巻九 帝紀第九 孝武帝

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簡文帝孝武帝

 孝武皇帝は諱を曜、字を昌明といい、簡文帝の第三子である。興寧三年七月甲申、はじめは会稽王に封じられた1原文「初封会稽王」。どう日本語に置き換えたらいいのか浮かばないが、「初某官」は「キャリアのスタート」ということ。
 咸安二年秋七月己未、皇太子に立てられた。この日、簡文帝が崩じたので、太子が皇帝の位についた。詔を下した、「朕は不幸にも、にわかに父の死に遭い、天に向かって泣き叫び、地をたたきつけるも、この心の内をどこにぶつけたらよいのかわからない。〔朕は〕年幼く、〔しかも現今は〕冠に垂れ下がる珠のように不安定な時勢であり2原文「眇若綴旒」。「綴旒」は訳出したように「冠から飾りの珠が垂れ下がっている」ことを言うが、転じて「比喩国勢垂危。……亦用以比喩情況危急」(『漢語大詞典』)の意でも用いられる。ただし帝紀本文がこの意味で使用しているのかは自信がない。、〔このようななかで〕社稷の重大さを深く思うと、重責をになえないのではないかとおおいに心配である。〔そこで〕祖先の霊や、徳行を重ねてきた祭祀3ようは晋朝の帝業のことを指すのであろう。を仰ぎ見て、頼みとしたい。先帝は純朴な風教と玄妙な教化をひろめたが、民は〔その治世を〕歌って語り継いでいる。宰相は優秀で、勲功は高く、徳は立派である。顧命の委託があるので、まことに〔委託を受けた者たちの〕輔翼と教導を頼りとしたい。諸侯は職務に忠実で、百官は政務にはげんでいる。父を亡くした弱小のこの身が寄託できる人物を得て、政治秩序の根本が失墜しないことを望んでいる。先帝の残した恩恵は、天下にゆきわたっているが、この残された恩沢を拡大し、そうして民衆を安んじようと思う。そこで、天下を大赦し、民とともに一新して再始動する」。
 九月甲寅、皇妣の会稽王妃を追尊し、順皇后とした。
 冬十月、簡文帝を高平陵に埋葬した。
 十一月甲午、妖賊の盧悚が明け方に殿庭に進入したが、游撃将軍の毛安之らが討伐し、捕縛した。
 この年、三呉で甚大な旱魃があり、多くの餓死者が出た。詔を下して各地を援助した。苻堅が仇池を落とし、秦州刺史の楊世を捕えた。

 寧康元年春正月己丑朔、改元した。
 二月、大司馬の桓温が来朝した。
 三月癸丑、詔を下し、丹楊や竹格など四つの桁(浮橋)4『建康実録』烈宗孝武皇帝、寧康元年三月の条の原注に引く「地輿志」によれば、朱雀橋(大航)、驃騎航、竹格航、丹楊郡城後航の四つの浮橋のことで、「在晋時並収税、至是年、詔皆除税不収、放民之往来也」という。(2020/9/8:注追加)の税を免除した。
 夏五月、旱魃があった。
 秋七月己亥、使持節、侍中、都督中外諸軍事、丞相、録尚書、大司馬、揚州牧、平北将軍、徐・兗二州刺史、南郡公の桓温が薨じた。庚戌、右将軍の桓豁を征西将軍に進めた。江州刺史の桓沖を中軍将軍、都督揚・豫・江三州諸軍事、揚州刺史とし、姑孰に出鎮させた。
 八月壬子、崇徳太后が臨朝して政務を代行した。
 九月、苻堅の将の楊安が成都を侵略した。丙申、尚書僕射の王彪之を尚書令とし、吏部尚書の謝安を尚書僕射とし、呉国内史の刁彝を北中郎将、徐・兗二州刺史とし、広陵に出鎮させた。光録勲、大司農、少府を復置した5いずれも哀帝期に桓温が「省官併職」して廃した官府。
 冬十月、西平公の張天錫が産物を朝献した。
 十一月、苻堅の将の楊安が梓潼、梁州、益州を落とした。益州刺史の周仲孫は騎兵五千を率いて南へ逃げた。

 二年春正月癸未朔、大赦した。もとの会稽王世子の郁を臨川献王に追封し、諡号をおくった。己酉、北中郎将、徐・兗二州刺史の刁彝が卒した。
 二月癸丑、丹楊尹の王坦之を北中郎将、徐・兗二州刺史とした。丁巳、彗星が女虚で光った。
 三月丙戌、彗星が氐に現れた。
 夏四月壬戌、皇太后が詔を下した、「このごろ、天体の現象に異常がみられるときがあり、天が異変を示しているが、仰いでこの異変を観察すると、心より憂慮を覚える。そもそも、異変を利用して幸福を将来するのは、いにしえ以来の方法である。心を根本に返そうとし6原文「克意復心」。「復心」は『易』復の彖伝に「復其見天地之心乎」とあるのが出典か。「克」はよくわからなかった。、そうしてまことに中正を守ろうとすることを7原文「以思厥中」。「厥中」は『論語』堯曰篇「允執其中」が出典か。、どうして朕がしないでおられようか。また、三呉の地域は水流のある土地で、股肱のような著名な郡であるが、水害と干害が同時に起こってしまい、百姓は生業を失ってしまった。夙夜〔このことが〕気がかりで、心配を忘れることはできない。時宜に応じて援助し、百姓の窮乏を救済するべきであろう。三呉の義興、晋陵、会稽で水害に遭った県のうち、とりわけ被害が大きい県は、一年間の租と布をすべて免除する。その次に被害の大きい県は半年間免除する。援助を受けた者はそれを下賜する8原文「受振貸者即以賜之」。「振貸」は武帝紀、泰始七年、恵帝紀、元康五年にも用例がある。「本来は返済が必要だが、特例で給付する」という意味であろう。返済が必要な援助であったことは、文六王伝・斉王攸伝「而時有水旱、国內百姓則加振貸、須豊年乃責、十減其二、国內頼之」からもうかがえる。ただしすべての事例が返済必要の援助であったのかはわからない。また『漢書』巻四、文帝紀、元年三月の条の顔師古注に「振、起也。為給貸之、令其存立也。諸振救、振贍,其義皆同」とある。(いまさらだが)本訳では顔師古の挙げる「振救」「振贍」のほか、「振卹」などもすべて「援助」と訳出しておき、返済の要不要が明確に含まれる訳語を採らなかった。」。
 五月、蜀の張育が蜀王を自称し、群衆を率いて成都を包囲し、使者を派遣して〔晋に〕称藩した。
 秋七月、涼州で地震があり、山が崩落した。苻堅の将の鄧羌が張育を攻め、これを滅ぼした。
 八月、長秋殿がまもなく竣工するので、一時的に〔天下の?〕婚姻を停止させた。
 九月丁丑、彗星が天市で光った。
 冬十一月己酉、天門の蜑賊が郡を攻め、天門太守の王匪が戦死した。征西将軍の桓豁が軍を派遣して討伐させ、平定させた。長城の銭歩射、銭弘らが乱を起こしたので、呉興太守の朱序が討伐し、平定した。癸酉、鎮遠将軍の桓石虔が苻堅の将の姚萇を墊江で破った。

 三年春正月辛亥、大赦した。
 夏五月丙午、北中郎将、徐・兗二州刺史、藍田侯の王坦之が卒した。甲寅、中軍将軍、雍州刺史の桓沖を鎮北将軍、徐州刺史とし、丹徒に出鎮させた。尚書僕射の謝安を領揚州刺史とした。
 秋八月癸巳、皇后に王氏を立て、大赦し、文武の官の位を一等加増した。
 九月、孝武帝が『孝経』を学習した。
 冬十月癸酉朔、日蝕があった。
 十二月甲申、神獣門で火災があった。癸未、皇太后が詔を下した、「このごろ、日蝕が異変を知らせ、水害と旱害が時季はずれに起こっている。わが身を正して救済を願っているとはいえ、まだ方策を尽くしてはいないのであろう。そこで、百姓の困窮している者に米を賜い、一人につき五斛を下賜する」。癸巳、孝武帝が中堂で釈奠を執り行い、孔子を祀り、顔回を配した。

 太元元年春正月壬寅朔、孝武帝は元服を加え、太廟に参拝した。皇太后が政事を返還した。甲辰、大赦し、改元した。丙午、孝武帝がはじめて臨朝した。征西将軍の桓豁を征西大将軍とし、領軍将軍の郗愔を鎮軍大将軍とし、中軍将軍の桓沖を車騎将軍とし、尚書僕射の謝安に中書監、録尚書事を加えた。甲子、建平陵など四つの陵を参拝した。
 夏五月癸丑、地震があった。甲寅、詔を下した、「このごろ、天が〔下々を〕ご監察なさり、叱責がしばしば示されているが、朕はこれに憂慮し、心から恐懼している。思うに、過失の罪を審議して酌量し、死罪を軽減し、過失を赦免する理由は、異変を利用して、民とともに再始動することを願うからである」。かくして大赦し、文武の官の位を一等加増した。
 六月、河間王欽の子の範之を章武王に封じた。
 秋七月、苻堅の将の苟萇が涼州を落とし、涼州刺史の張天錫を捕え、その地をすべて領有した。乙巳、耕作地を計測して租を徴発する制度(度田収租制)9成帝紀、咸和五年六月の条を参照。を廃し、公王以下、一口につき米三斛を課税し(口税米制)、役に徴発されている者は免除とした。
 冬十月、淮北の流人を淮南に移動させた。
 十一月己巳朔、日蝕があった。詔を下し、太官に料理を減らすよう命じた。
 十二月、苻堅が将の苻洛に代を攻めさせ、〔苻洛は〕代王の渉翼犍を捕えた。

 二年春正月、後継ぎのいない家を存続させ、功臣のあとを継がせた。
 三月、兗州刺史の朱序を南中郎将、梁州刺史、監沔中諸軍とし、襄陽に出鎮させた。
 閏月壬午、地震があった。甲申、突風があり、木を折り、家屋を壊した。
 夏四月己酉、ひょうが降った。
 五月丁丑、地震があった。
 六月己巳、突風があり、砂や石粒をまきあげた。林邑が産物を朝献した。
 秋七月乙卯、老人星が現れた。
 八月壬辰、車騎将軍の桓沖が来朝した。丁未、尚書僕射の謝安を司徒とした。丙辰、使持節、都督荊・梁・寧・益・交・広六州諸軍事、荊州刺史、征西大将軍の桓豁が卒した。
 冬十月辛丑、車騎将軍の桓沖を都督荊・江・梁・益・寧・交・広七州諸軍事、領護南蛮校尉、荊州刺史とし、尚書の王蘊を徐州刺史、督江南・晋陵諸軍とし、征西将軍司馬の謝玄を兗州刺史、広陵相、監江北諸軍とした。壬寅、散騎常侍、左光禄大夫、尚書令の王彪之が卒した。
 十二月庚寅、尚書の王劭を尚書僕射とした。

 三年春正月二月乙巳、新しい宮殿を建築するので、孝武帝は居所を会稽王の邸宅に移した。
 三月乙丑、雷雨と突風があり、家屋を壊し、木を折った。
 夏五月庚午、陳留王の曹恢が薨じた。
 六月、洪水があった。
 秋七月辛巳、孝武帝が新しい宮殿に入った。乙酉、老人星が南方に現れた。

 四年春正月辛酉、大赦し、郡県で水害と旱害に遭ったところは租税を減免した。丙子、建平陵など七陵を参拝した。
 二月戊午、苻堅が子の苻丕に襄陽を攻め落とさせ、〔苻丕は〕南中郎将の朱序を捕えた。さらに順陽も落とした。
 三月、疫病が大流行した。壬戌、詔を下した、「凶悪な賊が好き勝手に暴れ、藩鎮が陥落してしまった。境界地帯の憂事は、日常的な問題でもあるのだ10原文「事兼平日」。よくわからない。。そこで、内外の群官はおのおの力を尽くし、力を合わせ、そうしてもろもろの仕事を治めよ。また、一年の収穫が不作であったため、百姓は多く窮乏している。そこで、供御の物(皇帝への献上物?)に詔を下し〔減免させ〕11原文「詔御所供」。まったくわからない。、政治は倹約を旨とし、九族(宗室)への支給や百官への俸禄は、一時的に半分とする。もろもろの労役や出費は、もし軍事と国事で重要でないものがあれば、すべて廃止し、そうして当世の急務に行き渡るようにせよ」。癸未、右将軍の毛武生に軍を統率させて蜀を攻めさせた。
 夏四月、苻堅の将の韋鍾が魏興を落とし、魏興太守の吉挹が戦死した。
 五月、苻堅の将の句難と彭超が盱眙を落とし、高密内史の毛璪之が賊に捕えられた。
 六月、甚大な旱魃があった。戊子、征虜将軍の謝玄が句難、彭超と君川で戦い、おおいにこれを破った。
 秋八月丁亥、左将軍の王蘊を尚書僕射とした。乙未、突風があり、砂や石粒をまきあげた。
 九月、盗賊が建安太守の傅湛を殺した。
 冬十二月己酉朔、日蝕があった。

 五年春正月乙巳、崇平陵を参拝した。
 夏四月、甚大な旱魃があった。癸酉、五歳刑以下の罪人を大赦した。
 五月、洪水があった。司徒の謝安を衛将軍、儀同三司とした。
 六月甲寅、含章殿の四つの柱に落雷があり、内侍二人を死なせた。甲子、近年が不作であるのを理由に、大赦し、太元三年以前の滞納税や借金はすべて免除し、配偶者がいない高齢の男女、身寄りがいない者、子がいない老人、親がいない子、高齢で自活できない者に、一人につき米五斛を下賜した。丁卯、驃騎将軍の琅邪王道子を司徒とした。
 秋九月癸未、皇后の王氏が崩じた。
 冬十月、九真太守の李遜が交州を占拠してそむいた。
 十一月乙酉、定皇后を隆平陵に埋葬した。

 六年春正月、孝武帝ははじめて仏法を奉じ、精舎を殿中に建て、沙門たちを呼び寄せてそこに住まわせた。丁酉、尚書の謝石を尚書僕射とした。はじめて督運御史を置いた。
 夏六月庚子朔、日蝕があった。揚州、荊州、江州で洪水があった。己巳、法制を改め、無駄な出費を削り、吏と士の人員を七百人減らした。
 秋七月丙子、五歳刑以下の罪人を赦免した。甲午、交阯太守の杜瑗が李遜を斬ったので、交州は定まった。大飢饉であった。
 冬十一月己亥、鎮軍大将軍の郗愔を司空とした。会稽の檀元之がそむき、安東将軍を自称した。鎮軍将軍参軍の謝藹之がこれを討伐し、平定した。
 十二月甲辰、苻堅が〔前秦の〕襄陽太守の閻震に竟陵を侵略させたが、〔晋の〕襄陽太守の桓石虔がこれを討伐し、捕えた。

 七年春三月、林邑の范熊が使者をつかわして産物を朝献した。
 秋八月癸卯、大赦した。
 九月、東夷の五つの国が使者をつかわして産物を朝献した。苻堅の将の都貴が沔北の田の穀物を焼き、襄陽の百姓を拉致して去って行った。
 冬十月丙子、雷があった。

 八年春二月癸未、黄霧が周囲に充満した。
 三月、始興、南康、廬陵で洪水があり、平地で〔水の深さが〕五丈にもなった。丁巳、大赦した。
 夏五月、輔国将軍の楊亮が蜀を攻め、五城を落とし、苻堅の将の魏光を捕えた。
 秋七月、鷹揚将軍の郭洽と苻堅の将の張崇が武当で戦い、〔郭洽が〕おおいにこれを破った。
 八月、苻堅が軍を率いて淮水を渡った。征討都督の謝石、冠軍将軍の謝玄、輔国将軍の謝琰、西中郎将の桓伊らを派遣し、防戦させた。
 九月、司徒の琅邪王道子に詔を下し、録尚書六条事とした。
 冬十月、苻堅の弟の苻融が寿春を落とした。乙亥、諸将と苻堅が肥水で戦い、〔諸将が〕おおいにこれを破った。捕虜と斬首は数万にのぼり、苻堅の乗用車と雲母車を鹵獲した。
 十一月庚申、衛将軍の謝安に詔を下し、帰還した軍を金城でねぎらうように命じた。壬子、陳留王世子の曹霊誕を陳留王に立てた。
 十二月庚午、艱難がはじめて平定されたので、大赦した。中軍将軍の謝石を尚書令とした。酒の禁止を解いた。はじめて百姓に課税する米を加増し、一口につき五石とした。まえの句町王の翟遼が苻堅にそむき、河南で挙兵した。慕容垂が鄴から翟遼に合流し、そのまま苻堅の子の苻暉を洛陽で攻めた。仇池公の楊世が隴右に逃げ帰り、使者をつかわして称藩した。

 九年春正月庚子、武陵王晞の孫の宝を臨川王に封じた。戊午、新寧王晞(故武陵王晞)の子の遵を新寧王に立てた。辛亥、建平陵など四陵を参拝した。龍驤将軍の劉牢之が譙城を落とした。車騎将軍の桓沖の部将の郭宝が新城、魏興、上庸の三郡を攻め、これを降した。
 二月辛巳、使持節、都督荊・江・梁・寧・益・交・広七州諸軍事、車騎将軍、荊州刺史の桓沖が卒した。慕容垂が洛陽から移動し、翟遼とともに苻堅の子の苻丕を鄴で攻めた。
 三月、衛将軍の謝安を太保とした。苻堅の北地長史の慕容泓、平陽太守の慕容沖がともに挙兵し、苻堅にそむいた。
 夏四月己卯、太学生を百人増員した。張天錫を西平公に封じた。竟陵太守の趙統に襄陽を攻めさせ、これを落とさせた。苻堅の将の姚萇が苻堅にそむき、北地で挙兵し、自立して王となり、国号を秦とした。
 六月癸丑朔、崇徳皇太后の褚氏が崩じた。慕容泓が叔父の慕容沖に殺され、慕容沖は〔慕容暐の〕皇太弟を自称した。
 秋七月戊戌、兼司空の高密王純之を派遣し、洛陽の五陵を修復させ、参拝させた。己酉、康献皇后を崇平陵に埋葬した。百済が使者をつかわし、産物を朝献した。苻堅と慕容沖が鄭の西で戦い、苻堅軍は敗北した。
 八月戊寅、司空の郗愔が薨じた。
 九月辛卯、前鋒都督の謝玄が苻堅の将の兗州刺史の張崇を鄄城で攻め、これを落とした。甲午、太保の謝安に大都督揚・江・荊・司・豫・徐・兗・青・冀・幽・并・梁・益・雍・涼十五州諸軍事を加えた。
 冬十月辛亥朔、日蝕があった。丁巳、河間王曇之が薨じた。乙丑、天体の現象が法則にそむいていたので、大赦した。庚午、まえの新蔡王晃の弟の崇を新蔡王に立てた。苻堅の青州刺史の苻朗が軍を率いて来降した。
 十二月、苻堅の将の呂光が河右(河西)で称制し、酒泉公を自称した。慕容沖が僭越し、阿房で皇帝の位についた。

 十年春正月甲午、諸陵を参拝した。
 二月、国学を設けた。蜀郡太守の任権が苻堅の益州刺史の李平を斬ったので、益州が平穏になった。
 三月、滎陽の鄭燮が郡をもって来降した。苻堅の国が混乱しているので、〔苻堅は〕使者をつかわして表を奉じ、迎え(救援)を要請した。龍驤将軍の劉牢之と慕容垂が黎陽で戦い、王師が敗北した。
 夏四月丙辰、劉牢之、沛郡太守の周次と慕容垂が五橋沢で戦い、王師がまたも敗北した。壬戌、太保の謝安が軍を率いて苻堅を救援した。
 五月、洪水があった。苻堅は太子の苻宏を長安に留めて守らせ、〔自身は〕五将山に逃げた。
 六月、苻宏が来降した。慕容沖が長安に入った。
 秋七月、苻丕が枋頭から西に敗走した。龍驤将軍の檀玄が追撃したが、苻丕に敗れた。旱魃があり、飢饉があった。丁巳、老人星が現れた。
 八月甲午、大赦した。丁酉、使持節、侍中、中書監、大都督十五州諸軍事、衛将軍、太保の謝安が薨じた。庚子、琅邪王道子を都督中外諸軍事とした。この月、姚萇が苻堅を殺し、僭越して皇帝の位についた。
 九月、呂光が姑臧を占拠し、涼州刺史を自称した。苻丕が僭越し、晋陽で皇帝の位についた。
 冬十月丁亥、淮肥の功績を評定し、謝安を廬陵郡公に追封し、謝石を南康公に封じ、謝玄を康楽公に封じ、謝琰を望蔡公に封じ、桓伊を永脩公に封じ、そのほか、官爵の授与はおのおの格差があった。
 この年、乞伏国仁が大単于、秦・河二州牧を自称した。

 十一年春正月辛未、慕容垂が僭越し、中山で皇帝の位についた。壬午、翟遼が黎陽を襲撃し、黎陽太守の滕恬之を捕えた。乙酉、諸陵を参拝した。慕容沖の将の許木末が慕容沖を長安で殺した。
 三月、大赦した。太山太守の張願が郡をもってそむき、翟遼に降った。
 夏四月、百済王の世子の余暉を使持節、都督、鎮東将軍、百済王とした。代王の拓跋珪がはじめて魏に改称した。癸巳、尚書僕射の陸納を尚書左僕射とし、譙王恬を尚書右僕射とした。
 六月己卯、地震があった。庚寅、まえの輔国将軍の楊亮を西戎校尉、雍州刺史とし、山陵を警護させた。
 秋八月庚午、孔靖之を奉聖亭侯に封じ、宣尼(孔子)の祭祀を奉じさせた。丁亥、安平王邃之が薨じた。翟遼が譙を侵略したが、龍驤将軍の朱序が迎撃し、敗走させた。
 冬十月、慕容垂が苻丕を河東で破った。苻丕は東垣に敗走したが、揚威将軍の馮該がこれを攻めて斬り、首を京師に送った。甲申、海西公奕が薨じた。
 十一月、苻丕の将の苻登が僭越し、隴東で皇帝の位についた。

 十二年春正月乙巳、豫州刺史の朱序を青・兗二州刺史とし、淮陰に出鎮させた。
 丁未、大赦した。壬子、突風があり、家屋を壊し、木を折った。
 戊午、慕容垂が河東を侵略し、済北太守の温詳は彭城に逃げた。翟遼が子の翟釗を派遣し、陳、潁を侵略させたが、朱序がこれを攻め、敗走させた。
 夏四月戊辰、夫人の李氏を尊んで皇太妃とした。己丑、ひょうが降った。高平の翟暢が高平太守の徐含遠を捕え、郡をもって翟遼に降った。
 六月癸卯、束帛をもって処士の戴逵と龔玄之を招聘した。
 秋八月辛巳、皇子の徳宗を皇太子に立てた。大赦し、文武の官の位を二等加増し、五日間の酒盛りを賜い、百官に布帛を下賜し、おのおの格差があった。
 九月戊午、新寧王遵を武陵王に回復させ、梁王㻱の子の龢を梁王に立てた。
 冬十一月、松滋太守の王遐之が翟遼を洛口で討伐し、これを破った。

 十三年夏四月戊午、青・兗二州刺史の朱序を持節、都督雍・梁・沔中九郡諸軍事、雍州刺史とし、譙王恬之を鎮北将軍、青・兗二州刺史とした。
 夏六月、旱魃があった。乞伏国仁が死に、弟の乞伏乾帰が偽位を継ぎ、僭越して河南王を称した。
 秋九月、翟遼の将の翟発が洛陽を侵略したが、河南太守の郭給が防戦してこれを破った。
 冬十二月戊子、高波が石頭に入り、大桁を壊し、人を死なせた。乙未、強風があった。昼間でも暗かった。延賢堂で火災があった。丙申、螽斯則百堂、客館、驃騎庫で火災があった。己亥、尚書令の謝石に衛将軍、開府儀同三司を加えた。庚子、尚書令、衛将軍、開府儀同三司の謝石が薨じた。

 十四年春正月癸亥、詔を下し、淮南の〔戦役での〕捕虜でもろもろの作部12原文「諸作部」。『宋書』巻四五、劉粋伝に「因誅殺謀等三十家、男丁一百三十七人、女弱一百六十二口、收付作部」とあり、帝紀に見られるのと同様に捕虜や罪人の一族を作部に収容しており、官奴婢に物資を作らせる部署なのかもしれない。帝紀の「諸作部」という書き方から判断するに、作部はたくさんあった、というより役所ごとに置かれていた可能性がある。たとえば『宋書』巻三九、百官志上、左尚方令に「宋高祖践阼、以相府作部配台、謂之左尚方」とある。州にも作部があったらしい(『宋書』巻五四、羊玄保伝)。ただこれ以上詳しいことはわからない。に送られた者たちをすべて解放し、男女でそれぞれ配偶した場合は、百日分の食糧を下賜し、軍功の褒賞に没した者たち13原文「没為軍賞者」。賤民にされて人の家にやられた者たちのことであろう。はみな贖って解放し、襄陽と淮南の沃地に一県ずつ新設し、そこに居住させた。彭城の妖賊の劉黎が僭越し、皇丘で皇帝を称した。龍驤将軍の劉牢之がこれを討伐し、平定した。
 二月、扶南が産物を朝献した。呂光が僭越し、三河王を称した。
 夏四月甲辰、彭城王弘之が薨じた。翟遼が滎陽を侵略し、滎陽太守の張卓を捕えた。
 六月壬寅、使持節、都督荊・益・寧三州諸軍事、荊州刺史の桓石虔が卒した。
 秋七月甲寅、宣陽門の四つの柱で火災があった。
 八月、姚萇が苻登を襲撃して破り、偽后の毛氏を捕えた。丁亥、汝南王羲が薨じた。
 九月庚午、尚書左僕射の陸納を尚書令とした。
 冬十二月乙巳、雨が降り、木が凍った。

 十五年春正月乙亥、鎮北将軍の譙王恬之が薨じた。龍驤将軍の劉牢之と翟遼、張願が太山で戦い、王師が敗北した。征虜将軍の朱序が慕容永を太行で破った。
 二月辛巳、中書令の王恭を都督青・兗・幽・并・冀五州諸軍事、前将軍、青・兗二州刺史とした。
 三月己酉朔、地震があった。戊辰、大赦した。
 秋七月丁巳、彗星が北河で光った。
 八月、永嘉の李耽が挙兵してそむき、永嘉太守の劉懐之がこれを討伐して平定した。己丑、京師で地震があった。彗星が北斗で光り、紫微を犯した。沔中の諸郡と兗州で洪水があった。龍驤将軍の朱序が翟遼を滑台で攻め、おおいにこれを破った。張願が来降した。
 九月丁未、呉郡太守の王珣を尚書僕射とした。
 冬十二月己未、地震があった。

 十六年春正月庚申、太廟を改築した。
 夏六月、慕容永が河南を侵略したが、河南太守の楊佺期がこれを撃破した。己未、章武王範之が薨じた。
 秋九月癸未、尚書右僕射の王珣を尚書左僕射とし、太子詹事の謝琰を尚書右僕射とした。新しい太廟が竣工した。
 冬十一月、姚萇が苻登を安定で破った。

 十七年春正月己巳朔、大赦し、滞納税と借金を免除した。
 夏四月、斉国内史の蒋喆が楽安太守の辟閭濬を殺し、青州を占拠してそむいた。北平原太守の辟閭渾がこれを討伐して平定した。
 五月丁卯朔、日蝕があった。
 六月癸卯、京師で地震があった。甲寅、高波が石頭に入り、大桁を壊した。永嘉郡で海水が噴き出し、近海の四県で多数の死者が出た。乙卯、強風があり、木を折った。戊午、梁王龢が薨じた。慕容垂が翟釗を黎陽で襲撃し、これを破った。翟釗は慕容永のもとへ敗走した。
 秋七月丁丑、太白が昼間に現れた。
 八月、新たに東宮を建てた。
 冬十月丁酉、太白が昼間に現れた。辛亥、都督荊・益・寧三州諸軍事、荊州刺史の王忱が卒した。
 十一月癸酉、黄門郎の殷仲堪を都督荊・益・梁三州諸軍事、荊州刺史とした。庚寅、琅邪王道子を会稽王に移し、皇子の徳文を琅邪王に封じた。
 十二月己未、地震があった。
 この年、秋から雨が降らずに冬になった。

 十八年春正月癸亥朔、地震があった。
 二月乙未、また地震があった。
 三月、翟釗が河南を侵略した。
 夏六月己亥、始興、南康、廬陵で洪水があり、水の深さは五丈にもおよんだ。
 秋七月、旱魃があった。
 閏月、妖賊の司馬徽が徒党を馬頭山で集めていたので、劉牢之が部将を派遣して討伐し、平定した。
 九月丙戌、龍驤将軍の楊佺期が氐帥の楊仏嵩を潼谷で攻め、これを破った。
 冬十月、姚萇が死に、子の姚興が偽位を継いだ。

 十九年夏六月壬子、会稽王太妃の鄭氏を追尊し、簡文宣太后とした。
 秋七月、荊州と徐州で洪水があり、秋の収穫に損害を与えたので、使者を派遣して援助した。
 八月己巳、皇太妃の李氏を尊んで皇太后とし、宮を崇訓と呼んだ。慕容垂が慕容永を長子で攻め、これを斬った。
 冬十月、慕容垂が子の慕容悪奴を派遣して廩丘を侵略させた。東平太守の韋簡と慕容垂の将の尹国が平陸で戦い、韋簡は戦死した。
 この年、苻登が姚興に殺された。苻登の太子の苻崇は湟中に逃げ、僭越して皇帝を称した。

 二十年春二月、宣太后廟を建てた。甲寅、散騎常侍、光禄大夫、開府儀同三司、尚書令の陸納が卒した。
 三月庚辰朔、日蝕があった。
 夏六月、荊州と徐州で洪水があった。
 十一月、魏王の拓跋珪が慕容垂の子の慕容宝を黍谷で攻め、これを破った。

 二十一年春正月、清暑殿を建てた。
 三月、慕容垂が平城を攻め、これを落とした。
 夏四月、新たに永安宮を建てた。丁亥、ひょうが降った。慕容垂が死に、子の慕容宝が偽位を継いだ。
 五月甲子、望蔡公の謝琰を尚書左僕射とした。洪水があった。
 六月、呂光が僭越し、天王の位についた。
 秋九月庚申、孝武帝が清暑殿で崩じた。享年三十五。隆平陵に埋葬した。
 孝武帝は幼少から聡明と評されていた。簡文帝が崩御したとき、孝武帝は十歳であったが、夕方になっても〔哭礼に〕臨まなかったので、左右が進言して〔決まりのとおりに哭するよう〕諫めると、「悲しくなったら哭くさ。決まりなんかあるものか」と応じた14『世説新語』言語篇を参照して訳出した。。謝安は、孝武帝の理性は先帝に劣らないと感嘆したことがある。やがて権勢が自身から発せられるようになると、よく人主の度量を備えていた。まもなく酒色にふけるようになり、しょっちゅう長時間の晩酌をするようになった。晩年、長星が現れると、孝武帝は心中でこれをおおいに嫌い、華林園で酒杯を挙げて長星を祝った、「長星よ、おまえに一杯の酒を勧めよう。いにしえより万年の天子なぞおらんのだからな」。太白が連年して昼間に現れ、地震、旱魃、水害の異変があいついだ。昼間に目が覚めることすら少なく、そのうえ周囲に正してくれる人もいなかったため、とうとう改善できなかった。当時、張貴人が寵愛されていたが、三十歳になろうかという年齢であった。孝武帝はふざけて、「おまえも年だし、廃そうかな」と言った。貴人は心中で怒った。日が沈むと、孝武帝は泥酔し、とうとうにわかに崩じたのである。このとき、会稽王道子は〔いつも酒に酔っていて〕正常な判断ができず、会稽王世子の元顕は権力を専有していたため、とうとう犯人を捜索しなかった。
 これ以前、簡文帝は「晋祚尽昌明」という讖を目にしていた。孝武帝が腹のなかにいたとき、李太后は夢で神人に会い、このように言われた、「おまえは男の子を生む。昌明を字にするように」と。生んだとき、東がちょうど明けるところだったので、それにちなんで〔昌明(まさに明ける)と〕名づけた。簡文帝があとで〔その命名に〕気づくと、涙を流して悲しんだ。孝武帝が清暑殿を建てると、有識者は、「清暑」の反切は「楚」の音になり、哀楚の予兆だ、と指摘した。〔まもなく〕にわかに孝武帝は崩じた。晋の命運はこれ以後、傾いたのであった。

 史臣曰く、(以下略)

簡文帝孝武帝

(2020/2/27:公開)

  • 1
    原文「初封会稽王」。どう日本語に置き換えたらいいのか浮かばないが、「初某官」は「キャリアのスタート」ということ。
  • 2
    原文「眇若綴旒」。「綴旒」は訳出したように「冠から飾りの珠が垂れ下がっている」ことを言うが、転じて「比喩国勢垂危。……亦用以比喩情況危急」(『漢語大詞典』)の意でも用いられる。ただし帝紀本文がこの意味で使用しているのかは自信がない。
  • 3
    ようは晋朝の帝業のことを指すのであろう。
  • 4
    『建康実録』烈宗孝武皇帝、寧康元年三月の条の原注に引く「地輿志」によれば、朱雀橋(大航)、驃騎航、竹格航、丹楊郡城後航の四つの浮橋のことで、「在晋時並収税、至是年、詔皆除税不収、放民之往来也」という。(2020/9/8:注追加)
  • 5
    いずれも哀帝期に桓温が「省官併職」して廃した官府。
  • 6
    原文「克意復心」。「復心」は『易』復の彖伝に「復其見天地之心乎」とあるのが出典か。「克」はよくわからなかった。
  • 7
    原文「以思厥中」。「厥中」は『論語』堯曰篇「允執其中」が出典か。
  • 8
    原文「受振貸者即以賜之」。「振貸」は武帝紀、泰始七年、恵帝紀、元康五年にも用例がある。「本来は返済が必要だが、特例で給付する」という意味であろう。返済が必要な援助であったことは、文六王伝・斉王攸伝「而時有水旱、国內百姓則加振貸、須豊年乃責、十減其二、国內頼之」からもうかがえる。ただしすべての事例が返済必要の援助であったのかはわからない。また『漢書』巻四、文帝紀、元年三月の条の顔師古注に「振、起也。為給貸之、令其存立也。諸振救、振贍,其義皆同」とある。(いまさらだが)本訳では顔師古の挙げる「振救」「振贍」のほか、「振卹」などもすべて「援助」と訳出しておき、返済の要不要が明確に含まれる訳語を採らなかった。
  • 9
    成帝紀、咸和五年六月の条を参照。
  • 10
    原文「事兼平日」。よくわからない。
  • 11
    原文「詔御所供」。まったくわからない。
  • 12
    原文「諸作部」。『宋書』巻四五、劉粋伝に「因誅殺謀等三十家、男丁一百三十七人、女弱一百六十二口、收付作部」とあり、帝紀に見られるのと同様に捕虜や罪人の一族を作部に収容しており、官奴婢に物資を作らせる部署なのかもしれない。帝紀の「諸作部」という書き方から判断するに、作部はたくさんあった、というより役所ごとに置かれていた可能性がある。たとえば『宋書』巻三九、百官志上、左尚方令に「宋高祖践阼、以相府作部配台、謂之左尚方」とある。州にも作部があったらしい(『宋書』巻五四、羊玄保伝)。ただこれ以上詳しいことはわからない。
  • 13
    原文「没為軍賞者」。賤民にされて人の家にやられた者たちのことであろう。
  • 14
    『世説新語』言語篇を参照して訳出した。
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