巻一百 列伝第七十 祖約 蘇峻

凡例
  • 文中の〔 〕は訳者による補語、( )は訳者の注釈、12……は注を示す。番号をクリック(タップ)すれば注が開く。開いている状態で適当な箇所(番号でなくともよい)をクリック(タップ)すれば閉じる。
  • 注で唐修『晋書』を引用するときは『晋書』を省いた。

王弥・張昌・陳敏王如・杜曾・杜弢・王機(附:王矩)祖約・蘇峻/孫恩・盧循・譙縦

 目 次

祖約

 祖約は字を士少といい、豫州刺史の祖逖の弟である。最初は孝廉に挙げられて成皐令となった。祖逖ととても仲が良かった。永嘉の末年、祖逖に同行して長江を渡った。元帝が称制すると、掾属に召し、陳留の阮孚と名声を等しくした1原文「与陳留阮孚斉名」。「斉名」は「同一世代の才徳を同じうする人物を対置する場合」によく用いられる表現(矢野主税「状の研究」、『史学雑誌』七六―二、一九六七年、五〇頁)。矢野氏によれば「俱知名」「並知名」「俱有重名」「俱有美称」なども同義(同前、五二頁)。。のちに〔丞相府の〕従事中郎に移り、選挙の仕事を担当した2祖約の従事中郎を丞相府とするのは金民寿氏の分析に拠っている。金氏「東晋政権の成立過程――司馬睿(元帝)の府僚を中心として」(『東洋史研究』四八―二、一九八九年)八九頁。従事中郎については、『宋書』百官志上に「晋元帝為鎮東大将軍及丞相、置従事中郎、無定員、分掌諸曹、有録事中郎、度支中郎、三兵中郎」とあり、元帝の府においては「諸曹」を管轄していた。ここで祖約が従事中郎でありながら「典選挙」であるのも、かかる情勢にもとづくものであろう。なお金民寿氏によれば、諸曹を分掌する職としての従事中郎が元帝の府でめだちはじめるのは鎮東将軍府からであり、かつこのような従事中郎の位置づけは「ほかの創業王朝の幕府には見られない」。また鎮東府における従事中郎は北人が独占していたという。これらは、従事中郎を「北来士人の流入プールとして利用し」つつ、その従事中郎を要職に引き上げることによって、従来のポストに就いている南人を「上から押さえつけ」、「南人主導の安東府から北人優位の鎮東府にかえる目的で案出された便方であった」と考察している。金氏前掲論文、八四―八五頁。
 祖約の妻には息子がおらず、嫉妬深い性格であったが、祖約も逆らおうとしなかった。あるとき、夜に外泊すると3原文「夜寝於外」。「外」は家の外、つまり家ではない場所のことであろう。後文から察するに、おそらく吏舎? この時期は不明だが、漢代では「休日で帰家して、始めて妻子と語ることができたと考えられ、吏舎に妻子は住んでいなかったとみなければならない」(大庭脩『秦漢法制史の研究』創文社、一九八二年、五八五頁)。、いきなり誰かに傷つけられた。妻がやったことだと疑い、祖約は職を去ることを求めたが4嫉妬深い妻が怒っているんだと疑心暗鬼になり、すぐに家に戻らなくちゃ、ということでこういう要望を出した?、元帝は聴き入れなかった。すると祖約はすぐに右司馬の軍営の東門5場所などの詳細は不詳。『建康実録』中宗元皇帝、永嘉元年の条とその原注によれば、この時期の元帝は、孫呉の太初宮跡地に陳敏が築いた「府舎」で政務を執っていた(詳しくは元帝紀の訳注を参照)。「右司馬営」は「府舎」の内部か。戴若思伝によると、戴淵は鎮東将軍府の右司馬に召されているので、「右司馬」は戴淵を指すか。からかってに〔府舎を?〕出た。丞相司直の劉隗はこれを弾劾して言った、「祖約は幸いにも格別の寵遇を授かり、高位にあって選曹(選挙の部署)をつかさどり、人物を銓衡し、多くの人々から仰ぎ見られている者です。まさしく、『敬によって心をまっすぐにし、義によって万物を正し』6原文「敬以直内、義以方外」。出典は『周易』坤、六二の爻辞の文言伝「君子敬以直内、義以方外」。疏に「言君子用敬以直内。内謂心也。用此恭敬以内理。義以方外者、用此義事以方正外物」とあるのに従って訳出した。、災いを芽のうちにつみとり、禍乱を防止しなければならない立場にあります。それなのに、かえって事変が垣根の内側(すぐ身近の意)の婢妾から生じ、身体に傷を負いました。〔この件で〕小人たちは集まってうるさく話し合い、そのやかましい声は遠方にまで達しています。塵(ごみ)が清らかな教化を汚し、恥が太平の世に上塗りされてしまいました。天恩は恥を大目にみるだけでなく、さらに慰め諭しましたが、祖約は命にそむいて軽はずみに出ていきました。明朗な知恵によってみずからの身を保たないうえに、さらに恩にそむき、命令を廃棄したのです。降格処分をくわえることで、数多の批判をふさぐのが適当だと存じます」。元帝は祖約を罰しなかった。劉隗は再度道理にもとづいて直言したが、最後まで聴き入れられなかった。
 祖逖が譙と沛の地で功績を立てると、祖約はしだいに重用されるようになった。祖逖が卒すると、侍中から〔移って〕祖逖に代わって平西将軍、豫州刺史となり、祖逖の部衆を統率した。祖約の異母兄である光禄大夫の祖納はひそかに元帝に言った、「祖約は胸の内では上を侮る心を抱いていますから、抑制して使うのがよろしいと思います。いま、高官に就けて左右に侍らせたり、彼に権勢を授けたりするのは、戦乱のきっかけになるでしょう」。元帝は聞き入れなかった。祖納は祖約と母が異なり、祖約の格別の寵遇をねたんで、このようなことを述べたのだと当時の人々は言ったりもした。だが祖約はけっきょく統御の才能がなかったため、兵士から慕われなかった。
 王敦が挙兵すると、祖約は戻って京師を防衛しようとし、兵を率いて寿陽に駐屯すると、王敦が任命した淮南太守の任台を追い出した。功績によって五等侯に封ぜられ、鎮西将軍に昇格し、寿陽に駐屯させられて北の辺境の藩屏となった。〔祖約はみずからの〕名輩は郗鑑や卞壺に劣らないにもかかわらず7原文「名輩不後郗卞」。ここの「輩」は「名声や徳行が同等の人物」の意であり、「名輩」は「自分と名声が同等であるグループ」ということ。矢野主税氏によると、制度の専門用語としての「輩」とは、中正が人物を評価するときの表現方法のひとつである。「別の人物との比較においてその人物を位置づける方法」であり、評価対象者と同等とみなしうる人物をそろって挙げることで、対象者の才徳を評する(矢野主税「状の研究」、前掲、四八―四九頁)。「甲は乙と輩、すなわち同等である」というぐあい。もっとも、中正の評価方法にかぎらず、一般的な人物評価方法として輩(あるいは比や方)という語は多用されるものであり(同前、四九―五〇頁)、本伝の場合も中正によって祖約の「輩」に郗鑑らが挙げられているにもかかわらず……という意味ではなく、たんに自分は郗鑑らと同等だと自負していたという意味にすぎない。、明帝の顧命にあずかることができなかったと思っており、また開府を希望したり、上表して要請したりする事柄があったが、多く採用されなかったため、とうとう怨みをもつようになった。あるとき、石聡が軍を率いて祖約に迫ったことがあり、祖約は何度も上表して救援を要請したが、官軍は来なかった。石聡は撤退したが、たほうで朝議は涂塘を築いて胡の侵略を防ごうとしていたので、祖約は〔朝廷が〕自分を見棄てたのだと思い、ますます憤懣を抱いた。これより以前、庾太后は蔡謨をつかわして祖約をねぎらわせたが、祖約は蔡謨に会うと、目を怒らして袂を振り払い、朝政を非難していた。蘇峻は挙兵すると、ついに祖約を推戴して執政(朝廷の政治を仕切る者)を罰しようとした。祖約はこれを聞いておおいに喜んだ。従子の祖智と祖衍はどちらも邪悪で戦乱を好んでいたので、彼らもこの件に賛成した。こうして、祖逖の子の沛内史の祖渙と、娘婿である淮南太守の許柳に命じ、兵を率わせて蘇峻に合流させた。祖逖の妻は許柳の姉であったが、強く諌めて従わなかった。蘇峻が京師を落とすと、矯詔を下し、祖約を侍中、太尉、尚書令とした。潁川の陳光は仲間を率いて祖約を攻めたが、祖約の左右の閻禿は顔が祖約に似ていたので、陳光は閻禿のことを祖約と思い込んで捕えた。祖約は垣根を飛び越えて逃げ延びた。陳光は石勒のもとへ奔ったが、祖約の諸将もひそかに石勒と通じており、〔石勒に〕内応したいと願い出た。〔それに応じた〕石勒は石聡を派遣して祖約(寿陽)を攻めると、祖約軍は潰走し、歴陽へ敗走した。祖渙を派遣して桓宣を皖城で攻めさせたが、ちょうど毛宝が桓宣を救援し、祖渙を攻め、これを破った。趙胤も将軍の甘苗を派遣し、三焦から歴陽に遡上させた。祖約は恐れて夜に遁走し、〔歴陽に残された〕祖約の将の牽騰は兵を率いて降った。
 祖約は左右の数百人を連れて石勒のもとへ逃げたが、石勒は祖約の人となりを軽蔑し、しばらくのあいだ接見しなかった。石勒の将の程遐は石勒を説いて言った、「天下はあらかた定まりましたから、反逆と従順の別を明らかに示すべきでしょう。これが、漢の高祖が丁公を斬った理由です。いま、主君に仕えて忠誠な人物で抜擢されていない者はおらず、反逆した不臣の人物で誅戮されていない者はいません。これこそ、天下が大王に帰服しているゆえんです。〔ですから、〕祖約がまだ生きていることにたいし、臣はひどく困惑を覚えています。また祖約はおおいに賓客を招き〔徒党をつくろうとし〕、さらに郷里の先人の田地を奪って占有しているので、地主は多く怨んでいます」。こうして、石勒は祖約に偽って言った、「祖侯が遠方から来たというのに、まだ歓迎ができていない。子弟を集めていっしょに宴会をしよう」。当日、石勒は病気を理由に宴会を辞退し、程遐をつかわして祖約とその宗室たちに挨拶させた。祖約は禍が降りかかるのを悟り、おおいに酒を飲んで酔った。〔誅殺のさいに〕市に着くと、外孫8嫁いだ娘の子。(『漢辞海』)を抱いて泣いた。とうとう祖約を殺し、同時に親族や中外9父の姉妹の子と母の兄弟姉妹の子。の者百余人をすべて殺し、婦女や伎女は胡人に分けて下賜された。
 そのむかし、祖逖には胡人の奴で王安という者がおり、〔祖逖は王安に〕たいへん厚く接していた。〔祖逖が〕雍丘に駐留すると、王安に告げて言った、「石勒はおまえと同種類だ。私も君一人だけに頼っているわけではない石勒は君と同種類だし、私には君一人しかいないわけではない(2020/9/16:修正)10原文「石勒是汝種類、吾亦不在爾一人」。公開当初はとくに注記していなかったのだが、この読み方でよいのか要検討。「一人」というのは「猶一体」(『漢語大詞典』)で取るべきかもしれない。(2020/9/19:追記)」。そこで豊富に物資を与えて解放し、ついには石勒の将となった。祖氏が誅殺されるとき、王安は多くの従者を率いて市で観察したが、こっそり祖逖の庶子の道重を引き取り、隠して沙門とした。このとき、道重は十歳であった。石氏が滅んだのち、〔道重は晋に〕帰順した。

蘇峻

 蘇峻は字を子高といい11『建康実録』顕宗成皇帝、咸和四年二月の条によれば、蘇峻は小名を石という。、長広の掖の人である。父の蘇模は安楽相であった。蘇峻は若くして書生となり、学問の才能があり、郡に仕えて主簿となった。十八歳で孝廉に挙げられた。永嘉の乱のとき、百姓は流亡し、あちこちで集団をなしていたが、蘇峻は糾合して数千家を得て、塢壁を本県に築いた。このとき、豪傑があちこちで集団をなしていたが、蘇峻がもっとも強大であった。〔蘇峻は〕長史の徐瑋を派遣し、檄文を各地の塢壁に発して王化を示しつつ、また白骨を集めて埋葬したので、遠近の者はみなその恩義に感動し、蘇峻を主に推戴した。そのまま海辺の青山の山中で狩猟し〔て生計を立て〕た。
 元帝は蘇峻のことを知ると、蘇峻に安集将軍を授けた。このころ、曹嶷は青州刺史を領しており、蘇峻を掖令とするよう上表したが、蘇峻は病と称して辞退し、受けなかった。曹嶷は蘇峻が部衆を集めていることを嫌い、必ず憂患となるであろうことを恐れたため、蘇峻を討伐しようとした。蘇峻は恐れ、統領下の数百家を率いて海に出て、南へ渡った。広陵に到着すると、朝廷は遠方から到着したことを嘉し、鷹揚将軍に移した。ちょうど周堅が彭城でそむいたので、蘇峻はこの討伐に協力し、功績を挙げた。淮陵内史に叙任され、蘭陵相に移った。
 王敦が反逆を起こすと、詔を蘇峻に下して王敦を討伐させた。その成否を占ってみると不吉と出たため、ぐずぐずして進まなかった。王師が敗北すると、蘇峻は退いて盱眙を守った。淮陵内史のときの故吏である徐深と艾毅は、蘇峻を淮陵内史とするようかさねて要請したので、詔を下してこれを聴き入れ、奮威将軍をくわえた。
 太寧年間のはじめ、さらに臨淮内史に任じられた。王敦がふたたび反逆を振るうと、尚書令の郗鑑は議して、蘇峻と劉遐を呼び寄せて京都を守らせようと提案した。王敦は蘇峻の兄を派遣して蘇峻を説得した、「富貴は黙ってじっとしていれば得られる。なぜみずから死を選ぶのか」。蘇峻は従わず、とうとう兵を率いて京師に駆けつけ、司徒の故府に駐屯した。道程は遠く、かつ行軍速度は速かったので、兵は疲弊していた。〔王敦軍の〕沈充と銭鳳は策謀を立てて言った、「北軍(蘇峻ら)が新たに到着したが、まだ戦闘できる状態ではないから、これを攻めれば必ず勝利できよう。もしためらっていたら、のちに容易に攻め込めなくなるだろう」。賊(王敦軍)はその夜、竹格渚を渡り、水柵を抜いて〔蘇峻らと〕戦おうとすると、蘇峻は将の韓晃を率いて南塘で側面から分断攻撃をかけ、これをおおいに破った。さらに庾亮に従って沈充を追撃し、破った。使持節、冠軍将軍、歴陽内史に進められ、散騎常侍をくわえられ、邵陵公に封じられ、食邑は千八百戸とされた。
 蘇峻はもともと、単家(寒門)をもって騒乱のさいに人々を集めたのだが、朝廷に帰順したあとは、功績を立てることに志を定め、すでに国家にたいして功績を立てると、威望はしだいに目立つようになった。このときになって、〔蘇峻軍の〕精鋭は一万人あり、兵器はひじょうに性能がよく、朝廷は江外(江南)のことを蘇峻に頼った。だが蘇峻ははなはだ慢心を抱き、部衆に恃み、ひそかに野心をもつようになり、亡命者を受け入れ、罪を得た家で死罪から逃亡した者がいれば、蘇峻はそのたびにその者をかくまった。部衆の力は日ごとに増したが、すべて食糧を県官(朝廷)に頼っていたため、〔食糧の〕漕運があいつぎ、少しでも意に沿わないことがあれば、ほしいままに不満を言った。
 このころ、明帝が崩御したばかりで、〔明帝は〕政治を宰相に委任したのだが、〔その委任された〕護軍将軍の庾亮は蘇峻を〔中央に〕召そうとした。蘇峻は召されるかもしれないことを知ると、司馬の何仍を派遣して庾亮のもとへ行かせた、「賊を討伐する外(地方)の職任であれば、遠近の者が命に従いますが、内(中央)での輔佐については、まことに堪えかねる役割でございます」。〔庾亮は〕聴き入れず、とうとう優詔を下して蘇峻を召し、大司農とし、散騎常侍をくわえ、位は特進とし、弟の蘇逸に部曲(部衆)を統率させた。蘇峻は、庾亮が自分を殺そうとしているのではないかとふだんから疑っていたので、上表して述べた、「むかし、明皇帝はみずから臣の手をお取りになり、臣を北に進ませ、胡賊を討伐するようお命じになりました。いま、中原はいまだ安寧になっていませんから、屋敷など不要です12原文「無用家為」。出典は霍去病の言葉。『漢書』霍去病伝「上為治第、令視之、対曰『匈奴不滅、無以家為也』」。。願わくは、青州の荒郡の太守に任命してくださいますよう。鷹犬の働きを尽くしてみせましょう」。これも聴き入れられなかった。蘇峻は旅支度を整えて徴集におもむこうとしたが、なおためらって決心できなかった。すると参軍の任譲が蘇峻に言った、「将軍は荒郡に駐留することを求めましたが、許されませんでした。このたびのような情勢では、おそらく活路はございません。兵を統率して自衛するのが最善です」。蘇峻はこれに従い、とうとう朝命に応じなかった。朝廷は使者をつかわして説諭したが、蘇峻は言った、「台下は、私がそむこうとしていると言っているそうじゃないか13『建康実録』顕宗成皇帝、咸和元年十月の条に「己巳、庾亮誣南頓王宗陰与蘇峻謀叛、誅之」とあるのを言うか。唐修『晋書』だと南頓王宗について、「御史中丞鍾雅劾宗謀反」(汝南王亮伝附宗伝)「会南頓王宗復謀廃執政」(庾亮伝)とみえるのみで、蘇峻とのつながりは記されていない。とはいえ、蘇峻の発言自体は『建康実録』の記述を文脈とすると理解しやすいように思われる。だとすると、ここの「台下」というのは庾亮を指すのかもしれない。当時、庾亮は中書令である。。〔そのようななかで中央に行ったら〕命を保つことができようか。廷尉から山の頂上を眺めるなんてもってのほかで、それなら山の頂上から廷尉を眺めるほうがましだ。かつて国家が累卵の危難に陥ったとき、私でなければ救済することはできなかった。〔だが〕狡猾な兎が死ぬと、猟犬は道理からしておのずと煮殺されるもの。それならば、死して謀反をでっちあげる者に報いるのみよ」。こうして、参軍の徐会を派遣して祖約と結託し、反乱を起こそうと謀ったが、庾亮の討伐を名分に掲げた。祖約は祖渙と許柳を派遣し、兵を統率させて蘇峻を助けさせ、蘇峻は将の韓晃、張健らを派遣して姑孰を襲撃させ、〔ついで〕進ませて慈湖へ迫らせ、于湖令の陶馥と振威将軍の司馬流を殺した。蘇峻はみずから祖渙と許柳の兵一万人を率い、風に乗って横江津から〔長江を〕渡り、陵口に駐屯し、王師と戦い、しきりに勝利し、しまいには蒋陵の覆舟山14建康城の東北方にある山。『元和郡県図志』巻二五、江南道一、潤州、上元県、覆舟山に「在県東北一十里、鍾山西足地、形如覆舟、故名」とある。を占拠した。兵を率い、風を利用して火を放ち、台省(尚書台など)、諸営(府の軍営)、寺署(中央官の官府)はまたたくまに焼尽した。とうとう宮城を落とし、兵を放っておおいに掠奪させ、六宮15古代皇后的寝宮、正寝一、燕寝五、合為六宮。(『漢語大詞典』)に侵入して乱暴し、凶暴を極め、残虐無道であった。百官を駆り立てて使役し、光禄勲の王彬らはみな棍棒で打たれ、〔これら官人を〕脅して〔蘇峻軍の兵を〕背負わせ、蒋山16覆舟山のすぐ東方にある山。もとは金陵山と呼ばれていたが、孫呉のときに蒋子文を祀って蒋山と改名された。のち、劉宋時期には鍾山と改まった。『元和郡県図志』巻二五、江南道一、潤州、上元県、鍾山を参照。を登らせた。衣服を剥がされて裸にされた男女は、みなぼろぼろの敷物や編んだカヤでみずからを隠し、カヤがない者は地面に座って土でみずからを覆い、悲哀の泣き声は内外を震動させるほどであった。当時、官には布が二十万匹、金銀が五千斤、銭が一億万、絹が数万匹、ほかの物資もこれらに相当するていどにあったが、蘇峻はすべて捨ててしまった。矯詔を下して大赦したが、庾亮兄弟だけは赦免に含めなかった。みずから驃騎領軍将軍17「領軍」は衍字か。中華書局の校勘記を参照。、録尚書事となり、許柳を丹楊尹とし、前将軍の馬雄に左衛将軍をくわえ、祖渙に驍騎将軍をくわえ、戈陽王羕を西陽王、太宰、録尚書事に回復し、羕の子の播も本官に回復された。こうして官を改易し、蘇峻の親しい者や徒党を就け、朝廷の政事はすべて蘇峻に決せられた。さらに韓晃を派遣して義興に入らせ、張健、管商、弘徽らを派遣して晋陵に入らせた。
 このころ、温嶠と陶侃はすでに武昌で義を唱えていた。蘇峻は義兵が挙がったのを知ると、参軍の賈寧の計略を採用し、〔姑孰から〕戻って石頭に拠り18『資治通鑑』は「自姑孰還拠石頭」と作るのに従って補った。本伝には記載がないが、『資治通鑑』によればこれ以前(咸和三年三月)に蘇峻は「南屯于湖(姑孰)」という。、さらに軍を分けて〔派遣し、〕義軍を防ごうとしたが、軍の通過したところはどこも虐殺をこうむった。温嶠らが〔建康に〕まもなく到着するころあいになると、蘇峻はとうとう天子を石頭に移した。〔建康の〕住民をすべて強制的に後苑に集め、懐徳令の匡術に苑城を守らせた19苑城および後苑については成帝紀、咸和五年九月の条の注を参照。。温嶠らは到着すると、さらに軍塁を白石20石頭城の北方に位置する。『建康実録』顕宗成皇帝、咸和三年九月の条に「〔白石陂〕今在県西北二十里、石頭城正北、白石塁即在陂東岸」とある。に築いたので、蘇峻は軍を率いて白石を攻め、もう少しで陥落させるところであった。〔蘇峻は諸将を分けて派遣して、〕東西で掠奪し21原文「東西抄掠」。『資治通鑑』に「峻分遣諸将東西攻掠」とあるのに従って補った。、捕虜を多く得て、軍の威勢は日に日に盛んになり、戦闘して勝利しないことはなかった。このため、義軍は意気消沈し、人々は異心を抱くようになった。朝士で義軍に投じた者はみな言った、「蘇峻は狡猾で知謀と武力があり、その徒党は勇猛で、向かうところに対抗しうる者はいません。思いますに、天は有罪者を討滅するものですから、天誅はそう遠い先のことではないはずです。人事の観点からこのたびの作戦について言いますと、まだ容易に平定できないでしょう」。温嶠は怒って、「諸君は臆病にも、かえって賊を誉めるのかね」と言った。のち、何度戦っても〔蘇峻軍に〕勝てなかったので、温嶠も蘇峻のことを深く恐れるようになった。管商らは呉郡に進攻し、呉、海塩、嘉興を焼き払い、義軍を破った。韓晃も宣城を攻め、宣城太守の桓彝を殺した。管商らはさらに余杭を焼いたが、〔義軍に〕武康で大敗したため、退却して義興に帰還した。温嶠は趙胤と歩兵一万人を率い、白石から南へ上り、これ(石頭の蘇峻軍)に近づこうとした。蘇峻は匡孝と八千人を率いて迎撃した。蘇峻は子の蘇碩と匡孝を派遣して、数十騎で先に趙胤に接近させると、〔蘇碩らは〕趙胤を破った。蘇峻は趙胤の敗走を眺めみると、「匡孝が賊を撃破できるのだから、私なら当然だ」と言った。そして兵を置き去りにして、数騎とともに北へ下って敵陣に突撃しようとしたが、進入することができず、向きを変えて白木陂に行こうとしたところ、〔陶侃の〕牙門の彭世、李千らが蘇峻に矛を投げつけ、〔命中して〕馬から落ち、首を斬って体を切り刻み、骨を焼き、三軍はみな万歳を称した。蘇峻の司馬の任譲らは共同で蘇峻の弟の蘇逸を主に立てた。蘇峻の遺体を要求したが得られなかったので、蘇碩は庾亮の父母の墓をあばき、棺を切り開いて遺体を焼いた。蘇逸は城門を閉じて籠城した。韓晃は蘇峻が死んだことを聞くと、兵を率いて石頭に向かった。管商と弘徽は庱亭塁に進攻したが、〔郗鑑の?〕督護の李閎と軽軍将軍長史の滕含がこれを攻め破り、斬首は千級であった。管商は軍を率いて延陵へ敗走したので、李閎は庱亭塁の諸軍とともにこれを追撃し、数千級の斬首と捕虜を得た。管商は庾亮のもとへ行って降り、匡術は苑城を挙げて降った。韓晃は蘇逸らと力を合わせて匡術を攻めたが、落とせなかった。温嶠らが精鋭を選抜して賊営を攻めようとすると、蘇碩は勇猛な者数百人を率い、秦淮水を渡って〔これと〕戦ったが、〔温嶠らは〕陣中で蘇碩を斬った。韓晃らは震撼し、軍を連れて曲阿の張健のもとへ逃げようとしたが、門が狭くて〔全軍でいっせいに〕出れず、〔兵士らは〕たがいに踏みつけあっ〔て石頭から出ようとし〕たため、死者は一万にのぼった。蘇逸は李湯に捕えられ、車騎将軍(郗鑑)府で斬られた。
 管商が降ったとき、残党はみな張健のもとへ集まった。張健はまた、弘徽らが自分に協力しないのではないかと疑い、全員を殺してしまったうえ、さらに水軍で延陵から長塘へ向かった。〔そのときの集団は〕大人と子ども合わせて二万余口であり、金銀や宝物は数えきれないほどだった。揚烈将軍の王允之は呉興の諸軍とともに張健を攻め、これをおおいに破り、男女一万余口を捕えた。張健はまた馬雄、韓晃らと軽装の軍でいっしょに敗走したが、李閎は精鋭を率いてこれを追撃し、巖山で追いつくと、激しく攻め立てた。張健らは山から下り〔て反撃し〕ようとしなかったが、韓晃だけは単独で出撃し、二つの歩靫(矢筒)を装備し、胡牀に腰をかけると、弓を引いて李閎軍に向かって射撃し、ひじょうに多くの兵士を殺傷した。矢が尽きたので尽きてから(2020/9/20:修正)、〔李閎軍は〕韓晃を斬った。張健らはとうとう降り、そろって首をさらされた。

王弥・張昌・陳敏王如・杜曾・杜弢・王機(附:王矩)祖約・蘇峻/孫恩・盧循・譙縦

(2020/9/15:公開)

  • 1
    原文「与陳留阮孚斉名」。「斉名」は「同一世代の才徳を同じうする人物を対置する場合」によく用いられる表現(矢野主税「状の研究」、『史学雑誌』七六―二、一九六七年、五〇頁)。矢野氏によれば「俱知名」「並知名」「俱有重名」「俱有美称」なども同義(同前、五二頁)。
  • 2
    祖約の従事中郎を丞相府とするのは金民寿氏の分析に拠っている。金氏「東晋政権の成立過程――司馬睿(元帝)の府僚を中心として」(『東洋史研究』四八―二、一九八九年)八九頁。従事中郎については、『宋書』百官志上に「晋元帝為鎮東大将軍及丞相、置従事中郎、無定員、分掌諸曹、有録事中郎、度支中郎、三兵中郎」とあり、元帝の府においては「諸曹」を管轄していた。ここで祖約が従事中郎でありながら「典選挙」であるのも、かかる情勢にもとづくものであろう。なお金民寿氏によれば、諸曹を分掌する職としての従事中郎が元帝の府でめだちはじめるのは鎮東将軍府からであり、かつこのような従事中郎の位置づけは「ほかの創業王朝の幕府には見られない」。また鎮東府における従事中郎は北人が独占していたという。これらは、従事中郎を「北来士人の流入プールとして利用し」つつ、その従事中郎を要職に引き上げることによって、従来のポストに就いている南人を「上から押さえつけ」、「南人主導の安東府から北人優位の鎮東府にかえる目的で案出された便方であった」と考察している。金氏前掲論文、八四―八五頁。
  • 3
    原文「夜寝於外」。「外」は家の外、つまり家ではない場所のことであろう。後文から察するに、おそらく吏舎? この時期は不明だが、漢代では「休日で帰家して、始めて妻子と語ることができたと考えられ、吏舎に妻子は住んでいなかったとみなければならない」(大庭脩『秦漢法制史の研究』創文社、一九八二年、五八五頁)。
  • 4
    嫉妬深い妻が怒っているんだと疑心暗鬼になり、すぐに家に戻らなくちゃ、ということでこういう要望を出した?
  • 5
    場所などの詳細は不詳。『建康実録』中宗元皇帝、永嘉元年の条とその原注によれば、この時期の元帝は、孫呉の太初宮跡地に陳敏が築いた「府舎」で政務を執っていた(詳しくは元帝紀の訳注を参照)。「右司馬営」は「府舎」の内部か。戴若思伝によると、戴淵は鎮東将軍府の右司馬に召されているので、「右司馬」は戴淵を指すか。
  • 6
    原文「敬以直内、義以方外」。出典は『周易』坤、六二の爻辞の文言伝「君子敬以直内、義以方外」。疏に「言君子用敬以直内。内謂心也。用此恭敬以内理。義以方外者、用此義事以方正外物」とあるのに従って訳出した。
  • 7
    原文「名輩不後郗卞」。ここの「輩」は「名声や徳行が同等の人物」の意であり、「名輩」は「自分と名声が同等であるグループ」ということ。矢野主税氏によると、制度の専門用語としての「輩」とは、中正が人物を評価するときの表現方法のひとつである。「別の人物との比較においてその人物を位置づける方法」であり、評価対象者と同等とみなしうる人物をそろって挙げることで、対象者の才徳を評する(矢野主税「状の研究」、前掲、四八―四九頁)。「甲は乙と輩、すなわち同等である」というぐあい。もっとも、中正の評価方法にかぎらず、一般的な人物評価方法として輩(あるいは比や方)という語は多用されるものであり(同前、四九―五〇頁)、本伝の場合も中正によって祖約の「輩」に郗鑑らが挙げられているにもかかわらず……という意味ではなく、たんに自分は郗鑑らと同等だと自負していたという意味にすぎない。
  • 8
    嫁いだ娘の子。(『漢辞海』)
  • 9
    父の姉妹の子と母の兄弟姉妹の子。
  • 10
    原文「石勒是汝種類、吾亦不在爾一人」。公開当初はとくに注記していなかったのだが、この読み方でよいのか要検討。「一人」というのは「猶一体」(『漢語大詞典』)で取るべきかもしれない。(2020/9/19:追記)
  • 11
    『建康実録』顕宗成皇帝、咸和四年二月の条によれば、蘇峻は小名を石という。
  • 12
    原文「無用家為」。出典は霍去病の言葉。『漢書』霍去病伝「上為治第、令視之、対曰『匈奴不滅、無以家為也』」。
  • 13
    『建康実録』顕宗成皇帝、咸和元年十月の条に「己巳、庾亮誣南頓王宗陰与蘇峻謀叛、誅之」とあるのを言うか。唐修『晋書』だと南頓王宗について、「御史中丞鍾雅劾宗謀反」(汝南王亮伝附宗伝)「会南頓王宗復謀廃執政」(庾亮伝)とみえるのみで、蘇峻とのつながりは記されていない。とはいえ、蘇峻の発言自体は『建康実録』の記述を文脈とすると理解しやすいように思われる。だとすると、ここの「台下」というのは庾亮を指すのかもしれない。当時、庾亮は中書令である。
  • 14
    建康城の東北方にある山。『元和郡県図志』巻二五、江南道一、潤州、上元県、覆舟山に「在県東北一十里、鍾山西足地、形如覆舟、故名」とある。
  • 15
    古代皇后的寝宮、正寝一、燕寝五、合為六宮。(『漢語大詞典』)
  • 16
    覆舟山のすぐ東方にある山。もとは金陵山と呼ばれていたが、孫呉のときに蒋子文を祀って蒋山と改名された。のち、劉宋時期には鍾山と改まった。『元和郡県図志』巻二五、江南道一、潤州、上元県、鍾山を参照。
  • 17
    「領軍」は衍字か。中華書局の校勘記を参照。
  • 18
    『資治通鑑』は「自姑孰還拠石頭」と作るのに従って補った。本伝には記載がないが、『資治通鑑』によればこれ以前(咸和三年三月)に蘇峻は「南屯于湖(姑孰)」という。
  • 19
    苑城および後苑については成帝紀、咸和五年九月の条の注を参照。
  • 20
    石頭城の北方に位置する。『建康実録』顕宗成皇帝、咸和三年九月の条に「〔白石陂〕今在県西北二十里、石頭城正北、白石塁即在陂東岸」とある。
  • 21
    原文「東西抄掠」。『資治通鑑』に「峻分遣諸将東西攻掠」とあるのに従って補った。
タイトルとURLをコピーしました