于朝廷、官居顕位」という。
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