巻六 帝紀第六 元帝(2)

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系図西晋元帝(1)元帝(2)明帝成帝・康帝穆帝哀帝海西公簡文帝孝武帝安帝恭帝

 石勒の将の石季龍が譙城を包囲したが、平西将軍の祖逖がこれを敗走させた。己巳、元帝は檄を天下に発した、「逆賊の石勒は河北で暴虐をほしいままにし、誅殺から長年逃れ、心を存分に解放している。〔石勒は〕さらに悪人仲間の石季龍ら犬羊のごとき徒衆を派遣し、黄河を越えて南に渡らせ、害毒をふりまこうとした。平西将軍の祖逖が軍を率いてこれを討つと、〔石季龍は〕即時に潰走した。いま、車騎将軍の琅邪王裒ら九軍を派遣し、精鋭三万でもって、水陸の四方面からまっすぐに賊の居場所に向かわせ、祖逖の指揮を受けさせることとする。石季龍の首をさらすことができた者には、絹三千匹、金五十斤を褒賞し、県侯に封じ、二千戸を食邑とさせる。また賊の徒党で石季龍の首を送ってきた者についても、褒賞と封建は同じとする」。
 七月、散騎侍郎の朱嵩、尚書郎の顧球が卒した。元帝はこれを悼み、挙哀(哀悼儀礼の実行)しようとした。有司が奏し、尚書郎に挙哀した先例はありませんと述べた。元帝は、「戦乱で秩序が損なわれているからこそ、特別に哀悼するのだ」と言った。こうしてとうとう挙哀し、おおいに慟哭した。丁未、梁王悝が薨じた。太尉の荀組を司徒とした。山沢の禁令をゆるめた。
 八月甲午、梁王世子の翹を梁王に封じた。荊州刺史の第五猗が賊帥の杜曾に推戴され、とうとう杜曾とともに〔元帝に〕そむいた1第五猗は巻一〇〇、杜曾伝に言及があり、愍帝が派遣した荊州刺史である。杜曾伝の訳注で簡単に記したが、杜曾は晋室にそむいているというより、元帝に反発している様子で、元帝の派遣した荊州刺史は拒むが、愍帝が任命した荊州刺史(第五猗)とは協力している。また『世説新語』言語篇、第四二章の劉孝標注に引く「摯氏世本」に「〔摯瞻〕後知敦有異志、建興四年、与第五琦拠荊州以距敦、竟為所害」とあり、建興四年に元帝と対立したとしている。『資治通鑑』も第五猗の荊州着任を建興三年にかけている。『晋書斠注』は本文を誤りとし、第五猗着任および杜曾との結託は愍帝時代のことだとする。
 九月戊寅、王敦は武昌太守の趙誘、襄陽太守の朱軌、陵江将軍の黄峻に第五猗を討伐させたが、将の杜曾に敗北し、趙誘らはみな戦死した。石勒が京兆太守の華諝を殺した。梁州刺史の周訪が杜曾を討伐し、おおいにこれを破った。
 十月丁未、琅邪王裒が薨じた。
 十一月甲子、汝南王祐の子の弼を新蔡王に封じた。丁卯、司空の劉琨を太尉とした。史官を置き、太学を設けた。
 この年、揚州で甚大な旱魃があった。

 太興元年春正月戊申朔、臨朝したが、楽器を設けても演奏しなかった。
 三月癸丑、愍帝崩御の知らせが届き、元帝は斬縗を着て草廬で起居した。丙辰、百官が尊号を奉じた。令を下した、「孤(わたし)は不徳の身をもって、災厄の極みにあたっているが、臣としての節義はいまだに立たず、世を正して救済することもいまだに挙行していない。日夜寝食を忘れ〔て励んでい〕るのはこのためである。いま、宗廟〔の祭祀〕は廃れて断絶し、民衆はよりどころがなく、百官はみな国政を〔執るように〕勧めている。どうして辞退しようか。すみやかにつつしんで〔百官の〕意見に従おう」。この日、皇帝の位についた。詔を下した2この詔は『文館詞林』巻六六八にも収載されている(「東晋元帝改元大赦詔一首」)。『文館詞林』のほうが詳しい。、「むかし、わが高祖宣皇帝はおおいに時運にかない、帝業の基礎を築かれた。景皇帝と文皇帝は代々にわたって光を積み重ね、諸夏を明るく照らされた。ここに世祖にいたって、天命に応じ、時流に従い、この明らかな命を受けた。功は天地に等しく、仁は宇宙を救った。〔しかし〕天帝〔の命〕は永遠ではなく、かの巨大な災厄を降されたため、懐帝は治世を短く終え、遠く王都を去ることとなった。天の災禍はつぎつぎと起こり、〔このたびは〕大行皇帝(愍帝)が崩御され、社稷を奉じ守る者がいなくなった。そこで諸侯、三公、六事3『尚書』甘誓篇「大戦于甘、乃召六卿。王曰嗟、六事之人……」とあり、孔伝に「各有軍事、故曰六事」とある。日本語に訳しにくいのでこのままとする。の人々は、諸官の長に誰が適任であるか意見を求め、〔そして〕華夷におよぶまでの者たちが、朕の身におおいなる命を集約したのである。予一人(わたし)は天の罰を恐れるゆえ、そむこうと思わない。そこでついに南嶽4『太平御覧』巻九八、東晋元皇帝に引く「晋書」は「嶽」を「面」に作る。「南面」も意味としては通じそうだが、『文館詞林』も「南岳」に作っているので、字は改めない。で壇に登り、あとを守文の先帝から継ぎ5原文「受終文祖」。出典は『尚書』舜典篇「正月上日、受終于文祖」、孔伝に「上日、朔日也。終、謂堯終帝位之事。文祖者、堯文徳之祖廟」とある。た『漢語大詞典』では、「受終」は「帝位を受け継ぐ(承受帝位)」、「文祖」は「事業を受け継ぎ、文徳を保守した先祖(継業守文之祖)」という。、柴を焼き、諸侯に瑞玉を頒布し6原文「焚柴頒瑞」。「頒瑞」はおそらく「班瑞」。出典は『尚書』舜典篇「正月上日、受終于文祖。……。輯五瑞、既月乃日、覲四岳群牧、班瑞于群后」、孔伝に「輯、斂。既、尽。覲、見。班、還。后、君也。舜斂公侯伯子男之瑞圭璧、尽以正月中乃日日、見四岳及九州牧監、還五瑞於諸侯、与之正始」とある。、上帝に告げた。朕はわずかな徳をもって、わがおおいなる事業を受け継ぐのであるが、大きな川を渡ろうとしながら、渡るところがわからないような不安を覚えている7原文「惟朕寡徳、纉我洪緒、若渉大川、罔知攸済」。『尚書』大誥篇に「已、予惟小子、若渉淵水、已予惟往求朕攸済」。「大水」になっているのは李淵の諱を避けたからであろう。。股肱爪牙の僚佐たち、文武熊羆8「熊羆」は「勇士のたとえ」(『漢辞海』)。の臣下たちよ、晋室を補佐して安寧をもたらし、余一人(わたし)を助けよ。万国とともに幸福を分かち合いたいと思う」。こうして大赦し、改元し、文武の官は位を二等加増された。庚午、晋王太子の紹を皇太子に立てた9策文が伝わっている。『太平御覧』巻一四八、太子三に引く「何法盛晋中興書」に「粛宗、中宗長子也。建武元年、中宗為晋王、拝王太子、及践尊号、為皇太子。冊曰、『於戯、朕承天緒、忝継祖宗之洪基、君臨于万邦、戦戦兢兢、若渉淵水、未有攸済。自古聖王、敷宅四海、莫不建立元子、本枝百世。今稽古授爾于儲宮、以陪弐于朕躬。欽哉。爾其克念乃祖、日新厥徳、何遠非佞、何親非賢。欽翼師傅、以丕崇大化、可不慎歟。爾其敬之』」とある。
 壬申、詔を下した、「むかしの為政者10君主を指すのではなく、官人も含んだ政治に臨む者一般を指しているのだろう。うまく日本語で訳出できないので、原文のまま「為政者」とした。は、民の心を動かすのに行動でもってし、言葉で感動させようとはせず、〔また〕天の意に応じるのに誠意を込めた内実でもってし、飾り立てた外面で反応しようとはしなかった11原文「動人以行不以言、応天以実不以文」。『漢書』巻四五、息夫躬伝に「丞相嘉対曰、『臣聞動民以行不以言、応天以実不以文』」と、ほぼ同文が見える。。ゆえに『私が清静であれば、人民は自然と正しくなる』と言われるのである12原文「故我清静而人自正」。『老子』第五七章に「我好静而民自正」とある。その次〔の方法〕は、〔官人の〕言葉を聞き、行動を観察して、〔それらの言行の〕成果を試してみることであるその次に〔肝要なのは〕、言葉を聞き、行動を観察するにあたって、〔言行のうわべの良さではなく〕実際の成果を調べることである13原文「其次聴言観行、明試以功」。『韓非子』問弁篇「夫言行者、以功用為之的彀者也。……今聴言観行、不以功用為之的彀、言雖至察、行雖至堅、則妄発之説也」とあるのをふまえたか。「明試」については、『尚書』舜典篇「敷奏以言、明試以功、車服以庸」とあり、孔伝に「諸侯四朝、各使陳進治礼之言、明試其言、以要其功。功成則賜車服、以表顕其能用」とある。(2022/5/24:訳文修正)。そこで、政治で成績を挙げ、裁判は公正で、人民は不満がなく、久しく〔倦まずに〕日々みずからの徳をみがいている者と、官職には軟弱な意思で臨み、弱者を虐げて強者を避け、汚職で処世し、世の名声で飾り立てている者がいれば、おのおの、〔それらの〕名を報告せよ14この詔は読みにくい。外ヅラの言葉だけよくて内実や行動が伴っていない者はいけないし、あるいは功用を挙げているかどうかも大事な指標だから、それらの基準に沿って評価をするぞ。って話ではないかと思うが、自信はない。。職務に就いている者たちに、先哲をよく仰がせて参照させ、心をひとつにさせて力を合わさせようとするのは、民衆に寛大な政治を布き、労役を停止し、百姓に利益をもたらす手段を〔朕は〕深く思いめぐらしているからである。朕の命をないがしろにしないように。遠近の者たちからの〔即位を祝賀する〕礼物については、すべてやめさせよ」。
 夏四月丁丑朔、日蝕があった。大将軍の王敦に江州牧を加え、驃騎将軍の王導を開府儀同三司に進めた。戊寅、招魂葬をはじめて禁止した15『儀礼』に次第が記してあるようなのだが、礼にあまり詳しくないので辞書から抜き出す。「死者の魂を招き寄せる。家人が死ぬと、屋根に上って北の方に向かい、死者の生前の衣を振って、死者の名を三回呼んで魂を招いた」(『漢辞海』)。なお『通典』巻一〇三、招魂葬議にはこのときの議が収録されており、袁瓌の上表をきっかけに議が開かれたようである。。乙酉、西平で地震があった。
 五月癸丑、使持節、侍中、都督、太尉、并州刺史、広武侯の劉琨が段匹磾に殺された。
 六月、旱魃があったので、元帝はみずから雨乞いをした。丹陽内史を丹陽尹に改めた。甲申、尚書左僕射の刁協を尚書令とし、平南将軍、曲陵公の荀崧を尚書左僕射とした。庚寅、滎陽太守の李矩を都督司州諸軍事、司州刺史とした。戊戌、皇子の晞を武陵王に封じた。諫鼓と謗木をはじめて設置した。
 秋七月戊申、詔を下した、「王室は事件が多く、悪人は暴虐をほしいままにし、朝廷の秩序は弛緩してすたれ、国家を治める大道を顚覆させてしまった。朕は不徳の身をもって、帝業を受け継ぎ、日夜に危難を憂慮し、弊害を正そうと考えている。郡の二千石や県の令長は先朝の規範を遵守し、身を正して法を明らかにし、豪強を取り締まり、孤児や老人を憐れみ、戸口の実態を調査し、農業を奨励せよ。州の刺史はたがいに監察しあい、私情を気にかけて公に尽くす心をおろそかにしてはならない。長吏(郡県の長官?)で公への奉仕を志していながら登用されない者もいるだろうし、汚職をむさぼり、財力で地位を守っている者もいるだろう。〔州刺史は?〕もしこれらの者がいる〔のを知っている〕のに挙げないのであれば、悪人をわざと見逃し、善人を隠蔽する罪を受けるべきであり、いるのに知らないのであれば、道理に暗いという罪を受けるべきである。おのおの、つつしんで〔これらの戒めを〕遵守して遂行するように」。劉聡が死ぬと、子の劉粲が偽位を継いだ。
 八月、冀州、徐州、青州で蝗害があった。靳準が劉粲を弑し、漢王を自称した。
 冬十月癸未、広州刺史の陶侃に平南将軍を加えた。劉曜が僭越し、赤壁で皇帝の位についた。
 十一月乙卯、太陽が夜に出て、高さ三丈までのぼり、中心には赤と青の暈があった。新蔡王弼が薨じた。大将軍の王敦に荊州牧を加えた。庚申、詔を下した、「朕は徳が薄い身をもって、帝業を継承したが、上は陰陽の気を調和させることができず、下は人民を助け育てることができず、そのために災異がしばしば起こり、咎めの徴表がしきりに現れている。壬子と乙卯の日には、落雷と暴雨があった。おそらく、天災が譴責するのは、朕の不徳を明らかにするためなのであろう。群公卿士よ、おのおの文書を密封して上奏し、得失をあますところなく述べ、憚ってあえて触れない事柄があってはならない。朕みずからそれを見ることにしよう16上呈された文書が皇帝にダイレクトに届くよ、間に誰かがチェックしたりはしないよ、という意味。」。新たに聴訟観を建てた。もとの帰命侯の孫晧の子の孫璠が謀反したので、誅殺された。
 十二月、劉聡の故将の王騰、馬忠らが靳準を誅殺し、劉曜に伝国璽を送った。武昌で地震があった。丁丑、顕義亭侯煥を琅邪王に封じた。己卯、琅邪王煥が薨じた。癸巳、詔を下した、「漢の高祖が大梁を通過したさい、魏公子無忌の賢才を称えた。斉の軍隊が魯に入ったとき、柳下恵の墓を修繕した。そこで、呉の高徳者や名声ある賢者で、まだ表彰されて〔功績が〕記録されていない者がいれば、あますところなく列挙して報告せよ」。江東の三郡が飢饉のため、使者を派遣して援助させた。彭城内史の周撫が沛国内史の周黙を殺してそむいた。

 太興二年春正月丁卯、崇陽陵(文帝陵)が壊れたので、元帝は素服で三日間号泣した。冠軍将軍の梁堪、守太常の馬亀らをつかわし、山陵を修復させた。〔懐帝と愍帝の〕棺を平陽で奉迎しようとしたが、勝利できずに帰還した17巻二〇、礼志中に、建武元年に温嶠が元帝の任命を辞して河北に帰りたいと要望したときのこととして、元帝の「詔」(詔であるのは確実のようなので、太興元年の誤りなのであろう)に「今桀逆未梟、平陽道断、奉迎諸軍猶未得径進」とあり、西陽王らの議に「無縁道路未通、師旅未進」とある。本文の北伐以前は行軍路を確保することもできていなかったようである。
 二月、泰山太守の徐龕が周撫を斬り、首を京師に送った。
 夏四月、龍驤将軍の陳川が浚儀をもってそむき、石勒に降った。泰山太守の徐龕が泰山郡をもってそむき、兗州刺史を自称し、済泰の地(兗州)を侵略した。秦州刺史の陳安がそむき、劉曜に降った。
 五月癸丑、太陽陵(恵帝陵)が壊れたので、元帝は素服で三日間号泣した。徐州、揚州、江北の諸郡で蝗害があった。呉郡で大飢饉があった。平北将軍の祖逖と石勒の将の石季龍が浚儀で戦ったが、王師が敗北した。壬戌、詔を下した、「天下が疲弊しているところに、さらに凶作もくわわり、百姓は困窮し、国家の財政も苦しく、呉郡の餓死者が百人にものぼってしまった。天は民衆を生むと、そのなかに主君を立て〔て民衆を監督させ〕、〔また先王は〕聡明な人物を選抜して取り立て、主君を補佐させたが18原文「選建明哲以左右之」。『左伝』定公四年に「昔武王克商、成王定之、選建明徳、以藩屏周、故周公相王室以尹天下」とある。、〔われわれも〕そのようにして弊世を救済することを深く考えねばならない19原文「天生蒸黎而樹之以君、選建明哲以左右之、当深思以救其弊」。よくわからない。前の二句は古典からの引用であるから、原則論・一般論を述べた箇所だと予想されるものの、それらがあとの「以救其弊」とどうつながるのかがよくわからない。ひとまず直訳した。。むかし、呉起は楚の悼王のために法令を〔整備して〕明確にし、不急の官を廃し、疎遠な公族を除外し、そのようにすることで将士を増加させたが、そうして国家は富み、軍隊は強力となったのである。まして、こんにちの退廃ぐあいや、百姓の疲弊ぶりならばなおさら〔このような改革が必要〕である。当面のあいだ、不急の仕事はやめるべきであろう。〔そこで〕必須ではない兵士はすべて廃止する」。甲子、梁州刺史の周訪と杜曾が武当で戦い、〔周訪は〕杜曾を斬り、第五猗を捕えた。
 六月丙子、周訪に安南将軍を加えた。御府と諸郡の丞を廃し、博士を置き、定員を五人とした。己亥、太常の賀循に開府儀同三司を加えた。
 秋七月乙丑、太常の賀循が卒した。
 八月、粛慎が楛矢と石砮を朝献した。徐龕が東莞を侵略したので、太子左衛率の羊鑑を行征虜将軍として派遣し、徐州刺史の蔡豹を統率させ、討伐させた。
 冬十月、平北将軍の祖逖が、督護の陳超に石勒の将の桃豹を襲撃させたが、陳超は敗れ、戦場で死んだ20原文「没於陣」。一般的には「戦死」を意味すると思うのでそのように訳出したが、あるいは『晋書』特有の「没」の用法なのかもしれない。
 十一月戊寅、石勒が僭越して王位につき、国号を趙とした。
 十二月乙亥、大赦した。詔を下し、百官おのおのに文書を密封して上奏させ、〔また〕数多ある労役を統廃合した。鮮卑の慕容廆が遼東を襲撃したので、東夷校尉、平州刺史の崔毖は高句麗へ敗走した。
 この年、南陽王保が晋王を祁山で称した。三呉で大飢饉があった。

 太興三年春正月丁酉朔、晋王保が劉曜に圧迫され、桑城へ移った。
 二月辛未、石勒の将の石季龍が猒次を侵略したので、平北将軍、冀州刺史の邵続が攻撃をかけたが、邵続は敗れ、戦場で死んだ21原文「没於陣」。邵続伝によれば、邵続はこのとき石氏に捕えられたのであって、殺されたのはややあとのことである。そのため『晋書斠注』に引く『晋書校文』は、「没於陣」とは言えないと述べている。たしかにそうと言えばそうなのだが、その邵続伝に掲載されている元帝の詔を見ると、どうも元帝には邵続が死んだと知らされているようにも見え、ここの帝紀の記述が不適だとも言えない。なお猒次はこのときに陥落までいたらず、段匹磾と邵氏の残党がこの後も抵抗を続けていく。
 三月、慕容廆が三紐の玉璽を送って献上した。
 閏月、尚書の周顗を尚書僕射とした。
 夏四月壬辰、流星が翼軫で流れた。
 五月丙寅、懐帝太子の詮が平陽で殺されたため、元帝は三日間号泣した。庚寅、地震があった。この月、晋王保が将の張春に殺された。劉曜は陳安に張春を攻めさせ、これを滅ぼさせたが、陳安はこの機に乗じて劉曜からそむいた。石勒の将の徐龕が衆を率いて来降した。
 六月、洪水があった。丁酉、盗賊が西中郎将、護羌校尉、涼州刺史、西平公の張寔を殺した。張寔の弟の張茂があとを継ぎ、領平西将軍、涼州刺史となった。
 秋七月丁亥、詔を下した、「朕の先公(祖父)の武王、先考(父)の恭王が琅邪に君臨してから四十余年が経っているが、〔両王の〕恩恵は百姓に施され、遺愛は人心に結びついている。朕は天の符瑞に従い、江南に基礎をひらくと、民衆は心を寄せ、子を背負ってやって来ている。〔そのようにして南に来た民衆のうち〕琅邪国出身で江南にいる者はほとんど千戸にのぼるので、いま懐徳県を立て、丹陽郡に所属させる。むかし、漢の高祖は沛を湯沐邑とし、また光武帝も南頓を免税した。優遇して免税する法令は、すべて漢氏の故事に従え」。祖逖の部将の衛策が石勒の別軍を汴水でおおいに破った。祖逖に鎮西将軍を加えた。
 八月戊午、敬王后の虞氏を尊び敬皇后とした22后妃伝下・元敬虞皇后伝によれば、琅邪王時代の妃で、永嘉六年に薨じた。元帝が晋王になったときに王后に追尊され、さらにこのときになって皇后に追尊された。。辛酉、神主を太廟に移した。辛未、梁州刺史、安南将軍の周訪が卒した。皇太子が太学で釈奠23教育施設(学校)において牛・羊などの犠牲や供え物をささげて、天地の神や古代の聖人〔特に孔子〕を祭る行事。舎奠。(『漢辞海』)をおこなった。湘州刺史の甘卓を安南将軍、梁州刺史とした。
 九月、徐龕がふたたびそむき、石勒に降った。
 冬十月丙辰、徐州刺史の蔡豹が畏愞(おびえて進まない)の罪をもって誅殺された。王敦が武陵内史の向碩を殺した。

 太興四年春二月、徐龕がまたも衆を率いて来降した。鮮卑の段末波が皇帝信璽を送って献上した。庚戌、太廟に報告してからこの璽を受け取った。癸亥、太陽が〔ほかの星と〕ぶつかった24原文「日闘」。『漢書』巻二六、天文志の顔師古注に引く韋昭注に「星相撃為闘也」とある。
 三月、『周易』『儀礼』『公羊』の博士を置いた。癸酉、平東将軍の曹嶷を安東将軍とした。
 夏四月辛亥、元帝はみずから数多の裁判を決裁した。石勒が猒次を攻め、これを落とした。撫軍将軍、幽州刺史の段匹磾が石勒に没した。
 五月、旱魃があった。庚申、詔を下した、「むかし、漢の高祖と世祖、および魏の武帝は、みな〔奴婢を〕免じて良民とした。〔わが〕武帝のとき、涼州が転覆したが、このさいも奴婢に陥った者はすべて戸籍を回復させた。これ(戦乱で賤民に陥った良民を回復すること)は代々の規範なのである。そこで、中原出身の良民で、国難に遭って揚州諸郡の僮客になってしまった者を免じ〔て良民に回復し〕、そうして外征の兵役に充てよ」。
 秋七月、洪水があった。甲戌、尚書の戴若思を征西将軍、都督司・兗・豫・并・冀・雍六州諸軍事、司州刺史とし、合肥に出鎮させ、丹陽尹の劉隗を鎮北将軍、都督青・徐・幽・平四州諸軍事、青州刺史とし、淮陰に出鎮させた。壬午、驃騎将軍の王導を司空とした。
 八月、常山が崩落した。
 九月壬寅、鎮西将軍、豫州刺史の祖逖が卒した。
 冬十月壬午、祖逖の弟の侍中の祖約を平西将軍、豫州刺史とした。
 十二月、慕容廆を持節、都督幽・平二州東夷諸軍事、平州牧とし、遼東郡公に封じた。

 永昌元年春正月乙卯、大赦し、改元した。戊辰、大将軍の王敦が武昌で挙兵し、劉隗の誅殺を名分に掲げた。龍驤将軍の沈充が軍を率いて王敦に呼応した。
 三月、征西将軍の戴若思、鎮北将軍の劉隗を〔中央に〕召し、京師に帰還させ、防衛させた。司空の王導を前鋒大都督とし、戴若思を驃騎将軍とし、丹陽などの諸郡守みなに将軍号を加えた。尚書僕射の周顗に尚書左僕射を加え、領軍将軍の王邃に尚書右僕射を加えた。太子右衛率の周莚を行冠軍将軍とし、兵三千を統率させて沈充を討伐させた。甲午、皇子の昱を琅邪王に封じた。劉隗は金城に駐屯し、右将軍の周札は石頭を守備し、元帝はみずから甲冑をまとい、六軍を郊外で視察した。平南将軍の陶侃を領江州刺史とし、安南将軍の甘卓を領荊州刺史とし、それぞれ指揮下の軍を率いさせて王敦の背後を追わせた。
 四月、王敦の前鋒が石頭を攻めると、周札は城門を開いて王敦軍に呼応し、奮威将軍の侯礼は戦死した。王敦が石頭を占拠すると、戴若思、劉隗が軍を率いて王敦を攻め、王導、周顗、郭逸、虞潭らが三方向から出撃して戦ったが、六軍は敗北した。尚書令の刁協は江乗へ逃げたが、賊に殺された。鎮北将軍の劉隗は石勒のもとへ敗走した。元帝は使者をつかわして王敦に告げた、「公がもし本朝を忘れておらず、ここで戦闘をやめるのであれば、天下はいぜん、協力して太平にすることが可能であろう。もしそうでなければ、朕は琅邪に帰って、賢者に道をゆずることにしよう」。辛未、大赦した。王敦はそこで、みずから丞相、都督中外諸軍事、録尚書事となり、武昌郡公に封じられ、食邑一万戸とされた。丙子、驃騎将軍、秣陵侯の戴若思、尚書左僕射、護軍将軍、武城侯の周顗が王敦に殺された。王敦の将の沈充が呉国を落とし、魏乂が湘州を落とした。呉国内史の張茂、湘州刺史の譙王承がともに殺された。
 五月壬申、王敦は太保の西陽王羕を太宰とし、司空の王導に尚書令を加えた。乙亥、鎮南大将軍の甘卓が襄陽太守の周慮に殺された。蜀の賊の張龍が巴東を侵略したが、建平太守の柳純がこれを攻め、敗走させた。石勒が騎兵を派遣して河南を侵略させた。
 六月、旱魃があった。
 秋七月、王敦はみずから兗州刺史の郗鑑に安北将軍を加えた。石勒の将の石季龍が泰山を攻め落とし、守将の徐龕を捕えた。兗州刺史の郗鑑が鄒山から退却し、合肥を守備した。
 八月、王敦は兄の王含を衛将軍とし、みずからは領寧・益二州都督となった。琅邪太守の孫黙がそむき、石勒に降った。
 冬十月、疫病が大流行し、十人に二、三人が死んだ。己丑、都督荊・梁二州諸軍事、平南将軍、荊州刺史、武陵侯の王廙が卒した。辛卯、下邳内史の王邃を征北将軍、都督青・徐・幽・平四州諸軍事とし、淮陰に出鎮させた。新昌太守の梁碩が挙兵してそむいた。京師で大規模な霧があり、黒い気が空を覆い、太陽と月の光が届かなかった。石勒が襄城、城父を攻め落とし、とうとう譙を包囲し、祖約の別軍を破ったので、祖約は撤退し、寿春を守った。
 十一月、司徒の荀組を太尉とした。己酉、太尉の荀組が薨じた。司徒を廃し、丞相に統合した。
 閏月己丑、元帝は内殿で崩じた。享年四十七。建平陵に埋葬した。廟号は中宗とされた。元帝は素朴で淡白な性格であり、直言をよく聴き入れ、己れを虚しくして他人に接した。最初に江南に出鎮したころ、〔元帝は〕酒を飲んでばかりで政務を怠っていたので、王導が厳しく諫めたところ、元帝は〔左右の者に一杯の〕酌をするように命じ、〔注がれた〕杯を持って〔飲み干すと、杯を〕ひっくり返してしまった。こうしてついに飲酒をやめた25訳出にあたっては、『世説新語』規箴篇、第一一章、同、劉孝標注引「鄧粲晋紀」を参考にした。。有司が奏し、太極殿の広室26原文「太極殿広室」。「広室」は太極殿の部屋を指すらしい。これがそのまま部屋の名称なのかどうかは不明。に赤い帳を飾るように要望したことがあったが、元帝は「漢の文帝は上書を入れる黒い袋27原文「上書皁囊」。『後漢書』伝五〇下、蔡邕伝の李賢注に引く「漢官儀」に「凡章表皆啓封、其言密事得皁囊」とある。を集め合わせ、それを帳としていた」と答え、こうしてとうとう、冬には青の麻布の帳を使い、夏には青の粗麻の帳を設けさせた。貴人を任命するさい、有司は首飾りの購入を求めたが、元帝は経費がかさむことを理由に許可しなった。寵愛を受けていた鄭夫人の衣服は模様がないものであった。従母弟の王廙が母のために家屋を立てようとしたが、礼の定めを過ぎていたので、〔元帝は〕涙を流してこれをやめさせた。しかし、晋室は争乱に遭い、天子は流浪したものの、天命はいまだ改まらず、人謀は一体になって輔翼した。大軍がしばしば出動したが、江畿(長江周辺?)から外に出ず、統治は小規模に収まり、わずかに呉と楚を保つのみであった。〔その治世は〕下位の者が分をしのいで、上位の者が屈辱をこうむる目に遭い、憂憤して退位〔しようと〕することに最後は終わってしまった。敬恭と倹約の徳は満ち足りていたが、武略の器量は不足していた謙遜の徳は十分に備わっていたが、武略の資質は足りなかったのである(2023/1/22:修正)
 かつて秦の時代、雲気を観測して占う者が「五百年後には金陵に天子の気があるだろう」と言った。そのため、始皇帝は東に巡遊してこの予言を不快に思い、金陵を秣陵に改名し、北の山を開削して地勢(地の利)を失わせたのであった。孫権が帝号を称すると、この予言に符合しているとみずから言っていた。〔だが〕孫盛によれば、始皇帝から孫氏までは四三七年で、天命の所在を考慮しても、まだ〔孫権では〕不足している。〔これに対して〕元帝が長江を渡ったときは〔始皇帝から〕五二六年であり、真人28原文のまま。用例を見る感じ、「予言どおりの運命の人」的なニュアンスだと思われる。の呼応はこのことである。咸寧のはじめ、風で太社の木が折れると、社内に青い気が出てきたことがあった。占者は、東莞に帝王の予兆があるとうらなった。このため、東莞王を琅邪に改封したが、これが〔元帝の祖父の〕武王なのである。孫呉の滅亡時のこと、実際には王濬が先に建業に到達していた。〔しかし〕孫皓が降服したときは、〔王濬よりも〕遠方にいた琅邪王に璽を送った。〔このように〕天意も人事も、どちらも中興の予兆に符合していたのである。太安年間にこのような童謡があった、「五匹の馬が長江を渡ると、一匹が龍に化けたとさ」。永嘉年間、歳星、鎮星、熒惑、太白が斗と牛の空域に集まった。識者は、呉越の地に王者がまもなく興るだろうと予見した。この年、王室が転覆すると、元帝は西陽王、汝南王、南頓王、彭城王とともに、五王で長江を渡ることができた。そして元帝は、とうとう帝位に登ったのである。
 これ以前〔曹魏のときに出現した〕玄石図に「牛継馬後(牛が馬の後ろにつづく)」とあったため、宣帝は牛氏をおおいに嫌がった。ついには二つの容器をつくり、どちらも口を一つだけ開け、酒〔と毒酒〕をこれらに入れておいた。宣帝は先に美酒を飲むことによって、毒酒を将の牛金に飲ませ、毒殺した。しかし最終的には、〔元帝の母である〕恭王妃の夏侯氏が小吏の牛氏と密通し、元帝が生まれたのである。このこともまた、〔元帝が天命を受ける徴表に〕符合しているのである。

 史臣曰く、(以下略)

系図西晋元帝(1)元帝(2)明帝成帝・康帝穆帝哀帝海西公簡文帝孝武帝安帝恭帝

(2020/2/27:公開)
(2021/11/21:改訂)

  • 1
    第五猗は巻一〇〇、杜曾伝に言及があり、愍帝が派遣した荊州刺史である。杜曾伝の訳注で簡単に記したが、杜曾は晋室にそむいているというより、元帝に反発している様子で、元帝の派遣した荊州刺史は拒むが、愍帝が任命した荊州刺史(第五猗)とは協力している。また『世説新語』言語篇、第四二章の劉孝標注に引く「摯氏世本」に「〔摯瞻〕後知敦有異志、建興四年、与第五琦拠荊州以距敦、竟為所害」とあり、建興四年に元帝と対立したとしている。『資治通鑑』も第五猗の荊州着任を建興三年にかけている。『晋書斠注』は本文を誤りとし、第五猗着任および杜曾との結託は愍帝時代のことだとする。
  • 2
    この詔は『文館詞林』巻六六八にも収載されている(「東晋元帝改元大赦詔一首」)。『文館詞林』のほうが詳しい。
  • 3
    『尚書』甘誓篇「大戦于甘、乃召六卿。王曰嗟、六事之人……」とあり、孔伝に「各有軍事、故曰六事」とある。日本語に訳しにくいのでこのままとする。
  • 4
    『太平御覧』巻九八、東晋元皇帝に引く「晋書」は「嶽」を「面」に作る。「南面」も意味としては通じそうだが、『文館詞林』も「南岳」に作っているので、字は改めない。
  • 5
    原文「受終文祖」。出典は『尚書』舜典篇「正月上日、受終于文祖」、孔伝に「上日、朔日也。終、謂堯終帝位之事。文祖者、堯文徳之祖廟」とある。た『漢語大詞典』では、「受終」は「帝位を受け継ぐ(承受帝位)」、「文祖」は「事業を受け継ぎ、文徳を保守した先祖(継業守文之祖)」という。
  • 6
    原文「焚柴頒瑞」。「頒瑞」はおそらく「班瑞」。出典は『尚書』舜典篇「正月上日、受終于文祖。……。輯五瑞、既月乃日、覲四岳群牧、班瑞于群后」、孔伝に「輯、斂。既、尽。覲、見。班、還。后、君也。舜斂公侯伯子男之瑞圭璧、尽以正月中乃日日、見四岳及九州牧監、還五瑞於諸侯、与之正始」とある。
  • 7
    原文「惟朕寡徳、纉我洪緒、若渉大川、罔知攸済」。『尚書』大誥篇に「已、予惟小子、若渉淵水、已予惟往求朕攸済」。「大水」になっているのは李淵の諱を避けたからであろう。
  • 8
    「熊羆」は「勇士のたとえ」(『漢辞海』)。
  • 9
    策文が伝わっている。『太平御覧』巻一四八、太子三に引く「何法盛晋中興書」に「粛宗、中宗長子也。建武元年、中宗為晋王、拝王太子、及践尊号、為皇太子。冊曰、『於戯、朕承天緒、忝継祖宗之洪基、君臨于万邦、戦戦兢兢、若渉淵水、未有攸済。自古聖王、敷宅四海、莫不建立元子、本枝百世。今稽古授爾于儲宮、以陪弐于朕躬。欽哉。爾其克念乃祖、日新厥徳、何遠非佞、何親非賢。欽翼師傅、以丕崇大化、可不慎歟。爾其敬之』」とある。
  • 10
    君主を指すのではなく、官人も含んだ政治に臨む者一般を指しているのだろう。うまく日本語で訳出できないので、原文のまま「為政者」とした。
  • 11
    原文「動人以行不以言、応天以実不以文」。『漢書』巻四五、息夫躬伝に「丞相嘉対曰、『臣聞動民以行不以言、応天以実不以文』」と、ほぼ同文が見える。
  • 12
    原文「故我清静而人自正」。『老子』第五七章に「我好静而民自正」とある。
  • 13
    原文「其次聴言観行、明試以功」。『韓非子』問弁篇「夫言行者、以功用為之的彀者也。……今聴言観行、不以功用為之的彀、言雖至察、行雖至堅、則妄発之説也」とあるのをふまえたか。「明試」については、『尚書』舜典篇「敷奏以言、明試以功、車服以庸」とあり、孔伝に「諸侯四朝、各使陳進治礼之言、明試其言、以要其功。功成則賜車服、以表顕其能用」とある。
  • 14
    この詔は読みにくい。外ヅラの言葉だけよくて内実や行動が伴っていない者はいけないし、あるいは功用を挙げているかどうかも大事な指標だから、それらの基準に沿って評価をするぞ。って話ではないかと思うが、自信はない。
  • 15
    『儀礼』に次第が記してあるようなのだが、礼にあまり詳しくないので辞書から抜き出す。「死者の魂を招き寄せる。家人が死ぬと、屋根に上って北の方に向かい、死者の生前の衣を振って、死者の名を三回呼んで魂を招いた」(『漢辞海』)。なお『通典』巻一〇三、招魂葬議にはこのときの議が収録されており、袁瓌の上表をきっかけに議が開かれたようである。
  • 16
    上呈された文書が皇帝にダイレクトに届くよ、間に誰かがチェックしたりはしないよ、という意味。
  • 17
    巻二〇、礼志中に、建武元年に温嶠が元帝の任命を辞して河北に帰りたいと要望したときのこととして、元帝の「詔」(詔であるのは確実のようなので、太興元年の誤りなのであろう)に「今桀逆未梟、平陽道断、奉迎諸軍猶未得径進」とあり、西陽王らの議に「無縁道路未通、師旅未進」とある。本文の北伐以前は行軍路を確保することもできていなかったようである。
  • 18
    原文「選建明哲以左右之」。『左伝』定公四年に「昔武王克商、成王定之、選建明徳、以藩屏周、故周公相王室以尹天下」とある。
  • 19
    原文「天生蒸黎而樹之以君、選建明哲以左右之、当深思以救其弊」。よくわからない。前の二句は古典からの引用であるから、原則論・一般論を述べた箇所だと予想されるものの、それらがあとの「以救其弊」とどうつながるのかがよくわからない。ひとまず直訳した。
  • 20
    原文「没於陣」。一般的には「戦死」を意味すると思うのでそのように訳出したが、あるいは『晋書』特有の「没」の用法なのかもしれない。
  • 21
    原文「没於陣」。邵続伝によれば、邵続はこのとき石氏に捕えられたのであって、殺されたのはややあとのことである。そのため『晋書斠注』に引く『晋書校文』は、「没於陣」とは言えないと述べている。たしかにそうと言えばそうなのだが、その邵続伝に掲載されている元帝の詔を見ると、どうも元帝には邵続が死んだと知らされているようにも見え、ここの帝紀の記述が不適だとも言えない。なお猒次はこのときに陥落までいたらず、段匹磾と邵氏の残党がこの後も抵抗を続けていく。
  • 22
    后妃伝下・元敬虞皇后伝によれば、琅邪王時代の妃で、永嘉六年に薨じた。元帝が晋王になったときに王后に追尊され、さらにこのときになって皇后に追尊された。
  • 23
    教育施設(学校)において牛・羊などの犠牲や供え物をささげて、天地の神や古代の聖人〔特に孔子〕を祭る行事。舎奠。(『漢辞海』)
  • 24
    原文「日闘」。『漢書』巻二六、天文志の顔師古注に引く韋昭注に「星相撃為闘也」とある。
  • 25
    訳出にあたっては、『世説新語』規箴篇、第一一章、同、劉孝標注引「鄧粲晋紀」を参考にした。
  • 26
    原文「太極殿広室」。「広室」は太極殿の部屋を指すらしい。これがそのまま部屋の名称なのかどうかは不明。
  • 27
    原文「上書皁囊」。『後漢書』伝五〇下、蔡邕伝の李賢注に引く「漢官儀」に「凡章表皆啓封、其言密事得皁囊」とある。
  • 28
    原文のまま。用例を見る感じ、「予言どおりの運命の人」的なニュアンスだと思われる。
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