巻八 帝紀第八 穆帝

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穆帝哀帝海西公

 穆皇帝は諱を聃、字を彭子といい、康帝の子である。建元二年九月丙寅、皇太子に立てられた。同月戊戌、康帝が崩じた。己亥、皇太子が皇帝の位についた。当時二歳であった。大赦し、皇后(褚氏)を尊んで皇太后とした。壬寅、皇太后が臨朝して政務を代行した。
 冬十月乙丑、康帝を崇平陵に埋葬した。
 十一月庚辰、車騎将軍の庾氷が卒した。

 永和元年春正月甲戌朔、皇太后は白い薄絹の帷を太極殿に設け、穆帝を抱きかかえて臨軒した。改元した。甲申、鎮軍将軍の武陵王晞を鎮軍大将軍、開府儀同三司に進め、鎮軍将軍の顧衆を尚書右僕射とした1鎮軍将軍が重複している。顧衆伝に「穆帝即位、何充執政、復徵衆為領軍、不起。服闋、乃就。……以年老、上疏乞骸骨、詔書不許。遷尚書僕射。永和二年卒、時年七十三」とあり、「領軍」の誤りかもしれない。中華書局の校勘記を参照。
 夏四月壬戌、詔を下し、会稽王昱を録尚書六条事とした。
 五月戊寅、おおいに雨ごいした。尚書令、金紫光禄大夫、建安伯の諸葛恢が卒した。
 六月癸亥、地震があった。
 秋七月庚午、持節、都督江・荊・司・梁・雍・益・寧七州諸軍事、江州刺史、征西将軍、都亭侯の庾翼が卒した。庾翼の部将の干瓚、戴羲らが冠軍将軍の曹拠を殺し、挙兵してそむいた。安西将軍司馬の朱燾が討伐し、鎮圧した。
 八月、豫州刺史の路永がそむき、石季龍のもとへ逃げた。庚辰、輔国将軍、徐州刺史の桓温を安西将軍、持節、都督荊・司・雍・益・梁・寧六州諸軍事、領護南蛮校尉、荊州刺史とした。石季龍の将の路永が寿春に駐屯した。
 九月丙申、皇太后が詔を下した、「現在、百姓が疲弊している。そこで、適切な援助の方法を詳らかにすることを、共同して考えよ2原文「其共思詳所以振卹之宜」。「思詳」は『晋書』に数例の用例があり、たとえば后妃伝上・武悼楊皇后伝に「至成帝咸康七年、下詔使内外詳議。衞将軍虞潭議曰、『……今聖上孝思、祗粛禋祀、詢及群司、将以恢定大礼。臣輒思詳、伏見恵皇帝起居注、群臣議奏……』」とあり、「詳議することを思う」的なニュアンスではないかと思う。。もし毎年の常調が3原文「及歳常調」。「及」をどう読んだらいいのかわからない。「凡」とかならいけそうなのだが……。『漢語大詞典』によれば「もし」で読む用例があるらしいので(先秦時代の文献だけど)、それで読んでみた。、軍事と国事の急務でないならば、すべて停止するのがよいであろう」4この詔は全体によく読めていない。中華書局の句読を疑いもしたのだが、うまくいかないので句読を変更せずになんとか訳出した。
 冬十二月、李勢の将の爨頠が出奔してきた。涼州牧の張駿が焉耆を攻め、これを降伏させた。

 二年春正月丙寅、大赦した。己卯、使持節、侍中、都督揚州諸軍事、揚州刺史、驃騎将軍、録尚書事、都郷侯の何充が卒した。
 二月癸丑、左光録大夫の蔡謨を領司徒とし、録尚書六条事、撫軍大将軍の会稽王昱と蔡謨がともに輔政した5康帝のときに輔政していた庾氷、何充が没したため、新たに会稽王と蔡謨が輔政に任じられたということ。
 三月丙子、まえの司徒左長史の殷浩を建武将軍、揚州刺史とした。
 夏四月己酉朔、日蝕があった。
 五月丙戌、涼州牧の張駿が卒し、子の張重華が継いだ。
 六月、石季龍の将の王擢が武街を襲撃し、張重華の護軍の胡宣を捕えた。また、石季龍は麻秋と孫伏都に金城を攻めさせ、〔張重華の〕金城太守の張沖を降した。張重華の将の謝艾が麻秋を攻め、これを破った。
 秋七月、兗州刺史の褚裒を征北大将軍、開府儀同三司とした。
 冬十月、地震があった。
 十一月辛未、安西将軍の桓温が征虜将軍の周撫、輔国将軍の譙王無忌、建武将軍の袁喬を率いて蜀を攻めようとし、〔そのことを述べた〕表を上呈すると〔朝廷の許可を得る前に〕独断で出発した。
 十二月、流星が東南から西北に流れ、天の端まで飛んでいった。

 三年春三月乙卯、桓温が成都を攻め、これを落とした。丁亥、李勢が降ったので、益州が平穏になった。林邑の范文が日南を攻め落とし、日南太守の夏侯覧を殺し、その死体で天を祀った。
 夏四月、地震があった。蜀の鄧定、隗文が挙兵してそむいたが、桓温がこれも撃破し、益州刺史の周撫を彭模に駐屯させた。丁巳、鄧定、隗文がふたたび侵入して成都を占拠したので、征虜将軍の楊謙は涪城を放棄し、退却して徳陽を守った。
 五月戊申、慕容皝を安北将軍に進めた。石季龍が将の石寧、麻秋に涼州をも攻めさせようとし、曲柳に駐留させた。張重華が将軍の牛旋に防戦させると、〔石季龍軍は〕退却して枹罕を守った。
 六月辛酉、大赦した。
 秋七月、范文がまたも日南を落とし、督護の劉雄を殺した。隗文が范賁を帝に立てた。
 八月戊午、張重華の将の謝艾が麻秋を攻め、おおいにこれを破った。
 九月、地震があった。
 冬十月乙丑、涼州刺史の張重華に大都督隴右・関中諸軍事、護羌校尉、大将軍を授け、武都氐の王の楊初を征南将軍、雍州刺史、平羌校尉、仇池公とし、両者とも仮節とした。
 十二月、振威護軍の蕭敬文が征虜将軍の楊謙を殺し、涪城を攻め、これを落とした。そのまま巴西を奪い、漢中まで達した。

 四年夏四月、范文が九徳を侵略し、多数を殺した。
 五月、洪水があった。
 秋八月、安西将軍の桓温を征西大将軍、開府儀同三司に進め、臨賀郡公に封じた。西中郎将の謝尚を安西将軍に進めた。
 九月丙申、慕容皝が死に、子の慕容儁が偽位を継いだ。
 冬十月己未、地震があった。石季龍が将の苻健に竟陵を侵略させた。
 十二月、豫章の黄韜が孝神皇帝を自称し、数千の群衆を集めて臨川を侵略したが、臨川太守の庾条が討伐し、平定した。

 五年春正月辛巳朔、大赦した。庚寅、地震があった。石季龍が僭越し、鄴で皇帝の位についた。
 二月、征北大将軍の褚裒が部将の王龕に北伐させ、石季龍の将の支重を捕えた。
 夏四月、益州刺史の周撫、龍驤将軍の朱燾が范賁を攻め、これを捕えたので、益州は平穏になった。周撫を建城公に封じた。慕容儁に大将軍、幽・平二州牧、大単于、燕王を授けた。征西大将軍の桓温が督護の滕畯を派遣し、范文を討伐させたが、范文に敗れた。石季龍が死に、子の石世が偽位を継いだ。
 五月、石遵が石世を廃し、みずからが立った。
 六月、桓温が安陸に駐屯し、諸将を派遣して河北を討伐させた。石遵の揚州刺史の王浹が寿陽をもって来降した。
 秋七月、褚裒が進軍して彭城に駐屯し、部将の王龕と李邁を派遣し、石遵の将の李農と代陂で戦ったが、王師は敗北し、王龕は李農に捕えられ、李邁は戦死した。
 八月、褚裒は退却して広陵に駐屯し、西中郎将の陳逵は寿春を焼いて敗走した。梁州刺史の司馬勲が石遵の長城戍を攻め、仇池公の楊初が西城を襲撃し、ともに落とした。
 冬十月、石遵の将の石遇が宛を攻め、これを落とし、南陽太守の郭啓を捕えた。司馬勲は進軍して懸鉤に駐屯した。石季龍の故将の麻秋が防戦したので、司馬勲は退却して梁州に戻った。
 十一月丙辰、石鑑が石遵を弑し、みずからが立った。
 十二月己酉、使持節、都督徐・兗二州諸軍事、徐州刺史、征北大将軍、開府儀同三司、都郷侯の褚裒が卒した。建武将軍、呉国内史の荀羨を使持節、監徐・兗二州諸軍事、北中郎将、徐州刺史とした。

 六年春正月、穆帝は臨朝したが、褚裒の死去を理由に、楽器を設けても演奏しなかった。
 閏月、冉閔が石鑑を弑し、僭越して天王を称し、国号を魏とした。石鑑の弟の石祗は襄国で帝号を僭称した。丁丑、彗星が亢に現れた。己丑、中軍将軍の殷浩に督揚・豫・徐・兗・青五州諸軍事、仮節を加えた。氐帥の苻洪が使者をつかわして来降したので、氐王とし、広川郡公に封じた。苻洪の子の苻健に節を授け、監河北諸軍事、右将軍とし、襄国県公に封じた。
 三月、石季龍の故将の麻秋が苻洪を枋頭で毒殺した。
 夏五月、洪水があった。廬江太守の袁真が合肥を攻め、これを落とした。
 六月、石祗が弟の石琨を派遣し、冉閔の将の王泰を邯鄲で攻めさせたが、石琨軍は敗北した。
 秋八月、輔国将軍の譙王無忌が薨じた。苻健が衆を率いて関中に入った。
 冬十一月、冉閔が襄国を包囲した。
 十二月、司徒の蔡謨を免じて庶人とした。
 この年、疫病が大流行した。

 七年春丁酉、日蝕があった。辛丑、鮮卑の段龕が青州をもって来降した。苻健が僭越して王を称し、国号を秦とした。
 二月戊寅、段龕を鎮北将軍とし、斉公に封じた。石祗が冉閔を襄国でおおいに破った。
 夏四月、梁州刺史の司馬勲が歩騎三万を出動し、漢中から秦川に入り、苻健と五丈原で戦ったが、王師は敗北した。尚書令の顧和に開府儀同三司を加えた。劉顕が石祗を弑した。
 五月、石祗の兗州刺史の劉啓が鄄城から来奔した。
 秋七月、尚書令、左光禄大夫、開府儀同三司の顧和が卒した。甲辰、高波が石頭に入り、数百人が溺死した。
 八月、冉閔の豫州牧の張遇が許昌をもって来降したので、鎮西将軍に任じた。
 九月、峻陽陵と太陽陵が崩落した。甲辰、穆帝は素服を着て太極殿に三日間臨御し、兼太常の趙抜を派遣して山陵を修復させた。
 冬十月、雷雨があり、落雷があった。
 十一月、石祗の将の姚弋仲、冉閔の将の魏脱がそれぞれ使者をつかわして来降したので、姚弋仲を車騎将軍、大単于とし、高陵郡公に封じ、姚弋仲の子の姚襄を平北将軍、都督并州諸軍事、并州刺史とし、平郷県公とし、魏脱を安北将軍、監冀州諸軍事、冀州刺史とした。
 十二月辛未、征西大将軍の桓温が軍を率いて北伐しようとしたが、武昌に留まって〔北伐を〕中止した。このころ、石季龍の故将の周成が廩丘に駐屯し、高昌が野王に駐屯し、楽立が許昌に駐屯し、李歴が衛国に駐屯していたが、みなあいついで来降した。

 八年春正月辛卯、日蝕があった。劉顕が襄国で帝号を僭称したが、冉閔が撃破し、これを殺した。苻健が長安で帝号を僭称した。
 二月、峻平陵と崇陽陵が崩落した。戊辰、穆帝は三日間臨御し、殿中都尉の王恵を派遣して洛陽に行かせ、五陵を守らせた。鎮西将軍の張遇が許昌でそむき、徒党の上官恩に洛陽を占拠させ、楽弘に督護の戴施を倉垣で攻めさせた。
 三月、北中郎将の荀羨を淮陰に出鎮させた。苻健の別軍が順陽に侵攻したが、順陽太守の薛珍がこれを撃破した。
 夏四月、冉閔が慕容儁に滅ぼされた。慕容儁は中山で帝号を僭称し、燕を称した。安西将軍の謝尚が姚襄を率い、張遇と許昌の誡橋で戦ったが、王師は敗北した。苻健が弟の苻雄に張遇を襲撃させ、これを捕えさせた。
 秋七月、おおいに雨ごいした。石季龍の故将の王擢が使者を派遣して降伏を願い出たので、征西将軍、秦州刺史に任じた。丁酉、鎮軍大将軍の武陵王晞を太宰とし、撫軍大将軍の会稽王昱を司徒とし、征西大将軍の桓温を太尉とした。
 八月、平西将軍の周撫が蕭敬文を涪城で討伐し、これを斬った。冉閔の子の冉智が鄴をもって降った。督護の戴施が冉氏の伝国璽を得たので、これを〔京師に〕送った。その文には「受天之命皇帝寿昌(天の命を受け、皇帝寿昌たり)」とあった。百官みなで祝賀した。
 九月、冉智が配下の将の馬願に捕えられた。〔馬願は〕慕容恪に降った。中軍将軍の殷浩が軍を率いて北伐し、泗口に駐留し、河南太守の戴施を派遣して石門を占拠させ、滎陽太守の劉遁6原文の字体は【辶+彖】だけど、表示できないので異体字とされる「遁」で代用させていただきます。を派遣して倉垣に駐屯させた。
 冬十月、秦州刺史の王擢が苻健に圧迫され、涼州に敗走した。

 九年春正月乙卯朔、大赦した。張重華は王擢に、苻健の将の苻雄と戦わせたが、王擢軍は敗北した。丙寅、皇太后が穆帝といっしょに建平陵を参拝した。
 三月、旱魃があった。交州刺史の阮敷が林邑の范仏を日南で討伐し、五十余の軍塁を落とした。
 夏四月、安西将軍の謝尚を尚書僕射とした。
 五月、疫病が大流行した。張重華が再度、王擢に秦州を襲撃させ、これを奪取させた。仇池公の楊初が苻雄に敗れた。
 秋七月丁酉、地震があり、雷のような音が鳴った。
 八月、兼太尉の河間王欽を派遣し、五陵を修復させた。
 冬十月、中軍将軍の殷浩が進軍して山桑に駐屯し、平北将軍の姚襄を先鋒とした。姚襄はそむき、逆に殷浩を攻撃したので、殷浩は軍事物資を放棄し、退却して譙城を守った。丁未、涼州牧の張重華が卒し、子の張耀霊が継いだ。この月、張祚が張耀霊を弑し、涼州牧を自称した。
 十一月、殷浩は部将の劉啓と王彬之に姚襄を討伐させたが、またも姚襄に敗れた。姚襄はそのまま進み、芍陂を占拠した。
 十二月、尚書僕射の謝尚に都督豫・揚・江西諸軍事を加え、領豫州刺史とし、歴陽に出鎮させた。

 十年春正月己酉朔、穆帝は臨朝したが、五陵がまだ修復されていないことを理由に、楽器を設けても演奏しなかった。涼州牧の張祚が僭越して帝位についた。冉閔の降将の周成が挙兵してそむき、宛陵7「陵」は衍字か。中華書局の校勘記を参照。から洛陽を襲撃した。辛酉、河南太守の戴施が鮪渚へ敗走した。丁卯、地震があり、雷のような音が鳴った。
 二月己丑、太尉、征西将軍の桓温が軍を率いて関中を攻めた。揚州刺史の殷浩を廃して庶人とし、まえの会稽内史の王述を揚州刺史とした。
 夏四月己亥、桓温と苻健の子の苻萇が藍田で戦い、〔桓温は〕おおいにこれを破った。
 五月、江西の乞活の郭敞らが陳留内史の劉仕を捕えてそむいた。京師は震撼し、吏部尚書の周閔を中軍将軍とし、中堂に駐屯させ、豫州刺史の謝尚を歴陽から呼び戻し、京師を守らせた。
 六月、苻健の将の苻雄の全軍と桓温が白鹿原で戦い、王師は敗北した。
 秋九月辛酉、桓温は食糧がなくなったので、撤退した。

 十一年春正月甲辰、侍中の汝南王統が薨じた。平羌校尉、仇池公の楊初が部将の梁式に殺された。楊初の子の楊国が位を継いだので、鎮北将軍、秦州刺史に任じた。斉公の段龕が慕容儁の将の栄国を郎山で襲撃し、これを破った。
 夏四月壬申、霜が下りた。乙酉、地震があった。姚襄が軍を率いて外黄を侵略したが、冠軍将軍の高季がおおいにこれを破った。
 五月丁未、地震があった。
 六月、苻健が死に、子の苻生が偽位を継いだ。
 秋七月、宋混と張瓘が張祚を弑し、張耀霊の弟の張玄靚を大将軍、涼州牧に立て、使者を派遣して来降した。吏部尚書の周閔を尚書左僕射とし、領軍将軍の王彪之を尚書右僕射とした。
 冬十月、豫州刺史の謝尚を督并・冀・幽三州諸軍事、鎮西将軍とし、馬頭に出鎮させた。
 十二月、慕容恪が軍を率いて広固を侵略した。壬戌、上党の馮鴦が太守を自称し、苻生にそむいて使者を〔晋に〕派遣し、来降した。

 十二年春正月丁卯、穆帝は臨朝したが、皇太后の母の死去を理由に、楽器を設けても演奏しなかった。鎮北将軍の段龕と慕容恪が広固で戦い、〔段龕が〕おおいにこれを破った。慕容恪は退却して安平に拠った。
 二月辛丑、穆帝が『孝経』を学習した。
 三月、姚襄が許昌に侵入したため、太尉の桓温を征討大都督とし、討伐させた。
 秋八月己亥、桓温と姚襄が伊水で戦い、〔桓温が〕おおいにこれを破った。姚襄は平陽に敗走した。〔桓温は〕姚襄の残党の三千余家を長江と漢水の間の領域に移し、周成を捕えて帰還した。〔桓温は〕揚武将軍の毛穆之、督護の陳午、輔国将軍、河南太守の戴施を洛陽に出鎮させた8帝紀は明記していないが、桓温は伊水(洛陽の南)で姚襄を破ると、そのまま洛陽を奪還している。洛陽の守りに戴施らを置いて自身は江陵へ帰還したのであろう。「江漢之間」というのは襄陽と江陵の間の領域を指すと思われる。
 冬十月癸巳朔、日蝕があった。慕容恪が段龕を広固で攻めたので、北中郎将の荀羨に軍を統率させて琅邪に駐屯させ、救援させた。
 十一月、兼司空、散騎常侍の車灌、龍驤将軍の袁真らに節を持たせて洛陽に派遣し、五陵を修復させた。
 十二月庚戌、五陵を祀り9原文「有事于五陵」。『左伝』僖公九年に「天子有事于文武」とあり、杜預の注に「有祭事也」とある。また同文公二年に「八月丁卯、大事于大廟、躋僖公」とあり、杜預の注に「大事、禘也」とある。原文がこれらを踏まえているのかはわからないが、とりあえずこれらに従って訳出してみた。、太廟に報告したことを理由に、穆帝と群臣はみな緦服(軽めの等級の喪服)を着用し、〔その衣服で〕太極殿に三日間臨御した。
 この年、仇池公の楊国が従父の楊俊に殺され、楊俊がみずから立った。

 升平元年春正月壬戌朔、穆帝は元服を加え、太廟に報告し、はじめてみずから万機を執った。大赦し、改元し、文武の官の位を一等加増した。皇太后は崇徳宮で起居した。丁丑、槐里に隕石がひとつ落ちた。この月、鎮北将軍、斉公の段龕が慕容恪に攻め下され、殺された。扶南の竺旃檀が人に従順な象を献上するというので、詔を下した、「むかし、先帝は遠方の珍獣は人患になる場合もあるというので、禁止していた。いま、まだ到着していないので、本土に帰らせよ」。
 三月、穆帝が『孝経』を学習した。壬申、〔穆帝は〕みずから中堂で釈奠を執り行なった。
 夏五月庚午、鎮西将軍の謝尚が卒した。苻生の将の苻眉と苻堅が姚襄を攻め、三原で戦い、〔苻眉らは〕これを斬った。
 六月、苻堅が苻生を殺し、みずからが立った。軍司の謝奕を使持節、都督、安西将軍、豫州刺史とした。
 秋七月、苻堅の将の張平が并州をもって降ったので、そのまま并州刺史とした。
 八月丁未、皇后に何氏を立てた。大赦し、孝悌の者と配偶者がいない高齢の男女に米を賜い、一人につき五斛を下賜し、滞納している租税や借金はすべて帳消しにし、三日間の酒盛りを下賜した。
 冬十月、皇后が太廟を参拝した。
 十一月、雷があった。
 十二月、太常の王彪之を尚書左僕射とした。

 二年春正月、司徒の会稽王昱が稽首して政事を返還しようとしたが、穆帝は許可しなかった。
 三月、慕容儁が冀州の諸郡を落とした。詔を下し、安西将軍の謝奕、北中郎将の荀羨に北伐させた。三月10中華書局は「閏月」の誤りであろうと推測している。、佽飛督の王饒が鴆鳥を献上したので、穆帝は怒り、鞭打ち二百に処し、殿中御史にその鳥を四方に通じた道路で焼かせた。
 夏五月、洪水があった。彗星が天船で光った。
 六月、并州刺史の張平が苻堅に圧迫され、衆三千を率いて平陽に逃げたが、苻堅は追撃し、これを破った。慕容恪が進軍して上党を占拠すると、冠軍将軍の馮鴦が軍をもってそむき、慕容儁に帰順した。慕容儁は河北の地をすべて落とした。
 秋八月、安西将軍の謝奕が卒した。壬申、呉興太守の謝万を西中郎将、持節、監司・豫・冀・并四州諸軍事、豫州刺史とした。散騎常侍の郗曇を北中郎将、持節、都督徐・兗・青・冀・幽五州諸軍事、徐・兗二州刺史とし、下邳に出鎮させた。
 冬十月乙丑、陳留王の曹勱が薨じた。
 十一月庚子、雷があった。辛酉、地震があった。
 十二月、北中郎将の荀羨と慕容儁が山茌で戦ったが、王師は敗北した11同年八月の条によれば、北中郎将は郗曇に交代している。だが、ここの「北中郎将」は一概に誤りとも言えないのかもしれない。諸伝に「以疾篤解職」(荀崧伝附羨伝)「時北中郎将荀羨有疾、朝廷以〔郗〕曇為軍司、加散騎常侍。頃之、羨徴還、仍除北中郎将……」(郗鑑伝附曇伝)とあり、荀羨の健康状態が悪く、そのため交替措置が取られたようである。だが升平二年三月の条にあるように、この当時の荀羨は北伐の最中にあり、「是歳、晋将荀羨攻山茌、抜之、斬〔慕容〕儁太山太守賈堅。儁青州刺史慕容塵遣司馬悦明救之、羨師敗績、復陥山茌」(慕容儁載記)とあり、前燕軍と交戦中でおそらく戦線から離脱できる状況ではなかったのであろう。荀羨が朝廷に帰還したのは結局この後になったであろうから、彼が北中郎将から実際に離れたのもそのタイミングのことであろう。ようするに、ここで帝紀が肩書を「北中郎将」にしているのは荀羨が遠征中であった事情に由来していると考えられるのではないか。

 三年春三月甲辰、詔を下し、ここ数年、軍の出動がつづいており、食糧輸送が継続できないため、王公以下すべての者から十三戸につき一人を借り、一年のあいだ輸送を手伝わせた。
 秋七月、平北将軍の高昌が慕容儁に圧迫され、白馬から滎陽に逃げた。
 冬十月、慕容儁が東阿を侵略した。西中郎将の謝万を下蔡に駐屯させ、北中郎将の郗曇を高平に駐屯させ、そうして慕容儁を攻めさせたが、王師は敗北した。
 十一月戊子、揚州刺史の王述を衛将軍に進めた。
 十二月、また、中軍将軍の琅邪王丕を驃騎将軍とし、東海王奕を車騎将軍とした。武陵王晞の子の㻱を梁王に封じた。交州刺史の温放之が軍を率いて林邑の参黎と耽潦を討伐し、どちらも降した。

 四年春正月、仇池公の楊俊が卒し、子の楊世が継いだ。丙戌、慕容儁が死に、子の慕容暐が偽位を継いだ。
 二月、鳳凰が九羽の雛を引き連れて豊城に現れた。
 秋七月、軍役が頻繁であることを理由に、支出を節約して御膳を減らした。
 八月辛丑朔、日蝕があり、皆既になった。
 冬十月、天狗(おそらく星の名称)が西南に流れた。
 十一月、太尉の桓温を南郡公に封じ、桓温の弟の桓沖を豊城県公に封じ、桓温の子の桓済を臨賀郡公に封じた。鳳凰がふたたび豊城に現れ、多くの鳥が付き従っていた。

 五年春正月戊戌、大赦し、配偶者がいない高齢の男女、親がいない幼子、子がいない老人、自活できない者に米を賜い、一人につき五斛を下賜した。北中郎将、都督徐・兗・青・冀・幽五州諸軍事、徐・兗二州刺史の郗曇が卒した。
 二月、鎮軍将軍の范汪を都督徐・兗・青・冀・幽五州諸軍事、安北将軍、徐・兗二州刺史とした。平南将軍、広州刺史、陽夏侯の滕含が卒した。
 夏四月、洪水があった。太尉の桓温が宛に出鎮し、弟の桓豁に軍を統率させて許昌を奪取させた。鳳凰が沔水の北に現れた。
 五月丁巳、穆帝が顕陽殿で崩じた。享年十九。永平陵に埋葬された。廟号は孝宗とされた。

穆帝哀帝海西公

(2020/2/27:公開)

  • 1
    鎮軍将軍が重複している。顧衆伝に「穆帝即位、何充執政、復徵衆為領軍、不起。服闋、乃就。……以年老、上疏乞骸骨、詔書不許。遷尚書僕射。永和二年卒、時年七十三」とあり、「領軍」の誤りかもしれない。中華書局の校勘記を参照。
  • 2
    原文「其共思詳所以振卹之宜」。「思詳」は『晋書』に数例の用例があり、たとえば后妃伝上・武悼楊皇后伝に「至成帝咸康七年、下詔使内外詳議。衞将軍虞潭議曰、『……今聖上孝思、祗粛禋祀、詢及群司、将以恢定大礼。臣輒思詳、伏見恵皇帝起居注、群臣議奏……』」とあり、「詳議することを思う」的なニュアンスではないかと思う。
  • 3
    原文「及歳常調」。「及」をどう読んだらいいのかわからない。「凡」とかならいけそうなのだが……。『漢語大詞典』によれば「もし」で読む用例があるらしいので(先秦時代の文献だけど)、それで読んでみた。
  • 4
    この詔は全体によく読めていない。中華書局の句読を疑いもしたのだが、うまくいかないので句読を変更せずになんとか訳出した。
  • 5
    康帝のときに輔政していた庾氷、何充が没したため、新たに会稽王と蔡謨が輔政に任じられたということ。
  • 6
    原文の字体は【辶+彖】だけど、表示できないので異体字とされる「遁」で代用させていただきます。
  • 7
    「陵」は衍字か。中華書局の校勘記を参照。
  • 8
    帝紀は明記していないが、桓温は伊水(洛陽の南)で姚襄を破ると、そのまま洛陽を奪還している。洛陽の守りに戴施らを置いて自身は江陵へ帰還したのであろう。「江漢之間」というのは襄陽と江陵の間の領域を指すと思われる。
  • 9
    原文「有事于五陵」。『左伝』僖公九年に「天子有事于文武」とあり、杜預の注に「有祭事也」とある。また同文公二年に「八月丁卯、大事于大廟、躋僖公」とあり、杜預の注に「大事、禘也」とある。原文がこれらを踏まえているのかはわからないが、とりあえずこれらに従って訳出してみた。
  • 10
    中華書局は「閏月」の誤りであろうと推測している。
  • 11
    同年八月の条によれば、北中郎将は郗曇に交代している。だが、ここの「北中郎将」は一概に誤りとも言えないのかもしれない。諸伝に「以疾篤解職」(荀崧伝附羨伝)「時北中郎将荀羨有疾、朝廷以〔郗〕曇為軍司、加散騎常侍。頃之、羨徴還、仍除北中郎将……」(郗鑑伝附曇伝)とあり、荀羨の健康状態が悪く、そのため交替措置が取られたようである。だが升平二年三月の条にあるように、この当時の荀羨は北伐の最中にあり、「是歳、晋将荀羨攻山茌、抜之、斬〔慕容〕儁太山太守賈堅。儁青州刺史慕容塵遣司馬悦明救之、羨師敗績、復陥山茌」(慕容儁載記)とあり、前燕軍と交戦中でおそらく戦線から離脱できる状況ではなかったのであろう。荀羨が朝廷に帰還したのは結局この後になったであろうから、彼が北中郎将から実際に離れたのもそのタイミングのことであろう。ようするに、ここで帝紀が肩書を「北中郎将」にしているのは荀羨が遠征中であった事情に由来していると考えられるのではないか。
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