巻一百三 載記第三 劉曜(1)

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 劉曜は字を永明といい、劉元海の族子である。幼少時に孤児となり、劉元海に育てられた。幼くして聡明で、非凡な度量をそなえていた。八歳のとき、劉元海に随伴して西山で狩猟したが、たまたま雨が降ってきたので樹の下で雨宿りしていると、雷がその樹に落ちた。そばにいた人たちはみな倒れたが、劉曜の顔色はいつもどおりであった。劉元海はこのことを不思議だと思い、「この子はわが家の千里の駒である。従兄は不滅となったのだ1原文「従兄為不亡矣」。「為不亡矣」は南北朝の正史に用例がしばしばみえる。それら用例も「為」の上には名があるが、おおむね故人となった父や親類、祖先である。ここの「従兄」も劉曜に関係のある故人のこと、というかたぶん父親であろう。つまり「為不亡矣」というのは、「故人が再来したようだ」的なニュアンスだと思われるが、どう日本語で表現したらいいのかわからないので、そのまま訳出することにした。」と言った。身長は九尺三寸で、手を垂らすと膝を過ぎ、生まれつき眉は白く、目には赤い光があり、あごとほおのひげは百本ばかりの毛もなかったが、どれも長さは五尺あった。自由奔放かつ高潔な性格で、人々と群れなかった。読書はおおまかに読むことを心がけ、章句を細かく解釈しようとはしなかった。作文が得意で、草書と隷書に巧みであった。武勇は常人をしのぎ、厚さ一寸の鉄をも射抜いたので、当時は神射と号された。とりわけ兵書を好み、ほぼ暗誦していた。いつも呉漢と鄧禹を軽視し、みずからを楽毅、蕭何、曹参に比していたが、当時の人々で認める者はいなかった。ただ劉聡だけはいつもこう言っていた、「永明は世祖(光武帝)や魏の武帝の類いだ。〔楽毅など〕数人の公は言うに及ばない」。
 弱冠(二十歳)にして洛陽へ遊学したが、事件で罪を得て誅殺の判決を受けたため、朝鮮に逃亡して隠れた。〔その後〕恩赦の布告があったので帰った。気質2原文「形質」。『漢語大詞典』が掲げる一義に「才具、気質」とあり、劉曜載記のこの箇所を用例に挙げている。とりあえずこれに従う。が他の人々と異なり、おそらく世に受け入れられないだろうとみずから思ったので、管涔山に隠居し、琴と読書をなりわいとした。ある夜、静かに過ごしていたところ、二人の童子が入ってきて跪き、「管涔王の命により、趙皇帝に謁見し、剣一振りを献上いたします」と言った。〔その剣を劉曜の〕面前に置き、再拝して去った。灯火を近づけて剣を観察すると、長さは二尺で、輝きは尋常ではなく、赤い玉が鞘となっており、背には銘文が刻まれていた、「神剣御除衆毒(この神剣を佩けば、数多の毒を除去できよう)」。劉曜はついにこの剣を佩いた。剣は四時(四季?)に応じて五色に変化した。
 劉元海の時代は、しきりに顕職を歴任し、のちには相国、都督中外諸軍事に任じられ、長安に出鎮した。靳準の変のとき、長安から平陽に駆けつけた。赤壁に着くと、太保の呼延晏らが平陽から赤壁に逃げてきて、太傅の朱紀、太尉の范隆らと〔劉曜に〕尊号を奉じた。劉曜は〔晋の〕太興元年に僭越して皇帝の位につき、境内を大赦したが、靳準の一門だけは赦例に含めなかった。光初に改元した。朱紀を領司徒とし、呼延晏を領司空とし、范隆以下はすべてもとの位を回復した。征北将軍の劉雅、鎮北将軍の劉策を汾陰に駐屯させ、石勒と掎角(挟み打ち)の形勢を築いた。
 靳準は侍中の卜泰を派遣して石勒に降ろうとしたが、石勒は卜泰を捕え、劉曜に送った。〔劉曜は〕卜泰に言った、「先帝(劉粲?)は末年、まことに秩序を乱し、宦官らは政治をかき乱して忠良の人々を誅殺していたが、じつにこれは義士が匡正して討伐するべき機会であった。司空(靳準)は〔この機をとらえて〕忠烈の心を堅持し、伊尹や霍光のごとき権謀を実行し、〔人々を〕苦難から救済し、朕を即位にまでいたらしめた。勲功は古人(伊尹と霍光?)よりも高く、徳は天地にも匹敵する。朕はまさに大難を救済し、非命(不測の災難による落命)を君子や賢者にふりかからせないつもりである。司空がもし忠誠を守り、早急に大駕(天子=劉曜)を迎えるのならば、政治は靳氏から発せられ、祭祀は寡人がおこなうこととしよう。朕のこの意を司空に伝え、朝士に知らせよ」。卜泰は平陽に帰ると、つぶさに劉曜の意向を伝えた。靳準は劉曜の同母兄を殺していたのを理由に、ためらって従うことができずにいた。〔すると〕まもなく喬泰、王騰、靳康、馬忠らが靳準を殺し、尚書令の靳明を盟主に推戴し、卜泰を派遣し、伝国の六璽を献上して劉曜に降った。劉曜はおおいに喜び、卜泰に言った、「朕にこの神璽を得させ、帝王とならせたのは君だ」。石勒はこのことを知ると、おおいに怒り、兵を増員して靳明を攻めた。靳明は抗戦したがしきりに敗れたため、使者を派遣して救援を劉曜に要請した。劉曜は劉雅、劉策らに靳明を迎えさせた。靳明は平陽の士女(男女)一万五千人を率いて劉曜に帰順した。劉曜は命令を下し、靳明を誅殺させ、靳氏の男女は少長関係なくすべて殺させた。〔劉曜は〕劉雅に〔劉曜の〕母の胡氏の遺体を平陽から迎えさせ、戻ると粟邑に埋葬し、墓を陽陵と号し、宣明皇太后の偽諡をおくった。僭越して高祖父の劉亮を尊んで景皇帝とし、曾祖父の劉広を献皇帝とし、祖父の劉防を懿皇帝とし、父を宣成皇帝とした。都を長安に移し、光世殿を前方に、紫光殿を後方に建てた。妻の羊氏(恵帝皇后の羊氏です)を皇后に立て、子の劉煕を皇太子に立て、子の劉襲を長楽王に封じ、劉闡を太原王に封じ、劉沖を淮南王に封じ、劉敞を斉王に封じ、劉高を魯王に封じ、劉徽を楚王に封じ、〔そのほか〕もろもろの宗室を召して全員を郡王に昇格した。宗廟、社稷、南北の郊を修繕した。〔みずからを〕水徳に定めて晋の金徳を継承することとし、国号を趙とした。犠牲の雄牛は黒色を尊び、旗は玄(黒色)を尊び、冒頓を天に配し、劉元海を上帝に配し、境内の殊死以下の罪人を大赦した3国号変更などの議の一部が『太平御覧』巻119、劉曜に引く「崔鴻十六国春秋前趙録」に記録されている。「(光初元年)六月、繕宗廟社稷南北郊于長安。令曰、『蓋王者之興、必褅始祖。我皇家之先、出自夏后、居于北夷、世跨燕朔。光文以漢有天下歳久、恩徳結於民庶、故立漢祖宗之廟、以懐民望。昭武因循、遂未悛革。今欲除宗廟、改国号、御(復?)以大単于為太祖。其速議以聞』。於是太保呼延晏等議曰、『今宜承晋。母子伝号。以光文本封盧奴、中〔山?〕之属城。陛下勲功懋於平洛、終於中山。中山分野属大梁、趙也。宜革称大趙、遵以水行』。曜従之。於是以冒頓配天、淵配上帝」。
 黄石の屠各の路松多が新平と扶風で挙兵し、数千の人々を集め、南陽王保に帰順した。南陽王は将の楊曼を雍州刺史とし、王連を扶風太守とし、陳倉を守らせ、張顗を新平太守とし、周庸を安定太守とし、陰密を守らせた。路松多が草壁を落とすと、秦と隴の地の氐や羌は多く路松多に帰順した。劉曜は車騎将軍の劉雅と平西将軍の劉厚を派遣し、楊曼を陳倉で攻めさせたが、二旬日経っても落とせなかった。劉曜は内外の精鋭を率いて陳倉に向かい、進軍して雍城に駐屯した。太史令の弁広明は劉曜に言った、「昨夜、妖星が月を犯しました。進軍するべきではありません」。そこで中止になった。劉雅らに命じ、包囲を整えて軍塁を固めさせ、そうして大軍を待つようにさせた。
 地震があり、長安がとりわけひどかった。この当時、劉曜の妻の羊氏は格別の寵愛があり、しばしば政事に干渉していたが、〔地震は〕陰の気に過剰があったことのしるしである。
 〔太興〕三年、劉曜は雍城を出発し、陳倉を攻めた。楊曼と王連は作戦を練った、「間者がちょうど戻ってきたが、〔進んでくる敵軍には〕五牛旗(不詳)が立っていると報告しており、〔また〕多くの間者が言うには、胡主(劉曜)みずからが来ているから、あちらの先鋒とは交戦するべきではないだろうとのことである。われわれの食糧はすでに少なく、長期間はもたない。かりに〔敵が〕軍を城壁の下に留め、包囲が百日に及べば4原文「囲人百日」。和刻本は「人当作及」という。これに従って読んだ。、兵刃を交えるまでもなくわれわれは自滅するだろう。〔だから〕現存の軍を率いて一戦交えるにこしたことはない。もし勝利すれば、関中〔の人々〕は檄が届くのを待たずに〔こちらに〕集結しよう。敗北しても、死ぬのと同じこと。遅かれ早かれ死ぬものだ」。ついに全軍を動員し、城を背にして布陣したが、劉曜に敗れ、王連は戦死し、楊曼は南方の氐のもとへ敗走した。劉曜は進軍して草壁を攻め、これも落とした。路松多は隴城に敗走し、進撃して安定を落とした。南陽王保は恐懼し、桑城に移動し、氐や羌はみなこれに付き従った。劉曜は軍列を整えて長安に帰還した。劉雅を大司徒に任命した。
 晋の将の李矩が金墉城を襲撃し、これを落とした。劉曜の左中郎将の宋始と振威将軍の宋恕が石勒に降った。大将軍、広平王の劉岳を征東大将軍に任命し、洛陽に出鎮させた。ちょうど三軍に疫病がひどく蔓延してしまったので、劉岳はとうとう澠池に駐屯した。石勒は石生を派遣し、疾駆させて宋始らに呼応させたが、その軍の気勢はひじょうに盛んであった。劉曜の将の尹安、趙慎らは洛陽をもって石生に降ってしまった。そのため、劉岳は軍を引き返し、陝城に鎮した。
 西明門内の大樹が風で折れたが、一晩経つと、樹はゆがんで変形し、人間の形になっていた。髪の長さは一尺、鬚(あごひげ)と眉の長さは三寸で、それらの毛はどれも黄白色(あわい黄色?)であった。〔腕は〕斂手5両手を組む。挨拶の一種。(『漢辞海』)の状態で、また両足は裙(もすそ)をはいた形をしており、目と鼻だけがなかった。毎晩、声を発していた。十日経って枝が生え、そのまま大樹に成長し、枝葉がおおいに茂った。
 長水校尉の尹車が謀反し、ひそかに巴の酋長の句徐、庫彭と結託した6原文「潜結巴酋徐庫彭」。通鑑は「徐」の上に「句」字があり、「句徐」と「庫彭」の二人とする。中華書局は通鑑が正しいと判断している。それに従う。。劉曜は尹車を誅殺し、庫彭ら五十余人を阿房に収監し、殺そうとした。光禄大夫の游子遠は強く諌めたが、劉曜は聴き入れなかった。游子遠は叩頭して血を流すほどであったが、劉曜はおおいに怒り、游子遠を幽閉して庫彭らを皆殺しにし、遺体を街中に十日間さらしてから川に棄てた。このため、巴と氐がみなそむき、巴の帰善王の句渠知を首領に推戴した。四山(不詳。四つの山?)の羌、氐、巴、羯でこれに呼応する者は三十余万人にのぼり、関中はおおいに混乱し、城門は昼でも閉ざされた。游子遠はふたたび獄から上表し、諫めたが、劉曜はひじょうに怒り、その上表を破って言った、「大茘7『後漢書』西羌伝に「洛川有大荔之戎」とあり、李賢注に「洛川即洛水。大荔、古戎国、秦獲之、改曰臨晋」とある。の野郎めが。寸分の命を心配せず、まだこんなことをしてきやがる。死ぬのが遅れるのを嫌がっているのか」。〔劉曜は〕左右の者に怒鳴り、遊子遠をすみやかに殺すよう言いつけた。劉雅、朱紀、呼延晏らは諌めた、「子遠が幽閉されてもなお諌めるのは、いわゆる社稷に忠誠を尽くして、〔自分に〕死が迫っているのに気づかない、というものです。陛下がたとえ彼を用いることができないとしても、どうして殺すのですか。もし子遠が朝に誅殺されれば、臣らも暮れに死に、そうして陛下の過ちを明るみにするつもりです。〔そうすれば〕天下の人々はこぞって陛下のもとを去り、西海(たぶん西域の海)に身を投げて死ぬまでです。陛下は誰と〔ここで〕過ごすことになるでしょうか」。劉曜は心意を理解したので、游子遠を赦した。こうして内外に戒厳を命じ、句渠知を親征しようとした。游子遠は進み出て言った、「陛下がもし愚臣の計略を聴き入れてくだされば、大駕(天子)をわずらわすことなく、一か月以内に平定させられましょう」。劉曜、「卿よ、試しに申してみよ」。游子遠、「彼らは大志を抱き、非望を奪い取ろうとしているのではありません。たんに陛下の厳しい法に追い詰められただけです。いま、死んだ者は取り返しがつきませんから、反逆者の家の老人や弱者で奚官に没した者たちに恩赦をあたえるにこしたことはありません。もし、次々と慈愛を賜い、生業に復帰するのを許可し、大赦を布告して人民とともに再始動しようとすれば、彼らに生の道が開かれたことになるわけですから、すぐにも降服するでしょう。かりに句渠知が、重罪であるのを理由にすぐに降らなければ、臣に弱兵五千をお与え下さい。それによって陛下のために〔句渠知の〕首をさらしてみせましょう。決して陛下の将帥をわずらわせません。このようになさらなければ、現在すでに賊の徒党は多数で、川や谷を覆い尽くすほどですから、天威(天子の武力)をもって彼らに臨んだとしても、おそらく一年以内に平定することはできないでしょう」。劉曜はおおいに喜び、游子遠を車騎大将軍、開府儀同三司、都督雍・秦征討諸軍事とした。境内を大赦した。游子遠が雍城に駐屯すると、降服する者は十余万人にのぼった。安定に進軍すると、氐や羌はことごとく降ったが、句氏の宗族の五千余家だけは陰密にこもった。〔游子遠は〕進軍してこれを攻めて平定し、とうとう軍列を整えて隴西を巡行すると、〔隴西に割拠していた〕陳安が郊外で迎えた。
 これより以前、上郡の氐や羌の十余万落が険阻な土地にこもって降らず、酋大(酋長)の虚除権渠は秦王を自称していた。游子遠は軍を進めてその防壁のふもとまで至ると、虚除権渠は衆を率いて防戦し、五度交戦したものの、游子遠に敗れた。虚除権渠は恐れて降ろうとしたが、子の伊余は衆に大言した、「かつて劉曜がみずから来たときでさえ、われわれをどうにもできなかったのだ。ましてあの偏師(一部隊)が降服させようとするなどできるものか」。〔伊余は〕精兵五万を率い、早朝に〔遊子遠の〕軍塁の門に迫った。〔游子遠の〕左右の者は交戦を勧めたが、游子遠は言った、「伊余の武勇は当代に並ぶ者なく、士馬の精強さも匹敵する軍はいない、と私は聞いている。また伊余の父が敗れたばかりだから、怒気もおおいに高まっている。そのうえ、西戎は剽悍で、その気勢は類例をみない高まりである8原文「鋒鋭不可擬」。「なぞらえることのできない鋭さ」は「例をみない鋭さ」のことであろうと考え、このように意訳した。。いなして気力を削がせてから攻撃をかけるのが最上だ」。そこで防壁を固くして戦わなかった。伊余は調子に乗った様子であった。游子遠は伊余が無防備であるのを偵察すると、夜に兵士と誓約し、早めの食事を取った。早朝、強風が吹き、霧がたれこめていたので、游子遠は「天がわれわれを助けてくれているぞ」と言い、みずから兵士に先んじ、〔固めていた〕防壁を取り除いて出撃した。夜明けのころには敵軍を壊滅させ、伊余を生け捕りにし、その衆をことごとく捕虜にした。虚除権渠はおおいに恐懼し、ざんばら髪で割面9割破顔面、表示降服。(『漢語大詞典』)し、降服した。游子遠は劉曜に啓し、虚除権渠を征西将軍、西戎公とし、伊余の兄弟およびその部落の二十余万口を長安に分配して移住させるよう具申した。西戎のなかでは虚除権渠の部落がもっとも強く、〔そのほかの部落は〕みな虚除権渠の命令を受けて横暴をはたらいていたので、虚除権渠が降服すると〔劉曜に〕帰順しない部落はなかった。
 劉曜はおおいに喜び、群臣と東堂で宴会を催した。会話が往事のことにおよぶと、涙をはらはらと流し、ついに書を下した、「そもそも、有徳者を賛美し、耆旧者を考慮するのは、聖王が優先する事柄である。恩恵を考え、孤児を顕彰するのは、明王の恒久的な規範である。このため、世祖(漢の光武帝)が河北で創業したとき、封建を厳尤の孫に賜い、魏の武帝が軍を梁と宋の地で統御したとき、追想して橋公の墓を悼んだのであった。さきに追贈したばかりの大司徒、烈愍公の崔岳、中書令の曹恂、晋陽太守の王忠、太子洗馬の劉綏らは、ある者は朕を幼年のときから知っており、ある者は朕を艱難の極みから救ってくれた。私は〔これらの〕君子のことを思い出し、じつに心を痛めている。『詩』も言っているではないか、『心から君子を大切に思い、一日として忘れることはない』(小雅、隰桑)と。崔岳は漢昌のはじめに追贈されたとはいえ、ちょうど否運の時期であったため、礼章(礼の規則)〔からして本来受けるべき待遇?〕が整っていない。いま、崔岳に使持節、侍中、大司徒、遼東公を贈り、曹恂に大司空、南郡公を贈り、劉綏に左光録大夫、平昌公を贈り、王忠に鎮軍将軍、安平侯を贈り、全員に散騎常侍を加える。しかし、みなの墓は消失してしまっており、哀悼を述べようにも詮方ない。有司はすみやかに瑞玉(諸侯のしるし)をもって崔岳らの子孫を捜索し、茅土を授け、朕の意向にかなうようにせよ」。むかし、劉曜が〔洛陽から〕逃亡したとき、曹恂とともに劉綏のもとへ逃げると、劉綏は彼らを書物を入れる箱に隠し、車に積んで王忠のもとへ送り、王忠は朝鮮へ送ったのであった。一年あまり経つと飢えで困窮したので、姓名を変え、〔朝鮮に〕客居して県卒となった。〔その当時、〕崔岳は朝鮮令であったが、〔劉曜を〕見ると異才と思い、経緯を問いただした。劉曜は叩頭して自首し、涙を流して哀れみを求めた。崔岳、「崔元嵩は孫賓碩10『三国志』閻温伝の裴松之注に引く「魏略」にみえる。後漢の人らしい。に及ばないと卿はお考えですか。どうしてそれほどまでに恐れるのでしょう。いま、卿の逮捕を命じる詔が下っていて、たいへん峻厳ですから、百姓のなかで身を守ることは不可能でしょう。この県は僻地で、地勢が〔卿を〕お救いするでしょうが、かりに緊急事態が起こったとしても、〔私の〕印綬をほどいて卿とともに逃げるまでです。私の一族はすでに衰退し、兄弟もおらず、この身も幸薄く、まだ子どもができません。卿は私の子弟のような方ですから、それほど心配なさらないでください。大丈夫が世に立身した以上、鳥獣ですら人間に立ち向かって〔仲間を?〕助けようとするものなのですから、君子であればなおのこと〔お上に立ち向かうまで〕です」11この崔岳の言葉、全体的によく読めなかった。。〔崔岳は劉曜に〕衣服をあげ、書籍を支給した。劉曜はとうとう崔岳に従い、よくわからない事項は問いただしたが12原文「質通疑滞」。自信はない。、〔崔岳の〕恩顧はひじょうに厚かった。崔岳は穏やかな様子で劉曜に言った、「劉生の風格は神がかっています。命世13元帝紀の注18を参照。の才です。微風によって四海を揺るがす者がいるとすれば、それは不世出の魁傑でしょうが、卿こそその人でしょう」。曹恂は災難のなかにあっても、劉曜に君臣の礼で仕えた。ゆえに〔劉曜は〕みなを有徳者としたのであった。
 劉曜は太学を長楽宮の東に立て、小学を未央宮の西に立て、百姓のなかから年齢二十五以下十三以上で、教育に適当な精神をそなえる者を千五百人選抜し、朝廷の賢者やベテランの儒者で経学に明るく、学問に篤い者を選び、選抜した百姓を教育させた。中書監の劉均を領国子祭酒とした。崇文祭酒を設け、秩は国子祭酒の次(?)とした。散騎侍郎の董景道は明経(たぶん選挙科目)をもって崇文祭酒に抜擢された。游子遠を大司徒とした。
 劉曜は命令を下し、鄷明観をつくらせ、西宮を立てさせ、陵霄台を滈池に建造させ、さらに覇陵の西南に寿陵(生前の墓)を築こうとした。侍中の喬豫と和苞は上疏して諌めた、「臣はこのように聞いています。人主が造営事業を起こすときは、必ず仰いで乾(天)の象(道理)にのっとり、俯いて人の時に従うものである、と。このため、衛の文公は内乱のあとを受け継ぎ、宗廟と社稷は漂流して失われていたのに、それでも最初に民の家屋をつくり、それから楚宮(楚丘の宮殿)を建造しました(『毛詩』鄘風、定之方中。とくに詩序を参照)。かのような緊急事態であっても、なおこのようでありましたため、〔文公は〕康叔と武公の事績を復興し、九百年の幸いを延長させることができたのでした。詔書を奉じますに、鄷明観をつくろうとされていますが、市中の道路の民衆たちはみなこれを非難しており、一つの観をつくる労力があれば涼州を平定できると言っています。また勅旨を奉じますに、阿房宮にならって西宮を立て、瓊台にならって陵霄台を立てようとされていますが、これらの費用は鄷明観の一万倍で、労力は前の役(労役?)の一億倍になります。これらの労力と費用をもってすれば、呉と蜀を併呑し、斉と魏の地(後趙)を滅ぼすことができましょう。なぜ、陛下は中興の機会に亡国の事業を模倣しようするのでしょうか。〔とはいえ、〕いにしえの聖王以来、過失を犯さない人間がいましょうか。陛下のこのたびの労役は、まことに誤った挙行です。過失というものは、改めることが大事なのですが、それをやりとげるのはじつに困難です。また、伏して勅旨をおうかがいしますに、寿陵を築こうとされていますが、その周囲は四里、地下の深さは二十五丈、銅で棺椁(椁は外棺の意)をつくり、黄金でそれを飾るとか。おそらく、この労力と費用は国内で対応できるものではないでしょう。そのうえ、臣が聞くところでは、堯は穀林に埋葬されましたが、市は店舗を整理させず、顓頊は広陽に埋葬されましたが、地面の深さは泉に届かせませんでした。聖王の終わりはこのようであったのです。秦の始皇帝〔の陵〕は、地下は三泉(深い泉。地下深くの場所の比喩らしい)をふさぎ、周囲は七里におよびましたが、死後すぐに破壊されました。暗君の終わりはこのようであったのです。向魋は石の椁で葬られましたが、孔子は速く朽ちるにこしたことはないのにと思い、王孫は裸で埋葬されましたが、識者は世俗を正そうとしたことを評価しました。いにしえ以来、滅亡しない国や発掘されない墓などありません。ゆえに聖王は、厚葬が害を招くことを理解し、そのようにしなかったのです。臣や子が君や父に対して、その陵墓を山岳のように高く、広大にしたいと望まないわけがありません。しかし、始めと終わりをまっとうし、万世を安定させて固めるほうが優れているからにすぎません。興隆と滅亡、奢侈と倹約は、前世に明らかに示されています。陛下よ、どうかそれをご覧ください」。劉曜はおおいに喜び、書を下した、「二人の侍中はまごころに満ち、古人の風格がある。社稷の臣と言えよう。二君でなければ、朕はどうしてこの諫言を聞けたであろうか。〔漢の〕孝明帝は太平の世で、四海に憂患がない日であっても、なお鍾離意の諫言を聴き入れて北宮造営の労役をやめた。まして朕は〔明帝とちがって〕愚鈍で、現在は〔明帝の世とちがって〕きわめて疲弊しているのだから、明白な教訓(明帝の故事?)に従わないわけにはいかない。いま、勅を下し、寿陵の規格をすべてやめ、一切を覇陵の方法にならうこととする14覇陵は漢の文帝の陵。『漢書』文帝紀、顔師古注に引く応劭注「因山為蔵、不復起墳、山下川流不遏絶、就其水名以為陵号」。。『詩』に言っているではないか、『言葉は必ず応答があり、徳は必ず報恩がある』(大雅、抑)と15訳出にあたっては、鄭箋をあまりふまえていない。そもそもどういう文脈でこの詩が引用されているのかがわからないが、鄭箋をふまえるといっそう不明になるように思われたからである。。そこで、豫を安昌子に封じ、苞を平輿子に封じ、どちらも領諫議大夫とする。天下にあまねく告知し、区々たるわが朝廷は過ちを聴き入れようとしているのだと知らしめよ。今後、政治や法制で時宜に適さないもの、社稷に利益をもたらさないものがあれば、闕門に来訪し、言葉を尽くして述べ、どんな事項でも憚ることのないように」。鄷水囿を廃し、貧しい戸民に与えた。
 終南山が崩落した。長安の劉終が崩れた箇所で一尺四方の白玉を得たが、次のような文字があった、「皇亡、皇亡、敗趙昌。井水竭、構五梁。咢酉小衰、困囂喪。嗚呼、嗚呼、赤牛奮靷其尽」。このとき、群臣はみな祝賀したが、それは石勒が滅亡するお告げだと思ったからである。劉曜はおおいに喜び、七日間斎戒してからこれを太廟で受け取った。境内を大赦し、劉終を奉瑞大夫とした。中書監の劉均が進み出て言った、「臣はこう聞いています、『国家は山川を管理し、祀るゆえ、山が崩れ、川が涸渇すれば、主君はこれを理由に食事を減らす』(『春秋左氏伝』成公五年)と。終南山は京師の山鎮であり、国家が仰ぎ見る山ですが、ゆえなくして崩れたというのは、言葉に尽くせないほどの不吉です。むかし、三代の末期のころの災異もこのたびのようでした。いまの朝臣は口をそろえて瑞祥だと言っていますので、臣だけがそうではないと申し上げるのは、まことに上は聖旨に逆らい、下は人々の議にそむくことになるわけですが、しかし臣は道理に精通していないとはいえ、いまだ〔陛下や他の臣に〕賛同いたしかねます。なぜならば、〔以下に理由を申しあげます。〕玉にとって山石(山の岩肌、つまり山?)というのは、主君にとっての臣下と同じようなものです。山が崩落して石が壊れるのは、国家が傾いて人々が混乱することを表象しています。『皇亡、皇亡、敗趙昌』とは、『皇室が趙に敗北し、趙がこれによって栄える』と言っています。いま、大趙は秦と雍の地に都を置いていますが、一方で石勒が趙全土に割拠しており、趙繁栄に呼応しているのは石勒のことであって、われわれのことではありません。『井水竭、構五梁』とは、『井』は東井を意味し、秦の分野に相当します。『五』は五車、『梁』は大梁を意味し、五車と大梁は趙の分野に相当します。『秦が滅び尽き、趙を構成する(組みあげる)であろう』と言っています。『咢』とは、太歳の次(位置?)の名称である作咢のことです。『太歳が作咢の位置を治める酉の年に、軍が敗北し、将が殺される事件が起こる』と言っています。『困』は困敦を意味し、太歳が子にあるときの年の名称で、〔『囂』は玄囂(玄枵)を意味し、〕玄囂も子の星次のことです。『太歳が子を治める年に、国家が滅亡する』と言っています。『赤牛奮靷』は赤奮若を意味し、太歳が丑にあるときの名称です。『牛』は牽牛を意味し、東北隅に宿っており、丑の分野に相当します。『太歳が丑にある年に滅亡し、すべてが失われる』と言っています。この玉は警告と啓蒙を篤実に告げているのであり、陛下がいそしんで徳による教化を修め、そうして災いを取り除くことを望んでいるのです。たとえ瑞祥であったとしてもなお、陛下が夕方まで戦々恐々として政務にはげみ、この玉に応答するのを願っているのです。『尚書』に『顕彰されたからといって、みずからに美徳があると思ってはならない』(呂刑篇)とありますが、陛下に願わくは、周公が盟津でなした美事(不詳)に倣い、虢公が廟にいる夢をみたときの悪事(『国語』晋語二)を見習いませんように。つつしんで帰宅し、沐浴して妖言〔を吐いた罪〕の誅殺をお待ちします」。劉曜は驚愕し、顔つきを改めた。御史は劉均を弾劾し、不合理ででたらめな言葉を述べ、瑞祥をあざむいたとし、大不敬の罪状に従って罰するように求めた。劉曜は言った、「この玉が災異であるか瑞祥であるか、実際のところわからないが、朕の不徳を深く戒めている〔のは確かである〕。〔また〕朕は忠恵(忠誠仁愛の士?)を多く得ることができた。どのような罪があるというのか」。
 劉曜が氐と羌を親征した。仇池の楊難敵が軍を率いて参戦し、抗戦したが、〔劉曜の〕先鋒がこれを撃退した。楊難敵は退却して仇池を守ったが、仇池の氐と羌は多く劉曜に降った。劉曜はのち、さらに楊韜を南安で討伐したが、楊韜は恐れ、隴西太守の梁勛らとともに劉曜に降り、みな列侯に封じられた。〔劉曜は〕侍中の喬豫に武装兵五千人を統率させ、楊韜らと隴右の一万余戸を長安に移した。劉曜はさらに仇池に進攻した。このとき、劉曜は病気で寝込んでおり、くわえて〔軍中は〕疫病がひどかったため、議では撤退が要望されたが、〔劉曜は〕楊難敵が背後をつくことを心配した。そこで尚書郎の王獷を光国中郎将とし、仇池につかわし、楊難敵を説得させた。楊難敵はこうして、使者を派遣して称藩した。劉曜はおおいに喜び、楊難敵を使持節、侍中、仮黄鉞、都督益・寧・南秦・涼・梁・巴六州・隴上・西域諸軍事、上大将軍、益・寧・南秦三州牧、領護南氐校尉、寧羌中郎将、武都王に任命し、〔楊氏の〕子弟で公、侯、列将、二千石になった者は十五人であった。
 陳安が〔仇池近辺まで来て?〕朝見を求めたが、劉曜は病態が重いことを理由に許可しなかった。陳安は怒り、かつ劉曜は死んだと思ったので、とうとう〔仇池周辺を?〕掠奪して〔上邽に〕帰った。劉曜は病がひどく、馬車に乗って帰還することになり、将の呼延寔に後方の輜重を監督させた。陳安は精鋭騎兵を率いて呼延寔を道中で待ち伏せし、呼延寔は逃げるにも戦うにも道がなく、長史の魯憑とともに陳安に没した(捕えられた)。陳安は呼延寔を束縛し、「劉曜はすでに死んだのに、あなたは誰を補佐するつもりですか。孤(私)は足下とともに大業を成そうと考えていますが」と語りかけた。呼延寔は陳安を叱りとばし、「犬ころめが。おまえは人から恩寵を授かり、要地に配置されていたのに、以前は司馬保にそむき、今度はこのさまだ。おまえは自分を主上と比べ、優っているとでも思っているのか。じきに上邽の街中で首がさらされるのを心配すればいいものを、なにが大業だ。さっさと私を殺せ。そしてわが首を上邽の東門につるしておけ。大軍(劉曜)が入城するのを見届けよう」。陳安は怒り、とうとう呼延寔を殺した。〔陳安は〕魯憑を参軍とし、また弟の陳集と将軍の張明らを派遣し、騎兵二万を統率させて劉曜を追撃させた。劉曜の衛軍将軍の呼延瑜が迎撃し、撃退してこれ(陳集ら)を斬り、兵士をことごとく捕虜にした。陳安は恐懼し、馬を走らせて上邽へ帰還した。劉曜は南安から〔長安に〕到着した。陳安は将の劉烈と趙罕に汧城を襲撃させ、これを落とすと、西州の氐と羌はみな陳安に服従した。陳安の軍隊は勇ましく、士気が盛んで、十余万にのぼった。〔陳安は〕使持節、大都督、仮黄鉞、大将軍、雍・涼・秦・梁四州牧、涼王を自称し、趙募を相国、領左長史とした。魯憑は陳安に対面しておおいに泣き、「陳安どのの死を目にするのは忍びなく思います」と言った。陳安は怒り、魯憑を斬るように命じた。魯憑、「死(ここで死ぬの)はわが本分でしょう。わが首を秦州の街路につるしておいてください。趙(劉曜)が陳安どのを斬るのを見届けましょう」。ついに魯憑を殺した。劉曜は魯憑が死んだことを聞くと、慟哭して悲しみ、「賢人は天下の希望である。その賢人を殺すということは、天下の心を塞いでしまうということだ。いったい、太平の世の主君でさえ、臣妾の心にそむこうとはしないものだ。まして四海であればなおさらである。陳安はいま、賢人を招聘し、哲人を登用する時機であるのに、かえって君子を殺してしまい、当世の希望を絶ち切ってしまった。彼が世を治めることができないのはよくわかった」。
 休屠王の石武が桑城をもって降った。劉曜はおおいに喜び、石武を使持節、都督秦州・隴上雑夷諸軍事、平西大将軍、秦州刺史に任命し、酒泉王に封じた。
 劉曜の皇后の羊氏が死んだ。献文皇后の偽諡をおくった。羊氏は、内は特別な寵愛を受け、外は朝政に参画し、劉曜の三人の子の煕、襲、闡を生んだ。
 劉曜は当初、禁令を布告し、無官者が乗馬することを許さず、俸禄八百石以上の家の婦女(女性)であれば絹織物の衣服の着用を許し、季秋(九月)の農業が終わってからであれば飲酒を許可し、宗廟と社稷の祭祀でなければ牛を殺してはならないとし、これらを犯した者はみな死罪とした。劉曜は太学を来訪し、成績が上第の学生を召して試験を課し、郎中に任じた16原文「引試学生之上第者拝郎中」。流れ的には、試験を課して成績が良かった者を郎中に任じる、というはこびになると思うが、この文をそのように読んでよいのか自信がもてなかった。そのため、訳出したように、「学生の上第なる者を引試し……」と読んだ。
 武功の男子の蘇撫と陝の男子の伍長平が化けて女子になった。陝で石が言葉を話し、東へ行くなと言っているかのようであった。

>>つづく

  • 1
    原文「従兄為不亡矣」。「為不亡矣」は南北朝の正史に用例がしばしばみえる。それら用例も「為」の上には名があるが、おおむね故人となった父や親類、祖先である。ここの「従兄」も劉曜に関係のある故人のこと、というかたぶん父親であろう。つまり「為不亡矣」というのは、「故人が再来したようだ」的なニュアンスだと思われるが、どう日本語で表現したらいいのかわからないので、そのまま訳出することにした。
  • 2
    原文「形質」。『漢語大詞典』が掲げる一義に「才具、気質」とあり、劉曜載記のこの箇所を用例に挙げている。とりあえずこれに従う。
  • 3
    国号変更などの議の一部が『太平御覧』巻119、劉曜に引く「崔鴻十六国春秋前趙録」に記録されている。「(光初元年)六月、繕宗廟社稷南北郊于長安。令曰、『蓋王者之興、必褅始祖。我皇家之先、出自夏后、居于北夷、世跨燕朔。光文以漢有天下歳久、恩徳結於民庶、故立漢祖宗之廟、以懐民望。昭武因循、遂未悛革。今欲除宗廟、改国号、御(復?)以大単于為太祖。其速議以聞』。於是太保呼延晏等議曰、『今宜承晋。母子伝号。以光文本封盧奴、中〔山?〕之属城。陛下勲功懋於平洛、終於中山。中山分野属大梁、趙也。宜革称大趙、遵以水行』。曜従之。於是以冒頓配天、淵配上帝」。
  • 4
    原文「囲人百日」。和刻本は「人当作及」という。これに従って読んだ。
  • 5
    両手を組む。挨拶の一種。(『漢辞海』)
  • 6
    原文「潜結巴酋徐庫彭」。通鑑は「徐」の上に「句」字があり、「句徐」と「庫彭」の二人とする。中華書局は通鑑が正しいと判断している。それに従う。
  • 7
    『後漢書』西羌伝に「洛川有大荔之戎」とあり、李賢注に「洛川即洛水。大荔、古戎国、秦獲之、改曰臨晋」とある。
  • 8
    原文「鋒鋭不可擬」。「なぞらえることのできない鋭さ」は「例をみない鋭さ」のことであろうと考え、このように意訳した。
  • 9
    割破顔面、表示降服。(『漢語大詞典』)
  • 10
    『三国志』閻温伝の裴松之注に引く「魏略」にみえる。後漢の人らしい。
  • 11
    この崔岳の言葉、全体的によく読めなかった。
  • 12
    原文「質通疑滞」。自信はない。
  • 13
    元帝紀の注18を参照。
  • 14
    覇陵は漢の文帝の陵。『漢書』文帝紀、顔師古注に引く応劭注「因山為蔵、不復起墳、山下川流不遏絶、就其水名以為陵号」。
  • 15
    訳出にあたっては、鄭箋をあまりふまえていない。そもそもどういう文脈でこの詩が引用されているのかがわからないが、鄭箋をふまえるといっそう不明になるように思われたからである。
  • 16
    原文「引試学生之上第者拝郎中」。流れ的には、試験を課して成績が良かった者を郎中に任じる、というはこびになると思うが、この文をそのように読んでよいのか自信がもてなかった。そのため、訳出したように、「学生の上第なる者を引試し……」と読んだ。
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