巻一百 列伝第七十 王弥 張昌 陳敏

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王弥・張昌・陳敏王如・杜曾・杜弢・王機(附:王矩)祖約・蘇峻/孫恩・盧循・譙縦

 目 次

王弥

 王弥は東莱の人である1『太平御覧』巻四、月蝕に引く「晋書」に「永嘉元年、月蝕、赤如血。二月、敬則反」とある。懐帝紀によれば王弥がそむいたのは永嘉元年二月であるため、『晋書斠注』は「失氏名晋書」佚文にみえる「敬則」は王弥の字かもしれないと推測している(巻五、懐帝紀、永嘉元年二月の条の注)。。家は世々二千石であった。祖父の王頎は魏の玄莬太守であり、武帝の時代には汝南太守にまでいたった2『三国志』巻二八、毌丘倹伝の裴松之注に引く「世語」に「〔玄莬太守王〕頎字孔碩、東莱人、晋永嘉中大賊王弥、頎之孫」とある。。王弥は才幹があり、書物を広く読んでいた。若くして上京し、侠(無頼)になったが、隠者の董仲道は彼に会うと言った、「君は豺(ヤマイヌ)のような声、豹のような眼光をしているから、乱を好み、禍を喜ぶだろう。もし天下が騒がしくなれば、〔君は〕士大夫にはなるまい」。
 恵帝の末年、妖賊の劉柏根が東莱の㡉県で起ちあがると、王弥は家僮(家の奴)を引き連れてこれに服従し、劉伯根は王弥を長史とした。劉伯根が死ぬと、王弥は臨海地域で群衆を集めたが、苟純に敗れたため、逃げて長広山に入り、群賊となった。王弥は状況に合わせた作戦を立てるのが得意で、およそ掠奪する場所があるときには、必ず事前に成功と失敗を予測し、まちがった作戦を挙行することはなかった。弓馬に長け、敏捷であり、体力は常人をしのいだので、青州の人々は「飛豹」と呼んだ。のち、兵を率いて青州と徐州を侵略したが、兗州刺史の苟晞が迎撃し、これをおおいに破った。王弥は撤退し、逃げ散った兵を集めると、衆はふたたびおおいに振るうようになった。苟晞は王弥と連戦したが、勝利することはできなかった。王弥は進軍して泰山、魯国、譙、梁、陳、汝南、潁川、襄城の諸郡を侵略し、許昌に入り、府の倉庫を開いて武器を奪った。あちこちが陥落し、守令(郡県の長官)を多く殺し、衆は数万にもなり、朝廷は制圧できなかった。
 ちょうど天下がおおいに乱れたので、進軍して洛陽に迫った。京師はおおいに震撼し、宮城の門は昼も閉じられた。司徒の王衍らが百官を率いて防衛した。王弥は七里澗に駐屯していたが、王師(晋軍)は進軍して攻撃をかけ、王弥をおおいに破った。王弥は徒党の劉霊に言った、「晋軍はいぜん強力だし、戻ろうにも行き場がない。劉元海がまえに任子であったとき、私は彼と京師を歩き回り、深く友情を交わしたことがある。いま、〔彼は〕漢王を称しており、彼のもとへ帰そうと思っているが、よいかね」。劉霊は賛同した3『資治通鑑』は「陽平劉霊……及公師藩起、霊自称将軍、寇掠趙魏。会王弥為苟純所敗、霊亦為王讃所敗、遂俱遣使降漢」とし、王弥と劉霊は行動を伴にしていたわけではなく、だいたい同じ時期におのおのの事情から劉淵に帰順したと記述している。司馬光によれば、この記述は『十六国春秋』にもとづいたのだという。『資治通鑑考異』に「弥伝曰、『弥逼洛陽、敗於七里澗、乃与其党劉霊謀帰漢』。按『十六国春秋』、霊為王讃所逐、弥為苟純所敗、乃謀降漢。今年(永嘉元年)春、霊已在淵所、五月、弥乃如平陽。然則二人先降漢已久矣、弥伝誤也」とある。。そこで黄河を渡って劉元海に帰順した。劉元海はこれを聞いておおいに喜び、侍中兼御史大夫をつかわして郊外で迎えさせ、書信を王弥に渡して言った、「将軍は不世出の功績と当世を超越した徳を有しておいでですので、このような出迎えをいたしましたしだいです。将軍の到着を待ち望んでおりますので、孤はいま、みずから将軍のための邸宅に行き、すぐにでも席を拭いて盃を洗い、つつしんで将軍をお待ちしています」。王弥は劉元海に接見すると、尊号を称することを勧めた。劉元海は王弥に言った、「孤はもともと、将軍は竇周公(竇融)のようなお方だと思っていましたが、いま、まことにわが孔明や仲華(鄧禹)のようなお方でした4おそらくだが、竇融はひとかどの英雄・群雄の喩えで、諸葛亮と鄧禹は主君を皇帝に導く王佐の臣の比喩であろう。。烈祖(劉備)は『私が将軍を得たのは、魚が水を得たようなものだ』と言いました〔が、孤も将軍を前にして同じことを思います〕」。こうして王弥を司隷校尉に任命し、侍中、特進をくわえたが、王弥は固辞した。劉曜に従わせて河内を侵略させ、さらに石勒とともに臨漳を攻めさせた。
 永嘉の初め、上党を侵略し、壺関を包囲した。東海王越は淮南内史の王曠、安豊太守の衛乾らを派遣して王弥を討伐させたが、王弥が高都と長平の間でこれと戦うと、おおいに破り、〔晋軍の〕死者は十人中六、七人であった。劉元海は王弥を征東大将軍に進め、東莱公に封じた。劉曜、石勒らと魏郡、汲郡、頓丘を攻め、五十余の塢壁を落とし、〔落としたところの人は〕みな徴用して兵士とした。また、石勒と鄴を攻めると、〔晋の〕安北将軍の和郁は城を放棄して逃げた。懐帝は北中郎将の裴憲を派遣し、白馬に駐屯させて王弥を討伐させ、車騎将軍の王堪を派遣し、東燕に駐屯させて石勒を討伐させ、平北将軍の曹武を派遣し、大陽に駐屯させて劉元海を討伐させた。武部将軍の彭黙が劉聡に敗北し、殺されると、大軍はすべて退却した。劉聡が黄河を渡ると、懐帝は司隷校尉の劉暾、将軍の宋抽らを派遣してこれを防がせたが、みな食い止めることができなかった。王弥と劉聡は一万騎で京師に到達し、二学(太学と国学)を焼いた。東海王越が西明門で防戦すると、王弥らは敗走した。王弥はふたたび二千騎で襄城の諸県を侵略した。河東、平陽、弘農、上党の流人で潁川、襄城、汝南、南陽、河南に移動した者は数万家であったが、旧来の住人に礼遇されていなかった。〔流人は〕みな〔移動先の〕城邑(都市と郷村)を焼き払い、二千石(郡の太守)や長吏(県の令長)を殺して〔侵略してきた〕王弥に呼応した。王弥はさらに二万人をもって石勒に合流し、陳郡と潁川を侵略し、陽翟に駐屯した。弟の王璋をつかわし、石勒とともに徐州と兗州を侵略させると、東海王越の軍を破った。
 王弥はその後、劉曜とともに襄城を侵略し、そうしてついには京師へ迫った。当時、京師は大飢饉で、人々は食い合い、百姓は流亡し、公卿は河陰へ逃亡していた。劉曜、王弥らはそのまま宮城を落とし、太極前殿にいたると、兵を放っておおいに掠奪させた。懐帝を端門5宮城南面まんなかの門を指すらしい。太極殿の南の正門を指すらしい。太極殿の南の正門を指すらしい。(2020/11/22:注訂正)に幽閉し、羊皇后を陵辱し、皇太子の詮を殺し、陵墓を発掘し、宗廟を焼いた。城壁と官府は〔破壊されて〕すっかり消失し、百官や男女(民衆)で殺された者は三万余人であった。とうとう懐帝を平陽へ移した。
 王弥が洛陽で掠奪したとき、劉曜はこれを制止したが、王弥は従わなかった。劉曜は王弥の牙門の王延を斬って見せしめとした。王弥は怒り、劉曜と兵を恃みにして攻撃しあい、死者は千余人であった。王弥の長史の張嵩は諌めて言った、「明公は国家とともに大事業を興されていますが、事業ははじまったばかりなのに、〔味方同士で〕攻めあっています。どのような面目で主上にまみえるおつもりですか。洛陽を平定した功績はじつに将軍にございますが、劉曜は皇族ですから、しばらくは劉曜にへりくだるのがよいでしょう。晋で二人の王氏(王渾と王濬)が呉を平定したときの教訓は、遠くない過去の事柄です。願わくは、明将軍はこのことをご考慮なされますよう。もし将軍が兵を恃みにして引き上げないというのでしたら、子弟や宗族をどうなさるおつもりでしょうか」。王弥、「そのとおりだ。君がいなければ、この過ちを耳にすることはなかっただろう」。こうして劉曜のもとへ参って謝罪し、当初のようによしみを結んだ。王弥は〔劉曜に〕言った、「下官が過ちを耳にできましたのは、張長史の功績です」。劉曜は張嵩に言った、「君は朱建だな6前漢の人。『史記』酈生陸賈列伝に立伝。黥布に仕えていた。黥布が漢の高祖への反逆を画策したとき、朱建に意見をたずねてきたが、朱建は反逆を諫めた。このため、黥布の平定後、朱建は罪を問われなかったという。おそらくこの故事にもとづき、反逆を諫めた臣の比喩として朱建の名を挙げているのであろう。。范生では比較にならん7范生は不明。范増か范蠡だと思うが……。また原文は「豈況范生」で、「豈況」は「まして……ならばなおさらである」と読むのが一般的だが、ここの箇所はそれだと通じにくいので、ちがう読み方をした。」。〔王弥も劉曜も〕おのおの張嵩に金百斤を下賜した。王弥は劉曜に言った、「洛陽は天下の中心であり、山河によって四方が険阻な要害の地です。〔われわれには〕城壁、堀、宮殿を建造している余裕がありませんから、〔洛陽の地理と設備を利用して、〕平陽から移り、洛陽に都をおくのがよいでしょう」。劉曜は聴き入れず、〔洛陽を〕焼き払って去ったのであった。王弥は怒って言った、「屠各の小僧め。帝王になるつもりがあるのか。おまえは天下をどうしたいんだ」。とうとう軍を率いて東に進み、項関に駐屯した。
 当初、劉曜は、王弥が先に洛陽に入り、自分を待たなかったことから、このことを恨んでいたのだが、このときになって不和がとうとう生じたのである。劉暾は王弥に説いて、青州へ戻って割拠するよう述べたので、王弥は賛同し、そこで左長史の曹嶷を鎮東将軍とし、兵五千を与え、多くの宝物を持たせて郷里に帰し、亡命者を招致させ、同時に家族を迎えさせた8曹嶷は王弥と同郷人であった。『元和郡県図志』巻一〇、河南道六、青州、益都県、広固城に「晋永嘉五年、東莱牟平人曹嶷為刺史所築、有大澗、甚広固、故謂之広固」とある。。王弥の将の徐邈と高梁がかってに部曲数千人を率いて曹嶷に随伴し、去って行ったので、王弥の勢力はますます弱体化した。
 これ以前、石勒は王弥の勇猛を嫌い、日ごろからひそかに王弥の対策を整えていた。王弥は洛陽を落とすと、石勒に美女や財物を多く贈って友好を結ぼうとした。そのころ、石勒は苟晞を生け捕りにし、左司馬としていたので、王弥は石勒に言った、「公は苟晞を捕らえ、しかも登用なさっているとか。なんと神妙なことでしょう。苟晞を公の左とし、弥を公の右とすれば、天下は定めるまでもありません」。石勒はいよいよ王弥を嫌うようになり、ひそかに王弥を滅ぼそうと謀った。劉暾が王弥にまたも勧めて、曹嶷を召し、その軍の力を利用して石勒を誅殺するように言った。こうして、王弥は劉暾を青州へ行かせ、曹嶷に軍を統率させて自分に合流させようとした。そしてさらに、石勒にはいっしょに青州へ向かおうと偽って要請した。劉暾が東阿に到着すると、石勒の遊騎に捕えられた。石勒は王弥による曹嶷宛ての書簡を見ると、おおいに怒ったので、劉暾を殺した。王弥がこのことをまだ知らないうちに、石勒は伏兵を設けて王弥を襲撃し、これを殺し、その軍を統合した。

張昌

 張昌はもともと義陽の蛮である。若くして平氏県の吏になった。勇猛さと腕力は常人をしのいでいた。しょっちゅうみずから〔自分自身を〕占い、富貴になるに違いないと言っていた。戦争について言論するのを好んでいたが、仲間たちはみなその話を笑って聞いていた。李流が蜀を侵略すると、張昌は半年間潜伏して人目を避け、徒党を数千人集め、幢麾9旗のことだが、どういう旗かは不明。将軍に授けられる旗か。いずれにせよ、旗を持つ者の所属先を示すような信幡の類いであろうと思われる。を盗み、「台(尚書台)の使いだ。人を募集して李流を討伐せよとの命令である」と偽って言った10原文「詐言台遣其募人討流」。読みにくい。荻生徂徠は「遣」を使役で読んでいる?ようだが、「其レヲシテ」との読みは苦しいように思う。「其」以下は詔書で具体的な命令を言うときの表現に酷似しているので、「募人討流せよ(との命令だと偽って言った)」との意であろう。「台遣」は自信がないが、身分を詐称したという意味で取ることにした。こうやって騙してメンバーを集めたということだろう。。ちょうど壬午詔書11このような例での干支は日付を意味する。おそらく詔書に記されている布告の日にちのこと。が布告され、勇猛な者を徴発して益州へ行かせることとし、〔そうして組織する軍のことを〕「壬午兵」と号した。天下が多難になって以来、数術者は「帝王が江南で興るだろう」と言っていたので、この壬午兵の徴発が布告されると、人々はみな西方へ征伐におもむくのを喜ばなかった。張昌の徒党はこれに乗じてたぶらかし、誘惑したので12『資治通鑑』はこの一文をのちの改名の前に置いている。、百姓はめいめい荊州を離れようとしなかった。しかし壬午詔書は性急に派遣を催促しており、〔壬午兵が〕通過中の郡に五日間停留した場合は、そこの二千石を免じると命じていた。このため、郡県の長官はみなみずから出向いて〔壬午兵を〕追い立てたので、短期間にあちこちへ流れ移り13原文「展転不遠」。やや自信がない。、〔ついにはひとつの場所に〕たむろして掠奪をはたらくようになった。この年、江夏は大豊作であったので、流人で食べ物を求めておもむく者は数千口であった。
 太安二年、張昌は安陸県の石巌山にたむろした。そこは江夏郡(郡治は安陸県)から八十里の距離であった。〔江夏にたどりついていた〕流人や戍役(兵役=壬午兵?)から逃れている者たちが多く張昌のもとへ行き、服従した。張昌はそこで姓名を李辰に変えた。江夏太守の弓欽は軍を派遣し、進ませて討伐させたが、そのたびに張昌に破られた。張昌の群衆は日々増えてゆき、とうとう襲来して郡を攻めた。弓欽は出撃して戦ったが、大敗したため、家の者を率いて南の沔口へ敗走した。鎮南大将軍の新野王歆は騎督の靳満を派遣し、張昌を随郡の西で討伐させ、おおいに戦ったが、靳満は敗走し、張昌はその兵器を獲得し、江夏を占拠し、郡の府庫に依拠した。「まもなく聖人が現れるぞ」という妖言をでっちあげた。
 山都県の吏である丘沈が江夏で〔張昌と〕偶然出会うと、張昌は丘沈を聖人と呼び、車や衣服を盛大にして出迎え、天子に立て、百官を置いた。丘沈は姓名を劉尼に変え、漢氏(劉氏)の後裔を称し、張昌を相国とし、張昌の兄の張味を車騎将軍とし、弟の張放を広武将軍とし、おのおのに兵を統率させた。岩穴の中に宮殿をつくり、さらに岩穴の上に竹を鳥の形に組み立て、五色の絹織物をそれに着せた。肉をそのそばに集めて置いておくと、たくさんの鳥が集まってきた。それを「鳳凰が降りてきた」と詐称した。また、珠の袍、玉璽、鉄券、金鼓がひとりでに届いたとも称した。そこで赦免の書を下し、神鳳と建元し、郊祀や服色は漢の故事に依拠したが、自分たちの募集に応じない者がいれば、〔赦免せず〕族誅とした。さらに、「江淮(長江と淮水)以南がいまにも反逆を企てようとしたところ、官軍(晋軍)がおおいに動員され、反逆者をことごとく誅殺した」という流言を広めた。群小(張昌の手下たち?)が扇動しあうと、人心はおびえ、江沔(長江と沔水)の間(=荊州北部)はまたたくまに蜂起し、牙旗を立て、太鼓と角笛を鳴らし、そうして張昌に呼応し、旬月のあいだに兵士は三万にのぼり、みな赤色に染めた科頭で、毛でまげを結った14原文「皆以絳科頭、撍之以毛」。かなり自信がない。「科頭」は冠や頭巾をかぶらず、頭髪や髷をむき出しにしている状態のこと。『太平御覧』巻三二五、救援に引く「又曰」(「晋書」)にも「淮南妖賊張昌、旬月之間、衆三万、皆絳科頭、攅之以毛」とある。『資治通鑑』は「皆著絳帽、以馬尾作髥」と作っており、ぜんぜんちがっている。『資治通鑑』の「以馬尾作髥」というのは、本伝後文に見える新野王の上言の「毛面」に相当しているが、本伝と『御覧』に引く「晋書」にはその「毛面」に相当する記述がない。。江夏と義陽の士庶は誰もが張昌に服従したが、江夏の旧姓である江安令の王傴と秀才の呂蕤だけは従わなかった。張昌は三公の位をもって二人を召したが、王傴と呂蕤はひそかに宗族を連れて北の汝南へ逃げ、豫州刺史の劉喬のもとへ身を投じた。郷人の期思令の李権、常安令の呉鳳、孝廉の呉暢は善士を糾合したところ、五百余家を得て、王傴らに追随し、面妖な反逆に関わらなかった。
 新野王歆は上言した、「妖賊の張昌と劉尼はでたらめにも神聖を称していますが、犬羊のようなやからが一万ばかり集まり、みな赤い頭と毛だらけの顔でそろえ、刀をおどらせて戟を走らせ15原文「挑刀走戟」。『資治通鑑』胡三省注に従った。、その鋭敏な勢いには当たることができません。諸軍に勅を下し、三道から救援を派遣してくださいますよう、台(尚書台)に要請いたします」。こうして、劉喬は諸軍を率い、汝南に拠って賊を防ごうとし、前将軍の趙驤は精鋭八千を率いて宛に拠り、平南将軍の羊伊を援助して〔賊を〕防ごうとした。張昌は将軍の黄林を大都督として派遣し、二万人を統率させて豫州へ向かわせた。その前駆(先鋒)の李宮は汝水の住人を拉致しようとしたが、劉喬は将軍の李楊を派遣して迎撃させ、これをおおいに破った。黄林らは東に進んで弋陽を攻め、弋陽太守の梁桓は城にこもって守りを固めた。〔張昌は〕さらに将の馬武を派遣し、武昌を破り、武昌太守を殺した。張昌はみずから兵士を統率し、西に進んで宛を攻め、趙驤を破り、羊伊を殺した。進軍して襄陽を攻め、新野王歆を殺した。張昌の別率(別動軍)の石氷は東に進んで江州と揚州を破り、かってに偽の守長(郡県の長官)を置いた。この当時、五州(荊州、豫州、揚州、江州、徐州)の境域の人々はみな威圧を受けて逆賊に従った。また〔張昌は〕将の陳貞、陳蘭、張甫らを派遣し、長沙、湘東、零陵の諸郡を攻めさせた。張昌は五州をまたがって占拠し、牧守(州郡の長官)を立てたとはいえ、それらの者たちはみな盗賊や小人の類いで、〔彼らに対する張昌の〕抑制がなかったため、掠奪を務めとするのみであり、民心はしだいに離れていった。
 この年、寧朔将軍、領南蛮校尉の劉弘が宛に出鎮した。劉弘は司馬の陶侃、参軍の蒯桓、皮初らを派遣し、軍を統率させて張昌を竟陵で討伐させた。劉喬も将軍の李楊、督護の尹奉を派遣し、兵を統率させて江夏へ向かわせた。陶侃らは張昌と連日、苦戦を繰り広げたが、これをおおいに破り、一万人ばかりを降した。そこで張昌と丘沈16原文「昌乃沈」。周家禄『晋書校勘記』は「昌及沈」に作るべきだとする。この指摘に従う。中華書局の校勘記を参照。は下儁の山に逃げ隠れた。翌年の秋になってようやく張昌を捕え、首を京師に送り、徒党はみな夷三族とされた。

陳敏

 陳敏は字を令通といい、廬江の人である。郡の廉吏をもって〔推挙され〕尚書倉部の令史に任じられた。趙王倫が帝位を簒奪すると、三王(斉王冏ら)が義兵を挙げた。〔趙王の敗亡後、〕ひさしく〔洛陽に〕駐屯して解散しなかったので、京師の倉庫は空っぽになってしまった。陳敏は建議して言った、「南方の米や穀物はどこも数十年分を蓄えてありますが、折しも腐りかけています。これらを漕運して中原を援助しないというのは、憂いをのぞき、緊急事態を救う方法ではありません」。朝廷はこれを聴き入れ、陳敏を合肥の度支17宮崎市定氏は度支都尉とする(宮崎『九品官人法の研究――科挙前史』中央公論社、一九九七年、原著は一九五六年、二七七頁)。越智重明氏は「当時全国のいくつかの場所におかれた度支は、度支尚書のもとにあって、各地の税役に関する事務(漕運を含む)を掌ったと考えられる」と述べている(越智『晋書』明徳出版社、一九七〇年、九三頁)。とし、〔ついで〕広陵の度支に移った。
 張昌が乱を起こすと、将の石氷らを派遣して寿春へ行かせた。都督の劉準18劉準の官位は明瞭に記載されていないのではっきりとはわからないが、おそらく都督揚州諸軍事であろう。のちに劉準の後任になった周馥について、周浚伝附馥伝に「〔周馥〕出為平東将軍、都督揚州諸軍事、代劉準為鎮東将軍」とある。は憂慮したが、思い浮かぶ作戦がなかった。このとき、陳敏は大軍を率いて寿春に滞在していたので、劉準に言った、「かの者どもはもともと遠方への戍役を喜ばず、そのために追い詰められて賊になったのです。烏合の衆の勢力というのは離散しやすいものです。敏が請いますに、〔敏は〕漕運の兵をまとめ合わせて統率し、公は兵を〔敏に〕分けていただきますよう。〔そうすれば〕これを撃破すること、必然でしょう」。そこで劉準は陳敏に兵を与え、石氷らを攻めさせたところ、〔陳敏は〕呉弘、石氷らを破った。陳敏はそのまま勝利に乗じて敗走する石氷らを追いかけ、数十合戦った。このとき、石氷軍は〔陳敏軍の〕十倍であったが、陳敏は寡兵をもって多勢を攻め、戦うたびにすべて勝利し、〔追撃していって〕とうとう揚州(建業)に到達した19『建康実録』中宗元皇帝、太安二年の条に「夏五月、義陽蛮張昌……使将軍石氷寇揚州、諸郡尽没、氷因修建鄴宮居之。冬十二月、征東将軍劉準使右将軍、広陵相陳敏渡江、攻破石氷於建鄴」とある。。軍を転回させて徐州の賊の封雲を討伐したところ、封雲の将の張統は封雲を斬って降った。陳敏は功績をもって広陵相となった。このころ、恵帝は長安に行幸したが、四方は争いあっていた。〔そこで〕陳敏はとうとう江東に割拠する志を抱くようになった。陳敏の父がそのことを知ると、怒って「わが一族を滅ぼすのはこのガキにちがいない」と言った。父が死去すると、〔喪のために〕職を去った。
 東海王越が西に進んで天子を迎えようとし、承制して陳敏を起家させ、右将軍、仮節、前鋒都督とし、書簡を陳敏に送って言った、

 将軍は計画を案じて国家を豊かにしましたから、漕運の勲功がおありです。石氷と張昌の反乱に遭遇しましたら、率先して義軍を統べ、寡兵をもって多勢に対抗しました。外には強力な援軍がなく、内には作戦をめぐらす仲間がいませんでしたが、単独で身を挺して奮い立ち、雄大な策略を自在にふるい、すぐれた謀略を馬首20おそらく戦場の比喩。で発し、霊妙な計略を臨危21危険が間近に迫っている状態。でふるうと、金声22鉦の音。転じて名声の喩え。ここはその二つの意がかけられていると考えられる。が江外にひびき、澄んだ光が揚楚(揚州と楚)を照らしました。堅固な場所を攻め立て、険峻な地を落とし、三十余戦しながらも、兵士は〔死傷で〕減ることなく、強敵はおのずと滅びました。五州は完全に回復し、苞茅が〔朝廷に〕貢献されるようになりました23苞茅は束ねた茅のこと。祭祀のとき、酒を濾過するのに使用し、春秋期の諸侯はこれを周室に貢献しなければならなかった。ここでは地方が中央の朝廷に恭順するようになったという意味でこういう表現が用いられている。。これらが将軍の功績でないことがありましょうか。
 現在、羯賊が群集し、河済(黄河と済水)の領域でぶらつき、ネズミやキジが身を隠すように陳留に潜伏し、最初は強盗をたくらんでいましたが、ついには不軌(反逆)をもくろむようになりました。将軍の孫子や呉子のような兵術はすでに証明され、能力を確かめる功績24原文「已試之功」。能力があると言われているので、仕事を試しにやらせたところ、きちんと実績を挙げて能力を証明したということ。『漢書』芸文志、諸子略、儒家に「孔子曰、『如有所誉、其有所試』。唐虞之隆、殷周之盛、仲尼之業、已試之効者也」とあり、孔子の言葉への顔師古注に「論語(衛霊公篇)載孔子之言也。言於人有所称誉者、輒試以事、取其実効也」とある。は過日に明らかです。孤は将軍との情誼がとりわけ厚くあります25原文「孤与将軍情分特隆」。この一文は前後とどうつながっているのかわからない。。〔どうか将軍には、〕親の喪の悲しみを中断し、〔官に〕身を置きがたい思い26原文「難居之思」。自信はないがこういうふうに解釈した。を抑え、絰(喪服に用いる帯)を捨てて矛を手に取り、馳せ参じて国難を救うことをご考慮いただきたい。天子は遠方に巡幸され、まだ戻って来られず、首を伸ばして東方を眺め、山陵(洛陽)への思慕を抱いておいでです。まさに将軍のご尽力をお借りすれば、天子はご帰還なさるにちがいありません。将軍よ、管轄下を統率し、この書簡を受け取ったらすばやく進発なさってください。米、布、軍事物資は、将軍に輸送していただくものなのです27原文「米布軍資、惟将軍所運」。かなり自信がないが、陳敏のこれまでの経歴もふまえ、こういう意なのであろうと推測して訳した。

 このころ、東海王は豫州刺史の劉喬を討伐し、陳敏は兵を率いて東海王に合流したが、東海王とともに蕭で敗れた。
 陳敏は中原がおおいに混乱しているのを理由に、そのまま東へ帰ることを請い、兵を集めて歴陽に拠り立った。ちょうど呉王常侍の甘卓が洛陽から到着したが、〔陳敏は〕甘卓に教唆し、皇太弟(成都王穎)の命令だといつわって称させて陳敏を揚州刺史に任じさせ、あわせて江東の筆頭の名士である顧栄ら四十余人に将軍と郡守を授けさせたが、顧栄らはいつわってこれに従った。陳敏は息子に甘卓の娘をめとらせ、とうとう〔甘卓と〕表裏一体の関係になった。揚州刺史の劉機、丹楊太守の王広らはみな官を棄てて逃走した。陳敏の弟の陳昶は顧栄が二心を抱いているのを察知したので、陳敏に彼らを殺すよう勧めたが、陳敏は聴き入れなかった。陳昶は精鋭兵数万を率いて烏江を占拠した。弟の陳恢は銭端らを率いて南に進み、江州を侵略したところ、江州刺史の応詹は逃走した。弟の陳斌は東に進んで諸郡を侵略した。こうしてとうとう、〔陳敏は〕呉越の地を占有した28『建康実録』永興二年の条には「十二月、陳敏又拠建鄴」とあり、建業に割拠したようである。。陳敏は僚属に命じて自身を都督江東諸軍事、大司馬、楚公に推戴させ、封地は十郡とし、九錫をくわえた。〔陳敏は〕尚書(洛陽の行台か)に上言し、長江から黄河に入り、天子を奉迎すると称した。
 東海王府の軍諮祭酒の華譚は、陳敏がみずから〔官を〕任命しており、しかも顧栄らはそろって江東筆頭の名士であるのに、ことごとく陳敏の官や爵を拝受していると知り、そこで顧栄らに書簡を送って言った、

 石氷の反乱のさい、朝廷は陳敏のささいな功績を記録したので、本分を越えた礼をくわえ、上将の官を授け、韓盧29戦国時代の名犬の名前。『漢書』王莽伝下の顔師古注に「韓盧、古韓国之名犬也」とある。がひと噛みするような功績を求めたのでした。しかし、〔陳敏の〕本性は凶悪で、もともと見識がなく、栄達に貪欲で、運勢を欲求し、天に逆らって行動し、兵を恃みにして威圧し、呉会(呉と会稽)の地を強奪し、内は悪弟を重用し、外は軍吏に委任し、上は朝廷による授官の栄光にそむき、下は宰相(東海王)による過礼(過度な礼)の恩恵にもとっています。天道は悪人を討つものですし、〔陳敏のような悪人は〕人と神が助けるような人物ではありません。長江を恃みとしているとはいえ、その命は朝露(はかないものの喩え)のように危険な状態です。忠節や善謀は君子のすぐれたおこないですが、節操を屈して反逆者に従うというのは、義士が恥じる事柄です。王蠋30斉の人。楽毅が攻めて来たときに燕に勧誘されたが、断って自殺した。は一介の匹夫でしたが、その志を屈することはできませんでしたし、樊於期31秦の人。秦から亡命し、のち、その身をかくまってくれた燕の太子丹のため、秦王政暗殺計画に協力してみずから首を差し出した。は義を敬慕する人物でしたから、燕の朝廷で首を差し出しました。まして、呉会の仁者らはそろって国家の恩寵を受け、名郡の太守を授かったり、侍臣に連なったりしましたが、それなのに悪人の朝廷に身を辱め、反逆者の仲間に節操を曲げ、額を地につけ、膝を屈して敬礼しようとは、恥ずかしくないのでしょうか。むかし、龔勝は食事を絶ち、王莽の朝廷に出仕しませんでした。魯仲連は海辺に行き、秦の臣となるのを恥としました。君子の義の行動というのは、千年経っても変わらないものですが、〔君子にふさわしい〕広大な度量は、まさかこのたびのことにだけは安心していられるとでもいうのでしょうか。
 むかし、呉の武烈帝(孫堅)は名声を一代であげましたが、奇才を宛と葉の地で発揮したとはいえ、敗亡を襄陽でこうむりました。討逆将軍(孫策)は雄々しい気概をもち、志は中原にあり、長江に臨んで激しい勢いを発しようとしましたが、丹徒で命を落としました。さいわいにも、先主(孫権)が時運を継承し、雄大な知謀と天賦の素質をそなえ、なおかつ内は慈母(呉夫人)の仁愛で明確な教導に頼り、外は子布(張昭)の朝廷で諫争する忠誠に依拠し、そのうえ諸葛氏、顧氏、歩氏、張氏、朱氏、陸氏、全氏がいましたから、百越を制圧し、南州(南中国)で帝号を称する32原文「称制南州」。「制」は制書のこと。自身が発布する文書を、皇帝のみが発することができる制書と称することをいう。皇太后が皇帝の職務を代行するときにも使われる。ことができました。しかし、兵家が勃興して三代も経たず、命数がまだ百(百年?)に満たないうちに、〔晋に〕帰順して臣従しました。いま思いますに、陳敏は〔もともと〕尚書の倉部令史であり、七品の頑冗で33原文「七第頑冗」。宮崎市定『九品官人法の研究』(前掲)は度支都尉(七品)を指すとする(二七七頁)。「頑冗」は「頑迷な冗員」、つまり「愚昧なただ飯ぐらい」というニュアンスの罵倒表現か。、六品の下才ですのに34原文「六品下才」。宮崎市定『九品官人法の研究』(同前)は郷品を指すとする(二七七頁)。、長沙桓王(孫策)の高らかな足跡に倣い、大帝(孫権)の絶大な軌跡に従おうとしていますが、過去の賢人らを模倣することですら、〔陳敏には〕おこがましいことです。〔それなのに〕諸君は頭を下げ、翟義35前漢末に反王莽の挙兵を画策した人物。のような謀略を立てることができず、かえって顧生(顧栄)は眉を低くして恭順を示し、すでに〔陳敏と〕結束するという恥辱を受けています。天子の車が東に進み、紫宮(天子の宮殿=洛陽)に行きつけば、百官は冠のひもを垂らして(冠をかぶり)、雲のように迅速に鳳闕(宮城)に参集し、朝廷による必勝の策略がひそかに帷幕(陣営の幕)でめぐらされることでしょう。そのあとで、荊州の軍を出発させ、長江を下って東に進ませ、徐州の精鋭を出発させ、南に進んで堂邑を占拠させ、征東将軍(劉準)の精強な兵を出発させ、武威を歴陽で輝かせ、飛橋36石季龍載記上の注を参照。を使って横江津を越え、船を浮かべて瓜歩を渡り、丹楊を震撼させ、建鄴を攻めて〔みなを〕生け捕りにすることでしょう。〔生け捕りにされたあかつきには、〕諸賢はどのような面目で中原の士人にまみえるつもりでしょうか。
 小寇(陳敏を指す)が〔長江の〕津関をさえぎり、音信は道の遠さに符合していますから37原文「音符道闊」。自信はないが、道が遠いので音信も絶えがちですよね、という意味で読んだ。、首を伸ばして南を眺め、従前からの情誼を思っています。忠義の人はどんな世にもいないものなのでしょうか。いったい、危険であるのを安全にすることができず、滅亡したのを存続させることができないというのは、尊ぶべきふるまいなのでしょうか。永長(不詳)は旧来からの有徳者で、もともと心から尊重しているお方です。彦先(賀循)は髪を垂らしていた幼少のときからの間柄で、金石の関係です。公冑(袁甫)は若いときからの付き合いで、恩愛の情がとりわけ厚い者です。令伯(薛謙)は義の名声があり、友好を固く結んでいます。上は諸賢と紫宮(天子)に尽力して輔翼し、功績を帝室の策38原文「帝籍」。「籍」は臣の策(臣名を記したリスト)と取った。に立てたいと思っています。もしそうなさらないのでしたら、船を黄河と渭水に浮かべ、櫂を叩いて清明に歌をあげることでしょう。どうして身を小寇の手のうちに辱め、反乱の禍におもむこうとされるのでしょうか。むかしは同志でしたが、いまは異邦になってしまいました。かつては一体でしたが、いまは同体ではなくなってしまいました。長江を眺めて長く嘆息するのは、あなたでなければ誰を思ってのことだと思いますか。願わくは、善良な計画をお立てになり、善謀をお考えになられますように。

 陳敏は凡才で長期的な計画がなく、またたくまに江東を占領したが、刑罰の運用に法はなく、俊才の人々から心服を受けていなかった。そのうえ、〔陳敏の〕子弟は凶暴で、あちこちで害を起こしていた。周玘や顧栄らはつねに禍による敗亡を憂慮していたが、さらに華譚の書簡を得ると、みな恥じ入った。周玘と顧栄は使者を征東大将軍の劉準のもとへつかわし、〔劉準が〕兵を派遣して長江に近づかせれば、自分たちは内応するとひそかに知らせた。劉準は揚州刺史の劉機、寧遠将軍の衡彦らを派遣して歴陽に向かわせたところ、陳敏は弟の陳昶と将軍の銭広を烏江に駐屯させ、これを防がせ、さらに弟の陳閎を派遣して歴陽太守とし、牛渚に駐屯させた。銭広の家は長城にあり、周玘と同郷の人であったため、周玘はひそかに〔銭広に通じて〕陳昶を策略にかけさせた。銭広は僚属の何康と銭象を派遣し、募集に応じた者たちを送り届けさせ39原文「遣其属何康、銭象投募送」。自信はなし。、事を陳昶に報告させた40原文「白事於昶」。「事」は周玘から内応をもちかけられたことを指すか。。陳昶は頭を下げてその書簡を見たところ、何康は刀を振るってこれを斬った。〔銭広は〕州下41胡三省によれば建業を指すらしい。『資治通鑑』胡三省注に「揚州刺史治建業、故謂建業為州下」とある。がすでに陳敏を殺した、あえて騒動を起こす者は三族を誅殺すると称し、角笛を吹いて〔劉準軍に〕内応した。銭広はこれより以前に兵をまとめて朱雀橋におらせ、秦淮水の南に布陣していた。周玘と顧栄は甘卓も説得したところ、甘卓はついに陳敏にそむいた。陳敏は一万余人を率いて甘卓と戦おうとしたが、〔秦淮水を?〕渡りきらないうちに、顧栄が白羽扇をふるうと、陳敏軍は潰走してしまった。陳敏は単騎で東に敗走し、江乗に到達したが、義兵に斬られた。母と妻子もみな誅殺された。こうして、会稽など諸郡はこぞって陳敏の諸弟を殺し、誰も生き残らなかったのであった。

王弥・張昌・陳敏王如・杜曾・杜弢・王機(附:王矩)祖約・蘇峻/孫恩・盧循・譙縦

(2020/9/15:公開)

  • 1
    『太平御覧』巻四、月蝕に引く「晋書」に「永嘉元年、月蝕、赤如血。二月、敬則反」とある。懐帝紀によれば王弥がそむいたのは永嘉元年二月であるため、『晋書斠注』は「失氏名晋書」佚文にみえる「敬則」は王弥の字かもしれないと推測している(巻五、懐帝紀、永嘉元年二月の条の注)。
  • 2
    『三国志』巻二八、毌丘倹伝の裴松之注に引く「世語」に「〔玄莬太守王〕頎字孔碩、東莱人、晋永嘉中大賊王弥、頎之孫」とある。
  • 3
    『資治通鑑』は「陽平劉霊……及公師藩起、霊自称将軍、寇掠趙魏。会王弥為苟純所敗、霊亦為王讃所敗、遂俱遣使降漢」とし、王弥と劉霊は行動を伴にしていたわけではなく、だいたい同じ時期におのおのの事情から劉淵に帰順したと記述している。司馬光によれば、この記述は『十六国春秋』にもとづいたのだという。『資治通鑑考異』に「弥伝曰、『弥逼洛陽、敗於七里澗、乃与其党劉霊謀帰漢』。按『十六国春秋』、霊為王讃所逐、弥為苟純所敗、乃謀降漢。今年(永嘉元年)春、霊已在淵所、五月、弥乃如平陽。然則二人先降漢已久矣、弥伝誤也」とある。
  • 4
    おそらくだが、竇融はひとかどの英雄・群雄の喩えで、諸葛亮と鄧禹は主君を皇帝に導く王佐の臣の比喩であろう。
  • 5
    宮城南面まんなかの門を指すらしい。太極殿の南の正門を指すらしい。太極殿の南の正門を指すらしい。(2020/11/22:注訂正)
  • 6
    前漢の人。『史記』酈生陸賈列伝に立伝。黥布に仕えていた。黥布が漢の高祖への反逆を画策したとき、朱建に意見をたずねてきたが、朱建は反逆を諫めた。このため、黥布の平定後、朱建は罪を問われなかったという。おそらくこの故事にもとづき、反逆を諫めた臣の比喩として朱建の名を挙げているのであろう。
  • 7
    范生は不明。范増か范蠡だと思うが……。また原文は「豈況范生」で、「豈況」は「まして……ならばなおさらである」と読むのが一般的だが、ここの箇所はそれだと通じにくいので、ちがう読み方をした。
  • 8
    曹嶷は王弥と同郷人であった。『元和郡県図志』巻一〇、河南道六、青州、益都県、広固城に「晋永嘉五年、東莱牟平人曹嶷為刺史所築、有大澗、甚広固、故謂之広固」とある。
  • 9
    旗のことだが、どういう旗かは不明。将軍に授けられる旗か。いずれにせよ、旗を持つ者の所属先を示すような信幡の類いであろうと思われる。
  • 10
    原文「詐言台遣其募人討流」。読みにくい。荻生徂徠は「遣」を使役で読んでいる?ようだが、「其レヲシテ」との読みは苦しいように思う。「其」以下は詔書で具体的な命令を言うときの表現に酷似しているので、「募人討流せよ(との命令だと偽って言った)」との意であろう。「台遣」は自信がないが、身分を詐称したという意味で取ることにした。こうやって騙してメンバーを集めたということだろう。
  • 11
    このような例での干支は日付を意味する。おそらく詔書に記されている布告の日にちのこと。
  • 12
    『資治通鑑』はこの一文をのちの改名の前に置いている。
  • 13
    原文「展転不遠」。やや自信がない。
  • 14
    原文「皆以絳科頭、撍之以毛」。かなり自信がない。「科頭」は冠や頭巾をかぶらず、頭髪や髷をむき出しにしている状態のこと。『太平御覧』巻三二五、救援に引く「又曰」(「晋書」)にも「淮南妖賊張昌、旬月之間、衆三万、皆絳科頭、攅之以毛」とある。『資治通鑑』は「皆著絳帽、以馬尾作髥」と作っており、ぜんぜんちがっている。『資治通鑑』の「以馬尾作髥」というのは、本伝後文に見える新野王の上言の「毛面」に相当しているが、本伝と『御覧』に引く「晋書」にはその「毛面」に相当する記述がない。
  • 15
    原文「挑刀走戟」。『資治通鑑』胡三省注に従った。
  • 16
    原文「昌乃沈」。周家禄『晋書校勘記』は「昌及沈」に作るべきだとする。この指摘に従う。中華書局の校勘記を参照。
  • 17
    宮崎市定氏は度支都尉とする(宮崎『九品官人法の研究――科挙前史』中央公論社、一九九七年、原著は一九五六年、二七七頁)。越智重明氏は「当時全国のいくつかの場所におかれた度支は、度支尚書のもとにあって、各地の税役に関する事務(漕運を含む)を掌ったと考えられる」と述べている(越智『晋書』明徳出版社、一九七〇年、九三頁)。
  • 18
    劉準の官位は明瞭に記載されていないのではっきりとはわからないが、おそらく都督揚州諸軍事であろう。のちに劉準の後任になった周馥について、周浚伝附馥伝に「〔周馥〕出為平東将軍、都督揚州諸軍事、代劉準為鎮東将軍」とある。
  • 19
    『建康実録』中宗元皇帝、太安二年の条に「夏五月、義陽蛮張昌……使将軍石氷寇揚州、諸郡尽没、氷因修建鄴宮居之。冬十二月、征東将軍劉準使右将軍、広陵相陳敏渡江、攻破石氷於建鄴」とある。
  • 20
    おそらく戦場の比喩。
  • 21
    危険が間近に迫っている状態。
  • 22
    鉦の音。転じて名声の喩え。ここはその二つの意がかけられていると考えられる。
  • 23
    苞茅は束ねた茅のこと。祭祀のとき、酒を濾過するのに使用し、春秋期の諸侯はこれを周室に貢献しなければならなかった。ここでは地方が中央の朝廷に恭順するようになったという意味でこういう表現が用いられている。
  • 24
    原文「已試之功」。能力があると言われているので、仕事を試しにやらせたところ、きちんと実績を挙げて能力を証明したということ。『漢書』芸文志、諸子略、儒家に「孔子曰、『如有所誉、其有所試』。唐虞之隆、殷周之盛、仲尼之業、已試之効者也」とあり、孔子の言葉への顔師古注に「論語(衛霊公篇)載孔子之言也。言於人有所称誉者、輒試以事、取其実効也」とある。
  • 25
    原文「孤与将軍情分特隆」。この一文は前後とどうつながっているのかわからない。
  • 26
    原文「難居之思」。自信はないがこういうふうに解釈した。
  • 27
    原文「米布軍資、惟将軍所運」。かなり自信がないが、陳敏のこれまでの経歴もふまえ、こういう意なのであろうと推測して訳した。
  • 28
    『建康実録』永興二年の条には「十二月、陳敏又拠建鄴」とあり、建業に割拠したようである。
  • 29
    戦国時代の名犬の名前。『漢書』王莽伝下の顔師古注に「韓盧、古韓国之名犬也」とある。
  • 30
    斉の人。楽毅が攻めて来たときに燕に勧誘されたが、断って自殺した。
  • 31
    秦の人。秦から亡命し、のち、その身をかくまってくれた燕の太子丹のため、秦王政暗殺計画に協力してみずから首を差し出した。
  • 32
    原文「称制南州」。「制」は制書のこと。自身が発布する文書を、皇帝のみが発することができる制書と称することをいう。皇太后が皇帝の職務を代行するときにも使われる。
  • 33
    原文「七第頑冗」。宮崎市定『九品官人法の研究』(前掲)は度支都尉(七品)を指すとする(二七七頁)。「頑冗」は「頑迷な冗員」、つまり「愚昧なただ飯ぐらい」というニュアンスの罵倒表現か。
  • 34
    原文「六品下才」。宮崎市定『九品官人法の研究』(同前)は郷品を指すとする(二七七頁)。
  • 35
    前漢末に反王莽の挙兵を画策した人物。
  • 36
    石季龍載記上の注を参照。
  • 37
    原文「音符道闊」。自信はないが、道が遠いので音信も絶えがちですよね、という意味で読んだ。
  • 38
    原文「帝籍」。「籍」は臣の策(臣名を記したリスト)と取った。
  • 39
    原文「遣其属何康、銭象投募送」。自信はなし。
  • 40
    原文「白事於昶」。「事」は周玘から内応をもちかけられたことを指すか。
  • 41
    胡三省によれば建業を指すらしい。『資治通鑑』胡三省注に「揚州刺史治建業、故謂建業為州下」とある。
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