巻九十七 列伝第六十七 四夷(4)北狄

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序・東夷/西戎/南蛮/北狄

匈奴

 匈奴の類は、すべてひっくるめてこれを北狄と呼ぶ1原文「匈奴之類、総謂之北狄」。「類」について、沢田勲氏は、『魏書』契丹伝で契丹と奚を「異種同類」と表現していることを挙げ、「中国人は種を類より限定された対象として扱っていたようだ」と指摘している([沢田二〇一五]一二五頁)。本伝のこの箇所も、匈奴と「同類」の北アジア諸族、という意味なのであろう。ただし、のちにもあらためて言及するが、本伝後文には「北狄以部落為類、其入居塞者、有屠各種、……凡十九種、皆有部落、相不雑錯」とあり、「類」と「種」をほぼ同じような意味で用いる場合もあるようである。。その地は、南は燕・趙に接し、北は沙漠2原文まま。一般的にはゴビ砂漠を指す。ちなみに杉山正明氏によれば、乾燥地帯のうちでも、草原や荒野など「ともかく水がすくないところ」を「漢字で、「沙」とか「漠」とかあらわした」。ゆえに「いわゆる砂の砂漠」と「沙漠」とは同じではないという。[杉山二〇一一]三二、三三頁を参照。に及び、東は九夷に連なり、西は六戎に至っていた。代々、〔北アジアに〕君臨し3原文「世世自相君臣」。自信がもてない。北アジア諸民族と君臣の関係を結んだ=北アジアで君主であった、という意味で訳出してみた。、中国の正朔を奉じなかった4『太平御覧』巻八〇〇、総叙北狄下に引く「晋中興書」に「北狄、其地南接燕趙、北沙漠、東漸九夷、西界六戎、世世自相君臣、不稟中国正朔」とあり、ほぼ同文。「正朔」の「正」は「歳のはじめの月」(正月)、「朔」は「月のはじめの日」のことで、熟して「暦」を意味する。いにしえの制度では、王朝の革命ごとに歳首の月(正月)も変更するとされていた。王朝の定めた正朔=暦を奉じてそれに従うというのは、その王朝に臣従するということである。ただし臣でも例外があり、「二王之後」のような客は臣でありながら正朔は奉じなくてもよい(独自の正朔であってよい)とされていた。前漢の宣帝期に漢朝に降った呼韓邪単于も客礼をもって遇されており(『漢書』巻八、宣帝紀、甘露二年十二月の条、同、巻九四、匈奴伝下)、漢の正朔が加えられなかった臣である。ゆえに、本伝のここの記述は「中国に臣従しなかった(中国と敵国であった)」という意味か、「中国から特別な待遇を受けていた」の二つの意味で解釈が可能である。前後の文脈からみれば、前者の意で取るのがよいと思う。。〔北狄のことを〕夏は薫鬻と呼び、殷は鬼方と呼び、周は獫狁と呼び、漢は匈奴と呼んだ。その強弱盛衰、風俗や好尚(好みや重んじるもの)、区域や所在は、すべて前代までの史書に列記されている。
 前漢末、匈奴はおおいに乱れ、五人の単于が争って立ったが5上文に「前漢末」とあるが、匈奴で五人の単于が乱立したのは前漢宣帝期のとき(呼韓邪単于のとき)のことである。以下、本伝は宣帝期の呼韓邪単于と光武帝期の呼韓邪単于の二人を混同してしまっている。、呼韓邪単于は匈奴のみずからの国を失い(2022/4/28:修正)、部落を引き連れ、漢に入国して臣従した。漢はその意向を嘉し、并州の北辺を割いて〔与え、〕呼韓邪単于の部落を安んじた。こうして、匈奴の五千余落が朔方の諸郡に入居し、漢人と雑居した6「呼韓邪単于は匈奴の国を失い、……」からここまでは後漢の呼韓邪単于の事跡。後漢域内に入植した南匈奴のことをいう。『後漢書』伝七九、南匈奴伝に「南単于既居西河、亦列置諸部王、助為扞戍。使韓氏骨都侯屯北地、右賢王屯朔方、当于骨都侯屯五原、呼衍骨都侯屯雲中、郎氏骨都侯屯定襄、左南将軍屯雁門、栗籍骨都侯屯代郡、皆領部衆為郡県偵羅耳目」とある。。呼韓邪単于は漢の恩恵に感動し、来朝した。漢はその機会に呼韓邪単于を〔ひと月ほど〕引き止め、邸宅を賜い、そのままもともとの称号を踏襲させ、単于を称することを許し、綿、絹、銭、穀を毎年支給し、列侯のような待遇であった7「呼韓邪単于は漢の恩恵に感動し、……」から「邸宅を賜い」までは前漢の呼韓邪単于の事跡。『後漢書』伝七九、南匈奴伝をみるかぎり、光武帝期の呼韓邪単于は使者や侍子をつかわしこそすれ、みずから自身は来朝していないはずである。「邸宅を賜い」以降の文はもとづくところがよくわからないが、毎年の支給に関しては『後漢書』南匈奴伝に「元正朝賀」のさいに南単于らに物品を下賜し、「歳以為常」という記述がみえる。「列侯と同等の量であった(有如列侯)」というのも出所がわからないが、このことに関連して付言すると、前漢の呼韓邪単于の待遇は「以客礼待之、位在諸侯王上」(『漢書』巻八、宣帝紀、甘露二年十二月の条に載せる宣帝の詔)という客待遇で、位は列侯よりも格上におかれている。この待遇は後漢の呼韓邪単于のときにも引き継がれているはずである。これを考慮すると、本伝の記述はやや不正確な印象を受ける。なお『資治通鑑』は「毎年の支給が列侯と同等であった」旨の記述を曹操が鄴に呼厨泉単于を拘留したとき、すなわち建安二一年にかけている(巻六七、建安二十一年七月の条)。どうしてこのような異同が生じているのかわからない。。子孫が継承してゆき、歴代絶えることはなかった。その部落(南匈奴の部落)は、居住している郡県に応じて、〔郡県に〕これを治めさせ、編戸(戸籍に登録された民)とおおよそ同じであったが、貢賦8原文まま。渡辺信一郎氏によると、漢代、地方郡県が民から収取した財物のうち、人口数に一定分を中央に上供するよう定められていたが、これを賦(献費)という([渡辺二〇一〇]第一章)。本伝の「貢賦」も厳密にはそのような意味なのかもしれないが、ここでは簡単に「税」くらいの意味でよいと思われる。は納めなかった。多くの年数を経てくると、戸口9原文まま。「戸」というとやや迂闊な書き方をしているように感じるが、『後漢書』伝七九、南匈奴伝で南匈奴の「党衆最盛」のときを記して「領戸三万四千、口二十三万七千三百」とあるので、あまり気にしなくてよさそうである。はしだいに増加し、北辺に満ちあふれるようになり、だんだんと制御しがたくなってきた。後漢末、天下が騒乱すると、漢の群臣が競って口にしたのは、胡人は猥雑としていて数が多く、おそらくはきっと害をなすであろうから、まず胡人への防備を講じるのが適当だ、ということであった10この記述のもとづくところは捜索中。周偉洲氏は曹操がこういうことを考えていたかのように論述している([周二〇〇六]七頁)。。建安年間、魏の武帝ははじめて南匈奴の部衆を五部に分割し、一部ごとに部中で貴い者を帥に立て、〔また一部ごとに〕漢人を選抜して司馬とし、部を監督させた11この記述の事実性に疑念を呈する研究もある。町田隆吉氏の研究([町田一九七九])によれば、実際は匈奴の分割統治は曹操の時代に実行されたものではなく、嘉平年間に鄧艾が分割統治を献策したのが最初であり、西晋太康年間までに五部の分割支配体制が完成したという。詳細は訳者の三国志学会レジュメ(PDF)の注(18)を参照。。魏末、さらに帥を改めて都尉とした12劉元海載記だと、劉淵は西晋武帝時代に左部帥となり、「太康末」に北部都尉に任じられているから、本伝のここの記述とは違背している。内田吟風氏は本伝の記述を誤りとみなしている([内田一九七五]二八八―八九頁)。。左部都尉が統べる部落は約一万余落で、太原郡の故茲氏県13おそらく正確には、「漢代では太原の属県であった茲氏県の地」ということだと思われる。漢代の茲氏県は、晋代では隰城県と改称され、西河に所属していたとされる。『元和郡県図志』巻一三、河東道二、汾州、西河県に「本漢茲氏県也、曹魏於此置西河郡、晋改為国、仍改茲氏県為隰城県」とある。に居住していた。右部都尉は約六千余落で、祁県に居住していた。南部都尉は約三千余落で、蒲子県に居住していた。北部都尉は約四千余落で、新興県14地理志上、并州新興郡には新興県の記録がない。劉元海載記は「北部居新興」と記し、郡とも県とも明記していない。[劉二〇一九]は晋昌県の旧名が新興県であったとする。(2022/8/24:追記)
 ちなみに、新興郡は後漢末に北辺の郡を内徙・統合して新設された郡である。太原の東北に隣し、北は雁門郡と接している。このときに整理統合された諸郡は、後漢初に南匈奴が入植した郡と伝えられており(『後漢書』伝七九、南匈奴伝)、この措置によって南匈奴も内郡(というより新興郡)に移されたのかもしれない。『三国志』巻一、武帝紀、建安二十年正月の条に「省雲中・定襄・五原・朔方郡、郡置一県領其民、合以為新興郡」とある。『元和郡県図志』は、省いた諸郡は後漢末に「匈奴侵辺」によって荒廃していたと記している。たとえば巻一四、河東道三、嵐州に「漢末大乱、匈奴侵辺、自定襄已西尽雲中・雁門・西河之間遂空」とある。胡三省は、この措置と同時に陘嶺以北を放棄したのだと述べている(省かれた雲中など諸郡は陘嶺以北に置かれていた)。『資治通鑑』巻七二、青龍元年「今〔畢〕軌出軍、慎勿越塞過句注也」の胡三省注に「漢霊帝末、羌胡大擾定襄・雲中・五原・朔方・上郡、並流徙分散。建安二十年、集塞下荒地、置新興郡、自陘嶺以北並棄之、故以句注為塞」とある。ただし地理志上、并州には「建安十八年、省入冀州。……魏黄初元年、復置并州、自陘嶺以北並棄之、至晋因而不改」とあり、曹魏になって陘嶺以北を放棄したと記されているが、胡三省の理解するとおり、新興郡の設置=雲中諸郡の内徙併合は実質的に陘嶺以北の放棄を意味すると思われるので、胡三省の理解でよいと考える。曹魏になっても内徙された北辺の郡が回復されることはなかったというのが地理志の記述の主旨なのであろう。また馬与龍は前引の地理志の文に注して、晋初に陘嶺を域内に含む雁門郡を整備・設置しているため、晋でも陘嶺以北を放棄していたというのは誤りだと述べているが(『晋書地理志註』)、雁門以北の諸郡は復置していないことに変わりがないわけだし、そこまで細かく述べ立てる必要はないように思う。(2021/4/19:一部改訂)
に居住していた。中部都尉は約六千余落で、大陵県に居住していた。
 武帝の即位後、塞外の匈奴が洪水に遭い、塞泥、黒難など15原文「匈奴大水、塞泥・黒難等」。「大水塞泥黒難」すべてで人名ではないかという疑念もなくはないが(和刻本はそう読んでいるらしい)、どうにも明らかにできないので中華書局の標点に従って読んだ。二万余落が帰化すると、武帝はこれも受け入れ、河西の故宜陽城の付近16原文「河西故宜陽城下」。宜陽は弘農郡の属県だと思われるが、そのあたりの地域を「河西」(オルドス)と呼ぶものなのかどうかは不詳。に居住させた。のち、さらに晋人と雑居するようになり、こうして平陽、西河、太原、新興、上党、楽平の諸郡で〔匈奴が〕いないところはなかった。泰始七年、単于の猛17劉元海載記は「右賢王」とする。武帝紀、泰始七年正月の条と杜預伝は「匈奴帥」、胡奮伝は「匈奴中部帥」、『魏書』巻九五、鉄弗劉虎伝は「北部帥」としている。町田隆吉氏は、劉猛は単于を「反乱後に自称した」と推測している([町田一九七九]注三九)。[内田一九七五]二七八頁も同様。がそむき、孔邪城にたむろした18武帝紀、泰始七年正月の条によれば、劉猛は「出塞」したというので塞外の城であろう。。武帝は婁侯の何楨を派遣し、節を持たせてこれを討伐させた。何楨はもとより智略があり、猛の部衆は凶暴で、寡兵では制圧できないと考え、そこで猛の左部督の李恪19武帝紀、泰始八年正月の条は「左部帥」とし、胡奮伝は「帳下将」とする。をひそかにそそのかして猛を殺させた。こうして匈奴は震撼して服従し、何年ものあいだ、もう一度そむこうとはしなかった。その後、しだいに恨みを重ねてゆき、長吏20原文は「長史」だが、『資治通鑑』巻八一、太康元年は「長吏」(県の令長)に作る。おそらく『資治通鑑』が正しいので改めた。中華書局の校勘記も参照。を殺害するようになり、じょじょに辺境の害を起こすようになった。侍御史であった西河出身の郭欽は上疏して言った。「戎狄は強力で荒々しく、いにしえ以来、外患を起こしています。魏の初めは人頭が少なかったのですが、〔現在は〕西北の諸郡はどこも戎狄の居住地になっています21『資治通鑑』巻八一、太康元年はこのあとに「内及京兆・魏郡・弘農、往往有之(内郡は京兆、魏郡、弘農にまで〔胡人の居住が〕及び、あちこちに胡人がいます)」とある。。いまは服従しているとはいえ、もし百年後に戦乱の警報があがりましたら、胡騎は平陽や上党から三日もかからずに孟津(すなわち洛陽)に到着するでしょうし、北地、西河、太原、馮翊、安定、上郡22上郡は地理志に記録がない。漢代、上郡はオルドス地帯(河南)に設けられていた郡であった。前漢では属県の亀茲県に属国都尉が置かれ、その後いったんは属国都尉は廃されていたようだが、後漢の和帝の永元二年二月に復置されている(『後漢書』紀四、孝和帝紀)。上郡はこのような特徴を有するわけだが、後漢の永和五年に起こった南匈奴の吾斯の反乱により、左馮翊の夏陽県に移されてしまった(『後漢書』紀六、順帝紀、永和五年九月の条、同、伝七九、南匈奴伝)。つまり上郡は放棄されたのである。非漢族の反乱が激化したさいなどに後漢王朝が辺郡を一時的に放棄する(内郡に僑置する)政策をよく取っていたことはすでに指摘されており([飯田二〇〇六])、このときの上郡もそうした方針のもとに取られた措置である。しかしその後、上郡が回復されたとの記録はなく、オルドスにふたたび置かれたのか、そのまま馮翊に僑置するかたちになったのか、不明である。桓帝の永康元年に段熲が東羌について上言し、「久乱并・涼、累侵三輔、西河・上郡、已各内徙、安定・北地、復至単危、……。今若以騎五千、歩万人、車三千両、三冬二夏、足以破定、……。如此、則可令群羌破尽、匈奴長服、内徙郡県、得反本土」と述べており(『後漢書』伝五五、段熲伝)、永和以来、桓帝の治世においても上郡は内徙されたままであった可能性が高いかもしれない。『元和郡県図志』巻三、関内道三、丹州には「禹貢雍州之域、……秦置三十六郡、属上郡。漢因之。魏文帝省上郡。其地晋時戎狄居之」と、魏のときに廃されたと記している。王先謙は『輿地広記』などの書物を参照したうえで、後漢末の曹操によって上郡は廃され、曹魏のときは置かれなかったと述べている(『後漢書集解』志二三、郡国志五、上郡)。王先謙は新興郡の経緯(前文「新興県」の注を参照)をふまえ、かりに永和五年以降に上郡が回復されていたとしても、新興郡設置と同時期に上郡もふたたび放棄されたと考えているのかもしれない。西晋もオルドス地帯に郡県を置いていたとは考えにくいため、晋代の上郡は置かれていたとしても馮翊付近に僑置されていたのではないかと思われる。はことごとく戎狄の庭(テリトリー)となるでしょう。呉を平定した武威と、謀臣や猛将の策略を及ぼして、北地、西河、安定を〔内地から河南へ〕出しへ出撃させ(2021/4/27:修正)、上郡を回復し、馮翊を実土化し、平陽より北の諸県から死刑囚を募集し、三河(河南、河東、河内)と三魏(魏、陽平、広平)地方の見士(現役兵士?)四万家を移住させ、〔これらの囚人と兵士によって〕回復した郡を充たすのがよいと考えます23原文「宜及平呉之威、謀臣猛将之略、出北地・西河・安定、復上郡、実馮翊、於平陽已北諸県募取死罪、徙三河・三魏見士四万家以充之」。読むのが難しく、ここに言及されている諸郡の歴史的背景をもとに解釈を試みた。要約して言えば、馮翊を除くこれら諸郡は後漢の当初はいわゆるオルドス地帯(河南)に領域を有していた郡であったが、後漢なかごろに内郡へ移されており、その後、一時的に回復された可能性はあるものの、後漢末から曹魏ころにはふたたびオルドス地帯の領域は放棄されたと考えられる。郭欽がここで提言しているのは、これら諸郡をふたたびオルドスへ出す、ないし回復し孫呉平定の勢いを駆って西河等の故地であるオルドスへ軍を向かわせ、これらの地を回復し、僑置によって領域が狭まっていた馮翊を本来に戻し、そうしてオルドス諸郡へは死刑囚や兵士を移住させて人口を満たす、というものであったと思われる。なお後漢では、内徙した辺郡を回復するさい、刑徒をその辺郡に定住させたり防衛に従事させたりし、その代償に罪の減免措置をよく取っていたという([飯田二〇〇六]六七―六九頁)。ここで死刑囚が募集されているのも同様の意図からであろう。
 以下、ここで挙げられている諸郡(北地、西河、安定、上郡、馮翊)に関する史料を挙げておく。まずこれら諸郡が後漢なかごろに内徙されたことについては、『後漢書』紀五、安帝紀、永初五年三月の条に「詔隴西徙襄武、安定徙美陽、北地徙池陽、上郡徙衙」とある。このときの内徙についてはのち、永建四年九月に戻されている(同、紀六、順帝紀)。しかしさらにこののち、同、順帝紀、永和五年九月の条に「徙西河郡居離石、上郡居夏陽、朔方居五原」とあり、同、六年十月の条に「徙安定居扶風、北地居馮翊」とある。このあとの諸郡の動静が基本的には問題となる。
【北地】永和六年に移されて以後は不明。『元和郡県図志』巻二、関内道二、京兆府下、華原県に「本漢祋祤県地、属左馮翊。魏、晋皆於其地置北地郡」とある。王先謙は永和六年に馮翊の祋祤県に移されて以後、そのまま回復することはなかったと考察している。『後漢書集解』志二十三、郡国志五、北地郡の王先謙注に「漢末、郡寄寓馮翊、旧郡廃。三国魏同。……是北地郡、自永和六年以後、不復帰旧土也」とある。
【西河】永和五年に離石へ移った以降の桓帝・永寿元年のことととして、『後漢書』伝七九、南匈奴伝に「匈奴左薁鞮台耆、且渠伯徳等復畔、寇鈔美稷、安定属国都尉張奐撃破降之」とあり、西河の美稷県が回復されていたようにみられるが、これ以後の桓帝の永康元年、段熲が東羌について上言し、「久乱并・涼、累侵三輔、西河・上郡、已各内徙、安定・北地、復至単危、……。今若以騎五千、歩万人、車三千両、三冬二夏、足以破定、……。如此、則可令群羌破尽、匈奴長服、内徙郡県、得反本土」と述べており(『後漢書』伝五五、段熲伝)、この時点でも西河は内徙されたままであったごとくである。よって永和五年以降の動向は判明しないが、『元和郡県図志』巻一四、石州に「在秦為西河郡之離石県。霊帝末、黄巾大乱、百姓南奔、其郡遂廃。魏黄初三年復置離石県」とあり、いずれにせよ後漢末までには内徙先の離石県も廃され、郡そのものが廃されていたようである。そして同、巻一三、河東道二、汾州に「後漢徙理離石、即今石州離石県也。献帝末荒廃、魏黄初二年、乃於漢茲氏県置西河郡、即今州理是也」とあるように、曹魏の黄初二年に太原の諸県を割いて復置された(離石県はその後、同三年に復置されたということなのだろう)。『水経注』巻六、文水注に引く西河繆王司馬子政の碑文に「西河旧処山林、漢末擾攘、百姓失所。魏興、更開疆宇、分割太原四県、以為邦邑、其郡帯山側塞矣」とあるが、この記述は以上の『元和郡県図志』の記述とも符合している。王先謙は、後漢末に西河郡は廃され、曹魏の黄初年間に漢の茲氏県に僑置されたとし、そのさい漢の旧県は離石を除いてすべて廃されたと注している(『後漢書集解』志二三、郡国志五、西河郡の諸注)。つまり漢の旧県は離石県だけが復置されたということである。ついでだが、この項目冒頭で言及した美稷県は南単于の単于庭が設けられた地である。諸史に記録はないが、西河が内徙されるに及んで、単于庭もあわせて移されたはずであり、その地こそ離石県であったのだろうと思われる。周偉洲氏は永和五年前後に離石へ移されたのだろうと考察している([周二〇〇六]五頁)。(2021/4/19:「西河」の項、改訂)
【安定】永和六年に扶風に移されて以後の動静は不詳で、王先謙にも特に言及がない。ただ張多勇氏は、属国都尉が置かれていた三水県(現在の寧夏回族自治区同心県)が、永初五年の安定郡内徙のさいに郡の南部(現在の甘粛省霊台県)へ移されていたと考察し、そのまま魏晋でもその場所に県が置かれたが、名称は西川県へ改められたと論じている。[張二〇一五]一二〇―一二三頁を参照。『後漢書』順帝紀によれば、永初五年の内徙は永建四年に戻されているので、三水県移動の時期をこのときに断定してしまってよいものか不安もあるが、後漢なかごろにオルドス地帯の領域を放棄し、魏晋でも変わらなかったであろうことは確かなようである。
【上郡】前文「上郡」の注を参照のこと。
【馮翊】北地郡の項目で述べたように、後漢の永和六年に北地が左馮翊祋祤県へ移され、魏晋でもそのまま当地に僑置されていたという。また前文「上郡」の注でも言及したように、西晋時期に上郡が置かれていたとしたら、やはり馮翊に僑置されていた可能性が高いと思われる。このように辺郡が僑置されたことによって、晋代の馮翊は漢代に比べて領域が狭まったと言えるだろう。本伝の「実馮翊」はこの僑郡を故地に戻すことによって、馮翊を本来の領域に戻すという意味でとらえた。
。辺境が中華を乱さないようならば24原文「裔不乱華」。『左伝』定公十年の「裔不謀夏、夷不乱華」にもとづく表現だと思われる。「裔」は「辺境」とも「夷狄」とも取れるが、ここでは前者がよいと思われたので「辺境」と訳出することにした。(2021/4/16:注追加)、漸次に平陽、弘農、魏郡、京兆、上党の雑胡を〔これらの回復した辺郡に〕移住させ、四夷が出入することへの防備を厳しくし25原文「峻四夷出入之防」。塞内の「四夷」が塞外へ出ること、および塞外の「四夷」が塞内へ侵入すること、という意味か。、先王の荒服の制度を明らかにしましょう。これこそ万世の長策です」。武帝は採用しなかった。太康五年になり、匈奴胡の太阿厚も部落の二万九三〇〇人を率いて帰化した。太康七年、さらに匈奴胡の都大博、萎莎胡らもおのおの種類の大人と子供のべ十余万口を率い、雍州刺史の扶風王駿のもとに至り、降って帰順した。翌年、匈奴部督の大豆得一育鞠らも種落の大人と子供一万一五〇〇口、牛二万二〇〇〇頭、羊一〇万五〇〇〇頭を率い、車廬26おそらくテントを指す。沢田勲氏によれば、匈奴のテントは下部に車輪が付いているものであり、住居と車輪とが一体化しているものと分離可能なものとの二種類あったという。[沢田二〇一五]一〇六―〇七頁を参照。本文で「車」字が付いているのはこうした理由からであろう。や日用品は数えきれないほどを持参して来降し、あわせて産物を貢献した。武帝はこれらすべてを懐柔し、受け入れた。
 北狄は部落をもって類をなしている27原文「北狄以部落為類」。「部落ごとに類を形成している」ということだと思うが、以下で列挙されているのは「種」である。冒頭の注では「類」と「種」とで指示する範囲が異なることを述べておいたが、ここの箇所では同じ意味なのかもしれない。あるいは『文選』巻四三、丘希範「与陳伯之書」の李善注に引く「晋中興書」には「胡俗以部落為種類、屠各取豪貴」と、「為種類」に作るのが本来は正しいのかもしれない。。塞内に入居した類には、屠各種、鮮支種、寇頭種、烏譚種、赤勒種、捍蛭種、黒狼種、赤沙種、鬱鞞種、萎莎種、禿童種、勃蔑種、羌渠種、賀頼種、鍾跂種、大楼種、雍屈種、真樹種、力羯種があり、のべ十九種である。みな部落があり、相互に入り乱れることはなかった。屠各種はもっとも豪貴(強勢で高貴)であったため、単于になることができ、諸種を統べたのである28『文選』巻四四、陳孔璋「為袁紹檄豫州」の李善注に引く「晋中興書」に「胡俗、其入居塞者、有屠各種最豪貴、故得為単于、統領諸種」とあり、ほぼ同文。劉淵ら匈奴劉氏はしばしば「屠各」と呼ばれている。このことから、劉氏は屠各種であったと考えられているが、その肝心の屠各種の実態は諸説あり、「休屠各」等の略称で、匈奴系の胡族であった点は諸説おおむね一致している。参考までに以下に代表的な説を挙げておく。
【1】屠各種は、伝統的な単于氏族である攣鞮氏(虚連題氏)を輩出している種族だとみるもの、すなわち前史の匈奴列伝と本伝の記載はそのまま結合しうると解釈するもの([内田一九七五])。
【2】伝統的な単于の氏族とは関係がない種族だとみるもの。屠各は休屠王の部衆の後裔であり、前漢・武帝期に渾邪王に率いられて漢に降り、涼州方面に移されたが、後漢のころには広範な地域に移動していた。そのなかの一部が并州に入り、当初は南単于の管轄下にあったが、やがて南匈奴内で主導権を握り、南単于の子孫を称するにいたったとする。すなわち劉氏は南単于の子孫ではなく、南単于に代わって勃興した屠各種であるという。本伝のここの記述は、屠各種の劉氏が南匈奴内で支配的地位を確立して以後の状況を反映させたものにすぎないとみる([唐一九五五])。
【3】屠各とは、休屠王の部衆を併合して漢に降った渾邪王の部衆の後裔、ようするに属国胡の後裔であり、もとは涼州方面に居住していたが、後漢にかけて東や南の内郡へ移動するようになった。こうした旧属国胡をほかの胡族と区別して「屠各」と呼称するようになったのだという。劉氏はそうした屠各のうちの新興郡に移住した一派であり、南匈奴とは関係がなかった。なお、屠各のルーツにあたる渾邪王は単于氏族であった可能性が高いため、屠各は南単于の子孫ではなくとも、単于氏族の血筋を引いてはいる([片桐一九八八])。
【4】屠各という語はもともと休屠王の部衆の後裔を指す言葉であったが、魏晋時期には指示対象が変化し、内郡に移住した匈奴の汎称として用いられていたのであり、劉氏が屠各と呼ばれていたのもこのような語用ゆえにすぎず、劉氏が南単于の子孫であり、かつ屠各であるというのは矛盾する表現ではない。つまり劉氏が南単于の子孫であるのを疑う材料はない。そして本伝のここの記述は「魏晋の時代、北狄のなかでも屠各=匈奴がもっとも豪貴で、単于はひとしく屠各=匈奴から輩出された」という意味だと解釈する([周二〇〇六])。
 このように、屠各種の実態を探る試みは、そのまま劉氏の実態を究明する作業にもなるため、ひじょうに重要な研究ではあるのだが、解明は難しいかもしれない。近年では、少なくとも【1】の見解([内田一九七五])が採られることはあまりない。先行研究のより細かな詳細は訳者の三国志学会レジュメ(PDF)2ページを参照。
。その国の称号には、左賢王、右賢王、左奕蠡王、右奕蠡王、左於陸王、右於陸王、左漸尚王、右漸尚王、左朔方王、右朔方王、左独鹿王、右独鹿王、左顕禄王、右顕禄王、左安楽王、右安楽王があり、のべ十六等級であるが、すべて単于の実の子弟を任用した29以上の称号のいくつかは『史記』巻一一〇、匈奴列伝(『漢書』巻九四、匈奴伝上)や『後漢書』伝七九、南匈奴伝にも見えているが、多くは本伝独自の情報である。。左賢王がもっとも高貴で、太子だけがこれに就くことができた。四姓に、呼延氏、卜氏、蘭氏、喬氏がある。呼延氏がもっとも高貴で、左日逐、右日逐〔の官〕を〔世襲で?〕有し、代々〔単于の〕補佐であった。卜氏は左沮渠、右沮渠を有し、蘭氏は左当戸、右当戸を有し、喬氏は左都侯、右都侯を有している30『後漢書』南匈奴伝は南匈奴に四姓があると記し、呼延氏、須卜氏、丘林氏、蘭氏を挙げている。ただ四姓が特定の官号と結びついていた旨の記述はない。内田吟風氏は後漢末から魏晋にかけて単于による国の統治が停止したことにより、これら「単于・南単于によって任免せられるところの総督・軍区司令官的性格」をもつ官号・王侯は「世襲化し、王侯は任地に土着酋豪化したものではないか」と推測している([内田一九七五]二八六頁)。。また、車陽、沮渠、そのほかの地のもろもろの雑号があるが、〔それらは〕中国の百官のようなものである。国人には綦毋氏、勒氏がおり、どちらも勇壮で、よく反乱を起こした。武帝のとき、騎督の綦毋俔邪という者があり、呉の討伐に功績をあげ、赤沙都尉に移った。
 恵帝の元康年間、匈奴の郝散が上党を攻め、長吏を殺し、上郡に入ってこもった31恵帝紀、元康四年五月の条。同八月の条によると、部衆を率いて降ったが、馮翊都尉によって殺されたのだという。。翌年、郝散の弟の郝度元も馮翊や北地の羌胡を率い、馮翊と北地を攻めて破った32恵帝紀、元康六年五月の条。斉万年の乱のきっかけとなった。。これ以後、北狄はしだいに勢いを強め、中原は乱れたのであった。

 史臣曰く、(以下略)

序・東夷/西戎/南蛮/北狄

(2021/4/15:公開)

  • 1
    原文「匈奴之類、総謂之北狄」。「類」について、沢田勲氏は、『魏書』契丹伝で契丹と奚を「異種同類」と表現していることを挙げ、「中国人は種を類より限定された対象として扱っていたようだ」と指摘している([沢田二〇一五]一二五頁)。本伝のこの箇所も、匈奴と「同類」の北アジア諸族、という意味なのであろう。ただし、のちにもあらためて言及するが、本伝後文には「北狄以部落為類、其入居塞者、有屠各種、……凡十九種、皆有部落、相不雑錯」とあり、「類」と「種」をほぼ同じような意味で用いる場合もあるようである。
  • 2
    原文まま。一般的にはゴビ砂漠を指す。ちなみに杉山正明氏によれば、乾燥地帯のうちでも、草原や荒野など「ともかく水がすくないところ」を「漢字で、「沙」とか「漠」とかあらわした」。ゆえに「いわゆる砂の砂漠」と「沙漠」とは同じではないという。[杉山二〇一一]三二、三三頁を参照。
  • 3
    原文「世世自相君臣」。自信がもてない。北アジア諸民族と君臣の関係を結んだ=北アジアで君主であった、という意味で訳出してみた。
  • 4
    『太平御覧』巻八〇〇、総叙北狄下に引く「晋中興書」に「北狄、其地南接燕趙、北沙漠、東漸九夷、西界六戎、世世自相君臣、不稟中国正朔」とあり、ほぼ同文。「正朔」の「正」は「歳のはじめの月」(正月)、「朔」は「月のはじめの日」のことで、熟して「暦」を意味する。いにしえの制度では、王朝の革命ごとに歳首の月(正月)も変更するとされていた。王朝の定めた正朔=暦を奉じてそれに従うというのは、その王朝に臣従するということである。ただし臣でも例外があり、「二王之後」のような客は臣でありながら正朔は奉じなくてもよい(独自の正朔であってよい)とされていた。前漢の宣帝期に漢朝に降った呼韓邪単于も客礼をもって遇されており(『漢書』巻八、宣帝紀、甘露二年十二月の条、同、巻九四、匈奴伝下)、漢の正朔が加えられなかった臣である。ゆえに、本伝のここの記述は「中国に臣従しなかった(中国と敵国であった)」という意味か、「中国から特別な待遇を受けていた」の二つの意味で解釈が可能である。前後の文脈からみれば、前者の意で取るのがよいと思う。
  • 5
    上文に「前漢末」とあるが、匈奴で五人の単于が乱立したのは前漢宣帝期のとき(呼韓邪単于のとき)のことである。以下、本伝は宣帝期の呼韓邪単于と光武帝期の呼韓邪単于の二人を混同してしまっている。
  • 6
    「呼韓邪単于は匈奴の国を失い、……」からここまでは後漢の呼韓邪単于の事跡。後漢域内に入植した南匈奴のことをいう。『後漢書』伝七九、南匈奴伝に「南単于既居西河、亦列置諸部王、助為扞戍。使韓氏骨都侯屯北地、右賢王屯朔方、当于骨都侯屯五原、呼衍骨都侯屯雲中、郎氏骨都侯屯定襄、左南将軍屯雁門、栗籍骨都侯屯代郡、皆領部衆為郡県偵羅耳目」とある。
  • 7
    「呼韓邪単于は漢の恩恵に感動し、……」から「邸宅を賜い」までは前漢の呼韓邪単于の事跡。『後漢書』伝七九、南匈奴伝をみるかぎり、光武帝期の呼韓邪単于は使者や侍子をつかわしこそすれ、みずから自身は来朝していないはずである。「邸宅を賜い」以降の文はもとづくところがよくわからないが、毎年の支給に関しては『後漢書』南匈奴伝に「元正朝賀」のさいに南単于らに物品を下賜し、「歳以為常」という記述がみえる。「列侯と同等の量であった(有如列侯)」というのも出所がわからないが、このことに関連して付言すると、前漢の呼韓邪単于の待遇は「以客礼待之、位在諸侯王上」(『漢書』巻八、宣帝紀、甘露二年十二月の条に載せる宣帝の詔)という客待遇で、位は列侯よりも格上におかれている。この待遇は後漢の呼韓邪単于のときにも引き継がれているはずである。これを考慮すると、本伝の記述はやや不正確な印象を受ける。なお『資治通鑑』は「毎年の支給が列侯と同等であった」旨の記述を曹操が鄴に呼厨泉単于を拘留したとき、すなわち建安二一年にかけている(巻六七、建安二十一年七月の条)。どうしてこのような異同が生じているのかわからない。
  • 8
    原文まま。渡辺信一郎氏によると、漢代、地方郡県が民から収取した財物のうち、人口数に一定分を中央に上供するよう定められていたが、これを賦(献費)という([渡辺二〇一〇]第一章)。本伝の「貢賦」も厳密にはそのような意味なのかもしれないが、ここでは簡単に「税」くらいの意味でよいと思われる。
  • 9
    原文まま。「戸」というとやや迂闊な書き方をしているように感じるが、『後漢書』伝七九、南匈奴伝で南匈奴の「党衆最盛」のときを記して「領戸三万四千、口二十三万七千三百」とあるので、あまり気にしなくてよさそうである。
  • 10
    この記述のもとづくところは捜索中。周偉洲氏は曹操がこういうことを考えていたかのように論述している([周二〇〇六]七頁)。
  • 11
    この記述の事実性に疑念を呈する研究もある。町田隆吉氏の研究([町田一九七九])によれば、実際は匈奴の分割統治は曹操の時代に実行されたものではなく、嘉平年間に鄧艾が分割統治を献策したのが最初であり、西晋太康年間までに五部の分割支配体制が完成したという。詳細は訳者の三国志学会レジュメ(PDF)の注(18)を参照。
  • 12
    劉元海載記だと、劉淵は西晋武帝時代に左部帥となり、「太康末」に北部都尉に任じられているから、本伝のここの記述とは違背している。内田吟風氏は本伝の記述を誤りとみなしている([内田一九七五]二八八―八九頁)。
  • 13
    おそらく正確には、「漢代では太原の属県であった茲氏県の地」ということだと思われる。漢代の茲氏県は、晋代では隰城県と改称され、西河に所属していたとされる。『元和郡県図志』巻一三、河東道二、汾州、西河県に「本漢茲氏県也、曹魏於此置西河郡、晋改為国、仍改茲氏県為隰城県」とある。
  • 14
    地理志上、并州新興郡には新興県の記録がない。劉元海載記は「北部居新興」と記し、郡とも県とも明記していない。[劉二〇一九]は晋昌県の旧名が新興県であったとする。(2022/8/24:追記)
     ちなみに、新興郡は後漢末に北辺の郡を内徙・統合して新設された郡である。太原の東北に隣し、北は雁門郡と接している。このときに整理統合された諸郡は、後漢初に南匈奴が入植した郡と伝えられており(『後漢書』伝七九、南匈奴伝)、この措置によって南匈奴も内郡(というより新興郡)に移されたのかもしれない。『三国志』巻一、武帝紀、建安二十年正月の条に「省雲中・定襄・五原・朔方郡、郡置一県領其民、合以為新興郡」とある。『元和郡県図志』は、省いた諸郡は後漢末に「匈奴侵辺」によって荒廃していたと記している。たとえば巻一四、河東道三、嵐州に「漢末大乱、匈奴侵辺、自定襄已西尽雲中・雁門・西河之間遂空」とある。胡三省は、この措置と同時に陘嶺以北を放棄したのだと述べている(省かれた雲中など諸郡は陘嶺以北に置かれていた)。『資治通鑑』巻七二、青龍元年「今〔畢〕軌出軍、慎勿越塞過句注也」の胡三省注に「漢霊帝末、羌胡大擾定襄・雲中・五原・朔方・上郡、並流徙分散。建安二十年、集塞下荒地、置新興郡、自陘嶺以北並棄之、故以句注為塞」とある。ただし地理志上、并州には「建安十八年、省入冀州。……魏黄初元年、復置并州、自陘嶺以北並棄之、至晋因而不改」とあり、曹魏になって陘嶺以北を放棄したと記されているが、胡三省の理解するとおり、新興郡の設置=雲中諸郡の内徙併合は実質的に陘嶺以北の放棄を意味すると思われるので、胡三省の理解でよいと考える。曹魏になっても内徙された北辺の郡が回復されることはなかったというのが地理志の記述の主旨なのであろう。また馬与龍は前引の地理志の文に注して、晋初に陘嶺を域内に含む雁門郡を整備・設置しているため、晋でも陘嶺以北を放棄していたというのは誤りだと述べているが(『晋書地理志註』)、雁門以北の諸郡は復置していないことに変わりがないわけだし、そこまで細かく述べ立てる必要はないように思う。(2021/4/19:一部改訂)
  • 15
    原文「匈奴大水、塞泥・黒難等」。「大水塞泥黒難」すべてで人名ではないかという疑念もなくはないが(和刻本はそう読んでいるらしい)、どうにも明らかにできないので中華書局の標点に従って読んだ。
  • 16
    原文「河西故宜陽城下」。宜陽は弘農郡の属県だと思われるが、そのあたりの地域を「河西」(オルドス)と呼ぶものなのかどうかは不詳。
  • 17
    劉元海載記は「右賢王」とする。武帝紀、泰始七年正月の条と杜預伝は「匈奴帥」、胡奮伝は「匈奴中部帥」、『魏書』巻九五、鉄弗劉虎伝は「北部帥」としている。町田隆吉氏は、劉猛は単于を「反乱後に自称した」と推測している([町田一九七九]注三九)。[内田一九七五]二七八頁も同様。
  • 18
    武帝紀、泰始七年正月の条によれば、劉猛は「出塞」したというので塞外の城であろう。
  • 19
    武帝紀、泰始八年正月の条は「左部帥」とし、胡奮伝は「帳下将」とする。
  • 20
    原文は「長史」だが、『資治通鑑』巻八一、太康元年は「長吏」(県の令長)に作る。おそらく『資治通鑑』が正しいので改めた。中華書局の校勘記も参照。
  • 21
    『資治通鑑』巻八一、太康元年はこのあとに「内及京兆・魏郡・弘農、往往有之(内郡は京兆、魏郡、弘農にまで〔胡人の居住が〕及び、あちこちに胡人がいます)」とある。
  • 22
    上郡は地理志に記録がない。漢代、上郡はオルドス地帯(河南)に設けられていた郡であった。前漢では属県の亀茲県に属国都尉が置かれ、その後いったんは属国都尉は廃されていたようだが、後漢の和帝の永元二年二月に復置されている(『後漢書』紀四、孝和帝紀)。上郡はこのような特徴を有するわけだが、後漢の永和五年に起こった南匈奴の吾斯の反乱により、左馮翊の夏陽県に移されてしまった(『後漢書』紀六、順帝紀、永和五年九月の条、同、伝七九、南匈奴伝)。つまり上郡は放棄されたのである。非漢族の反乱が激化したさいなどに後漢王朝が辺郡を一時的に放棄する(内郡に僑置する)政策をよく取っていたことはすでに指摘されており([飯田二〇〇六])、このときの上郡もそうした方針のもとに取られた措置である。しかしその後、上郡が回復されたとの記録はなく、オルドスにふたたび置かれたのか、そのまま馮翊に僑置するかたちになったのか、不明である。桓帝の永康元年に段熲が東羌について上言し、「久乱并・涼、累侵三輔、西河・上郡、已各内徙、安定・北地、復至単危、……。今若以騎五千、歩万人、車三千両、三冬二夏、足以破定、……。如此、則可令群羌破尽、匈奴長服、内徙郡県、得反本土」と述べており(『後漢書』伝五五、段熲伝)、永和以来、桓帝の治世においても上郡は内徙されたままであった可能性が高いかもしれない。『元和郡県図志』巻三、関内道三、丹州には「禹貢雍州之域、……秦置三十六郡、属上郡。漢因之。魏文帝省上郡。其地晋時戎狄居之」と、魏のときに廃されたと記している。王先謙は『輿地広記』などの書物を参照したうえで、後漢末の曹操によって上郡は廃され、曹魏のときは置かれなかったと述べている(『後漢書集解』志二三、郡国志五、上郡)。王先謙は新興郡の経緯(前文「新興県」の注を参照)をふまえ、かりに永和五年以降に上郡が回復されていたとしても、新興郡設置と同時期に上郡もふたたび放棄されたと考えているのかもしれない。西晋もオルドス地帯に郡県を置いていたとは考えにくいため、晋代の上郡は置かれていたとしても馮翊付近に僑置されていたのではないかと思われる。
  • 23
    原文「宜及平呉之威、謀臣猛将之略、出北地・西河・安定、復上郡、実馮翊、於平陽已北諸県募取死罪、徙三河・三魏見士四万家以充之」。読むのが難しく、ここに言及されている諸郡の歴史的背景をもとに解釈を試みた。要約して言えば、馮翊を除くこれら諸郡は後漢の当初はいわゆるオルドス地帯(河南)に領域を有していた郡であったが、後漢なかごろに内郡へ移されており、その後、一時的に回復された可能性はあるものの、後漢末から曹魏ころにはふたたびオルドス地帯の領域は放棄されたと考えられる。郭欽がここで提言しているのは、これら諸郡をふたたびオルドスへ出す、ないし回復し孫呉平定の勢いを駆って西河等の故地であるオルドスへ軍を向かわせ、これらの地を回復し、僑置によって領域が狭まっていた馮翊を本来に戻し、そうしてオルドス諸郡へは死刑囚や兵士を移住させて人口を満たす、というものであったと思われる。なお後漢では、内徙した辺郡を回復するさい、刑徒をその辺郡に定住させたり防衛に従事させたりし、その代償に罪の減免措置をよく取っていたという([飯田二〇〇六]六七―六九頁)。ここで死刑囚が募集されているのも同様の意図からであろう。
     以下、ここで挙げられている諸郡(北地、西河、安定、上郡、馮翊)に関する史料を挙げておく。まずこれら諸郡が後漢なかごろに内徙されたことについては、『後漢書』紀五、安帝紀、永初五年三月の条に「詔隴西徙襄武、安定徙美陽、北地徙池陽、上郡徙衙」とある。このときの内徙についてはのち、永建四年九月に戻されている(同、紀六、順帝紀)。しかしさらにこののち、同、順帝紀、永和五年九月の条に「徙西河郡居離石、上郡居夏陽、朔方居五原」とあり、同、六年十月の条に「徙安定居扶風、北地居馮翊」とある。このあとの諸郡の動静が基本的には問題となる。
    【北地】永和六年に移されて以後は不明。『元和郡県図志』巻二、関内道二、京兆府下、華原県に「本漢祋祤県地、属左馮翊。魏、晋皆於其地置北地郡」とある。王先謙は永和六年に馮翊の祋祤県に移されて以後、そのまま回復することはなかったと考察している。『後漢書集解』志二十三、郡国志五、北地郡の王先謙注に「漢末、郡寄寓馮翊、旧郡廃。三国魏同。……是北地郡、自永和六年以後、不復帰旧土也」とある。
    【西河】永和五年に離石へ移った以降の桓帝・永寿元年のことととして、『後漢書』伝七九、南匈奴伝に「匈奴左薁鞮台耆、且渠伯徳等復畔、寇鈔美稷、安定属国都尉張奐撃破降之」とあり、西河の美稷県が回復されていたようにみられるが、これ以後の桓帝の永康元年、段熲が東羌について上言し、「久乱并・涼、累侵三輔、西河・上郡、已各内徙、安定・北地、復至単危、……。今若以騎五千、歩万人、車三千両、三冬二夏、足以破定、……。如此、則可令群羌破尽、匈奴長服、内徙郡県、得反本土」と述べており(『後漢書』伝五五、段熲伝)、この時点でも西河は内徙されたままであったごとくである。よって永和五年以降の動向は判明しないが、『元和郡県図志』巻一四、石州に「在秦為西河郡之離石県。霊帝末、黄巾大乱、百姓南奔、其郡遂廃。魏黄初三年復置離石県」とあり、いずれにせよ後漢末までには内徙先の離石県も廃され、郡そのものが廃されていたようである。そして同、巻一三、河東道二、汾州に「後漢徙理離石、即今石州離石県也。献帝末荒廃、魏黄初二年、乃於漢茲氏県置西河郡、即今州理是也」とあるように、曹魏の黄初二年に太原の諸県を割いて復置された(離石県はその後、同三年に復置されたということなのだろう)。『水経注』巻六、文水注に引く西河繆王司馬子政の碑文に「西河旧処山林、漢末擾攘、百姓失所。魏興、更開疆宇、分割太原四県、以為邦邑、其郡帯山側塞矣」とあるが、この記述は以上の『元和郡県図志』の記述とも符合している。王先謙は、後漢末に西河郡は廃され、曹魏の黄初年間に漢の茲氏県に僑置されたとし、そのさい漢の旧県は離石を除いてすべて廃されたと注している(『後漢書集解』志二三、郡国志五、西河郡の諸注)。つまり漢の旧県は離石県だけが復置されたということである。ついでだが、この項目冒頭で言及した美稷県は南単于の単于庭が設けられた地である。諸史に記録はないが、西河が内徙されるに及んで、単于庭もあわせて移されたはずであり、その地こそ離石県であったのだろうと思われる。周偉洲氏は永和五年前後に離石へ移されたのだろうと考察している([周二〇〇六]五頁)。(2021/4/19:「西河」の項、改訂)
    【安定】永和六年に扶風に移されて以後の動静は不詳で、王先謙にも特に言及がない。ただ張多勇氏は、属国都尉が置かれていた三水県(現在の寧夏回族自治区同心県)が、永初五年の安定郡内徙のさいに郡の南部(現在の甘粛省霊台県)へ移されていたと考察し、そのまま魏晋でもその場所に県が置かれたが、名称は西川県へ改められたと論じている。[張二〇一五]一二〇―一二三頁を参照。『後漢書』順帝紀によれば、永初五年の内徙は永建四年に戻されているので、三水県移動の時期をこのときに断定してしまってよいものか不安もあるが、後漢なかごろにオルドス地帯の領域を放棄し、魏晋でも変わらなかったであろうことは確かなようである。
    【上郡】前文「上郡」の注を参照のこと。
    【馮翊】北地郡の項目で述べたように、後漢の永和六年に北地が左馮翊祋祤県へ移され、魏晋でもそのまま当地に僑置されていたという。また前文「上郡」の注でも言及したように、西晋時期に上郡が置かれていたとしたら、やはり馮翊に僑置されていた可能性が高いと思われる。このように辺郡が僑置されたことによって、晋代の馮翊は漢代に比べて領域が狭まったと言えるだろう。本伝の「実馮翊」はこの僑郡を故地に戻すことによって、馮翊を本来の領域に戻すという意味でとらえた。
  • 24
    原文「裔不乱華」。『左伝』定公十年の「裔不謀夏、夷不乱華」にもとづく表現だと思われる。「裔」は「辺境」とも「夷狄」とも取れるが、ここでは前者がよいと思われたので「辺境」と訳出することにした。(2021/4/16:注追加)
  • 25
    原文「峻四夷出入之防」。塞内の「四夷」が塞外へ出ること、および塞外の「四夷」が塞内へ侵入すること、という意味か。
  • 26
    おそらくテントを指す。沢田勲氏によれば、匈奴のテントは下部に車輪が付いているものであり、住居と車輪とが一体化しているものと分離可能なものとの二種類あったという。[沢田二〇一五]一〇六―〇七頁を参照。本文で「車」字が付いているのはこうした理由からであろう。
  • 27
    原文「北狄以部落為類」。「部落ごとに類を形成している」ということだと思うが、以下で列挙されているのは「種」である。冒頭の注では「類」と「種」とで指示する範囲が異なることを述べておいたが、ここの箇所では同じ意味なのかもしれない。あるいは『文選』巻四三、丘希範「与陳伯之書」の李善注に引く「晋中興書」には「胡俗以部落為種類、屠各取豪貴」と、「為種類」に作るのが本来は正しいのかもしれない。
  • 28
    『文選』巻四四、陳孔璋「為袁紹檄豫州」の李善注に引く「晋中興書」に「胡俗、其入居塞者、有屠各種最豪貴、故得為単于、統領諸種」とあり、ほぼ同文。劉淵ら匈奴劉氏はしばしば「屠各」と呼ばれている。このことから、劉氏は屠各種であったと考えられているが、その肝心の屠各種の実態は諸説あり、「休屠各」等の略称で、匈奴系の胡族であった点は諸説おおむね一致している。参考までに以下に代表的な説を挙げておく。
    【1】屠各種は、伝統的な単于氏族である攣鞮氏(虚連題氏)を輩出している種族だとみるもの、すなわち前史の匈奴列伝と本伝の記載はそのまま結合しうると解釈するもの([内田一九七五])。
    【2】伝統的な単于の氏族とは関係がない種族だとみるもの。屠各は休屠王の部衆の後裔であり、前漢・武帝期に渾邪王に率いられて漢に降り、涼州方面に移されたが、後漢のころには広範な地域に移動していた。そのなかの一部が并州に入り、当初は南単于の管轄下にあったが、やがて南匈奴内で主導権を握り、南単于の子孫を称するにいたったとする。すなわち劉氏は南単于の子孫ではなく、南単于に代わって勃興した屠各種であるという。本伝のここの記述は、屠各種の劉氏が南匈奴内で支配的地位を確立して以後の状況を反映させたものにすぎないとみる([唐一九五五])。
    【3】屠各とは、休屠王の部衆を併合して漢に降った渾邪王の部衆の後裔、ようするに属国胡の後裔であり、もとは涼州方面に居住していたが、後漢にかけて東や南の内郡へ移動するようになった。こうした旧属国胡をほかの胡族と区別して「屠各」と呼称するようになったのだという。劉氏はそうした屠各のうちの新興郡に移住した一派であり、南匈奴とは関係がなかった。なお、屠各のルーツにあたる渾邪王は単于氏族であった可能性が高いため、屠各は南単于の子孫ではなくとも、単于氏族の血筋を引いてはいる([片桐一九八八])。
    【4】屠各という語はもともと休屠王の部衆の後裔を指す言葉であったが、魏晋時期には指示対象が変化し、内郡に移住した匈奴の汎称として用いられていたのであり、劉氏が屠各と呼ばれていたのもこのような語用ゆえにすぎず、劉氏が南単于の子孫であり、かつ屠各であるというのは矛盾する表現ではない。つまり劉氏が南単于の子孫であるのを疑う材料はない。そして本伝のここの記述は「魏晋の時代、北狄のなかでも屠各=匈奴がもっとも豪貴で、単于はひとしく屠各=匈奴から輩出された」という意味だと解釈する([周二〇〇六])。
     このように、屠各種の実態を探る試みは、そのまま劉氏の実態を究明する作業にもなるため、ひじょうに重要な研究ではあるのだが、解明は難しいかもしれない。近年では、少なくとも【1】の見解([内田一九七五])が採られることはあまりない。先行研究のより細かな詳細は訳者の三国志学会レジュメ(PDF)2ページを参照。
  • 29
    以上の称号のいくつかは『史記』巻一一〇、匈奴列伝(『漢書』巻九四、匈奴伝上)や『後漢書』伝七九、南匈奴伝にも見えているが、多くは本伝独自の情報である。
  • 30
    『後漢書』南匈奴伝は南匈奴に四姓があると記し、呼延氏、須卜氏、丘林氏、蘭氏を挙げている。ただ四姓が特定の官号と結びついていた旨の記述はない。内田吟風氏は後漢末から魏晋にかけて単于による国の統治が停止したことにより、これら「単于・南単于によって任免せられるところの総督・軍区司令官的性格」をもつ官号・王侯は「世襲化し、王侯は任地に土着酋豪化したものではないか」と推測している([内田一九七五]二八六頁)。
  • 31
    恵帝紀、元康四年五月の条。同八月の条によると、部衆を率いて降ったが、馮翊都尉によって殺されたのだという。
  • 32
    恵帝紀、元康六年五月の条。斉万年の乱のきっかけとなった。
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