巻一百三 載記第三 劉曜(2)

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劉曜(1)劉曜(2)

 劉曜は父と妻を埋葬しようと思い、みずから粟邑に行き、土地を測量した1粟邑には以前、劉曜の母の陵墓がつくられている。。土を盛って墳丘をつくり、墳丘の下の基礎は周囲二里としたが2原文「其下周廻二里」。『魏書』匈奴劉聡伝に「積石為基、周回二里」とあるのをふまえて訳出した。、作業する者は脂燭を手にして〔夜を徹して〕作業をつづけたので、怨嗟の声が道路に満ちあふれた。游子遠は諫めた、「臣はこう聞いています。聖主や明王、また忠臣や孝子は埋葬に際して、棺は身体を覆う程度、椁は棺を覆う程度、墓穴は椁が入る程度とし、土盛りや植樹をせず、これを無窮の規範としたのだと。伏して思いますに、陛下の聖なる慈愛は玄妙にあまねくゆきわたり、神のごとき鑑識は遠方までみとおし、つねに清廉と民への仁愛を優先し、社稷と貯蓄を根本としています。いま、二つの陵墓の費用は一億にのぼり、合計で六万の人夫が百日間労働しており、六百万人分の労働力を動員していることになります。二つの陵墓はどちらも、地下は三泉をふさぎ、地上は百尺より高く、石を積んで山を築き、土を盛って丘をつくっています。古い墓を千百数掘り起こし、人夫は嘆きの声をあげ、気は天地をふさぎ(?)、むくろを原野にさらし、慟哭の声は道路にあふれています。臣が思うところでは、〔このようにしてまで陵墓を建造するのは〕先皇と先后に無益であるうえ、いたずらに国力を消費するものです。陛下がもし、堯と舜の事跡を仰いで振り返れば、労働は百万人未満、費用も千を過ぎず、下は怨みをもった死者がなく、上は怨みをもった生者がなく、先帝と先后は太山(泰山)のような安泰を得て、陛下は舜、禹、周公のような称賛を受けるでしょう。どうか陛下、ご理解くださいますよう」。劉曜は聴き入れず、将の劉岳らに騎兵一万を統率させ、太原に向かわせて父と弟の劉暉の遺骸を迎えさせた。疫病が大流行し、十人に三、四人が死んだ。上洛の男子の張盧は死んで二十七日後、ある盗人がその墓を盗掘すると、張盧は生き返った。劉曜は父を埋葬し、墓を永垣陵と号し、妻の羊氏を埋葬し、墓を顕平陵と号した。境内の殊死以下の罪人を大赦し、民に爵二級を賜い、親がいない子、子がいない老人、貧者、病人、自活できない者に帛を賜い、おのおの格差があった。
 太寧元年、陳安は劉曜の征西将軍の劉貢を南安に攻めた。休屠王の石武は桑城から上邽を攻めようとし、そうして南安の包囲を解こうとした。陳安はこのことを知ると驚き、馬を走らせて上邽に戻ろうとしていたところ、〔道中の〕瓜田で〔石武に〕遭遇した。少数では太刀打ちできないと石武は思ったので、逃げて張春の故塁にこもった。陳安は軍を率いて石武を追い、「叛逆した胡奴め。必ずあいつを生け捕りにし、それから劉貢を斬ってやる」と言った。石武は塁門を閉じて守備した。劉貢は陳安の後軍を破り、捕縛と斬首は一万余人であった。陳安は馬を走らせて戻り、救援に向かったが、劉貢が迎撃して破った。すると、にわかに石武の騎兵が襲来したので、陳安の軍は潰走した。〔陳安は〕騎兵八千を集め、隴城へ敗走した。劉貢は石武を留めて後軍を監督させ、みずから兵士の先頭に立ち、〔陳安の軍と〕戦うたびに破り、とうとう陳安を隴城に包囲した。
 大雨が連日続き、劉曜の父の陵墓の門の屋根に雷が落ち、強風が寝堂を垣の外五十余歩まで吹き飛ばした。劉曜は正殿から離れ、素服を着て東堂で五日間哭し、鎮軍将軍の劉襲、太常の梁胥らに陵墓を修復させた。松柏やもろもろの樹木は、植えられてもうすぐ林になろうかというところであったのだが、このときになってすべて枯れてしまった。大司馬の劉雅を太宰に任命し、剣を佩き、履物を履いたまま上殿してよく、入朝しても小走りしなくてよく、讚拝のときに名を呼ばない殊礼を加え、千兵百騎(歩兵千人と騎馬百匹)を支給し、武装した兵士は百人まで入殿を許可し、班剣六十人と、前後の鼓吹それぞれ二部を加増した。
 劉曜は陳安を親征し、陳安を隴城で包囲した。陳安はしきりに城を出て戦闘を挑んだが、〔劉曜は〕何度も撃破し、斬首と捕虜は八千余であった。右軍将軍の劉幹が平襄を攻め、これを落とすと、隴上の諸県はすべて降った。隴右の殊死以下の罪人を曲赦したが、陳安と趙募(このとき包囲されていた上邽を守備していた)だけは例外とした。陳安は楊伯支、姜沖児らを隴城に留めて守備させ、〔みずからは〕騎兵数百を率いて包囲を突破し、上邽と平襄の軍を引き連れて戻り、隴城の包囲を解こうとした。陳安は包囲を突破してから、上邽が包囲されてていることと、平襄がすでに陥落したことを知ったので、南の陝中へ逃げた。劉曜は将軍の平先と丘中伯に精鋭騎兵を統率させて陳安を追わせ、しばしば戦闘してこれを破り、捕虜と斬首は四百余であった。陳安は〔劉曜軍の〕壮士十余騎と陝中で格闘したが、陳安は左手に七尺の大刀をふるい、右手に一丈八尺の蛇矛をもち、近づいて武器を交えようとすると刀と矛が同時に発動し、そのたびに五、六人を殺し、遠巻きにすると二つの鞬服3盛弓箭的器具。(『漢語大詞典』)を装備し、左右から騎射して逃走した。平先もひじょうに壮健で、飛ぶように敏捷であり、陳安と組み合って戦い、三たび交差し、蛇矛を奪い取って退いた。ちょうど日が暮れ、雨もひどく、陳安は馬を捨てて、左右の者五、六人と歩いて山嶺を超え、渓流に隠れた。翌日、陳安を探したが、ついに行方はわからなかった。ちょうど連日の雨があけたので、輔威将軍の呼延清が形跡を見つけ、陳安を渓流の湾曲部で斬った。劉曜はおおいに喜んだ。
 陳安は慰撫することに長けており、幸運と不運、順境と逆境を人々と共有していた。陳安が死ぬと、隴上の人々は彼のことを歌った、「隴上の壮士に陳安あり、体格は小さくも腹中は雄大たり、将士を慈しんで心肝を共有せり。䯀驄(たぶん馬の名前)は雄馬にして鉄製の傷だらけの鞍を載せり、七尺の大刀がふるわば早瀬のごとく激しく、丈八の蛇矛は周囲にうねり、十の突撃と十の決戦で当たるものなし。戦闘が始まり三たび交差して蛇矛を失い、われらの䯀驄を棄てて岩穴の奥に隠れ、われらの外援となりて首をつるされり。西に流れる川と東に流れる川のごとく、ひとたび行かば戻ることなし、いかんせば君は戻るか」。劉曜はこれを聞くと、嘉して痛み、楽府に命じてこの歌を歌わせた。
 楊伯支は姜沖児を斬り、隴城をもって降った。宋亭は趙募を斬り、上邽をもって降った。秦州の大姓である楊氏、姜氏の諸族二千余戸を長安に移した。氐と羌はことごとく降り、みな質任を送った。
 このころ、劉岳は涼州刺史の張茂と黄河のほとりで対峙していた。劉曜は〔陳安平定後、そのまま〕隴から長駆して西河(おそらく河西の意)に到着し、兵士二十八万五千が、黄河に沿って陣営を連ね、百余里の間、鐘や太鼓の音は黄河を波立たせて大地を震動させるほどで、いにしえ以来、これほど盛大な軍隊はなかった。張茂の黄河沿いの軍事拠点はみな、その様子をうかがうと逃げて退いてしまった。百の道から一斉に渡河し、まっすぐ姑蔵に向かうぞ、と言いふらすと、涼州はおおいに恐慌し、人々には強い意志がなかった。諸将はみな、すみやかに渡河することを希望したが、劉曜は言った、「わが軍は盛大であるとはいえ、魏の武帝の東征(徐州?)にはかなわない。〔というのは、わが軍の兵士には〕威(刑罰)を恐れて参加している者が、三人に二人はいるからである。中軍と宿衛の兵士はすでにみな疲弊し、かつ老いているから、働かせることはできない。張氏はこう考えているであろう、私(劉曜)は最近陳安を平定し、軍隊は士気が高く、気勢をもって判断すれば、かの(涼州)五郡の軍では抵抗できない、と。必ず恐れて帰順し、〔私の〕制書を受け取って称藩するであろう。さらに何を求めようか(これだけで十分である)。卿らよ、試しに渡ってみたまえ私の言うことを信じてくれたまえ。〔今月の?〕中旬までに張茂の上表が来なかったら、卿らに貸しひとつだ謝ろう(2020/7/18修正)」。張茂はおののき、はたして使者をつかわして称藩し、馬千五百匹、牛三千頭、羊十万口、黄金三百八十斤、銀七百斤、妓女二十人、数えきれないほどの珍宝、珠玉、地元の財宝を献上した。劉曜はおおいに喜び、大鴻臚の田崧をつかわし、張茂を使持節、仮黄鉞、侍中、都督涼南・北秦・梁・益・巴・漢・隴右・西域雑夷匈奴諸軍事、太師、領大司馬、涼州牧、領西域大都護、護氐羌校尉、涼王に任命した。
 劉曜が河西から戻ると、胡元を派遣し、父と妻の墓を九十尺高くした。
 楊難敵は陳安が平定されたことで、内心に危惧を抱くようになり、漢中へ逃げた。鎮西将軍の劉厚がこれを追撃し、輜重千余両、士女六千余人を獲て、仇池へ送り返した。劉曜は大鴻臚の田崧を鎮南大将軍、益州刺史とし、仇池に出鎮させ、劉岳を侍中、都督中外諸軍事とし、中山王に進めた。
 はじめ、靳準の乱のとき、劉曜の世子の劉胤は黒匿郁鞠の部落に身を隠していたが、このときになって、劉胤は素性をみずから明かしたので、黒匿郁鞠はおおいに驚き、衣服と馬を支給して、子を〔劉曜のもとへ〕つかわして劉胤を護送させた。劉曜は劉胤に対面すると慟哭し、黒匿郁鞠の忠誠を嘉して、使持節、散騎常侍、忠義大将軍、左賢王に任命した。劉胤は字を義孫という。端麗な容貌で、機知のある応答に長じており、十歳にして身長は七尺五寸あり、眉と鬢(側頭部の髪)は絵に描いたような美しさであった。劉聡は劉胤を奇才と思い、劉曜に言った、「この子の精神が義真(劉胤の兄の劉倹)と同等なわけがない。まことに卿の世継ぎとするべきである。周の文王が伯邑考を廃して武王を立てた意味を思量するがよい」。劉曜、「臣の藩国は、祭祀を守ることさえできればそれで十分です。長幼の序を乱すべきではありません」。劉聡、「卿の勲功は天地に匹敵し、藩国は百城を包摂しているが、まさに『代々にわたって太師をつとめた功績に報いる』というものである4原文「当世祚太師」。『左伝』襄公十四年に「昔伯舅大公、右我先王、股肱周室、師保万民、世胙大師、以表東海」とある。杜預の注に「胙、報也。表、顕也。謂顕封東海以報大師之功」とあり、これに従って載記本文を訳出しようとするといまいち通じない気もするのだが、「太公望を顕彰するこの表現をここで引用している」とみなして訳出した。。〔また〕専征の任を受けているが、五侯九伯をもっぱら征することができるのは卿の子孫だけである5原文「受専征之任、五侯九伯得専征之者、卿之子孫」。こちらも太公望の故事をからめた表現。『左伝』僖公四年に「昔召康公命我先君大公曰、五侯九伯、女実征之、以夾輔周室」とあり、杜預の注に「五等諸侯、九州之伯、皆得征討其罪、斉桓因此命以夸楚」とある。直前の太師の表現とあわせ、どちらも直接的な典拠としては徐幹『中論』爵禄篇「太公亮武王……五侯九伯、汝実征之、世祚太師。撫寧東海」か。。どうしてほかの藩国と同等であると言えようか。義真は太伯のような謙遜の気風に遠く倣うことができないであろう。私には、卿のために義真を封じて国を建ててやることしかできない」。義真とは、劉曜の子の劉倹の字である。こうして、劉倹を臨海王に封じ、劉胤を世子に立てたのであった。劉胤は若くして困難に遭い、辺境の地に流浪して挫折を味わったとはいえ、その風格は抜群で、爽朗(さっぱりさわやか)な気性でひときわ優秀であった。身長は八尺三寸あり、髪の長さは身長と等しく、腕力があり、射撃を得意とし、風雲のように俊敏であったから、劉曜は劉胤を大切に扱い、朝臣たちも心を寄せた。劉曜はこうして、群臣のほうを向いて言った、「義孫は寒冷の歳であっても枯れず(『論語』子罕篇)、黒く染めても黒くならない(『論語』陽貨篇)者と言えよう。義光(たぶん太子の劉煕)は先に太子に立てられているといっても、幼少かつ温順であるから、おそらく当世の世継ぎとしては困難であろう。〔義光を太子に据えるのは、〕上は社稷を固め、下は義光に愛情をそそぐゆえんにならないのではないかと危惧している。義孫は年長で、すぐれた徳をそなえ、また以前は世子であった。朕は、遠くは周の文王に追従し、近くは光武帝に倣い、宗廟に泰山のような安泰をもたらし、義光に無窮の幸いを授けたいと思うが、諸卿はどう思うか」。太傅の呼延晏ら、みなが言った、「陛下は遠く周漢に倣い、国家が無窮となる計略を実行しようとしているのに、どうして臣らにお聞きなさるのですか。まこと、宗廟と四海の幸福でもあります」。左光禄大夫の卜泰、太子太保の韓広らが進み出て言った、「陛下がもし廃立を是と考えているのでしたら、日月のような明察をお下しになり、群臣に諮問するべきではありません。かりに疑念をもっているのでしたら、もともと臣らの反対意見を聞くおつもりということでしょう。臣が愚考するところ、まことに太子を廃するのはまちがっています。なぜなら、〔このように考えるからです。〕むかし、周の文王はまだ太子を立てていなかったことをもって、〔武王の〕聖表(聖顔?)を選び、長子を飛び越えて太子に立てたのですが、これは問題ありません。光武帝は母親の美貌に応じて廃立し〔明帝を皇太子に立て〕ましたが、どうしてわが聖朝の模範たりえましょうか。光武帝がもしも東海王(彊)に皇統を継がせていたら、明帝には必ず及ばなかったと言えるでしょうか。皇子の胤は文武の才略があり、度量は広く、まことに当今に冠絶しており、周の姫発(武王)になぞらえうるお方です。しかし、太子は孝友仁慈をそなえ、志を持し、典雅でおられ、〔皇子の胤と同様に〕太子もまた聖業の基礎を築いて背負い、太平の賢君となりうるお方です。まして皇太子というのは、六合や人神が希望をつなぐ立場ですから、軽率に廃易するべきではありません。陛下が本当にそのようになさる(廃立する)というのでしたら、臣らには死あるのみです。どうしても詔を奉ずることはできません」。劉曜は黙然としてしまった。劉胤は進み出て、泣いて言った、「父が子をいつくしむときは、ちょうど『尸鳩』の仁愛6『毛詩』曹風、鳲鳩の毛伝に「之養其子、朝従上下、莫従下上、平均如一」とあり、子に均一に愛情を注ぐことを言うらしい。を保つように努めるべきですから、煕を廃して臣を立てるのはあってはならないことです。陛下の誤った恩愛がこのようなのでしたら、臣はここで死ぬことを願い出て、そうして臣の赤心を明らかにしたく思います。あるいは、陛下がもしも臣の欠点を愛忘し7「愛忘」は南北朝期の正史にここと似た用例が少しみえ、「大切に思うあまり欠点をみない」的なニュアンス(ポジな意味)らしい。「愛情を注ぐのでしたら、太子に立てるというやり方ではなく、この子にもいいところはあってできる仕事はあるんだというふうにしてもらえませんか」ということであろうか。、臣が多少は軍隊の指揮ができるのを利用なされば、〔臣は〕まさに義光を助け導き、聖人の軌跡を仰ぎ見て、遵守しましょう8原文「且陛下若愛忘其醜、以臣微堪指授、亦当能輔導義光、仰遵聖軌」。よく読めなくてわからない。」。そして〔劉胤は〕すすり泣いて涙を流し、朝臣を感動させた。劉曜もまた、太子(劉煕)は羊氏が生んだ子で、羊氏には寵愛があったから、哀れんで廃するには忍びず、そこで中止にした。前妻の卜氏を追尊して元悼皇后の諡号をおくった。すなわち劉胤の母である。卜泰は劉胤の舅であった〔が、劉胤の立太子に反対した〕。劉曜はこのことを嘉し、上光禄大夫、儀同三司、領太子太傅に任じた。劉胤を永安王に封じ、侍中、衛大将軍、都督二宮禁衛諸軍事、開府儀同三司、録尚書事、領太子太傅に任命し、皇子と号させた。劉煕に命じ、劉胤に対して家人の礼を尽くすようにさせた。
 このころ、鳳凰が五羽の子供を引き連れ、故未央殿で五日間飛翔していたが、悲鳴をあげると、何も食わずにみな死んでしまった。劉曜は皇后に劉氏を立てた。
 石勒の将の石他が雁門から上郡へ出撃し、安国将軍、北羌王の盆句除を襲撃し、三千余落を捕虜とし、牛、馬、羊百余万頭を獲得して帰った。劉曜はおおいに怒り、袂を振り払って立ち上がっ〔て軍を起こし〕た。この日、〔劉曜は〕渭城に駐屯し、劉岳を派遣して石他を追わせた。劉曜は富平に駐屯し、劉岳の声援(遠方からの支援)をなした。劉岳と石他は黄河の岸辺で戦い、石他を破り、石他と武装兵千五百級を斬り、黄河に投じて死んだ者は五千余人あり、捕えた者を全員集め、軍列を整えて帰還した。
 楊難敵が漢中から仇池に戻って襲撃をかけ、これを落とし、田崧を捕え、面前に立たせた。楊難敵の左右の者は拝礼するように田崧を叱りとばしたが、田崧は目をむいて叱り返し、「氐の犬ころめ。天子の牧伯が賊に拝礼すると思ったか」と言った。楊難敵、「子岱どの、私はあなたとともに大業を成そうと考えています。劉氏は忠節を尽くすに値するが、私に対してはありえないとあなたは考えておられるのですか」。田崧は怒って大声で言った、「賊氐の凡才ごときが、あえて分不相応なことを望むとは。私はむしろ国家の鬼となろう、おまえの臣になるくらいならな。さっさと殺せ」。そうして振り返ると一人を押し倒して剣を奪い取り、進んで楊難敵を突き刺そうとしたが、命中せず、楊難敵に殺されてしまった。
 劉曜は劉岳を派遣し、石生を洛陽に攻めさせた。近郡の武装兵五千、宿衛の精鋭一万を配し、盟津から渡河させた。鎮東将軍の呼延謨に荊州と司州の軍を統率させ、崤(山)澠(池)から東に進軍させた。劉岳は盟津と石梁にある石勒軍の両拠点を攻め、これを落とし、斬首と捕虜は五千余級をあげ、進軍して石生を金墉城に包囲した。石季龍は歩騎四万を率いて成皋関から洛陽に入ろうとしたので、劉岳は布陣してこれを迎え撃った。洛陽の西で戦闘し、劉岳軍は敗北し、劉岳は流矢に当たり、退却して石梁を守った。石季龍はとうとう、ほりを掘り、柵を立て、兵を並べて包囲し、内外の連絡を遮断した。劉岳軍は飢えがひどく、馬を殺して食っていた。石季龍はさらに呼延謨も破り、これを斬った。劉曜はみずから軍を率いて劉岳を助けに行くと、石季龍は騎兵三万を率いて遮ってきた。劉曜の前軍将軍の劉黒は石季龍の将の石聡を八特坂でおおいに破った。劉曜は金谷に駐屯したが、夜、何も起きていないのに大騒動になってしまい、軍中が混乱したので、退いて澠池へ向かった。夜中、またも騒動が起き、兵士が潰走したので、とうとう長安へ帰還することにした。石季龍は劉岳と将の王騰ら八十余人、また氐と羌三千余人を捕え、襄国へ送り、兵士一万六千を穴埋めにした。劉曜が澠池から〔長安に〕到着すると、素服を着て郊外で哭し、そうして七日経ってから入城した。
 武功で豚が犬を生み、上邽で馬が牛を生み、そのほか怪異現象は記録できないほど起こった。劉曜は公卿に命じ、おのおのに博識直言の士を一人挙げさせた。司空の劉均は参軍の台産を挙げた。劉曜はみずから東堂に君臨し、中黄門をつかわして策問させた。台産は怪異の原因にかんして言葉を尽くして述べたが、劉曜はその対策文を見て嘉し、東堂に引見し、政治について質問した。台産は涙を流してすすり泣き、災異という禍は、政治と教化の欠点を示しているのだとつぶさに述べ、その言葉は誠実であったため、劉曜は態度を改めて台産を礼遇し、すぐに博士祭酒、諫議大夫、領太史令に任じた。その後、彼が言ったことはすべて的中したため、劉曜はますます重用し、一年のあいだに三度、遷し、尚書、光禄大夫、太子少師を歴任し、位は特進にいたった。
 劉曜は劉胤を大司馬に任命し、南陽王に進め、漢陽など十三の諸郡を封国とした。単于台を渭城に置き、〔劉胤を?〕大単于に任じ、左右賢王以下を設け、すべて胡、羯、鮮卑、氐、羌の豪傑をこれに就けた。
 劉曜は長安に帰還してからというもの、憤怒と恥辱のあまり発病してしまっていたが、このときになって病気が癒えたので、長安の殊死以下の罪人を曲赦した。汝南王の劉咸を太尉、録尚書事に任命し、光禄大夫の劉綏を大司徒に任命し、卜泰を大司空に任命した。
 劉曜の妻の劉氏は病態が重く、劉曜はみずから看病し、言い残したことをたずねた。劉氏は泣いて言った、「妾の叔父の昶は子がいません。妾は幼少のころ、叔父に育てられ、その恩愛はたいへん厚かったのですが、叔父の恩徳に報いることができませんでした。どうか陛下、彼を高官にしていただけないでしょうか。〔また〕妾の叔父の皚に芳という娘がいますが、徳と美貌をそなえています。どうか後宮にお入れください」。劉曜はこれらを許可した。〔劉氏は〕言い終わると死に、献烈皇后の偽諡をおくられた。劉昶を使持節、侍中、大司徒、録尚書事とし、河南郡公に進め、劉昶の妻の張氏を慈郷君に封じ、劉皚の娘の芳を皇后に立てた。劉氏の遺言を追想したからである。まもなく、驃騎将軍の劉述を大司徒に任命し、劉昶を太保に任命した。公卿以下の子弟で武勇の才幹がある者を召し、親御郎とし、鎧を着せて武装した馬に乗せ、〔劉曜の〕行動に自随させ、折衝(戦車をくじくの意)の任に充てようとした。尚書の郝述、都水使者の支当らが強く諫めたため、劉曜はおおいに怒り、毒を飲ませて殺した。
 咸和三年、夜、夢に三人の人間が現れた。金色の顔、丹朱の唇をしており、東方に向かってあとずさりし、何も言わずに退いてゆき、劉曜は拝してその跡を追って行った。朝、公卿以下を召してこのことについて議論させると、朝臣はみな吉祥であると祝いを述べたが、ただ太史令の任義だけは進み出て〔異論を〕言った、「三とは、暦運(こよみ)の統の極数のことです(三統=天・地・人統)。東は〔易で言うと〕震の方位であり、王者の始動がやどる(?)ところです。金は兌の方位であり、万物が衰亡していきます。丹朱の唇で何も言わないというのは、事業の終わりを意味しています。あとずさりしながら拱手して譲るというのは、退却の道を意味しています。三人に対して拝するというのは、他人に屈服することを意味しています。跡を追って行くというのは、慎重になって境域から出てはならないという意味です。東井は秦の分野で、五車は趙の分野です。秦の軍隊が必ずにわかに起こるも、主君と軍隊を喪失し、趙の地で敗北することを意味しています。遠ければ三年、近ければ七百日のことで、〔いずれにせよ〕現実に起こるのは遠い未来ではありません。陛下に願わくは、考慮してお防ぎくださいますよう」。劉曜はおおいに恐れ、こうしてみずから二郊(北郊と南郊)を祀り、神祠を修繕し、山川を望秩し、〔祭祀は〕あらゆるすべてに及んだ。殊死以下の罪人を大赦し、百姓の租税を半免した。長安は春から雨が降らないまま、五月になった。
 劉曜は武衛将軍の劉朗を派遣し、騎兵三万を統率させ、楊難敵を仇池に襲撃させたが、勝てず、三千余戸を拉致して帰還した。張駿は劉曜軍が石氏に敗れたことを知ると、劉曜からの官号を取り去り、ふたたび晋の大将軍、涼州牧を称し、金城太守の張閬、枹罕護軍の辛晏、将軍の韓璞らを派遣し、軍数万を統率させ、大夏から秦州の諸郡を攻めさせ、掠奪させた。劉曜は劉胤を派遣し、歩騎四万を統率させてこれを攻めさせ、〔両軍は〕洮水を挟んで七十余日対峙した。冠軍将軍の呼延那鶏は親御郎二千騎を率い、韓璞らの輸送路を絶った。劉胤は軍を渡らせて韓璞らに迫ったので、韓璞軍は潰走し、涼州へ敗走した。劉胤は追撃し、令居で追いつき、二万級を斬った。張閬と辛晏は兵数万を率いて劉曜に降り、ともに将軍に任じられ、列侯に封じられた。
 石勒は石季龍を派遣し、軍四万を統率させ、軹関から西に進ませ、〔関中に〕入らせて劉曜を討伐させた。河東でこれに呼応するところは五十余県あった。〔石季龍は〕進軍して蒲坂を攻めた。劉曜は東に向かって蒲坂を救援しようとしたが、張駿と楊難敵が虚をついて長安を襲撃するのを不安に思い、河間王の劉述を派遣し、氐と羌の兵士を徴発させて秦州に駐屯させた。劉曜は内外の精鋭を総動員し、水陸から蒲坂に向かい、衛関から北に黄河を渡った。石季龍は恐れて、軍を引き上げて退却した。〔劉曜は〕これを追い、高候で追いつくと、おおいに戦ってこれを破り、将軍の石瞻を斬り、死体は二百余里にわたって転がり、回収した物資や兵器は億を数えた。石季龍は朝歌へ敗走した。劉曜はそのまま大陽から渡河し、石生を金墉城に攻め、千金堨を決壊させて水攻めした。劉曜は兵士を労わず、もっぱらお気に入りの臣と酒を飲んで博打していた。左右の者が諫めたりすると、劉曜は怒り、妖言とみなしてこれを斬った。強風が木を引き抜き、暗い霧が四方に充満していた。石季龍が進軍して石門に拠っていることを耳にし、さらに石勒がみずから大軍を率いてすでに渡河していることを知って、ようやく議し、滎陽の拠点を増員(?)し、黄馬関を閉じた。ほどなく、洛水の斥候部隊が石勒の先鋒と交戦し、羯を捕えて送ってきた。劉曜は尋問した、「大胡(石勒)みずからが来たのか。軍の規模はどうなのか」。羯、「大胡みずからが来たぞ。軍は盛大であるから、当たるべきではない」。劉曜は顔色を変え、金墉城の包囲を解かせ9原文「使摂金墉之囲」。『資治通鑑』胡三省注に「摂、収也」とある。また『魏書』匈奴劉聡伝は「解金墉之囲」とする。、洛陽の西に布陣し、南北十余里に連なった。劉曜は若いときから酒癖があり、末年はいよいよひどくなっていた。石勒が到着すると、劉曜は戦おうとして、酒数斗を飲んだが、愛馬の赤馬がわけもなくつまずいたので、小馬に乗った。出撃するころ、ふたたび一斗余りの酒を飲んだ。西陽門に着くと、〔劉曜は〕陣に指示を出して就平させたが10原文「撝陣就平」。『資治通鑑』は「撝」を「揮」に作る。また『魏書』匈奴劉聡伝は「麾軍就平」とする。「就平」は不詳。「平地に行かせた」「縦長の陣形を横陣形にした」とか、あるいは「就平」という名称の陣形があった?、石勒の将の石堪はこれに乗じ〔て攻撃をかけ〕たので、劉曜軍はとうとうおおいに潰走した。劉曜は泥酔しながら敗走していたが、馬が石渠(石でできた水路)に落ち、〔その拍子で劉曜は〕氷の上に落ちて、十余りの傷を負い、身体を貫通した傷11原文「通中」。自信はない。は三つあった。〔劉曜は〕石堪に捕えられ、石勒のところへ送られた。劉曜、「石王、重門での盟12『資治通鑑』胡三省注は「此盟当在懐帝永嘉四年同囲河内之時」というが、詳しくはわからない。を覚えておられるか」。石勒は徐光を介して劉曜に言った、「こんにちのことは、天がそうさせたのだ。それ以上話すことはない」。劉曜を河南丞の庁舎に監禁し、金瘡医の李永に治療させ、襄国に帰った。
 劉曜の傷がひどいので、石勒は馬車に乗せてやり、李永を同乗させた。〔襄国の〕北苑の市の三老13原文「北苑市三老」。違和感はあるが、とりあえずこのまま訳出した。の孫機が礼物を奉じて劉曜に接見したいと要望したので、石勒は許可した。孫機は酒を劉曜に勧めて言った、「僕谷王14『晋書』芸術伝・仏図澄伝によれば、「僕谷」とは「劉曜胡位」のこと。劉淵時代当初に劉淵から授けられた位だろうか。、関右で皇帝を称す。慎重になりて領域を保持すべきを、軽率に用兵をなせば洛陽で敗れり。暦運窮まり、天の滅ぼすところとなれり。大分(寿命?)を広げんがため、一杯の酒を持参す」。劉曜、「〔酒で〕どうして健康になるものか。〔だが〕翁のために飲もう」。石勒はこのことを聞くと、悲しんで顔色を改めて言った、「亡国の人間は、老人に罪を責めさせればそれで十分だ15石勒みずからが劉曜をグチグチなじる必要はない、もう三老に言われて十分かわいそうだから、ということだろう。」。劉曜を襄国の永豊小城に住まわせ、妓妾を支給し、兵を厳重に配置して守衛させた。〔以前に捕えた〕劉岳、劉震らを派遣し、馬に乗り、男女を従え、帢をかぶって劉曜に接見した。劉曜、「卿らは土くれになってしまったものと、ひさしく思っていた。石王の仁愛が厚いゆえ、完全に赦されてこんにち〔の再会〕にいたったのだな。それに対して私は石他を殺してしまい、盟にそむいてはなはだしいものだ。こんにちの禍は、おのずから分(天分?)であろう」。〔劉岳らは〕留まり、終日酒宴をしてから帰った。石勒は劉曜を説諭し、太子の劉煕に書簡を送り、すぐに降服するよう説かせようとしたが、劉曜は劉煕にこう勅す(戒める)のみであった、「大臣らと社稷を建てなおせ。私のことで考えを変えてはならない」。石勒はこれを見てにくみ、のち、石勒に殺されてしまった。
 劉煕、劉胤、劉咸らは議して、西に向かって秦州を保守しようとしたが、尚書の胡勲は言った、「現在、主君は失われたといえど、国家はなお完全に保たれ、将士のこころは一つであり、いまだ離反はありません。力を合わせて険阻な土地で抵抗するべきです。〔抵抗しきれなくなってから秦州へ〕敗走しても遅くありません」。劉胤は聴き入れず、〔かえって〕人々の気持ちを削いだ(空気を壊した)ことを怒り、胡勲を斬った。そうしてついに、百官を率いて上邽へ逃げ、劉厚と劉策も軍鎮を廃棄して上邽へ逃げた。関中は混乱し、将軍の蒋英と辛恕は衆数十万を擁して長安を占拠し、使者をつかわして石勒を招いた。石勒は石生を派遣し、洛陽の軍を統率させて長安に向かわせた。劉胤と劉遵は軍数万を率い、上邽から石生を長安で攻めようとすると、隴東、武都、安定、新平、北地、扶風、始平の諸郡の戎狄と夏人はみな挙兵し、劉胤に呼応した。劉胤は仲橋に駐屯し、石生は長安を固守した。石勒は石季龍に騎兵二万を統率させて劉胤を防がせた。〔両軍は〕義渠で戦い、〔劉胤は〕石季龍に敗れ、死者は五千余人であった。劉胤は上邽へ敗走し、石季龍は勝利に乗じて追撃し、死体を千里にわたって転がせ、上邽は潰滅した。石季龍は偽太子の劉煕、南陽王の劉胤、将相、諸王ら、諸卿、校尉、公、侯以下の三千余人を捕え、みな殺した。台省の文武官、関東出身の流民、秦州と雍州の大族九千余人を襄国に移した。また、王公らと五郡の屠各の五千余人を洛陽で穴埋めにした。劉曜は在位十年で敗亡した。はじめ、劉元海が懐帝の永嘉四年に帝位を僭称してから劉曜にいたるまで、三世二十七年、成帝の咸和四年に滅亡したのであった16この一文は誤りとみられる箇所が多いが、訂正しない。

 史臣曰く、(以下略)

劉曜(1)劉曜(2)

(2020/5/18:公開)

  • 1
    粟邑には以前、劉曜の母の陵墓がつくられている。
  • 2
    原文「其下周廻二里」。『魏書』匈奴劉聡伝に「積石為基、周回二里」とあるのをふまえて訳出した。
  • 3
    盛弓箭的器具。(『漢語大詞典』)
  • 4
    原文「当世祚太師」。『左伝』襄公十四年に「昔伯舅大公、右我先王、股肱周室、師保万民、世胙大師、以表東海」とある。杜預の注に「胙、報也。表、顕也。謂顕封東海以報大師之功」とあり、これに従って載記本文を訳出しようとするといまいち通じない気もするのだが、「太公望を顕彰するこの表現をここで引用している」とみなして訳出した。
  • 5
    原文「受専征之任、五侯九伯得専征之者、卿之子孫」。こちらも太公望の故事をからめた表現。『左伝』僖公四年に「昔召康公命我先君大公曰、五侯九伯、女実征之、以夾輔周室」とあり、杜預の注に「五等諸侯、九州之伯、皆得征討其罪、斉桓因此命以夸楚」とある。直前の太師の表現とあわせ、どちらも直接的な典拠としては徐幹『中論』爵禄篇「太公亮武王……五侯九伯、汝実征之、世祚太師。撫寧東海」か。
  • 6
    『毛詩』曹風、鳲鳩の毛伝に「之養其子、朝従上下、莫従下上、平均如一」とあり、子に均一に愛情を注ぐことを言うらしい。
  • 7
    「愛忘」は南北朝期の正史にここと似た用例が少しみえ、「大切に思うあまり欠点をみない」的なニュアンス(ポジな意味)らしい。「愛情を注ぐのでしたら、太子に立てるというやり方ではなく、この子にもいいところはあってできる仕事はあるんだというふうにしてもらえませんか」ということであろうか。
  • 8
    原文「且陛下若愛忘其醜、以臣微堪指授、亦当能輔導義光、仰遵聖軌」。よく読めなくてわからない。
  • 9
    原文「使摂金墉之囲」。『資治通鑑』胡三省注に「摂、収也」とある。また『魏書』匈奴劉聡伝は「解金墉之囲」とする。
  • 10
    原文「撝陣就平」。『資治通鑑』は「撝」を「揮」に作る。また『魏書』匈奴劉聡伝は「麾軍就平」とする。「就平」は不詳。「平地に行かせた」「縦長の陣形を横陣形にした」とか、あるいは「就平」という名称の陣形があった?
  • 11
    原文「通中」。自信はない。
  • 12
    『資治通鑑』胡三省注は「此盟当在懐帝永嘉四年同囲河内之時」というが、詳しくはわからない。
  • 13
    原文「北苑市三老」。違和感はあるが、とりあえずこのまま訳出した。
  • 14
    『晋書』芸術伝・仏図澄伝によれば、「僕谷」とは「劉曜胡位」のこと。劉淵時代当初に劉淵から授けられた位だろうか。
  • 15
    石勒みずからが劉曜をグチグチなじる必要はない、もう三老に言われて十分かわいそうだから、ということだろう。
  • 16
    この一文は誤りとみられる箇所が多いが、訂正しない。
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